サンクチュアリ教会に怯えだした韓国統一教会
鶴の絶対化路線(9)
次から次とで、更新の頻度がさらにアップしています。直近の記事は-
「またまたお騒がせ女、その名は江利川安栄!」(7月20日)
「7月の月間目標達成率はただ今、わずか20%(泣 」(7月22日)
未読の方は是非お目通しを。
予告していた「セクハラ対策に見られる韓国統一教会と日本脱カルト協会との類似性」は、次回に。
韓国統一教会がサンクチュアリ教会の動きに危機感を抱き、公文・書信・通知文を連発している。日本の教団も、江利川女史が活動を始めたときの参考にされたらいかが。クスッ

韓国統一教会が“指名手配”したサンクチュアリ教会・韓国総会長のイ・サンヨル氏
(引用はじめ)
「非原理的集団に対する韓国協会の公文」
全国の教区、副教区リーダー及び教会リーダーの皆さんへ
栄光在天!
最近カトクなどで色々な内容が出回っていますが、韓国協会からの公文が出ましたので、リーダー達はこの内容に従って宣教師達によく伝えてくださいますようにお願いします。
<注>カトクとはカカオトークの略。日本でいうラインのことである。
<公文、第337号>
題名:非原理的集団活動に関する件
最近起こっている非原理的な主張及び活動によって真の御父母様を中心とする絶対信仰・絶対愛・絶対服従の基準を離れて食口たちを惑わすグループがあるため、下のように通告しますので、全ての牧会者は全体の祝福家庭と食口達が正しい信仰の伝統を立てる事が出来るように指導してください。
非原理的主張及び活動集団
1)主要活動者:イ・サンヨル、キン・ガプヨン、キン・ヨンハ、イ・ホテクその他多数
2)活動場所:ソウル市クロ区クロ洞 544-1 エルリムBL 5階
真の御父母様の指示事項:
真の御父母様は、上の者達の非原理的な主張と行為及び儀式について、天暦5月28日(陽暦7月13日)御言葉を通して強く間違いを指摘し、今後こうした活動を中止する事を厳重に警告されました。
<公文、第338号>
題名: 非原理的集団に対する家庭連合の指針の案内
天地人真の御父母様は人類歴史上空前絶後の希望です。
天地人真の御父母様を通して祝福家庭が誕生し、全ての人類は真の御父母様を通さずしては永生の道を行く事ができません。
これに反するどんな内容も、受け入れる事は出来ないという事を明らかにします。
また、最近 起こっている非原理的主張及び活動について憂慮を表し、下のように家庭連合本部としての指針を案内しますので、全ての祝福家庭食口達は真の御父母様に対する絶対信仰・絶対愛・絶対服従の伝統を立てて下さいますようにお願いします。
非原理的主張及び活動集団
1)主要活動者:イ・サンヨル、キン・ガプヨン、キン・ヨンハ、イ・ホテク、 その他多数
2)活動場所:ソウル市クロ区クロ洞 544-1 エルリムBL 5階
非原理的主張及び活動に対する家庭連合の指針
1) 非原理的主張(講義又は動画)に惑わされない。
2) 非原理的主張(講義又は動画)を拡散する行為をしない。
3) 非原理的行為又は儀式に参加しない。
4) 非原理的主張及び活動をする者と個別的な接触をしない。
5) 非原理的主張及び活動をする場所に行かない。
<公文、第339号>
題名:祝福家庭食口に伝える書信
最近 我々の共同体で引き起こされている幾つかのもどかしい試練について、全国の祝福家庭食口に伝える書信を送らせていただきます。
添付ファイルのユ・ギョンソク会長の書信“愛する祝福家庭食口にお伝えする言葉”を参照して下さい。
================================
国際家庭協議会(前多文化宣教師会)
電話:02-3271-0415
Fax :02-701-3530
Eメール:fujinkai@…
場所:ソウル市龍山区青波洞1街161、協会本部 5階
(引用終わり)
ユ・ギョンソク会長の書信“愛する祝福家庭食口にお伝えする言葉”
<注>例によって、意味不明・定義曖昧な教会用語をふんだんに使い、トートロジー的な繰り返しの多い長文。よって、抜粋する。
(抜粋はじめ)
