献金献金で、非人間的食口が大量発生。
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一筆一論(17)
「拉致監禁by宮村の裁判」は、最高裁の棄却で、東京高裁の後藤勝訴判決が確定した。
統一教会員が感涙にむせているのかと思いきや、ブログ村の日本教会員ブロガーで心から喜んでいたのは、「いつも私のとなりに神さま」の栗原幸二氏だけであった。「最高裁勝訴!! ☆後藤徹さん、独占インタビュー?!☆ 完全勝利、おめでとうございます」
勝訴確定のことを報じたブログは2つほどあったが、事実を伝えているだけで、感想めいたことは書かれていなかった。
宿谷麻子さん。2012年10月15日逝去。享年48歳
<注>栗原氏の喜びにケチをつけて申し訳ないのだが、彼の喜びは人としてのそれではない。記事を読めばわかる通り、「後藤氏が信仰を守った」ことが前提になっている、条件付きの喜びに過ぎないのだ。
拉致監禁反対運動に火をつけたのは、周知の通り、元信者の宿谷麻子さんだった。
あるとき、宿谷さんから拉致監禁の首謀者である「戸塚教会の黒鳥栄牧師を裁判で訴えたい」という相談を受けたことがある。回復しつつあったとはいえまだ本調子ではなく、また裁判になると様々な困難苦難が予測され、心的外傷後ストレス障害(PTSD)が悪化する可能性があった。そのため、私は反対した。
もし、宿谷さんが反対牧師を訴えて勝訴した場合、栗原氏は「最高裁勝訴!! ☆宿谷さん、独占インタビュー?!☆ 完全勝利、おめでとうございます」という一文を書くのだろうか。
2009年(確か秋頃)、当時日本担当だった文国進氏が「拉致監禁と闘え」と指示してから、全国各地で拉致監禁反対の集会やデモが行なわれるようになった。2010年1月には「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」が結成された。クリックして過去記事のタイトルだけでも眺めてもらいたい。集会、デモの参加者は累計すれば、1万人に近いのではないのか。
「雪まつり」の札幌で、拉致監禁問題アピール/拉致監禁の根絶を訴え、150人がデモ行進/新潟で拉致問題に反対デモ
記事からは熱気が伝わってくる。
それなのに、後藤勝訴が確定したというのに、教団の公式サイト、被害者の会のサイト、PeaceTV、光言社のサイトで1回づつ報じられただけ。シックのブログでは前述した通り、3本のみ。拉致監禁対策の責任者だった梶栗正義氏がいる天宙平和連合、横田浩一氏がいる世界平和連合のサイトでは一行も報じていない。
松濤本部の広間で勝利集会でもやるのかと思っていたが、その気配は一切ない。
あの熱気の実態は、指示されたから参加したというだけの空虚なものでしかなかったのだ。
<注>全国各地で行なわれた集会やデモに期待したことがあった。
拉致監禁に反対する背骨は人権の尊重である。教会員の人権意識が高まれば、他人や仲間への思いやりの心が生まれ、教会の人権侵害や、批判されるような問題行為もなくなる。そうなれば、国民から批判されることのない組織に発展する。そう考えたからだ。残念ながら、私の希望は観念的なものにすぎなかった。
後藤勝訴に歓喜の渦は巻き起こらなかった。
いったい、これはどういうことなのか。「ために生きる」ことを信条としているはずのシックなのに。
一方、勝訴した後藤徹氏の態度は注目に値する。
ブログ「拉致監禁by宮村の裁判記録」の「最高裁が上告を棄却!勝訴判決確定!!後藤裁判ついに終結!!!」に、彼のメッセージが載っている。一部省略して紹介しておく。
(引用はじめ)
このブログは、画面右上に名前がある世話人の皆さんによって運営されてきました。私は統一教会員ですので(統一教会は、「家庭連合」と名称変更されていますが便宜的に統一教会と記します)、統一教会員の皆さんが世話人になっていると思われている方も多いと思いますが、実は統一教会員はyamaさんだけで、他の皆さんは統一教会を脱会し、統一教会に批判的な方々です。
このように、世話人の皆さんは、信者である無しにかかわらず「拉致監禁NO!」を掲げ、この裁判のために尽力して下さいました。
長年、拉致監禁によるPTSDに苦しまれ、2012年10月15日に逝去された宿谷麻子さんは、生前私の裁判を熱心に応援して下さいました。
