「御言葉」重視派への根本的な疑問
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一筆一論(18)
ブログ村(家庭連合・サンクチュアリ教会・統一教会批判告発)のブログ記事で、文鮮明氏の御言葉を引用している記事をしばしば目にする。ブログ「今日の訓読のみ言友の会」で毎日、御言葉を紹介している統一教会の元会長・神山威氏を筆頭に、御言葉重視派は少なくない。
引用されている御言葉をそれほど熱心に読んでいるわけではないけど、みんなてんでんばらばらに、自分の主張を補強するために、都合のいい御言葉を好き勝手に引用している-ような印象を強く受けている。したがって、あまり読む気がしないというのが偽らざるところだ。
恣意的引用はご自由だが、不思議でならないのはブログ「裏韓国日記」のちゃぬ氏が引用している御言葉については、家庭連合もサンクチュアリ教会も神山氏も第4イスラエル研究会もUCIも、完全に無視しているということだ。
「御言葉重視派」は文氏の言葉を金科玉条の如く扱っている。門外漢から見れば、重視派の御言葉に対する態度は水戸黄門の印籠に対するのと同じである。つい笑えてしまうほどに。
ちゃぬ氏が引用する御言葉も、文鮮明氏が話した言葉だ。それなのに、どうして無視するのか。
ひょっとして、ちゃぬ氏が統一教会等を批判するために御言葉を創作しているのではないか、と疑ったことさえある。ところが、御言葉重視派からそのような創作批判は皆無。よって、ちゃぬ氏が引用している御言葉は創作ではなく、厳然として存在するのだ。
ということは、各自が読んでいる御言葉集はそれぞれに違い(文亨進氏が読んでいるのは?これは素朴な疑問)、少なくともそれらの御言葉集にはちゃぬ氏が引用する御言葉は収録されていないのではないかという推論にたどりつく。
思い余って、御言葉集に詳しい本部周辺にいるシックに質問してみた。
以下、わかりやすく1問1答とした。
-(これまで書いてきたことを質問としてぶつけた)
「あなたの質問は統一教会にとって急所です。結論からいえば、共通テキストといえるのはマルスム選集です。文鮮明先生が公の場で語ったものがほぼ収められているマルスム選集は300巻以上あります。
文先生の音声を文字に起こしてきたのは韓国の歴史編纂委員会です。すべて韓国語で、第55巻を除いて日本語訳の巻はありません」
-え!翻訳されたのはマルスム選集の第55巻だけですか!?。あれほど御言葉・御言葉と強調しておきながら、なぜ、全巻翻訳しないのですか。
「1990年代だったと思いますが、全祝福家庭がマルスム選集を所蔵して訓読せよというお父様からの指示がありました。私も何巻か買いましたよ。ところが、韓国語なので日本人には読めません。当然本部にそういう苦情が来ます。そこで翻訳するような話になりました。しかし、結論としてそんなの全部翻訳できないから、取りあえず1冊出して現場のニーズに応えたことにするという、いかにも本部らしい(笑)決定がなされたようです。
しかも、ほとんど翻訳しなくていい日本語原文がある55巻を出したという次第です。姑息なやりかたですよね。名目は『お父様が日本で語られたみ言葉が詰まっています』という触れ込みでしたから、現場からの苦情はなかったと思います。
このような事情で、第55巻だけ日本語版があるというわけです」
-最近、統一教会は実にいい加減な組織だと認識を新たにしているところですが、組織にとってもっとも重要な御言葉の翻訳までいい加減とは!呆れて口がきけません。
-ところで、神山氏は毎日御言葉をブログでアップしている。第55巻に収録されている御言葉の量がどれほどのものかはわかりませんが、とうに終わっているのでは・・・。
「日本でいろいろと出版されているみ言葉本は、その本のテーマにあったみ言葉をマルスム選集からところどころチョイスし、抜粋して、翻訳して出しています。いわばパッチワークみたいなもの。
ただし、問題が2点ほどあります。
いくつかの部署が翻訳していますが、その翻訳が正確かどうかが第1の問題です。第2の問題のほうが重要ですが、説教は一連の流れ、文脈の中で語られますが、第55巻以外の日本語の本は、そういう文脈の中から一部をチョイスしてきて、まとめた本なので、お父様が言わんとした本意(文脈)に沿わない本になっている可能性があるということです。もちろん、日本でまずいと思う個所はカットしますし、ひどいときには翻訳の段階で意訳して表現を変えます。それでパッチワークと表現しました」
-御言葉重視派が引用する御言葉は?
「4研さんも神山氏も統一教会本部も、日本語で出版されたものから引用しているだけでしょう」
-ちゃぬ氏のは?
「ちゃぬさんは、そういう日本語版ではなく、オリジナルのマルスム選集から翻訳している。ですから、皮肉なものですが、反対派のちゃぬさんのものが原典主義においては一級なのです」
説明を聞いて、頭がクラクラしてしまった。
反統一のちゃぬ氏が大嫌いなはずの文鮮明氏の御言葉にもっとも精通し、お父様大好き派は御言葉のごく一部しか読んでいない。それもパッチワークの御言葉翻訳本だ。
なんたる知的怠慢!話にならん。学問の世界で、原典に忠実でなかったら、その世界から追放されるのは必定。しかし、重視派は追放されることはない。なぜなら、みんな引用するのは同じ、55巻かパッチワーク御言葉翻訳本。それぞれが対立していようが、こと御言葉の引用では“お仲間”なのだから。ワラワラ
ほんとうにバカバカしくて話にならない。
「夏目漱石全集25巻」のうち3巻しか読んでいない文学専門家(統一教会で言えば、可知氏など「原理講師」)が、滔々と漱石を語るようなもの。
このようにバカめても、統一教会、サンクチュアリ教会、4研、神山氏、UCIからの反論は期待薄だ。見ざる・言わざるで、態度を変えることはないだろう。なぜなら、韓国語版マルスム選集を翻訳する能力がないのに加えて、高齢化のためその気力さえないからだ。
「日本でまずいと思う個所はカットしますし、ひどいときには翻訳の段階で意訳して表現を変えます」
これに関するエピソードを書いておく。
確か、2009年いや2010年だったか、印鑑等の違法販売行為で数十人の食口が逮捕されていた頃、『ファミリー』だったかに文亨進世界会長の御言葉の翻訳が載ったことがある。
「この事件は統一教会がきれいになるチャンスでもある」
といった趣旨の文章が10数行書かれていた。
「まっとうな指摘ですね」と水を向けると、本部教学担当の太田朝久氏(現、教会成長院副院長)が苦笑しながら答えて曰く。
「その部分は、翻訳してはならない個所でした。ミスって翻訳したものが載ってしまいました」
どうか今後も、パッチワーク&超訳・御言葉をせっせと引用してくださいね。ニコッ
次回は「決定版[文鮮明と認知されなかった息子との長くて暗い物語]」-超ご期待を!
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青年食口よ、拉致監禁に注意せよ!
そろそろ帰省シーズン。実家に戻ったら、親戚が大勢きていて、どこかのマンションに連れて行かれる。 そんな可能性があります。拉致監禁されたら最後、統一教会は助けに来てくれません。その昔は、危なそうな青年にはGPS付きの携帯電話を持たせるようにしていましたが、今は拉致監禁に無関心。自分で防衛する以外にありません。どうやって?両親に約束していた帰る時間をたがえて、2時間前とか後とかに突然変更するとか。得手ではない想像力を働かせて、よ~く考えてみてくださいね。
(ボヤキ)拉致監禁される人はネット情報など読んでいないから、こんな警告をしても無理だろうけど。
そろそろ今年も終わりだ、たまには拍手をしようぜ!
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コメント
所詮は嘘八百のカルト教義に過ぎない
「日本人食口達が読んでいる”み言葉集”なるものが、ご都合主義的なパッチワークの産物に過ぎず、ちゃぬ氏の引用している”み言葉”こそが本家マルスム選集の忠実な訳である。」と確信したのが、数年前。その時点で、文鮮明は、再臨主を装った、あるいは自分で再臨主だと思い込んだ偽メシアに過ぎず、こんな輩を再臨のキリストだの、人類の真の父母などと崇める統一教会など全く存在意義がないと判断した次第。もちろん、文鮮明が解明したとされている(実際は劉孝元がすべて作り上げた)統一原理などは、あたかも普遍的真理を装いながら、”文鮮明神格化”を本来の目的としたカルト教義に過ぎなかったということも。
もし、ちゃぬさんのブログがなかったら?いくら統一教会が大問題であっても、今の現役教会員にとっての”最後の砦”である文鮮明信仰から決別できなかったかも?そういう意味で、ちゃぬさんには大感謝です!