摂理的中枢機構として立てられた「UCI」を蹂躙した郭グループ、真の父母様の位相を失墜させようとした中山グループ、駒場グループと우グループ、そして現在、突出して来ている非原理的集団(ソウル九老区所在李相烈イサンヨル李ホテク他多数)の形態には等しく共通点があります。
これらの言説と行為一切は非原理的なものに満ち満ちています。利己的な恣意的解釈を欲しいままにして、み言葉の価値を損なわせました。天の伝統と天道の前に逆らい、真の父母様に背きました。初期には「使命継承」だの、「代身者」「相続者」だのを云々しながら、自分たちの行為を真の父母様のみ言葉に結びつけて、まるで摂理的な正当性があるかのように、こじつけ的解釈を発表したのです。しかし結局彼らは、真の父母様の、骨が泣くような苦痛の中で生涯にわたり成し遂げられた、摂理の業績を無視したのであり、その挙句には、真の父母様に対する否定に帰結してしまいました。
毒キノコのような彼らとの接触が全くあってはなりません。み言葉と摂理を口実にした恣意的講義、儀式、集会などには絶対に加担しないでください。インターネット、スマートフォンを通じた動画や、文字メッセージにも接続しないようお願いします。個別の対話や出会いも持ってはいけません。彼らを救うためには、関係断絶をもって孤立作戦をとる必要があります。これにより、摂理的間違いや重罪を懺悔することができる余地を確保することができます。そうしないと、彼らはもちろん、私たちさえも摂理に反して、隊伍的危険にさらされる(隊列から外れる)ことになりかねません。絶対に、今の事態を軽く思うことのないよう、繰り返し申し上げるものです。
(抜粋終わり)
(1)文家7男・亨進氏が率いるサンクチュアリ教会グループを「非原理的集団」と言い換えるとは、腰が引けてるなぁ。堂々と名指しで批判せんかい!
「何故7男の名前を出さないのか?」について、事情通が話す。
「先週の班長さんのお話によりますと、『お母様は聖和3周年までは7男様が帰ってこられる基盤を残しておきたい』と語られているからだとのことです。実際、私が見てきた限りでは天福宮教会でも公式的な場ではお母様は何も語られていません。本部側からすれば『お母様の限りなく慈悲深い親心ゆえ』いうことになるのでしょうね」
しかし、火の粉ブログの読者は、韓鶴子氏が慈悲深い母親とは思わんだろうな。
なぜなら、聖和2周年を前に、文亨進氏が父親の墓参りに韓国に戻ったとき、母親は息子に会おうとしなかったばかりか、警備員に監視にあたらせたという出来事を知っているからだ。

【当該記事】「わが子・亨進と会うのを拒否した母親」 。韓国人の読者のみなさん、この記事をカカオトークで広くアナウンスしてくださいな。
(2)100歩譲って、「お母様は限りなく慈悲深い方」と、韓国本部が真に思っているとしよう。しかしそうであれば、毒キノコなんて表現を使うかい。
李相烈(イ・サンヨル)氏をサンクチュアリ教会の韓国総会長に任命したのは文亨進氏である。李相烈氏が毒キノコなら、自分は毒キノコの親分かと受け取るのは必定。ユ・ギョンソク会長(背後にいるのはむろん韓鶴子氏)は喧嘩を売っているようなものだ。
(3)韓国統一教会がサンクチュアリ教会に怯えているのは、「現在、突出して来ている」「その他多数」の表現に見て取ることができよう。それとこの言葉にも。「絶対に、今の事態を軽く思うことのないよう、繰り返し申し上げるものです」
(4)「人類歴史上空前絶後の希望」。まるで劇画の吹き出しみたい。こう表現したのが在韓国際家庭協議会事務局にいる日本人職員のかのお人だとすれば、高偏差値大卒の彼は統一教会という外界から閉ざされた空間に4半世紀にわたって漂っていたため、日本語が変になったということであろう。アーメン
そう言えば、日本の徳さんも文善進女史のことを「孝行娘の実体」「希望の実体」なんて訳のわからない言葉を使っていたなあ

(5)「関係断絶をもって孤立作戦をとる必要がある」。爆笑である。かつての左翼用語に「情勢ボケ」というのがあったが、まさにそれである。
郭グループ、中山グループ、駒場グループ、우グループ(禹明植グループのこと)、そして現在、突出して非原理的集団。
こうした集団に、韓国にいるシックは流れている。
孤立化しているのは、君たちなんだよ!