また、看護師としての知識と体験を総動員して手弁当で飛び回り私の身体への虐待の証拠を集めて下さったkoyomiさん、いつも励ましの電話を下さり、何度も新潟から傍聴に駆けつけて下さった小川さん、そして、いつも面倒な雑務を快く引き受けて下さった同じ宮村の被害者のyamaさん、その他、全員の名前を挙げることはできませんが、信者であるなしにかかわらず、多くの皆さんが労力を惜しまず協力して下さいました。
また、多くの拉致監禁被害者の皆さんが、心の奥に閉じ込めてある思い出したくもない苦悩の体験の記憶を掘り起こして下さり、それを陳述書として提出することができました。皆さんの協力なくしては今日の勝訴の結果を迎えることは決してできませんでした。
本裁判の影響もあってか、ここ1年ほど拉致監禁・強制棄教事件は2件だけです。拉致監禁事件は、ここ数年10件前後で推移していましたから、ぐっと減少しています。
しかも監禁された信者が激しく抗議・抵抗した結果、家族が信者を監禁から解放するという、今までの「脱会するまで出さない」拉致監禁事件とは違った様相を呈しています。このような現象を見るにつけ、いよいよ拉致監禁・強制棄教は終息しつつあるという印象を受けます。
しかし、残念ながら拉致監禁は今も続いています。2014年の1月に失踪して以来、1年9ヶ月間に亘って未だ監禁されていると思われる石橋正人(いしばしまさと)さんのことです。
→ http://kidnapping.jp/news/150321.html
石橋さんが解放され、この日本社会から拉致監禁・強制棄教が根絶する日が早く訪れるよう、今後とも皆さんのご関心とご協力をよろしくお願いいたします。
(引用終わり)
統一教会に批判的、いや統一教会はなくなったほうがいいとさえ考える人たちが後藤裁判を支援するのは、信者であるなしにかかわらず、つまり「人」として、人権蹂躙は許されないという立場からである。
元信者の小川さんは、「速報!後藤裁判-最高裁が被告の上告を棄却 高裁勝訴判決が確定す」 のコメント欄で、「最高裁の前で後藤さんを胴上げしたかったなー」という。
裁判を支援した人たちは「ために生きる」なんて言葉を決して口にしない。
一方、99%以上のシックは「ために生きる」と夢想しながら、仲間の勝訴を喜ぼうとしない。というか、関心が無いように見える。
これは、一体、どういうことなのか。
後藤氏のメッセージで注目されるのは、石橋正人氏のことに言及しているということだ。コメント欄での投稿者を別にすれば、現役教会員で石橋氏の名前を出しているのは後藤氏ただ一人。重要なことなので繰り返すが、信仰仲間が1年9カ月間も監禁されているというのに、石橋氏を解放しなければならないとメディアで語っているのは、本部職員を含め、後藤氏だけなのだ。
これは、一体、どういうことなのか。
◆コラム-後藤徹の思想的営為
後藤氏のメッセージを読んでいると、1年半前に書いたインタビュー記事が蘇った。
「後藤インタビュー(上)-10年間毎日聞いた♪夕焼け小焼け♪」
(引用はじめ)
--12年間よりこの5年間が長かったというのは、上から目線で申し訳ないけど、後藤さんが成長したからではないでしょうか。子どもの頃は時間が経つのが長く感じられるけど、大人になるとあっと言う間に1日が過ぎていく。それは、子どもの頃は様々な刺激を受け、成長するがゆえのことではないかと思っています。ぼく個人のことになるけど、大腸がんになっていろんなことを学びました。入院期間は5週間。退院してから12週間(インタビュー当時)になりますが、入院中のほうがものすごく長く感じられた。
後藤 (眉間に皺を寄せ、沈んだ調子で)確かにこの5年間での経験で、私の認識は大きく変わりました。特に人に対する見方が変わったと感じます。
例えば、こんなことがありました。監禁解放後の入院中、かつての信仰仲間が見舞いに来て下さって本当に嬉しかったのですが、その中に一人の女性がいました。
久しぶりに会った彼女と少し話をしてみると、私が監禁される前に知っていた彼女とはだいぶ違っていました。彼女は統一教会の信仰から少し離れているような状態でした。
彼女の変貌に私はとてもショックを受け、正直、怒りを覚えました。言葉には出して言いませんでしたが、
「いったいどうしたっていうんだ!俺は監禁されながらも自分の信仰を貫くため12年間も忍耐してきたっていうのに!」
といった思いが湧いてきました。
自分が死線を彷徨いながらも苦労して信仰を全うしたとの強烈な思いが、変貌した彼女への怒りとなったのです。
