蛍の光 窓の雪 (ブログ総集編)
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身辺雑記(12)
♪蛍の光 窓の雪 書(ふみ)よむつき日 かさねつつ いつしか年も すぎのとを あけてぞけさは わかれゆく ♪
今年もいろんなことがありましたね。というか、文鮮明氏の死去後から「次から次へ」とで、火の粉ブログも大変でした。
「購読料的カンパに深謝いたします」(9月19日)で、4月17日付から9月15日までの記事を紹介しました。今回は9月21日付から12月23日までの記事一覧を下記に書きました。
この歌でも聴きながら、ざっと目を通してください。未読の記事があれば精読を!
この曲は前回もアップしたのですが、ある読者から「涙がこぼれてきた」という感想をいただきました。
改革ではなく、自壊の道を突き進んでいるのですから、泣けるのも当然でしょう。
いいことと言えば、後藤徹さんの裁判の勝訴が確定したことだけ。しかし、それを境に教団の拉致監禁問題への関心が失せてしまった・・・。結果、勝訴確定の喜びは半減してしまいましたとさ (;_;)
あっ、もう一ついいことがあった!シャボン玉さんの記事によれば、
「(セクハラ牧師こと)江南教会長の趙某牧師は、12月8日、検察側から懲役10ヶ月と40時間の性暴力治療プログラムの履修および身元情報公開の告知命令を求刑されたようです。判決は2016年1月13日」(続報を期待す!)
慶賀である。
【出典】http://www.mediawatch.kr/news/article.html?no=249504
「韓鶴子が清平を完全に掌握!」 (9月21日)
「ネットをめぐる絶対矛盾(*´~`*) 」 (9月25日)
「食口が読まない「本部見解」(´;ω;`)」 (9月30日)
「速報!後藤裁判-最高裁が被告の上告を棄却 高裁勝訴判決が確定す」 (10月1日)
「献金激減&マイナンバー制-断末魔の悲鳴が聞こえる!」 (10月6日)
「衝撃のスクープ !! 清平役事の誕生秘話」 (10月8日)
「献金献金で、非人間的食口が大量発生」 (10月13日)
「少しはまともになったザ☆教団中枢・諸先生方の御言葉」 (10月18日)
2015年度総決算72日路程、徳野らに怒りの鉄槌を! (10月21日)
「ヘドログループがまた強制移動に乗り出したぞ!」 (10月24日)
「徳野さん、献金を使わずに、直接抗議してきたらどうですか?」 (10月27日)
「教団中央に質問したけれど・・・ 」(10月30日)
「緊急速報-新たな監禁事件が発生!」 (11月1日)
「祝福を受けなかったシックは、断固として140万円の返還請求を!」 (11月4日)
「ついに刺身包丁が登場! 隠微で陰湿な権力闘争が続いている」 (11月8日)
「W献金-「72日路程」に「43路程」が加わったぞ~っ」 (11月12日)
「祭りだ、ワッショイ 喧嘩だ、ワッショイ。ォ━━(#゚Д゚#)━━!! 」(11月16日)
「寄稿-「非人間的シック大量発生」に関する歴史的考察」 (11月19日)
「組織と人事の全国会議(上)-正体隠し伝道をしたらクビだ!」(11月24日)
「食口に君臨するユダの名は徳野英治なり!」 (11月28日)*
「井戸を掘ってくれた恩人を忘れる人たち」 (12月2日)
「組織と人事の全国会議(下)-リストラなのか「宗教官僚天国」の維持なのか」 (12月5日)
「スクープ! ピースパレスがレンタルビジネスの館に」 (12月8日)*
「ついに赤い糸OK! 家庭連合のデタラメ “祝福”結婚」 (12月12日)
「速報!金錫柄(キム・ソクビョン)を脅した人物が逮捕された」 (12月14日)
「許していいのか!公職者の天下り 」(12月17日)
「御言葉重視派への根本的な疑問」(12月20日)
「決定版[文鮮明と認知されなかった息子との長くて暗い物語]」(12月23日)
<注>*印の記事は、27日に届いた教団からの通知文で「名誉毀損だとして謝罪&削除」を求められているものです。
2016年の家庭連合(旧統一教会)は、韓鶴子氏の無原罪論が浸透し定着化するかどうか、そしてサンクチュアリ教会にどれだけの食口が流れるのか、またコンプライアンスを遵守できるかどうか-にかかっていると思います。
前者について言えば、13人の天一国最高委員のうち金栄輝氏と李載錫氏(いずれも36家庭)が異を唱えたことから、一挙に無原罪が浸透するのは困難だと思われます。天聖経を改竄した2人ですが、韓鶴子氏が文鮮明氏より上位に立つのは許し難かったのでしょう。
その対策なのかどうか、シャボン玉さんの「12月3日付の記事」によれば、元老牧会者300人に200万ウォンが渡されたということです。その後、金額は1000万ウォンであることが判明しました。すべてが金金金。韓鶴子氏は金で無原罪が勝ち取れるとでも考えているのでしょうか。不愉快な話です。
しかし、「九里長成聖地存続のため、国家メシアたちが立ち上がった 」(12月28日)を読めば、「鶴(及び側近たち)の絶対化路線」が完勝するのは茨の道のような気もします。
サンクチュアリ教会(サ教)への流入は、1月に100人の日本人シックがアメリカの同教会で祝福をあげるそうですが、懐疑的・批判的論調も増え出しており、どうなるのかは正直、不透明です。
そうはいっても、サ教の日本語ブログの数は31にも増え(レベルアップしてもらいたいブログが多々あり)、さらに世界宣教本部長のエルダー氏が実名でサ教への疑問に公開の場で答えるという好感がもてる試みも始まっています。批判・疑問には一切沈黙している家庭連合とは好対照です。
韓国の状況はよくわかりませんが、在韓の日本婦人(サ教に批判的)によれば、
「天福宮ではサ教批判も独生女トークも一切ありません。それどころか、7男が世界会長時代に作った統一教グッズとか、天福ストアで今でも売っています(笑)。批判すれば逆効果になると考えているのかも」
「しかし、天福宮教会でも空席が目につくようになったのは事実です。行く人は行っちゃったのでしょう。ただし、成和学生や青年大学生礼拝は熱気で溢れています。天福宮は割と雰囲気は良いと思います。もっとも台風の目は静かということもありますが・・・」
これらのことからすれば、来年はさらに勢力を拡大していくと考えるのが自然でしょう。
読者はさして関心がないかもしれませんが、9月21日以降、ブログのカテゴリーに「改革か自壊か」を設けました。文字通り、家庭連合は二者択一を迫られるという情況にあります。もっとも教団幹部にはさほど危機感はないようで、「低温火傷」のことを考えると滑稽な感じがします。
もう1つ、新しく設けたカテゴリーは「文鮮明とSEX」です。これまで触れることを心理的に避けてきましたが、文鮮明氏のある特質を知る上で重要なテーマであると、認識するようになりました。
反統一ブロガーは積極的にこのテーマを取り上げ、一方、統一に批判的であっても文氏を「真のお父様」と心底思っている人たちはほとんど無視してきました。きわめて対照的で、興味深い現象です。
夫・文鮮明氏のSEX遍歴が、妻の韓鶴子さんの心証形成に大きな影響を与えているのは、「真の父母」とはいっても所詮は夫婦の関係ですから、当然のことです。重要なテーマだと考えるようになっています。
「ティモシー・エルダーさん インタビュー 日本語訳」 を興味深く読みましたが、エルダーさんの答えにある行間を考えてしまいました。韓鶴子さんは夫の行状を少しばかり語ったのではないか、と。
年明け最初の記事は、「文鮮明とSEX」に関する記事です。
購読料的カンパの報告です。
9月19日以降、延べ78人から頂きました。ありがとうございました。4人の方からはプレゼントの品をいただきました。おいしゅうございました。
記事が面白かった、知らないことがわかって良かったと思われた方は、今後とも気が向いたときに(^-^)/
といっても、カンパをもらえば、精神的にプレッシャーを感じます。そのため、どうしてもブログに割かれる時間が多くなっています。
私の「ブログ村情報」をチェックすると、118回 / 365日(平均1.9回/週) となっています。3・7日に1本の割合。心と身体のバランスを考えると、ブログを始めた頃の5日か6日に1本が心地いいです。でも、記事の在庫がたくさんあるのでどうなるのかわかりませんが ∠( ^ o ^ ┐)┐ ヨォ…
余裕をもって更新していきたいと考えています。
2016年はブログを開設したときの初志、すなわち
「拙著『我らの不快な隣人』などで、統一教会(統一協会)の信者を監禁して脱会させる強制説得の実態を暴いてから、水面下で批判を浴びるようになった。沈黙は腹ふくるる技なり。飛んでくる火の粉は払うべし」
-に立ち戻って、山ほど書きたいことを吐き出していきたいと考えています。
後藤裁判の結着がついたので、もう束縛されることはなにもなく、自由に書くことができます。どんなに時代遅れとなったものでも、アクセス件数が下がろうが、初志貫徹です。私のアイデンティティに関わることですから。
また、統一教団が拉致監禁への関心をなくしたことから、彼らとの共通項はゼロになりました。教団は、私と「相対基準を結ぶな」(相手にするな)という方針になっているようです。(でも、教団から郵便物が届くのだから、相手にしている・せざるを得ないということかも)。
教団内部の事情はわかりませんが、しがらみ的かつ社会の進歩とはならない義理人情は捨て、よりいっそう是々非々で、書くのを差し控えていたことを直截的に書くことにします。
それと同時に、他の団体にも苦言を呈することにします。
私怨ではありませんので、誤解なきようにくれぐれもお願いいたします。
身辺雑記になります。
介護のことを心配されて、手紙や個人メールを受け取ることがあります。前とそれほど変わったことはありませんが、最近面白かったのは、ちょっと留守をすることがあって、猫のエサを頼んだことがありました。戻ってみると皿にチョコレートクッキーが山盛りに。声を出して屈託なく笑いました。
ちょっとばかり苦労した尿漏れ対策は、軌道に乗りつつあります。
介護は面白いです。なぜなら、自分の老後の過程を認識できるからです。
年末年始、ヘルパー派遣、デーサービスといった介護補助はなく、1日1歩、1日3食、お三度の日々です。といっても、箱根駅伝を観ながらではありますが。それに料理づくりは面倒とは思うけど嫌いではありません。
最後に。この下半期にブログを書きながらよく聴いた歌を紹介して終わりにします。シックが私的な集いでよく口ずさんでいた歌だと聞きました。
この1年間、ブログ頑張ったねと思われた方は↓
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この1年、たくさんの情報をありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします
- [2015/12/29 09:36]
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コメント
よくがんばりました!
