後藤徹陳述書(補完資料)
後藤陳述書(補完資料)
きわめて長文なので、ゆっくり読んでください。
ミステリアス
これまで多くの監禁体験者を取材してきたが、後藤監禁事件が異様なのは次の2点である。
?監禁期間が12年間と長期に及んだこと。
?脱会率の高さを自負する宮村峻氏が脱会説得を事実上放棄してからも監禁が長く続いたことだ。
「後藤陳述書(7)と「後藤陳述書」(8)をもう一度、読んでください。
事実経過を整理すれば、後藤さんが荻窪フラワーホーム804号室に移送されたのは97年12月。翌98年1月から9月にかけて宮村峻氏は合計73回に説得にやってきている。
その後、家族に呼び出されて2回ほど訪問しているが、脱会説得そのものは98年9月頃をもって中止している。
なぜ、中止したのか。そして、中止したにもかかわらず、なぜ、家族は後藤さんを監禁し続けたのか。
ミステリアスな話なのである。
この謎について、後藤氏は「陳述書(8)」で次のように推測している。
宮村及び元信者等は804号室に来なくなりました。今にして思えば、長期監禁に対し後日私が彼らを訴えることを恐れたのだと思います。
監禁から解放されてより後に知ったことですが、実に前年の2000年8月には、宮村と懇意にしているキリスト教神戸真教会の高澤守牧師が、同牧師によって逮捕監禁、脱会強要の被害を受けた統一教会信者から訴えられた民事裁判で敗訴していました。
また、同室にて脱会説得活動を殆どしなくなったにもかかわらず彼らは私を804号室に留置し続けましたが、これも、私を解放した場合、私が彼らを訴えることを恐れたためだと思います。
即ち家族や宮村等は、自分達の犯行が明るみに出ることを恐れ、口封じのために私を監禁し続けたのです。私が「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って彼らを糾弾したことが、彼らにとっては相当の脅威となったようです。
繰り返しになるが、もう一度整理をしておく。
後藤さんは2回、監禁を経験している。
1回目の監禁も、宮村氏の会社(株・タップ)の社員も参加した2回目の拉致監禁も、宮村氏が何らかの形で関わっているのは疑いようがない。
1回目の監禁のときには、後藤さんは偽装脱会し、荻窪栄光教会のトイレから逃げ出している。
脱会のプロを自認する宮村氏は偽装脱会を見抜けなかったという失態をおかしたわけだ。つまり、後藤さんに煮え湯を飲まされた。
ならば、2回目の監禁のときには、是が非でも、「落としてやる」(脱会させる)と思っていたはずだ。
それなのに、宮村氏は突然、脱会説得を中止している。
しかも、後藤さんは解放されることなく、その後も監禁は続いた。家族が脱会説得を行うこともなく、いわば、監禁のための監禁が続いたわけだ。
もし、宮村氏が脱会説得を中止する98年9月に、後藤さんが解放されていたら、監禁期間は3年間で終わっていたのだ。3年でも長期の監禁には違いないが、後藤さんの人生を考えれば、3年と12年とでは雲泥の差だ。
このミステリアスについて、後藤さんは「訴えられるのを恐れたからだ」と推測する。
後藤氏の推測をより理解してもらうためには、神戸真教会の牧師高澤守氏が拉致監禁そのものに関わった富澤裕子さんの証言を紹介しておいたほうがいいと思う。
その前にいくつかの注釈を。
韓国に渡ってからの富澤裕子さんの様子は『我らの不快な隣人』の1章の冒頭、監禁事件については9章で書いた。
富澤さんの体験を年表で示しておく。※青字は後藤関連事項
97年6月 統一教会鳥取教会で母親と話し合っているときに、武器を手にした父親ら約10人(うち5人は雇われた興信所の社員)に教会がまるごと襲われ、拉致される。
(米子市の鳥取教会から徳島県鳴門市のリゾートマンション、続いて大阪市のライオンズマンションに移送、監禁されたあと)
97年9月 大阪市の藤和シティコープ新大阪に監禁される。
97年9月15日、統一教会機関紙「中和新聞」で鳥取教会襲撃事件が報道される。
97年12月 後藤氏、荻窪フラワーホームに移送、監禁される。
98年1月?9月 宮村氏が73回にわたって脱会説得にやってくる。
98年9月 脱出。
98年9月頃から宮村は後藤氏の説得に来なくなった。
99年8月 高澤らを裁判に訴える。