私は、わざわざお見舞いに来てくれた彼女に厳しい言葉をまくし立て、連日、彼女のためによかれと思い覚えたてのメールで一方的に文先生のみ言葉の一節を送りました。そんな私の言動に彼女が反発したのは当然の成り行きでした。彼女とはそれっきりになってしまいましたが、あの時の私は異常でしたね。「信仰傲慢」だったのです。今となっては深く恥じています。
今では、人に対して多角的に見ることができるようになったと思います。
(引用終わり)
ブログ「統一教会変革論議」の記事「大転換が出来るかどうか、かなり怪しいが可能性は残っている」に興味深い図が載っている。

金がない人間、すぐに金にならない人間を軽視する。人を大切にしない。人の話を聞かない。
本然の人間性に立ち返りたい、個人の完成を目指したいと夢想しているシックたちが!である。
こうした体質のシックにとって、拉致監禁なんて、どうでもいいことなのだ。
修練会で何を教わっているのか知らないが、4位基台の原理は一度棚上げして、小学校の道徳教育を受けたほうがいいのではないか、と厭味ではなく、心からそう思う。
お金がない人をバカにしてはなりません。人を大切にしなければなりません。人の話はきちんと聞かなければなりません。
嗚呼、アージュである。
振り返ってみるに、取材で知り合いになった教会員のかなりのシックは退会している。共通項は「人の顔をしたシック」だった、ということである。
「2015年10月7日水曜日 Timエルダー宣教本部長 報告」によれば、サンクチュアリ教会への流入が続いているという。私が知っているシックもそうである。
【感性あるブログ】「拉致監禁をなくせるのか」。「数年ぶりに解放されて戻った兄弟に対して、それ(今の統一教会の現状)はあまりに残酷な結末です」。心からそう思います。
とまれ、統一変革論議さんは、今の統一教会を比喩的に「生活習慣病」にかかっていると見る。なるほど。そして、生活習慣病を治せば、組織改革の可能性はあるかもしれないという。
それはその通りなのだが、他の病気と違って生活習慣病が治るのは、本人(統一指導部、シックたち)が高血圧・脂質異常症・糖尿病・肥満といった症状を自覚することが大前提となる。
高血圧なのに、その自覚がなく、カルビをガバガバ食べていればどうなるのか。
献金プッシュ婦人部長を含め組織の中核を担っている人たちに生活習慣病の自覚があるとは到底思えないし、等身大の組織像が見えているとも思えない。
となれば、どういうことになるのか・・・。
「日本では生活習慣に起因する疾病として主として、がん、脳血管疾患、心臓病などが指摘され、それらは日本人の3大死因ともなっている」(ウイキペディア)
統一病は深刻な病だと思われた方は↓

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- [2015/10/13 14:31]
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献金が何に使われているか?
当然拉致監禁は組織にとってはどうでもいい、収益とは関係ないですから。
この組織は金で罪を犯してますから滅びるときは当然経済破綻です、年金なんかもらえるはずありません、そこまでの分析がないのが日本人教会長はじめ役員たちです。
韓国人のほとんどは今のうちにできるだけ横領実績を残すことをかんがえてますから、人のいい日本人幹部は早く目覚めて、韓国人幹部を追い出すべき、お母様に進言して正式な鉄好きをとって、なんてことはできっこありませんから。
どうせなら今の現状を信徒に打ち明けて組織ごと脱出する決意を固めるべきでしょう。
その方が未来に希望が持てます、遅くても来年夏までには破たんすることを祈ってやみません。
トロちゃん
●「中和新聞 速報版 │ 世界平和統一家庭」
●「拉致監禁被害者、最高裁で勝訴確定」
●http://ucnews.info/201510134170
●掲載日は10月13日(最高裁の棄却日9月29日)
官僚組織が経年劣化を起こしている証左ですね。
♪泣けた泣けた、こらえきれずに、泣けたぁ~け♪
「中和新聞 のんびり版」なら、泣きませんがね。
献金至上主義
拉致監禁撲滅運動も、大多数の食口は教会の指示のままにデモに参加し、ビラを撒いただけ。
拉致監禁の被害を受けた食口や、元食口の心情に寄り添うことができた食口はどれほどいるのでしょうか?
