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食口に非ず人に非ず-渋谷教会総務部長の大西克彦 

一筆一論(45)

 反響があった「問題の所在はカルトうんぬんではなく,価値観の強要なのだ」 [2018/07/03] の続きである。
 まず、記事を紹介してくれたブログ「Be Natural」の先駆者さんに感謝します。(「火の粉を払え『問題の所在はカルトうんぬんではなく,価値観の強要なのだ。』を読んで」

 10年前に吐き出したかったことを綴って、良かったと思います。

 個人メールで送られてきた文章を紹介します。
 送信者は777双の元信者(A)。統一教会(家庭連合)を事実上退会した今は文顯進氏を支持している。

(引用はじめ)
「問題の所在はカルト云々ではなく、価値観の強要なのだ」とのブログ、100%賛同いたします。
 私自身、教会(原研)に入り始めた頃、親は戦時中の迫害もありましたので、自由主義者→社会主義者になっていましたが、私の自由を尊重し、半年間、姉のところから通って、それでもやりたいのならやっても良いと言ってくれました。

 実際、そのようにして、半年後に原研宿舎に入りました。
 その後も、私は勝共、父は共産主義で激論を交わしましたが、互いに尊敬する心が失われたことはありません。
 私の祝福についても、相対者を歓迎してくれました。
 今は父母共霊界ですが、心から感謝しています。

 私も子供達にはみ言を伝え、それぞれ高校、大学までは教会活動をしていましたが、お父様が聖和されてからのゴタゴタで、信仰から遠ざかっています。
 それでも、孫も含めた家族としての一体感はありますので、これにも感謝しています。
(引用終わり)

 いい話です。ほろっとしました。
 Aさんの父親は、息子の宗教(&反共)にはノ-だが、息子の人格は尊重している。Aさんも「相対者を歓迎」してくれたことを含め、父親に感謝している。これが遺伝子となって、Aさんは子どもたちのことを信頼している。
 まっとうで優秀な食口もいるものだと感心する。一般社会の家庭よりはるかにまともだろう。(『万引き家族』をみよ)

ころが、一般社会人よりはるかにはるかに精神的に貧しい下劣なシックがいる。

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神山福岡講演を監視している断食さん。自分でも「みっともない」と思えてないのが時空を超越していらっしゃるところ。現在は65歳定年で退職したはずだが、用心棒として雇ってもらっているみたいだ

 実名をここに紹介するだけでも、精神が汚された感じがする。
 1人は、断食芸人として著名な井口(いのぐち)康雄である。(敬意敬称略)
 もう1人は、渋谷教会総務部長の大西克彦である。(敬意敬称略)*写真が欲しいです。
 まず、次の動画を見てもらいたい。1分程度でいい。大西も執拗につきまとっているな!



 この動画の出典は以下のところ。
●特別寄稿「家庭連合の個人攻撃とサンクチュアリ教会の本質的批判」
●http://shimpankaihiproject.blog.fc2.com/blog-entry-225.html

 実に鋭い論考だが、ここでは上から2段落目からの一部を引用する。
(引用はじめ)
 澤田地平さんの4月29日松濤本部前行動の動画をみると、大西克彦部長が澤田さんに対し、いつもながらの個人攻撃をしていました。はっきり言って、大西部長の人格、感性には疑問を感じます。「家庭崩壊して何誇ってるんですか?」、「社会から落ちこぼれている」、「人に見せるものがないでしょ、あなた」など、これぞ個人攻撃のサンプルという表現です。澤田さんは「あなたが誇ってると感じるんだったら、その意見を聞かせて下さい」と応じていました。

 すべての言葉が、差別意識と思いやりの無さを強烈に発しています。澤田さんの家庭は、家庭連合とサンクチュアリ教会を信じる人に分かれてしまいました。しかし、これについて、「家庭崩壊」などと表現することは極めて不適切です。本来、立場はどうあれ、この状況は同情してしかるべきもので、それについてはあまり触れないのが思いやりです。それを「家庭崩壊」と、最大限のマイナス・イメージの言葉で揶揄する神経が知れません。

