後藤徹の陳述書? 

後藤陳述書(13)

陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁/4・第1回目の監禁から脱出後の経緯/5・第2回目の監禁(1) 新潟のマンションでの監禁(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁(4) 宮村等による脱会説得(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯
7.最後に
 青色が今回アップしたところです。


6.入院後の経緯 

2月11日(午前2時頃)に一心病院に入院した頃は、立とうとすると膝の骨に激痛が走るため、独力での歩行ができない状態が続き、2月下旬頃まで車椅子を利用しました。その後、歩行器を利用するようになり、3月4日頃から松葉杖と歩行器を併用するようになりました。

3月10日頃になると、杖を使用するようになりましたが、階段を自由に上り下りできるまでには回復しませんでした。
3月20日頃になると杖を使わずに歩けるようになり、ゆっくりであれば階段を上り下りできるようになりましたが、長時間の歩行はまだできない状態でした。

このためリハビリを継続し、3月31日に退院しました。

現在も、走ることはまだできませんし、早歩きをしようとしてもしずらい状態です。(陳述書作成日は08年4月2日)
また、徒歩で30分くらい買い物に出ただけで膝や足首に痛みを感じますし、翌日は、ももやふくらはぎに筋肉痛が残ります。

座るときは、あぐらはかけますが、足首に痛みがあるため正座はできません。
またあぐらの状態で立ち上がろうとしても、手を床につくなどして体を支えないと足の力だけでは立ち上がることができません。

12年間に亘る長期監禁と、2月10日の脱出時に膝を痛めたこととが、今なお身体に重大な影響を及ぼしていることを強く感じます。


監禁後遺症

 一心病院に入院して2?3日後、ウイルス性の胃腸炎を起こし、しばらく下痢が続きました。これも、長期監禁により内臓の抵抗力が弱っていたためだと思います。 

 12年5ヶ月に亘る監禁中、外の景色を見る機会が殆どなかったこと、2006年初頭頃からは、電気スタンドの電球が切れたまま、新しい物を支給されない中で活字を読んだこと、目が疲れても目薬を支給されなくなったことなどが影響してか、監禁前には1.5あった視力が、0.2に落ちていました。

このため、監禁前には裸眼で運転免許をとることができたのに、今は眼鏡がなくては車も運転できません。もっとも、運転免許証の書き換えには行けなかったので免許は失効しており、車を運転しようとしたら、最初から免許を取り直さなければなりません。


    

写真説明左の2枚は08年2月13日、右は09年4月5日に撮影。クリックすれば拡大します。目に注目してください)


写真撮影

2月13日、ジャーナリストの米本和広さんが見舞いに来てくれました。(注1)
 私は米本さんに監禁中のいきさつを話し、また、取材に協力するため写真撮影に応じました。

 なお翌日、米本さんが荻窪フラワーホームや宮村の家を取材に行ったところ、宮村が出てきて暫く話し、私に対し脱会説得をするためフラワーホームに来たことを認めたとのことでした。(注2)

また、宮村は私が長期監禁され家族から虐待されたために痩せ細ったことについて、

「後藤が断食なんかするからだ」

と言ったとのことです(2008年3月5日付米本和広陳述書)。

私がハンガーストライキを始めたのは2004年4月のことであり、宮村は2001年2月に最後に804号室に来て以降も、私の家族等と連絡を取り続け、私に対する監禁を共謀し続けていたことが上記発言で明らかとなりました。

ところで、ハンガーストライキ自体、監禁から解放されるためやむなく行ったことであり、2004年に21日間2005年に21日間2006年に30日間と3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ、今回解放されることはなかったと思います。

また、こうしたハンガーストライキをしたとしても、普通の食事さえ出してくれていたならば、2006年のハンガーストライキが終わってから1年11ヶ月も経つ現在、体重が元に戻らないなどということはあり得ません。
 