今までにどれほど多くの食口が、献金に躓き離れていったのか。
献金至上主義の体制ももう40年にもなり、それでいったい何が残ったのかというと、箱モノは残ったけれども、食口の心は離れていくばかり。
この教団は、いつになったら変われるのだろうか?
「速報」とは
2ちゃんねるで工作ばっかりやってるから(苦笑)
トロちゃん②
信仰的と人間的
教会では信仰的という言葉と人間的という言葉がまるで対義語のように使われる。すなわち信仰的であることと人間的であることが両立しないような矛盾した言葉となっている。
信仰的ということは人間的でない、すなわち非人間的ということになり、信仰的でないとなれば人間的ということになる。したがって献金献金で信仰を問われ、信仰的になればなるほど非人間的にならざるを得ない。
そう言う意味では米本さんの指摘は実に当たっている。そして「ために生きる」をモットーにしている統一教会がどうしてそうなるのか?という疑問も頷ける。
米本さんは多くの食口とインタビューしたりして交流があると思うが、ひとりひとりは多分普通の人だと認識していると思う。(まあ中には相当変わった人がいるとも思っているかもしれないが・・・・)しかし組織人としての食口はまた別の人格が顔を覗かせるているに違いない。
本来統一原理は人の持っている人間性の再構築を図るという教が根底にあるのに、それが人間性の否定だけに終わってしまえば、それは非人間的な食口の大量発生を招きかねないことになる
名前も変わったことだから、そろそろ組織から家庭に返してもいいのではないか? 本当の理想は家庭の中で実現されるべきだ。なぜなら復帰原理は蕩減復帰原理でもありながら再創造原理でもあるからだ。
崩れた家庭を再構築するのは祝福家庭の責務でしょう。なのに家庭から逃げて組織に逃げ込んでどうなるのですか?家庭に戻って再創造してくださいな。
そうしてこそ初めて人間の顔を持った食口が大量発生することになるだろう。
献金する軍隊みたいな組織ではそんなことは望めない。軍隊はある意味大義ではあるが建前によって成り立っている組織である。その中にずっといるとこの世の中がわからなくなってしまうのだろう。
米本さんの声が届くかどうか? 一緒に声を上げたい。
必見ブログ
●ブログ「青い海のひとりごと」
●「統一教会に感じた違和感・疑問」
●http://ameblo.jp/toraji-j/entry-12084068622.html
「え? 何? 妹さん、中卒? おまけに最近、工場で働き始めたばかりじゃ 貯金もなさそうだから、献金もできないじゃない。そんな人、伝道して、どうするの?」
「その先輩、いくら貯金を持ってるか調べてきて。」
「何だ。たったの300万しか持ってないのか? もっと、こう、多宝塔とか買えるような何千万、何億っていうお金を持ってる知り合い、いないの?」と聞かれた。
憤死しそッ!!
