米本陳述書(2)
米本陳述書(2)
前置きが大変長くなりました。陳述書の本題に入ります。
四、2月12日、統一教会から次のような連絡が入りました。
「後藤徹さんという信者が2月10日に監禁場所から出てきて、本部に助けを求めてやってきた。12年余り監禁されていたという。痩せ細っているため、緊急入院した」。
咄嗟に浮かんだのは「新潟少女監禁事件」でした。
少女が監禁されたのは9年。それより3年も長い12年余りと聞いて、にわかには信じられず、ピンときませんでした。
私が取材した監禁体験者で、もっとも長く監禁されていたのはルポにも登場する富澤裕子さんの1年3ヶ月でした。その10倍もの長さですから、信じられないのは当然です。
翌日の2月13日、私は統一教会の職員の方に同行をお願いして、後藤さんが緊急入院したという一心病院に行きました。
後藤さんから話を聞くのであれば、退院後の落ち着いたときがベストですが、急いだのは痩せ細っている様を見ておきたいと思ったからです。
五、一心病院の会議室で、後藤さんに会いました。後藤さんは車椅子で入ってきました。
さっそく、腕や足など身体つきを見せてもらいました。
迂闊なことにカメラを持ってくるのを忘れたため、職員の方からカメラ機能付きの携帯電話を借りて写真撮影をしました(写真撮影報告書1)。後藤さんの身体つきは、骨と皮、そこに萎えた筋肉がくっついているという感じでした。
立った姿で写真を撮りたいとお願いしたのですが、後藤さん一人の力で立ちあがることができず、職員の方に補助をお願いしました。
後藤さんの立ち姿の写真に、別の人の手が映っていますが、これは後藤さんを支える職員の方の手です。(注/写真参照)
右足の親指は水虫が悪化した状態でした。後藤さんによれば「何度も薬を買ってきてくれと頼んだけど、無視されたために次第に悪化していった」といいます。

六、短時間ですが、後藤さんから聞いた話は以下の通りです。
年月日や細部は実際とは少し違うかもしれません。なにしろ12年余りの監禁場所から身一つで出てきた日から、3日後に聞いた話ですから。
(1)95年9月11日、保谷市(現、西東京市)の実家で拉致され、新潟のマンションに監禁された。
監禁場所に常時いたのは、両親、実兄の嫁、実妹の4人。
兄は宮村峻の会社に勤めていたので、土日にやってきていた。
つまり、兄嫁は新潟の監禁場所、兄は東京で暮らすという別居生活をしていた。
兄と嫁、妹の3人はやはり拉致監禁にあって脱会した統一教会の元信者である。
(2)監禁現場に脱会の説得にいつもやってきていたのは、新津福音キリスト教会の牧師である「松永堡智」だった。
(3)新潟のマンションには2年余り監禁されていた。父親がガンで亡くなったため、今度は、東京杉並区荻窪のマンションに移送され、そこで監禁された。97、8年頃のことだったと思う。
(4)荻窪のマンションに一緒に監禁生活を送っていたのは母親、兄夫婦それに妹。脱会説得にいつもやってきたのは「宮村峻」だった。宮村のほかには■■■■(以下、T・Y子)、■■■■(女性)、■■■■(男性)など元信者がやってきていた。(注1)
玄関には、外に出られないように南京錠とチェーンがかけられていた。宮村たちがやってくるときには、家族が南京錠を開けて、招き入れていた。
(5)宮村が数年前から突然来なくなった。何度も逃げようとしたが、家族総出で押さえつけられるために、マンションから脱出することはできなかった。
(6)2年前に3回目のハンガーストライキを行なったあと、粗末な食事しか出されなくなった。朝はパン、昼と夜はご飯に汁だけ。夜はときたま小魚か納豆が出た。家族は横でおいしいものを食べていた。とても屈辱的だった。95年に監禁されてから一度も外には出してもらえなかったことから筋肉は萎え、また2年前から粗末な食事しか出してもらなくなったので、次第に痩せ細っていった。
(7)2月10日の午後、突然、兄たちから放り出されるようにして玄関の外に追い出された。玄関を閉めたあと、再び玄関が開き、履物を放り出してきた。「これまで長い間、監禁しておいて、いきなり身一つで追放するなんて、あまりにもひどい、身勝手だ」と玄関を叩いて、抗議したが、梨のつぶてだった。
(8)12年間余りも監禁されていたため、行くあてはなかった。唯一覚えていたのは渋谷の松濤にある統一教会本部だった。お金は一銭もなかったため、荻窪から歩いて渋谷に向かった。しかし、途中でふらふらになり、歩けなくなったので、通行人の人からお金をもらってタクシーに乗った。
(9)荻窪のマンションは天沼陸橋の前にあり、「荻窪」「フラワー」という文字のあるマンション。そこの804号室に監禁されていた。