本部周辺の方はキチンと伝えるべきでは
文先生のみ言葉選集は、韓国語以外に翻訳してはいけないというのが文先生のみ言葉だったと記憶しています。そして文先生は1988年までに韓国語をマスターするように指示をされました(その後1989年までに延長)。私はアベルカイン観に悩んでいた頃だったのでハッキリ覚えています。当時私は、いくら原理講論を読んでも理解出来ないため、日本語ではムリだと思い韓国語を勉強し、1989年に韓国語の原理講論を読みました。
ちなみに韓国語で原理講論を読んだら疑問が解けたかというと解けませんでした。疑問が解けたのは韓国で信仰生活をしてからでした。その時、言葉の理解には文化の理解が必要である事を知りました。
み言葉選集の55巻は、1992年に文先生が3万双の祝福までに読むようにと特別に翻訳を許可されたものです。ここには私が度々引用する「真の父母と我々」が収録されています。
神山元会長は
ちゃぬさんの御言葉愛には常々感動物です。誰よりも多くの御言葉を読んでいらっしゃることでしょう。最近はあまり訪問していませんが、解説は偏りやすいので引用部分に注目して読ませていただいています。
いずれにせよ、語られた御言葉の全てを網羅することは不可能と私も考えます。が、時に応じた御言葉が常に与えられるというのは統一教会・家庭連合に限らず、信仰者にとっては普通のことなので大して気にもしていません。この世界は信仰の経験を持たなければ理解し得ない世界なので説明にならないですね。だけど調べれば全てが分かると考えるのも浅はかではあります。ジャーナリストさんにはきつい物言いになりますがゴメンナサイ。
「御言葉」重視派への根本的な疑問
無視しているんじゃなくて、ちゃぬのブログなんか見ないんだよ。
aについて
一体何様?
ちゃぬさんのブログは
公職者のブログ?(私のとなりに神様)は、感動するものがなくあきれる内容が多いので時間が勿体なくて無視してます
米本さんは正義感をもって書いてるのかと思ったら、荒川元教会長(趙成日)の話を勝手に他の教会長の名前で使い回しされてがっかりしました。
よく知らない名前でしたが、その人をたたきたかったんでしょうか?
ブログの中の正義は個人の良心にかかっているので、注意して読まないといけないと教訓を得ましたよ
ハングルの出来ない人はそうだけど
ところが、中高大まで韓国で神学を専門に学んだ二世の職員は?他にもシッカリと神学を学んできた上でみ言葉研究や編集に身を投じてきた人は?
当然ながらネイティヴ並みにハングルが判り、それこそ訓読として、業務として毎日読み、その翻訳や編集も行う人達もいるので、それらの人達が皆全て、ハングルすら出来ない本部の宗教官僚、強いて言えばギリシャの公務員的な輩と一括りにして良いとは思えないが…
そもそも、み言葉編集に携わっている人間は大概それなりに読んできている編集者達でもあるので、大体のbloggerのご都合主義者たちなんぞよりは全体的な読書量は高いと推察できるかと。
そして強いて言うならば、継続してみ言葉を学び続けている人かどうかも、ここのコメント欄を見てもあからさまに判る位に知識差は大きく、米本さんの情報提供者さんが積み重ねている人かどうかでも、み言葉に対する姿勢やクレディビリティも違ってくるかと。
anへ
管理人のみ閲覧できます
”パッチワークの産物”を生命視するなど愚行の極み
改めて考えると、この証言は、”文鮮明信仰の根幹を揺るがす”重要な指摘であると思う。現役信者諸氏はこのことについてどのように考えているのであろうか?
「み言葉の真意は、信仰を深めなければ分からない。」との認識は、あくまでも、「その”み言葉”と称する言行録が文鮮明オリジナルのものであること」を前提にしている。日本語への翻訳段階で、”(偽メシア文鮮明に対する偶像崇拝を破壊しないように)恣意的に改竄されたしろもの”を、たとえ何百回、何千回読もうとも真意などわかろうはずがあろうか?これぞまさしく愚行の極みである。
文鮮明言行録の恣意的改竄の最大の動機は、おそらくこうでしょう。
統一教会は、かつて勝共や世界日報等の偽装愛国保守団体を通じて、日本の保守層への食い込みを図ろうとしてきたわけであり、その勢力を拡大させなければならない。また、一方では現役教会員達の信仰を揺るがすという事態になってはならない。それゆえ、「教祖文鮮明は、反共の闘士とみなされるのは大いに結構だが、決して反日分子とみなされてはならない。」ところが、実際の文鮮明は”筋金入りの反日の権化”そのものであった。だからこそ、とりわけ、文鮮明自身の吐いた”反日的言動”を翻訳の段階で抹消することにした。
重ねて言いますが、こんなしろものを”み言葉と称して金科玉条のごとく生命視する”など愚行の極みだと思います。自分のような非信者から言わせれば、まさしく「鰯の頭も信心から」と言われる通り、実に摩訶不思議な世界です。統一信徒の信仰世界は。
ちゃぬさんのブログを見たくない信者のつぶやき
女性信者のつぶやき:ちゃぬさんのブログを見るのがコワ~イわ。だって、今まで、信じてきたものが、グラグラと壊れていくようで。真の男性でメシヤであるお父様を信じて、今まで来たのよ。信じて、身も心も全て捧げて。夫のお金も隠れて献金してきたのよ。アタシは、妾の立場なの~。♪♪全て捧げ、名もなく捨てられ、喜び従う♪♪って聖歌にあるじゃない。家族から、被害届がでないようにしろよ。
男性信者:くそっ。いまさら、事実がなんだ。俺だってプライドがあるんだ。今まで教祖様のために、日本救国とか世界摂理とか、天国建設とか言われて、がんばってきた人生の時間どうすんだ。誰がなんと言おうと、文鮮明教祖は、メシヤで俺の真の父親なんだ。だから、見ね~よ。ホントにそう思うの?
真の子女様:僕たちのお父さんは、メシヤで、僕たちの実のお父さんですごいんだから。なんでもできる万能の人間で、神様と同じだよ。お父さんの種(精子)は、真の血統だよ。たくさんの女性がその恩恵にあずかったのだ。ゲ~っ。それって、世の中では、不倫っていうんだけど。ティモシーエルダーさんのブログより。
>お父様は、神様の精子を地上にもたされました。そして、堕落した血統をもった女性の子宮にその精子を植えることによって、その女性の子宮から、神様の神様の血統が生まれるようにしてくださるのです。この場合、一人の女性ではなく、複数の女性と性的関係を持った方が、人類の復帰を速く進めることができるのです。潜在的には、人類すべての女性がキリストの花嫁です<
果たして、統一教会は、本当に人類救済と世界復帰になっているのか。少なくとも、日本においては、亡国論のような気がする。ちゃぬさんのブログによれば、文教祖は、日本の文化、宗教、歴史、天皇を冒涜侮辱している事実の記事がある。高額献金要請の指示命令は、教祖様からでていたのは、事実である。
「八大教材教本」
この中に全部のエキスが詰まっています。
600以上ある「み言選集」を読まなくてもいいのです。
UCは、これを改竄したので、問題だと言っているのです。
文先生は、「八大教材教本」の完成をもって「全て成した」と言われました。
ちゃぬさんは物知りですが、み言解釈の点では最悪と言えます。(ごめん!)
元が腐っているのだから、所詮、何の価値もない
なぜか、この中に、ソースであるはずの「御言葉選集」が入っている。膨大な御言葉選集を読まなくていいと言いながら、それ自身が(八代教材教本の中に)入っていること自体が自己矛盾である。
次に、「天聖経」(この場合はもちろん旧天聖経のこと)は、教会員ならみな知っているように、「真の神様」、「真の父母」、「真の愛」等の16冊のマルスム訓読本を合本したものであり、ソースは言うまでもなく膨大な「御言葉選集」にある。何が言いたいかというと、「八代教材教本」のうち、「原理講論」と「世界経典」を除けば、ソースはすべて「御言葉選集」であり、その抜粋部分が日本語の訓読本に翻訳されるにあたって、日本人食口にとって不都合な部分は改竄されたということだ(というか、抜粋という行為それ自体が不都合な部分の隠蔽だともいえる)。
つまり、み言葉選集の日本語への翻訳段階において、すでに“捏造&隠蔽パッチワークの産物”と化しているのであるから、そんなものをいくら寄せ集めて、天聖経だの八代教材教本だのと銘打っていても、所詮は無価値な代物に過ぎない。元が腐っているのだから。
それから、ちゃぬ氏の“み言葉解釈”が間違っているとの指摘もあるが、純粋に“み言葉部分だけ”を虚心坦懐に読んでみても、やはり、「自己の神格化と(メシア家庭と称する)一族による世界支配を妄想してきた反日の権化ともいえる人物であった」ことは歴然としている。現役信者諸氏は、文鮮明の偽メシアたる実態を認めたくないために、あくまでも“御言葉解釈の誤り”とみなして真実を受け入れようとしないかたくなな姿勢としか映らない。
Re: 「八大教材教本」
批判されている当のちゃぬさんがブログをアップしています。
●「あきれた! 現役信者(三男派)cocoa氏の8大教材教本についての見解」
●http://ameblo.jp/chanu1/entry-12108597688.html
(全文引用)
<「米本ブログ」コメント欄より>
「八大教材教本」
大量のみ言集をまとめたものが「八大教材教本」です。
この中に全部のエキスが詰まっています。
600以上ある「み言選集」を読まなくてもいいのです。
UCは、これを改竄したので、問題だと言っているのです。
文先生は、「八大教材教本」の完成をもって「全て成した」と言われました。
ちゃぬさんは物知りですが、み言解釈の点では最悪と言えます。(ごめん!)
