fc2ブログ

統一教会・徳野英治-記者会見の問題点➄ 

統一教会考(8)-拉致監禁問題への姿勢について

統一教会の緊急記者会見についてのコメント(5)

記者会見はわずか30分だったが、怒ったり、にっこりしたり、疑問を感じたり。私の心中は山あり谷ありで、忙しいことこのうえもなかった。

私が失望したのは、信者の拉致監禁問題に関する記者との質疑応答だった。
「ニュース(11)」で紹介したその下りを引用しておく。■今日、配られた資料(会場入り口で配られた、「拉致監禁をなくす会」が制作したビラ)の中にある件について、もう少し詳しくわかればと思いまして、それから今後こういうことについて、会長はどうご指導をされるのでしょうか。(統一教会系新聞の記者)

徳野 お手許にお配りいたしましたのは、後藤徹という統一教会の信者の拉致監禁事件の資料です。
なんと、12年間拉致監禁されていました。
新興宗教団体である、マイナーな組織であると、それだけを理由で、基本的人権が認められない、人間の基本的な人権として一番尊い信教の自由が侵害されている。

 具体的に申しますと、信者の方々の親御さんが煽動して、一部の反対牧師、統一教会に対して非常にネガティブな考えをもっておられるキリスト教の一部の牧師さん、そして一部の統一教会に反対している弁護士 さん、そして暴力改宗屋と言われる、そこには宮村峻という名前がでていますが、暴力改宗屋と言われる、それを生業にしている人、それを職業にしている人、
そうした人たちが親御さんを煽動して、統一教会の信仰をやめさせるにはこの非人道的なやり方しかないんですよ、と。

 マンションに閉じ込めて鉄格子の中で南京錠をつけて、朝から晩まで自由を剥奪して統一教会の悪口を言い続ける。
なかには殴られた信者もいます。
そしてなかには女性でレイプされた女性もいます。

そしてなかには、一番悲惨なのは拉致監禁中に思い余って 自殺までした女性がいます。それは、1997年、ちょうど奇しくも今日7月13日が13回忌の命日となります。このような事実が存在している。
民主主義国家である日本において、残念ながらマイナーであるというだけでそれだけで、多少社会的評判が悪いというそれだけで、信者に対する拉致監禁が許されているという事実に対して、私は何としてでも、国民のみなさまにも、メディアの方にも事実を知っていただきたい。

私も今後は一信者になります。

私が会長時代、大変申し訳なく思っていますことは、4000名近い信者が拉致監禁されまして、それに対して、十分に有効な手だてなり解決策を取ること(が、できなかった)。

ある意味において、信者を奪われて、その受け身の立場をただ甘受してきたような、そのような面において私は大変責任を感じております。その面においても私は辞任に値するんではないかと思うぐらいに、全国の統一教会の信者のみなさま、ならびに拉致監禁されたメンバーに対して、申し訳なく思っています。

この問題をこれから一つのライフワークとして、信教の自由、統一教会に関しては現実には守られてはいない。この現実を国民のみなさまに訴え、何らかの形で、私は微力ながら、努力をしていきたいと考えています。

(引用終わり)

2003_0403画像0002

組織論オンチの教団中枢

 以上の問答を聞いて、なぜ私が失望し、そして激したか、ブログに寄せられたこれまでのコメントを読む限り、残念ながら、理解されなかったようだ。

 資料として配られたビラをクリックして読んで欲しい。
 これは、統一教会が作成したものではなく、統一教会とは何の組織的関係もない市民組織「拉致監禁をなくす会」のビラなのである。

「山口コラム(13)」-希望の行方にも再度、目を通して欲しい。

 そこで、私は次のように書いている。
 <どうせ、反統一教会陣営は、会の訴えに耳を傾けることなく、「教団が市民組織を装って作らせたダミー組織」と批判するに決まっている>

「拉致監禁をなくす会」のメンバーは、ダミー組織と見られたくないため、会則をつくり、会員になった人から会費を徴収し、会計報告も行ってきた。教会員・会員が多いために、つい使ってしまう統一教会用語、統一教会的言い回しを、会員のみんなでチェックし、ブログを修正してきた。
 実に、涙ぐましい努力してきたのだ。

 それにもかかわらず、教団本部は、無神経にも、平気で、いとも簡単に、記者に資料として配る茶封筒の中に、そのビラを入れてしまう。

 後藤さんが監禁から解放されてから一年半が経過するというのに、教団中枢部が後藤さんの監禁事件に関する資料さえ作成してこなかった証左である。それなのに、いけ図々しくも、教団とは関係のない市民組織のビラを入れて、あたかも教団として後藤事件に取り組んできたかのように装う。

 厚顔無恥・千枚張りの面の皮もいいところである。


 徳野氏がこう言えば、まだ許せる。
「お手許にお配りいたしましたのは、拉致監禁をなくす会という市民組織が作成した、後藤徹という統一教会の信者の拉致監禁事件の資料です」

 だが、そんなエクスキューズはなかった。
 受け取った新聞社やテレビ局の記者は「拉致監禁をなくす会という団体は統一教会の下部組織か」と思ったに違いない。何も予備知識がなければ、私だってそう思っただろう。

 今後、会が統一教会の下部組織でないことを、マスコミに理解してもらうことはきわめて困難になった。徳野氏をはじめとする教団幹部が記者会見に参加した新聞、テレビ局各社に、釈明して回ってくれるのならともかく・・・。
 官僚集団ゆえそんなことは絶対にありえないから、会のメンバーのこれまでの苦労は水の泡となってしまったのだ。
(ただし、幸いなことに、記者はビラに関心を持たなかったようだが)

 私は記者会見に参加する前に、「ニュース(7)」で、教団幹部を「バカそのもの、社会オンチ、マスコミ音痴、脳味噌がナメクジ状態」と罵ったが、まさにその通りであった。

信仰組織と市民組織との区別がまるで理解できていないのだ。

「組織論がまるでわからない間抜けな幹部たち」という悪罵も付け加えておきたい。そうなってしまったのは、職業宗教家ゆえに、一般の人たちとまったく交わらずに組織の中だけで何十年間も過ごしてきたからにほかならない。つまり、井戸の中の蛙ちゃんなのだ。

これ以上書くと、血圧があがり、脳溢血になってしまいそうだから、「ニュース(7)」で書いたことは繰り返さない。再度、読んでください。


誇張は百害あって一利なし

 拉致監禁問題の発言で気になったのは、「鉄格子」「殴られた信者もいる」「レイプ」「自殺者」「暴力改宗屋」といった表現である。
「暴力改宗屋」以外は、決して間違いないではない。
 だが、ごくごく一部にあった事実を普遍化・誇大化し、おどろおどろしいことを言えば言うほど、強制説得にあった信者は脱会する。

 なぜなら、マンションにやってきた牧師は、紳士で優しい人が圧倒的に多く、<聞いていたことと違う>とショックを覚えるからだ。(参考テキストは、山崎浩子の『愛が偽りにおわるとき』文藝春秋)
 青春を返せ裁判の原告の証言でも、そのように証言していた元信者が複数いたと記憶している。誇張は百害あって一利なし、である。

 また、「暴力改宗屋」という表現はそもそも事実に反する。日本に「脱会説得者」や「脱会請負人」はいても、「暴力改宗屋」と呼ばれる人は存在しない。
 後藤さんを監禁下で説得した宮村峻氏を指して言っているのだとしても、それは間違いである。

「米本陳述書(3)」を読んでもらえば、宮村氏にふさわしい呼称は「脱会請負人」だとわかるはず。
統一教会も反統一教会も、他者を批判するときには事実に基づき、そして言葉に厳格であるべきである。

 主張の中に、少しでも事実に反することがあれば、主張そのものが疑わしいと思われ、説得力はなくなってしまう。誇張は百害あって一利もないのだ。『我らの不快な隣人』をよく読んで欲しい。(注1)


謝罪すべきは歴代の会長


「拉致監禁」に関する記者会見で、少しばかり心が和んだのは、徳野氏が
「4000名近い信者が拉致監禁されまして、それに対して、十分に有効な手だてなり解決策を取ることができなかった
 として謝罪したことだ。
率直に評価してもいいと思う。

ただ、謝罪するのなら、記者会見の場だけでなく、全国の教会を回り、信者たち全員にすべきだろう。「拉致監禁を放置していたことはそれだけで辞任に値する」と、本気で思っているのなら・・・。(注2)
また、頭を下げるのなら、徳野会長だけでなく、歴代会長のすべてが行うべきではないか。

※以下、赤字は『我らの不快な隣人』に登場した人がどの会長のときに監禁されたか示す。
決して赤字がつかない会長が拉致監禁問題に取り組んだということを意味するものではない。
徳野会長のときだって10人以上は監禁されているし、記者会見の直前にも、東北大学の責任者(元大阪大学の責任者)をしていたカープ(旧原理研究会)メンバーが監禁されている。記者会見でこのことを明らかにしなかったのは、いま現に起きている拉致監禁の事実さえ知らなかったということだろう。あまりのチグハグさに、思わず、唇が歪んでしまった。これについては後でもう一度触れる。

歴代会長とそれぞれの就任期間は、ウィキペディアからの引用である。

久保木修己(1964年-1991年9月25日) 中島裕美、後藤徹(一回目)、レイプされた女性、鳥海豊
神山威(1991年 9月26日-1993年 1月6日)小出浩久
藤井鋤I雄(1993年 1月7日-1994年4月)塩谷知子
小山田秀生1994年5月-1996年5月高須美佐、富澤裕子(一回目)、渡邉裕(一回目)
桜井設雄1995年6月7日-1996年6月25日宿谷麻子、今利理絵(一回目)、後藤徹(2回目)、川嶋英雄、田村香子
石井光治(1996年6月26日-1998年3月13日) 富澤裕子(2回目)、今利理絵(2回目)、小林宗一郎(3回目)、自殺した女性
江利川安栄(1998年3月14日-1999年1月13日)アントール美津子、砂田智代の夫、安西恵津子の夫
大塚克己(1999年1月14日-2001年6月10日)
小山田秀生(2001年6月11日-2006年8月8日) 寺田こずえ、元木恵美子、門田由紀江
大塚克己(2006年8月9日-2008年5月26日) 渡邉裕(2回目)、島根大学の学生2名
徳野英治(2008年5月27日-2009年7月6日)



拉致監禁に反対する視座

 徳野氏の謝罪が形だけのものでなければ、今後、梶栗玄太郎新会長が「拉致監禁問題」に前向きに取り組むだろう。すでに、文鮮明氏の4男、国進(クッチン)氏が号令をかけたと聞いている。(注4)

 それはそれで大いに歓迎すべきことなのだが、私は一抹の不安を覚える。

 それは、なんのために、どういう視点から、取り組むのかがはっきりしてしていないからだ。
というより、動機に不純なものさえ感じるのだ。

 こんな彼らの心象風景が浮かぶ。

<これまで反統一教会陣営にやられっぱなしだった。拉致監禁されるわ、脱会した信者からは「青春を返せ」と訴えられるわ。このたびの一連の経済事件では「統一教会に反対している弁護士」に、誇張したコメントをマスメディアにさんざん流されたし。ここらで反転攻勢をかけようではないか>


 気持ちは理解できる。(「弁護士山口氏のコラムを評す」を参照)
 だが、反統一教会陣営に反転攻勢をかけるために「拉致監禁」を材料 として使うのは全くもって納得できない。 

  なぜなら、「拉致監禁問題」は、国進氏や教団中枢部が考えている以上にはるかに根深いものがある。
 拉致監禁体験者からじっくり長時間にわたって話を聞いたことのない彼らからすれば、拉致監禁は信教の自由を侵害する行為であり、信者を統一教会から奪う行為でしかない。

