統一教会信者の拉致監禁に対する警察の態度?
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統一教会考(3)
統一教会と警察(下)
刑法第220条 不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、三月以上七年以下の懲役に処する。
判断基準
逮捕とは、直接に人の身体の自由を拘束することをいうから、ロープ等で人の胸部、足部等を木柱に縛りつけることは監禁ではなく逮捕に当たる。
逮捕には多少の時間継続して自由を束縛することを要し、わら縄で両足を五分間制縛して引きずり回すことはこれに当たる。
監禁罪は、方法の有形的であると無形的であるとを問わず一定の場所からの脱出を不可能にし、継続して人の行動の自由を拘束することによって成立し、その拘束は多少の時間継続することを必要とするが、時間の長短は問わない。暴行・脅迫により八畳間に約三〇分間拘束することは、監禁に当たる。(『有斐閣 判例六法』)
私は学生時代から反警察だったが、郷里・島根県松江市の松江警察署をまる三日間取材し、職務に忠実な警察官の仕事ぶりを知って、警察への見方は変わった。(『裸の警察』参照)
地域で自治会の会長になったときには、積極的に警察に協力するようになった。
しかし、統一教会信者の拉致監禁に対する警察の態度を知ってから、警察への好印象は色あせてしまった。
冒頭に書いたように、逮捕(拉致)監禁は最高刑懲役七年の重罪である。それにもかかわらず、警察は職務に忠実たろうとしない。
何か深い訳でもあれば別だが、「あなたも父親なら、お父さんの気持ちはわかるでしょ? 私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」というのみである。
駅前のマンションでは現に大学生が監禁されているというのに、その一方で本音ではあっても無責任な居酒屋的発言。腹が立ったが、あとで考えれば考えるほど、この発言には根深い問題を孕んでいることに気がついた。それは、決して、見過ごしにはできない深刻な問題である。
一つは、親なら子どもに少々乱暴なこと(子どもからすれば監禁は恐怖なのだが)をしても許されるという子ども観である。
これは、明治以降の家父長制、父権絶対主義を背景にした、親権を絶対視する子ども観といっていい。時代錯誤のアナクロニズムと思う人もいるかもしれないが、つい9年前の2000年に「児童虐待防止法」が制定されるまでは、親が躾けと称して子どもを殴る・蹴るは放任されていた。
骨折しても事件として公になることはなかった。
法律が制定された今でも、児童虐待があとを絶たないのは、親権を絶対のものとする考え方がなくなっていないからだ。
簡単に言えば、親が自分の子どもにどんな考えを押しつけようが何をしようが親の勝手。他人様に文句を言われる筋合いはない。
こうした子ども観を、警察はいまだ受容しているのである。(注)
そのため、悲劇はこれまでいくどとなく繰り返されてきた。
私が取材で知ったのは、ユートピア集団と呼ばれたこともある集団農場、ヤマギシ会の子どもたちの悲劇だった。
子どもは、親に無理やり、集団農場の一角に設けられたヤマギシズム学園(集団施設)に入れられる。
親はそこが子どもの楽園だと夢想するが、子どもにとっては児童虐待施設と表現してもいいほどの過酷な場所だった。
当然、子どもは脱走する。
だが、施設にぶっこんだ親のところに逃げるわけにはいかない。
そこで、ヤマギシとは関係のない祖父母の家を尋ねて何千里。その途中で、警察に保護される。
助かったと思うのは早計で、親権を絶対視する警察は、親が学園に連れ戻して欲しいと言えば、子どもが恐怖で痙攣を起こすほどに嫌がっても、例外なくその通りにした。
施設に戻されれば、暴力が待っていた。
(『洗脳の楽園』、『カルトの子』、自費出版『虐待の真実』参照)
ヤマギシズム学園は2000年前後に解体し、2500人の子どもは解放された。