七、後藤さんの話を聞いて、いくつかのことを思い出しました。
牧師の松永と宮村は「三」のところで書いた『人さらいからの脱出』、宮村は『脱会屋の全て』に登場する脱会説得者であり、後藤さんのところに説得にやってきたT・Y子はやはり二つの本で登場する元信者だということです。
つまり、これらのメンバーは拉致監禁に関わる常習者だということになります。
宮村峻は、電気工事、広告代理業を営む「株式会社タップ」という会社の社長で、副業なのかライフワークなのかは知りませんが、古くから脱会請負業をしている人であること、彼の会社は彼が脱会説得した信者を雇用していることで、統一教会に反対する人の間ではつとに有名でした。
また、後述する統一教会と闘う「被害弁連」の間で、宮村は信者家族から法外な金を取るということで悪評高く、「被害弁連」が主催する集会に宮村を参加させないことが申し合わされたと聞いています。
ところで、T・Y子の名前を聞いたときは少々驚きました。彼女については現在書いている本でも取り上げようかと考えていたからです。
T・Y子は宮村峻が脱会説得し、脱会したあとは「青春を返せ訴訟」に参加しています。
なぜ、私が驚いたか説明します。
統一教会と闘う団体に、弁護士で構成している「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(通称、被害弁連)があります。(注2)
私はカルト批判の記事を書いてきたため、被害弁連に所属する弁護士とは懇意にしてきました。
この被害弁連の事務局員に「■■さん」(以下、S)という女性の方がいます。2、3回会ったことがあり、被害弁連の資料をもらうときにはSさんを通してお願いしてきました。
本の取材を始めてから、被害弁連に所属していたある弁護士から「Sさんの本名はT・Y子である」と聞きました。
もしSさんと「T・Y子」が同一人物だとすれば、拉致監禁という違法行為に、弁護士集団の事務局員が関わっていたことになります。
このため、T・Y子には関心をもっていたため、後藤さんの口から彼女の名前が出たときには驚いたという次第です。(注3)
(注1)「後藤陳述書(7)」を参照。陳述書にある「A」が「T・Y子」である。
(注2)全国霊感商法対策弁護士連絡会の略称として「被害弁連」と「全国弁連」の2つがある。統一教会絡みの事件が起きると、新聞にコメントするのは「全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士」である。マスコミ大好きの紀藤正樹弁護士がその筆頭格。
(注3)SことT・Y子は「全国弁連」の事務局員をしながら、監禁下の後藤氏の脱会説得を行っていた。つまり、統一教会の違法性を追及する団体の事務局員が、監禁罪という違法行為に加担していたわけである。私が驚いたのは当然だろう。
「全国弁連」に所属する弁護士すべてがこの事実を知っていたとは思えないが、少なくとも「全国弁連」の代表であり、宮村峻氏と親しい関係にある山口広弁護士(紀藤弁護士も)は知っていた。そう推測しても、穿ちすぎではないだろう。
注意!「お知らせ(12)」をお読みください。
- [2009/06/11 14:59]
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コメント
それが本当だったら
紀藤はSAKAが「反統一教会商法」をはったりで掲示板に書いたとたんに掲示板を閉じました。はったりだったのですが、本当のことだったのでしょう。あの反対活動でかなりの資金や名声を得たのでしょうね。
法律家の違法行為って普通の人以上にヤバイ
素朴な疑問・冤罪釈放のニュースを見て
あと、冤罪を生み出すものすごさ。やっぱり、ああいう拘束状態で延々とやられると、やっていないのにやったと言うぐらいの心理的極限状態になってしまうらしい。今普通に生活している自分に置き換えてもどうしてやっていない殺人を自白するか考えられません。ということは改めて管理人さんの書かれた「不快な隣人」に登場した方々は閉じ込められて物凄い極限状態に置かれたんじゃないかなと想像します。監禁で受けた精神的なダメージも相当大きいと想像します。
でも容疑者の人権は叫ぶ弁護士たちが、「カルト」という「容疑」だと私的な逮捕監禁でさえ人権問題にしない。そういう人権すら考慮されない絶対的差別空間が日本社会の都市の一角にできあがったことは後藤さんの陳述書でよく分かりました。これを「保護」「救出」という美辞麗句で飾っても、いつかは大変な問題になりますよ。代理監獄なくせが拉致監禁なくせに繋がらない理由を知りたいです。
この陳述書は…
ここに書かれていることは、事実なのですか?