初志貫徹、応援しています。
一年間お疲れ様でした
陳腐なようですが、米本様のブログを読んで、ペンは剣よりも強し、という言葉がまぎれもなく事実であると実感しました。
来年もよろしくお願いします。
大掃除頑張って下さい。
1年間、読ませていただき感謝です
お疲れ様でしだ。。
本年はお世話になりました。来年も宜しくお願いします。
妻は鶴派教団の地方教会で熱心にやっていて今やその教会の代表基台長。私は自分の持論を米本さんのブログのコメント欄や自分のブログで書きまくっています。
これだけ見解の相違の大きい夫婦も珍しいかと思いますが、お互いの考え方の違いを冷静に理解し合う訓練にもなります。意見は理解した、納得はしないけど。という感じですね。
時々礼拝に出ると、教会長が、「反対派は真の父母経が切りはりした経典だと言っていますが、そうではありません」なんて言っています。「私は反対派じゃないんだけど」と思いつつも、真の父母経については、ところによってはゴーストライターも起用して韓鶴子女史のみ言葉に仕立て上げている、正真正銘の偽経なんだけどなと思いつつ、説教を聞いています。
教会長も妻も、私とは意見が180度違うけど、なんとなく仲良く、不思議な関係。夫婦は喧嘩するために祝福受けたんじゃないし、幸せになりたいという希望はあるんだから、それは大事にしたいと思います。
お互いの見解は見解として認め合いつつ(納得するという意味ではありません)、来年は正しい教団情勢をもっともっと家内に伝えていきますので、米本さんのブログの記事を期待します。
今年もお疲れさまでした!
ブログ記事で発信してくださって
ありがとうございました。
お正月こそ、このブログ村からは
身も心も解放され癒してくださいね。
今年もありがとうございました。
教団は、米本さんと「相対基準を結ぶな」という事だとか。
拉致監禁ではあれほどお世話になっていながら、義理も人情もあったものではありません。
お金になるわけでもないのに、多くの時間を割いて、記事をアップし続ける米本さんの真意を汲むことのできる幹部はいないようで、わが教団ながら情けない限りです。
米本さんには、くれぐれもご自愛されて、無理のない程度に貴重な情報を届けていただければと思います。
来年もよろしくお願いいたします。
金栄輝先生
心に残っているのは、お父様のおっしゃることは絶対であるという、お父様絶対信仰のお姿でした。
清平を信じない食口がいるが、何があったしても清平はお父様が認められた事、それを忘れてはならないという話や、顯進様はお父様から直接指示されたことがあったにも関わらず、それに従わなかった。
ご子女様といえども、お父様の指示に従わないという事はあってはならないとも語られていました。
そんなお父様絶対信仰の先生だからこそ、今の状況は我慢ならないのかもしれません。
年末年始一息入れてください^^*
韓国は旧暦で祝うので、私は12月31日まで仕事。年末という感覚が無いのですが、今年も明日あさっての2日残すだけなんですね。
介護されていらっしゃると、どこかへゆっくり温泉旅行もできないでしょう。
せめて年末年始、ひと時でものんびりゆっくり心身を癒してください。
PS。それにしても200万ウォンでなく、1000万ウォンだったとは!
もらった元老公職者もまさか1000とまでは言えず、200と言ったのでしょうか(苦笑)
1月1日金曜日元旦、仁進様が今回の元旦(1月1日金曜日)に2016年を開く深夜祈祷会を開催されます。2016年を開く深夜祈祷会がイーストガーデンで開かれます
015年12月28日
敬愛する牧師、兄弟姉妹の皆様
真のお母様が、最近、前HSA-UWC国家会長(米国会長)であり、現在iホームチャーチ活動を進める仁進様を再びここ米国で、より公的な牧会活動をすることができるようように支援することを確認し、激励されました。
次の重要行事として仁進様が今回の元旦(1月1日金曜日)に2016年を開く深夜祈祷会を開催されます。この行事に全ての方々を招待致します。参加を希望される食口の皆様は、12月31日午後11時半前までにご到着ください。
来年から仁進様はイーストガーデンで毎週日曜日に説教をすることが予定されています。正確な詳細事項は確定していませんが、牧師たちと食口の皆さんと協力し、共にこの事を成していきたいと思います。
全ての食口の方々は、真のお母様の指導に従い、2016年の優先課題として、私たちの運動の中の癒しと和解を望んでおられる真のお母様の願いを支持してくださるようお願い致します。
神様の祝福が皆さんの家庭と共にあることを願いながら、、
Dr. Ki Hoon Kim、Continental Director(ギムギフン大陸会長)
Dr. Michael Balcomb、President(マイケルバルコム会長)
いつも、ありがとうございます^^
来年も、よろしくお願い致します^^
米本さんも皆様もよいお年をお迎え下さい。
「アウフヘーベン的授受作用提供の場」、実現するといいですね
「アウフヘーベン」という用語がでてきました。本当に懐かしい響き、ハッとしました。
それで久方ぶりに、相反する事象/アンチテーゼを弁証法的または授受法によってどのようにすれば発展/解決する事ができるのかを考えました。
若い頃、左翼と論争していた時は統一思想を教科書的に論じる事が多く、弁証法的手法には否定的でした。
しかし、このブログでは反対派、中立派、元食口、家庭連合派、UCI派、サンクチュアリ派、その他が米本さんが提供されるテーゼをそれぞれの立場で読み、それなりのマナーで論じているので、可能性を感じました。
「もしかするとこの場では弁証法的授受法的発展が可能になるかも。共栄共存は無理でも、何らか発展/解決策にそれぞれがたどり着ければ、どんなに素晴らしいことか。」と思い、対話に参加させていただいておりました。
これは、米本さんの運営手腕に追うところが大きいので、これからも高潔なモチベーションを持続されますよう期待致します。
PS.この頃は”Aufheben”という言葉にあまり馴染みがなく、「バームクーヘン」を連想する人もいるようです。ちょっと寂しいですね。
「アウフヘーベン」に触発され。
適当な窓拭きを終わり、今日は墓掃除&花生けをやりました。疲れたぁ!
そんで悟りました。3日までに綺麗にすればいいかと。
で、件名の「アウフヘーベンに触発され」てです。
いまどきの人で、こんな言葉にレス反応を起こす人はまずいません。
授受作用と似ているところはあるけど、霊界との関係になると、さようならです。
アウフヘーベン・止揚はとても重要な概念(積極的に物事を白か黒かではなく解決する概念)です。
応用例を考えれば、最近の日韓関係です。
無残なのは、「ちゃぬの裏韓国日記」でしょう。
【最悪】反日韓国宗教統一教会が支援してきた安倍政権が「慰安婦の旧日本軍の関与を認め謝罪」
http://ameblo.jp/chanu1/entry-12111237264.html
エセ純潔、淫乱、反日韓国宗教の統一教会が学ぶべきは日本の「教育勅語」(これこそ真の愛だ!)
