“カルト”化する家庭連合(統一教会) 

一筆一論(38)

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摂理だとか原理だとか「神の日」だとか、そんなものは関係~~ない。 何が何でもメシ(生活)なのだ~!

 に不思議でならない。
 前回の記事(追記部分)でも触れたが、家庭連合が暴力に関わっていなければ、澤田地平氏に「誤解だ」として縷々説明すればいいだけのことだ。わざわざお金(原資は献金、シックのお金)を使って、裁判を起こす必要などない。
 仮に、澤田地平氏の4つの質問にきちんと答えたにも関わらずかかわらず、それを無視して、同じ主張を繰り返せば、提訴するしかないかもしれない。ただし、言論には言論で返すのがまっとうであろう。
 ところがなにがなんでも、訴えるというのである。
「(略)つきましては、委任者ら(近藤徳茂、澤田拓也ら)に対する直接交渉(質問を含む)はなさらないよう要請します。被通知人は、前記案件に付き、本年2月13日付にて家庭連合宛てに書簡を送り、被通知人の推理に対する家庭連合側の見解を尋ねておられますが、本件については既に訴訟提起に向け準備中であり、家庭連合側の主張については、追って必要な範囲内で法廷にて主張・立証する予定です。つきましては、裁判外でのご質問には回答しかねます

 一般社会の常識からすると、明らかに変なのだ。一般社会では何かトラブルが起きれば、平和的に解決しようとする。あたりまえだ。
 思い余って、2月23日の午後、松濤本部に何度も電話をかけて、近藤徳茂氏をつかまえた。
 近藤氏は、家庭連合は暴力に関係していないと、少しばかり具体的に話した。
「あの車は澤田さんのものではない」
「あそこにあの車が停車していたのは、実に稚拙なことだった」
 どんなことだったのかと聞いても笑って答えなかったが、あの車が家庭連合関係の車であることを認めた。
「被害届けを受理した渋谷警察署は何も動いていない」
「近所から苦情が2、3件届いている」
 小生の質問に答えることができるのであれば、澤田地平氏に回答すればいいだけのこと。それなのに、「ご質問には回答しかねます」「既に訴訟提起に向け準備中」という。

 近藤氏や澤田拓也氏とは10年来の付き合いである。
 彼らは決して好戦的ではなく、断食オジサンの井口康雄氏とは正反対に性格はマイルドである。
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かし、何が何でも裁判だという。
 まるで理解できなかったが、前回記事への「神々の黄昏さん」の投稿(<松濤本部前暴力事件の狙いについて>)を読んで、氷解した。
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-922.html#more
(一部引用はじめ)
 統一信者の依存性向は今回の澤田地平氏の動画によって見事に暴かれましたが、その真実は統一教会=家庭連合にとってはこれ以上拡散されては困る致命的な「弱み」でもあります。
 何故ならば、教団の中には組織に依存する講師、幹部たちのみならず、「メシア」信仰に依存する多くの末端信者がおり、その「メシア」信仰が依存するには値しないと悟ったならば、教団が崩壊してしまうからです。
 そのような恐れを感じている教団中枢部は当然、火種となっている人物を黙らせようとするし、できたら抹殺したいと思うに違いありません。
(引用終わり)

 それゆえ、何が何でも裁判というわけだ。
 おそらく、勝とうが負けようが、とにもかくにも敵を弱らせ、示威行動をストップさせようというわけである。
<「組織への依存」が彼らにとっては第一であり、たとえ「お父様を裏切る背信者」と言われようが、「嘘つき」と言われようが、「依存」は守り抜いていかねばならないし、それを否定することはできないのです>(神々の黄昏さん)

 これを私流に解釈すると、こういうことだ。
 教団職員(1000人)は労働することなく、献金でメシ(生活費)を食っている。文鮮明なきあとの献金の源泉は韓鶴子である。
 彼女を絶対として奉らないと、献金は入ってこない。そうなると、路頭に迷う。
 摂理だとか原理だとか「神の日」だとか、そんなものは関係~~ない。 何が何でもメシ(生活費)なのだ~!
 実に労働者的、唯物論的である。
<注>「神を捨てた現統一教会による年始行事で明らかになった根本的問題」。 柳慶明の批判はお花畑的である。

 裁判をはなから、敵に対して攻撃の武器として使う。
 こんな事象をどうみればいいだろうか。
 フランス国民議会が決議した「セクト(カルト)基準」に、「裁判沙汰」というのがある。
 敵をやっつけるために、裁判を道具として使う。訴訟の乱発によって、敵を黙らせる。

 脳がちと足りんブロガ-たちは、一連の出来事を「家庭連合対一部のサンクチュアリ教会」という構図で見ているようだが、まるで違う。「言論の自由」の問題なのだ。文亨進派にも理解できていないとは情けない。