そうそう、そんなこと言われたわ。
そうそう、そんなこと言われたわ。
神経科に通院しているだけの人をビデオセンターに連れて行ったら、「精◯はダメよ。」と言ったアベルがいました。
心の中で、「精◯ではないのですけど。このアベル無知だな。」と思いっきり裁いてました。
「真の愛」とほざきながら、自分たちの意に沿わない人をビデオセンターに連れて行ったら超冷たい視線を私だけでなく、ゲストにも送っていました。
思い出しても腹立ちます。
無知アベルの名を公開したいけど、もしかしたら、今は改心しているかもしれないので、やめておきます。
Re:必見ブログ
カープの場合は、学生が対象だから、そこまであからさまな話はないな。
強いて言えば、偏差値の高い大学に力を入れているような部分はあったかもしれないが、
それは「将来リーダーになるような人を伝道するため」と考えれば、そんなにおかしくない(ように見える)からなぁ・・・
新たな団体
「なるほど」コメント(龍丼さん)
●非人間的食口とは、基本的人権を分かっていないくせに天国実現と叫ぶ愚民のことである
●コメントのタイトル「 ”思考アレルギー症状”に効果にあるものは何?」(ドラゴン・ボウルさん)
●http://kuramatengu.kyotolog.net/%E3%82%88%E3%82%82%E3%82%84%E3%81%BE/%E9%9D%9E%E4%BA%BA%E9%96%93%E7%9A%84%E9%A3%9F%E5%8F%A3%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E7%9A%84%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E3%82%92%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%9B%E3%81%AB%E5%A4%A9
なるほどと思ったので、長いが全文引用しておく。
(引用はじめ)
統一教会の教育の中では、人間的であることを信仰が足りない未熟者としてながらく認識してきたと思います。
信仰者は、つまり尊敬される人物とは天的であること。
”この世の制約”=教会用語で”地の事情”に惑わされず、”天の事情”に相対することが何よりの神様に相対している文先生と一つになる道と教え込まれてきました。
文先生や神様には休みなんかない・・その相対に立つべき食口が休ませてほしいなど申し訳なさすぎるという感覚でアベルから叩き込まれてきました。
つまり人間的な権利など最初からなかったんですね。
そんなことを主張でもしようものなら信者からのけ者、変人扱いを受けて、そこにはいられなかったでしょう。
教会を離れた人は多かれ少なかれ教会の非人間的教育に反発を覚えた常識人だったと思います。
このようにして私たちのこの組織では天国実現とかのたまいながら、非人間的な路程を天の事情にまかせて走り続けることしか平信者には認められていなかったというわけです。その最たる例が献金という名の半強制的な上納金催促です。それをする人間こそ天の事情に相対する信仰者であり、称えられる者という位置づけが未だにこの組織(特に日本)にあるようです。(私はアメリカ在住組ですから、事情が異なるのではっきりわかりませんが)
しかし、そういう”天の制約”の中で苦労を分かち合う者同士には一種の連帯意識はあったと思います。
・・・・未だに離れずに残っている食口の間には、そのようなもろもろのことが実体を通して脳裏に刷り込まれている。
ブログ村で展開されているさまざまな統一組織批判に対して、真っ向から論理的に反論できない羊の群れ信者には、かねてからの天の制約規制によって自己批判的(自虐意識)になっており、中心者批判や組織批判などそれ自体が考えてもいけない悪い事のように勘違いしている人が少なからずいます。
それはもう彼らにとっては生理に近い感覚なんじゃないかと・・・
この思考アレルギー症状とでもいえる意識が完全に開放される時が、日本に住む信者にくるのでしょうか。
(引用終わり)
信仰自体にある問題について
本然の人間性に立ち返りたい、個人の完成を目指したいと夢想しているシックたちが!である。
こうした体質のシックにとって、拉致監禁なんて、どうでもいいことなのだ。
修練会で何を教わっているのか知らないが、4位基台の原理は一度棚上げして、小学校の道徳教育を受けたほうがいいのではないか、と厭味ではなく、心からそう思う。
米本さんは今回の記事で‘統一教会’信者に対して鋭い問いかけを行っておりますが、それは‘信仰’について考えても無視できない問題提起のように思います。