さらなる孤立化を防ぐためにやろうとしているのは、見ざる言わざる聞かざる作戦だ。
しかし、ネットが存在する限り、無理無理ベービー。
韓国統一教会7000人が世界と隔絶した孤島に移住するしかあるまい。
<そ、そんなことできませんよ>
そんなら、太閤秀吉がやった刀狩り作戦をやるしかあるまい。パソコン狩りじゃ!韓国シックのパソコンを取り上げればいいのだ。
韓国をはじめとする世界の統一教会にアドバイスしておく。
君たちは滅亡の瀬戸際にいる。絶対に、今の事態を軽く思うことのないよう、繰り返し申し上げる次第である。アージュ
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コメント
一足違いで読んでしまいました
ともに共通するのは統一教会の講義より
斬新で感動・感激でありました、
見るな・読むなは民主主義に反し、
国民の知る権利に反しますから応じる
必要はありません、
ブログコメントにも乱入し宣伝されて
いますが、
見るな・読むなと言われたら、
意地でも見たくなるのが男の性、
宣伝しなくてもUCがしっかり伝えてくれ
ますから韓グループが動けば動くほど、
もがけばもがくほど、その反対をやってれば
間違いありません、
なぜなら韓グループはUCを抱き込んだ
最高・最大の異端だからです。
笑
このご時世に情報統制なんで馬鹿げているが、それを言ってしまうのは、悲鳴をただあげているだけである。その悲鳴が、ただただうるさい笑
亨進様派が非原理的だというのならば、その説教をみて、感動している方たちをどう原理的に説明するのだろうか。
かたや、現体制の説教なんぞ聞いても、感動などさらさらない。どちらが原理的であるのか。
さぁ日本では江利川氏か出てきたが、どう対処するのだろうか。
非原理的集団?
その「人類歴史上空前絶後の希望」であるお方は
ご自分で「わたしは原理を誰からも学んだことがない」
と発言して、娘の結婚など他で、非原理的措置を連発してきた「非原理の希望」であるお方なのだが。
そのお方を絶対的頂点に頂くグループ(UC)が「非原理的集団」のレッテルを張るとは。いやはや。
人類史上空前絶後の希望は、お母様ではありません
偽メシア 支えてくれる 自己欺瞞
その「人類史上空前絶後の希望である再臨のメシアであるお父様」
の家族は バラバラ グダグダ で
「人類歴史上空前絶後の希望である再臨のメシアであるお父様」
が教育した幹部は ドロドロ ギトギト で
「人類歴史上空前絶後の希望である再臨のメシアであるお父様」
を崇める末端信者は ボロボロ ズタズタ で
それでも「人類歴史上空前絶後の希望である再臨のメシアであるお父様」
を信じるネトウヨならぬネトシック
のおつむの中で フワフワ ヒラヒラ 蝶が舞う。
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同じ根っこの分派や集団
非原理的とは
内容は相当細かい、今起こってる出来事への原理解釈講義だったんですけど、反対声明をあげるなら、具体的にどこがどのように非原理的なのかひとつひとつ説明して欲しいですね。
彼らの説明の方がよほど理性的で知性と信仰を感じるのですが。
教義にぞんざいな統一教会
‘題名: 非原理的集団に対する家庭連合の指針の案内’より
>天地人真の御父母様は人類歴史上空前絶後の希望です。
>全ての祝福家庭食口達は真の御父母様に対する絶対信仰・絶対愛・絶対服従の伝統を立てて下さいますようにお願いします。
米本さんは韓国統一教の公文を取り上げ、徳野会長の説教を記事にした時と同じように「揶揄的感想」を書かれましたが、徳野会長にせよ、韓国教会の公文を書いた者にせよ、繰り出す言葉のいい加減さには呆れるばかりです。
これらが教団のトップや本部関係者の言葉かと思うと、やはり統一教会はまともな宗教団体ではないのだと、改めて実感させられます。
文先生の‘御言葉’と原理講論の不一致や論理的矛盾などについては、私もコメントの中で多くのことを指摘してきたのですが、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」という‘御言葉’もその一つでした。