00年8月 鳥取地裁で勝訴。
事件の詳細は「室生忠の宗教ジャーナル」が詳しい。
富澤裕子さんの証言(陳述書)
(98年)三月八日頃、私は遂に「監禁場所から解放されるためには明日こそ棄教の表明をしなければならない」と覚悟を決めました。
様々な思いを越えてこのような覚悟を持つことができたのは、統一教会の創始者である文鮮明師が、いかなる迫害も否定も神の心情を中心として乗り越えていかれたことから、自分も文師のように忍耐し試練を越えていきたいと思ったからです。こうした覚悟を決めた後、私は高澤牧師等が納得するような棄教の理由を考えました。
三月九日頃、高澤牧師は突然、前記宮村峻と、宮村の所で監禁され脱会した元教会員二人を連れて、八〇一号室の監禁場所に来ました。(注)
宮村は部屋に入って間もなく、「たばこが吸いたいんだがここの窓は開いているのか?」と言い、窓の鍵を確かめる振りをしました。誰かが「窓は開いていません」と言うと、宮村は「何だ、開いていないのか」と言いました。私には宮村の言いようがとてもわざとらしく感じられました。
宮村は私が言葉を挟むこともできないほど、とても激しい口調で統一教会批判をしました。
そして、一方的に自分の言いたいことをまくし立てては、プイッ!と横を向いて私と視線を合わせないという仕草を何度もしました。
しばらくは、一方的な宮村の話に圧倒されて私は言葉が出ませんでした。
宮村は私があまり本音を言わないと思ったらしく、私の両親に対して「お父さんとお母さんはしばらく外に出ていて下さい」と指示しました。それを聞いて両親は玄関から外に出て行きました。同室には高澤牧師、宮村、宮村が連れてきた元信者二名が残りました。
宮村は「統一教会員は仕事も住居も結婚も自由ではないのでおかしい」などと言い張りました。私は「そんなことはありません、私は米子で監禁される日まで自分の好きな幼稚園の仕事をしてきました。拉致監禁をされたために仕事を辞めざるを得なかったんです」と言いました。
また私は「広島にいたときはアパートも自分で探して決めました。結婚も自分の意思で国際合同祝福結婚式への参加を希望して参加したんです。参加したくなかったら希望しなければいいんです」と言いました。
宮村と私の会話を聞きながら、二人の元統一教会員は冷ややかに私の顔を見つめていましたが、時々私をバカにするように「フンッ」と鼻で笑いました。私が二人に対して「どうしてそのように笑うのですか?」と尋ねると、元教会員の女性は「あなたの言っていることは、私が以前宮村さんに言っていたことと同じだから」と言いました。
宮村は私が話をしようとするとその言葉を遮るようにして統一教会批判を矢継ぎ早にし、棄教を迫りました。宮村の批判は統一原理に対する勝手な解釈に基づくものでしたが、私が「それは違います」と言って自分の意見を話そうとしても、間髪入れずすぐに一方的な話しをしてきました。
宮村の異様とも言える言動に私は呆れ果ててしまいました。
そして話し合いにもならないような会話をいつまで続けていても絶対にそこから出しては貰えないと思い、遂に私は昨日から覚悟していた通り宮村に向かって「分かりました。もう辞めます」と言いました。言った途端、あまりの悲しさとやるせなさで涙が出てきました。
そのとき私は泣いてはいけないのではないかと思いましたが、宮村はその涙を見て「なんだ、とっくに墜ちている(信仰を失っている)じゃないか」と言いました。
私が涙を流したため、宮村も高澤牧師も私が真に棄教したものと捉えたようです。そして前述の通り、高澤牧師は統一教会信者が監禁場所で棄教を表明したとしても、祝福指輪(結婚指輪)を同牧師に提供しない限り監禁場所からは出さない意向であることを知らされていたことから、私は右手薬指にかねてよりつけていた前記祝福指輪をはずし、意に反して同牧師に提供しました。このとき私は内心、悲しさと悔しさとで一杯でした。信仰は自由なはずなのに、何故私は彼等のためにここまでしなければならないのかと思いました。
この後宮村は、彼が連れてきた元信者二人と話をするように言い、高澤牧師と共に外に出ていきました。私はこの時から誰に対しても自分の感情を抑えて接することに懸命にならざるを得ませんでした。そして二人の元教会員に対して親しみを込めて話しました。