http://ameblo.jp/chanu1/entry-12111420577.html
この人は資料をきちんと読んでいないことがありありなのでございます。
そういう意味でも・・・。
>これは、米本さんの運営手腕に追うところが大きいので、これからも高潔なモチベーションを持続されますよう期待致します。
高潔?うちの子どもが風邪を引きましたとさ。
Re: 1月1日金曜日元旦、仁進様が今回の元旦(1月1日金曜日)に2016年を開く深夜祈祷会を開催されます。2016年を開く深夜祈祷会がイーストガーデンで開かれます
お礼を述べるのが遅くなりました。ごめんさない。
動きがあれば、また教えてください。個人メールにいただければうれしいです。やりとりができますので。
Re「アウフヘーベン」に触発され。
(神々の黄昏さんからの引用)
私は 原理講論は真理ではない部分が多くあり、後編になるほど間違いが多く、最初の創造原理とその後の宗教論が一貫した内容になっていないと、今まで批判的なコメントを書いてきましたが、引用文にある‘呪術的思考’は 創造原理を除いた他の宗教論の中にも表れております。
原理講論の総序では歴史を通しての宗教的真理探究と科学的真理探究が進歩し、最終的にはそれらが互いに合致せねばならないことを強調しており、創造原理は その条件に適う新しい真理の解明を目指す内容となっています。
しかし、第二章の堕落論以降は一転し、古い宗教的観念に支配された論理展開となっているのです。
(以下、引用終わり)
統一原理を「創造・堕落・復帰」という枠生みで捉えている自分には少し異論もあるのだが、はっきり今回気づいたことが、自分の中では「創造原理」と「堕落論・復帰原理」を使い分けて考えているという偽らざる気持ちである。
確かに「創造原理」は普遍的な内容を扱っており、その普遍的な理想に行き着くための「堕落論」「復帰原理」は手段でしかないというふうに気づいたということだ。
しかし、それはずっと以前、そう「統一原理」を聞いた時から気づいてきた事なんだという記憶が蘇ってきた。その上で方法論として「堕落論」「復帰原理」を受け入れ、それを教義とする統一教会(現・家庭連合)に手段として入会していたことを再自覚することになった。
手段であるから永遠不変ということはありえない。その役割が終われば不必要なものにもなる。その必要がなくなれば、個人においても組織においてもその役割が終焉に向かっているということだろう。
アウフヘーベンの喩えに相応しいものかどうかわからないが、一年最後の「悟り」を紹介して米本ブログに謝意を申し上げる。
米本さん、来年はさらに忙しいことになる予感のニュースが既に紹介されていますが、正月はゆっくり英気を養っておいてください。
まず、神の『み言』であって「み言葉」ではありません。神のみ言には葉っぱはついていません。これは小さな間違いと片付けられない間違いです。
また、どなたかが、偉大な思想家、宗教家なら自分で書いた書籍を残す云々とおっしゃっていますが、イエスキリストも哲学者ソクラテスも、釈迦も孔子もみんなその教えは弟子が書いたものです。イエスの教えはあの膨大な聖書の中でしかもホンの僅かです。
神のみ言は生命のみ言。救いのみ言。
文書にはるかに勝ります。比べようがありません。本当は、300巻に上るみ言は直接すべて聞くことが理想です。
『舌は火である』ヤコブ書三章六節。
[2015/12/27 21:51] URL | Good Go
迷路のような宗教の問題
しかし、これほど言行不一致で偽善と妄想で凝り固まった宗教団体を相手にして、匙を投げることなく、真剣に向き合ってブログ活動を続けられる姿には深い人間愛を感じ、心から敬意を表します。
ジャーナリストである米本さんは当然ですが、まともな知性をもった人なら統一教会=家庭連合の教義や主張が「真理」「真実」などとはかけ離れたものであることは追究すれば、容易にわかってしまいます。
それを信者達が理解できなかったり、間違いであるという批判を受け入れられないのは、まさしく宗教そのものであるからなのですが、宗教がこのような形で人々を進歩から遠ざけてきたことは過去にもあったことであり、統一教会=家庭連合が最初ではありません。
ただ、世界宗教となっているものは、人間の理性に適った方向へ変化していますから、宗教の弊害は除かれつつあります。
問題は統一教会のような人間を神格化して崇拝する‘カルト’と呼ばれる宗教です。
盲目的な宗教信者が「真理」とは程遠い教義であったとしてもそれを「真理」であるように思い違いしてしまうのは前回の記事にも書かれていた呪術的思考に支配されているためです。
その呪術的思考は原理講論の堕落論以降の所々にみられますが、文鮮明氏の「御言葉」は呪術的思考で満ち溢れています。
その呪術的思考を人々が受け入れてしまう一番の原因は霊界の存在にあると考えることができます。
人間が非理性的なことであっても宗教で語られていることを信じてしまうのは実際に不可解な霊的な現象と言うものがあるからなのです。
私は原理講論の創造原理に書かれている無形実体世界(霊界)についての解釈をほぼそのまま信じており、その部分に関しては画期的な真理であると思っています。
しかし、霊界があると信じたとしても、実際にはその霊界を肉眼では見ることもできないし、その世界の構造などは創造原理には詳しく書かれていないのです。
つまり、霊界の実世界を人々は知ることができないし、基本的に霊界に対して無知であるのです。
そのため、そこに付け込んで呪術的思考であるものをあたかも霊界では正しい理屈であるかのように語る詐欺宗教家が現れてくるのです。
清平にいた誰かのように…
ただ、創造原理においては霊界が現実世界(有形実体世界)と相対関係にあり、共通の原理にしたがっていることが論理的に書かれていますから、全くの異世界ではないというのが‘原理的’な理解なのです。
創造原理は霊界に関しても呪術的な思考は基本的に否定しているのです。
しかし、それでも霊界の実相は確認できるわけではないので、創造原理的な思考ができない知的に未熟な信者は簡単に呪術的思考による「御言葉」の餌食となってしまうのです。
私は神の啓示によって霊界の実相の一部を知ることができました。(笑)
男子フィギアスケートの2015グランプリファイナルで羽生結弦選手が驚くべき世界新記録の高得点で優勝しましたが、その演技を見て私は感動しました。
その演技はまさしく神がかったもので、完璧で芸術的なものでした。
それで、そのテーマ曲の「陰陽師」に関心を持ち、検索しましたら、思いがけないテレビ番組の動画を見つけたのです。
https://www.youtube.com/watch?v=kM7pNjaDC74
それは日本版シャーマニズム、「悪霊払い」の実例を取材した番組でしたが、十分事実として認め得る内容でした。
それは最初の出だしは清平の解怨を思わせるものでしたが、内容は全く正反対で、創造原理の説明に近いものでした。
そこでは、地上人を通して、地上と全く同じようにして霊人の怨みを説かなければ、霊人は救われないし、その災いは解決されないことを証明していました。
そこからわかるのは霊界が存在することと、創造原理の解釈は間違っていないということです。
その番組に出てくる陰陽師は呪術的思考をしているわけではなく、原理的な考え方をして「悪霊払い」を行っていたのです。
統一信者は呪術的思考の「御言葉」に支配され、知的にも混沌としている状態なのですが、その狭い宗教的世界から脱するには、信者は未知の現実世界を多く知ることが必要であると思います。
統一教団の末端信者は教会の外の現実社会を知らないばかりか、内部の自分達が崇拝している人物の真実の姿さえよくわかっていないのですから、妄想の中にあったとしても自覚できず、真実とはまったく無縁の世界で生きていることにもなるのです。
したがって、まずその自分が生きている宗教世界の内外の真実を知ることが、信者にとっては必要で重要なことであり、真実を知ることによって、真理に目覚めることも可能になるのです。
そのような意味で米本さんのブログは教会員にとって必要であり、存在価値が限りなく大きいのです。
来年には「文鮮明とSEX」を追究して行くということですから、まさしく統一運動の本質をえぐる内容が記事に書かれることと思います。
とても興味深く、間違いなくその中から真実の世界が見えてくると思います。
米本さんには今年一年の情報提供、並びに高度な論評、そして内容ある提言にお礼申し上げ、感謝いたします。
統一教会=家庭連合本部は下劣な態度しかとらなかったので無念な一年であったかもしれませんが、米本さんの記事によって知的に覚醒された教会員もいることは確かなので、その成果は確実に残っていることを感じ、喜んで欲しいと思います。
一年間本当にお疲れさまでした。
三度(みたび)申し上げます。
>文先生に宗教指導者、新しい真理を提示する宗教思想家としての自覚と責任意識が本当にあったのならば、人々が共通に理解することができるよう、文章としてまとめて著す必要があったのではないかと思います。
しかし、実際はそのように文章として著すことはなさらなかった。あるいはできなかった。
しかし、三度申し上げますが、「イエスキリストも哲学者ソクラテスも、釈迦も孔子もみんなその教えは弟子が書いたものです。イエスの教えはあの膨大な聖書の中でしかもホンの僅かです。」
ソクラテスなどは哲学の術として産婆術いわゆる問答法を用い、文書にすることを避けていたとさえ言われています。
また、御言葉は「御言」であり、言葉とは違います。教会が協会でないのと同様、明らかな間違いです。
神のみ言は生命のみ言。救いのみ言。
『舌は火である』ヤコブ書三章六節。