<注>「分かれて」しまったのは、夫婦間の意見対立をことさら煽った下劣シックがいたと推測する。1人は井口康雄。当確だろう。

「社会から落ちこぼれている」これも、それこそ社会では人に対して絶対に使わない禁句です。まず、使った人の品性が疑われます。私達は、無報酬で長く献身生活をしてきた人もおり、多額の献金で個人破産し、生活保護を受けている辛い食口もいるのです。正直言って、社会のなかで、一般に満たない水準で生活している人が多いのです。大西部長が言う「社会から落ちこぼれている」というのは、いったいどういう意味なのでしょうか。こんな言葉を食口が食口に対して使うことに、驚きを禁じえません。何を思ってか知れませんが、ともあれ、人に対して使うべき言葉ではありません。

「人に見せるものないでしょ、あなた」。これも人を最大限に見下した言葉です。一体あなたはどれほど澤田さんを知っているんですか。あなたが知る澤田さんは、毎週本部に来て、家庭連合の教義改竄について抗議する姿です。言っておきますが、これは警察が認める合法的抗議活動です。それを見ただけで、澤田さんが「人に見せるものがない人」などと判断できますか。そもそも大西さん自身は、人に何を見せてあげられるんですか?誰でもこんな質問をされたら戸惑います。こんな、人を軽蔑することは言ってはならないことです。
 
 井口康雄氏は澤田さんに対し、病気の奥さんを
「お前な、あんまりな、いい加減やると、お前の母ちゃんもう死ぬぞ、心臓病だから、分かってるか、尾瀬霊園だよ」
 と言いました。去年の1月には、韓氏オモニにも会ったこともない地位の低いお前などが抗議するな、という趣旨の発言をしました。12月には、警察官の前で澤田さんに対し「バカヤロー」を連発しました。

 大西部長の発言、井口さんの言動をみると、家庭連合には何段にも分けられた上下の階層があるので、人を階層で差別する習性があるのでしょう。そうでなければ、このような幹部の発言の背景が理解できません。
(引用終わり)

 冒頭のシックAさんの親子関係のこと-人と人とのまっとうな関係のことが浮かぶ。いかに井口や大西が、また2人に注意を与えない教団の連中がいかに異常で異様なことか・・・。

口親子三代、大西親子三代のことが知りたいと思われた方は
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コメント

松濤本部の職員てそんなに偉いの?

僕の中にある思いとして、本部職員てそんなに偉いの? 大学出て、原研で活動してて、祝福受けて、文鮮明や韓鶴子から愛されて 注目されて、それで 神に最も近い アベル なの?本当に 信仰あるの?本部職員でなければ、人(食口)にあらずのような不遜な態度ありますよね。僕の中で、拉致監禁 絡みで 後藤徹さんを応援したけれど、統一教会を応援し、支援し、賛同 しようなんて気持ちになれないです何でだろ?その答えが、この動画の中にあるし、別に、澤田地平さん及び、サ教を支援する気はないけれど、この様な 暴言を吐く 団体や、その人らを見ていると、落ちる所まで落ちた 組織 になってしまった事に対して、推して知るべし。と感じてしまいます。 

おいおい、献金ぼったくり職員さん

家庭は何とか同じ信仰により保っているものの(愛情でなく信仰により保っているのが哀しいが)

「社会から落ちこぼれている」

「人に見せるものないでしょ、あなた」


は一般社会から見たらブーメランであんたに返ってくるって話だよ。

親戚や近所に堂々と自分の仕事を証してるなら許容範囲かな。過去の統一関連の事件も堂々と説明しろよ。

両者のご家族様

非常に興味が湧きます。

孫までの三代はどんな方々状況なのでしょう。

以前、M巡回師(公職者・献金で生活してる人)の講話で子供の話をしてましたが、子供たち(鮮文)大学まで当然献金で出たのでしょう。
それなのに・・・。

教祖一族は、不倫や離再婚隠し子、コカイン中毒や家族で訴訟・・・、(メシヤ気取りの)父親の葬儀にも子供が揃わない(葬儀に来た子まで追い返す)異常な家族。とても真似したくない一族ですが、
この両者の子供たちはどのような生活状態なのでしょう。とても、とても興味が湧きます。