もし、事実であるならば、これは「全国霊感商法対策弁護士連絡会」が、非合法の集団として、
統一教会を訴えようとしているにも関わらず、自分たち(「全国霊感商法対策弁護士連絡会」)が、
非合法的な行為を、行っていることになるのでは?
後藤さんの、証言のみで、客観的事実と認定されるのですか?
MOさんへ
しかしながら意味不明です。「ここに書かれていること」という指示代名詞が何を指しているのかわからないのです。
もう少し具体的に指摘していただけたら答えることができるのですが・・。
なぜ、牧師の松永と宮村か所属する、「脱会屋」と、「全国霊感商法対策弁護士連絡会」とが、なぜ全く違う組織なはずであるにも関わらず、(T.Y子を通して)人脈が通じているのか?
この二つの組織の関連性は?
一体、誰を通じてこの二つの組織がつながっていったのか?
という見つめ方が、一般的な見解になってゆくと思いますが。
そして、後藤氏の発言のみで、事実関係の証拠として、刑事事件としての扱いになるのかどうか?
これが、一番の焦点だと思いますが、
いかがでしょう?
MOさんへ
補足
http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2008/108408.htm
この中で後藤さんの事件は次のように書かれています。これを読むと明らかに警察の対応が問題視されていることが分かります。
According to representatives from the Unification Church, a member of their congregation was abducted by his family and held in captivity for more than 12 years in an attempt to "deprogram" him. Four months after his escape, police had not opened an investigation into the case.
MOさんへ
MOさんの質問にお答えします。
キリスト教の牧師が強制説得に本格的に乗り出したのは80年代の後半からです。
信者が脱会すると、それまでに献金した、あるいは物品を購入したお金をどうするのかという問題が生じます。返還請求をしたいということになった場合、牧師は弁護士ではありませんから、当然、弁護士に頼むことになります。
このような事情があって、脱会活動家と弁護士(87年に全国弁連が発足)とが連携するようになりました。
拙著『我らの不快な隣人』の8章に詳述しましたので、是非読んでみてください。
もう一つの質問、宮村氏が起訴されるかどうか。
今のままでは厳しいでしょうね。物証がないからです。
宮村氏は何十回もフラワーホームに訪問していることは地検の検事に正直にしゃべっているはずです。でも、彼はこう供述しているはず。
「南京錠なんか見たことありません。私が部屋を訪ねたときはふつうにドアが開いて・・・」
家族も「南京錠なんてかけていなかった」もしくは「宮村先生がお見えになるときは南京錠を外してお迎えしていたので、先生は見なかったはずです」と強弁するでしょう。
逮捕監禁罪は懲役5年の重罪です。後藤さんの証言だけで法を適用するのは難しいと思います。
ただ、家族が監禁の事実を認めた場合は、家族にはなんらかの処分が下る可能性はあります。もっともこれまでの例からいえば「起訴猶予処分」でしょうね。拙著の9章を読んでください。
しかしながら、、検察の取り調べは厳しいですから、後藤さんの母、兄、兄嫁、妹、松永牧師、宮村氏ら6人の証言に矛盾が生じれば、とことん追及するでしょうから、どんな判断が下されるのか正直、わかりません。
また、後藤陳述書のコメント欄で「教会員B」さんが自分の婚約者がフラワーホームに監禁されたことを明らかにされています。私は、荻窪フラワーホーム804号室は何度も監禁説得の場所として利用されていると睨んでいます。いくつかの事例が集まれば、宮村氏の起訴の可能性が出てくると思っています。