[2015/12/21 10:13] URL | cocoa
http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-666.html
『8大教材教本は、文鮮明先生御言選集、原理講論、天聖経、平和神経、天国を開く門真の家庭、平和の主人血統の主人、世界経典、家庭盟誓、この8つの経典と教本で構成されている。』
http://nisetenseikyou.blogspot.kr/2013/06/blog-post_27.html
現役信者であれば、8大教材教本である「文鮮明先生御言選集」は何年かかろうと必読のはず・・・・。
それが、読まなくていいと断言するとは・・・。
文教祖を知ろうと思いたいなら、ぜひ全巻読むべきだと思いますけどね。
(現役信者のみ言葉に対する姿勢は、この程度です)
『先生の御言選集も全部(※全巻)持っていなければなりません。祝福家庭が持っていないのであれば、それは偽者です。ご飯を食べなくても、40日断食をしても全部準備しなさい。わかりましたか?(「はい」)』
(「文鮮明先生御言選集」338巻より)
『原理本を中心として、先生の御言葉集400巻にもなるものも腐っているでしょう?ここで先生の御言選集全集(※全巻)を持っていない人は手を上げてみてください。持っている人は手を上げてみてください。では、何回読みましたか?
原理本を読んで、先生が訓読会をすれば、そのすべてを参考にしなければなりません。そこから抜き取ったみ言葉(※編集されたみ言葉)であるため、関係のある前後を知っておかなければなりません。前後との関係があるものは、その抜き取った中に入っていないので、全体を読むことで思想のすべてを知ることができるのです。先生の御言選集をどこに行っても、今まで原理のみ言葉を覚えたように覚えますか?言ってみなさい、ファン・ソンジョ!骨子を抜いて記録したすべての冊子、これは骨子ではありません。今話した全てが骨子です。
ですからそれを読むときは何年、何月、何日どこを省いたのかを知ろうとすれば、御言葉集を参考にするのです。先生の御言選集全体を参照するための必要条件、骨子を見つける訓練が必要だということを知らなければいけません。わかりましたか、わかりませんか?(「わかりました」)』
(「文鮮明先生御言選集」395巻より)
(引用終わり)
cocoaさんとちゃぬさんの文章を読み比べてみると、ちゃぬさんのほうがはるかに説得力があります。
なお、cocoaさんに注意をしておきますが、
「ちゃぬさんは物知りですが、み言解釈の点では最悪と言えます。(ごめん!)」の一文は、誠実さに欠けるものです。
いくら「ごめん!」を末尾につけようが、「最悪」と断定したからにはその根拠を述べるべきです。
論評するからにはその根拠を述べる。これが人としての真っ当な態度であります。
誰か本物の原本を持っている人いるのかな?
私の場合、自分教だし、み言葉重視といっても、相手がみ言葉の総本山なら、み言葉通りにしろよというみ言葉重視派だから、なんともね。文師も人間なんだからね。すべての面で真理を語りうるとは思えないし。メシアとして救いの仕事さえしっかりしてくれていればいいさという感じ。隠し子がいるといっても、それが統一原理的に説明できるんだったら、メシアとしてはいいんじゃないのと思う(社会的に問題がないという意味ではありません。筋が通るんだったら、教祖としてはいいんじゃないのという意味です)。
Re: 神山元会長は
調べても分からないことはあります。
しかし、そうだからといって、「調べれば全てが分かると考えるのも浅はか」とするウルトラ飛躍的思考は、反知性、反科学の立場以外の何者でもありません。
「宗教と科学を一つにする」という統一教会は、科学を重視していると思っていましたが。
今年ノーベル賞を受賞した大村智博士は、わからないことを調べ、アベルメクチンを発見し、それを基にイベルメクチンの開発に取り組まれました。イベルメクチンは抗寄生虫薬として熱帯地方の風土病オンコセルカ症(河川盲目症)およびリンパ系フィラリア症に極めて優れた効果を示し、中南米・アフリカにおいて毎年約2億人余りの人々に投与され、これら感染症の撲滅に貢献しました。
さらにイベルメクチンは、世界中で年間3億人以上の人々が感染しながら、それまで治療薬のなかった疥癬症や沖縄地方や東南アジアの風土病である糞線虫症の治療薬としても威力を発揮しているそうです。
わからないことを調べることは3億人の困っている人を助けることにつながるのです。
桜葉佳代さんにはきつい物言いになりますがゴメンナサイ。
なぜ御言葉は翻訳されないのか?
ブログに登場してもらった本部周辺のシックの次の証言は、文氏が語っていたことと符号します。
「1990年代だったと思いますが、全祝福家庭がマルスム選集を所蔵して訓読せよというお父様からの指示がありました。私も何巻か買いましたよ。ところが、韓国語なので日本人には読めません。当然本部にそういう苦情が来ます。そこで翻訳するような話になりました。しかし、結論としてそんなの全部翻訳できないから、取りあえず1冊出して現場のニーズに応えたことにするという、いかにも本部らしい(笑)決定がなされたようです」
多くのシックは、文鮮明氏のことをメシアと信じています。
そうした人たちにとって、メシアが発する言葉は宝石のようなもの。「メシアの言葉すべてを知りたい!」。痛切な気分になるはずです。
メシアも俺の言葉全集をシックは所有せよ・すべてを読め-と願っている。
それにもかかわらず、全巻翻訳されない。
これは一体、どういうことなのか。考えることが苦手なシック諸君、たまには考えてみたらどうでしょうか。
「でもね」さんが文意が読み取れないことを書いていたけど、本部職員の中には韓国語が堪能な人(韓国語がしゃべれる・翻訳することができる・韓国語で文章を作成することができる=英会話、英文解釈、英作文を想起せよ)は数人はいます。
したがって、本部には全巻翻訳する能力はあるのです。
ところが、その能力を使おうとしない。
その理由は1つしか考えられません。
御言葉を宝石のように思っていないということなのです。ひいてはメシアが発する言葉を軽んじている。結果、メシア=文鮮明氏を軽んじているのです。
文先生、真のお父様、メシア、神の代身、再臨主
と、口先では言いながら。
家庭連合本部ばかりではありません。御言葉命の神山さんも、文家の顯進&亨進さんも、4研の岡本&広さんなども。すべてそうでしょう。
いや、こうした人ばかりではない。
統一教会に批判的だが「お父様絶対」と思っているシックも!!
つまり、上から下まで、実にいい加減な集団だということです。文鮮明信仰ではなく組織に依存する信仰集団だという仮説がますます真実味を帯びてきます。
反論があればどうぞ。ただし、文意が通じる文章でお願いします。
Re: なぜ御言葉は翻訳されないのか?
「でもね」さんの文章の読解についてである。
(引用はじめ)
さて本部職員の中でハングルの出来ない者は原文との違いもそもそもの原文の数さえも殆ど認識していないかと。
ところが、中高大まで韓国で神学を専門に学んだ二世の職員は?他にもシッカリと神学を学んできた上でみ言葉研究や編集に身を投じてきた人は?
当然ながらネイティヴ並みにハングルが判り、それこそ訓読として、業務として毎日読み、その翻訳や編集も行う人達もいるので、それらの人達が皆全て、ハングルすら出来ない本部の宗教官僚、強いて言えばギリシャの公務員的な輩と一括りにして良いとは思えないが…
そもそも、み言葉編集に携わっている人間は大概それなりに読んできている編集者達でもあるので、大体のbloggerのご都合主義者たちなんぞよりは全体的な読書量は高いと推察できるかと。
(引用終わり)
アドバイスによれば、私の記事「韓国語版マルスム選集を翻訳する能力がないのに加えて、高齢化のためその気力さえない」に反発したのではないかという。
なるほど。であれば前掲の「?」表記が間違っている。
こう書けばいいのだ。
「翻訳する能力がないわけではありません。
中高大まで韓国で神学を専門に学んだ二世の職員は確実にいます。他にもシッカリと神学を学んできた上でみ言葉研究や編集に身を投じてきた人もいます」
そのように書いてくれれば、「そうした能力がある人はどうして全巻翻訳をしないのですか」と質問することができたのです。
慎み深く、「いる」を「?」にしたのかもしれないけど、今後ともストレートに書いてもらえればうれしいです。
翻訳する力はあってもなあ。本部訳だと信頼性が……
つたないながらも、自分でハングル勉強して、自分で読んだ方がいいかもな、なんて思っています。訳しちゃいけないところは省くとか、読ませたくないところは削除するとか、そういう人たちがごろごろいる本部訳ではいまいち信頼性がないね。これからハングルを勉強しよう。
反日言動を隠蔽するためではなかったか?