ただ、誤解し易いので明確にせねばならないのですが、文先生が‘御言葉’として語っていた「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」はあくまで‘神’に対するものとして語っていたのであって、‘人間’に対するものとして語ったものではなかったのです。
いくら、原理講論と矛盾することを多く語ったり、場面、場面によって矛盾する内容を限りなく語ってきた文先生であったとしても、‘人間’に対して「絶対信仰」せよ、というような露骨な‘人間信仰’を口にするような馬鹿なまねはしなかったのです。
しかし、上に引用した公文の内容を見ると、「真の御父母様に対する絶対信仰…」などと書いており、明らかに‘御言葉’の内容に反しているのです。
しかも、それは言葉どおり‘人間信仰’を意味しており、宗教理念の問題として考えれば、重大な変化であり、統一教会が経典などで教えてきた内容と180度異なるものなのです。
その教義破壊の言葉が本部関係者による公文の中に書かれたことを考えると、統一教会幹部は元々宗教教義などどうでも良いと考えているとしか思えず、教会自体が宗教的な目的が中心の純粋な教団とは言えないのではないかと思います。
そのように大切な教義にぞんざいな風潮は昔からあり、その例は探せばいくらでも見つかると思います。
ただ、今回の記事によれば、その教義破壊の言葉が公文の中に書かれて、公表までされており、真面目に教義を考える信者ならば重大な問題として受け止めねばならないのです。
ただ、統一教会の真の目的は人間「真の父母」を絶対権力者として、絶対君主制のような組織、即ち李氏朝鮮王国のような組織を作ることであり、宗教教義などはその道具に過ぎなかったと解釈すれば、上の公文は納得することができます。
その場合、「真の父母」はしっかりした教義に裏付けられた「真の父母」ではなくなりますから、「真の父母」とは単なる名称に過ぎなくなり、事実上、単なる韓国人夫妻ということになります。
その公文を書いた者は‘単なる韓国人夫妻’に向かって人間信仰させようと意図して上のようにあえて書いたのだとも考えられます。
正直、馬鹿でない限り、自分を神の妻であると宣言したり、フクロウが欲しいとだだをこねたりするような韓国人女性を「絶対信仰」したりすることはないでしょうから、書いた人は‘政治的目的’でそのように大げさに表現したとしか考えようがないのです。
ことのついでに書き加えれば、前回の記事で問題にされた‘CIG復興団’の‘奨励文’の中にあった「真理の主体であられる真の父母様の証人となることが伝道」という表現にも驚かされました。
米本さんならずとも頭がクラクラしました。
どうして人間「真の父母様」が「真理の主体」であると表現できるのか頭の構造が理解できません。
「真理の主体」というように書いたことからして、その‘奨励文’を書いた人は‘真理’など追究したことがない人なのだろうなと思います。
「ロゴス(理法)の主体」という言葉を使うならわからなくもないのですが、そうすると その主体は無形の存在である神になってしまいます。
まさか、上の文を書いた人は「真の父母様」=「創造の神」とは思っていないでしょうし、もしそう思っているとしたら単なるキチガイです。
米本さんは上記の「天地人真の御父母様は人類歴史上空前絶後の希望です。」の表現に呆れていましたが、まともな人なら誰でも頭痛がしてくると思います。
ですので、記事を読む人に頭痛が起こらないよう、少しその言葉を捩ったコメントを残しておきます。
*真の御父母様は人類歴史上空前絶後の浪費家です。
*真のお父様は人類歴史上空前絶後の多妻主義者(全人類の女性が妻として一体化すべきとの考え)です。
*真の御父母様は人類歴史上空前絶後の妄言家です。(ちゃぬの裏韓国日記ブログに記された多くの‘御言葉’を読めば否定できない。)
反原理運動家 文龍明
統一原理からみちびきだせないのです。
晩年文教祖はやたら「絶対服従」
を言いだしたのですが、
彼の本心は信者を自分の野望を満たすための奴隷やロボットとしか見ていなかった証拠です。
原理講論を読んだ普通の知性がある人間なら「絶対服従」??????