幹部一族の現状を知りたいですねぇ。


両者の、
見苦しいやり取りはどうでもいいかなぁ~。
(こんなもんでしょう。大差ないです。)

いくらいい説教しても、必ず毒を含んでいたT氏、この毒づく両者のほうが人間らしい。説教上手なT氏よりまだいいのかもしれません。

~~~~~~~~~~

罵り合うように見える二人に直接影響受ける人なんてほとんどいないでしょう。

しかし、T氏は違う説教者という立場・・・
<T氏について>
様々な説教を聞いてきた中で、毒の入れ方はT氏はピカイチでした。
97%素晴らしいこと言うのです。声の強弱であったり、聖句の入れ方や教祖の言葉など、とにかく説教がウマいから毒を入れられても気づいても、聞く側はその毒にヤラレてしまうのです。
(信者として説教からどのようなことを感じ取るのか?夜の反省会などでは、発言を求められそのホームの長から指摘されるような形態を常にとっていた組織でした。自らアベル好みの思考に合わせるよう思考が調整されて行くのです。毒を少し入れただけでも、どこにアベルの意図があるのか信者は、すばやく毒を感じ取るようになって行く・・・)
脳内が3%の毒(感じた記憶・淡々と脅しを掛けるのがウマイのです。とってもいい話をして、同じ口調で「脅す」のです。今思うと、あれは天性のもので、根っからの「ワル」でなきゃ~できんことですわ。さすが、最初に表彰された人物!)に包まれるわけです。
一見信仰者崇められるような立場(実は組織犯罪の幹部?)を利用し、何人の信者が誘導され金をつまされた事か?
間違いなく、集金額はトップテンに入ってるのではないでしょうかね。
こういうT氏が多くの信者から突き上げられず、どうでもいいような映像のふたりの毒づきなど、どうでもいいでしょう・・・。

最初から五分五分でイヤらしく毒づく人(S氏なんてそのギラギラ典型)の話は、聞き流してもいいかぁなんて感じた記憶がある。
~~~~~~~~~~

https://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-12077870149.html
統一協会員に対する経済的収奪活動 <これからも訴訟、返還請求は続くでしょうね

おっ

>いくらいい説教しても、必ず毒を含んでいたT氏、この毒づく両者のほうが人間らしい。説教上手なT氏よりまだいいのかもしれません。

珍しくナツミカンさんに共感した。

確かに統一教会の責任者って自分の人格や体験無視して立派な説教をするからそのギャップがすご過ぎて、普通の人間の神経なら務まらないと思う。

一部の立派な人はいるけど統一に限らず宗教家って偽善臭がハンパないな。
 宗教的営業トークなんだろうけどいい話してから献金の話になると来たなと思ったよ。

人の深い所に入り込んでの営業トークって一番エグいのに、それを続けていて人格が向上するんだろうか?オウムみたいに自己正当化しながら地獄に真っ直ぐ進んでるように見える。

人に非ず~似非宗教の弊害

記事の主旨とは、離れますが、澤田氏が動画でいつも、質問されていること。
・「韓氏オモニはどうして、お父様の証をしないんですか」
・文鮮明と韓鶴子の原罪について

統一教会は、まず、宗教団体ではないし(財団)、文教祖がメシヤであるかどうか、また、統一原理の原罪論云々は、どんなに議論しても、平行線です。なので、「信じるか信じないか、あなたしだい」ってとこでしょうね。

ナツミカンさんのブログにが、過去記事のまとめというのがあります。
文教祖の女性関係とお金の問題についてです。
これをみると、家庭連合も他の統一教会各派も、新規や2世3世に見せたくないでしょうね。韓鶴子教祖は、文教祖の真実を知っているから。また、文教祖を絶対美化神格化している7男派も、認めたくないでしょう。
朝鮮や中国の歴史は、権力者が代われば、先代のものは、捨てたり、焼却したり、先代は、引き下げるのが、普通です。統一教会の体質は、似たようなものです。いつまでも、文教祖に依存していても、希望はないでしょうし、韓鶴子教祖がなくなる時も、分裂するでしょう。3男も7男も、似たようなものです。