 しかし、体験者からすれば、これだけにとどまらないのだ。

脱会しようがしまいが、拉致監禁によって信者(元信者)は深く傷ついているし、監禁後の親子関係はうまくいっていない。
とりわけ、脱出するなり偽装脱会なりして、信仰を失わなかった現役信者と両親との関係は、信者時代よりも悪化し、いまだ親子の会話すら成立していないケースが圧倒的に多い。孫の顔すら見ようとしない親もいる。

「拉致監禁をなくす会」の川嶋英雄の証言を読めば、理解できるだろう)

 統一教会が信仰者集団なら、まずなにより、すべての教会員が同じ教会、組織に所属する監禁体験者の声に耳を傾けることから始めるべきだ。
 魚谷俊輔氏の『統一教会の検証』(光言社)の資料(33頁)をもとに試算すれば、監禁場所から脱出してきた信者は、その後退会していなければ1000人もいるのである。その人たちから話を聞くことが先決ではないのか。(注3)

どんな風に拉致監禁されたのか、監禁下での模様はどうだったのか、監禁から脱出後、組織や仲間はどう対応したのか、心的外傷は癒されたのか、その後の親子関係や兄弟関係はどうなっているのか。


 そして、悩んでいる信者に具体的に手を差しのべるべきではないか。
「摂理献金に勝利するぞ」なんて、オダをあげている暇があれば、信仰仲間を救うべきだと思う。

「ニュース(7)」では次のように指摘した。

「教団中枢部は信者が拉致監禁された事実(どの教会の誰がいつ拉致監禁され、、今はどんな状態なのかという事実)さえ、掌握してこなかった。世界広しといえども、自分の組織の所属するメンバーがある日、突然、姿を消しても知らん顔。姿が見えなくなっても組織の中枢が報告さえ求めようとしない組織は、日本・統一教会だけだろう」

 ある日、信者が拉致監禁されても組織は知らん顔、必死で戻ってきても信仰仲間は関心を示さない。日本の統一教会は冷たい組織になってしまっているのである。

 今さら反統一教会を攻撃することを目的に、拉致監禁問題に取り組んだとしても、何の意味もなく、歴史的意義はゼロに等しい。動機が不純であれば、悲惨な拉致監禁の事例を訴えられても、社会(世論)は底意を見透かし、相手にしない。
 それよりも、温かい組織に変える契機として、監禁を体験した現役信者の声に、すべての信者が耳を傾け、サポートしていくことから始めるべきだろう。

 そして、一刻も早く、拉致監禁の発生を未然に防ぐ教育、組織体制をつくるべきである。

 反統一教会をやっつけるために、教団中央が拉致監禁問題に取り組んでいる傍らで、信者が拉致監禁されていく。まさにズレまくりもいいとこ、「お笑い統一教会」である。

「拉致監禁をなくす会」ブログのお知らせをクリックすれば、こんな通知文が掲載されている。
カープ所属の方が拉致監禁された模様です。
被害者はK・H男(28歳)。実家は奈良県吉野郡十津川村東北大学カープの責任者です。7月1日に帰省して以降連絡が取れなくなったようです。何か情報などありましたら、お知らせください。一日でも早い解放を願うばかりです。

 それにもかかわらず、いまだ当の統一教会、カープのサイトではアナウンスされていないのである。


 教団本部が本気で拉致監禁問題に取り組むつもりなら、文国進氏をはじめとする幹部たちは、監禁体験者の声に耳を傾けてから行うべきだ。「拉致監禁をなくす会」の役員でもある前出の川嶋英雄氏は元カープ職員ではないか。見ず知らずの信者ではない。その彼にじっくり話を聞いてから、どう取り組むか考えればいいはずだ。(注4)

 そうした手順を踏まずに、いきなり拉致監禁問題に乗り出すという。そこに、いかがわしさを感じてしまう。

繰り返しになるが、反統一教会に反転攻勢をかけるため、監禁体験者を利用するようなことだけはやめてもらいたい。もし利用されたと知ったら、監禁体験者はさらに深く傷つくことになるだけである。


 最後に、冒頭に紹介した徳野氏の回答で、私が首をひねったところについて簡単にコメントしておく。

(1)民主主義国家である日本において、残念ながらマイナーであるというだけでそれだけで、多少社会的評判が悪いというそれだけで、信者に対する拉致監禁が許されているという事実に対して、私は何としてでも、国民のみなさまにも、メディアの方にも事実を知っていただきたい。

「マイナーな組織」「多少社会的評判が悪い」という少々笑える表現はさておくが、マイナー、評判が悪いという理由で、拉致監禁が許されているという指摘は事実に反する。
 そもそも、教団そのものが拉致監禁を放置し、拉致監禁の実態を広く社会に訴えてこなかったのではないか。許す・許されるレベルの話ではないのだ。

 教団はほとんど何もしてこなかったし、反統一教会陣営は拉致監禁の事実を秘密にしてきた。それだからこそ、手前味噌になるが『我らの不快な隣人』を書くことになったのではないか。

 同書の26?31頁に、新井俊介さんの婚約者が拉致監禁されたことを書いている。新井さんが私を頼ってきたのは教団が何もしなかったからではないか。
 新井さんは婚約者の実家を所轄する警察署に捜索願いを出した。それを側面援助するために、私も警察に手紙を書いた。教団本部は、この事件の解決のために、何一つとして関わろうとしなかったのではないか。

教団中枢の方々は、ほんとうに面の皮が厚い人たちばかり。「恥」という感情を持ち合わせていないようである。


(2)一番悲惨なのは拉致監禁中に思い余って 自殺までした女性がいます。それは、1997年、ちょうど奇しくも今日7月13日が13回忌の命日となります。

『我らの不快な隣人』204頁で、この自殺した女性のことを書いているが、それは教団から教えてもらった情報に基づくものだ。

 教団は7月13日が女性信者の命日だったことは以前から知っていた。徳野氏の発言を聞けば、いかにも自分たちは心を痛め続けていたように聞こえる。しかし、年命日はこれまで11回あったが、教団職員の誰かが彼女のお墓に出向き、手を合わせたという話は聞いたことがない。
 それでいながら、記者会見のときにわざわざ「奇しくも今日が13回忌の命日」としゃべる。魂がまるでこもっていないから、記者たちはスルーしてしまう。ズレているとしか言いようがないのだ。


(注1)「強制改宗」「暴力改宗」といった言葉も使われているが、これも事実に反する。脱会説得は監禁下でだが、脱会後の改宗は軟禁状態のもとで(頑張って逃げようと思えば逃げることができる)行われている。

(注2)教団は、現在、記者会見の録画を日曜礼拝のときに流しているという。しかし、「信徒会は存在しない」(前回ブログで取り上げたこと)という徳野氏の回答を聞いた信者はどう思っただろうか。私が心配するのは「ときによっては嘘をついてもいいんだ」と思わないかということだ。

(注3)99年の『宗教と人権弁護団ネットワーク集会』に参加したとき、清水与志雄牧師や川崎経子牧師など強制説得を行っていた牧師たちに、「脱会者が心的外傷後ストレス障害にかかっていないか調べてみるべきだ」と訴えたことがある。牧師たちは誰を脱会させたかファイルをもっている。その人たちに手紙や電話なりで、精神的不調に陥っていないか調べてみたらどうかと提案したわけだが、寂として声なしだった。
 統一教会も反統一教会も、一人ひとりに温かい眼差しを向けない点では共通している。この集会の話は拙著の300?303頁に書いている。

(注4)最近知ったことだが、記者会見を開いて謝罪すべしと判断を下したのは国進氏だった。彼は同時に、拉致監禁のこともマスコミに訴えるべきだと指示した。「ニュース(7)」で批判した「一方で頭を下げ、一方で拳をあげる」ような記者会見にしたのは、日本・統一教会の中枢部ではなく、日本担当となった国進氏だったわけだ。
 彼の評価は日本の信者の間で高いようだが、ズレているとしか言いようがない。
 また、中枢部が現在、「拉致監禁問題」に取り組むようになったのも主体的にではなく、国進氏という上からの指示によるもの。
 そうなると、国進氏に褒められるように「形」を出すことに官僚は精を出すことになる。一人ひとりの監禁体験者に向き合い、心的外傷を癒し、親子関係の再生につながるようなことは何一つとして行われないだろう。
 さらに、アメリカ・統一教会の会長に就任した仁進氏(インジン、文鮮明氏の次女)も、この問題に「女性の人権」という立場から、口を出し始めたという。なんだか暗い気分になってくる。
 国進氏が指導者として真っ先にやるべきなのは、拉致監禁に何の対応策も取らなかった歴代の会長の責任追及と叱責だろうに。


 


続く
関連記事

コメント

米本様、久しぶりの投稿です。
懇切丁寧に個人メールをくださったこと、感謝しております。

***引用始め
「マイナーな組織」「多少社会的評判が悪い」という少々笑える表現はさておくが、マイナー、評判が悪いという理由で、拉致監禁が許されているという指摘は事実に反する。
そもそも、教団そのものが拉致監禁を放置し、拉致監禁の実態を広く社会に訴えてこなかったのではないか。
・・・
教団はほとんど何もしてこなかったし、反統一教会陣営は拉致監禁の事実を秘密にしてきた。
***引用終わり

なぜなのでしょうか?
責任者に尋ねれば「ここまで立ち入る必要はない。摂理はどうした」とばっさり切られそうですが・・・
それにしても腑に落ちません。
(泣)

懇切丁寧さに脱帽

米本さんがここまで懇切丁寧に問題を噛み砕いて書いて下さっていることに関係者は感謝すべきですね。

貶められたか?心配です

 会見直前に「ドキュン」とコメントして以来、激しいコメントの流れにはじき飛ばされ落伍者となりました。やっぱり管理人さんのご感想通りでしたか。運動が貶められてしまったのかと心配にもなりますが、被害者の心の救済こそ先決とのご主張はその通りだと思います。
 コメントの怒濤の展開で被害者の会会員の方の発言に「イエローカード」とか、緊張したやりとりも実は読んでいたのですが、会員の方も何らかの拉致被害に遭遇している方かと思います。ある意味で精神的心理的な極地で、白昼夢を見るような苦しみもあったと思います。何かを訴えたいという気持ちが相当強いのでは(以前、お医者様に書き込みを止められたといって制御された方もおいでしたが)。
 「心の救済」に真摯であってほしいです。

こんにちは。ご指摘はごもっともだと思います。言葉もございません。

実は,私は統一教会員が拉致監禁反対の運動を行うことは,否定的に考えておりました。

拉致監禁が許されない行為であることは当然ですが,犯罪者集団などという恐ろしい話を聞けば,子供を拉致監禁してでも守りたいという親の気持ちは理解できます。ましてや,変な思想に洗脳されて,常識的な会話もできなくなっていると聞かされればなおさらです。

もちろん統一教会は犯罪者集団などではありませんが,裁判所から献金勧誘行為などの違法性をずっと指摘され続けながらも,それを真摯に受け止め,反省し改善する努力をしているとはあまり思えません。

裁判所から何度も違法性を指摘されながら,それを改善する努力もせず,他方では,拉致監禁に関与する牧師等の行為は問題だと主張する。こういう態度を一般の人がみれば,「そりゃ拉致監禁はいけないことだけど,おたくらだって裁判所から何度も違法だって指摘されても全然平気みたいじゃん。法律を守る気のないあんたらが,拉致監禁は法的に問題だって主張するのはどうなのよ」と思うのではないかと思うからです。米本さんが書かれた警察官の「私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」という発言を見れば,統一教会に対して,それほどまでに恐ろしいイメージを持っている人は少なくないだろうと想像します。