 教団職員(公職者)諸君、『原理講論』の総序を読み返してみてもらいたい。人類の幸福を追及してきたであろう君たちが、今は元仲間の口を封じようとする。恥ずかしくないのか。子どもに顔を向けができるのか。変節した近藤氏や澤田氏たちが子どもにどんな言い訳をしているのか聞いてみたい。嗚呼、年は取りたくないものだ。

(追記1)前回の記事で、鐘築優弁護士をヤメ検と書きましたが、検事の経験はないそうです。訂正いたします。
(追記2)暴力事件についての洞察では、「201永田論文読み上げ動画」は必読文献です。

 こっちの記事も面白いから読んでね。
「順風満帆だったが」 

 
 
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コメント

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最高のタイトルだなあーまだ人生やり直せる。

これこそが公職者の本音ですよ。宗教団体は教祖一族の利益追求団体であって、教祖が死ぬと必ず分裂する。目的はお金だから。宗教団体こそがバベルの塔。イエスも釈尊も教団はなかった。皆,弟子達が作った。親鸞胃至っては、教団を作るなと言った、なのに作っちゃってる。皆、生活のため。
 徳野,大塚両氏は嘗て,総会長の不正流用を追求して,文師に報告した、結果、大塚は左遷、徳野は韓国人に殴られて入院。これ以降、この仲のいい二人は神に対する信仰を捨てた(もともとなかったのかも)ーここで言う神の概念は絶対的善の主体と言う意味ですがー。大塚氏は原研当時,シックが汚い服をきてカンパに走っている時、独りだけ十数万円のスーツを着ていた。彼は貧乏が嫌なんです。みんな、人の金で生活する事に慣れている。それを手放したくない。可知、小山田,太田、皆同じ、井口に至っては本部からうざいと思われてもしがみつく、自分で働いて献金しろと言われるのを一番恐れる男。
原理の解釈ではなく,もっと根本的な「文師はメシアなのになぜ、自分の先祖が解らない?」とか「契約の箱はどこにいった?」「文師も鶴子もその子供達もなぜ神と一問一答できない?完成したら出来ると言ったのに・・」と言う話になったら、公職者も地平さんも沈黙する。逃げる。つまり、みんな、原理が間違っていると薄々思っているが、捨てきれない。捨てれば飯のネタがなくなるから・・・
 地平さんの本部前行動は彼の自暴自棄心情の現れで、原理に騙されて全てを失い、終わろうとする人生になんとか希望の火を灯したいと自分の本心をかくしている行動。だから、一般から見たら異常な風体になってしまう。公職者はみな、地平さんの言う事は正しいと思っている。だから、もう、本部前行動は、辞めたほうがいい。今、公職者の考えている事は「鶴子さんが死んだときに、どう言い訳して七男に取り入るか」ということだから。
 公職者も地平さんも伝道された時の純粋な気持ちに返って,宗教とは,神とは何だろうと考えてみる時期だと思います。「子孫に恥じない生き方」を選択しよう。まだ,やり直せる!。

Re:最高のタイトルだなあーまだ人生やり直せる。

 かんちゃん、興味深い情報、感謝です。

>徳野,大塚両氏は嘗て,総会長の不正流用を追求して,文師に報告した、結果、大塚は左遷、徳野は韓国人に殴られて入院。

 さらに詳細なことを知りたいです。ペコリ

お知らせ

 記事をごく一部、修正しました。ぺこりです。

正論

頭悪くて、最初は話の流れが理解できなくて。なんで被害者の地平さんが訴えられてんの?て思って前の記事からも何回も読んでしまいました。
いやがらせ訴訟で地平さんに圧力かけてるんですね。こんな事するんですね。恐ろしいです。米本さんの言ってることそのとうりだと思います。
神の日が無視されて、お母さまの神格化が完成品になったとうわさになってます。
これは偶像崇拝ですよね。モーセもびっくりかも。

かんちゃんにお願い

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ナツミカンさんにお願い

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 よろしくお願いいたします。

「火に油を注げ」に投稿されたスーパームーンさんにお願い

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 よろしくお願いいたします。

Re: 正論

>いやがらせ訴訟で地平さんに圧力かけてるんですね。こんな事するんですね。

 知的刺激を受けました。

1)いやがらせで
2)圧力かける

 誰がやっているのでしょうか。

 徳野?近藤?

 知性なく金のない韓国幹部シックですか。

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統一原理の本質

>摂理だとか原理だとか「神の日」だとか、そんなものは関係~~ない。 何が何でもメシ(生活費)なのだ~!