それは三重県がヤマギシの子どもたちにアンケート調査を行い、虐待の実態が暴露されたからである。解放されるまでに、公になっている限りでだが、一人の女子中学生が投身自殺している。
そういえば、京都のマンションに監禁中に、自殺した女性信者もいた。詳細は『我らの不快な隣人』204頁を読んでください。
警察は、子どもが身体的虐待を受けていたことは知りながら、親権を理由に、一切なにもしなかったのである。そのことを問えば、こう答えるのだろうか。
「あなたも父親なら、子どもの幸せを願ってヤマギシズム学園に子どもを入れたお父さんの気持ちはわかるでしょ?私だって、子どもを学園に入れるかもしれない」
子どもの気持ちを考えないという点で、構造は同じなのである。
親権を絶対視するあまり、親権の濫用を許し、古くは戸塚ヨットスクール、最近では丹波ナチュラルスクールで、子どもが殺される事件が起きてしまった。
日常的に暴力が行われていた京都の私設更生施設「丹波ナチュラルスクール」では成人男性が脱走し、福知山署が保護したものの、男性の意思を尊重せず、再び施設に戻してしまっている。
民法では「成年に達しない子は、父母の親権に服する」と定められている。しかし、児童虐待防止法の制定に見られる通り、親権は絶対的なものではなくなり、子どもの福祉を害する場合、親権は制限されるべきものとなりつつある。
いわんや、拉致監禁の対象となっている統一教会員は20歳以上。親に民法上の親権はない。
それにもかかわらず、「あなたも父親なら、お父さんの気持ちはわかるでしょ? 私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」という感覚でいるのは、警察の子ども観がいまだ「児童虐待防止法」制定以前の状態にあるということだ。
戦後民主化され、民主警察になったにもかかわらず、警察組織にはいまだ家父長的体質が色濃く残っている。そのために、親が子どもを虐待施設にぶち込んでも、あるいは統一教会に入信した子どもの信仰を棄てさせるために監禁場所にぶち込んでも、警察は見てみぬ振りをしてしまう。
実に、怖?い話なのである。
(写真は行田の蓮)
もう一つの危険な傾向は、思い込み=イメージ的認識が職務に影響していることだ。
「私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」と語った刑事課長は、統一教会にどのようなイメージを抱いていたのだろうか。
刑事課長と話したのは「統一教会考(2)」で記したように06年のこと。
この段階で、統一教会員が教団の活動と関係する形で刑事事件を引き起こしたのは、3人の統一教会員が青森県の主婦を恐喝して1200万円を出させた83年の事件(懲役2年執行猶予5年)、もう一つは多数の死傷者を出した88年のマイクロバスの過労運転事件(教会員の運転手は禁固1年)の2つである。
後藤徹氏が宮村氏らを刑事告訴した08年春段階で、新たに加わった刑事事件は、物品販売のためにマンションに不法に侵入したとされる神奈川県の事件だけである。
(このあと、印鑑販売会社「新世」などの特定商取引法違反事件が起きた)
統一教会員が多数の犯罪を繰り返していれば、「私だって、子どもが統一教会に入ったら」云々の感想を述べるのはまだ理解できる。ところが、そうではないのだ。
おそらく、警察官の統一教会のイメージは、歌手の櫻田淳子氏や新体操の山崎浩子氏が合同結婚式に参加したときのマスコミの膨大なバッシング報道(92年から95年)と、その後の風聞によって形成されたものだろう。
警察がイメージ的認識のもとで捜査する(あるいは捜査しない)ことほど、怖いことはない。
今でも根絶されてはいないと思うが、在日韓国人や在日朝鮮人あるいは被差別部落民にことさら過剰な捜査を行なっていたことを想起すればいい。
なにより昨今の冤罪事件は、犯人とされた人の社会から差別されるような何らかの属性に、警察が過剰に反応し、「犯人に違いない」と思い込んだ結果であろう。
警察から話はそれるが、こんな場合はどうだろうか。