今年もお疲れ様でした。
特に今月後半の記事では故・文鮮明氏のみ言に対する疑問や性関係のことなど、すべての文鮮明氏支持者から反感を買うような内容を書かれておられましたので、そこに強い覚悟と勇気を感じました。
身辺雑記、米本さんの優しい人柄が垣間見えて温かい気持ちになりました。ただ、猫ちゃんにチョコレートは絶対にダメですよ!原料のカカオには猫が中毒を引き起こす成分を含んでいて最悪の場合、死に至ることもあるそうなので…。ご存知かもしれませんけど念の為…。
穏やかな新年を迎えられますようお祈り申し上げます。
本年度お疲れ様でした。有難うございました。
末端不信者の私が知る術もない世界平和統一家庭連合(統一教会)に関する詳しい様々な情報と日本人ジャーナリストとしての批評を加えて頂き、本当に参考になりました。
朝鮮カルトと言われている伏魔殿の世界平和統一家庭連合(統一教会)の真の家庭の人間模様やそれぞれの考え方や韓国人幹部達、日本幹部達、分派等の考え方や動きを紹介して頂き、私の頭でも少しづつ理解し整理する事が出来る様になり、とても感謝しています。
健康に気をつけて新しく来る年も宜しくお願い致します。
>三度(みたび)申し上げます。
Good Go様
>しかし、三度申し上げますが、「イエスキリストも哲学者ソクラテスも、釈迦も孔子もみんなその教えは弟子が書いたものです。イエスの教えはあの膨大な聖書の中でしかもホンの僅かです。」
>ソクラテスなどは哲学の術として産婆術いわゆる問答法を用い、文書にすることを避けていたとさえ言われています。
私は学生時代、哲学科に籍をおいていたことから、哲学の難しい用語に悩むことしきりでした。それでなぜこのように難しい用語を使うのか、考えていましたが、あるときはたと気がつきました。
哲学者が自分の考えていることを正確に表す既存の用語がないのだと。例えば、詩人が自分の感性で感じた感覚を、正確に表現するために、苦悶しながら言葉を紡ぎ出すように、哲学者も苦労しながら言葉を紡ぎ出す。
どうしても既存の用語で表現できない場合は、言葉を新しく作る。例えばハイデガーの「投企」のように。翻訳者も、造語で翻訳するしかない。
ブッダも悟りを得たのち、悩みますね。自分の悟りを本当に伝えられるかどうか?世の中の人々が理解してくれるかどうか?まあ、そういうことだと思います。
>迷路のような宗教の問題
> 問題は統一教会のような人間を神格化して崇拝する‘カルト’と呼ばれる宗教です。
> 盲目的な宗教信者が「真理」とは程遠い教義であったとしてもそれを「真理」であるように思い違いしてしまうのは前回の記事にも書かれていた呪術的思考に支配されているためです。
> その呪術的思考は原理講論の堕落論以降の所々にみられますが、文鮮明氏の>「御言葉」は呪術的思考で満ち溢れています。
カルトということで言えば、どんな宗教教団でもカルトになると思います。私が以前作っていたブログで、カルト研究の記事を書いています。
これが統一教会の文鮮明師を悪者にしようとする団体だ─カルトとは2(http://ucwebwatch.seesaa.net/s/article/164749980.html)
これが統一教会の文鮮明師を悪者にしようとする団体だ─カルトとは3(http://ucwebwatch.seesaa.net/s/article/164749981.html)
という記事で、カルトについての一般的定義と、それに基づくイエス教団の分析をしています。
どうでしょう?イエス教団こそカルト教団と言えます。ブッダの教団も、多分当てはまると思います。
できたばかりのイエス教団は、このようにカルト教団でしたが、長い年月のうちに、度重なる聖書の改竄、教義解釈変更ののちに、カトリックやプロテスタント諸派など、成熟した教団になっていったわけです。
聖書の福音書の成立はAD60〜100頃、それまで弟子たちが記録したイエスのみ言のメモとか、何らかの資料を基に福音書を編纂しましたが、この作業自体がもう改竄であるわけです。なので、福音書によって話の展開の筋が違います。
仏教の大乗仏典の成立も、AD200〜300年くらいですから、ブッダの言がどれくらい正確に入っているかは疑問ですね。そんな感じです。それに比べて分子のみ言は記録されています。
しかし、これも元は話し言葉。どれだけ正確に書き言葉に正確に書き直されているかわかりません。
雑感
明けましておめでとうございます。
>哲学者が自分の考えていることを正確に表す既存の用語がないのだと。例えば、詩人が自分の感性で感じた感覚を、正確に表現するために、苦悶しながら言葉を紡ぎ出すように、哲学者も苦労しながら言葉を紡ぎ出す。
しかり。しかり。
哲学においては形而上学的命題を形而下の言葉で探求し説明しなければならず自ずと限界があります。
さらに
>聖書の福音書の成立はAD60〜100頃、それまで弟子たちが記録したイエスのみ言のメモとか、何らかの資料を基に福音書を編纂しましたが、この作業自体がもう改竄であるわけです。
改竄以上に、キリスト教神学そのものはイエスのみ言とは大きくかけ離れていますね。イエスと実際に会ったこともないパウロがイエスの十字架による救い(コリントⅠ-)
所謂十字架信仰を勝手に唱えだしたのですから。
当然の事ですが、イエスはもちろんイエスに生きて従った使途はみなユダヤ教徒であり、イエスの死後十二使徒は誰も十字架の信仰など持っていませんでした。
従って、ユダヤ教やイスラム教からすれば現在のキリスト教の十字架信仰は、カルトという表現はともかく偶像崇拝と受け取られてもしかたないですね。
神様ごとはやめてくれ
???
そうですよね。言論の自由を標榜なさる正義のジャーナリストがご自分のポリシーに反するような事をおっしゃるはずがありません。
まして、「ヘドログループがまた強制移動に乗り出したぞ!」でブログの強制移動を批判された方が「出ていけ。紀藤ブログで書け」って。そんな事をおっしゃる訳がありません。
私の意見はごくごく僅か数行の内容でしたが、新年早々ご不快な思いをさせてしまったようです。
それにしましても、元々は神々の黄昏氏に対して反論したはずですが、当のご本人はいつもは長々と持論を展開なさるのに沈黙なさってるとは。
それでは。またいつの日か。
>???
そうですよね。言論の自由を標榜なさる正義のジャーナリストがご自分のポリシーに反するような事をおっしゃるはずがありません。
この指摘、正しいです。
しかしながら、みこと、みことばの違いを指摘し、それへのコメントを求めるなんて・・・。
誰も回答したくないという気持ちがわかっていない。
アホです。
>それでは。またいつの日か。
読者は大切にしていますが、もう少し頑張ってくださいな。
興味深く読ませていただきました(拡散希望)。
ここに書かれている内容は、残念ながら○○の公職者が信者からお金をだまし取った、とかいうレベルではありません。
極めて本質的な内容が含まれています。なぜ擁護派の方々がこの問題に対して真剣に回答をしないのか、理解できません。
ジャーナリストの米本様ではなく、本来であれば、擁護派の方々が主体的に提起して、真剣に議論すべき内容であると考えるのは私だけでしょうか?
日本家庭連合(統一教会)を論じるのであれば、避けて通る、あるいは、逃げるのはやめて下さい。
もし共感していただく方がいるのならば、この内容を拡散してください。
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み言葉に関する書き込みを興味深く読ませていただきました。
以下の内容は事実であると確信せざるをえません。
1.韓国語で語られているみ言葉の多くは意図的にスクリーニングされ日本に入っきていない。
2.日本語に翻訳されたみ言葉も一部指導者による恣意的な編集がなされている。
してみると、日本語に翻訳されたみ言葉を学んで日本家庭連合(統一教会)に入会した日本人の多くは、
日本家庭連合(統一教会)に入会したのであり、
本来(残念ながら民族の壁を越えていない反日的で拝金主義の)韓国家庭連合に入会する意図はなかったと考えるのが妥当と考えます。
日本家庭連合(統一教会)の幹部はみ言葉の編集、改竄の責任及びこのように偽って日本人を入会させて混乱させた責任を重く受け止め、
1.日本家庭連合(統一教会)を韓国家庭連合から独立させ、
自分たちが編集、改竄して日本人に語ってきた(自分たちが理想とする)み言葉を中心とする教団を設立する、あるいは、
2.信者に対して謝罪して、韓国家庭連合の実体、
即ち、日本家庭連合が本来説明していたものと異なるものであることを認め、
行くべき道、日本家庭連合(統一教会)から離れ、別の宗教団体を見つけるよう諭す、
の二者択一の立場にあると考えます。
いずれにせよ、日本家庭連合(統一教会)の現状はあまりにも教理からかけ離れています。
日本家庭連合(統一教会)は道行く人に「全ての問題を解決できる」、「理想世界を作る」と訴え、さらには、キリスト教の限界を訴え、既成教会では理想を実現できない主張して多くの青年、壮年壮婦たちを勧誘してきました。
ここにきて、(あたかも他人事のように)「キリスト教もそうだったから仕方ない」と言い訳することは許されるのでしょうか?
擁護派の方々の書き込みは失礼ながら、韓国的論法を使ってゴールポストをずらして自己弁護しているようにしか思えません。
下記引用のように「救い主」も「教会」も必要のなくなる「完全なる救い」がここにあるとして信者を勧誘してきました。
その結果、多くの若い青年たちが入会し、拉致監禁のような悲しい出来事も起きたのです。
擁護派の方に問いますが、現実はご自身が信者を勧誘する時に話してきたこととだいぶ違うとは思いませんでしょうか?