二人とも私が脱会を表明したことで、先程とはうって変わって態度も表情も口調も変わりました。
私は二人の態度が変わったことに驚きました。
しかし、統一教会の信仰を持っていれば冷遇し、やめれば普通に接するという行為自体が明らかにおかしいと思いました。
一五分ほど経って宮村、高澤牧師、両親が部屋の中に戻ってきました。宮村は「あまり長く三人で話をさせると逃げ出す相談をするかも知れないから」と言いました。
最後に私が宮村に「鳥取教会で襲撃された人達が気になる」「主体者のことがなかなか忘れられない」と言ったところ宮村は「ここでゆっくりやればいい」と言いました。教会員達や結婚相手に対する想いが完全になくなるまで監禁場所にいるようにという意味でした。
(注)
▲98年3月は、後藤さんが監禁されている荻窪フラワーホームに、宮村氏が元信者を連れて足繁くやってきていた頃である。富澤さんのところにやってきた元信者も同じメンバーだろう。
▲「前記」と記された陳述書の部分は以下の通り。
(97年)九月の下旬か一〇月頃、高澤牧師が監禁場所に来たとき、中和新聞という統一教会の機関誌に、鳥取教会から私が拉致された事件に関する記事が載っているみたいだと言いました。
数日後、高澤牧師は東京で反対牧師達の会議に参加し、新幹線で新大阪まで帰ってきた後その足で八〇一号室まで来ました。
高澤牧師は監禁場所に入って来るなりいきなり中和新聞の平成九年九月一五日号の記事のコピーを私に見せました。
その記事はこの度の鳥取教会襲撃事件についてのものでした。それを見ながら私に対して「見てみろ、あんたのことが載っているで。Aさんていうのはあんたのことや。統一教会も教会が襲撃されてこれは大変だと思って書いたんだ」ととても興奮して言いました。
高澤牧師の話によると、東京の会議で別の牧師が中和新聞の記事を見ながら「こんなことをした牧師は誰だ?こんなことをされたら自分達がやりにくくなる。こんなことは親だけに任せておけばいいのに」と言ったので、高澤牧師は「私がやりました」と答えたそうです。
高澤牧師の口振りは、あたかも「私のやったことに何か文句があるのか」と言わんばかりの言い方でした。
高澤牧師はこのとき他の牧師達全員から非難を浴びたそうです。
しかし、その場にいた後記宮村峻だけが会議の後で「私も同じことをしただろう」と言って高澤牧師の肩を持ったそうです。
監禁のための監禁
富澤裕子さんを拉致した97年6月の「鳥取教会襲撃事件」は、まるでハリウッド映画のような出来事だった。高澤氏が牧師たち全員から非難を浴びたのは当然のことで、保護(拉致監禁)説得を長く手がけてきた牧師にとっても、衝撃的な事件であった。
高澤氏とて、事件が発覚し問題化すれば、まずいことになるぐらいの認識はあったと思う。
ところで、監禁事件が問題化するにはある条件が必要だ。
その条件とは、監禁された信者が脱出し、拉致監禁が行われていたことを訴えることだ。
信者が脱会すれば、統一教会は間違った宗教という認識となり、「拉致監禁」ではなく「保護された」ということになる。そうなれば、事件が公になることはない。
ちなみに、『我らの不快な隣人』の?部で登場した3人の脱会者は希有な存在といっていい。彼女たちは勇気を出して実名で統一教会も拉致監禁もノーと宣言した。彼女たちの存在がなければ、水面下で行われていた拉致監禁の実態は明らかになることはなかったと思う。
話を戻す。
高澤氏は、「中和新聞」に事件のことが載り、また牧師仲間から非難された。
めげなかったのは、富澤さんさえ脱会させれば、事件はうやむやになり、“英雄”になれると考えたからだろう。
実際、富澤さんは陳述書にある通り、98年3月に指輪を外し、“脱会の意思”を示した。
高澤氏大いに喜び、その場に居合わせた宮村峻氏も高澤牧師を庇った手前、さぞや安堵したことだろう。
牧師たちからどんなに批判されようが、勝てば官軍。脱会させれば表立って批判する人はいなくなる。それどころか、警察に捕まるほどの危険な行為をしてまで信者を救ったのだ。命懸けで脱会させたのだと言えば、反統一教会陣営ではヒーローとなる。
宮村氏は再び2人の元信者とともに東京に戻り、後藤さんの脱会説得を続けていた。
そうしていたとき、富澤さんの脱出(98年9月15日)の報を聞いた。
偽装脱会だったのか!