この教祖大丈夫か?感じるべきなのです。
そういう意味で最も「非原理的」いや「反原理的」な存在が文教祖です。
質問です。
>文先生の‘御言葉’と原理講論の不一致や論理的矛盾などについては、私もコメントの中で多くのことを指摘してきたのですが、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」という‘御言葉’もその一つでした。
「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」という言葉は、いつ頃から登場したのでしょうか。
御存知の方がいらっしゃれば、教えてください。
家庭盟誓
http://www.ucjp.org/?page_id=3983
これは1994年5月1日より始まったようです。
http://www.ucjp.org/?page_id=5980
その以前にいつも読み上げていた、「私の誓い」はもっと柔らかくて、そういう表現がなかったと思うのですが。「私の誓い」がみつかる方は教えてください。
Re:質問です。
私の手元にある資料(黒表紙の天聖経)によりますと、1995年10月29日に語られた文先生の説教にその言葉があり、天聖経の中では一番最初の日付になっています。
そこには「創造される時、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に創造されたというのです。」という記述があります。
天聖経の中にある説教では、それが「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」を語った中で最も古い日付です。
しかし「絶対信仰」については、1970年7月12日の説教で既に語られており、「絶対信仰とは何でしょうか。…」と天聖経に書かれています。
さらに、「絶対服従」については、1972年5月28日の説教で語られておりまして、「宗教人は,なぜ絶対服従をしなければならないのでしょうか。絶対的な主体の前に絶対的な相対になろうとするので絶対服従しなければならないというのです。」と天聖経には書かれています。
米本さんからの質問に答えようとして天聖経を開いて調べていましたら、文先生は‘人間’を「絶対信仰」するよう教えていた‘御言葉’があったことがわかりました。
1970年7月12日の説教で語られた‘御言葉’として「自分が信じているある宗教の指導者がいたら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い隔たりがありますが、信じる心を中心としては平面的に対等な時代圏に入ることができます。それで絶対的に信じなさいというのです。」という説教が上に書いた言葉に続いており、文先生は‘人間’に対しても「絶対信仰」するよう教えていたのです。
従って、私の前のコメントは その部分について訂正せねばなりません。
文先生はやはり、思っていた以上に自由自在に‘言葉’を語る方でした。
「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」 出典元
いつも論評入りの新情報投稿記事ありがとうございます。
>「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」という言葉は、いつ頃から登場したのでしょうか。
ジャルジン七大宣言の第一にありました。1995年4月3日ですね。
1.第一宣言:新希望農場(New Hope Farm)宣言
「神様が人間と万物を創造されるとき、絶対信仰、絶対愛、絶対服従をもって造られました。神様の対象体である私たちも神様に絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません」(九五年四月三日、ジャルジン、新希望農場)
出典元
http://www2s.biglobe.ne.jp/~w-net/mikotoba/seiyakuzin4-3.html
「絶対服従」の言葉には嫌悪感さえ覚えます。
神様が親であるなら、子供である人類に絶対服従を要求するのかと???
人類はまるで奴隷のようですね!