最大の問題は、告訴を受けた警察の対応 (初動捜査)にあります。これについては「一筆一論」で書くつもりですので、読んでみてください。また意見を寄せていただければ幸いです。
MOさんへ
せっかく書いていただいたのに申し訳ありません。
今後も、投稿よろしくお願いいたします。
前置きが大変長くなりました。陳述書の本題に入ります。
四、2月12日、統一教会から次のような連絡が入りました。
「後藤徹さんという信者が2月10日に監禁場所から出てきて、本部に助けを求めてやってきた。12年余り監禁されていたという。痩せ細っているため、緊急入院した」。
咄嗟に浮かんだのは「新潟少女監禁事件」でした。
少女が監禁されたのは9年。それより3年も長い12年余りと聞いて、にわかには信じられず、ピンときませんでした。
私が取材した監禁体験者で、もっとも長く監禁されていたのはルポにも登場する富澤裕子さんの1年3ヶ月でした。その10倍もの長さですから、信じられないのは当然です。
翌日の2月13日、私は統一教会の職員の方に同行をお願いして、後藤さんが緊急入院したという一心病院に行きました。
後藤さんから話を聞くのであれば、退院後の落ち着いたときがベストですが、急いだのは痩せ細っている様を見ておきたいと思ったからです。
五、一心病院の会議室で、後藤さんに会いました。後藤さんは車椅子で入ってきました。
さっそく、腕や足など身体つきを見せてもらいました。
迂闊なことにカメラを持ってくるのを忘れたため、職員の方からカメラ機能付きの携帯電話を借りて写真撮影をしました(写真撮影報告書1)。後藤さんの身体つきは、骨と皮、そこに萎えた筋肉がくっついているという感じでした。
立った姿で写真を撮りたいとお願いしたのですが、後藤さん一人の力で立ちあがることができず、職員の方に補助をお願いしました。
後藤さんの立ち姿の写真に、別の人の手が映っていますが、これは後藤さんを支える職員の方の手です。(注/写真参照)
右足の親指は水虫が悪化した状態でした。後藤さんによれば「何度も薬を買ってきてくれと頼んだけど、無視されたために次第に悪化していった」といいます。
六、短時間ですが、後藤さんから聞いた話は以下の通りです。
年月日や細部は実際とは少し違うかもしれません。なにしろ12年余りの監禁場所から身一つで出てきた日から、3日後に聞いた話ですから。
(1)95年9月11日、保谷市(現、西東京市)の実家で拉致され、新潟のマンションに監禁された。
監禁場所に常時いたのは、両親、実兄の嫁、実妹の4人。
兄は宮村峻の会社に勤めていたので、土日にやってきていた。
つまり、兄嫁は新潟の監禁場所、兄は東京で暮らすという別居生活をしていた。
兄と嫁、妹の3人はやはり拉致監禁にあって脱会した統一教会の元信者である。
(2)監禁現場に脱会の説得にいつもやってきていたのは、新津福音キリスト教会の牧師である「松永堡智」だった。
(3)新潟のマンションには2年余り監禁されていた。父親がガンで亡くなったため、今度は、東京杉並区荻窪のマンションに移送され、そこで監禁された。97、8年頃のことだったと思う。
(4)荻窪のマンションに一緒に監禁生活を送っていたのは母親、兄夫婦それに妹。脱会説得にいつもやってきたのは「宮村峻」だった。宮村のほかには■■■■(以下、T・Y子)、■■■■(女性)、■■■■(男性)など元信者がやってきていた。(注1)
玄関には、外に出られないように南京錠とチェーンがかけられていた。宮村たちがやってくるときには、家族が南京錠を開けて、招き入れていた。
(5)宮村が数年前から突然来なくなった。何度も逃げようとしたが、家族総出で押さえつけられるために、マンションから脱出することはできなかった。
(6)2年前に3回目のハンガーストライキを行なったあと、粗末な食事しか出されなくなった。朝はパン、昼と夜はご飯に汁だけ。夜はときたま小魚か納豆が出た。家族は横でおいしいものを食べていた。とても屈辱的だった。95年に監禁されてから一度も外には出してもらえなかったことから筋肉は萎え、また2年前から粗末な食事しか出してもらなくなったので、次第に痩せ細っていった。