宮村氏が青ざめたのかはわからないが、まずいことになったと思ったのは間違いないだろう。
<いずれ高澤は訴えられる。そうなると、俺の名前も出てくる可能性もある>※実際、富澤陳述書で登場した。
このとき、高澤牧師と宮村氏は情報交換した。
「富澤にまずいことをしゃべっていないだろうな」(宮村)
「東京で後藤って男性をある人が保護しているんだが、こいつがしぶとい奴で、もう3年にもなるのに、原理が真理だと思っている。こんなことを話してしまった」(高澤)
このやりとりは私の推測だが、「陳述書(12)」には次のような記述がある。
本部教会で夜間受付の男性に事情を説明したところ、12年間監禁されていたという話をにわかに信じて貰うことができず、最初は不審者と間違われ相手にして貰えませんでした。
しかしその人が、拉致監禁問題に詳しい人に電話で連絡をとったところ、確かに「後藤」という男性信者が長期監禁されているという情報を高澤牧師の監禁から逃げ帰った信者が伝えてくれたことがあるということで、信じて貰うことができ、建物の中に入れて貰うことができました。
高澤牧師が富澤さんに、後藤さんが監禁されていることを話したのは事実であり、これを高澤氏が宮村氏に話さなかったと考えるのは不自然である。
先の会話の続きを書けばこうなるのではないか。
「後藤の脱会に俺が関わっているとか、保護の場所が荻窪なんて言わなかったんだろうな」(宮村)
「・・・・たぶん、それは話していないと思うが・・・」(高澤)
こんなわけで、宮村氏は98年9月を機に、後藤さんの脱会説得に来なくなったのだと思う。
そして、すぐに後藤さんを解放すれば、訴えられると思った。
宮村氏と家族が善後策を検討したのは間違いないだろう。
「絶対に徹を外に出すまい。出したら、俺たちは訴えられる」と。
脱会説得を目的としない「監禁のための監禁」が続いたのは、こう推測する以外に考えられないのだ。
富澤さんが提訴(神戸地裁)、刑事告訴する前には、今利さん、アントール美津子さんがそれぞれ提訴(横浜地裁、東京地裁)、告訴している。やはり99年のことだ。
さらに02年には寺田こずえさんがやはり高澤牧師を相手に提訴(神戸地裁)、告訴、同じ02年には
元木恵美子さんが刑事告訴している。
こうしたことが続いたため、宮村氏と家族は後藤さんの取り扱いについて困ったのだと思う。
次回からは私が警察に提出した陳述書をアップしていきます。
- [2009/06/04 09:15]
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コメント
スリル満点
富澤裕子さんの陳述書も説得力あります。
声を上げられた勇気ある拉致監禁体験者のみなさん、被害をくり返さないためにがんばって下さい!
9年間は…
アップするたびに、読まさせていただいております。
今回読んで思ったことは、9年間は自分(宮村氏など)の身を守るための監禁であったと思うと涙が止まりません。
「イエスは、人権を訴えたことがあるか?」と言っている人の話を聞いた事があるが、そんなことを言ったら、何してもいいことになる。要するに、日本が法治国家ではなくなってしまう。
「保護説得」という名の拉致監禁は絶対に許してはならない!!