ですから,拉致監禁反対と声高に叫ぶより,もっと先に言うべきことがあるのではないだろうか。裁判所から指摘され続けてる違法な点を改善し社会的に有益な団体と認められるための努力をするのが先じゃないのか。そういう点をないがしろにして,拉致監禁反対と声高に叫んでも全く説得力はないだろう。とこのように考えておりました。

しかしながら,米本さんのブログで拉致監禁の酷い実態を知り,考えを改めました。これは,あまりにも酷い・・・・極めて重要な人権侵害問題であって早急に対策を検討すべき重大問題であると認識を新たにいたしました。今まで,このような酷い実態を知らず,この問題に対する認識の甘さを恥じ入るばかりです。「拉致監禁をなくす会」の方々のご苦労には,頭が下がる思いがいたしますし,被害者の方には本当に申し訳なく思います。

私のようなものが意見を言うのも恐縮いたしますが,拉致監禁をなくす運動について,少し思ったことを述べさせて下さい。

現実に拉致監禁反対の運動を進めるにあたっては,やはり統一教会員が前面に立ち,声高に拉致監禁牧師の犯罪行為を糾弾するというやり方は,どうなのだろうという思いがいたします。

統一教会員が前面に出れば出るほど,「拉致監禁反対運動は統一教会の陰謀だ」と敵に口実を与える結果となってしまいます。もちろんこの口実には全く説得力はなく,犯罪行為を正当化できる理由になるはずもないわけですが,拉致監禁反対運動は「統一教会擁護派VS統一教会反対派」という構図をイメージさせる効果は十分にあります。もし,そのようなイメージ戦略が成功すれば,拉致監禁反対運動にとってはマイナスとなるでしょう。

また,統一教会員が前面に出て運動を展開する中で,統一教会のことが非難されれば,その人は一生懸命弁解するでしょうし,ほんとは素晴らしいところなのだと力説するでしょう。統一教会員のこのような行動も,「統一教会擁護派VS統一教会反対派」とイメージ付けることを助長してしまいます。(もちろん,この点について「拉致監禁をなくす会」の方々は細心の注意を払っておられるだろうということは理解はしておりますが)

敵の唯一の主張は,社会悪である統一教会と戦うことは正義なのだ。その正義の戦いに勝つためには,拉致監禁という手段をとることもいたしかたないというものでしょう。統一教会にも非難されるべき点があることは,そのとおりです。敵の唯一の主張が上記のとおりであるならば,もし,統一教会の社会的問題点が解消されれば,敵は拉致監禁を正当化する唯一の主張は失ってしまうことになります。だから,拉致監禁被害をなくすという観点からも,統一教会の社会的問題点が改善されることは重要なことだと思います。

つまり,拉致監禁反対運動を展開するにあたって,拉致監禁牧師の犯罪行為の事実を明らかし,酷い実態を伝えていく活動をすると同時に,統一教会に対しては,社会的問題点を厳しく追及し組織改善を強く求めていく。こういう活動もすべきではないかと思います。そして,統一教会員は,反対牧師の犯罪行為を糾弾する活動よりも,統一教会に対して,改善を強く求めていく活動に力をいれ,反対牧師を糾弾する活動は,統一教会員でないメンバーが中心となって活動すべきだろうと思います。(あくまで理想です)

運動を展開する上で,社会の理解を得ることは極めて重要だと思いますが,現状は,統一教会に味方する団体を諸手を上げて応援しにくいものがあると思います。また,元信者の人も,拉致監禁には反対であっても,統一教会の利益になるような活動には協力したくないと思う人は多いでしょう。

しかしながら,「拉致監禁をなくす会」は,拉致監禁に反対する活動をすると同時に,統一教会の問題点も厳しく追及する。さらには,統一教会に対して,拉致監禁問題の対策をきちんと行ってこなかったことに対しての謝罪を求め,今後しっかり対応するようにも強く求めていく。こういう活動であれば,元信者の人の協力も多少は得やすくなるのではないかとも思いますし,世間一般の人の理解も得やすいのではないかとも思うのです。また,このことは組織改善を願う統一教会員にとっても好ましいことであるはずです。

拉致監禁に反対する人達が,同時に統一教会の反社会的な問題点も厳しく追及し改善要求していく。こうなれば,敵は何も反論できないのではないでしょうか。一般の意識ある人の賛同も得やすいと思います。

拉致監禁に関与する牧師や弁護士の欺瞞に満ちた実態が明らかにされ,拉致監禁被害がなくなることを強く願っています。そして何より被害者の心情が癒されますように・・・

長文失礼いたしました。

記事の内容全てが、『正しく!』と同感いたしました。

>それにもかかわらず、教団本部は、無神経にも、平気で、いとも簡単に、記者に資料として配る茶封筒の中に、そのビラを入れてしまう。

前回の記事でも感じていたのですが、本当に統一教会は自分達を守ろうと考えているのでしょうか!?とても疑問が残りました。

例えば、普通の上場企業に於いて株主総会を開くとなると、配布資料は全て取締役・法務部・財務部が内容のチェックをします。
また、想定される質疑応答に関しては、何度も何度もリハーサルを重ね、それはそれは大変な準備をする訳です。

株主総会ですら、関係者は毎日寝ずに準備をするのですが、記者会見でわざわざマスコミを招待しておきながら、会長は『信徒会がある』と言ってしまったり、『拉致監禁の会』のパンフを配布してしまう・・・明らかに、準備不足です。

また、過ぎた内容を穿り返して申し訳ないのですが、幽霊食口さんがコメントされていた『ぷっちょゆきっちさん』の件に関しても、彼女の記事に問題があると考えるのであれば、教会として公式に、訓告なり警告を与えるべきなのです。

余談ですが、皆さんが話題にされていたので、ぷっちょゆきっちさんの記事を読みましたが、余りにも日本語の文法が変なので二度と読むつもりはありません・・・。SAKAさんもそうですが、信者の方々が問題ありと思われる記事を書かれる方の特徴でしょうか?

閑話休題です。

つまり、記者会見にしても、信者の管理にしても、統一教会はもっとリスクマネジメントの観点から、自分達を守る為に何をすべきかを、一般社会から学ぶべきではないでしょうか?
ちょっと、やっている事が『サークルレベル』のずさんさです。

米本さんの今回の記事を読ませて頂き、つくづく思いました。

原稿を補筆しました。

(注4)を追加しました。

 みなさん、投稿ありがとうございます。
 ひまわりさんの「サークルレベルのずさんさ」には笑えましたし、確かにその通りとも思いました。いずれ、なぜ5、60歳のいい年配者が「サークルレベル」なのか考えてみたいと思っています。そのときにはまた投稿、よろしくお願いいたします。

 拉致監禁を未然に防がなくてはならないのは、日本の青年・学生信者ばかりではなく、韓国・統一教会の日本の花嫁さんもそうです。数字はまだ研究中ですが、年に2人程度は日本に戻ったきり、その後所在不明になり、そしてしばらくしてから、韓国人夫のもとに離婚請求の手紙がきます。
 いま、韓国の日本人信者の総責任者は、日本・統一教会の会長だった江利川安英氏(女性)が就任しています(拙著が出たあと)。
 彼女は花嫁が消えてしまうことなど関係なく、目下の関心は日本で会長をしているときと同じように献金と勧誘のようです。

 いずれ、韓国の問題は稿を改めてかくつもりですが、拙著14章で書いたときの韓国・統一教会のいい雰囲気は少しずつだけど、でも確実に悪くなっているようです。

信者は将棋の駒

基本的に信者の頭の中は、摂理(献金)の事で頭がいっぱいです。
次から次と椀子そばのように献金要請が来るわけですから、個人の救いの事など考えている余裕がありません。

教会サイドは、信者を神の摂理推進の為の将棋の駒程度にしか思っていないでしょう。

拉致監禁された信者は、戦力外になるのでかまっている暇などありません。

別冊宝島「いまどきの神サマ」の中に、「キャラバンの白い少女」という記事があります。(この本には米本さんの記事も載っているので御存知だと思いますが)
その中に、「彼女は仲間の手によって母のもとに連れ戻された。働けるときにはこき使うが、働けなくなればほうり出すのだ。」と書かれてありますが、非常に統一教会の体質を表していると思います。

拉致監禁をなくす会のあり方

なくす会は、自主的に、行動する会であり、主張する会であってほしいと思います。
統一教会員は、反対の前面に出ないほうが良いという主張には同意しかねます。悔しい人が悔しいといえるのが、自由の基本だと思います。悔しいのに、体面が悪いから黙ってろといってほしくない。拉致監禁をなくす会は、ずっと黙ってきた人たちが、やっと声を上げ始めた会なのです。声が枯れるまで、叫んで倒れても良いとおもっている連中の集まりであって欲しい。そうしたら、第二、第三の米本さんが現れるよ、きっと。そうならない日本なら、沈没しちゃえ、と思います。

Re: 拉致監禁をなくす会のあり方

 ルーキーさん、投稿ありがとうございました。

 投稿文通りであれば、誤読です。
「統一教会員は、反対の前面に出ないほうが良いという主張には同意しかねます。悔しい人が悔しいといえるのが、自由の基本だと思います。悔しいのに、体面が悪いから黙ってろといってほしくない」
 このように指摘されることはブログでは書いていません。

 拙い文章で誤読されてしまったのかもしれませんが、
①教団中枢が国進氏に指示されたからといって、今さら、反統一教会陣営を攻撃するために「拉致監禁問題」に取り組むのは、さして意味あることではない(主体性の問題、動機の問題で)
②反統一教会攻撃のために取り組むことは、傷ついた監禁体験者をさらに傷をつけることになりかねず、マイナスである
③教団として取り組むのであれば、監禁体験者の声にじっくり長時間耳を傾け、理解することが先決で、いまだ問題を抱えている信者がいれば具体的にサポートすることこそ、意義あることだ
-といったことを主張したつもりです。

 重要なのは、③です。『我らの不快な隣人』Ⅰ部で紹介したように、監禁体験者からじっくり話を聞くことです。未読ならぜひ読んでみてください。ビラを配るより大変なことですよ。

 統一教会員が反対の前面に出ないほうが良いと言ったつもりはありません。一人ひとりの信者が上からの指示ではなく、自主的に、活動するのはとても大切なことです。

 ところで、教団とはまったく関係ない市民組織の名前が「拉致監禁に反対する会」ではなく、「拉致監禁をなくす会」であることに注目してください。また会則も読んでみてください。
 「なくす会」では、統一教会に反対する父兄に読んでもらいたいために監禁経験者の体験談をブログに載せています。この体験談を読めば、父兄が保護説得に逡巡してくれるだろうと期待するからです。

 心が傷つき、家族がバラバラになるような体験者をこれ以上、増やしたくない。
 これが会の出発点にあります。

 ルーキーさんが現役信者で、なおかつ拉致監禁反対の前面に出るお気持ちがあれば、ぜひ教会にいる監禁体験者から話を聞いてみてください。それが「はじめの一歩」だと思います。

米本さんへ

こんにちは,NY65です。

ルーキーさんのご意見は,私の長文コメントに対してのものだと思われます。

長文でコメント欄を汚してしまい,ご迷惑をお掛けしました。申し訳ございませんでした。

米本さんのブログを全部読ませていただきましたが,私にとってはショッキングな内容が多く,とても動揺してしまいました。いろんな思いが頭を駆けめぐり,それで,ついあのような自分勝手で無礼な長文コメントを投稿してしまいました。本当に申し訳ございませんでした。以後注意いたします。

米本さんの今後のご活躍をお祈りいたします。

早とちり

 ああ、そうか。私の早とちり。ルーキーさん、ごめんごめん。NY65さん、教えてくれて感謝です。決して無礼な長文ではありませんでしたよ。賛否はともかく、拝聴すべき一つの意見として読まれたと思います。

