徳野執行部に告ぐ! 

記事復刻シリ-ズ(9)

 教団の元会長・神山威氏の葬儀のことで話が飛んでしまった。記事復刻シリ-ズに戻す。総括である。

界平和統一家庭連合(旧統一教会)が「火の粉ブログ」記事について、ブログサ-ビス会社に記事の削除を要求。小生も弁護士に相談し、その要求を認め、記事削除に応じた。
 この問題の核心については、すでに「なぜアベル(公職者)はアホばかりなのか」 「記事削除要求はバカ丸出し(恥ッ)」 などで詳述したので繰り返さないが、お馬鹿で無知なシックのために一言だけ述べておく。

 最近亡くなられた野村健二さんの著作は、「思想又は感情を創作的に表現したもの」である。
 おそらく、いくらなんでも統一教会が大ッ嫌いな浅見定雄さんや山口広さんでも認めるはず。
 では、統一教会本部が下部に流す通知文(彼らの用語・宇宙語では「公文」)は、「「思想又は感情を創作的に表現したもの」と言えるかどうか。

 いくら嫌米な信者(たとえば「神様大好き」とか「屁の粉を払え」とか)であっても、「えっ、この連絡文は『思想又は感情を創作的に表現したもの』!??」、と素っ頓狂な声を上げるだろう。

 ところが、著作権侵害の裁判事例の傾向では、報告の類の文であっても、「著作性あり」と認定されている。ここでこのことに異を唱えれば論点がズレていくので、言及しない。

一教会(現家庭連合)は、2015年1月7日に「件名:米本和広氏のブログに対する教会の対応について】 の公文を流した。それにもかかわらず、公文や内部の案内文などが火の粉に次々と流出する。

 たまりかねた視野狭窄で、おバカな韓国人幹部が「なんとかせいや!」
「著作権侵害で火の粉の記事を削除することは可能です」
 こう徳野執行部の面々に提言したのは、近藤徳茂・新法務局長だろう。

<注>削除された記事から教団がどんな内容のものを嫌がるのか、分析できる。
 私も一時はそう考えたのだが、正しくないことが分かった。すでに理解されていると思うが、削除要求した記事は、いずれも著作権侵害(全文引用、あるいは写真の出典なし)に該当するものばかり。
 それゆえ、この分析方法は正しくない。
 教団がとりわけ削除したいのは、次の記事群だと推測している。
http://yonemoto.blog63.fc2.com/category27-1.html(文家娘の恋愛結婚とお母様)
 この中でも、「鶴の心模様」と表現した4つの記事だろう。
 いま彼らが消したいのは、鶴&郭の記事のはず。

は大きくそれる。近藤さんのことである。
 近藤さんには取材で大変世話になった。誇張した言い方になるが、彼がいなければ水面下で行なわれていた拉致監禁の実態を十全に暴くことはできなかった。たくさんの拉致監禁体験者に出会えたのは彼のおかげもあるのだから。
 このサイトの右サイドに載せている『哀しみの神』の著者新井俊介さん(『不快な隣人』のプロロ-グに登場する)を紹介してくれたのは、近藤さんである。(懐かしいなぁ)

 それにもかかわらず、近藤さんのことは活字にしたことはなかった。表に出されることを極端に嫌がっていたからだ。
 その理由は、彼が司法試験の勉強をしていたことにある。統一教会員であることが知れた場合、司法試験の合否にどれだけ関係するのか分からないが、まぁプラスになることはないだろう。
 それゆえ、これまで彼のことには言及しなかった。カンオフ(完全オフレコ)を貫ぬいてきた。
 余談だが、教団は彼の司法試験合格をサポ-トしていた。理由は顧問弁護士の福本修也氏や依頼してきたヤメ検弁護士の料金が高く、自前の弁護士を持ちたかったのだと穿つ。
 
 鴨野さんが私の介護帰省のための送別会を開いてくれ、高級献金寿司をごちそうしてくれたことや、ある拉致監禁体験者(現役信者)がカラオケでヨイトマケの歌を歌ったことなどもオフレコの部類に入るだろうが、
(後の事例は入る? でも彼はプリプリ。小生がある事柄について絶対オフレコをいまだ守っていることを自覚できていない。感情中心主義者だな)
それとはレベルが違う話である。