「ために生きる」を大切なモットーとしていながら、同じ信仰を持つ教会員の拉致監禁問題には関心を示さず、上から指示があった時だけ熱心に反対活動をするという奇妙な動向、そして他の何よりもお金集めに関心を持つという教会幹部達と末端信者達の異常さ…などは常識ある米本さんからすれば理解し難いのは当然です。
それらの明らかに異常である統一信者達の特性はその信仰に由来しているのは間違いないのですが、その異常な特性の中には他の‘カルト’宗教の信者にも共通して見られるものもあります。
一般的に悪い意味で‘カルト’宗教とされている教団の信者などは非人道的なことも平気で行い、実際にテロ行為を行たり、他の人々に虐待を行うことも珍しくありません。
現在世界的に問題となっているISILや以前のオウム真理教の信者達などはその典型ですが、明らかに人道主義に反する行為を 信仰を根拠に行っております。
日本人などは一神教の信者は少なく、社会道徳はそれなりに高いレベルにあるので人道主義を尊ぶ人が多く‘カルト’宗教信者の行動は普通の日本人にはより一層理解し難いものになります。
一般的には人間や自然を超越した存在を信じているのが宗教信者であるわけですが、いわゆる世界宗教とされている宗教の信者は人道主義を尊び、社会道徳と矛盾するような行為を肯定するようなことはありません。
一般的キリスト教の信者もほとんどが人道主義者であり、博愛主義者であるように思われます。
米本さんが人道主義の観点から深刻に問題視している拉致監禁肯定派の牧師などは明らかに少数派であり、米本さんご指摘のとおり、まさしく‘カルト脳’の狂信的信者と言える特殊な人達です。
世界宗教を信じている人達は人を差別するようなことはせず、人権を尊重します。
キリスト教徒などの世界宗教の信者が無宗教の人達と異なるのは 自分の幸福や善の実践などの行為を神の存在と結びつけているところであって、人々と全く異なる価値観を持っているわけではないのです。
勿論、キリスト教でさえ無数の宗派があり、様々な教義の違いなどはあるわけですが、博愛精神を持ち人権を尊重する姿勢には共通性があります。
‘統一教会’に関しては 教理面から追究しますと、原理講論の第一章、創造原理や統一思想要網などには非常に優れた内容があるのですが、原理講論 第二章、堕落論以降は論理的な破綻が見られ、信者は真理からほど遠い間違った宗教思想を信奉していると言ってもよい程です。
さらに原理講論全体で考えますと、後編になる程文先生の思想が強く反映されているように感じられますが、その分だけ創造原理とかけ離れた整合性のない論理展開になってしまっているのです。
その原理講論の中で、後編、第五章 第一節「宗教改革」、そして第二節「宗教および思想の闘争期」においては近世ヨーロッパにおける思想、哲学の発達について書かれていますが、その発達の大きな流れをヘレニズムとヘブライズムとに分け、独自の観点から歴史論を展開しております。
ヘレニズムについては古代ギリシャに端を発する文明を指して、「人間の自由、人格の自主性、理知と理性の尊厳性と、自然を崇拝し、現実に重きをおいて科学を探究することなど、人間の本性の外的な追究によるものであったので、」と捉え、「カイン型の人生観」であるとしています。
そしてユダヤ教の特徴である、一神教、啓示・経典・預言至上主義を意味するヘブライズムを「より深く内的なもの」として、「アベル型人生観」であると捉えているのです。
西洋文化はヘレニズムとヘブライズムが源流になっていると考えるのは一般的であり、異論はないのですが、それを統一教会独自の解釈である‘アベル・カインの関係’と捉えることは決して一般的ではありません。
尚且つ、ヘブライズムとは一つの流れをもった文化性として捉えることが妥当かどうかは疑問になります。
ユダヤ教からキリスト教につながる一神教の流れを指してヘブライズムと捉える場合が多いのですが、歴史においてヘブライズムが独自のスタイルで優れた文化を形成したことなどなかったのです。
ヨーロッパの中世はヘブライズムが色濃く反映されているという見方もされていますが、文化としては否定的な評価がなされており、ヨーロッパを近代化し、発展させたのはルネッサンスとして顕れたヘレニズムだったのです。
原理講論には宗教改革運動にヘブライズムが顕れているなどと書かれていますが、それらのキリスト教新教は多数の宗派に分かれ、教理も様々であり、まとまった文化など作り上げなかったのです。
現代の高度な文明の基礎となる「人間の自由と平等、人権の尊重、博愛主義」などはヘレニズムの流れにあり、その文化が発展したものとも捉えられるのです。