過去記事のまとめ
https://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-12346585020.html

統一教会について 「原罪」と「連帯罪」
http://blog.livedoor.jp/champ1414/archives/3030070.html

こういう売り言葉に買い言葉のような、言い争いも、統一教会ならではのお家芸。統一教会という宗教に入って、数十年もたっている人たちです。双方の言い分には、なんの誠実さも、伝わってきません。ゲボンです。(下品)

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Aクン に質問です。

「(株)パンタナール」で検索しましたが、よく分かりませんでした。ご教示いただけたらうれしいです。

価値観についての整理

>大西部長の発言、井口さんの言動をみると、家庭連合には何段にも分けられた上下の階層があるので、人を階層で差別する習性があるのでしょう。そうでなければ、このような幹部の発言の背景が理解できません。


 今回の記事は「問題の所在はカルトうんぬんではなく,価値観の強要なのだ」 [2018/07/03] の続きである、とのことですが、米本さんの言わんとしていることはよく理解できるものの、やはり「価値観」という表現には違和感をもってしまいます。
 ウィキペディアには一般的な価値観についての解釈が書いてありますが<何に価値があると認めるかに関する考え方。価値(善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値)を判断するときの根底となる ものの見方。ものごとを評価・判断するときに基準とする、何にどういう価値がある(何には価値がない)、という判断。>というのが「価値観」に対する理解であり、「思想」と似てはいますが全く別の概念です。
 米本さんの記事のタイトルが「問題の所在はカルトうんぬんではなく,思想の強要なのだ」なら違和感を抱くことなどないのですが、「思想」が「価値観」に置き換えられてしまうと、とても不思議な気分になります。

 「価値」とは決して頭の中だけで理解するものではなく、感情も交えた実感として感じ取ることのできる現実的なものなのです。
 真・美・善とはそのようなものであり、物質的な価値というものも同じように現実生活において役にたつことから存在が認められているのです。
 自分にとって価値あるものとは 頭だけでそう考えたものではなく、実際に精神的、肉体的に自分に益をもたらすもののことなのです。
 精神的認識の対象となるものに、真・美・善の価値が感じられれば、それは精神的に‘益’を受けられるのであり、満足感も得られるのです。
 それは個人の精神、即ち知・情・意の能力から可能になるものであるため、無理やりその価値を他者に感知させようとしても無理であり、自分が感じた真・美・善の価値を他者にも感じてもらいたいと思ったならば、その人も自分と同等の知・情・意の能力をもってもらわなければならないのです。
 つまり、価値観とは人に強要できる性質のものではないし、人の価値観を変えようと思ったならば、教育など様々な過程が必要となって来るのです。

 学校教育は本質的目的として真・美・善の価値を理解できるよう子供たちを教育しているのであり、それによって子供たちは高度な真・美・善の価値について理解できるようになり、個人的な価値観を確立することができるようになるのです。

 価値観について例を挙げるなら、人体の構造に関する高度な理論は「真」としての価値があり、実際に人間の世界では役に立つものですが、その価値を理解するには高度な知性が必要であり、初等教育だけではその価値が理解できず、「真理」としての価値を理解するには さらに高等教育を受け、価値観を発達させる必要があるのです。
 すなわち、「真」を認識できる価値観は長い期間の教育がなければならないのです。
 また、現代音楽の先駆者とされるマーラーの交響曲などは音楽愛好家には至上の価値がありますが、やはり音楽について初歩的な教育しか受けていない子供には価値がわからず、その音楽的「美」の価値観を獲得するには長い期間の学習が必要なのです。