 しかし、今回オフレコ破りをするのは、火の粉攻撃(著作権侵害うんぬん)のこともあるが、近藤さんのことが公になっていることを知ったからだ。つまり、守秘義務は解除されていたのである。(以下のサイトを、彼は削除要求していない)

「近藤徳茂 Norishige Kondo」 
「30000双家庭会公式サイト28991人目の訪問です」

 これまた余談になるが、彼は弁護士資格の取得を断念したのであろう。だから、法務局長の職を-おそらく喜んで-引き受けた。局長手当てが入る!
 しかしながら、10数人にいた法務局の職員の中で、局長昇進に近い人(近藤さんの上司)は数人いた。それなのに、どうして近藤さん?
 近藤さんが法務局長になったことを伝える小生のブログを読んだ、ある本部周辺の事情通は素っ頓狂な声を上げた。
「え!近藤さんが? ●▲さんじゃないの?」

<注>どうして2階級特進で行政書士の資格をもつ近藤氏が局長になったのか。いろいろ穿つ。 むろん、献金に絡むことだが。
 ところで、守秘義務が解除されたと最初に思ったのは、後藤裁判の東京高裁勝訴集会で、彼がマイクを握った姿を録画で見たときである。平然と、得意そうにしゃべっていた。ショックを覚えた。あれ程、内緒にしてあげていたのに!!
(どういうわけか、今見たら、サイト上の録画は削除されていた)
 まだ何人かの原理・命の人たちとのオフレコ約束は守っているつもりだが、もうどうでもいい?って感じですかねえ?


を大きく元に戻す。
 火の粉記事に問題があれば、私に直接言うべきである。
 1800双というか断食芸人というか、井口(いのぐち)康雄氏を批判する記事を書いたが、彼の抗議を受けて、削除した。記事の正しさの裏付けを十全に取ることができなかったからだ。
 6000双の徳野氏を批判する記事を書いたが、彼の代理人、教団顧問弁護士の福本さんの抗議を受けて、弁護士と相談した結果、記事を修正した。
 鴨野氏からの要求にも、ほぼ応じてきたはず。義理人情ではなく、真っ当なものだと判断できたからだ。

 すなわち、筋が通った要求なら、私は誠実に対応している。理不尽なら、どんなに執拗に迫られてもnoである。

 徳野執行部の面々よ!少しはまともになりなよ。ここは地球!!!、原理星ではないのだから。

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-「屁と神」が好きという変な女シックさんへ-


 神様大好きこと、ちえねここと、浦和北教会の土橋智英子さんは、次の記事を読んでいないと思う。
「記事復刻-教団本部はテレビ通販がお好き(^ω^ ≡ ^ω^) 」。末尾の囲み記事である。
 しばらくしたら、対処するつもりです。でも、あまりにもレベルが低くく・・・こっちの身体が臭くなりそっ

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コメント

行動を決定する思想

>「著作権侵害で火の粉の記事を削除することは可能です」
 こう徳野執行部の面々に提言したのは、近藤徳茂・新法務局長だろう。


 宗教団体の起こす行動は基本的にその宗教思想から動機を発見することができます。
それは統一教団の場合も例外ではありません。
 米本さんは多くの統一教団の幹部たちと交流をもっていたため、「為に生きる」「原理にしたがって」などの言葉を多く聞くことになり、それらの考えが統一信者の宗教思想に含まれていると思うようになります。
しかし、そこには大きな落とし穴があったのです。
 即ち、統一信者の語る教団用語は 言葉そのものは一般人が使う普通の言葉と同じだったとしても、教団内部では全く異なる意味で使われる場合が多いのです。
 「為に生きる」も一般人がその言葉から連想するのは「多くの人達の為に生きる」「世界全体、国全体の為に生きる」などですが、統一信者の場合は少し異なるのです。
 統一信者の場合、正確には「(宗教的)上位者の為に生きる」という意味でその言葉を解釈しており、「世の中の貧しい人達の為に生きる」などとは間違っても考えないのです。
 文教祖は1974年に当時の福田大蔵大臣などを招き、東京で「希望の日晩餐会」を開催しましたが、そこで「為に生きる」をテーマに講演しています。
 しかし、その内容を改めて分析してみますと、話には理に適っていない内容が多く含まれているのがわかるのです。
 その講演は著名人を集めて行われたものなので、一般人に受け入れられる内容のみ話していますが、それでも「為に生きる」の解釈などが一般人とは異なるものになっているのです。
 文教祖はその講演の中で「為に存在する」を何度も繰り返し語っていますが、一見原理講論の創造原理の内容を語っているようでありながら、よく注意して聞き返してみると、原理講論からズレた内容となっているのです。
 文教祖は自己を中心としてはならないという意味で「為に生き」なければならないと語っており、自己のすべてを犠牲にして他の為に尽くした時にその人は聖人となり、人々の中で中心者になると語っています。
 また個人は家庭の為、家庭は氏族の為、氏族は民族‥、民族は国家‥、国家は世界…というように話をつなげ、個人は全てを犠牲にして「為に生き」なければならないと話していました。
 そして何故そのようにせねばならないかという理由として、この世のすべての存在は相対関係で成り立っており、人間も同じで、男は女の為、女は男の為に存在していると語っていたのです。
 つまり、すべての存在は他者のために尽くさねばならないようにできており、個人が全てを犠牲にして「為に生き」た時に理想的な世界が実現されるという考えを主張していたのです。