こちらは、ちゃぬさんの過去のブログ記事
http://ameblo.jp/chanu1/entry-12051875104.html
これによると、
「統一教会が本音の部分の反日を前面に出して活動すれば、日本人は一気に統一教会の排斥を開始するということは文教祖は百も承知なのです。その証拠に文教祖は自分の説教集(韓国語)の日本語訳を禁止しました。この説教集「文鮮明先生み言葉選集」には、大量の反日のみ言葉が収録されているためです。」(以上、引用)
とのことです。
それにもかかわらず、文鮮明は、「自分の説教集(つまり御言葉選集そのもの)を全部読め!」と言っていた。日本人食口達が、マルスム選集全体を到底、原語(韓国語)では読めないことを見越しての発言だったのか?
こう言っちゃなんだけど
メシヤでないと気づいても飯のために、素面の食口を続けてるとか。
そういう人が真面目に翻訳するはずないです。
ホントにメシヤの言葉そのままを読みたければ、和韓辞典片手に読解するしかないです。
頑張ってね。
天聖経と言えば
また、「平和の主人血統の主人」はまだ本になる前のゲラ刷りのようなコピー版を教会長から渡されて、一時、教会で訓読してたことがありますが、内容がかなり生々しく(男女関係、性)、まさか訓読本になるとは!と、驚いた記憶があります。但し、書籍版は読んだことがないので、内容がコピー版と同じかはわかりません。(コピー版はとっくに捨てました)「平和の主人血統の主人」を読んだシックはどう受け止めたのか?気になります。文教祖の本質が出てるような気がして、とても普通の人が読める本ではないなと思った記憶があります。
私の場合、韓国人教会長が圧倒的に多かったんですが、韓国人教会長は男女関係、性についてかなりオープンだったし、金使いも荒かった。
説教で言えば、韓国人教会長のほうが天聖経とかのいわゆる御言葉を基にする説教が多く、日本人教会長は献金に結びつく説教ばかりだったような記憶があります。
まあ、金ヨンイル氏のように歌ばっかり歌わせる韓国人教会長もいましたが。
裁判勝利おめでとうございます!!!
Re:なぜ御言葉は翻訳されないのか?
コメントを読みながら、昔を思い出して涙が出てしまいました。
この記事での私のコメントですが、当時の経験と記憶からのものなので、出典を示せなくてすみません。
まず、み言葉選集が翻訳されない理由についてですが、文先生により禁止されていたことは、古いメンバーなら誰もが理解していると思います。
理由については、個人の主観になると思いますが、私は翻訳の抱える問題を懸念されてのことだと思っています。文先生のみ言葉の中には、韓国語ならスパイも分からないなんて言葉もあったと思います。冗談か本気か分かりませんけど。
古い食口には、韓国語のマスターは、万物復帰と同様に「MUST」な指示事項であったことも皆、理解していたはずです。ただ、実際の現場では、口では学ばないとと言いながらも、活動が優先され、学ぶ時間をとることも無かったと思います。
当時の雰囲気を伝える意味で、少し私事を書いてみます。
悩んでいた当時の私は、伝道も万物復帰もできる状態ではなかったので、せめて韓国語だけでもやろうと取り組みやすい環境にありました。文先生は、1989年までにマスターしなさいと期限を決められていたので、原理用語を辞書を引きながら勉強していてはとても間に合わない、どうしたらいいかと考えていました。そんな中で、ある程度の基礎を身につければ、1ヶ月で韓国語原理講論を読破し、ほとんどの原理用語を身につけられる方法を見つけました。
何が言いたいのか。
喜んでその方法を皆に伝えようとしたときの反応が、無関心というかとても冷たいものだったのです。それは今回の米本さんの言葉が、当時の私の言葉の代弁そのものといってもいいほどです。
私の話を本当の意味で聞いてくれたのは、1800双の先輩ひとりだけでした。何度も韓国語の勉強に挫折し、深刻な思いで取り組みながら勉強したと言っていました。文先生の韓国語の祈祷を暗記して祈っていると言われてましたが、原理講論は読んだことがないということでした。私がその方法を伝えると、なんと1週間で韓国語の原理講論を読破されました。これで、文先生の言われた期限に間に合う、そんな希望を持ったのですが、関心を持つ人は、他に一人もいませんでした。(勉強法に関心があれば私のブログを見てください)
(追記)2015/12/21 21:00 編集
人の批判はしたくありませんが、本部周辺の方が「文先生が韓国語をマスターしなさい」と言われたことに触れないのは、なぜですか?
自分が責任を果たしていないことは言いにくいし、これを言われたら、責任転嫁できない、身も蓋もないですが、事実は事実。事実に誠実でありましょうよ。
み言葉のこと替え歌にしました
ちょっと関係ないことも混じってるけど、大目に見てね!
統一のイー加減さは並じゃないので、まじめに考えすぎないでね!
今度も「幸せって何だろう」のメロディで歌ってちょうだいね。
み言葉って何だろう? 信者ーに聞いてみた~
それはメシヤの言葉だよ、信者ーは答えた~
メシヤはお話し大好きでー、問題発言へっちゃらさー
それが翻訳されたなら、ただじゃーすまない~
メシヤ信仰って何だろう? 子女様ーに聞いてみた~
不倫も摂理と思うことさ、子女様ーは答えた~
メシヤを疑ってはいけませんー、60マリアカンサハムニダー
宗教アヘンってほんとだな、中毒って怖いなー
み言葉重視って何だろう? 講師ーに聞いてみた~
思考放棄をすることさ、講師ーは答えた~
アタマを使ってはいけませんー、み言葉集だけ読んでなさいー
それは余りにも多すぎて、みんなー挫折するー
ワラワラ‥ワラワラ
ごめんね、今一所懸命み言葉訓読してる宗教マニアさん。
パッチワークでも世界を良くすることはできる
ちゃぬさんのブログは私も数回しか訪問したことがありませんが、「現役食口なら韓国語をマスターして、マルスム全集を読むべき」という主張には、返す言葉もありません。
そこはごめんさないと謝った上で、「編集されたパッチワークは信頼できない」かどうかも、考えてみました。
「天聖経」は、「真の神様」「真の父母」など主題別み言葉選集を合本化したもので、日本で出版されるみ言葉はほとんどがこのかたちです。
対して、「み旨と世界」や「平和神経」「平和経」は、礼拝の説教あるいは大会の基調演説を全文掲載するかたちです。
特定の主題のみ抜粋して編集するというとき、重要なのはその意図です。
公職者不信が蔓延するご時世では、「人間の手を経て編集された」というだけで何か、為政者に都合の良いものではないか勘ぐってしまいがちです。
しかし私の考えは、「現役食口がそこまで疑ったら身も蓋もないではないか」というものです。
少なくとも文師存命中は、主題別のみ言葉抜粋は自らの検閲を経ていましたし、神学校を複数設立したことだって、日本人支配に都合良い理論形成が目的ではありませんでした。
私は現存するみ言葉で完成度が最も高いのは「世界経典」だと考えており、好んで訓読しています。
世界経典はキリスト教のみならず、ユダヤ教やイスラム教、仏教、ヒンズー教、ジャイナ教やバハイ教など複数の聖典とみ言葉の関連付けを試みており、編纂に費やされた労力も相当なものだったと理解します。
発刊時点で統一運動の英知を結集させたことは間違いないでしょう。
また「み旨と世界」は、文師と神山先生がダンベリー刑務所に収監されている間、その時点での摂理を総括するかたちでみ言葉を抜粋されたものです。
学術的に「網羅しているか」という観点からは不十分なのかもしれませんが、優先順位をあげるには十分な理由があります。
文師の長い生涯を振り返れば、日本人を見下すような言動は枚挙にいとまがないのであり、はじめから偽メシヤと仮定したら、支持する証拠はどんどん出てくるのかもしれません。
キリスト教歴史でも、啓蒙思想の餌食となることで、聖書はおよそ知的な人間が読む書物ではないと考えられた時代もありました。
さて、日本人に都合の良い部分だけ切り貼りされたみ言葉「しか」読まない現役食口は、「おめでたい」のでしょうか?