 真・美・善についての価値観は教育を受けなければ形成されないものであり、特に教育によって知・情・意の能力を発達させることが必要なのです。
 「真」についても知識を頭に詰め込んだだけでは価値観が形成されず、学問的教育によって知的能力が発達して初めて「真」に対する価値観も発達するようになるのであり、そこから個人の価値観が形成されるのです。
 以上のように考えれば、「価値観」は性質として人格と共通性があることになり、「人格を強要する」という表現がおかしいように、「価値観を強要する」という表現もかなりおかしいのです。
 価値観はその人間の知・情・意の発達度を表すものでもありますから、「強要する」ような行為とは関りがなく、「強要する」行為のテーマとなり得るものは全く別のものなのです。
 即ち、それは思想であり、そこには宗教も含まれるのです。
 故に、「問題の所在はカルトうんぬんではなく,思想の強要なのだ」が記事のタイトルなら私も違和感が全くないのです。

 私は前の記事のコメントで「価値観」について自論を書きましたが、それに対する米本さんや暗在さんの反応には大変驚きました。
 おそらくそこには根本的なところでの誤解があったと思うのですが、「真・美・善の価値観を確立する」ということを、「絶対的な真・美・善の価値を理解する」というように間違って解釈してしまったのではないかと思います。
 私のコメント文がテーマの割には短すぎたため、そのような誤解が生じたのだと思いますが、誤解が解消されるよう、ここで前のコメントの内容を補足するため、説明を加えさせていただきます。

 「真・美・善」の価値観を発達させ、自分のものとして確立するとは、決して絶対的な真理・芸術・善の理想を決定するということではないのです。
 「真・美・善」の価値観を発達させ、確立するということは、即ち、より高い次元の真・美・善を理解できる知・情・意を発達させ、真理・芸術・善の理想についてもレベルの高い感性をもち、価値追求心と価値実現心、即ち創造的精神をしっかりと確立するということなのです。
 価値のレベルの高い・低いは本心で実感できるものであって、頭で考えて決めるようなものではありません。
 ですので、価値観が発達することと、絶対的価値を決定することは結びつかないのです。
 価値観の問題についてはまだまだ説明が足りないと思いますが、自説を書きだすと果てしなくなり、統一原理が真理であるとか、ないとか、大真面目で考えているような信者、元信者には別世界の考察となってしまいますので、書いても無駄であり、これ以上は書かないことにします。
 
 ただ、今回の記事にある最初に引用した文章が「価値観」を理解するには良い例となりますので、そのAさんの文章についてコメントしたいと思います。
 即ち、そのAさんの文章の中にある「習性」こそが「価値観」なのです。
 「人を階層で差別する」のは確かに家庭連合の幹部は習性として身についていますが、それは惰性的な行為として差別しているのではなく、彼らがもっている価値観によって差別しているのです。
 彼らの価値観は非常に低レベルであり、組織内での階級が低ければ人間としての価値も低くなってしまうのです。
 そこには道徳的な価値に対する理解もなく、一般社会でもまれにしか存在しない、最低レベルの価値観なのです。
 その価値観は統一教団という特殊な組織において形作られたものであり、そのような同じ価値観を持つ人たちの中で幹部は暮らしているので、自分たちの価値観の下劣さにも気付かないのです。
 それが価値観が低いレベルの集団の中にいる人達の改善が難しい問題でもあるのです。

 たとえどんなにレベルが低かったとしても、価値観がその次元で止まっていると、その人の行動を変えさせるのはとても難しいこととなります。
 今回の記事で非難されている、肥満体の偽善者総務部長を見ればそのことがよくわかると思います。

 記事に掲載してある動画を一切の先入観をなくし、客観的に見たとしても、大西克彦という人物は明らかに人格の薄汚れた、胡散臭い組織の構成員に見えます。
 人に話しかける態度は大変傲慢不遜であり、動画で見ているだけで、口にしているものが不味くなり、反吐が出そうです。
 しかも、その所属している宗教団体が人類の救いを標榜している団体というのですから、ビックリ仰天です。
 高いレベルの価値観と鋭い感性を持った人なら、このような人物が所属している団体が如何に低レベルで嘘が多い団体か一目でわかると思います。
 しかし、まともな一般人がこの動画を見て、どのような思いを抱くかについて、この肥満体の鈍感馬鹿は理解できないと思います。
 その現実が価値観が低レベルで止まって、発達する道を遮られた肥満体の(精神が)醜い総務部長の悲劇です。
 