米本さん,ありがとうございました。

米本さん,やさしい言葉でフォローして頂き感謝です。

こちらのブログは端々で米本さんの心やさしい配慮が感じられ,シビアな内容であっても心温まるものを感じます。これからもよろしくお願いいたします。

ルーキーさんへ

ルーキーさん,こんにちは

私の投稿に対するご意見だと思いますが,確かに私の意見は運動論的観点が強すぎたかもしれませんね。被害者ご自身の意見にもっと耳を傾けるべきだと思いました。ご意見ありがとうございました。

戦闘集団

元氏の

>教会サイドは、信者を神の摂理推進の為の将棋の駒程度にしか思っていないでしょう。
>拉致監禁された信者は、戦力外になるのでかまっている暇などありません。

という主張に納得した。統一教会は宗教団体というよりも、戦闘集団という組織構造に近いのだろう。これならば、個人の救いに無頓着である理由も分かる。徳野会長の「信者に冷たい発言」も納得がいく。

また、SAKA氏のような非常識な者がインターネット上で人々に迷惑をかけても教団が知らん顔をしている理由も、元氏の主張でよく分かった。要は、SAKA氏は統一教会では戦力外に考えられているから、社会にどんな迷惑をかけようが教団は我関せずで放置しているわけだ。

おっと、当ブログの内容と関係のないSAKA氏の話になってしまった。すみません。

しらじらしいとは承知しながらも、ちょっと宣伝。私もブログを開設した。米本ファンの私を怒らせた非常識で卑怯者の統一教会員を糾弾するブログである。
http://blog.goo.ne.jp/tthayakawa/

人の話を聞く重要性

元さんの「基本的に信者の頭の中は、摂理(献金)の事で頭がいっぱいです。
次から次と椀子そばのように献金要請が来るわけですから、個人の救いの事など考えている余裕がありません。」に笑ってしまいました。

米本さんのコメントに「教団として取り組むのであれば、監禁体験者の声にじっくり長時間耳を傾け、理解することが先決」と、監禁体験者からじっくり話を聞くことの重要性を指摘されています。なぜ、統一教会の人たちは人の話をじっくり聞くことができないのでしょうか?

普通、世間一般の人は生活していく上で人の話を聞いて、考えて、行動していると思いますが、信者の人たちは人の話を聞くことに支障を生じるようなフィルターでもかかっているのかしら。



早川さん

>統一教会は宗教団体というよりも、戦闘集団という組織構造に近いのだろう。これならば、個人の救いに無頓着である理由も分かる。徳野会長の「信者に冷たい発言」も納得がいく。

御理解頂き、ありがとうございます。m(_ _)m
曲がりなりにもキリスト教を名乗るのであれば、魂の救いを最優先しなければならないはず。
実際は。。。orz


クマさん

>普通、世間一般の人は生活していく上で人の話を聞いて、考えて、行動していると思いますが、信者の人たちは人の話を聞くことに支障を生じるようなフィルターでもかかっているのかしら。

自分で考えて判断して行動すると「サタン」だと言われます。(笑)

来る者は拒まず去る者は追わず

来る者は拒まず去る者は追わず。はっきりいってこの姿勢はあります。後は
献金するかどうか、一人や二人居なくなっても人間はいくらでもいます。補充できますから。それから、あまり実家には帰したがらなかったですね。里心とゆうか万が一それこそ拉致監禁を疑っていたふしもなきにしもあらずでしたが、私がいたところで男性食口でしたけど年寄りが危篤とのことで実家その人、徳島の実家にて家族親戚の説得を受け脱会し、荷物を引き取りに来たそうです。せばらく1ヶ月近くいませんでした。拉致監禁かどうかくわしくはわかりませんが。結局、深刻に考えなければおしてしるべしです。

祝8万件!

アクセス件数がうなぎのぼりですね。多くの人に読まれる分、理解が深まるといいですね。

元さんの「自分で考えて判断して行動すると「サタン」だと言われます。」には驚きました。そういう世界なんだと。

思想統制

>元さんの「自分で考えて判断して行動すると「サタン」だと言われます。」には驚きました。そういう世界なんだと。

冗談のような本当の話しです。(笑)
私は統一教会にいた当時、精神世界関連の本をよく読んでいたんですが、アベル(上司)から「本断食しなさい!」とか「本を焼いてしまえ!」とか言われました。(苦笑)
ナチスの焚書や共産主義国家の思想統制と同じです。
自分達(教会サイド)にとって都合の悪い情報は一切カットするのはカルトの特徴です。

「別組織」の不透明さ

初めて書き込みいたします。

ここしばらくずっと読ませていただきました。この問題のウォッチャーとしては、興味深い情報が多くて目が離せません。

さて「拉致監禁をなくす会」のページですが、確かに米本さんの今回の記事に従って「お知らせ」をクリックすると現在拉致監禁中と思われる人についての情報が出てきます。

でも、これって言わばこの会の設立目的の主眼ともいうべきトピックですよね? 確か数日前まではトップページに表示されていたと思うのですが、どうして「お知らせをクリック」と一手間(実際には「お知らせ」から更にワンクリックしなくてはならないから二手間)かけなくては読めないところに後退しちゃったんでしょうか。

それに、この間まで「拉致監禁者数」のカウンターが2名だったはずですが、いつの間にか1名になってます。つまりひとり減ったわけですが、その人は拉致監禁から脱出したということなのでしょうか。それとも、そもそも拉致監禁ではなかったということなのでしょうか。

「お知らせ」には他にも3名の「拉致監禁被害の可能性」が書かれていますが、ずいぶん前からカウンターとは数が合いません。拉致監禁から脱出されたのか、それとも拉致監禁と思われたが実際は違ったのか、フォローが何もない。

しばらく掲示板も止まったままだと思ってたら、「管理者の承認待ち」だったはずの項目が2件消滅しています。「なんぞ都合の悪い書き込みでもあったのか?」と邪推したくもなります。

「統一教会とは別組織」という言い分が本当なのだとして、そして彼らが訴えている「強制改宗」が事実なのだとして、しかしそういうことの問題性をどこまで本気で告発しようとしているのか、だんだん疑念の方が強まってしまいます。

米本さんはWEB上には現れない情報ソースをお持ちなのかもしれませんが、そんなチャンネルを持たない私のような立場の者から見ると、この団体の発信する情報を鵜呑みにしていいのか、疑問に思います。(広い意味での)「ダミー組織」と見なすのが常識的な感覚ではないかと思うのですが。

こういうことを書くと「拉致監禁を容認するのか」などと見当違いな批判がされそうな雰囲気がありますけど、そういう意図ではありません。ここに書き込まれる現役の人たちにしても同様の印象を持つのですが、「本気で取り組む気があるの?」と余計なお世話を焼きたくなってくるのです。

しかも(注4)には、今回の記者会見が実質的後継者と目される国進氏からの指示で行われたもので、教団中枢部による自発的なアクションではなかったと読める文章が書かれています。

「なくす会」も、ホントはそういう経緯で設立されたのでは?という印象を、主張と行動のチグハグさに感じてしまいます。

初めてなのに長文失礼しました。

Re: 「別組織」の不透明さ

うふじぇさん、ブログをいつも読んでいただいているようで、ありがとうございます。

うふじぇさんの投稿は、主に「拉致監禁をなくす会」への苦言、疑問点だったので、会の方にコメント投稿を読むように、お願いしておきました。

会のブログの管理的なこと・技術的なことは、門外漢なので、答えることができませんが、

> それに、この間まで「拉致監禁者数」のカウンターが2名だったはずですが、いつの間にか1名になってます。つまりひとり減ったわけですが、その人は拉致監禁から脱出したということなのでしょうか。それとも、そもそも拉致監禁ではなかったということなのでしょうか。

については、わかる範囲で書いておきます。
拉致監禁されていたのは事実ですが、その後脱会届けが統一教会に届き(あるいは脱会の意向が示され)、「拉致監禁者」ではなくなったということです。
当初の2名は神奈川県川崎市の女性教会員。現在の1名はカープの東北大学担当者(実家は奈良県)です。

とてもややこしいのは、拉致監禁されていた信者は脱会すると、手の平を返したように、「あれは拉致監禁ではなかった」と主張することです。

会ブログの「主な拉致監禁事例」 http://rachi.up.seesaa.net/html/kankin_list.htmlを読んでください。
ここにはもっと多くの最近事例が載っていましたが、強制説得によって脱会したにもかかわらず、「拉致監禁ではなかった。事例リストから削除してくれ」という要求が相次ぎ、会はその要求に応え、削除しています。私が提供した複数の事例も削除されてしまいました。

拉致監禁されていた証拠はあるのですから、私は削除要求に応じるべきではないと思っています。会がなぜ応じるのか理由はわかりません。おそらくブログ全体の削除要求がブログ提供サービス会社になされるのが嫌なのかもしれません。一度、ブログそのものが一方的に閉鎖されるということがありましたから・・・。復旧するのには相当のエネルギーを要したようです。

脱会者は実に卑怯だと思います。
拉致監禁されたときには救出を求めておいて、いざ脱会すると、拉致監禁ではなかった、リストを削除してくれというのですから。事実を隠そうとする姿勢は、脱会後の長い人生にとって決してプラスになることではないでしょう。

ただ、なかには脱会者ではなく、牧師など脱会説得者が脱会者を通して、削除要求してくるケースもあると思います。なぜなら、監禁事例リストには脱会説得者の名前が実例で載りますから。
もしそれが事実なら、脱会者もさることながら、牧師はさらに卑怯な人と言えます。

ちなみに、削除要求してきた脱会者を説得したのは、日本基督教団・枚方教会の豊田通信牧師、神戸真教会の高澤守牧師でした。この2人の牧師が削除要求に絡んでいると言っているわけではありません。誤解なぎようお願いいたします。

「拉致監禁をなくす会」についてあえて弁明しますが、会員には統一教会に批判的になった元信者もいますが、圧倒的多くは教会員です。それゆえ、市民組織としての運営、情報公開の仕方、公開された情報の説明といったことに全くもって慣れていないのです。だから、大目に見てあげて欲しいし、きちんとした市民組織として成長するために、外部からの進言・苦言をお願いします。会のブログのアドレスに投稿されれば、会員全員に流れるようになっているようですので、進言・苦言は無駄にはならないはずです。
私は知り合いの会員たちにいつも苦言を呈しています。
どうかよろしくお願いいたします。

人の話を聞くことについて(上)

 テーマは、なぜ、統一教会員の方々は「人の話を聞くことができないのか」についてです。これは、きわめて重要なテーマだと思っています。

 最初に一連のコメントを整理しておきます。
 私は「Re: 拉致監禁をなくす会のあり方」で次のように書きました。
「③教団として取り組むのであれば、監禁体験者の声にじっくり長時間耳を傾け、理解することが先決で、いまだ問題を抱えている信者がいれば具体的にサポートすることこそ、意義あることだ」

 これについて、クマさんは「人の話を聞く重要性」のタイトルで、次のような疑問を投げかけられました。
「なぜ、統一教会の人たちは人の話をじっくり聞くことができないのでしょうか?普通、世間一般の人は生活していく上で人の話を聞いて、考えて、行動していると思いますが、信者の人たちは人の話を聞くことに支障を生じるようなフィルターでもかかっているのかしら。」

 この疑問に元さんは「タイトルなし」でこう回答されました。
<自分で考えて判断して行動すると「サタン」だと言われます。(笑)>
 この回答に驚いたクマさんのコメントに、「思想統制」のタイトルで、自分の体験を綴られています。
<私は統一教会にいた当時、精神世界関連の本をよく読んでいたんですが、アベル(上司)から「本断食しなさい!」とか「本を焼いてしまえ!」とか言われました。(苦笑)
ナチスの焚書や共産主義国家の思想統制と同じです。
自分達(教会サイド)にとって都合の悪い情報は一切カットするのはカルトの特徴です>