世界を良くするかどうかは、単純な原則で充分なのかもしれません。
「私はどう生きたいのか」を明確にすることで、恣意的なみ言葉の解釈に踊らされて、自分を見失うことはなくなるはずです。
み言葉重視...ね
替え歌の「み言葉重視ってなんだろう?」
ワロタワロタ
み言葉重視という表現そのものにオリジナリティを感じるのは自分だけだろうか。
信仰者たる食口にとってみ言葉(み言葉は本来メシヤやメシヤ家庭の方々の言葉を言います)は「絶対」であって「重視」する対象ではありませんからね。偉い先生方の話は本来、み言葉ではなく説教です、厳密には。
信仰の指針とするみ言葉は月刊誌「ファミリー」に掲載されるみ言葉です。祝福家庭には、季刊紙「祝福家庭」古くは「祝福」です。それとともに、時の「摂理」に沿ったみ言葉集が、光言社から発刊され、「訓読」します。必読本は古くは「マルスム」、「み旨と世界」でした(神山氏はこの時代の人だったと思います)。その後は、「霊界からのメッセージ」、「聖本」、「平和神経」、「天聖経」と変わっていきました。
み言葉は「真理」の一部分を表現するものでしかなく、「真理」とはメシヤの「実体」のことを言うということですから、家庭連合(旧・統一教会)の「真理」は文氏のみ言葉、思想、生き様、血統まで含めた、全てです。勿論、真の家庭も全て含まれる(本来は)はずです。
自分は、あえて、「実体」ではなく「実態」という言葉がふさわしいのではないかと思っています。いままで(この部ログを含め、さまざまなブログで)明らかにされた「実態」を知って入信する人がいるだろうか!?(怒りを込めて)
不誠実すぎるでしょ、教団も、教祖も、上層部も。
ひとりごと
そしてちゃぬ氏のブログ記事は、元教会員として裏の御言葉による真実を徹底探究した記事。
分派と言えば、負の事実、真実に視線を向けずに文鮮明教祖を盲目的信仰、神格化しそれを真理として奉る。
そして、家庭連合と言えばパッチワークを用いて「韓鶴子独生女」を創作しようと必死である。
悲しいかな、どの組織からも神の愛を感じることができない。
ネット通信網の発達はメシアの再臨を告げるものではなかったのだ。
悪業の全てを暴くためのものだったのか...。
「再臨のときにおいては、交通と通信機関が極度に発達しているはずであるから、再臨に関する知らせは、あたかも、稲妻のように、一瞬のうちに東西間を往来することであろう。」 原理講論 再臨論より(P570)
いい加減な話をおひとつ・・
そのご指摘が悲しくも適切であることの一例ですが・・2年前私の配偶者が海外宣教の功績で表彰されるという連絡が入り代理で遠路自腹で数万使い某教会まで行きました。
受付で宣教国を告げたところ「名簿に名前がありません」という意外な返事。
そんな筈はないと名簿を見せてもらうと、名前はあるのですが、縁もゆかりもない国。
その他のデータも出鱈目で。
よくよく見てみると旧知の方たちも殆ど国、データが違っています。
つまり、上から表彰せよと言われ、今流行り(?)の「データ流用」の名簿を形だけ作ったということですね。
表彰したことにしておこうと・・・。
らしいといえばらしいのでしょうが、まさにお笑いにもならない、情けないお話しでした。
トホホ・・・(死語)
ありがとうございました。
天候と同じで、就職は超氷河期。欧州で仕事を探す人も少なくありません。
私は大田の韓日家庭です。
記事を興味深く読ませていただきました。
告発・批判組以外の全ての派から非難が起こりかねない内容でしたので、相当な覚悟を持って書かれたのだと思います。
桜葉佳代氏のコメントで「信仰の経験を持たなければ理解し得ない」とありましたね(私も「同じ境遇を経験したものでなければ本当の意味での理解はできない」と思っていますが)。
確かにそういう側面もあるかもしれないけれど、米本さんは教会員以上に拉致監禁事件のことなど一生懸命取り組まれておられますし、現場に立ち入り、信者や状況をよく見て真摯に向き合われています。そういった立場からのご意見もとても大切だと思います。
『カルトの子』も読ませていただきました。その中で元・カルトの子に寄り添おうとする姿に優しさを感じました。
今回の記事を出してくださったことに心より感謝しています。
くどいけど
(引用はじめ)
御言葉を宝石のように思っていないということなのです。
ひいてはメシアが発する言葉を軽んじている。
結果、メシア=文鮮明氏を軽んじているのです。
文先生、真のお父様、メシア、神の代身、再臨主
と、口先では言いながら。
(引用終わり)
かつて、アベルカインに悩んだ時、私も同じことを叫んだ。
長年、日本統一教会は文先生の言葉ではなく、アベルの言葉に従ってきた。米本さんが言われるように組織信仰(アベル信仰)といっていい。
しかし、文先生の言葉をそのまま使えば、それは剣となって私自身にも向かう。だからみな自分が出来ていないから、正統派も正しい言葉を隠す。
「み旨と世界」を見れば、初期の文先生の教会員への命令がハッキリ書いてある。命令とまでハッキリ言われるものはそう多くない。
それは「10日に1回、自分の親に手紙を書く」という命令だ。これは、古い教会員なら誰もが知っている。
私は故意に家庭問題を起こし、そのとき家を出ることを書いた手紙(アベルが手紙を薦めた記憶)で親の印象を悪くしており、それで手紙を書けないと言い訳をしてきた。
教会員にとって、文先生のみ言葉を実践することは、極めて難しいのだ。
原理講論と御言葉
米本さんは記事の中で「御言葉重視派」という言葉を使いましたが、それと対極の言葉は「原理講論重視派」ということになるのだと思います。
原理講論は文先生が書かれた経典ではなく、弟子である劉孝元氏によって書かれたものですが、講演において語られた話し言葉である「御言葉」と違い、一冊の書物として内容が体系的にまとめられており、解釈が人によって著しく異なるようなことはありません。
統一教会が伝道活動を進めようと思えば、しっかりした経典がなければならないのは当然で、一貫性のない継ぎはぎの理論を並べ立てたところでまともな人が伝道されてくるはずがありません。
信者数はそれ程多くないとはいえ、統一教会の信者が韓国から日本をはじめ世界の国々に拡大していったのは原理講論という経典があったためであり、それがなかったら現在のような教勢を築くことはできなかったはずです。
「御言葉」は全てがその時々に自由に語られた話し言葉であるため、それほど理論的に突き詰めた内容とはなっていません。
その言葉の一部を取り出してみても「心情」「血統」や「王権」など一般的な定義で考えると理論的に辻褄が合わなくなってしまう話がほとんどなので、それが果たして「教理」と呼べるものかどうかも定かではないのです。
記事に書かれているようにマルスム選集は300巻以上ありますから、それらをすべて読み通すことは決して容易ではありません。
しかし、そこに書かれた内容はすべてが講演において語られた内容であり、真新しい内容ではなく、多くの信者達が実際に耳にしている話なのです。
講演として話す場合は、その場の聴衆を相手として話すので、その場にいない人には関係ない事柄も話すことになります。
また、同様の講演を会場を変えて行う場合は、当然重複する内容が多くなります。
したがって、300巻以上あるマルスム選集は教理となり得る要点をまとめれば、多分その数パーセントぐらいの量になってしまうと思われます。
もし、文先生が信者にとって必要不可欠なことを文章として著していないなら、ご自分の思想を世界に広めることなど不可能なのですが、実際に文章として発表された書物はほとんどなく、残っているのは自叙伝「平和を愛する世界人として」ぐらいなのです。
文先生に宗教指導者、新しい真理を提示する宗教思想家としての自覚と責任意識が本当にあったのならば、人々が共通に理解することができるよう、文章としてまとめて著す必要があったのではないかと思います。
しかし、実際はそのように文章として著すことはなさらなかった。あるいはできなかった。
私は、たくさんの講演はなされたが、文章として宗教思想をまとめて著すことを文先生がなさらなかったのは‘できなかった’のだと思っています。
私は統一教会で原理講論を学び、特に創造原理を知って衝撃的なほど感動しました。
まさしく新しい真理を聞かされた思いでした。
ただ、統一教会に入教してからマルスム選集にあるような文先生自身の講演を実際に聞く機会が多くなってくると、一種の違和感のようなものも生じてきたのです。
つまり、文先生が語られている内容は原理講論と一貫していないのではないだろうか?という疑問と違和感です。
ただ、文先生の講演を直接聞く機会はそれほど多くはなく、信仰を持ち始めた頃に一度と、後は祝福結婚に参加した時が二度目でした。
教会内において部署が変わる中で、米国では直接講演を聞く機会が多かったのですが、要点を考えると今まで学んだ統一原理の内容に対し、真新しい内容はあまり見つかりませんでした。
講演内容は、長時間が俗的な冗談じみた話ばかりであったというのが率直な印象です。
実際、それを文章に起こされて読めと言われれば、かなり抵抗を感じると思います。
私が文先生の長時間の講演を何度も聞いて残った印象と信仰を矛盾しないようにするためには、再臨のメシヤの話であれば、どんな自由気ままな意味のない話だとしても、ありがたいことと思って聞くことが「蕩減条件」になるのだと考えるようにするしかないのです。
米本さんが書かれたように「学問の世界で、原典に忠実でなかったら、その世界から追放されるのは必定。」なのは確かなのですが、私の実感としては、たとえ文先生を神格化している現役の信者であったとしても、文先生の講演集である「文鮮明先生御言選集」は無駄が多いお話の記録ぐらいにしか思えないのだと思います。
つまり、いくらそれを読もうと新しい真理の発見など難しく、300巻以上ある分量を読む気力が起きないのだと思います。
文先生を神格化している信者達が、文先生から読めと言われている「文鮮明先生御言選集」を全部読もうとしないし、日本人が読めるように翻訳さえされないのは教会指導者がその程度にしか「文鮮明先生御言選集」を評価していないからであり、それを公言すると不信仰者とされてしまうので口に出して言わないだけです。
統一教会=家庭連合の信仰とは基本的に盲目的な信仰であって、本心は行動に表れるのです。
その書物を形式的に「八大教本」としていながら、日本語に翻訳されていないことを文先生は問題視するわけでもなく、適当に放っておいたわけですから、その300巻以上ある「文鮮明先生御言選集」がどれほどの価値のものか、文先生自身もよく御存知だったのです。
私は原理講論と理論的に食い違う内容を、なぜ文先生は「御言葉」の中で多く語るのだろうか?という疑問に関して、現在は一つの結論を得ています。
それは統一教会の創立者の一人である朴正華氏が著した「六マリアの悲劇」の一文からその理由を確認できたのです。
(引用始め)
劉孝元は毎日、原理解説の執筆に没頭していた。劉孝敏と私は、ひたすら原理原本を書き写していた。