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勉強になりました。

神々の黄昏さん
>今回の記事は「問題の所在はカルトうんぬんではなく,価値観の強要なのだ」 [2018/07/03] の続きである、とのことですが、米本さんの言わんとしていることはよく理解できるものの、やはり「価値観」という表現には違和感をもってしまいます。
 ウィキペディアには一般的な価値観についての解釈が書いてありますが<何に価値があると認めるかに関する考え方。価値(善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値)を判断するときの根底となる ものの見方。ものごとを評価・判断するときに基準とする、何にどういう価値がある(何には価値がない)、という判断。>というのが「価値観」に対する理解であり、「思想」と似てはいますが全く別の概念です。
 米本さんの記事のタイトルが「問題の所在はカルトうんぬんではなく,思想の強要なのだ」なら違和感を抱くことなどないのですが、「思想」が「価値観」に置き換えられてしまうと、とても不思議な気分になります。


「価値観」について、改めて辞書で調べました。三省堂の新明解辞典です。
<そのものにどういう価値(意義)を認めるかについてのそれぞれの人の考え方>

 このような意味で「価値観」という言葉を使いました。考え方の強要であって、決して「思想」ではありません。

 広辞苑で「価値」について確かめると、確かに、「個人の好悪とは無関係に、誰もが良いとして承認すべき普遍的な性質。真・善・美など」となっていますが、
「価値観」の字義としては、「個人もしくは集団が世界の中の事象に対して下す価値判断の総体」となっています。

「価値」と「価値観」の意味は峻別されていました。
 勉強になりました。

「価値観」の先の字義を考えていくと、オウム真理教のポア信仰のことが説明できています。

価値観葛藤

>私は前の記事のコメントで「価値観」について自論を書きましたが、それに対する米本さんや暗在さんの反応には大変驚きました。
>おそらくそこには根本的なところでの誤解があったと思うのですが、「真・美・善の価値観を確立する」ということを、「絶対的な真・美・善の価値を理解する」というように間違って解釈してしまったのではないかと思います。

神々の黄昏さんが、価値(観)を、「(実行する能力も含めた)精神性/人格」のようなものと捉え、たぶん何らかの道でそれを高めるために日々努力を重ねておられるだろうことは分かりました。
また、米本さんおっしゃるように、価値と価値観の字義の違いも勉強になりました。
しかし、
>「絶対的な真・美・善の価値を理解する」というように間違って解釈してしまったのではないか・・・

とおっしゃいますが、神々さんの以前のコメントの前半で統一思想要綱の価値論から長々と説明されていましたが、その部分自体はそうでないとしても、価値論は「価値の絶対的基準」を論じています。(末尾で参考までに引用しました)
統一思想研究院のサイトhttp://www.utitokyo.sakura.ne.jp/uti-index-gaiyou01.htmlでは、
「第4章 価値論(絶対的価値観に関する理論)」
と紹介されていますから、それが主旨と考えていいでしょう。今それを読んでみると、米本さんでなくても「危険な考え方だと思いました」。

神々の黄昏さんが肯定的に統一思想を説明すると、「ナチスを支持したハイデッガー」のようになってしまうかもですよ。というのはオーバーですが、そういう点も考えた方がいいのではないでしょうか。