内ゲバを繰り返す過激派セクトメンバーの親が子どもの行く末を心配して「子どもを拉致監禁して組織から脱会させる」ケースだ。
おそらく、拉致監禁に否定的な人たちも「そういうケースだったら理解できる。私だって子どもがそういう政治セクトに入ったら、同じようにするかもしれない」という感想を持つかもしれない。
実は、革共同狭間派だったかセクト名は忘れたが、過激派セクトに子どもが入った親から相談されたことがある。
「うちの子どもは、革命共同狭間派(?)のメンバーです。とても優しい子でした。それなのに、あんな殺し合いをするような組織に入るなんて、あの子の意思ではなく、組織からマインドコントロールされた結果です。
ある政治集会が開かれたとき、私たちは子どもを捕まえ、手錠をかけ、マンションに連れ込みました。ところが、逃げられて・・・。
そのあと、集会などに私たちが顔を見せると、形相が変わったようになって逃げ出すんですよ。
きっと、組織からマインドコントロールされ、逃げるように指示されているからに違いありません。
こういう場合、どのように脱会させればいいんでしょうか」
この人のケースは、子どもを思う余りやむにやまれず、拉致監禁したのかもしれないが、あまりにも「マインドコントロール論」の本の読みすぎというものだろう。手錠をかけられ監禁場所に連れ込まれた子どもの恐怖心や、 「マインドコントロール論」について議論したが、最後まで話は噛み合わなかった。
マインドコントロール論については「一筆一論(7)」「一筆一論(8)」を参照。
警察は不思議に思わないだろうか。
中核や革マルなど過激派は内ゲバを繰り返し、殺し合いまでやってきた。
どうして、当時、親は子どもを拉致監禁して説得しなかったのか。
それなのに、なぜ、統一教会信者に限って拉致監禁事件が頻繁に起きるのか。
それは、「統一教会をつぶす」ことを決議した日本基督教団の牧師、正統派クリスチャンに改宗することを目的とする福音系の牧師、また「親から頼まれたらやる」という宮村氏のような一匹狼的な脱会請負人が、統一教会の信者家族が相談にくれば、「保護説得以外にお子さんを脱会させる方法はない」と唆すからなのである。
その意味で、統一教会信者への拉致監禁は組織的なのである。
神戸真教会の高澤守牧師は裁判所で堂々と「脱会説得の目的は統一教会の間違いに気づかせ、正統派クリスチャンにするため」と述べている。
この異常な発言に目を剥く人は少ないようだ。ならば、こんな2つの比喩を例示しよう。
➀日蓮宗の熱心な信徒の親が創価学会に入信した子どもを拉致監禁し、そこに日蓮宗の僧侶が訪問し、創価学会の間違いに気づかせ、日蓮宗の信徒にするために、脱会説得を行なう。
?過激派メンバーの子どもを親が拉致監禁し、そこに日本共産党員が訪問し、「過激派セクトの間違いに気づかせ、科学的社会主義者(昔の言葉でいえば、正統派マルクス・レーニン主義者)にするために」脱会説得を行なう。
こんなことが行なわれていれば、警察は日蓮宗の僧侶、また共産党員を即刻、逮捕するだろうし、全国紙とテレビは衝撃的な事件として連日、報道するだろう。
ところが、キリスト教の牧師が監禁下で統一教会信者を正統派クリスチャンに改宗していることがわかっても、そのことが異常であることに気がつかないのである。
それをいいことに、神戸真教会の高澤守氏は、2人の信者が訴えた民事提訴で損害賠償金の支払いが命じられ、刑事告訴で起訴猶予処分が下ったにもかかわらず、さらに言えば、高澤氏の親分である宮村峻氏が後藤徹氏の監禁事件で警察の取り調べを受けている最中だというのに、関西学院大学の女子学生を監禁下で改宗説得を行なっていたのである。
私は憂える。かつて、特高警察は治安維持法違反で共産党員(のみならず反戦思想の宗教者も!)を逮捕し、取り調べ室で転向を迫った。戦時中は国家が”改宗”行為を行なっていたのだ。
社会的にみればマイナーで異質な統一教会だが、監禁下での改宗を容認するようなことが続けば、いずれ、いつか来た道をたどることになるのではないか・・・。いや、今度は国家権力ではなく、異質物を嫌う社会(マス社会)そのものが主役を担うのではないか。