劉孝元があるとき、「この原理は矛盾がいっぱいあって、よくわからないところがある。このままではだめだ」と私に言った。二人で、文鮮明に徹底的に質問したところ、彼は答えられなかった。劉孝元は「あとは天に任せるしかないな」と首を振りながら、自分流に執筆していった。
(引用終わり)
つまり、文先生は劉孝元氏の知的レベルまで到達しておらず、原理講論の創造原理などは文先生の知性を上回る内容だったのです。
文先生は創造原理や統一思想要網の内容は本当の意味で理解し切っておらず、文先生の思想自体は血統転換思想のような妄想に近いものだったのです。
おそらく、その証拠は「文鮮明先生御言選集」をつぶさに調べていけば、より明らかになるだろうと思います。
「ちゃぬの裏韓国日記」ブログの管理人ちゃぬさんは、韓国語で原文を読み、そのような実態を「あばいて」いるので、統一運動の真実を追究する上では大変貴重な存在だと思います。
ちゃぬさんは、統一教会や文先生に対して批判的な立場なので、信者達は暗いイメージで彼女を捉えますが、私は彼女は結構明るい性格のように思います。
そのキャラを見ると、金髪になったり、潜水服姿になったり、ある時はエジプト人のようになったりと見る人を楽しませてくれます。
至って普通の主婦で元信者であるちゃぬさんの批判にも、全く反論できない知的能力と知識しか持ち合わせていないのが統一教会=家庭連合の幹部達ということです。
話し言葉と書き言葉
「引用されている御言葉をそれほど熱心に読んでいるわけではないけど、みんなてんでんばらばらに、自分の主張を補強するために、都合のいい御言葉を好き勝手に引用している-ような印象を強く受けている。したがって、あまり読む気がしないというのが偽らざるところだ」
この気持ちに個人メールで2人のシックから「私もそう」という感想をいただきました。
読む気がしないのには、もう1つ理由があります。
それは、御言葉が「話し言葉」になっているからです。
神々の黄昏さん
>原理講論は文先生が書かれた経典ではなく、弟子である劉孝元氏によって書かれたものですが、講演において語られた話し言葉である「御言葉」と違い、一冊の書物として内容が体系的にまとめられており、解釈が人によって著しく異なるようなことはありません。
>「御言葉」は全てがその時々に自由に語られた話し言葉であるため、それほど理論的に突き詰めた内容とはなっていません。
>300巻以上あるマルスム選集は教理となり得る要点をまとめれば、多分その数パーセントぐらいの量になってしまうと思われます。
いずれもその通りなのです。
よく新聞・雑誌・書籍の活字媒体で、対談、鼎談記事が載っています。いずれも「話し言葉」風にかかれているけど、すべて「書き言葉」に変換する作業をしています。
ブログ右サイトに『大学の迫害』を載せています。その中に室生さんと石橋さんと私との鼎談が収録されています。
「話し言葉」で語った私の発言を「書き言葉」に置き換えるのは“苦難路程”でした。もし私が発言した通りの言葉を活字にすれば、とても膨大で、読んでもほとんど文意は取れないと思います。
話すのは簡単、それを書き言葉にするのは実に大変。要する時間は数倍も違います。実際にやってみればいいでしょう。
話し言葉を書き言葉に変えることは、かなりの知性と理性を要します。(私が知性と理性を備えていると言いたいのではないので誤解なきように)
文鮮明氏の御言葉は、さほど変換されない「話し言葉」から成り立っています。(あー、うーはカットされている思いますが)
テープ起こしされた自分の発言を読んで、文氏が知性と理性を働かせて、修正作業したとは到底を思えません。
御言葉は、神々の黄昏さんが指摘しているように、その場の雰囲気とかそのときの状況によって、思いつきで、適当にしゃべっているだけです。
よって、まともに読む気がしないのです。これは世間一般の感覚なのです。
しかしながら、文鮮明氏をメシアだと信じているシックたちは、御言葉は宝石の如しと読まなければなりませんよ!
「能力の無駄遣い」という言葉がよぎりますが。
ブームチャイさん
>教会員にとって、文先生のみ言葉を実践することは、極めて難しいのだ。
おそらく私だけではないと思うけど、ある人を評価する場合、その人が話していることとやっていることとは同じなのかという視点で行います。
文先生は言行一致だったのでしょうか。
これは明日アップする記事を読んでいただければ、はっきりすると思います。乞ご期待であります。
あっぱれ
御言葉を宝石のように思っていないということなのです。
ひいてはメシアが発する言葉を軽んじている。
結果、メシア=文鮮明氏を軽んじているのです。
文先生、真のお父様、メシア、神の代身、再臨主
と、口先では言いながら。
(引用終わり)
まさにその通り! あっぱれです!
普通の価値観を持った人なら誰でも分かることです。
要は、誰も文さんのことなど心から信じている人などいないのです。共同幻想を抱いている理想主義者達の集まりでしかない。
御言葉で、救われているのか
教祖様の御言葉:1.「ツンドク」ナマってンナ。訓読だよ。多すぎて本箱に積んであります。
2.「もったいない」メシヤ様の御言葉もったいなくて、読めません。買えません。お金ありません。
3.「効き目なし」心の悩み、病気の悩みから、解放されません。御言葉は有効期限内に、収めるものがあるのです。
中間位置での私的見解(上)
ちゃぬさんのブロク拝見し、反対派の立場とは言え、よくここまでまとめたと驚き、気力と実行力に脱帽!(内容に賛同しているという意味ではありませんが・・・) 「文先生のみ言全巻を読むべきだ」というのは米本さんや他の皆さんの主張ですが、これに関しては意義を唱えませんが、文師は韓国語で訓読するように指示されています。
と言うのも、天一国ができた際は、母国語を韓国語とすることを前提としているからです。従って、天一国民なら韓国語での訓読が必須条件となります。
言語能力的にすぐできない人は日本語でまず訓読するようにと言う指示でしょうか。
(英訳版・スペイン語翻訳は日本語翻訳より更に少ないのが現状です)
◀信徒時代実感したこと・・・
激しく活動していた時代を振り返りますと分かっていてもそこまで広範囲に手が届かないというのが正直な現状でした。前線(活動現場)で過ごした場合、荷物といえば着替え少々、聖歌、何冊かの本くらい。お盆や年末年始も前線で過ごす場合、早朝から深夜まで活動しておりましたので、疲れて読むのに苦労しました。
信徒たちにとってみ言とは何かといえば信仰のエネルギー源であり、信仰のレベルアップが根本だと思います。再臨主がおられるが故に、使命を与えられた信徒たちはその使命に対し責任持って如何に果たすかを考えみ言を読む。その恩恵として様々な神秘(聖霊・神・奇跡)体験もします。そのような霊的体験が糧となり心霊・信仰が育つのだと思います。当時、訓読での最大テーマはみ言を如何に体恤(血肉化)するかでした。
例えば同じ聖書を持つクリスチャン同士であっても、教派によってはかなり違う解釈と信仰生活を行っています。 その結果も当然違ってくるように、そもそもの動機がこれですので、TPOのみ言を如何に選ぶかはそれぞれの個人レベルになりがちです。
このことから、「パッチワーク」と言われればそうだなあと思えます。宗教全般そうなのではないでしょうか。
(理想・目標を如何に現実化するかのパッチワークなのかもしれませんね) ただ、信仰のガイドラインをしっかり守るためには訓読不可欠な教本もあることから文師は遺言として残した教本があり、まずこれを宗とし歩みなさいということだと理解してます。
その中心が心情・愛・血統ということになりますので、み言の体恤にはそれらの数理的基台(心情・霊の子・夫婦・実の子・経済基盤)なしには知的にも心情的にも構築難しいので、この辺で信仰についていけず限界を迎える方もいるでしょう。
心情・愛の基台がいなければ、その理解は空想的となり先に進めなくなることも事実ですし、ブレます。このことから個人の理解と課題は様々とりますが、ただ、どんな段階でもブレずに訓読し、目標を達成する方法はアベル・カインの原則(より神に近い人を信じ従う) が肝心だと信じていました。
中間位置での私的見解(下)
~基本的な問題を見なおしたいと思う気持ちからみ言全般を再検討する必要性があると私は思います。~
そのそも、文師に最も近い人で長年訓読しつつ侍ってきて個性完成しそうな先生方が教会から離れるが不思議でなりません。(西川先生、神山名誉会長、江利川元会長、郭先生、洪社長・・・・)
信徒の個性完成を神殿完成と例えた場合:
もしその建物を素人が設計した場合、設計図はそれなりに美しく出来ても途中で潰れることが多いし、かりに建ってもその内とんでもない状態になることが多いでしょう。地盤の強度、環境条件を考慮に入れず土台からグラついたり、沈下する場合もあります。(信仰路程の場合、先祖の功労がないと教会から言われます)
工事段階から地震や様々な災害も考慮に入れ、計画的に工事を進められず途中で崩壊する場合もあるでしょう。
それをクリアして高く積み上げられたとしても崩れる場合があります。多分にして最初の設計図に構造力学的に欠陥があることでしょう。たとえ崩れなくても、作った神殿は聖域(結界)で悪を寄せ付けないはずなのに、悪が簡単にはびこったりする場合、もはや意味を成しません。
そうなると設計者が誰でどのような力量でどういう施工管理し、どこが悪かったのかが問われることでしょう。
尊敬すべき優秀な先輩たちが、半世紀以上苦労かけて積み重ね、あと一歩というところで、崩れるにはそれなりの理由があるはずです。場合によっては最初の設計の欠陥による破綻事例も考えられます。
教会側は、雨風、地震台風雷そんなものにもびくともせず、悪のはびこらない永存する神殿を建設する計画でしょう。
ならば、反対派をある程度説得できなくては、どうしようもなくなります。
▶私に理解できないこと・・・
<例えば>
●近年、7男のように実の母は30年前から文師からサタン扱いされていたと言われてます。また、教会側では7男にサタンが入ったみたいなことを言ってます。クリスマスが近いので、「サンタ」であればまだ笑えるけど、こういうことを公然と双方が言うことは教会摂理史、原理の根幹を揺るがす危機的事項であり、私には今の知識では全く理解できません。
○3男は、自分は統一教会とは関係がないと言われているそうですね。どういうことでしょうか。こちらも違った次元で理解しかねます。またここでも郭先生が教会側サタン扱いされてますが納得のいく説明に思えません。
●メシアとは一人で堕落世界におりたとしても、たとえ殺されてもサタン主管に落ちない血統の持ち主のはずです。
なぜなら、完成したアダム・エバと同様、直接主管圏にいる方であるので、神の心情・悲しみ・御意を共有するので、堕落の方向に決して走らないというのが原理的見解だから。その血統がいともたやすくサタンに侵入されるものでしょうか。どんな讒訴条件があってでしょうか。教会側の説明で納得出来ない人も多いはずです。一般信徒なら、何らかの基台を失った場合、教会から離れるケースがあるかもしれません。
そして文先生もそうなった場合仕方がないと言ってますね。でも、メシアとその血統は違うはずなのでは?