如何なる暴力も今神は求めない
「水くん」さんへ
ブログを開設したときには6月頃には書き尽くしで終わりかと思っていましたが、まだ伝えるべきことはたくさん残っています。
これからもご愛読のほど、また感想や意見があれば投稿のほど、よろしくお願いいたします。
「財界にっぽん」に、拉致批判記事
本誌は財界人はじめ社会のトップ層に3万部の読者がおり、極めて異例な掲載といってよいでしょう。
主要書店、図書館でも読むことが出来ます。
ぜひこの機会に、拉致監禁が反社会的行為であるかを、学んでください。
拉致監禁改宗を報道しないテレビは?
このブログは、神の栄光として語り継がれるものと確信します。それと共に日本の統一教会幹部(特に嘘をついて信者を騙し利用した者)は、心から悔い改めるべきだと思います。
きわめて長文なので、ゆっくり読んでください。
ミステリアス
これまで多くの監禁体験者を取材してきたが、後藤監禁事件が異様なのは次の2点である。
?監禁期間が12年間と長期に及んだこと。
?脱会率の高さを自負する宮村峻氏が脱会説得を事実上放棄してからも監禁が長く続いたことだ。
「後藤陳述書(7)と「後藤陳述書」(8)をもう一度、読んでください。
事実経過を整理すれば、後藤さんが荻窪フラワーホーム804号室に移送されたのは97年12月。翌98年1月から9月にかけて宮村峻氏は合計73回に説得にやってきている。
その後、家族に呼び出されて2回ほど訪問しているが、脱会説得そのものは98年9月頃をもって中止している。
なぜ、中止したのか。そして、中止したにもかかわらず、なぜ、家族は後藤さんを監禁し続けたのか。
ミステリアスな話なのである。
この謎について、後藤氏は「陳述書(8)」で次のように推測している。
宮村及び元信者等は804号室に来なくなりました。今にして思えば、長期監禁に対し後日私が彼らを訴えることを恐れたのだと思います。
監禁から解放されてより後に知ったことですが、実に前年の2000年8月には、宮村と懇意にしているキリスト教神戸真教会の高澤守牧師が、同牧師によって逮捕監禁、脱会強要の被害を受けた統一教会信者から訴えられた民事裁判で敗訴していました。
また、同室にて脱会説得活動を殆どしなくなったにもかかわらず彼らは私を804号室に留置し続けましたが、これも、私を解放した場合、私が彼らを訴えることを恐れたためだと思います。
即ち家族や宮村等は、自分達の犯行が明るみに出ることを恐れ、口封じのために私を監禁し続けたのです。私が「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って彼らを糾弾したことが、彼らにとっては相当の脅威となったようです。
繰り返しになるが、もう一度整理をしておく。
後藤さんは2回、監禁を経験している。
1回目の監禁も、宮村氏の会社(株・タップ)の社員も参加した2回目の拉致監禁も、宮村氏が何らかの形で関わっているのは疑いようがない。
1回目の監禁のときには、後藤さんは偽装脱会し、荻窪栄光教会のトイレから逃げ出している。
脱会のプロを自認する宮村氏は偽装脱会を見抜けなかったという失態をおかしたわけだ。つまり、後藤さんに煮え湯を飲まされた。
ならば、2回目の監禁のときには、是が非でも、「落としてやる」(脱会させる)と思っていたはずだ。
それなのに、宮村氏は突然、脱会説得を中止している。
しかも、後藤さんは解放されることなく、その後も監禁は続いた。家族が脱会説得を行うこともなく、いわば、監禁のための監禁が続いたわけだ。
もし、宮村氏が脱会説得を中止する98年9月に、後藤さんが解放されていたら、監禁期間は3年間で終わっていたのだ。3年でも長期の監禁には違いないが、後藤さんの人生を考えれば、3年と12年とでは雲泥の差だ。
このミステリアスについて、後藤さんは「訴えられるのを恐れたからだ」と推測する。
後藤氏の推測をより理解してもらうためには、神戸真教会の牧師高澤守氏が拉致監禁そのものに関わった富澤裕子さんの証言を紹介しておいたほうがいいと思う。
その前にいくつかの注釈を。