アメリカ合衆国などはプロテスタントがその建国に大きく関わったとされていますが、合衆国の建国の理念とされているのは自由、平等、個人の権利の尊重などで、ヘブライズムとは言い難く、ヘレニズムの流れにあると考えられるのです。
結局のところ、ヘブライズムとヘレニズムは西洋文明の二大源流でありながらも、決して対立したものとして考えることなどできず、同次元にある二つの異なる文化としては捉えられないのです。
ヘブライズムとされる一神教などは人類の歴史に必ず関わってくるのですが、文明が発展する時には必ずヘレニズムの流れに沿うようになるのです。
原理講論においては、ヘレニズムを「人間の本性の外的な追究」などと解釈していますが、「人格の自主性、理知と理性の尊厳性」を追求することが内面的、本質的なことではなく、「外的」であるとして論理を展開しているのですから、全く論理が噛み合わないのです。
原理講論の執筆者の狙いとしては、ヘブライズムとされる一神教、啓示・経典・預言至上主義を優位に立て、その唯一神から遣わされた再臨のメシアに従うことが人類の最終目的であると結論付けたかったのでしょうが、如何せん、歴史解釈も、論理的な筋道も全く的を射ていなかったのです。
ただ、思考の未熟な統一信者などはその理論を正しいと思うようになり、自称再臨のメシアを神格化し、その人間に絶対服従するようになってしまうのです。
米本さんが問題提起した最初にある引用などは、‘統一教会’型ヘブライズムの弊害であり、現代社会では常識とされているヘレニズム的文化の流れを否定してしまうことから生じる精神状態なのです。
結局、統一教会の創始者は人間にとっては特別な力をもつヘブライズムをうまく利用することを考え、反知性、非理性的精神の‘絶対服従者’を生み出そうとしたのであり、組織を世界に拡大できたならば 己を人類の絶対王として君臨させ、国や世界を支配できると妄想を抱いたのだと思います。
矛盾
腹立つことばかりなり
献金献金のない国も、非人間的食口大量発生
なぜなら日本が高額献金のため、家や車を売り、借金しているのに、あちらは、家を買い車を買い、多額の貯金をしているのです。自分の家族さえよければいいという利己人間。(もちろん、全員ではないでしょうが) 知人の話し-人口300万の大都市に、礼拝人数20人前後だそうだ。人を差別し、不公平、不平等扱いから、全人類救済なんてできっこないでしょ。イエスキリストは、難病人、酒税人、霊に取り憑かれている人などなど、惜しまず救われた。家庭連合統一教会-非人間的人間発生所
優先順位
20年位前でしょうか、私もこのような指導の下、活動していました。社会的経済力がある人を伝道して、摂理が進んでからこういう人を伝道する優先順位みたいな形で。
しかし蓋を開ければ(一言で言えば)、幹部は超超超超無能ゆえ事業はことごとく失敗、そして幹部は責任を全く取らずその一族が贅沢するだけ。世のためになることは実績はほとんどない。残念。
血統転換理論だから
では日本以外の国では献金がそこまで追求されないのに、シックに人格者が少ないとしたら、それはどう説明するのでしょうか?それは、トップの文先生が、努力して人格を磨くことではなく、祝福による血統転換を通して神側からサタン側に移行して、天国人になることを強調したからだ、と思えてなりません。統一原理はちゃんと個性(人格)完成が重要なことを説いていますが、文先生の話はいつも血統転換が結論でしたし、その傾向は晩年強まった気がします。また、90年代から広まった清平は、血統理論というより霊的「役事」信仰ですが、一種魔法のような変貌を期待して信じる、という点では似ています。もうひとつは、その時々の大会のための動員などの「摂理」に貢献することが功労になるし、自分の救いにつながるという考え方です。だから他のシックを押しのけても実績を立てよう、みたいになってしまうんです。
そういう教会だから、日々努力して人格を磨くとか、ために生きる人を育てる教育をするなどとという道は、まったく無視ではないにしても、大体どこの国でも教会の主流にはなっていないのでは?と思います。
Re.血統転換理論だから
日本では、あまりないかもしれないけれど
韓国の私の所属する教会では、シック間での
伝道対象者の実績の奪い合いや喧嘩を、時々、見かけました。
その度に、違和感…というよりも嫌悪感を感じていました。
どうして、そこまで、自分の実績にこだわって
兄弟姉妹の実績を横取りしてまで、そのような行動ができるのか理解できませんでした。
そういう、いざこざを見る度に
統一教会に対する失望感が大きくなっていった事を思い出しました。
霊の親がまさにその状態です。
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