(7)2月10日の午後、突然、兄たちから放り出されるようにして玄関の外に追い出された。玄関を閉めたあと、再び玄関が開き、履物を放り出してきた。「これまで長い間、監禁しておいて、いきなり身一つで追放するなんて、あまりにもひどい、身勝手だ」と玄関を叩いて、抗議したが、梨のつぶてだった。
(8)12年間余りも監禁されていたため、行くあてはなかった。唯一覚えていたのは渋谷の松濤にある統一教会本部だった。お金は一銭もなかったため、荻窪から歩いて渋谷に向かった。しかし、途中でふらふらになり、歩けなくなったので、通行人の人からお金をもらってタクシーに乗った。
(9)荻窪のマンションは天沼陸橋の前にあり、「荻窪」「フラワー」という文字のあるマンション。そこの804号室に監禁されていた。
七、後藤さんの話を聞いて、いくつかのことを思い出しました。
牧師の松永と宮村は「三」のところで書いた『人さらいからの脱出』、宮村は『脱会屋の全て』に登場する脱会説得者であり、後藤さんのところに説得にやってきたT・Y子はやはり二つの本で登場する元信者だということです。
つまり、これらのメンバーは拉致監禁に関わる常習者だということになります。
宮村峻は、電気工事、広告代理業を営む「株式会社タップ」という会社の社長で、副業なのかライフワークなのかは知りませんが、古くから脱会請負業をしている人であること、彼の会社は彼が脱会説得した信者を雇用していることで、統一教会に反対する人の間ではつとに有名でした。
また、後述する統一教会と闘う「被害弁連」の間で、宮村は信者家族から法外な金を取るということで悪評高く、「被害弁連」が主催する集会に宮村を参加させないことが申し合わされたと聞いています。
ところで、T・Y子の名前を聞いたときは少々驚きました。彼女については現在書いている本でも取り上げようかと考えていたからです。
T・Y子は宮村峻が脱会説得し、脱会したあとは「青春を返せ訴訟」に参加しています。
なぜ、私が驚いたか説明します。
統一教会と闘う団体に、弁護士で構成している「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(通称、被害弁連)があります。(注2)
私はカルト批判の記事を書いてきたため、被害弁連に所属する弁護士とは懇意にしてきました。
この被害弁連の事務局員に「■■さん」(以下、S)という女性の方がいます。2、3回会ったことがあり、被害弁連の資料をもらうときにはSさんを通してお願いしてきました。
本の取材を始めてから、被害弁連に所属していたある弁護士から「Sさんの本名はT・Y子である」と聞きました。
もしSさんと「T・Y子」が同一人物だとすれば、拉致監禁という違法行為に、弁護士集団の事務局員が関わっていたことになります。
このため、T・Y子には関心をもっていたため、後藤さんの口から彼女の名前が出たときには驚いたという次第です。(注3)
(注1)「後藤陳述書(7)」を参照。陳述書にある「A」が「T・Y子」である。
(注2)全国霊感商法対策弁護士連絡会の略称として「被害弁連」と「全国弁連」の2つがある。統一教会絡みの事件が起きると、新聞にコメントするのは「全国霊感商法対策弁護士連絡会の弁護士」である。マスコミ大好きの紀藤正樹弁護士がその筆頭格。
(注3)SことT・Y子は「全国弁連」の事務局員をしながら、監禁下の後藤氏の脱会説得を行っていた。つまり、統一教会の違法性を追及する団体の事務局員が、監禁罪という違法行為に加担していたわけである。私が驚いたのは当然だろう。
「全国弁連」に所属する弁護士すべてがこの事実を知っていたとは思えないが、少なくとも「全国弁連」の代表であり、宮村峻氏と親しい関係にある山口広弁護士(紀藤弁護士も)は知っていた。そう推測しても、穿ちすぎではないだろう。
注意!「お知らせ(12)」をお読みください。
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