 そこに集められていたのは主に政治家ですから、たとえつまらぬことを語っていると思ったとしても‘選挙の応援者’に対し、悪いことなど言うはずがありません。
 『馬鹿の壁』に閉ざされた統一信者は福田大蔵大臣(当時)が文教祖を偉大な指導者として認めたなどと本気で思っているようですが、実際はその言っていることのおかしさに福田氏は気付いていたのではないかと思います。

 常識的に考えて、よい相対関係とはバランスが取れて調和した関係です。
 夫婦における男と女の関係も元々が共存し、調和した関係であり、夫が妻の為に全てを犠牲にし、捧げ尽くそうなどと考えずとも、お互いを尊重し合えば十分理想的な愛は完成できます。
 また個と全体の関係も同じく調和関係が理想であり、個が全てを犠牲にして全体の為に尽くすというのは全体主義の考え方であり、それによって理想的な社会が建設できないことぐらい歴史を学んだ人なら誰でもわかります。
 原理講論ではその調和関係を「原理」として述べており、「すべての存在は二重目的を持つ連体である」との説明で、常識的な考えに合致した内容になっています。
 残念ながら文教祖は劉孝元氏が書いた原理講論をよく理解できていなかったのです。 
 そうでなければ、実際はまったく違った思想を持っていたということになります。
 文氏はとにかく、人々に全てを犠牲にして奉仕させることを望んでいたようで、そのようにさせるためには間違いであろうがお構いなしに屁理屈を語っていたのです。

 米本さんが問題にしている近藤徳茂・新法務局長は原理講論ではなく、文教祖の考えに忠実な人なのです。
 彼からすれば「真の父母」と教団の「為に生きる」ことが「絶対善」ですから、米本さんとの‘信頼関係’などいざとなれば躊躇なく犠牲にできるのです。

Re: 行動を決定する思想(1)

>米本さんは多くの統一教団の幹部たちと交流をもっていたため、「為に生きる」「原理にしたがって」などの言葉を多く聞くことになり、それらの考えが統一信者の宗教思想に含まれていると思うようになります。
しかし、そこには大きな落とし穴があったのです。

 いつもていねいな投稿をいただいている神々の黄昏さんには申し訳ないのですが、こと私のことに関しては深読み(?)です。

「為に生きる」という言葉は正直好きです。
 渋谷松濤本部の玄関の横に、文鮮明氏の揮毫かどうかは知らないが、その言葉が飾られていました。最初に本部をたずねたとき、それを見て、感動しましたね。
(穿ちすぎかもしれないけど、韓鶴子独生女路線以後、壁は壊されたのでは?知りたい!