 前の記事に投稿した私のコメントを米本さんが別の形で解釈してくださいましたが、確かにその通りで、教団の原理講師たちや中枢にいる者たちが韓鶴子氏の言いなりになり、統一原理の基本教義まで誤魔化すのは給料=生活費のためであるのは間違いありません。
 そうでないとしたら、一瞬にして信仰内容を変える彼らは頭が完全に狂っているのであり、精神異常者と言えるでしょう。
 現実的問題として、彼らは教団からお金を貰わなければ収入がなくなり、解雇されればその先は一文無しで生きて行かねばなりません。
 若い時から統一教会に献身している信者であれば、国民年金も払っていないに違いないし、彼らが年金で生活できるとはとても思えません。
 年齢やキャリアから考えて、求職しても雇ってくれる会社を探すのは難しいだろうし、子供が養ってくれないのであれば、生活保護に頼るしか生きていく道はなさそうです。

 ただ、私もそうだったですが、澤田地平氏のブログの動画に出てくる原理講師たちも統一教会に献身した当時は信仰が第一であり、生活費が欲しくて献身したのではなかったはずです。
 統一原理を真理と思い、文鮮明氏を「原罪」がなく生まれたメシアと思ったが故に統一教会に人生をかけようと思ったはずです。
 そして、彼らは文鮮明氏を裏切ることもなく何十年も教団内で活動してきた訳なのですが、その結果がこの有様です。
 現在は文鮮明氏の主張と相反することを受け入れるよう指示されれば、抵抗することなく受け入れてしまう驚くべきヘタレなのです。

 私は前の記事のコメントで、彼らには統一原理に対する確信がなかったと書きましたが、それは書き方として正確ではなかったと思っています。
 つまり、彼らは彼らなりに統一原理を信じていて、統一原理を信じているが故に平気で基本教義の変更も受け入れたのかもしれないのです。
 米本さんなどには何を言っているのかチンプンカンプンだと思いますが、結局それはこういうことなのです。
 統一原理とは突き詰めれば、“依存”原理だったということです。
 ヘブライズムの神は神秘的で不可知の神ですが、統一原理で説く神は擬人化された神であり、その感情は人間とほとんど変わりません。
 そして神を「父母」に見立てているのです。

 神を「天の父」と呼ぶのはクリスチャンといっしょですが、統一信者の場合は擬人化したイメージでそう呼ぶので内容が変わってくるのです。
 一般的に、父母が必要であるのは子供の時であり、心身共に成長過程にある子供は依存が不可欠となっているのです。
 統一原理が教える神は神秘哲学などと同様に「第一原因」と解釈していたとしても、人間の下層意識でつながっていると考える神秘哲学とは違い、ただ依存して絶対服従すべき存在と考えており、そのような意味で「父母」なる神と考えているのです。
 神秘哲学であれば、自らの精神の奥深い感性を磨くことによって神が与えた能力も発揮されるようになると考えるのを、統一原理では神が送った「メシア」に聞き従わなければ悪なる血統を転換できず、「メシア」に依存する以外に人間が救われる道はないと言っているのであり、そういう意味で「メシア」が「父母様」なのです。

 しかし常識的に考えて、子供が父母と依存関係をもち、それが不可欠なのは自立できるまでの間であり、永遠的なものではありません。
 子供はいずれ成長して親と全く同等の社会人となり、場合によっては親を指導する立場に立つかもしれません。
 つまり、子供が父母と依存関係にあるのはそれが必要な一時期であり、不変の関係ではないのです。
 その人間の父母と子の関係は当然ながら無形の神と人間の関係に当てはめることはできず、原理として述べるならば、神と人間は親子の関係と言うことはできないのです。
 然るに統一信者は無形の神と人間を親子の関係と捉えており、それが「天宙」の根本原理であるとも思っているのです。
 神を真の意味で第一原因と捉えることができるなら、それが間違いであるのは明らかなのです。

 結局、神を父母と捉えることからもわかるように、統一原理の本質とは“依存”だったのであり、統一信者が考える「原理」とは依存原理だったのです。
 統一教会=家庭連合の本部関係者や古参原理講師たちが、重要な教義が変更されても受け入れてしまうのは、確かに生活費の問題が第一だと思いますが、それだけが原因ではなく、彼らが信じている「原理」にも原因があったのは確かなのです。
 彼らが信じている「原理」とは「依存原理」だったのであり、それが信条となっていたため、依存している教団から教義の変更を命じられれば、それを迷うことなく受け入れてしまうのです。

 米本さんは伝統的なキリスト教の教えとは違う統一原理はなかなか理解し辛いと思いますが、それが基本的に『依存原理』であることと、それを信じている統一信者には『幼稚思考の壁』があることを考慮すれば、彼らの考え方はほとんど解明できると思います。
 