話を戻す。
イメージ的認識で事件を語るのは居酒屋談義なら許される。しかし、警察は記者と違って捜査権があるのだ。事実を正確に掴み、「個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当る」(警察法第二条)という責務を全うすべきであろう。
刑事課長は私に質問した。
「あなたのお子さんが統一教会に入信していたら、どうしますか?」
私の答えがあまりにも単純なものだったせいか、刑事さんは黙ってしまった。
「子どもといっても成人ですが、まず、子どもの考え方や気持ちを時間をかけて聞くでしょうね。納得いかなければ徹底的に話し合いますよ。それが親の務めだと思いますが、違いますか」
(追記)これで「統一教会と警察」のテーマは終わりますが、警察の問題点は明確になったとしても、すっきりしないものを感じられるのではないでしょうか。
それは「私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」という警察官は、統一教会にどんなイメージを抱いているのか。それがわからない点にあると思います。
そもそも、世間一般の人はどんなイメージを抱いているのか。そしてそのようなイメージを抱かせた統一教会にはどんな問題があるのか。
「統一教会考」で、このことを今後書いていくつもりです。
また、「徹底的に話し合う」という考えに、「なにをきれいごとを」と反発される信者家族の方もいらっしゃると思います。
多くの教会員に取材する中で、「脱会方法」についても考えてきました。そのこともいずれまとめて書くつもりです。
(注)ぜひ、『我らの不快な隣人』のプロローグと第12章を読んでもらいたい。すべてではないが、統一教会の信者たちは、親が自分の価値観(たとえばいい大学・いい会社)に子どもを従属させようとすることへの反発心(親の軛からの解放)が入信の契機になっている。
その軛から逃れたと思ったら、再び親の価値観(統一教会から脱会すべし)のもとで監禁される。それを警察が黙認する。なんとも皮肉な話である。
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コメント
書籍、我らの不快な隣人、は、まだ途中までしか読んでいないので、読み終えてから、再度コメントさせていただこうと考えています。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
読み応えありました
読んで思うことは統一教会の信者への拉致監禁はやっぱり逮捕に値する事件だと思う。法の引用通り明白。ただ、それは法律書に書かれていることだけに終わる体質問題、特に家長制度の体質が連綿と日本に残っている現実は言えていると思います。それが引き起こす社会的事件が幾つか述べられておりましたが、親がいい人なら家長的でも差し支えないのでしょうが、問題ある人間が家長的だと家族は苦労しますね。
でも、私は家長的な人はだんだん減っているのではないかと思います。家長的な人物の例では「巨人の星」の星一徹とかをイメージしてしまうのですが、身からにじみ出たもので、ある意味子供への期待や愛情というのは人一倍。昭和時代の漫画ですので現代では「ギャグ」としか解釈されないようです。実際、そんなCMもあったし。ただ、元々の親子関係はすごく濃密。現実の世界ではアニマル浜口さんとか。
むしろ管理人さんの「不快な隣人」では家族関係の薄い中で子供がある日突然、みたいな例が書かれていたと思うのですが、親はキリスト教会で「救出」の準備をするため教育されるわけですから、「家長的」ならそれは促成栽培。1年近く刷り込まれた「親ならば」であり、それがきわめて非常識な拉致監禁の問題行動を生んでいると思います。警察が「父親ならわかるでしょ」といったそうですが、むしろ親が仕事を止めて、大金を準備してマンションを借り、子供に対し自殺するような状態にまで拉致監禁を続けるのが理解できない。また子供も統一教会で教えられた「親孝行」は促成栽培であり、脱会したら教義に囚われることもない。脱会でめでたしめでたしとならない、この何とも言えないパラドックスな真相を紹介したところに管理人さんの本の凄さを感じました。