 元さんの回答は、意図的ではないようですが、微妙にズレています。

 クマさんの質問は「なぜ、統一教会の人たちは人の話をじっくり聞くことができないのでしょうか?」でした。考えて行動する前の段階の行為についてであり、私も「監禁体験者の話をじっくり聞くことが先決だ」と書いています。

 元信者さんも現役信者さんも、なぜなのか、少しばかり考えてもらえませんか。

 なぜ、このテーマが重要であるか改めて気がつかされたのは、現役信者さんから個人メールをもらったからです。(続く) 

人の話を聞くことについて(下)

現役の信者さんからもらった個人メールは、以下の通りです。

<書きたいことは常にたくさんありますが、チラッと一言。
「一番重要なことは、長時間にわたって話を聞くこと」
そのとおりです。
しかし、統一教会というところにおいて、「ありのままに話を聞く」ということが、どんなに難しいか。時々、いろいろな場面で長時間にわたって話を聞いてもらえることもあります。
 が、たいがいの場合は、ずっと聞いた後に、「そうだね。でも、それはこれこれこういう意味があるんだよ」といった原理的分析と「意見」が待ってますよね。(^o^)
無条件に、人の話を聞いて、ただその人の心に共感するというのは難しいんです>

 
このあと個人的体験が綴られているのだけど、<無条件に自分の話を聞いて共感してもらえなければストレスはたまるだろうなあ>と、つい、ため息が出てしまいました。

「拉致監禁をなくす会」の小出代表に教えてもらった話を思い出しました。(拙著196頁、222頁参照)
 小出さんは監禁場所から統一教会に逃げ戻り、監禁時のことを必死に仲間に話したそうです。
「しかし、みんなは話は聞いてくれるのだけど、すぐに原理的に解釈して、それはこれこれこういうことだろうと解説する。ぼくの訴えにじっくり耳を貸さそうとはしないんですよ」

幹部を含め現役信者は統一原理の講釈師。講談師よろしく講釈はできても、無条件に、人の話を聞いて、ただその人の心に共感するということができないのだ。

だから、いつまで経っても、監禁体験者の心は癒されない。

小出さんは、監禁脱出後に合同結婚式で妻を娶り、幸せな家庭生活を送ることになったが、悪夢にうなされる日々は続き、ときに夜中、突然、起き上がり夢遊病者のように部屋の中を徘徊した。
「女房にビンタを張られてね。それで、起き上がって徘徊していたことに気づくんですよ」

小出さんが癒されたのは、統一教会によってではなく、解釈をはさまず、人の話をきちんとよく聞いてくれる宗教的団体の人と知り合ったからだ。

元さんだって、統一原理熱中時代があったと思いますが、そのときは共感力をもって、仲間の話にきちんと耳を傾けることができましたか。

再度繰り返すことになるのですが、
「③教団として取り組むのであれば、監禁体験者の声にじっくり長時間耳を傾け、理解することが先決で、いまだ問題を抱えている信者がいれば具体的にサポートすることこそ、意義あることだ」

 現役信者さんからメールをいただいたことによって、この課題を実行するのは、統一教会全体の思考スタイルを変革することにつながり、大きなため息が出るほどに、困難なことだと改めて悟った次第です。

傾聴の行

>元さんだって、統一原理熱中時代があったと思いますが、そのときは共感力をもって、仲間の話にきちんと耳を傾けることができましたか。

私の場合、基本的にしゃべるのは得意なんですが、人の話しを聞くのはもともと苦手でして、これは私の現在の課題でもあります。

私が統一原理の誤謬を確信し、脱会するきっかけになったルドルフ・シュタイナーはこのように言っています。

「自分とは正反対の意見が述べられる時にも、見当はずれな意見がまかり通る時にも、没批判的に傾聴する修行を積み重ねていく人は、次第に相手の本質的部分と融合し、同化することができるようになる。相手の言葉を聴く行為を通して相手の魂の中へ自己を移し入れる。」

統一教会の牧会者は、相手の話しを聞くというよりも、相手の心の中に巣くうサタンを原理で分別するという観点で臨みます。
よって上記のシュタイナーのスタンスとはまるで正反対です。
相手を理解しようとするのではなく、「分別」するのです。
これが、統一教会員が人の話しを聞けない最大の理由だと思います。

:元さんへ

 元さんへ。まるでコメントになっていません。
 これまでとは違って、別人格のようなコメントです。
 もう一度、シュタイナーの言葉を、この一連のコメントに照らし合わせて、吟味されてはどうでしょうか。

「自分とは正反対の意見が述べられる時にも、見当はずれな意見がまかり通る時にも、没批判的に傾聴する修行を積み重ねていく人は、次第に相手の本質的部分と融合し、同化することができるようになる。相手の言葉を聴く行為を通して相手の魂の中へ自己を移し入れる。」

 

「是々非々」だったのでは?

米本さん

お忙しいところコメントをありがとうございました。

しかし少々行き違いがあるようなので重ねてコメントいたします。

先の私のコメントにおける一番の主張点は以下の部分です。

<米本さんはWEB上には現れない情報ソースをお持ちなのかもしれませんが、そんなチャンネルを持たない私のような立場の者から見ると、この団体の発信する情報を鵜呑みにしていいのか、疑問に思います。(広い意味での)「ダミー組織」と見なすのが常識的な感覚ではないかと思うのですが。 >

つまり「なくす会」の情報ソースとしての信頼性の問題です。「なくす会」への苦言や疑問が主題ではありません(それが目的なら、そもそもこちらへではなく「なくす会」に直接連絡するべきでしょう)。

「なくす会」の主張点と被害者カウンターの数が合わない仕組みについては、遅まきながら合点がいきました。
しかしそれならば、何となく「なくす会」というのは「私はこんなに酷い目にあってきた」という個人的な怨嗟を発表するだけの集まりなのか、という別の疑念も湧いてくるのですが、長くなりますので、今はそれについてコメントを控えます。

それより首をかしげるのは、米本さんのコメントの以下の部分です。

<「拉致監禁をなくす会」についてあえて弁明しますが、会員には統一教会に批判的になった元信者もいますが、圧倒的多くは教会員です。それゆえ、市民組織としての運営、情報公開の仕方、公開された情報の説明といったことに全くもって慣れていないのです。だから、大目に見てあげて欲しいし、きちんとした市民組織として成長するために、外部からの進言・苦言をお願いします。>

私には「なくす会」を「きちんとした市民組織」にしていく義理はないのはもちろんですが、不慣れであるということをもって「大目に見てあげて欲しい」とする意見には納得できません。

(フォローがきちんとなされない点について「ブログ全体の削除要求がブログ提供サービス会社になされるのが嫌なのかも」とお書きですが、それならば提供会社を移動すれば良いだけの話であり、ちょっと勉強すればすぐに自前サーバーだって構築できますから、運動理念に関わることを歪めてまでブログを維持しなければならない理由にはならないだろうと思います)

不慣れであることを理由に「大目に見てあげ」て良いのなら、極端な話、そもそもこの元記事である「徳野元会長記者会見」のおかしさだって「大目に見てあげ」なくてはならなくなるでしょう。まさしく対外関係において「不慣れ」なのでしょうから。

ここにコメントされていた現役の方々の「問題発言」だって、まさしく「不慣れ」なのでしょうから、いくらズレていたとしても「大目に見てあげ」なくてはならなくなるはずです。

ここに意見を開陳される現役の方々のコメントや、伝え聞く統一教会の内情からすれば、彼らだって「わたしたちのやってることには大きな意義があるのだけれど、不慣れなもので法的なトラブルにまでなってしまいました」という(正当化以外のなにものでもない)言い分があるでしょう。やっぱり「大目に見てあげ」るべきなのですか?

ここに書き込まれる現役の方々も、また「なくす会」の方々も、ご自身の所属グループが組織的に展開されている違法行為についての話題はスルーされる傾向が強く見受けられます。そのことに言及すると「拉致監禁を容認している」などとレッテルを貼って。

私が「なくす会」の情報ソースとしての信頼性に疑いを持つのは、そうした「正当化」の様子が見て取れる(そしてフォロー情報がないことにも同様の問題を感じる)からですが、もしそれを不慣れであることをもって「大目に見てあげ」るのなら、更に極端な話、「拉致監禁」に踏み切る家族たちだってまさしく「不慣れ」なのでしょうから、やはり「大目に見てあげ」なくてはならなくなるのでは?

是々非々の立場を貫かれるのであれば、どんな事情があるにせよ「大目に見てあげ」るなんて余地を残すべきではないのでは、と考える次第ですが、いかがでしょうか。

末尾ながら、わたしのハンドルネームは「 う ぶ じ ぇ 」です。「 う ふ じ ぇ  」ではありません。本題とは関わりありませんから、別にどちらでも構いませんが、是々非々であることの実例のひとつとして。

再度、元さんへ

私は具体的に、「統一教会員さんが、人の話をじっくり聞くことがでないのはなぜか」と問い正したのです。
それに対して、元さんは「苦手だ」と具体的に応えることなく、芸術的教育では才あるシュタイナーの一節を紹介して終わりにする。
元さんは具体的に、「サタン」という言葉まで使って、統一教会のことを批判をする。
しかるに、自分が問い質されると、ヤマギシ会が大好きなシュタイナーの一節を何の前提・注釈もつけずに、そのまま引用して終わり。元さんが統一教会員に投げかけた言葉はそのまま自分に返ってくる。

「思考停止」(やな言葉だ!)

うぶじぇさんへ

再度の投稿、感謝なのですが、「大目に見て」という言葉を、デフォルメ的に解釈されてしまったようで、話がどんどん拡大解釈で広がっていっているような印象を受けました。
何度も読み返しましたが、何を言いたいのかわかりませんでした。
わたしの読解力のなさだと思うのですが、「うぶじぇ」さんの最初の投稿文を基本にして、再度、お互いに考えることにしませんか。

米本さんへ

人の話をじっくり聞くことはとても大切なことですね。私も反省すべき点は多々あり。耳が痛いところです。

ところで,元さんのことですが,彼は,昔違うHNで統一教会系のネットで良く発言をしていた人です。
昔から「人の話を聞けない」,「話が微妙にずれる」ということを多くの人から指摘されていました。

それでも,全然平気で発言を繰り返し,その結果,2,3年前にネットで大きなトラブルを起こした人物です。正確に言えば彼がトラブルを起こしたわけではないのですが,空気が読めないのに,他人のトラブルに関わって行き,事態を深刻にこじらせてしまった人物です。

ですから,彼は元々空気の読めない人なのです。ご参考までにお伝えしておきます。

同じ思いです

米本様

>現役信者さんからメールをいただい
>たことによって、この課題を実行す
>るのは、統一教会全体の思考スタイ
>ルを変革することにつながり、大き
>なため息が出るほどに、困難なこと
>だと改めて悟った次第です。

これにはつくづく共感します。

教会員は一つの価値観をもって、それを至上のものとしています。

それはそれで良いのですが、それですぐに全ての事柄を判定して、はい次はい次・・・と目まぐるしく処理することが癖になっています。

深く考えないんですね。

ですから、人の話もじっくり聞かないで、人が言っていることとまるで見当違いの事を言うのが、私が見ててもあまりにも多いです。

固定観念で判断しているので、まったく話がかみ合いません。

私がそうですから、一般の人はなおさらそうであろうと推察できます。

これが結局は、”思考停止”という批判に繋がっています。


これは何でだろうという・・・という事で私も色々考えていますが、

それに参考になる良書があります。

私のところでも紹介しているのですが、


キャロル・タブリス&エリオット・アロンソン 著
“なぜあの人はあやまちを認めないのか-言い訳と自己正当化の心理学-”
河出書房新社


これは自己正当化に関する心理学の本ですが、統一教会員は大なり小なり、自分たちの価値観を重視するあまり、過ち以外のところでも、この自己正当化的心理学的プレッシャーに晒されているのではないかと思っています(尤も、これは統一教会員だけの話ではないのですが)。