こういう現実を勧誘する段階でしっかりと説明していたらこのように数多くの拉致監禁は発生しなかったでしょう。確かに後藤さんのように帰ってきた人もいますが、拉致監禁されて初めて日本家庭連合(統一教会)の実体に気づいた人も多くいると聞き及んでいます。
日本家庭連合(統一教会)擁護派の方が心配をしなくとも、日本家庭連合(統一教会)は勧誘が熱心なだけで、わざわざ韓国に行かなくとも実際日本には受け皿となりうる良い宗教団体も多く存在しているようです。
このような「為にする議論」を繰り返し、自分たちの行っていることが実現不可能であると暗に認めるのであれば、日本家庭連合(統一教会)解散も勇気を持って選択肢に入れるべきかもしれません。
擁護派の方には書き込みをするときはこのような「ためにする議論」はやめていただき(せっかく多くの知識があるのですから)、
本質に対して虚心坦懐にご自身の考えるところを書き込んでいただけると建設的な議論ができるのかなと老婆心ながら思いました。
読んで不快に感じる人もいると思いますので・・・。
第一節 十字架による救いの摂理
(一) メシヤとして降臨されたイエスの目的
イエスがメシヤとして降臨された目的は、堕落人間を完全に救おうとするところにあるので、結局、復帰摂理の目的を成就なさるためであった。ゆえに、イエスは天国を完成しなければならず、したがって、地上天国を先に実現なさるはずだったのである。これは、イエスが弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・48)と言われたみ言を見ても悟ることができる。創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と一体となり神性をもつようになるので、罪を犯すことができない。したがって、そのような人間は、創造目的から見れば、天の父の完全なように完全な人間である。それゆえに、イエスが弟子たちに言われたこのみ言は、すなわち創造目的を完成した人間に復帰され、天国人になれという意味のみ言だったのである。このように、イエスは堕落人間を天国人に復帰させ、地上天国をつくるために来られたので、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」祈りなさいと言われ(マタイ六・10)、また、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ四・17)と叫ばれたのである。それで、彼の道を備えるために来た洗礼ヨハネもまた、「天国は近づいた」(マタイ三・2)と叫んだのであった。
それでは、創造目的を完成した人間に復帰され、イエスが言われたとおり、天の父が完全であられるように完全になった人間とは、いかなる人間なのだろうか。このような人間は、神と一体となり、その心情を体恤することによって、神性をもつようになり、神と一体不可分の生活をするようになるのである。また、この人間は、原罪がないので、再び贖罪する必要がなく、したがって、救い主が不必要であり、堕落人間に要求される悔い改めの祈祷や、信仰の生活も、また必要ではないのである。そればかりでなく、原罪のないこれらの人間は、原罪のない善の子孫を生み殖やすようになり、したがって、その子孫も贖罪のための救い主は必要がないのである。
新年を迎えてさらに深化を期待できる米本ブログ
数年前は癌の手術をなさり、お母様の介護をなさっておられる中で、最悪の戦いを通過されてきた米本さんですが、今このように無事健康にて新年を迎え、‘火の粉を払え’によって一層活躍中であることはとても喜ばしく、私達読者にとっては大きな恵みであり感謝すべきことです。
米本さんはたくさんの取材を重ねる中で、その記事に書かれるテーマはより本質な方向へ向かっていると感じ取れますので、読者としてもますます深い関心をもって記事に期待することができます。
また、‘火の粉を払え’によってしか‘統一運動’の真の全体像を捉えることができないのが現実ですから、偏らない情報と真相の究明を得たい統一教会=家庭連合関係者は米本さんに期待せざるを得ません。
そのような貴重な存在である米本さんを今年も応援して参りますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
現在の時点では、まだ記事は更新されておりませんが、「蛍の光 窓の雪(ブログ総集編)」ではまだコメントが継続し、問題が残されているようです。
よく読んでみますと、私のコメントに対するGood Goさんの意見があって、その意見に無反応なので???ということらしいです。
Good Goさんが返答を得られないことによって、心が新しい年を迎えられないのもよくないので、しっかりレスコメントさせていただきます。
>しかし、三度申し上げますが、「イエスキリストも哲学者ソクラテスも、釈迦も孔子もみんなその教えは弟子が書いたものです。イエスの教えはあの膨大な聖書の中でしかもホンの僅かです。」
ソクラテスなどは哲学の術として産婆術いわゆる問答法を用い、文書にすることを避けていたとさえ言われています。
>また、御言葉は「御言」であり、言葉とは違います。教会が協会でないのと同様、明らかな間違いです。
私が以前コメントで文先生の御言葉について書いた「人々が共通に理解することができるよう、文章としてまとめて著す必要があった」ことの理由は原理講論の総序を読めば誰でもわかることです。
総序には以下のように書かれています。
(引用始め)
故に、神の救いの摂理が完全になされるためには、この新しい真理は今まで民主主義世界において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導き得るものでなければならない。同時にまた、この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんのこと、あらゆる宗教までも、一つの道へと、完全に統一しうる真理でなければならないのである。
(引用終わり)
原理講論では「宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決」することができる新しい真理が必要であると、特に強調しています。
その新しい真理とは原理講論に書かれている統一原理を指しているわけなのですが、総序には また「ここに発表するみ言はその真理の一部であり」と書かれており、原理講論には さらに文先生の「み言」などを加えたものが新しい真理であるという説明になっています。
その新しい真理の目的は 上の総序の引用に書かれているように、思想統一、宗教統一なのです。
それでは、唯物論を吸収したり、すべての思想、宗教を統一するにはどのような条件を満たす必要があるのかと考えれば、当然ながら、それらの違った思想、宗教を持つ人々が共通の認識を持つことができるような論理的な言葉で表現されているものでなければならないのです。
各々の人達によって解釈が異なってしまうような曖昧な言葉や、何かに例えたような内容では人々を共通の認識に至らせることはできないのです。
話し言葉は基本的に会話を目的としており、話し相手に意思が伝わればそれで充分なので、通常はその話し相手以外の人々が聞いた場合など考えておらず、その場でしか通用しない言葉で語られる場合も多いのです。
しかし、「新しい真理」の条件を考えれば、そのような話し言葉がそのまま「新しい真理」になることなど不可能なのです。
文章として著すことは「新しい真理」と主張するための基本条件であり、考え抜かれた文章として論理化されていてこそ初めて普遍的真理であると主張することができるのです。
もしGood Goさんがイエスキリストやソクラテス、釈迦、孔子などが その教えを文章に著していないことを理由に文先生がご自身の思想を文章に著していないことを正当化しようとするなら、それは全く馬鹿げたことです。
原理講論をよく読んでください。
過去の宗教家、思想家、哲学者などは結局究極的真理を解明することはできなかったと原理講論には書かれているのです。
その、過去の宗教家や思想家ができなかったことを達成するのが「神に遣わされた」文先生の使命であると書かれているのです。
イエス・キリストは文先生に言わせれば、使命を果たせず、神の摂理を失敗したことになっているのですが、その失敗したイエス・キリストがまったく著書を残さなかったからといって、摂理を勝利せねばならない文先生が著書を残さなくてもいい理由にはならないのです。
文先生の主張では、再臨のメシアとイエス・キリスト、ソクラテス、釈迦、孔子は人間としてまったく別ものなのです。
再臨のメシアはそれらの聖人、賢人達ができなかったことを成し遂げねばならず、文先生に言わせれば、彼らは敗北者で再臨主は勝利者でなければならないのです。
そして、勝利者である再臨主は「新しい真理」を提示せねばならないのです。
つまり、過去の聖人、賢人達が文章として著せなかった「新しい真理」を誰もが共通に理解できるよう文章として著さねばならないのです。
それでこそ、救世主となれるのです。
Good Goさんが「み言」に拘るのは学問的な理由からではなく、統一教会=家庭連合に従順であるからだと思います。
「み言」という言葉は一般的ではなく、統一教会独特の表現です。
おそらくその根拠は新約聖書・ヨハネによる福音書にあると思います。
ヨハネによる福音書においては「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(1章1~2)と書かれています。
その聖書にある「言」とはロゴスを意味しており、理性、概念、論理、宇宙の理法などがその意味です。
原理講論において文先生の言葉に基づくものを「み言」と表すのは、文先生を神格化しているためなのですが、その「言」の使い方は聖書にはそぐわないものとなっています。
聖書は形式として表れる言葉ではなく、その内容としてあるものを「言」と表現したのですが、それらがこの現実世界で人間によって語られる時には言葉となるのです。
ヨハネによる福音書には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1章14)というようにイエス・キリストについて書かれていますが、イエスから出る言葉を「み言」などとは表現しておりません。
人間の語る言葉はたとえ神の子とされるイエス・キリストであっても「言葉」なのです。
原理講論において劉孝元氏が「み言」という表現を使ったのは不適切であり、一般人には通用しないのです。
それは、朝鮮半島に伝統としてある上位の者には絶対服従し、敬語を多用する朝鮮儒教の習慣からきた造語であるのですが、聖書とは矛盾しているのです。
Good Goさんがこのレスコメントを読んでいるならわかってほしいのですが、教会内の造語など一般社会には通用しないし、その出どころもかなりいい加減なのです。
ですので、一般人に通用するように言葉を使うなら、教会用語をそのまま使うのではなく、自分の頭でしっかり考えてから言葉にする必要があるのです。
そうでないと、反統一の人達から「マインドコントロ―ルされている」「洗脳されている」と言われても、反論などできなくなってしまうのです。
新年は頭を原理的に整理して、神に通ずる純粋な気持ちで出発したいものです。
今年もよろしくお願いします
米本さん
昨年は多くの貴重な記事をあげてくださり、ありがとうございました。他では出来ない貴重な議論を出来たと思っております。
自称現役信者としては耳に痛い言葉も多かったわけですが、こうやって議論を進める中で、現役としても勘違いや思い込んでいた事が正され、文先生の真意に近づけると思っています。
その過程で、どうしようもなくなるとすれば、文先生が本物でなかったか、あるいは自分の探求が不足(偽物)だったかで、その判断は個人の責任になると思いますが、文先生という人はそこまで追求する価値に値する人だと思っています。
WATCHER2さん
み言葉が意図的にスクリーニングされ編集されていること。私も同感です。私がこの事に初めて気がついたのが、1992年の事でした。どうしても解けないカインアベル観について韓国の先生に尋ねた時、「日本はまだそんな事を言っているのか。この間、文先生が「日本にアベルカインは無い、私がアベルだ」と言われたばかりではないか」と聞きました。その時はちょうど7.1節のとき、日本では、文先生をアベルとしてすべての兄弟姉妹が横一線に並んだというみ言葉が語られていました。私は、この日本で伝えられた言葉は先の言葉が編集されたものだと疑っています。み言葉選集で裏付けを取れるといいのですが。
ちなみにこの文先生の言葉も矛盾してます。アベルカインがないといいながら、私がアベルだという。これは、文字どうり受け取るものではなく、どうにもならない日本のカインアベルに対処するための文先生の苦肉の策だと思ってます。
古い例で申し訳ありませんが、意図的な編集と疑っているものを紹介させていただきました。
>興味深く読ませていただきました。
>以下の内容は事実であると確信せざるをえません。
>1.韓国語で語られているみ言葉の多くは意図的にスクリーニングされ日本に入っきていない。
>2.日本語に翻訳されたみ言葉も一部指導者による恣意的な編集がなされている。
そうそう。しかし、さらに由々しきことがもう二つあるのですよ。韓国語版自体が改ざんされているということ、新しくできた真の父母経にいたっては、韓国語の原本自体、韓鶴子女史が実際には語っていないのにゴーストライターが書いたと目されるみ言があるということです。聖書改竄史をまざまざと見せつけられるようで、嗚呼、なんたることか?