神様は基台のないところにひとり子を送り、そこから基台を造ってサタンを自然屈服させるよう堕落しないアダムに使命を与えたはずです。
このことを考慮にいれれば、信徒たちが使命を果たせなかったので、メシアは個性完成もできなかったという論理自体逃げ口上でしかないと思うのです。
「論より証拠」ということわざがあるように説明と共に、納得できる実体を見せていただきたいです。
「御言葉」重視なんて、砂上の楼閣
信仰者の心情を淡々と語られても米本さんは困惑するだけだと思いますが。
さて、こんな事書くと論理のすり替えとか言われるのは嫌なんですが、
頭の悪い、考える力が乏しい自分が感じた事は、
「所詮、人間が決める事は絶対ではない」
御言葉なんて、統一原理と違い理論では無い。
その時、その場の状況によって文先生が語られたもの。
当然、時代的背景や語る相手によって違ってくるだろうし、絶対に対しては相対という対比語が有りますが、まさに状況によって語る内容が変化するものだと思う。
文先生が生きていた時は、「先生がルールブック」だったから先生の一言で全て皆納得するし、反論や異論なんて存在しなかった。
そして今、文先生亡き後、後継者問題も含めて絶対的なルールブックの存在が居なくなり御言葉に関して様々な解釈が起こり混乱の一途となっている。
最初に「御言葉」重視なんて、砂上の楼閣と言ったのは例えて言うと、裁判の判決の様なもの。
例えば、最高裁での判決。最高裁の裁判官なんて、憲法は勿論、法律に関しては超一級に詳しい方々。
でも、全員一致なんてまず無い。必ず意見が分かれる。
これは「所詮、人間が決める事は絶対ではない」と言う事だと思う。
今まで、文先生が生前の時は先生がルールブックだったから先生の判決(御言葉)に誰も反論も意見も無かった。
でも先生亡き後、もうルールブックが1人で無くなってしまったから様々な解釈や意見がどんどん出てくるでしょう。
だから、「御言葉」重視なんて、砂上の楼閣。悪意ある意思を以ってすれば都合の良い解釈なんて幾らでも出来ると言う事。
アプローチ
今回のこの記事に、み言葉重視派の方からの書き込みが無いのが寂しい。4研の方は記事をあげておられた。無視出来ないテーマであることをわかっておられるのだと思う。さすがみ言葉に対する姿勢が違うと思う。でも記事の感想をいうと物足りないと思った。
今回の記事に対して、み言葉重視派が答えないといけないことは2つだと思う。
ちゃぬさんの記事をどう捉えるかと、原典で読む問題にどう答えるかだ。4研は記事はあげたものの、この何れに対しても答えていない。自分のアプローチを語っているに過ぎない。
その点、米本さんに注意はされたが「ちゃぬさんのみ言葉解釈を最悪」と評価したcocoaさんの勇気を私は評価したい。誰一人、ちゃぬさんに反論しない中で、唯一意見の主張が出来た人だからだ。ただ根拠を示せば良かったのだ。同じ言葉でも人により受け取り方は違う。それは概念や背景に対する理解が違うからだ。だから、その例を一つ示せば良かったのだ。
あえて米本さんの今回の記事に意見するなら、3男派はみ言葉に対する姿勢が少し違うと思う。gildongさんは原典を用いて記事を書いている。
私は疑問に思う。文先生のみ言葉に書いてあると巧みに出典を示し、引用する手法で、本当に文先生が伝えたかった真意にだどりつけるのか?
アベルカイン観ひとつですら、まともな答えを導き出せないと思う。今なら「原理講論」ではなく「アベルの正道」のみ言葉に書いてあると主張するだろう。まさに、米本さんの、自分に都合のいいみ言葉を引用しているだけという主張そのものではないのか?
み言葉重視派のアプローチでは、アベルカイン観ひとつですら、一般人である米本さんを納得させることは出来ない。せいぜい原理講論は、文先生の言葉ではないと理屈をつけるのが落ちだ。文先生の言葉にも、心と体をアベルとカインにたとえ、アベルに従わせるという言葉もあるだろう。もう、お手上げだ。ぜひ、み言葉重視派の方は、アベルカイン観について説明を試みてほしい。
アプローチの方法はいろいろある。どの方法をとるかは自由だし、一長一短だと思う。その長所短所をよく理解しておく事が大切だと思う。
Re: Re: 神山元会長は
>「調べれば全てが分かると考えるのも浅はか」とするウルトラ飛躍的思考は、反知性、反科学の立場以外の何者でもありません。
これがウルトラ飛躍的思考と感じる時点で米本氏の『理性信仰』がよくわかります。
もっとも私の言葉足らずが良く無かったですね。申し訳ありません。
『調べなければ分からないこと』はたしかに山のようにあります。
『調べる』こと自体大変貴重な行為でしょう。
しかし、『調べる』に至る『動機』がさらに重要なのです。
誰かから「これ調べておいてね」と言われて、あまり関心の無い内容を調べたところで大した結果は得られません。
これは教会内では「訓読しなさい」と言われたから御言葉をただ読んでいいる人たちにあたります。
しかし、自分の生活に直結した問題を解決するために調べるときにはこれは必死に調べます。
実感的な『動機』を持っていますから、かなりの結果を得るでしょう。
更に、本気で何とかしたいと感じた問題、自分の生活どころか多くの人を苦しめる病を何とかしたいという動機。
大村博士もそうでしょうし、遡れば野口英世博士も自らの生命を賭して調べた結果としての発見をしています。
これが、自らの金銭的利益とか、名誉欲などが動機の場合には調査(この場合は研究かな?)に投入できるものが限られますし、
どうしても自分で見切りを付けて何が『得策』であるのかを判断する傾向が現れます。
組織の中で御言葉研究する人たちはどうしても『得策』を選ぶことでしょう。
強い『動機』を持つ人たちは僅かの可能性をも追いかけますし、
なぜだか向かうべき方向を直感的に感じることがあります。
なんでもないような事柄がどうしても気になって調べてみたらそこに求める答があったみたいなケース。
いわゆるインスピレーションでしょうか。
これを誤るととんでもなく方向違いに行ってしまいます。
米本氏もご自身の貴重な時間と金銭的支出を惜しまず赤の他人のための『調査』をしておられるからには
それ相応の『動機』をお持ちのことでしょう。
恐らくは人道的正義感からの行動なのかと拝察します。
だからこそ、多くの結果を導き出します。
ちゃぬさんも然り。
行動の結果は『動機』を越えることは少ないのです。(全く無いとは言いません。)
四研岡本氏もDVDを見る限り、氏も御言葉選集など与えられたものだけで思考しているのではなく、
現場にFAX送信されただけのニュースレターのようなものまで漁るように調べています。
でも、それさえ「都合のいいものだけを集める」行為に見えるのでしょうね。
『都合のいい』のは何の『都合』か、自分の利益か、特定の誰かの為か、広く悩める食口のための『都合』か。
結局は『動機』に帰するのです。
見極めるべきはそこにあると思います。
どんな『動機』であっても『調べてみれば』何でも分かるということはなく、
悪ふざけや憂さ晴らしのために人を貶めようと『調べて』も物事の本質は見えてこないと私は考えます。
そういう『動機』の場合には悪いものしか見えてきませんからね。
で、御言葉のなかから何を読み取るか、或はどんな御言葉を選択するかもその人の『動機』によります。
『動機』を『都合』と読み替えるならそれでもいいのですが、
これは相手に対する蔑みでしかないと私には感じられます。
そして話し言葉で書かれている御言葉は様々に読み取ることができることも事実で、
読む人の『動機』によります。
ここのところ思うに、文師は信徒たちの『動機』を育てるために時間をかけて膨大な言葉を語られたのではないかと。
だから同じような内容もくり返し語られたし、表現も様々変化させてきたのでしょう。
たとえパッチワークだろうとも、
パッチワークする人たちのセンスと知的能力をかいくぐって伝えようとしたのではないでしょうか。
「時に応じた御言葉が常に与えられる」と書きましたが、
『時』とはその瞬間、個々人の“個性”“立場”から来る“事情”の上の『動機』までの集約であると付け加えます。