親子は常に無償の愛で存在しています。
絶対服従
人に対しての絶対服従であれば、それは奴隷です。
現教会では「絶対服従」を盾に食口を僕にしています。
これは間違っています。
絶対信仰・絶対愛・絶対服従について
ところが文先生によると、「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」 というのは元々天地創造の神が最初に具備していたものであり、「為に生きる」 という愛の鉄則を信じて、それに絶対に従いながら自分を無にして天地創造した神の愛の心情を表現するものだったのです。これは、新約聖書でも、神が 「おのれをむなしう」 するという概念 (ギリシャ語でケノーシス) として使われています。
文先生は、私達人間も、神のこのような愛の心情をもって、神に接し、そして他人に接しなさい、といいたいのです。そういう背景でのみ、私たちに 「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」 を勧めているのです。(キリスト教でも、神のケノーシスを体得する信仰者になりなさいと教えています。)
問題なのは、このような神の愛の心情のほとばしりとしてのケノーシスを知らずに、人間だけの次元で外的服従を強要する文化ができているきらいがあるということです。なので、上述の公文も問題でしょうし、それを読む側にも問題があります。
従って、コトさんが
>「絶対服従」の言葉には嫌悪感さえ覚えます。
といわれるのも無理がありません。コトさんは同時に、
>親子は常に無償の愛で存在しています。
ともいわれましたが、文先生によれば、この両者は決して矛盾するものではなく同じものなのです。私はそう理解しています。
それから、神々の黄昏さんは、文先生の 「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」 という御言葉は原理講論と矛盾しているといわれますが、決してそんなことはありません。不肖・私が上で説明したように、元々神の愛の心情から出発した 「絶対信仰・絶対愛・絶対服従」 であったと理解できれば、原理講論との整合性は当然のことです。
追記
「神」とは何か?
いろんな方が質問に答えていただき、感謝であります。
ところが、疑問は増すばかりです。
「神」を人為的に、もっと言えば恣意的に、個々人が解釈しているだけなのではないかという疑問なのです。
「神」を人為的に解釈できる・察することができるとすれば、これほど怖いことはありません。
神山さん流の、神々の黄昏さん流の、cocoaさん流の、地の塩さん流の、神解釈ができるのです。それゆえ、コトさんは怖いと感じたのだと思うのです。
Re: 「神」とは何か?
米本さんがおっしゃることは本当です。神を人為的に自分なりに解釈しているに過ぎない、ということを本人達は気付かずに、神の名を使って、相手を抑え付けようとする横暴さが生まれて来ることが多いからです。キリスト教の2000年の歴史を紐解けばそれが見られるし、今の統一教会も残念ながらそうでしょう。だから、教会派、三男派、七男派の間の軋轢が止まないのでしょう。
だからといって神が存在しないという証拠にはならないとは思います。
私個人としては、神をまだ良く分からない自分だと告白する人が好きです。そういう人がいずれは神を知れる可能性を秘めていると思うからです。古代ギリシャのソクラテスがそのような無知の知を告白して、人類に一つの光明を与えているように思います。
こんな説明でも、コトさん、まだ怖いですか。
神様にも事情が(爆笑)
●火に油を注げ
●真の子女様にもある「責任分担」 、だから何?
●http://kuramatengu.kyotolog.net/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E3%81%AA%E6%95%99%E4%BC%9A/%E7%9C%9F%E3%81%AE%E5%AD%90%E5%A5%B3%E6%A7%98%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%8C%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E5%88%86%E6%8B%85%E3%80%8D%20%E3%80%81%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E4%BD%95%EF%BC%9F
<神様が干渉してはならない各自の「責任分担」に関して、私が干渉してもいいのでしょうか?
真の御家庭のみなさまの責任分担には誰も干渉できません。そのことをしっかりと理解するべきと私は感じます>(徳野み言葉)
●いつも私のとなりに神さま
●周藤先生が路傍伝道!! 「神様にも事情があるのです!」 《周藤先生の証し》
●http://uc-itsumokamisama.seesaa.net/article/422962204.html
<周藤先生は、「神様にも事情があるのです。そのことを知らせないといけない。。。」 そのように感じたといいます>
ほうとうにバカ、とことんバカというしかない。
「神の意思」をそれぞれの価値観によって、勝手に解釈しているだけなのだ。
神は人知を超えた絶対的存在。人間が知覚できない存在。宇宙みたいな存在(ただし、いずれ解明されよう)。
それなのに、神を知覚できるなんて。それぞれに!