私はこの事を

>信仰が深まれば深まるほど、篤信と
>狂信の境目が狭くなる

と表現しています。

自分の価値観を尊重するあまりに、周りが見えなくなる現象と解しています。

教会員はまず、虚心坦懐になる事を学ばなければと思います。

では、はじめに戻ります

米本さん
再度のコメント、感謝します。またハンドルネームに関する細かい指摘にも応じていただいてありがとうございます。

「何を言いたいのかわからない」とのことです。それがわたしの文章力の問題か米本さんの読解力の問題かは、必要があれば検討するとして、ご提言に従い話題を最初に戻します。というか、もっとあからさまに書きます。

わたしが言いたいのは「拉致監禁をなくす会は統一教会のダミー組織と見なすべきではないのか」という一点に尽きます。

正直に言って、「拉致監禁をなくす会」が統一教会とは何の組織的関係もない市民組織であるとは、私には思えません。仮に当事者たちがそのつもりであっても、統一教会本部が下部組織と見なすだけの経緯があって発足したものではないのか、という疑いを持っています。

むしろ(米本さんが今回の記事で書いておられる通り)「涙ぐましい努力」をしなければ統一教会色が出てしまうほど密接な関係にある、というのが実態なのでしょう。

これまで回りくどい書き方をしてきたのは、米本さんの文章に<どうせ、反統一教会陣営は・・・「ダミー組織」と批判するに決まっている>とあるからです。批判や反感や疑問を表明するだけで反統一教会陣営と見なされるのではたまりませんので、これまでは読むことだけにしてきましたが、(注4)を読んで気が変わりました。

発信元がどこであれ「上からの意向」を受けて設立された疑いが払拭できない組織の訴えを、しかも「密接な関係にある(仮に組織的な関連がないとしても密接な利害関係はある)」という数々の状況証拠が出てくる中で、どうして「あえて弁明」までして「市民組織」と強弁されるのか、その根拠が私にはわかりません。

徳野会長は「信仰組織と市民組織との区別がまるで理解できてない」のではなく、「単に正直なだけ」なのではないか。それが、これまで読んできたところの(特に(注4)を読んで以降の)私の率直な印象です。

米本さんへ

トンチンカンなコメントをして申しわけありませんでした。m(_ _)m

頭を冷やして、しばらくコメントを控えさせて頂きます。

元さんへ

しばらくコメントを控えるなんて寂しいことを言わないでください。早とちりや誤読・誤解、また思い込みによる偏狭的な意見表明は誰にでもあることです。私のブログにもそのような箇所は多々あるのではないと思っています。

 元さんは元信者であり、伴侶は現役信者さん。そうした方の投稿は、すべてが肯首できるわけではないにしても、読者にとって大いに参考になっていると思っています。少なくとも、私は参考にさせていただています。
 これからの投稿も期待しています。よろしくお願いいたします。

うぶじぇさんへ

その1
わたしが言いたいのは「拉致監禁をなくす会は統一教会のダミー組織と見なすべきではないのか」という一点に尽きます。

これについてだけは、きちんと反論できます。すでに「統一教会考(4)と(5)のコメント欄で、ジャルジンさんに反論したことと重複しますが、「ダミー」とは実態がないのにさも実態があるかのように見せかけたものを意味します。

ダミーに関して、最近、新聞紙上で話題になったのは西松建設の政治団体です。この団体を捜査当局はダミー組織と認定し、小沢一郎さんの秘書を逮捕しました。ポイントは政治団体としての活動実態があるかどうかでした。

「拉致監禁をなくす会」はブログを立ち上げ、会則、会計、会員数を公表し、後藤監禁事件の不当性を訴えるビラ配りをしています。組織としての実態、また活動実態があるゆえに、統一教会のダミー組織と見なすことは決してできません。

ジャルジンさんにも忠告したことですが、他者を批判するときには言葉に厳密であるべきです。

その2
会が統一教会と密接な関係にあるのではという疑問を持たれても、「密接な関係」にないことを証明することはきわめて困難です。
映画『俺はやっていない』が話題になりましたが、痴漢の冤罪者が「痴漢をしていない」ことは証明するのは至難の技です。

私と同じ職業のあるライターは、冤罪を証明することができず、刑務所で10カ月間も暮らすことになりました。

「拉致監禁をなくす会」の中心メンバーは、私が『我らの不快な隣人』を書くにあたって取材した人たちです。このため、会設立の経緯、設立後の運営についてはかなり知っています。アドバイスしたことも何度かあります。
そのようなこともあって、会と教団とは「密接な関係」にあるどころか、教団は会のことをほとんど無視してきたことも知っています。(カテゴリ-の「ニュース」を参照)

最近、教団中枢も拉致監禁問題に取り組もうとしていますが、それは会とは関係のない動きです。ただ、拉致監禁のある意味で象徴としての後藤さん(会副代表)の事件には、教団もようやく注目するようになりましたが・・・。

もし、「密接な関係」があるとおっしゃるなら、具体的な事実を示してください。
事実の提示なく、たんなる憶測だけで語るのは、決して誠実な態度とは言えません。

会は、信者家族にブログを読んでもらいたいと希望しています。そのために、統一教会用語や統一教会的言い回しがあれば、統一教会と関係のある組織かと思われてしまう。そのために、誤解されないように、極力、一般の言葉で書くようにしてきた。
 それがどうして「密接な関係」にある証左と見てしまうのか。はっきり言って誤読です。

他者を批判するときは、事実をきちんと提示し、そして言葉は厳密に使うべきです。

その3
「是々非々だったのでは?」で、次のように書かれています。
何となく「なくす会」というのは「私はこんなに酷い目にあってきた」という個人的な怨嗟を発表するだけの集まりなのか、という別の疑念も湧いてくるのですが、長くなりますので、今はそれについてコメントを控えます。

怨嗟という表現にはひっかかりを覚えますが、怨嗟を体験に置き換えれば、「私はこんなに酷い目にあってきた」という個人的な体験を発表することは、会の活動の重要な柱になっています。
「別の疑念」というのは意味不明ですが、ブログの中心は「体験談」であり、掲示板は体験談が主軸になっています。

拙著を読まれたと思いますが、Ⅰ部とⅡ部の10章までは個人的な体験が綴られています。拙著のベースになったのは、資料として掲載している『現代』のルポです。その「個人的な体験」をもとにしたルポに、反統一教会陣営から陰に陽に批判が浴びせられるようになったので、このブログが誕生したというわけです。

拙著のⅠ部に登場した脱会者の証言は、たんなる怨嗟なのでしょうか。
そうだと思われるのなら、もう感受性の違いというしかありません。

Re:うぶじぇさんへ(その1)

米本さん
重ねての応答、感謝します。お忙しいところ、更に時間をとらせて恐縮です。

しかし、ここまで明確なズレを「感受性の違い」で片付けてしまうには、統一教会をめぐる「被害性」の実態は深刻に過ぎます。
かつて「一米本ファン」だった(今は判断を保留しています)私としては、ここで引き下がるわけにはいきません。
火の粉のひとつに過ぎない意見かもしれませんが、どうかお付き合いください。

とはいえ、少々無力感も覚えています。「言葉を厳密に」と心がければ表現が冗長となり「何が言いたいのかわからない」と言われる。
それならばと思い切って(それでも最低限の厳密さを心がけながらも)主張点をあからさまにすれば「言葉を厳密に」とお叱りを受ける。
ひょっとすると既に対話不能なお方になってしまわれたのか、との嘆きに引きずり込まれそうになります。
私のこの感覚については、後ほど改めて具体例を明示するとともに説明を試みます。

なお、厳密さと読みやすさの両立を目指す関係上、多少引用が前後する可能性がありますが、その点は「所詮アマチュア」ということで「大目に見てあげ」ていただけたら幸いです。
もちろん、批判やご指摘は甘受いたしますし、善処を心がけもいたします。


さて、「その1」について

<これについてだけは、きちんと反論できます。>

残念ながら、「きちんと反論でき」ていないと思います。

たとえば、実態は統一教会そのものであるのにボランティア団体を装って募金活動を繰り返すグループが存在しました。
この団体は確かに会則も会計も会員数もほぼ公表しなかったために問題が明らかになりやすかった。
しかし巧妙だった点は、その収益の大部分を統一教会(あるいはその関連団体)の活動に資する目的での募金活動であった一方で、一部を実在の福祉団体などに献金し、それで得た領収証を用いてそのグループの真正性の証拠と扱った点でした。
つまり、「活動の実態」は謳い文句通りではなかったにせよ、確かにあった。
(この点について、「厳密な事実関係の開示」を求められますか? わたしとしては「素人なので大目にみてください」と申し上げたい気持ちでいっぱいであり、同時に「むしろそれについての事実関係を取材することこそが米本さんの職業でしょ?」と申し上げたくなるのですが)

しかしこのグループのことを「ダミー団体」と呼ぶことに、何の差し支えがありますか。
謳い文句通りではないという限界はあっても、やはり立派な「活動の実態」だと言われますか。

私の一番最初の投稿である『「別組織」の不透明さ』では、それこそ「言葉の厳密さ」を期した(もう少しその詳細を後述します)ために冗長な表現にはなってしまいましたが「(広い意味での)『ダミー組織』と見なすのが常識的な感覚ではないかと思うのですが。」と書きました。
意図的なものではないと信じたいのですが、このコメントに対する米本さんからの直接の応答では、この点はスルーされてしまいました。
そこで、2回目の投稿である『「是々非々」だったのでは?』で、同文を引用しておきましたが、米本さんは更に応答の中で「何度も読み返しましたが、何を言いたいのかわかりませんでした。 」と書かれるばかりでした。
だから、3回目の投稿である『では、はじめに戻ります』で、もっとあからさまに「わたしが言いたいのは『拉致監禁をなくす会は統一教会のダミー組織と見なすべきではないのか』という一点に尽きます。」とまで書いたのです。
(そしたら「言葉は厳密に」ですから、素人としては先述のように「ぼやき」のひとつも呟きたくなるのです)

この募金活動団体を「ダミー組織」と呼ぶのは、「活動の実態」の有無だけを問題にする限り、確かに不当と言えるかもしれません。曲がりなりにも「活動の実態」はあるのですから。
しかし、「常識的な感覚」では「(広い意味での)『ダミー組織』」と呼んでも「不当」とは言われないだろうと思います。
この場合の「ダミー」とは「実態がないのにさも実態があるかのように見せかけたもの」だけではなく、「実態を誇張して喧伝するもの」の意味も含んでいるからです。

このことを私がわざわざ「(広い意味での)」とカッコ付きで表現したのは、それこそ「言葉の厳密さ」を期してのことでした。それが結局は「何が言いたいのかわからない」を経由して「他者を批判するときには言葉に厳密であるべきです。 」に落着する。