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Re: 統一原理の本質

 頭悪くてごめんなさい。今回の投稿で、たぶん理解できたと思います。

>澤田地平氏のブログの動画に出てくる原理講師たちも統一教会に献身した当時は信仰が第一であり、生活費が欲しくて献身したのではなかったはずです。

 そう思います。
 献身、一般には専従職員といいます。

(ただ、統一教会の場合は有給職員とほぼ無給職員がいるので、一般とはやや違います。もっとも、「ほぼ無給職員」といっても数年間だけのことですが)

 日本共産党あるいは創価学会などなどなどの専従職員とて「生活費が欲しくて」なったわけではありません。

 子どもが生まれて、親子暮らしが始まると、惰性的生活が始まります。
 苦吟しているのは「いつも隣さん」でしょう。鴨野さんなどなどはどうでしょうか。


>子供が父母と依存関係にあるのはそれが必要な一時期であり、不変の関係ではないのです。
 その人間の父母と子の関係は当然ながら無形の神と人間の関係に当てはめることはできず、原理として述べるならば、神と人間は親子の関係と言うことはできないのです。
 然るに統一信者は無形の神と人間を親子の関係と捉えており、それが「天宙」の根本原理であるとも思っているのです。
 神を真の意味で第一原因と捉えることができるなら、それが間違いであるのは明らかなのです。


 この指摘によって、理解できたと思います。
「依存」の意味を違って捉えていました。
 で思ったのは、かなり腹黒くて、かなり賢しらな奴がいて、
>「無形の神と人間を親子の関係と捉えており、それが「天宙」の根本原理である
 と、洗脳したということでしょう。

 韓鶴子の母の霊を語った激しく深く人を傷つけた金考南の手口を忘れてはいけません。
 依存関係に落としこめたのです。

 表現がまだうまくできませんが、だんだんと見えてきました。韓国人シックと仲良しになって、いろいろ聞きたいです。

 なお、「原理として述べるならば」という思考をやめたと方がいいと思います。
 真理として述べるならば
 世間から笑われます。

スッキリしました。

今、統一に残っている多くの人の実態は「信仰」ではなく、「依存」。
もちろん、精神的依存もあれば、物質的依存もある。
シンプルですねえ。
  • [2018/03/02 19:45]
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  • [ 編集 ]
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Re:米本さん

>なお、「原理として述べるならば」という思考をやめたと方がいいと思います。

 コメントがあまり長くならないように書こうとして、少ない言葉で書いた文章が米本さんの誤解を招いてしまったかもしれません。
 念のため、米本さんが指摘した‘変な’文章を、詳しい言葉を加えた文章に書き直しておきます。

 その人間の父母と子の関係は当然ながら無形の神と人間の関係に当てはめることはできず、原理として述べるならば、神と人間は親子の関係と言うことはできないのです。
     ⇓
 その人間の父母と子の関係は当然ながら無形の神と人間の関係に当てはめることはできず、(統一教会が主張しているように、それが人間創造の)原理「として述べるならば」→「であるという程の厳密な意味で述べるならば」、神と人間は親子の関係と言うことはできないのです。

 「神と人間は親子の関係である」とは、ある一面についての比喩的な表現ならば問題ないと思いますが、問題なのは、それを「根本原理」と捉えてしまうことです。
 統一信者の場合はその「親子の関係」を絶対的な「原理」と考えてしまうので、いろいろ矛盾が生じてくるのです。
 ちなみに統一原理以外の宗教思想や神秘哲学においても「原理」という言葉は使われており、物質世界だけではなく、精神世界にも当てはまる普遍的な法則を表す場合にその言葉が使われます。

依存そんな簡単なものじゃない

悪辣鬼畜カルトの人間釣りは、依存なんて簡単に表現できるものではない。

暴力行為や殺されそうになる状況を見せられながら、従属させられて行く。
恐ろしいカルト組織だよ。

平信者は、まだ呑気?なのかもね。

Re:Re:米本さん

>ちなみに統一原理以外の宗教思想や神秘哲学においても「原理」という言葉は使われており、物質世界だけではなく、精神世界にも当てはまる普遍的な法則を表す場合にその言葉が使われます。

 了解ですが、「原理」は国語辞典にも載っている用語です。
 しかしながら、統一教会員が使う「原理」は、一般用語としてのそれではなく、たぶんに恣意的に主観的に使われています。
「原理的にいえば」とか「それは反原理だ」とか。
「普遍的な法則ではこうだ」とか「その主張は普遍的な法則に反する」といった表現すれば、化けの皮が剥がれてしまうので、あくまで曖昧模糊とした「原理」という用語を使うのだと思っています。

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