>日本家庭連合(統一教会)の幹部はみ言葉の編集、改竄の責任及びこのように偽って日本人を入会させて混乱させた責任を重く受け止め、
>1.日本家庭連合(統一教会)を
日本家庭連合(統一教会)を韓国家庭連合から独立させ、自分たちが編集、改竄して日本人に語ってきた(自分たちが理想とする)み言葉を中心とする教団を設立する、あるいは、
>2.信者に対して謝罪して、韓国家庭連合の実体、 即ち、日本家庭連合が本来説明していたものと異なるものであることを認め、 行くべき道、日本家庭連合(統一教会)から離れ、別の宗教団体を見つけるよう諭す、
>の二者択一の立場にあると考えます。
私はまずその前に、やるべき手順がひとつあると思います。それは、日本に定住する気のない韓国人に、早く帰国してもらうこと。特に総会長なるポストは有害無益なので廃止することです。
日本に帰化してでも布教したいというような、鑑真並みの崇高な精神を持った韓国人なら別ですが(鑑真は中国人ですが)、帰化する気のない人は、旅の恥はかき捨てで、むちゃくちゃ献金強要したり、出刃包丁を送りつけたりする人がいるので、とっとと追い出したい。
さらには、日本には会長がいるのに、なぜその上に総会長という韓国人専用ポストがあるの?きっと韓国がIMF指導下の厳しい経済状況にあった時に、雇用対策で作った幹部用ポストだと思いますが、百害あって一利なしのポスト。早く廃止しないといけません。
この二つが改革されると、やっと日本独自の意見が韓国本部に言えるようになると思います。仰る改革案はその次のステップだと思います。
>ここにきて、(あたかも他人事のように)「キリスト教もそうだったから仕方ない」と言い訳することは許されるのでしょうか?
>擁護派の方々の書き込みは失礼ながら、韓国的論法を使ってゴールポストをずらして自己弁護しているようにしか思えません。
私が、原初のイエスと共同生活したイエス教団もカルト、ブッダと一緒にいたブッダ教団もカルト、統一教団もカルトといったのは、それでいいという意味で言ったことはありません。擁護しているわけでもありません。ただ私の事実認識として、宗教は皆カルトだと思っています。それはいいとか悪いということは別にして、発生した当初は皆カルトだと言っているのです。まずそれを認識しましょう。
そしてその次の段階としてそのカルト対策です。まず第一に、自分のカルト脳を自分で治癒してしまうこと。これが今、私が自分で心がけていることです。これがまず、自己防衛策として一番基本的なことです。それができれば、その団体にいようといまいと、脳の正常な働きを阻害されることはありません。
それができた上で、次にそのカルトを脱会するか、改革するかです。脱会すれば、自分はそのカルトからは逃れられますが、依然そのカルトの影響下にある人々は残ってしまいます。できればそのカルトを脱会しないで、内部から改革できれば、それに越したことはありません。私なんかは、それがまだできる立場にあります。
潰してしまえという考え方もあり、私なんかは時々自暴自棄になって、そういう考えに傾くこともあります。が、それは最後の手段ですね。
2016年早春
その中でも、彼岸花さんの次の言葉がじーんと来ました。
>特に今月後半の記事では故・文鮮明氏のみ言に対する疑問や性関係のことなど、すべての文鮮明氏支持者から反感を買うような内容を書かれておられましたので、そこに強い覚悟と勇気を感じました。
このブログの読者の80%以上は文鮮明氏支持派です。情報提供者の方々もそうです。
ブログ村全体を見渡したら97%以上がそうでしょう。
ブログを開設してから6年目。
ようやく、ようやっと、モヤモヤしていた親玉・文鮮明さんへのラジカル(根源的)な批判をすることを決意しました。
>新年を迎えてさらに深化を期待できる米本ブログ
> 私が以前コメントで文先生の御言葉について書いた「人々が共通に理解することができるよう、文章としてまとめて著す必要があった」ことの理由は原理講論の総序を読めば誰でもわかることです。
> 総序には以下のように書かれています。
……引用は省略……
> 原理講論では「宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決」することができる新しい真理が必要であると、特に強調しています。
> その新しい真理とは原理講論に書かれている統一原理を指しているわけなのですが、総序には また「ここに発表するみ言はその真理の一部であり」と書かれており、原理講論には さらに文先生の「み言」などを加えたものが新しい真理であるという説明になっています。
新しい真理が「原理講論に書かれている統一原理」だとすると、これは大変な矛盾が生じることになりますね。文氏は「八大教材教本」を学習書、あるいは経典と言ってもいいかもしれませんが、指定しているわけです。ということは、新しい真理とは「八大教材教本」であり、統一原理ではないということになりますね。統一原理の概念をもう少し拡張して「八大教材教本」の基底に流れている基本的な真理とでもすれば、この矛盾は解消しますが、ではそれをまとめてくれよという要望が多数教団員から寄せられるだろうと思います。が、それは現在の日本教団本部の力量では到底無理。新しい真理全体としては八大教材教本が示され、講義してくれと言われれば、その一部に過ぎない統一原理の講義が行われるという、矛盾したことが続くのでしょう。
> 各々の人達によって解釈が異なってしまうような曖昧な言葉や、何かに例えたような内容では人々を共通の認識に至らせることはできないのです。
> 話し言葉は基本的に会話を目的としており、話し相手に意思が伝わればそれで充分なので、通常はその話し相手以外の人々が聞いた場合など考えておらず、その場でしか通用しない言葉で語られる場合も多いのです。
> しかし、「新しい真理」の条件を考えれば、そのような話し言葉がそのまま「新しい真理」になることなど不可能なのです。
> 文章として著すことは「新しい真理」と主張するための基本条件であり、考え抜かれた文章として論理化されていてこそ初めて普遍的真理であると主張することができるのです。
大意としては同意します。が、たとい全き真理であっても、読む人全員が全く同じ解釈に至れるかどうか、それはどうですかね?