韓国に渡ってからの富澤裕子さんの様子は『我らの不快な隣人』の1章の冒頭、監禁事件については9章で書いた。
富澤さんの体験を年表で示しておく。※青字は後藤関連事項
94年6月 鳥取県米子市のマンションに監禁される。約3カ月後に脱出。
95年5月 合同結婚式に参加。現在の夫と結ばれる。
95年7月 後藤氏が西東京市の実家で拉致され、新潟のマンションに。
97年6月 統一教会鳥取教会で母親と話し合っているときに、武器を手にした父親ら約10人(うち5人は雇われた興信所の社員)に教会がまるごと襲われ、拉致される。
(米子市の鳥取教会から徳島県鳴門市のリゾートマンション、続いて大阪市のライオンズマンションに移送、監禁されたあと)
97年9月 大阪市の藤和シティコープ新大阪に監禁される。
97年9月15日、統一教会機関紙「中和新聞」で鳥取教会襲撃事件が報道される。
97年12月 後藤氏、荻窪フラワーホームに移送、監禁される。
98年1月?9月 宮村氏が73回にわたって脱会説得にやってくる。
98年9月 脱出。
98年9月頃から宮村は後藤氏の説得に来なくなった。
99年8月 高澤らを裁判に訴える。
00年8月 鳥取地裁で勝訴。
事件の詳細は「室生忠の宗教ジャーナル」が詳しい。
富澤裕子さんの証言(陳述書)
(98年)三月八日頃、私は遂に「監禁場所から解放されるためには明日こそ棄教の表明をしなければならない」と覚悟を決めました。
様々な思いを越えてこのような覚悟を持つことができたのは、統一教会の創始者である文鮮明師が、いかなる迫害も否定も神の心情を中心として乗り越えていかれたことから、自分も文師のように忍耐し試練を越えていきたいと思ったからです。こうした覚悟を決めた後、私は高澤牧師等が納得するような棄教の理由を考えました。
三月九日頃、高澤牧師は突然、前記宮村峻と、宮村の所で監禁され脱会した元教会員二人を連れて、八〇一号室の監禁場所に来ました。(注)
宮村は部屋に入って間もなく、「たばこが吸いたいんだがここの窓は開いているのか?」と言い、窓の鍵を確かめる振りをしました。誰かが「窓は開いていません」と言うと、宮村は「何だ、開いていないのか」と言いました。私には宮村の言いようがとてもわざとらしく感じられました。
宮村は私が言葉を挟むこともできないほど、とても激しい口調で統一教会批判をしました。
そして、一方的に自分の言いたいことをまくし立てては、プイッ!と横を向いて私と視線を合わせないという仕草を何度もしました。
しばらくは、一方的な宮村の話に圧倒されて私は言葉が出ませんでした。
宮村は私があまり本音を言わないと思ったらしく、私の両親に対して「お父さんとお母さんはしばらく外に出ていて下さい」と指示しました。それを聞いて両親は玄関から外に出て行きました。同室には高澤牧師、宮村、宮村が連れてきた元信者二名が残りました。
宮村は「統一教会員は仕事も住居も結婚も自由ではないのでおかしい」などと言い張りました。私は「そんなことはありません、私は米子で監禁される日まで自分の好きな幼稚園の仕事をしてきました。拉致監禁をされたために仕事を辞めざるを得なかったんです」と言いました。
また私は「広島にいたときはアパートも自分で探して決めました。結婚も自分の意思で国際合同祝福結婚式への参加を希望して参加したんです。参加したくなかったら希望しなければいいんです」と言いました。
宮村と私の会話を聞きながら、二人の元統一教会員は冷ややかに私の顔を見つめていましたが、時々私をバカにするように「フンッ」と鼻で笑いました。私が二人に対して「どうしてそのように笑うのですか?」と尋ねると、元教会員の女性は「あなたの言っていることは、私が以前宮村さんに言っていたことと同じだから」と言いました。
宮村は私が話をしようとするとその言葉を遮るようにして統一教会批判を矢継ぎ早にし、棄教を迫りました。宮村の批判は統一原理に対する勝手な解釈に基づくものでしたが、私が「それは違います」と言って自分の意見を話そうとしても、間髪入れずすぐに一方的な話しをしてきました。
宮村の異様とも言える言動に私は呆れ果ててしまいました。