長文失礼いたしました。
言行不一致は明白
文先生は言行一致だったのでしょうか。
先の米本さんの文章ですが、すべてはこの点に帰着します。もし、言行不一致であるとするならば、いかに”ご立派なご神託”を述べようとも、何の価値もない。
(教会員ならば)誰でも知っている一例を挙げるとすれば、原理講論には、
「文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある○乱による犯罪だけは、だれによっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。」(第二章 堕落論 第一節 罪の根より)
という件があるが、この点だけを見ても、信者達から再臨主とみなされている教祖文鮮明の”言行不一致は明白”である(もちろん、原理講論の執筆者は劉孝元氏であるが、内容については当然、文教祖の認証を受けている)。
少しばかり見聞したことを。
『文鮮明先生み言葉全集』のCD版は、1990年代後半〜2000年くらいに、成和出版社から発売されていたぞ。値段は10万ウォン台だったと記憶しているぞ。
ちゃぬ君は、このCD版を持っていて、ここから引用・翻訳しているはず。
データベースは存在するのだから、それを一般に公開すればよいのに・・・しないということは、ちゃぬ君がブログで紹介しているようなヤバイみ言葉が沢山あるからだろうな。
嘆かわしい!
本の「〜選集」は2010年までのみ言葉でストップしたはず。
成和出版社があるビルの3階に歴史編纂委員会の事務所があった。そこには、
「関係者以外立ち入り禁止」
と書かれた資料室があったぞ。
歴史的資料を隠すとは、これいかに。わしも入れなかったぞ。ハハハ。
文先生の晩年は、韓国語でも公開するとヤバイみ言葉満載だった、ということだろうな。
そういえば、文顯進ニムたちのグループは、2010年以降のみ言葉を明らかにすると公言しながら、いっこうに公開されないな。どういうわけじゃろうか。
Re: 少しばかり見聞したことを。
1997年の頃、国家メシヤの方が、マルスム選集らしきものをCDで検索するのを見たことがある。
ノートPCの後ろのパラレルポートあたりに何かをつけていた。おそらくHASPと呼ばれるハードプロテクターなので、「コピーさせて」と言わなかった。
ちゃぬさん。CDとPCとHASP。破損しないように大切にしてくださいね。
最近のほとんどのPCはパラレルポートをもっていないし、2000年といえば、Windows98から2000くらいだから、おそらく最新のPCでは、当時のHASPドライバは動かない。
PCが壊れたら、ちゃぬさんの情報を見れなくなってしまう。
全巻のDVDが出ないかな~
(追記)
確か、専用ソフトだった気がする。データは暗号化されているだろうから、全文を抜き出して公開も難しいだろう。たぶん検索して、表示された範囲をコピペするしかない。もっとよく見ておけばよかった。一瞬見ただけだったからなぁ。
感謝感謝また感謝です。
それだけに、それほど反響はないと思っていました。
ところが、アクセス件数7000強、拍手63、コメント数42の盛況となりました。
感謝感謝また感謝であります。
レスしたいコメントがいくつかありましたが、キリがなくなるので、次に進みます。
それでも2点ばかり。
その1・桜葉佳代さん、真面目できちんと物事を考える方だと印象を新たにしました。今後も投稿のほど、よろしくお願いいたします。
その2・御言葉重視派の4研の人がレスしてくれたことは感謝しています。
http://4ken.blog.fc2.com/blog-entry-171.html
しかしながら、次の一文はいただけなかった。
(引用はじめ)
一般的には、文字として記されたものが「御言」であり、それに異論はありませんが、もう少し厳密にいうと、その文字の背後や行間に込められた、考えや願い、真意を、私たちは「御言」であると受け止めています。
(引用終わり)
「その文字の背後や行間に込められた、考えや願い、真意」までも「御言葉」とするなら、もうメチャクチャになります。
人格神と同じように、読み手の恣意的な御言解釈が可能になってしまうからです。
御言葉には「暗号」が秘められているといった解釈も可能になってしまいます。
次の考えも牽強付会以外の何者でもありません。
「そういった意味では、目に見える自然現象から、その背後にある法則性を発見(抽出)するという自然科学的な方法と似ているかもしれません」
「自然科学的な方法」とは、誰でも検証が可能でなければなりません。それゆえ、明らかな失当です。
ただ、誤解されたくないので、あえて付け加えおきますが、4研には誠実さと善意を感じています。
ではでは、次に。
ちゃぬさんが出典を示す時に御言葉集の巻数は書くのに、何故かページ数を書かないのをいつも不思議に思っていました。CD から引用していたのならページ数を示せない理由になるのかもしれません。ただ前の方が書かれていますが、国歌メシヤレベルの方でないとアクセスできないとなると、いったいちゃぬさんとは、と別の疑問が湧いて来ます。
全集のCDロムは
ブログ「裏韓国日記」
動機は隠された部分のみ言葉の理解でした。理解することで自分の歩みの価値を知りたくてみ言葉をあさってました。
後で、この部分が隠されることで拉致監禁の問題が出てきたのだとも聞いたことがあります。反対牧師が教会のメンバーを脱会させる良き資料となっていたのでしょう。
この隠されたみ言葉の探求をもっとして、それを教育して欲しかったと思ってました。一般的には、非難とか、批判とか、色々な問題のもとになるので隠したい内容です。これこそが、非常識の中にある真実、神様の最も願われるエバの復帰の内容、神様のハンを解く内容が隠されています。
ある人は教会の本部に行きました。この隠された内容は絶対に公開しないといけないと、説得に行かれたそうですが受け入れられませんでした。
それが、更に拉致監禁の問題を複雑にしたのではないでしょうか。
この非常識な内容は今も私は探求中です。ちゃぬさんと相当討論して迷惑なコメントもしたと自分でも感じています。
文氏のメシヤの検証でちゃぬさんはメシヤでない検証をしていました。私はメシヤであるという検証をしていましたので、そのへんの行き違いは当然起きていました。私は今でも文氏はメシヤであるという前提で探求中です。
如何なるみ言葉も探求中です。それが、反対の人々には正当化に見えるでしょうが、本当の意味で理解する努力をしますと、決めつけられなくなってきます。中間の位置で求めざると得なくなってきます。
”引用されている御言葉をそれほど熱心に読んでいるわけではないけど、みんなてんでんばらばらに、自分の主張を補強するために、都合のいい御言葉を好き勝手に引用している-ような印象を強く受けている。したがって、あまり読む気がしないというのが偽らざるところだ。”
と書かれていましたが、そのとおりだと思います。私は引用するよりも実践してくださいと言いたいですね。実践して見せてくださいと言いたいです。そうすれば都合の良きみ言葉と思われないでしょう。
あいあ変わらずのサイト
あい変らずの荒れようでね。私のような者が少しでもコメントすれば、やはり嵐のような反応があるのでしょうか?
2点だけ申し上げます。
まず、神の『み言』であって「み言葉」ではありません。神のみ言には葉っぱはついていません。これは小さな間違いと片付けられない間違いです。
また、どなたかが、偉大な思想家、宗教家なら自分で書いた書籍を残す云々とおっしゃっていますが、イエスキリストも哲学者ソクラテスも、釈迦も孔子もみんなその教えは弟子が書いたものです。イエスの教えはあの膨大な聖書の中でしかもホンの僅かです。
神のみ言は生命のみ言。救いのみ言。
文書にはるかに勝ります。比べようがありません。本当は、300巻に上るみ言は直接すべて聞くことが理想です。
『舌は火である』ヤコブ書三章六節。
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