そう考えると、この警察官は家長的というよりむしろ、特高的体質を受け継いでいるような気がしてきました。一歩進めば中国公安当局の法倫功への対応になりかねない。アメリカが統一教会信者の拉致監禁への警察の対応を問題視する一文を書いているのは、戦前の特高の宗教(欧米との関わりが深いもの)への対応をも記憶しているからではないかと考えます。
できればやめさせたい。でもそのやり方が逮捕罪を問われる犯罪行為ではそっちの方が問題です。虫歯を治すのにあごを抜くようなもんです。
この法律の掲載、非常に分かりやすく脱会屋のしていることが、明らかに憲法違反、それも『重罪中の重罪』であることが明確に知ることができ、とてもスッキリします。
そして、脱会屋は法律違反(重罪)の行為を通して、破格の金(数百万)を受け取っているということですので、これは明らかに検挙されなければいけない、『事件』だということがわかりました。
この事件が、検挙されなければいつになっても、日本は『拉致監禁(犯罪行為)』をゆるす国という枠を超えることができない。
ということは、日本の警察は、結局、犯罪行為(人権蹂躙行為)を野ざらしにするとんでもない集団である。
という結論を、国際社会も持つようになるでしょう。
米本様、この事件の検挙は、必ず『国益』につながります。
日本を守るため、この事件をぜひ検挙、刑事事件として扱えるよう警察を動かしてあげてください。
しかし拉致監禁をして強制改宗することは違法行為である。
反対するのは構わないが、違法行為をこのままにしておくわけにはいかない。
統一教会と警察(下)
刑法第220条 不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、三月以上七年以下の懲役に処する。
判断基準
逮捕とは、直接に人の身体の自由を拘束することをいうから、ロープ等で人の胸部、足部等を木柱に縛りつけることは監禁ではなく逮捕に当たる。
逮捕には多少の時間継続して自由を束縛することを要し、わら縄で両足を五分間制縛して引きずり回すことはこれに当たる。
監禁罪は、方法の有形的であると無形的であるとを問わず一定の場所からの脱出を不可能にし、継続して人の行動の自由を拘束することによって成立し、その拘束は多少の時間継続することを必要とするが、時間の長短は問わない。暴行・脅迫により八畳間に約三〇分間拘束することは、監禁に当たる。(『有斐閣 判例六法』)
私は学生時代から反警察だったが、郷里・島根県松江市の松江警察署をまる三日間取材し、職務に忠実な警察官の仕事ぶりを知って、警察への見方は変わった。(『裸の警察』参照)
地域で自治会の会長になったときには、積極的に警察に協力するようになった。
しかし、統一教会信者の拉致監禁に対する警察の態度を知ってから、警察への好印象は色あせてしまった。
冒頭に書いたように、逮捕(拉致)監禁は最高刑懲役七年の重罪である。それにもかかわらず、警察は職務に忠実たろうとしない。
何か深い訳でもあれば別だが、「あなたも父親なら、お父さんの気持ちはわかるでしょ? 私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」というのみである。
駅前のマンションでは現に大学生が監禁されているというのに、その一方で本音ではあっても無責任な居酒屋的発言。腹が立ったが、あとで考えれば考えるほど、この発言には根深い問題を孕んでいることに気がついた。それは、決して、見過ごしにはできない深刻な問題である。
一つは、親なら子どもに少々乱暴なこと(子どもからすれば監禁は恐怖なのだが)をしても許されるという子ども観である。