私は学生時代、ヘーゲルの「精神現象学」をゼミで勉強しましたが、ドイツ語のこの関係代名詞は男性形の何格だからどの言葉にかかるはずだとか、何々先生の訳本だとこういう訳になっているとか、色々と説があるんだなと思っていました。
だから、万人が全く同じ解釈にならなくても、それはまあ致し方のないところだと思います。
Re:原田さんのコメント
>だから、万人が全く同じ解釈にならなくても、それはまあ致し方のないところだと思います。
原田さんは「新しい真理」をどのようなイメージで捉えているのか私には定かではありませんが、私は『全宇宙の根本原理』というイメージで捉えています。
原理講論の総序は その中で人間の堕落を決めつけるなど確かに問題もありますが、新しい真理の必要性を訴える主張には頷けるものがあります。
その原理講論を素直に読めば、「新しい真理」は科学性と宗教性の両方を持ち合わせたものとならなければならないはずですが、その条件に適うのは創造原理のみです。
原理講論の内容としてある「創造」「堕落」「復帰」を総合した上で統一原理と捉えるのが普通なのですが、「堕落論」「復帰原理」には科学性はほとんどないため、それらは総序の「新しい真理」の条件に適わないことになります。
つまり、総序において主張していることには同意できる内容があるのですが、原理講論そのものはその「新しい真理」の条件を十分に満たすものではないのです。
それでは、文先生の講演集から抜粋した文章で構成されている「八大教材教本」がその「新しい真理」の条件を満たしているのかと言えば、全くそのようなことはなく、前にコメントしたように呪術的思考で満ち溢れているのです。
文先生の講演内容には非科学的なものがあまりにも多すぎて 新しい、古いもなく、「真理」などと呼べる代物ではないのです。
血統を万能視する考え方や、血統転換教義を救済論とする考え方などは科学と真っ向から対立するもので、過去の宗教から何一つ進歩しておらず問題外なのです。
私は「八大教材教本」に全ての真理が含まれていると宣言した段階で、文先生は原理講論でいうところの「再臨のメシア」ではないと確信しました。
私には原理講論の創造原理や統一思想要網と「八大教材教本」を同じ宗教思想と考えられる人の思考回路がまったく理解できないのです。
結局、「八大教材教本」を永遠の聖書であるとか、人類の未来を築く教本であると人から言われて、それを信じられる人というのは元々が真理探究者ではなく、宗教愛好家なのだと思うようになりました。
私は、真理に対する探究心は決して捨て去ることができないので、宗教愛好家のように簡単に思考放棄することはできないのです。
私は原理講論で述べるところの「新しい真理」は原理原則と呼べるような単純明快なものでなければならないと思っています。
創造原理の四位基台などはそのような条件に当てはまるのですが、その原理原則に照らせば、あらゆる問題が解決可能となるような内容でなければ「新しい真理」とは言えないのです。
ですので、解釈が分かれるような宗教論であること自体が既に「新しい真理」ではないということであり、あたかも数式であるかのように単純明快に本質的な問題を解明できてこそ「新しい真理」であると言えるのです。
だいいち、「真理の解釈」というのは言葉として矛盾しているのです。
宗教論の解釈とか、例え話の解釈というならわかるのですが、真理とされるものが共通に人々によって理解できないものであったなら、そこには普遍性がないということであって、真理とは言えないことになるのです。
統一教会に多くの問題が生じるのは文先生の思想が真理ではないからであって、そこに間違いがあったため想定しない問題が生じたと考えるのが普通なのです。
それは米本さんが記事にした朴サムエル氏の証言一つをとっても明らかです。
文先生の「御言葉」には呪術的思考が強く働いているのがわかるのですが、特にそれは「蕩減復帰」の考え方に明確に表れています。
自己犠牲を払いさえすれば、それが条件となって、全く違ったところで良い結果が現れるとか、信じられないような命令に従えば、それが人類始祖の原罪の蕩減となって罪が清算されるとか、因果関係が原理を逸脱しており、発想が幼稚で単なる呪術的思考に過ぎないのです。
統一教会=家庭連合の経典にあるものの中で真理と言える教理はその一部であり、間違いがあまりにも多いのです。
思考がより真理に近づくには一体どうしたらよいのか?
そのためには思想的な間違いを排除し、正しい原点から真理を探究し直さなければならないのです。
>新年を迎えてさらに深化を期待できる米本ブログ
新年明けましておめでとうございます。
ご反論頂いた事にまずは、感謝申し上げます。
しかし、残念ながら内容はいつもながらただ長いだけで、いささか論理の誤謬があり、論理が破綻しています。
まず、もう一度論点を引用してポイントを明確にさせて頂きます。
神々の黄昏氏-「御言葉重視派への根本的な疑問」(12月20日)より引用-
>文先生に宗教指導者、新しい真理を提示する宗教思想家としての自覚と責任意識が本当にあったのならば、人々が共通に理解することができるよう、文章としてまとめて著す必要があったのではないかと思います。
しかし、実際はそのように文章として著すことはなさらなかった。あるいはできなかった。
Good Go
>しかし、三度申し上げますが、「イエスキリストも哲学者ソクラテスも、釈迦も孔子もみんなその教えは弟子が書いたものです。イエスの教えはあの膨大な聖書の中でしかもホンの僅かです。」
ソクラテスなどは哲学の術として産婆術いわゆる問答法を用い、文書にすることを避けていたとさえ言われています。
ここでの論点は、いずれの教えも弟子が書いたという事ですが、私が申し上げているのは、弟子が書いたから「文先生に宗教指導者、新しい真理を提示する宗教思想家としての自覚と責任意識がなく、文書として著すことはなさらなかった。出来なかった。」とは言えないという事です。
文先生のみ言から。
「解放後、七年目に私がすべき召命的責任を果たすため、教本、教材である『原理原本』を作りました。『原理解説』を発表したのが一九五七年であり、『原理講論』は一九六六年に出ました。・・・・・『原理原本』を中心として『原理解説』を出版しました。何ももたずに
教育することは出来ないので、本が必要だったのです。・・・・・・お父様に会うこともなく、従った最初の人が劉孝元協会長でした。・・・・劉協会長は、お父様よりも六歳年上でした。洗礼ヨハネはイエス様よりも六ヶ月年上でした。ですから、劉協会長は洗礼ヨハネの立場です。彼は洗礼ヨハネの立場で原理を解説しなければなりませんでした。
『原理講論』を書くとき、すべて文章を鑑定し、間違っていれば直させました。
―真の父母經 P417~418 第五篇第四節『原理解説』と『原理講論』の発刊-
実際15年程まえ劉元協会長の奥様でいらっしゃる史吉子先生から同様のお話しを直接私はお聞きしています。原理講論は文先生が劉氏を直接指導なさり、すべて文章を鑑定なさり、世に出たのです。
神々の黄昏氏がおっしゃりたいのは、文先生が直節ペンを持たれてご自身で執筆されていないという事でしょう。しかし、上述の通り、文先生は救世主メシアとしての明確な使命、目的をもって『原理講論』の執筆を指導監修なさり発刊されています。
>もしGood Goさんがイエスキリストやソクラテス、釈迦、孔子などが その教えを文章に著していないことを理由に文先生がご自身の思想を文章に著していないことを正当化しようとするなら、それは全く馬鹿げたことです。
原理講論をよく読んでください。
過去の宗教家、思想家、哲学者などは結局究極的真理を解明することはできなかったと原理講論には書かれているのです。
神々の黄昏氏の論理が破綻していると申し上げているのは、文先生の直接指導の元書かれた『原理講論』を根拠となさってますので、真に失礼ながら何をかいわんやなのです。
さらに、神々の黄昏氏は
>つまり、文先生は劉孝元氏の知的レベルまで到達しておらず、原理講論の創造原理などは文先生の知性を上回る内容だったのです。
などと、真に失礼極まりない物言いですが、その根拠としてあろうことか「六マリアの悲劇」を執筆した朴正華氏の証言を上げていますが、この方は後にご自分の愚かな行為が恐ろしくなり「私は裏切り者」という本を執筆され「六マリアの悲劇」は虚偽の内容であったと教会に謝罪され、謝罪の講演までなさっています。
長くなりますと、管理人の米本様のお叱りを受けますので、この件はこのくらいにいたします。
もう一点
「み言」と「み言葉」に関して。
いろいろありますが長くなりますので下記の点のみ
>Good Goさんが「み言」に拘るのは学問的な理由からではなく、統一教会=家庭連合に従順であるからだと思います。
>「み言」という言葉は一般的ではなく、統一教会独特の表現です。
>原理講論において劉孝元氏が「み言」という表現を使ったのは不適切であり、一般人には通用しないのです。
はてさて、この件に関しましては、見解の相違がありますので一概には言えませんが、まずはじめの「統一教会=家庭連合に従順であるからだ」といういつもながらの神々の黄昏さんの決めつけとも言える上から目線のご指摘は明確に否定します。
まず、とても単純な理由として「み言」と呼称しており、「み言葉」とは呼称していないという事があげられます。ですからそれを正確にすべきという事です。もっと分かり易く申し上げますと。神々の黄昏氏のハンドルネームを引き合いに出して恐縮ですが、例えばこのハンドルネームに対して「神々の?だって?唯一神の神様を神々だと~?」「神の黄昏じゃないのか?」などとされたらご自身如何でしょう?(笑)
黄昏という言葉も人生の黄昏とか、絶対永遠不変の神に似つかわしくありませんね。こんなこと書くとA4用紙に30枚ほど反論されそうですね。
また、「み言」という言葉が一般的でない。と言うのは如何なものでしょう?一般のキリスト教会でも普通に使われています。まぁ両方使われてはいますが特段統一教会独特の表現という事はありません。
>劉孝元氏が「み言」という表現を使ったのは不適切であり、一般人には通用しないのです。