まるでセクハラトークである。
「俺は神に近い存在である。俺の意思は神の意思である。よって、脱げ」
吉本興行より程度が悪い。
言葉より態度だね。
♪幸せなら、手を叩こう!パンパン!
本来、言葉尻を捉えてあーだコーダ言う事より、真の愛、神様と親子の愛、本当の人類救済を態度で示せていたら、どんな反対があっても本心で人は集まる。
昔は本当にそう言う人がいたしそういう教会だった。勿論過激な革命家みたいな人もいたけどな。
本部の日本人の職員も判っていると思うよ。しかし宗教サラリーマン故に生活があるから、献金献金路程を辞められないんだな。韓国人が来てから金、金、金の不正蓄財を集める温床になったんだよな。日本人は過去、韓国人を苛めたから苦しんでも当たり前って論理でね。だから日本人が悲惨になっても自己正当化するんだ。全然改善されない訳だよ。
過去、献身してた日本人職員なら今の給料が半分になっても誰も文句言わんでしょ。今の教会の崩壊状況を知ればね。
結局、韓国人が出て行かないと何にも変わらないんだよな。
みんな同じ事言っているけど。俺もそう思う。
サンクチュアリ教会に魅力があるのは、エンドレス献金問題だけじゃ無いと思うけどね。
言葉じゃ無いんだよね。亨進様の篤い想いが伝わるからかもね。
今の時代、誰でもYouTubeで説教聴けるしね。
これを関心が無いものや否定するもの
はカルトに洗脳されているとか言う訳だね。
本当に、本物しか生き残れない時代!
本物を見極める心眼を持つ時代になったと感じております。
サタンに打ち勝つのは自然屈服のみって「究極の神様の戦法」を教えてくれたのは統一教会だったんだよね。
なんで異端扱いして攻撃するかのかな?
神とサタンの闘争
神もサタンも妄想の産物
サタンはとっくに詫びたんではなかったの?
Re:神様にも事情が(爆笑)
>「神」を人為的に解釈できる・察することができるとすれば、これほど怖いことはありません。
>「神の意思」をそれぞれの価値観によって、勝手に解釈しているだけなのだ。
>神は人知を超えた絶対的存在。人間が知覚できない存在。宇宙みたいな存在(ただし、いずれ解明されよう)。
>それなのに、神を知覚できるなんて。それぞれに!
米本さんはコメント欄で 上のような「神」について語る者に対する極めて本質的な問いかけを行ないましたが、とても興味深く思っています。
なぜならば、「人間が知覚できない存在。宇宙みたいな存在」として「神」を論じているのが原理講論の創造原理や統一思想要網だからです。
創造原理の最も基本的な世界観においては神を第一原因と捉え、人間も含め、すべての存在は結果として誕生した有限の存在であると捉えているのです。
即ち、「神」は時間、空間に制限された‘結果的存在’としての世界には存在しておらず、あくまで、‘原因的存在’であって、‘結果的存在’とは一体不可分ながらも別次元の存在であり、時間、空間の枠内では認識することができないのです。
私は教義や言葉にぞんざいな統一教会員がよく使う言葉で「神観」という言葉ほど馬鹿げた言葉はないと思っています。
創造原理において、神を第一原因として捉え、神を知るには結果的存在である現象世界から探究するしかないと、そこで説明されているにも関わらず、結果的存在の人間の観点から神を認識の枠内に押し込めようとする…
それは言葉自体が意味を成さないのであり、「神観」などと言う言葉を平気で使う信者は、創造原理や統一思想要網などまったく理解できていないのだと思います。
有限で結果的存在であるこの有形の宇宙には存在していない故、第一原因として追究しているにも関わらず、人間の世界観の範囲に納めようとして「神観」などと語っているのですから、これほど‘原理’に無知で傲慢な言葉はないと思っています。
もし、「神観」という言葉を使えるとしたら、それは一つの使い方しかないと思っています。
即ち“「神観」は「神」しか論ずることができない。”ということだと思います。
所詮、人間の知能は時間、空間に制限されており、霊的認識などというものを持ち出したところで、それは一般的な共通認識ができないのですから、真理について語ろうとする時には論外なのです。