これは、明治以降の家父長制、父権絶対主義を背景にした、親権を絶対視する子ども観といっていい。時代錯誤のアナクロニズムと思う人もいるかもしれないが、つい9年前の2000年に「児童虐待防止法」が制定されるまでは、親が躾けと称して子どもを殴る・蹴るは放任されていた。
骨折しても事件として公になることはなかった。
法律が制定された今でも、児童虐待があとを絶たないのは、親権を絶対のものとする考え方がなくなっていないからだ。
簡単に言えば、親が自分の子どもにどんな考えを押しつけようが何をしようが親の勝手。他人様に文句を言われる筋合いはない。
こうした子ども観を、警察はいまだ受容しているのである。(注)
そのため、悲劇はこれまでいくどとなく繰り返されてきた。
私が取材で知ったのは、ユートピア集団と呼ばれたこともある集団農場、ヤマギシ会の子どもたちの悲劇だった。
子どもは、親に無理やり、集団農場の一角に設けられたヤマギシズム学園(集団施設)に入れられる。
親はそこが子どもの楽園だと夢想するが、子どもにとっては児童虐待施設と表現してもいいほどの過酷な場所だった。
当然、子どもは脱走する。
だが、施設にぶっこんだ親のところに逃げるわけにはいかない。
そこで、ヤマギシとは関係のない祖父母の家を尋ねて何千里。その途中で、警察に保護される。
助かったと思うのは早計で、親権を絶対視する警察は、親が学園に連れ戻して欲しいと言えば、子どもが恐怖で痙攣を起こすほどに嫌がっても、例外なくその通りにした。
施設に戻されれば、暴力が待っていた。
(『洗脳の楽園』、『カルトの子』、自費出版『虐待の真実』参照)
ヤマギシズム学園は2000年前後に解体し、2500人の子どもは解放された。
それは三重県がヤマギシの子どもたちにアンケート調査を行い、虐待の実態が暴露されたからである。解放されるまでに、公になっている限りでだが、一人の女子中学生が投身自殺している。
そういえば、京都のマンションに監禁中に、自殺した女性信者もいた。詳細は『我らの不快な隣人』204頁を読んでください。
警察は、子どもが身体的虐待を受けていたことは知りながら、親権を理由に、一切なにもしなかったのである。そのことを問えば、こう答えるのだろうか。
「あなたも父親なら、子どもの幸せを願ってヤマギシズム学園に子どもを入れたお父さんの気持ちはわかるでしょ?私だって、子どもを学園に入れるかもしれない」
子どもの気持ちを考えないという点で、構造は同じなのである。
親権を絶対視するあまり、親権の濫用を許し、古くは戸塚ヨットスクール、最近では丹波ナチュラルスクールで、子どもが殺される事件が起きてしまった。
日常的に暴力が行われていた京都の私設更生施設「丹波ナチュラルスクール」では成人男性が脱走し、福知山署が保護したものの、男性の意思を尊重せず、再び施設に戻してしまっている。
民法では「成年に達しない子は、父母の親権に服する」と定められている。しかし、児童虐待防止法の制定に見られる通り、親権は絶対的なものではなくなり、子どもの福祉を害する場合、親権は制限されるべきものとなりつつある。
いわんや、拉致監禁の対象となっている統一教会員は20歳以上。親に民法上の親権はない。
それにもかかわらず、「あなたも父親なら、お父さんの気持ちはわかるでしょ? 私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」という感覚でいるのは、警察の子ども観がいまだ「児童虐待防止法」制定以前の状態にあるということだ。
戦後民主化され、民主警察になったにもかかわらず、警察組織にはいまだ家父長的体質が色濃く残っている。そのために、親が子どもを虐待施設にぶち込んでも、あるいは統一教会に入信した子どもの信仰を棄てさせるために監禁場所にぶち込んでも、警察は見てみぬ振りをしてしまう。
実に、怖?い話なのである。
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(写真は行田の蓮)
もう一つの危険な傾向は、思い込み=イメージ的認識が職務に影響していることだ。