そして話し合いにもならないような会話をいつまで続けていても絶対にそこから出しては貰えないと思い、遂に私は昨日から覚悟していた通り宮村に向かって「分かりました。もう辞めます」と言いました。言った途端、あまりの悲しさとやるせなさで涙が出てきました。
そのとき私は泣いてはいけないのではないかと思いましたが、宮村はその涙を見て「なんだ、とっくに墜ちている(信仰を失っている)じゃないか」と言いました。
私が涙を流したため、宮村も高澤牧師も私が真に棄教したものと捉えたようです。そして前述の通り、高澤牧師は統一教会信者が監禁場所で棄教を表明したとしても、祝福指輪(結婚指輪)を同牧師に提供しない限り監禁場所からは出さない意向であることを知らされていたことから、私は右手薬指にかねてよりつけていた前記祝福指輪をはずし、意に反して同牧師に提供しました。このとき私は内心、悲しさと悔しさとで一杯でした。信仰は自由なはずなのに、何故私は彼等のためにここまでしなければならないのかと思いました。
この後宮村は、彼が連れてきた元信者二人と話をするように言い、高澤牧師と共に外に出ていきました。私はこの時から誰に対しても自分の感情を抑えて接することに懸命にならざるを得ませんでした。そして二人の元教会員に対して親しみを込めて話しました。
二人とも私が脱会を表明したことで、先程とはうって変わって態度も表情も口調も変わりました。
私は二人の態度が変わったことに驚きました。
しかし、統一教会の信仰を持っていれば冷遇し、やめれば普通に接するという行為自体が明らかにおかしいと思いました。
一五分ほど経って宮村、高澤牧師、両親が部屋の中に戻ってきました。宮村は「あまり長く三人で話をさせると逃げ出す相談をするかも知れないから」と言いました。
最後に私が宮村に「鳥取教会で襲撃された人達が気になる」「主体者のことがなかなか忘れられない」と言ったところ宮村は「ここでゆっくりやればいい」と言いました。教会員達や結婚相手に対する想いが完全になくなるまで監禁場所にいるようにという意味でした。
(注)
▲98年3月は、後藤さんが監禁されている荻窪フラワーホームに、宮村氏が元信者を連れて足繁くやってきていた頃である。富澤さんのところにやってきた元信者も同じメンバーだろう。
▲「前記」と記された陳述書の部分は以下の通り。
(97年)九月の下旬か一〇月頃、高澤牧師が監禁場所に来たとき、中和新聞という統一教会の機関誌に、鳥取教会から私が拉致された事件に関する記事が載っているみたいだと言いました。
数日後、高澤牧師は東京で反対牧師達の会議に参加し、新幹線で新大阪まで帰ってきた後その足で八〇一号室まで来ました。
高澤牧師は監禁場所に入って来るなりいきなり中和新聞の平成九年九月一五日号の記事のコピーを私に見せました。
その記事はこの度の鳥取教会襲撃事件についてのものでした。それを見ながら私に対して「見てみろ、あんたのことが載っているで。Aさんていうのはあんたのことや。統一教会も教会が襲撃されてこれは大変だと思って書いたんだ」ととても興奮して言いました。
高澤牧師の話によると、東京の会議で別の牧師が中和新聞の記事を見ながら「こんなことをした牧師は誰だ?こんなことをされたら自分達がやりにくくなる。こんなことは親だけに任せておけばいいのに」と言ったので、高澤牧師は「私がやりました」と答えたそうです。
高澤牧師の口振りは、あたかも「私のやったことに何か文句があるのか」と言わんばかりの言い方でした。
高澤牧師はこのとき他の牧師達全員から非難を浴びたそうです。
しかし、その場にいた後記宮村峻だけが会議の後で「私も同じことをしただろう」と言って高澤牧師の肩を持ったそうです。
監禁のための監禁
富澤裕子さんを拉致した97年6月の「鳥取教会襲撃事件」は、まるでハリウッド映画のような出来事だった。高澤氏が牧師たち全員から非難を浴びたのは当然のことで、保護(拉致監禁)説得を長く手がけてきた牧師にとっても、衝撃的な事件であった。
高澤氏とて、事件が発覚し問題化すれば、まずいことになるぐらいの認識はあったと思う。