あえて挑発的に書きますが、「意図的なものではないと信じたい」という私の希望は、こうやって並べてみると非常にか細いものでしかないような気がしてきます。

話を戻しますが、「拉致監禁をなくす会は(広い意味での)ダミー組織と見なすべきではないか」という私の主張は、こうした「実態を誇張して喧伝するもの」という用法(通俗的かもしれないのは認めますが、常識感覚に即していると思います)に則ってのことです。
米本さんが「統一教会のダミー組織と見なすことは決してできません。」と重ねて強弁される根拠にあげられているのは、「ブログを立ち上げ、会則、会計、会員数を公表し、後藤監禁事件の不当性を訴えるビラ配りをしています。組織としての実態、また活動実態がある」ということですが、ここでは「その組織の活動が実質的に果たしている機能」までも視野におさめるべきではないのでしょうか(それこそ「是々非々」として)。
ここで言われる「ブログを立ち上げ、会則、会計、会員数を公表し、後藤監禁事件の不当性を訴えるビラ配りをしています。組織としての実態、また活動実態がある」については、先に例を挙げたかつて実在した「ダミー組織」が振りかざした領収証の更に手の込んだ類のものでないという証拠になるのですか。
(この点は「その2」で再度、もう少し詳細に触れます)

再び私の一番最初の投稿に戻って言えば、「米本さんはWEB上には現れない情報ソースをお持ちなのかもしれませんが、そんなチャンネルを持たない私のような立場の者から見ると、この団体の発信する情報を鵜呑みにしていいのか、疑問に思います。」としか言いようがないのです。

(この「WEB上には現れない情報ソース」については、「その2」でもう少し詳細にコメントします。既にずいぶん長くなりましたので、いったんここで投稿いたします)

うぶじぇさんへ

 私は歳を重ねるごとに、奥歯に物が挟まったような言い方するより、思ったことをズケズケ言うことを好むようになってきました。人からどう思われるのだろうかと気にするのはだんだん面倒になってきました。

そのため、誤解されることも多くなってきましたし、不快に思われることもたびたびあるようです。

もし、私のコメントで不快にならなれたことがあったら、どうかご寛恕ください。

さて、Re:うぶじぇさんへ(その1)を読みましたが、うぶじぇさんの主張はやはり無理筋です。

たとえば、「野の花会」とか「シンゼン」という団体。福祉団体に寄付するという名目で物品販売をしたり、寄付を集め
していた団体です。私は活動実態を取材したことはありませんが、ネット上の情報が正しければ、詐欺団体ではないかと思っています。

それはともかく、この団体を統一教会との関係を言えば、「統一教会のダミー組織」とはやはり言えません。正しくは「統一教会の資金集めをする別動隊」という言い方が正しいと思います。

うぶじぇさんの考え方を私なりに表現すれば、「拉致監禁をなくす会」は統一教会の別動隊、あるいは下部組織ではないか-といった表現になるのではないかと思います。

しかし、そのように思われる根拠があれば、やはり具体的な事実を示す必要があります。そうでなければ、たんなるレッテル貼りになってしまいます。

「拉致監禁をなくす会」は、私が見聞したところによれば、統一教会とは何の関係もない組織だとは断言できますが、世間から別動隊とか下部組織とか思われないように、燐とした活動が求められてるのだと思っています。

目下の喫緊の課題は、いま現在監禁中のカープメンバーにどう対応するかですが、私が知るところ、統一教会やカープはまあ知らん顔。「拉致監禁をなくす会」のメンバーは必死になって何とかしようと動いていますが。

実に哀しいというか腹が立つ話なのです。 

Re:うぶじぇさんへ(その2)

米本さん
私のような「素人の文章」を読まれるのは苦痛であろうと想像します。しかし、ここで述べる「事情」がありますので、もうしばらくの辛抱をお願いいたします。

・・・と、ここまで書いて『統一教会の緊急記者会見についてのコメント(6)』がアップされているのを発見しました。早速読みましたところ、米本さんがそこで表明されている批判は、私が(注4)を読んで抱いた感覚と極めて近いように感じました。「まだ話は通じるかも」との希望を捨てないように心がけたい、と改めて思いました。


「その2」について

<会が統一教会と密接な関係にあるのではという疑問を持たれても、「密接な関係」にないことを証明することはきわめて困難です。>

「無の証明」の困難は当然だと思います。だからこそ「本気で取り組む気があるの?」(私の『「別組織」の不透明さ』より)という素人の疑念を大事にするべきではないかと思います。そしてその「本気度」は、仮に「なくす会」が「ダミー組織」に過ぎなかったとしても、そういう事実を差し置いて評価される指標になりうると考えます。

(ところで、米本さんはここで痴漢冤罪の問題を例にひかれておりますが、不適切だと思います。法廷での判断が絶対無謬でないことを差し引いても、統一教会による違法(および犯罪)行為の蓄積はもはや再検討の余地がないほど明らかだからです。「そんな団体のメンバーがやることなのだから」と色眼鏡で見られるのは当然、というよりむしろ必要不可欠な通過儀礼なのでは?と素朴に考える次第です)

私が先の『Re:うぶじぇさんへ(その1)』で書いた「かつて実在した『ダミー組織』が振りかざした領収証の更に手の込んだ類のものでないという証拠になるのですか」についてですが、私は別に「証明」を求めているわけではないです(そう読める書き方にとどまっていることは認めます)。上に書いた「本気度」は、「その組織の活動が実質的に果たしている機能」(私の『Re:うぶじぇさんへ(その1)』より)で十分に測ることができると考えるからです。

その名称通り、本気で「拉致監禁をなくす」ことを目指すのなら、「拉致監禁」事件の背後に厳然としてある統一教会の違法(および犯罪)行為への自己批判と責任追及と事態改善への努力をして然るべきでしょう(ところが、これまでのところこの問題に言及した人は「拉致監禁容認者」と非難するだけの対応に終始しているようにしか見えません)。また、「拉致監禁」と思われたがそうではなかった(あるいは当事者が「拉致監禁」の訴えを取り下げた)事例についても正直に報告して然るべきでしょう(ところが、実際には単なる数字の表示と2クリックを要する追加・訂正情報のない「お知らせ」があるのみです)。そして、今回の「徳野会見」にビラが利用されたことについての批判・反論声明が出されて然るべきでしょう(私の見たところ、その問題を指摘した米本さんの記事が出されてかなり経過しているにも関わらず、まだないようです)。これまでこのブログのコメント欄に書き込まれた意見である「腹を切ってでも」(は、個人的には賛同しかねますが)という覚悟で、組織的な違法・脱法をなくす気合いの見えない統一教会組織を自主的に脱会するくらいは当然でしょう(「その組織に所属していないと信仰が保てない」というなら話は違ってきます。その場合の焦点は「信仰」ではなく「依存」の問題です)。私の見る限り、このブログでは辛うじて幽霊食口さんが、この点について自覚的な現役さんですね。

こういう動きが、少なくとも「WEB上に現れない情報ソース」を持たない私には、全く見られない。そして事実としては、教団中枢部が無頓着にビラを配布するなど「下部組織も同然」の扱いを受けていながら、沈黙している(確か、「沈黙は腹ふくるる技なり」でしたね?)。「その組織の活動が実質的に果たしている機能」としては、「仮に当事者たちがそのつもりであっても、統一教会本部が下部組織と見なすだけの経緯があって発足したものではないのか」(私の『では、はじめに戻ります』より)という疑念をかき立てるのに十分な「状況証拠」(同じく私の『では、はじめに戻ります』より)と見なして、何の問題がありますか? 仮に私の誤読であるとして、それは私に責任のあることですか? これでも私なりに「言葉の厳密さ」を期して「見なす」という表現を心がけてきたのですが。


私は、米本さんの「WEB上に現れない情報ソース」に相当するものとして、以下の文を読みました。

<「拉致監禁をなくす会」の中心メンバーは、私が『我らの不快な隣人』を書くにあたって取材した人たちです。このため、会設立の経緯、設立後の運営についてはかなり知っています。アドバイスしたことも何度かあります。 >

つまり「当事者たちの直接証言をもって信用する」という趣旨と理解します(違っていたらご指摘ください)。

それが証拠として通用するとお考えなら、この投稿の冒頭で予告したこちらの「事情」も、かなりの正当性を持つものだということが理解されると思います。

統一教会の違法行為により、取り返しのつかないダメージを被った一家があります。私の具体的な知人です。特定されることを避けるため詳細は書きませんが、その一家の一員が統一教会のメンバーになったことが全ての始まりでした。
その「取り返しのつかないダメージ」を償うため、その人は自らの意志で統一教会を脱会しました(つまり「拉致監禁」などではあり得ません)。もちろん「取り返しがつかないダメージ」である以上、脱会は償いにはなりません。そのことを、その人自身も十分理解し、それでも家族に誠意を示すために、ご自身の意志で脱会を決断され、あるいは主観的なものに過ぎないとしても「償いの日々」を今でも送っています。

決して償いにはなり得ないとしても、私にはこの人の「本気度」を十分に理解することができました。

この家族に対する私の立場は、極めて利害関係の薄い「第三者」でしかありません。ご家族やご本人の苦悩の一部すらも共感できていないのだろうし、する資格すらないのだろうと思います。そういう「ひょっとしたら不快だったかもしれない隣人」に過ぎないわたしですが、米本さんが『人の話を聞くことについて(下)』に述べておられる所を(敢えて文脈を無視して一部だけ)引用して言いますが、「体験者の声にじっくり長時間耳を傾け、理解することが先決」とばかり考えていました(それを達成できたか、貫徹できたかと問われれば、「そんなこと誰にできるもんか!」としか答えられませんが)。

敢えて冷酷な書き方をすれば、「拉致監禁」が事実だとして、それは「被害者」を自称する人々が「好きで選んだ道」に派生した結果のひとつに過ぎないと言い切ることが可能でしょう。「その3」で書くべきことを少々先取りしてしまいますが、私が意図して「個人的な怨嗟」と揶揄的に書いたのは、「なくす会」の「活動の実態」が「好きでもないのに巻き込まれた」人たちの被害性を軽視する教団中枢部を利する機能しか果たしていないからです(これだけが理由ではないので、「その3」において改めて言及します)。

なお私を(そんな資格があるとは言えないにも関わらず)怒らせたのは、米本さんの追記された(注4)でした。私は今回の記者会見に「(仮に不十分ではあっても)統一教会にもようやく自浄の芽生えが生じたのか」という期待を一瞬抱いたからです。でも結局、「上からの指示」に従ったまでのこととしか見なせないものにとどまった。期待した自分が「バカそのもの、社会オンチ、マスコミ音痴、脳味噌がナメクジ状態」と感じられた次第です。

米本さん、こうも書かれましたね。
<「密接な関係」があるとおっしゃるなら、具体的な事実を示してください。事実の提示なく、たんなる憶測だけで語るのは、決して誠実な態度とは言えません。>

「無の証明」が困難なのと同じく、「有の証明」も非常に困難です(既読かもしれませんが、PHP新書の『なぜ宇宙人は地球に来ない?』の第8章をご参照ください)。同じ論法に従えば「『密接な関係』がないとおっしゃるなら、具体的な事実を示してください」と反論することが、私にも可能なはずです(そして既に指摘した通り、米本さんが挙げられた例は役に立つ「具体的な事実」にはなっていません)。

そして、こうも書かれた。
<事実の提示なく、たんなる憶測だけで語るのは、決して誠実な態度とは言えません。>

正直言って「ファンであることを保留しよう」と思った一文でした。米本さんが「デフォルメ的に解釈されてしまったようで、話がどんどん拡大解釈で広がっていっているような印象」を受けたとされる私の『「是々非々」だったのでは?』の一文は、この時の失望を私なりに表現しようとしたものでした(「不慣れ」ゆえ結果は無惨でしたが)。「デフォルメ的」を意図したのは、米本さんが『Re: 「別組織」の不透明さ』において、既に特定個人の実名を挙げつつ以下のように書かれていたからです。

<ただ、なかには脱会者ではなく、牧師など脱会説得者が脱会者を通して、削除要求してくるケースもあると思います。なぜなら、監禁事例リストには脱会説得者の名前が実例で載りますから。
もしそれが事実なら、脱会者もさることながら、牧師はさらに卑怯な人と言えます。>