「私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」と語った刑事課長は、統一教会にどのようなイメージを抱いていたのだろうか。
刑事課長と話したのは「統一教会考(2)」で記したように06年のこと。
この段階で、統一教会員が教団の活動と関係する形で刑事事件を引き起こしたのは、3人の統一教会員が青森県の主婦を恐喝して1200万円を出させた83年の事件(懲役2年執行猶予5年)、もう一つは多数の死傷者を出した88年のマイクロバスの過労運転事件(教会員の運転手は禁固1年)の2つである。
後藤徹氏が宮村氏らを刑事告訴した08年春段階で、新たに加わった刑事事件は、物品販売のためにマンションに不法に侵入したとされる神奈川県の事件だけである。
(このあと、印鑑販売会社「新世」などの特定商取引法違反事件が起きた)
統一教会員が多数の犯罪を繰り返していれば、「私だって、子どもが統一教会に入ったら」云々の感想を述べるのはまだ理解できる。ところが、そうではないのだ。
おそらく、警察官の統一教会のイメージは、歌手の櫻田淳子氏や新体操の山崎浩子氏が合同結婚式に参加したときのマスコミの膨大なバッシング報道(92年から95年)と、その後の風聞によって形成されたものだろう。
警察がイメージ的認識のもとで捜査する(あるいは捜査しない)ことほど、怖いことはない。
今でも根絶されてはいないと思うが、在日韓国人や在日朝鮮人あるいは被差別部落民にことさら過剰な捜査を行なっていたことを想起すればいい。
なにより昨今の冤罪事件は、犯人とされた人の社会から差別されるような何らかの属性に、警察が過剰に反応し、「犯人に違いない」と思い込んだ結果であろう。
警察から話はそれるが、こんな場合はどうだろうか。
内ゲバを繰り返す過激派セクトメンバーの親が子どもの行く末を心配して「子どもを拉致監禁して組織から脱会させる」ケースだ。
おそらく、拉致監禁に否定的な人たちも「そういうケースだったら理解できる。私だって子どもがそういう政治セクトに入ったら、同じようにするかもしれない」という感想を持つかもしれない。
実は、革共同狭間派だったかセクト名は忘れたが、過激派セクトに子どもが入った親から相談されたことがある。
「うちの子どもは、革命共同狭間派(?)のメンバーです。とても優しい子でした。それなのに、あんな殺し合いをするような組織に入るなんて、あの子の意思ではなく、組織からマインドコントロールされた結果です。
ある政治集会が開かれたとき、私たちは子どもを捕まえ、手錠をかけ、マンションに連れ込みました。ところが、逃げられて・・・。
そのあと、集会などに私たちが顔を見せると、形相が変わったようになって逃げ出すんですよ。
きっと、組織からマインドコントロールされ、逃げるように指示されているからに違いありません。
こういう場合、どのように脱会させればいいんでしょうか」
この人のケースは、子どもを思う余りやむにやまれず、拉致監禁したのかもしれないが、あまりにも「マインドコントロール論」の本の読みすぎというものだろう。手錠をかけられ監禁場所に連れ込まれた子どもの恐怖心や、 「マインドコントロール論」について議論したが、最後まで話は噛み合わなかった。
マインドコントロール論については「一筆一論(7)」「一筆一論(8)」を参照。
警察は不思議に思わないだろうか。
中核や革マルなど過激派は内ゲバを繰り返し、殺し合いまでやってきた。
どうして、当時、親は子どもを拉致監禁して説得しなかったのか。
それなのに、なぜ、統一教会信者に限って拉致監禁事件が頻繁に起きるのか。
それは、「統一教会をつぶす」ことを決議した日本基督教団の牧師、正統派クリスチャンに改宗することを目的とする福音系の牧師、また「親から頼まれたらやる」という宮村氏のような一匹狼的な脱会請負人が、統一教会の信者家族が相談にくれば、「保護説得以外にお子さんを脱会させる方法はない」と唆すからなのである。
その意味で、統一教会信者への拉致監禁は組織的なのである。