 しかしながら、すぐに「為に生きる」の言葉の偽善性というかまやかしというかいい加減性に気がつきました。
「多くの統一教団の幹部たちと交流をも」てば、ふつうの人なら、すぐに気がつくことですから。

Re: 行動を決定する思想(2)

 その証拠に-。

 確か2010年だったと思うけど、川越教会の教会員を対象に、拉致監禁問題についてスピ-チしたことがあります。

 そんとき、最初にみんなに挙手をもとめ、こう質問した。
「みなさん、為に生きていますか!?」

 そのあと、つっ込みを入れて、再度、質問した。
「いま手を上げられたかたは、献金したから為に生きていると思われたのですか」(爆笑・苦渋の笑み)

 証人は小出など多数です。

メンゴです。

「Re: 行動を決定する思想(3)」を書いていたとき、原稿が消えてしまいました。
 再度書く気力がなくなりました。メンゴです。

 いいたかったのは、
>米本さんは多くの統一教団の幹部たちと交流をもっていたため、「為に生きる」「原理にしたがって」などの言葉を多く聞くことになり、それらの考えが統一信者の宗教思想に含まれていると思うようになります。
 この指摘は間違いということです。

 私の間違いは、信者が日本的な人情に多少は価値を置いている-と錯覚したことです。

Re:メンゴです。

 上に私が書いたコメントに米本さんよりレスをいただきましたが、私のコメントの表現が雑で誤解されたところがあったように感じられ、釈明の必要があったのと、米本さんのレスコメントも興味深かったので、再度コメントさせていただきます。
 米本さんは、「為に生きる」を統一教会内で多く聞かされて、それが統一信者の宗教思想に含まれていると思うようになる、と米本さんについて書いた内容の間違いを指摘されましたが、「統一信者の宗教思想に含まれていると思うようになります。」との私の表現が雑で、書いた意図と違ったように解釈されてしまったのだと思います。
 その雑な表現で書いた部分は詳しく書き直すと、「統一信者の宗教思想の中には、そのようなテーマを追究している部分もあることを知り、その宗教思想に対し新しい認識を持つようになる。」というようになり、「為に生きる」が統一信者の思想の一部として尊重されていると思い込むようになる、という意味ではないのです。
 つまり「思う」は単に知識として得られたというような知的な「思い」であり、物事を判断するような「思い」とは違う意味で書いたのです。
 その辺りは米本さんの心の動きに関してはまったく違う捉え方となってしまいますので、私が雑な書き方をしたのは不適切だったと思い、深く反省しています。
 たとえ以前は『馬鹿の壁』に閉ざされていた私であっても、米本さんが統一信者から「為に生きる」ことが大切だと聞かされて、彼らの思想に対する評価を変えるなどとは思っていません。

 その「為に生きる」をコメントで敢えて持ち出したのは、近藤徳茂氏の心理を分析する為で、私は「人情」を顧みなかった近藤氏の心理には歪んた形での「為に生きる」感情が作用していると思っています。
 それは前のコメントに書いた通りで、組織を守るためならとの思いで徳野執行部の面々に‘火の粉を払え’記事の削除方法を提言したのだと思います。

 米本さんのレスコメントにあった「私の間違いは、信者が日本的な人情に多少は価値を置いている-と錯覚したことです。」という思いは実感としてよくわかります。
 米本さんが味わったような不快な思いは、私自身が現役信者であった時でさえ何度も味わいました。
 その体験を詳しく書くことはできませんが、好感を抱いていた人に裏切られ、心に傷を受けたことなど一度や二度ではありません。
 それは多分私だけではなく、他の教会員も同じような体験を持っていると思います。
 その嫌な体験を振り返ってみると、‘裏切者’に関しては 性格が素直、純粋でありながら、しかし物事を深く考えられない‘情的’な人が統一教団の信仰を持つようになった場合にそのようになり易く、その傾向の信者が「日本的な人情」を簡単に捨て去るようです。
 統一教団では考え方がしっかりしていて個性がある人は信仰を維持するのが難しいですが、個性に乏しく、依存症の傾向がある人は教会に定着します。
 おそらく、近藤徳茂氏もその部類に入るのだと思います。

カルト的解釈

米本さんが指摘した事は冗談で済む話ではなく統一教会の「為に生きる」は本当に献金する事かもしれません。
 人の為に生きるというよりは「人情より天情」という思想があり神様の為に生きる=献金するという図式が出来上がっています。
 オウムやテロも神様の為に生きる事が殺人に繋がるのと似た図式で、宗教が敬遠されるのが理解できます。「真の愛」も天に宝を積ませる事が第一だから強引に献金させるのでしょうか。
 しかし天に宝を積ませる側に利益をもたらしたり本人が自分の徳積みの為に献金するならそれは(自分の)為に生きる行為であり無償の愛を説く教えと相反して矛盾が生じます。