この点が一番不思議でならないのですが、一方で神々の黄昏氏は劉孝元氏の執筆だからとこだわる原理講論の『創造原理』だけを真理であると大絶賛してらっしゃいます。しかし創造原理には、「み言」以上に一般人には通用しない?(私はそうは思いませんが)神の二性性相・万有原力・授受作用・四位基台・正分合作用といったご指摘のようなキリスト教会では仰天するような独自の表現で溢れています。こういうところにも神々の黄昏氏の批判構成の危うさと矛盾を感じざるを得ません。
>劉孝元氏が「み言」という表現を使った。
というのはともかく、イエス様にしても文先生にしても、神々の黄昏氏が聖書のヨハネによる福音書などの成句を引用して解説なさってる正に神の「み言葉」ではなく「み言」を救世主メシアとして、堕落人間を神様に導く仲保者として人類救済のため伝えていらっしゃるのです。ですから「み言」と呼称しているのです。ここには聖書との矛盾はありません。
以上、管理人の米本様にはこのような聖書解釈?み言論争?を苦々しく思われる傾向がおありですのでこの辺で失礼させていただき、次のレスにて米本様にもご挨拶し終わりとさせて頂きます。
神々の黄昏氏にもお付き合い頂き感謝申し上げます。私ももっと「み言」を勉強して参ります。ありがとうございました。
Re:Re:原田さんのコメント
>原田さんは「新しい真理」をどのようなイメージで捉えているのか私には定かではありませんが、私は『全宇宙の根本原理』というイメージで捉えています。
> 原理講論の総序は その中で人間の堕落を決めつけるなど確かに問題もありますが、新しい真理の必要性を訴える主張には頷けるものがあります。
> その原理講論を素直に読めば、「新しい真理」は科学性と宗教性の両方を持ち合わせたものとならなければならないはずですが、その条件に適うのは創造原理のみです。
> 原理講論の内容としてある「創造」「堕落」「復帰」を総合した上で統一原理と捉えるのが普通なのですが、「堕落論」「復帰原理」には科学性はほとんどないため、それらは総序の「新しい真理」の条件に適わないことになります。
> つまり、総序において主張していることには同意できる内容があるのですが、原理講論そのものはその「新しい真理」の条件を十分に満たすものではないのです。
創造原理も詳しく見れば、論理をずらしている部分があります。陽性と陰性の二性性相がそうです。原子から鉱物まではプラスマイナスの関係ですが、植物から人間までは性差の説明になっています。しかも単性生殖についてどう見ているのか?理解できません。また万有原力とは何だろう?理屈はわかるが、まだ存在が確認されたわけではない。などなど、イマイチの部分があります。
堕落論は、確かに科学的とは言えません。科学においては科学的論証と反証可能性を持つ検証手段が必要ですが、科学的論証に必要なデータを取ることもできません。また、反証可能性を持つ検証を行うこともできません。
アダムとエバが、淫交を行うことによって堕落したと統一原理で推定しているのは、聖書の記述や社会現象によってのみ推定しているだけであって、論証しているわけではないし、他の文献による補強されているわけでもありません。いわゆる仮説の段階であり、しかも今述べたように、科学的でない仮説です。
> それでは、文先生の講演集から抜粋した文章で構成されている「八大教材教本」がその「新しい真理」の条件を満たしているのかと言えば、全くそのようなことはなく、前にコメントしたように呪術的思考で満ち溢れているのです。
> 文先生の講演内容には非科学的なものがあまりにも多すぎて 新しい、古いもなく、「真理」などと呼べる代物ではないのです。
この部分に関しては、私は判断を留保します。先回のコメントにもにも書きましたが「八大教材教本」が文氏の指定であり、私はまだかなり読み残しております。現役協会員なら全部読めとのご指摘をいただいていますので。
> 血統を万能視する考え方や、血統転換教義を救済論とする考え方などは科学と真っ向から対立するもので、過去の宗教から何一つ進歩しておらず問題外なのです。
私は「八大教材教本」に全ての真理が含まれていると宣言した段階で、文先生は原理講論でいうところの「再臨のメシア」ではないと確信しました。
> 私には原理講論の創造原理や統一思想要網と「八大教材教本」を同じ宗教思想と考えられる人の思考回路がまったく理解できないのです。
> 結局、「八大教材教本」を永遠の聖書であるとか、人類の未来を築く教本であると人から言われて、それを信じられる人というのは元々が真理探究者ではなく、宗教愛好家なのだと思うようになりました。
私は家内が1人で訓読しているのを、布団の中で聞くことがありますが、宗教というよりまるで道徳思想、修身の書物を読んでいる、感じることがあります。人はこうあるべきという言葉がずーっと続いています。そういうのは宗教愛好家ですらないと思っています。読むと心が落ち着いて、楽しい気分になる、それが本来の宗教書であり宗教愛好家です。今の教団は確かにカルトですね。
> 私は、真理に対する探究心は決して捨て去ることはできないので、宗教愛好家のように思考放棄することはできないのです。
> 私は原理講論で述べるところの「新しい真理」は原理原則と呼べるような単純明快なものでなければならないと思っています。
> 創造原理の四位基台などはそのような条件に当てはまるのですが、その原理原則に照らせば、あらゆる問題が解決可能となるような内容でなければ、「新しい真理」とは言えないのです。
> ですので、解釈が分かれるような宗教論であること自体が既に「新しい真理」ではないということであり、あたかも数式であるかのように単純明快に本質的な問題を解明できてこそ「新しい真理」であると言えるのです。
>だいいち、「真理の解釈」というのは言葉として矛盾しているのです。
ただ、そうなってくると、真理と呼べるものは今後、現れないのではないかと思われます。哲学というものは、自分の哲学を人にわかりやすく説明するのは非常に難しく、ほとんどの哲学者の哲学は、解釈の分かれる部分を持っています。やはりある程度、解釈が分かれるのは、致し方のないところだと思います。
>文先生の「御言葉」には呪術的思考が強く働いているのがわかるのですが、特にそれは「蕩減復帰」の考え方に明確に表れています。
> 自己犠牲を払いさえすれば、それが条件となって、全く違ったところで良い結果が現れるとか、信じられないような命令に従えば、それが人類始祖の原罪の蕩減となって罪が清算されるとか、因果関係が原理を逸脱しており、発想が幼稚で単なる呪術的思考に過ぎないのです。
> 統一教会=家庭連合にある経典の中で真理と言える教理はその一部であり、間違いがあまりにも多いのです。
> 思考がより真理に近づくには一体どうしたらよいのか?
> そのためには思想的な間違いを排除し、正しい原点から真理を探究し直さなければならないのです。
そこは、カルトによる洗脳ということになると思います。マインドコントロールと言っても良いかもしれません。
今、話題は統一教団のことに絞られていますが、洗脳、マインドコントロールは、特定の集団に限らず、テレビ、新聞に報道されるニュースもその類にもれないと言われています。映画なんかは非常に臨場感があって、洗脳するにはもってこいの媒体だそうです。
だからと言って統一教団のことを正当化するつもりはありません。むしろ、身の回りは全て洗脳媒体に溢れているので、これらから身を守る術を身につけなければなりません。
私は最近、苫米地英人という脳機能学者の書籍から、面白い手法を学びました。それは1人ディベートという方法です。
ディベートは通常、相手があって、二手に分かれて行うものですが、これを1人で、賛成の根拠、反対の根拠を5つずつくらいあげてぶつけ合うのです。
あるテーマについて自分の中の賛成派が5つの根拠、反対派が5つの根拠を並べます。そして反論させあいます。すると自分に見えてなかったものが見えてくるのです。頭の活性化にもつながって、大変面白いです。
遅ればせながら
明けましておめでとうございます。
遅ればせながら、ご挨拶と共にレスさせて頂きました。
>しかしながら、みこと、みことばの違いを指摘し、それへのコメントを求めるなんて・・・。
誰も回答したくないという気持ちがわかっていない。
>アホです。
>読者は大切にしていますが、もう少し頑張ってくださいな。
ブログ読者の皆様、読者を大切になさってる正義のジャーナリスト米本様から「アホ」と「侮辱」されました。(T .T)←うれし涙。大変名誉な事です。
(真実を伝える正義のジャーナリストにとって「言葉は命」。一語一句正確に伝える事が如何に重要か。そんな事わかっとる!
だけどさ~このブログは統一を中傷する事に飢え乾いてる読者のためのブログ。そんなのどっちでも良いんだよ。「み言葉」 だろうが 「み言」だろうがさ。それをいちいち、ぐだぐだ紙面を割きやがって。せっかくの読者が萎えちゃっただろ! ―米本様 心のつぶやき― )と言ったところでしょうか。
「さよなら」する前に「みこと、みことばの違いを指摘」と書いてらっしゃいますが、「み言」と書いて「みこと」ではなく「みことば」と読みます。何度も指摘させて頂き申しわけございませんでした。
ブログ読者から正義のジャーナリストとして圧倒的に支持されてらっしゃる米本様のお気持ちをこれ以上ご不快にさせたら、皆様からお叱りを受けますね。
本当はもっと本質的な事もコメントさせて頂いてるんですが、やはりそういうのは苦手のようですので・・・・。
おっしゃる通り、神々の黄昏様にも申し上げましたが、もっともっと「み言」を勉強して参ります。ありがとうございました。またいつの日か気の向く時に・・・・。
>遅ればせながら
私自身、Good Goさんのお書きになっているコメントわかりますが、立ち位置の違う人には不快だったのでしょうか。
Good Goさんが侮辱されたと怒りをぶつける気持ちもわかります。でも、このブログ主がルールを作り、運営しているのですからその場の判断に従った方が良いと思います。
それでも決着をとことんつけたいのなら、途中で邪魔の入らぬしかるべきところで闘うというのが礼儀だと思います。(ごめんなさい。私ならそうするという意味です)
本業もあることでしょうし、心を落ち着かすのに、しばらくお休みするのも良いかもしれませんね。
それでは、いつかまた・・・。
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