神戸真教会の高澤守牧師は裁判所で堂々と「脱会説得の目的は統一教会の間違いに気づかせ、正統派クリスチャンにするため」と述べている。
この異常な発言に目を剥く人は少ないようだ。ならば、こんな2つの比喩を例示しよう。
➀日蓮宗の熱心な信徒の親が創価学会に入信した子どもを拉致監禁し、そこに日蓮宗の僧侶が訪問し、創価学会の間違いに気づかせ、日蓮宗の信徒にするために、脱会説得を行なう。
?過激派メンバーの子どもを親が拉致監禁し、そこに日本共産党員が訪問し、「過激派セクトの間違いに気づかせ、科学的社会主義者(昔の言葉でいえば、正統派マルクス・レーニン主義者)にするために」脱会説得を行なう。
こんなことが行なわれていれば、警察は日蓮宗の僧侶、また共産党員を即刻、逮捕するだろうし、全国紙とテレビは衝撃的な事件として連日、報道するだろう。
ところが、キリスト教の牧師が監禁下で統一教会信者を正統派クリスチャンに改宗していることがわかっても、そのことが異常であることに気がつかないのである。
それをいいことに、神戸真教会の高澤守氏は、2人の信者が訴えた民事提訴で損害賠償金の支払いが命じられ、刑事告訴で起訴猶予処分が下ったにもかかわらず、さらに言えば、高澤氏の親分である宮村峻氏が後藤徹氏の監禁事件で警察の取り調べを受けている最中だというのに、関西学院大学の女子学生を監禁下で改宗説得を行なっていたのである。
私は憂える。かつて、特高警察は治安維持法違反で共産党員(のみならず反戦思想の宗教者も!)を逮捕し、取り調べ室で転向を迫った。戦時中は国家が”改宗”行為を行なっていたのだ。
社会的にみればマイナーで異質な統一教会だが、監禁下での改宗を容認するようなことが続けば、いずれ、いつか来た道をたどることになるのではないか・・・。いや、今度は国家権力ではなく、異質物を嫌う社会(マス社会)そのものが主役を担うのではないか。
話を戻す。
イメージ的認識で事件を語るのは居酒屋談義なら許される。しかし、警察は記者と違って捜査権があるのだ。事実を正確に掴み、「個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当る」(警察法第二条)という責務を全うすべきであろう。
刑事課長は私に質問した。
「あなたのお子さんが統一教会に入信していたら、どうしますか?」
私の答えがあまりにも単純なものだったせいか、刑事さんは黙ってしまった。
「子どもといっても成人ですが、まず、子どもの考え方や気持ちを時間をかけて聞くでしょうね。納得いかなければ徹底的に話し合いますよ。それが親の務めだと思いますが、違いますか」
(追記)これで「統一教会と警察」のテーマは終わりますが、警察の問題点は明確になったとしても、すっきりしないものを感じられるのではないでしょうか。
それは「私だって、子どもが統一教会に入ったら、同じようにするかもしれない」という警察官は、統一教会にどんなイメージを抱いているのか。それがわからない点にあると思います。
そもそも、世間一般の人はどんなイメージを抱いているのか。そしてそのようなイメージを抱かせた統一教会にはどんな問題があるのか。
「統一教会考」で、このことを今後書いていくつもりです。
また、「徹底的に話し合う」という考えに、「なにをきれいごとを」と反発される信者家族の方もいらっしゃると思います。
多くの教会員に取材する中で、「脱会方法」についても考えてきました。そのこともいずれまとめて書くつもりです。
(注)ぜひ、『我らの不快な隣人』のプロローグと第12章を読んでもらいたい。すべてではないが、統一教会の信者たちは、親が自分の価値観(たとえばいい大学・いい会社)に子どもを従属させようとすることへの反発心(親の軛からの解放)が入信の契機になっている。
その軛から逃れたと思ったら、再び親の価値観(統一教会から脱会すべし)のもとで監禁される。それを警察が黙認する。なんとも皮肉な話である。
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