さらに情けない事に世論の批判があれば表向きは一般常識的見解を持ちだし、内々で「統一教会的真の愛」献金を押し付ける。
 自信と確信があるなら自分達が信じる事を隠さず一般社会にも堂々とぶつければ良いではないですか。
 そこに真実があれば必ず感銘を受ける人達が現れます。
 統一教団が軽んじる程一般人の良心基準や感性は低くくない。むしろそちらの方が高いとも言えます。だから統一教団の伝道が発展しない。
 「サタンの妨害」を言い訳にするのはいい加減止めた方が成長できます。

いづれにせよ、統一教団の理論や感性は破綻していて爆発的伝道をもたらせない事に気づくべきです。密室宗教からの脱却が必要です。

Re:カルト的解釈

>米本さんが指摘した事は冗談で済む話ではなく統一教会の「為に生きる」は本当に献金する事かもしれません。

 冗談で言っていません。
「為に生きる」→「地上天国の実現の為に生きる」→「それを実現する為に献金しよう」


 滑稽なんだけど、三段論法的には合っているのです。

不思議な心理

米本さんが真面目に言われた事に対して爆笑がかえってくる信者の感覚がわかりません。
 そう言えば昔韓国人公職者が日本人信者を小馬鹿にしたような発言をしたのに日本人信者が笑っていた事もありました。精神的な奴隷です。同調圧力に飲みこまれてるのでしょうか。

オウムやテロの場合なら三段論法的に言えば「自分達の天国実現の為に殺人」という結論が待っている。恐ろしい事です。

しかし「実現の為に隣り人を愛せよ」となる場合、どれだけの人がそう出来るのでしょうか?
 案外高額献金とはいえ彼等にはその方がハードルが低いのでしょうか。高額献金により記念品が貰える事も多く、それを得る自慢もあるだろうし宗教的ショッピングの世界なんですかね。
 日本人は物が好きだと思われ利用されている点が哀しいです。

井の中の木にしがみついて黙していればカミサマが助けに来ると思っている執行部!昔からのカミの戦法です!

>「為に生きる」も一般人がその言葉から連想するのは「多くの人達の為に生きる」「世界全体、国全体の為に生きる」などですが、統一信者の場合は少し異なるのです。 統一信者の場合、正確には「(宗教的)上位者の為に生きる」という意味でその言葉を解釈しており、「世の中の貧しい人達の為に生きる」などとは間違っても考えないのです<

全く仰る通りです!世の中に尊敬され受け入れられる様な言葉を吐きながら、実際には文鮮明カルト教祖の腹黒野望を果たす為に人々を欺く言葉を吐いてるだけです!……兎に角、文鮮明教祖と統一教会=世界平和統一家庭連合(笑) のスピーチはこんな表の顔と裏の顔(二枚舌)が違うのがワンサカワンサカ有るのです❗️……私は文鮮明教祖の後のお喋り言葉は知らないですが、昼の神様、夜の神様というのも、実は私は二枚舌なんです!と言う本音を喋ってしまった!と言う事ではないのか?

そして騙された信者は洗脳されて原理の教義に従って、純潔(笑)運動とか、兎に角、表向きだけ良く見せてカルト王国の正体を知らせまいと煙幕を張る!

また、真面目そうなマトモそうな顔して点的(縦的)に洗脳されているから、これがまた、熱心に話すから、騙され易い日本人はついつい騙されて恨日朝鮮民族主義マコト家庭カルト幻王国建設に引き摺り込まれてしまう。

何の為に生きる?

>冗談で言っていません。
「為に生きる」→「地上天国の実現の為に生きる」→「それを実現する為に献金しよう」

米本さんのおっしゃる通りなのです。当時、青春を献げた青年男女は「地上天国の実現の為に生きる」が統一運動の「原点」でした。
ところが文教祖の教義の根底にあるのは、「為に生きる」→「文王国の実現の為に生きる」→「それを実現する為に献金しよう」が目指すスローガンだったのです。その結果が、今の悲惨な祝福家庭を生み出したのです。
主体性を失った絶対服従の世界から解放されない限り、周囲からどんなに変革を訴えても無意味なのです。「盲目的人間信仰の壁」が崩れることを願っているのですが…。

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