もっとも、そのすぐ後で「この2人の牧師が削除要求に絡んでいると言っているわけではありません。誤解なぎようお願いいたします。 」と書かれていますが、素人のわたしとしては「これがプロのエクスキューズテクニックか」と感嘆する他なかった次第です。

この点については、もうこれ以上全くコメントを挟みません。ご自身の以下の言葉を熟読玩味していただきたい。

<元さんが統一教会員に投げかけた言葉はそのまま自分に返ってくる。

「思考停止」(やな言葉だ!) >(『再度、元さんへ』より)


(既に十分長くなりましたので、続きは改めて後ほど投稿いたします)

米本さんへ

『Re:うぶじぇさんへ(その2)』の投稿と入れ違いでコメントを読ませていただきました。

基本的に、このたびの投稿で書いたことを覆す理由を見つけるに至りませんでした。

今回の投稿を読まれ、そしてなお「具体的な事実を示す必要」を感じられるのでしたら、そのときは「感受性の違い」と諦めるかどうかを考えます。

米本さんへ

もったいないお言葉、ありがとうございます。m(_ _)m

お言葉に甘えて、これからも投稿させて頂きます。

ただ、時々ブレーキとウィンカーが壊れる事があるので、その時は遠慮無く指摘して下さい。

Re:うぶじぇさんへ(その3)

米本さん

書いている私自身がうんざりするほどの長文を連続投稿する失礼をお詫びします。長文連打は(一応)これを最後にするつもりです。これを読まれてもなお「無理筋」「たんなるレッテル貼り」とされるのであれば、もう「感受性の違い」として諦めるしかありませんから。

しかし私の意見が「火の粉」のひとつに過ぎないとしても、振り払う責任は米本さんご自身にある、と私は思い定めることにしました。

というのは、入れ違いで発表されたコメントには以下のように書かれていたからです。

 <うぶじぇさんの考え方を私なりに表現すれば、「拉致監禁をなくす会」は統一教会の別動隊、あるいは下部組織ではないか-といった表現になるのではないかと思います。 >

未だに「まさか」と思いながら書くのですが、米本さんが主張されていた「言葉の厳密さ」というのは、この程度の次元のことだったのですか? 私が素人ながら「(広い意味での)ダミー組織」と「見なす」のが「常識的な感覚」と、知恵を尽くして「言葉の厳密さ」に配慮してきた努力の見当違いさ加減に目眩がする思いです。

「ダミー組織」(厳密には、私はわざわざ意識して「(広い意味での)ダミー組織」と「見なす」と断り続けてきたのですが!)という表現と「統一教会の別動隊、あるいは下部組織」という表現にどれだけ質的な差があるのか、不勉強で申し訳ない限りですが、正直なところわかりません。もしそのような言い換えで話が通じるのなら、私にはそう理解されて困る事情は何もありません。どちらにしろ「本当の目的を偽装している(あるいは意図しなくてもそういう機能を果たしている)」集団を「(広い意味での)ダミー組織」と「見な」したところで、違いはないと思いますから。

なんだかここ10年で一番驚かされる体験をしたような気がします。

もっとも、その米本さんのコメントは私の側の「事情」を説明した『Re:うぶじぇさんへ(その2)』を投稿する以前のものですから、私の側に感情的な混乱が起こっている可能性はあります。『(その2)』とこの『(その3)』をお読みになってからの米本さんのコメントを読むまでなるべく最終的な判断は保留しますが、目下の所「ひょっとしたら不快だったかもしれない隣人」としては、「拉致監禁」の「被害」に逢われた方々に対して「お気の毒ですが、自業自得です」以上のことを言う気になれないでいます。


「その3」について

<怨嗟という表現にはひっかかりを覚えますが、怨嗟を体験に置き換えれば、「私はこんなに酷い目にあってきた」という個人的な体験を発表することは、会の活動の重要な柱になっています。
「別の疑念」というのは意味不明ですが、ブログの中心は「体験談」であり、掲示板は体験談が主軸になっています。>

「個人的な怨嗟」という表現については説明したので繰り返しません。「個人的な体験を発表することは、会の活動の重要な柱になっています」というのも、むろん了解しています。

私は「個人的な怨嗟を発表するだけの集まりなのか、という別の疑念も湧いてくる」と書きましたが、意味が通じなかったようです。もっと言葉を尽くして言い換えるなら、「『拉致監禁をなくす』というスローガンは単なるテクニカルタームに過ぎず、個人的な怨嗟を発表するだけが目的で集まっただけの、本当は『拉致監禁をなくす』ための努力なんか具体的にはこれっぽっちもするつもりのない『ナカヨシクラブ』的な集団に過ぎないのか」という「別の疑念」を説明したつもりでした。

それについても、先の『Re:うぶじぇさんへ(その2)』において「本気度」という表現で説明したつもりですが、それでもなおそれらが説明になっていなかったとすれば、それは私の側の落ち度です。

そこで、くどくなるのを承知で、先の「ひょっとしたら不快だったかもしれない隣人」という立場としての「事情」を踏まえ、しかも敢えて冷酷に突き放して説明し直せば、以下のようになります。

+++

そもそもの「疑念」。

「拉致監禁」という「被害」を主張される人々の言い分は、「好きでもないのに巻き込まれた」立場からすれば、自分自身の責任において「好きで選んだ道」に派生した現象に巻き込まれた人々の言い分であるに過ぎない。「好きでもないのに巻き込まれた」立場からすれば「自業自得」と切って捨てる余地がまだ残る。そればかりか、「好きでもないのに巻き込まれた」立場の被害性を軽視する統一教会中枢部を利するだけの機能しか事実上果たしていない。その意味では、当事者たちにそのつもりがなくても、「統一教会の正当性を補強しようと試みるために、しかもその目的を秘匿して設立された、統一教会の別動隊、あるいは下部組織」に等しいと見なされても仕方がない。そうではない可能性を示唆する動きもまた事実上観察されない現状が続いている点に鑑みれば、あるいは事実としても「統一教会の正当性を補強しようと試みるために、しかもその目的を秘匿して設立された、統一教会の別動隊、あるいは下部組織」というべき実態があるのではないか。


そして「別の疑念」。

「拉致監禁をなくす会」は、自分たちの主張がどんな効果を発揮するかをそもそも問わず、自身で選び取った行動に伴う責任の延長上において招いた事態について、その「被害」性を訴えることをもって責任転嫁を図り自己満足することのみを目指して結成された任意団体に過ぎないのではないか。現状では、自身の「被害」性を主張する以上の行動が伴わず、他者の「被害」の実態や可能性については自身の「被害」性の主張の傍証として喧伝するのみという実情が続いており、そもそも「拉致監禁」が引き起こされる原因や背景に対し抜本的な対策に取り組む姿勢を示唆する動きは、街頭演説やビラの配布などを通じてそのスローガンを主張することの他には観察されていない。それは、「拉致監禁をなくす会」の結成目的が上記の通り「自己満足」に他ならないからであり、だから新たな「被害」を解消もしくは予防するための具体的な活動が自発的・積極的には展開されない実情が続いており、しかもスローガンに標榜された活動理念に反する動きに利用されているも同然の扱いを受けながら沈黙したままでいられるのではないか。

+++


(しかし「私の側の落ち度」を差し引いても、「個人的な怨嗟を発表するだけの集まりなのか、という別の疑念も湧いてくる」と表現したものを、どうして米本さんは「たんなる怨嗟」と省略されたのか、疑問に思います。)

訂正と謝罪と自己批判

米本さん

推敲が不十分なまま投稿してしまい、訂正を要する箇所を発見しました。

「(その2)」の以下の部分です。

<正直言って「ファンであることを保留しよう」と思った一文でした。米本さんが「デフォルメ的に解釈されてしまったようで、話がどんどん拡大解釈で広がっていっているような印象」を受けたとされる私の『「是々非々」だったのでは?』の一文は、この時の失望を私なりに表現しようとしたものでした(「不慣れ」ゆえ結果は無惨でしたが)。「デフォルメ的」を意図したのは、米本さんが『Re: 「別組織」の不透明さ』において、既に特定個人の実名を挙げつつ以下のように書かれていたからです。 >

これでは、時系列に沿って事実と異なる表現になってしまっていることに気付かないまま投稿してしまいました。

上記引用文中の以下の部分、
<米本さんが「デフォルメ的に解釈されてしまったようで、話がどんどん拡大解釈で広がっていっているような印象」を受けたとされる私の『「是々非々」だったのでは?』の一文は、この時の失望を私なりに表現しようとしたものでした(「不慣れ」ゆえ結果は無惨でしたが)。>
は、本来その2段落後の
<素人のわたしとしては「これがプロのエクスキューズテクニックか」と感嘆する他なかった次第です。>
の後に配する意図で書いた文章でした。

言い訳にしかなりませんが、「デフォルメ的」な表現は確かに私が意図的にそう書いたのであり、それは
<もしそれが事実なら、脱会者もさることながら、牧師はさらに卑怯な人と言えます。>
という憶測の域を出ない論評を
<この2人の牧師が削除要求に絡んでいると言っているわけではありません。誤解なぎようお願いいたします。>
というエクスキューズ付きで書かれていることに反感を覚えたからでした。

このあたり、自分でも「表現が冗長すぎる」と感じて数度の推敲を試みたところであり、文章の入れ替えを実施したのですが、不完全なままでした。コピペを繰り返しているうちに混乱した順序に落ち着けてしまいました。

その後も、その「反感」の印象だけが強く残ったままでしたので、何度か見直していたにも関わらず、配置ミスを見逃してしまったようです。

謹んでお詫び申し上げます。

振り返って考えると、やはり私には統一教会に対する怒りが強くあるようです。そのために、しばしば客観性を見失う傾向があるようです。

これまで長々と書き連ねてきましたが、そういう傾向を持つ者が書いた文章であることを割り引いて読んでいただいて差し支えありません。そして、必要な点は遠慮なくご指摘・ご批判いただければと思います。

重ね重ね、失礼いたしました。

米本様へ
>これは、統一教会が作成したものではなく、統一教会とは何の組織的関係もない市民組織「拉致監禁をなくす会」のビラなのである

米本様が、反統一教会側の「拉致監禁」の実態に対して批判をされている立場から「拉致監禁をなくす会」を擁護するのはわかりますが、大半の一般人の感覚からは、うぶじぇの言われる統一教会のダミー組織と見なされても仕方がないと思います。ただ、今ここで、どちらかを論争しても切りが付かず、お互いに時間を奪われ、疲れるだけですので、しばらくは彼らの自主的な活動を見守れば良いと思います。

お詫びと訂正 

お詫びと訂正です。

うぶじぇさんに大変失礼しました。
不慣れな者ですので、間違えました。
「うぶじぇの言われる」と表現してしまいましたが、「うぶじぇさんの言われる」に訂正します。申し訳ありませんでした。

瞳さんへ

「うぶじぇさんへ」のタイトルで、ダミー組織と表現することの間違いはすでに指摘しています。また、「ジャルジンさんへ」でも、書いています。
どうか2つのコメント、また国語辞書などで「ダミー」の意味を調べてください。

UCに反論する資格なし

幹部に組織論など全く無いと書いてありますが、本当です。馬○といってもよいほど有りません。運動論もありません。文某おじさんの摂理だけがあるのです。しかもその摂理は完全に破綻しています。ですから何も社会によい影響を与えるはずはありません。平和、平和と自己正当化のために行っていますが、平和の何もしていません。本当の本音は国家主権奪取に有ります。しかし安心してください。彼らは驚くほどカバだから方法論的に絶対できません。二世の諸君は絶対に組織には入らないように。何も成長はありません。絶望するだけです。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://yonemoto.blog63.fc2.com/tb.php/88-e786847c