したがって、「神」については、あくまで結果的存在である人間は概念的思考を用いて探求するのが できることの全てであり、その存在や意思を人間流に捉えるなど根本から間違っているのです。
原理講論の創造原理からもそのように解釈できるのです。
神は‘原理的’に考えても現実世界の中には存在しないし、人間が対象化することなどできないのですから、人間が可能な最も価値ある‘神を理解する’行為とは、現実として存在している人間、宇宙について研究し、そこに隠された真理を発見していくことなのです。
そして、その探究された真理に基づいて、理想的世界を創造していくところにこそ、人間の社会的行為としての価値があるのです。
ですから、人間には概念的思考ができても、決して対象として認識できない「神」について断定的に論じ、「神様と人間との関係は~」「神様の願いとは~」「神様の心情は~」などと語るのは‘非原理’そのものなのです。
ましてや「神」が「創造される時、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に創造されたというのです。」などと擬人化して「神」を語るのは、知能の発達した人間がすべきことではないのです。
「神」は‘原理的’に対象として認識できない存在であり、現実世界において‘神の意思’を論じることはまったく無意味なのです。
‘神の意思’について語る人間は明らかに妄想を語っているのです。
人間が‘神の意思’を理解したいと願うならば、現存する人間の精神構造や宇宙の構造についてさらに追究し、そこから真理を発見して行かねばならなのです。
そして残念ながら、原理講論は全体として見れば破綻した理論だったことは証明されてしまったのです。
現実に照らし合わせれば、矛盾することが多く、その歴史観などは完全に間違いであるし、実践的な理論としてはまったく意味を持たないのです。
辛うじて創造原理の基本的な部分に真理としての価値があると思えるのですが、後半部分のほとんどは、現実世界ではまったく通用しないのです。
ましてや、理論的な普遍性など見当たらない、「神」を極端に擬人化して語る‘御言葉’などは知能の発達した現代社会ではまったく役に立たないのです。
私は間違いが多い原理講論の全てや、‘御言葉’を、それでも信じる信者が何故いるのか、についてもある程度理解できるようになりました。
それについて書き出すと長文になるので、ここでは書けないのですが、関連する記事においてコメント投稿しようと思います。
そうすれば、思想クラブの中には理解してくれる人がいるかもしれません。
補足
補足すれば、文教祖夫妻を神格化し、「絶対信仰、絶対愛、絶対服従」を盟誓させ、金集めに奮闘している公職者の姿こそが哀れであり、この教会組織の問題点なのです。伝道時代は、牧会者の説教や黒板講義で語る原理講師には魂に訴えるものがありました。今は同じ内容のことを語っても悲しいかな心にも響いて来ないのです。ただ金集めのためのミコトバとして聞こえて来て空しくなります。完全に神様を見失っている教会組織です。
「神」が無形であるが故、個々において解釈に混乱が生じるのかも知れません。
ただ言えることは、結果的に存在する「森羅万象は誰の作品」なのかと思考する時、第一原因である命の親なる神以外にありえないと認識する次第です。
今年もアサガオが窓際に誇らしげに花を咲かせています。この愛らしい花も神様の作品なのだと思うと感動し、心が癒される日々です。
百日紅の季節
同感なのですが、この感慨だって厳密には恣意的と言えます。
ですから、教会側からみると、このような反骨不平分子は切り捨てるか、うっちゃっておいて、ボーッとして思考力のない、おめでた脳で、そこそこ蓄えのある人を探してこい、というのが今の伝道と思われます。
ここで論じられていることなんか気にしないで、利用できる新しい僕を探すのが伝道方針。
第三者からみたら、どっちもどっちなんでしょうね。カルトと脱カルトみたいに。…アサガオも見たいな。
- [2015/07/27 15:22]
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