真善美、知情意などは一般的にも通じる言葉ですから、統一思想を持ち出さなくても、今回のコメントのように自分で説明すればその方が伝わりやすいのだと思います。
小説の書き方講座(https://www.youtube.com/watch?v=OZEnYrDV7NQ 説教・論考にも応用可。最初の5分が面白いのでそこだけご覧ください)にて「出だしは誰でも不安なので、弁解や説明を長々と書いてしまいやすい。その場合その部分は削ってしまう方がいい」とあったので、コメントにも応用し「神々の黄昏さん、コメント前半の言い訳じみた前提統一思想はいらんよ~」と書いてしまったので「大変驚きました」と。ごもっともです。まるで一反木綿みたいな白いお化けが「いらんよ~」と叫びながらいきなりヒュ~と飛んできたようなものですね。
また、米本さんのカナリヤ的な鋭さがある「危険な考え方だと思いました」という反応も唐突感があって、あたかもフランケンのような怪物がサッと通路をふさいだようなイメージ。「大変驚きました」。ごもっとも。お察しします。納涼お化け屋敷風でした。


キケンな統一思想要綱(なにが危険かはここでは書きません)
第4章 価値論 
五 現実的価値の決定と価値基準価値 
絶対的基準 より一部引用

価値の相対的基準でもっては全人類の価値観を統一することはできない。価値観の相違による対立や闘争をなくすことはできないからである。したがって全人類の真の平和が 定着するためには、宗教的な差異、文化的な差異、思想的な差異、民族的な差異などを克服することのできる評価基準、すなわち全人類に共通な価値評価の基準が立てられ なくてはならない。そのような価値評価の基準が絶対的基準である。
 それでは、そのような絶対的基準はいかにして立てることができるであろうか。そのためにはすべての宗教、すべての文化、すべての思想、すべての民族などを存在せしめた根源者が一つであることを明らかにし、その根源者に由来するいろいろな共通性を発見すればよい
(略)
これらの各宗教の根源者が、結局は同一なる存在であることを証明するためには、その根源者がいかなる方か、正確に知らなくてはならない。すなわち神の属性、創造目的、宇宙創造の法則(ロゴス)などを正しく理解しなくてはならない。
(略)
それでは価値評価の絶対的基準となりうる共通性とは、具体的にいかなるものであろうか。それがすなわち神の真の愛(絶対的愛)と神の真の真理(絶対的真理)である。
(略)
このような価値観の統一には、神の属性、創造目的、心情、愛、ロゴスなどに関する正確な理解が前提にされなければならない。宗教統一、思想統一は、そのような価値観の統一をもって可能になるのである。(後略)

Re:勉強になりました。

 米本さんの辞書を引用してまでのレスコメントによって、「価値観」について、さらによく整理できるようになりました。感謝申し上げます。
 私の場合、「価値観」については「価値を認識する観点」というように理解し、観点とは即ち精神的内容であり、知・情・意の発達状態を意味する‥と言う捉え方をしていますので、一般的な解釈をされる米本さんの文に違和感を持つことになってしまったのです。
 しかし、一般的な「価値観」の理解は米本さんの示された通りで、<そのものにどういう価値(意義)を認めるかについてのそれぞれの人の考え方>ということだと思います。
 私の場合は普遍的な価値としての真・美・善こそが実質的な価値と考えるため、「価値観」についても一般人の考えとは少し異なるものになってしまったのです。

「価値観」についての一般的な解釈がそのようである背景には、「価値」の捉え方が人によって種々様々違いがあるという現実があると思います。
 真・美・善について誰もが共通に普遍的価値を認めていたならば、「価値観」についての解釈も今あるものとは違っていた可能性がありますが、実際の人々の価値認識のおいては その違いの方が目立ち、その違いを理解するための言葉として「価値観」が使用されているのだと思います。
 ですので、「問題の所在はカルトうんぬんではなく,価値観の強要なのだ」は表現として適切であり、違和感を持ったのは「価値」について拘りがある私ぐらいということになります。

 ただ、一般的な「価値観」の解釈については大きな欠陥があることも指摘したいと思います。
 それは統一教会=家庭連合の問題を論じる時などに欠陥が表れるのであり、統一信者の精神的病気のような異常性を論じる場合は「価値観」が意味をなさない言葉となることがあるのです。
 例えば、統一信者がもつ価値観とは何か‥と考える場合に、その欠陥が露呈することになるのです。
(以下は次回の記事のコメントに続きます。)m(__)m

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