ところで、監禁事件が問題化するにはある条件が必要だ。
その条件とは、監禁された信者が脱出し、拉致監禁が行われていたことを訴えることだ。
信者が脱会すれば、統一教会は間違った宗教という認識となり、「拉致監禁」ではなく「保護された」ということになる。そうなれば、事件が公になることはない。
ちなみに、『我らの不快な隣人』の?部で登場した3人の脱会者は希有な存在といっていい。彼女たちは勇気を出して実名で統一教会も拉致監禁もノーと宣言した。彼女たちの存在がなければ、水面下で行われていた拉致監禁の実態は明らかになることはなかったと思う。
話を戻す。
高澤氏は、「中和新聞」に事件のことが載り、また牧師仲間から非難された。
めげなかったのは、富澤さんさえ脱会させれば、事件はうやむやになり、“英雄”になれると考えたからだろう。
実際、富澤さんは陳述書にある通り、98年3月に指輪を外し、“脱会の意思”を示した。
高澤氏大いに喜び、その場に居合わせた宮村峻氏も高澤牧師を庇った手前、さぞや安堵したことだろう。
牧師たちからどんなに批判されようが、勝てば官軍。脱会させれば表立って批判する人はいなくなる。それどころか、警察に捕まるほどの危険な行為をしてまで信者を救ったのだ。命懸けで脱会させたのだと言えば、反統一教会陣営ではヒーローとなる。
宮村氏は再び2人の元信者とともに東京に戻り、後藤さんの脱会説得を続けていた。
そうしていたとき、富澤さんの脱出(98年9月15日)の報を聞いた。
偽装脱会だったのか!
宮村氏が青ざめたのかはわからないが、まずいことになったと思ったのは間違いないだろう。
<いずれ高澤は訴えられる。そうなると、俺の名前も出てくる可能性もある>※実際、富澤陳述書で登場した。
このとき、高澤牧師と宮村氏は情報交換した。
「富澤にまずいことをしゃべっていないだろうな」(宮村)
「東京で後藤って男性をある人が保護しているんだが、こいつがしぶとい奴で、もう3年にもなるのに、原理が真理だと思っている。こんなことを話してしまった」(高澤)
このやりとりは私の推測だが、「陳述書(12)」には次のような記述がある。
本部教会で夜間受付の男性に事情を説明したところ、12年間監禁されていたという話をにわかに信じて貰うことができず、最初は不審者と間違われ相手にして貰えませんでした。
しかしその人が、拉致監禁問題に詳しい人に電話で連絡をとったところ、確かに「後藤」という男性信者が長期監禁されているという情報を高澤牧師の監禁から逃げ帰った信者が伝えてくれたことがあるということで、信じて貰うことができ、建物の中に入れて貰うことができました。
高澤牧師が富澤さんに、後藤さんが監禁されていることを話したのは事実であり、これを高澤氏が宮村氏に話さなかったと考えるのは不自然である。
先の会話の続きを書けばこうなるのではないか。
「後藤の脱会に俺が関わっているとか、保護の場所が荻窪なんて言わなかったんだろうな」(宮村)
「・・・・たぶん、それは話していないと思うが・・・」(高澤)
こんなわけで、宮村氏は98年9月を機に、後藤さんの脱会説得に来なくなったのだと思う。
そして、すぐに後藤さんを解放すれば、訴えられると思った。
宮村氏と家族が善後策を検討したのは間違いないだろう。
「絶対に徹を外に出すまい。出したら、俺たちは訴えられる」と。
脱会説得を目的としない「監禁のための監禁」が続いたのは、こう推測する以外に考えられないのだ。
富澤さんが提訴(神戸地裁)、刑事告訴する前には、今利さん、アントール美津子さんがそれぞれ提訴(横浜地裁、東京地裁)、告訴している。やはり99年のことだ。
さらに02年には寺田こずえさんがやはり高澤牧師を相手に提訴(神戸地裁)、告訴、同じ02年には
元木恵美子さんが刑事告訴している。
こうしたことが続いたため、宮村氏と家族は後藤さんの取り扱いについて困ったのだと思う。
次回からは私が警察に提出した陳述書をアップしていきます。
[2009/06/04 09:15]
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