(注1)陳述書にあるように、私は昨年の08年1月13日、後藤さんを見舞った。確かクッキーを持っていったと記憶する。
 病院の会議室で待っていると、車椅子に押されながら、後藤さんが現れた。<見たいような見たくないような>で気分で、彼を観察した。
 車椅子姿には痛々しさを感じたが、それほど悲惨さは感じなかった。
 今になって、2種類の写真を比べると、違いがはっきりするが、監禁前の顔も話し方も知らなかったため、見舞ったときには目を中心としたくぼみを見ても、とぎれとぎれの間延びした話し方を聞いても、正直、あまり心が動かされることはなかった。

 職業柄のせいなのかもしれないが、服の中が見たいと思った。裸になってくれとお願いした。
 後藤さんの服の脱ぎ方で、異常を感じた。
 私が手伝わなければ、一人で服の上すら脱ぐことができないのだ。靴下を脱いで、パンツ1枚になってもらうまでに、10分以上はかかったように思う。
 気が気ではなかった。暖房の効きが悪いからか、室内が寒く、風邪でもひかれたら大変だと思ったからだ。

 彼の身体をファインダーから覗いたときの印象を、「我らの不快な隣人」から採録しておく。
「時間をかけて服を脱いだ後藤の裸体は、目を背けたくなるほど貧弱な身体つきだった。骨と皮に、申し訳程度にくっついている萎えた筋肉、太ももからくるぶしまでは、死にいく老人のそれと同じだった」
 
 申し訳程度の筋肉は、前回の陳述書にある「15分間の室内運動」の賜物だろう。

余談になるが、10日後にもう一度、見舞った。そのときは二の腕を見せてもらった。少しばかり肉がついていた。このぶんならいずれ体重は回復するだろうと安堵した。と同時に、写真を撮っておいて良かったとつくづく思った。
 今の状態(マイク姿の写真)の後藤さんが、監禁で39キロにやせ細ったと訴えても、おそらく現役信者であれ、反統一教会の人たちであれ、誰も信じることはなかった、信じたとしてもリアリティをもって感じることはなかっただろうから。

2度目のお見舞いの品は、95年から08年までのカレンダー。後藤さんに所望されたものである。このカレンダーをもとに記憶を必死に蘇らせ、陳述書を作成したのであろう。

(注2)私の陳述書は後日、アップする。

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コメント

知りたい

後藤さんの回復力に驚きますが、ひとりの人間である大人を拉致監禁し、心身ともに生の限界まで追い詰めていた人たちの気持を知りたいと思いました。

後藤陳述書(13)

陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁/4・第1回目の監禁から脱出後の経緯/5・第2回目の監禁(1) 新潟のマンションでの監禁(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁(4) 宮村等による脱会説得(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯
7.最後に
 青色が今回アップしたところです。


6.入院後の経緯 

2月11日(午前2時頃)に一心病院に入院した頃は、立とうとすると膝の骨に激痛が走るため、独力での歩行ができない状態が続き、2月下旬頃まで車椅子を利用しました。その後、歩行器を利用するようになり、3月4日頃から松葉杖と歩行器を併用するようになりました。
3月10日頃になると、杖を使用するようになりましたが、階段を自由に上り下りできるまでには回復しませんでした。
3月20日頃になると杖を使わずに歩けるようになり、ゆっくりであれば階段を上り下りできるようになりましたが、長時間の歩行はまだできない状態でした。

このためリハビリを継続し、3月31日に退院しました。

現在も、走ることはまだできませんし、早歩きをしようとしてもしずらい状態です。(注陳述書作成日は08年4月2日)
また、徒歩で30分くらい買い物に出ただけで膝や足首に痛みを感じますし、翌日は、ももやふくらはぎに筋肉痛が残ります。

座るときは、あぐらはかけますが、足首に痛みがあるため正座はできません。
またあぐらの状態で立ち上がろうとしても、手を床につくなどして体を支えないと足の力だけでは立ち上がることができません。

12年間に亘る長期監禁と、2月10日の脱出時に膝を痛めたこととが、今なお身体に重大な影響を及ぼしていることを強く感じます。


監禁後遺症

 一心病院に入院して2?3日後、ウイルス性の胃腸炎を起こし、しばらく下痢が続きました。これも、長期監禁により内臓の抵抗力が弱っていたためだと思います。 

 12年5ヶ月に亘る監禁中、外の景色を見る機会が殆どなかったこと、2006年初頭頃からは、電気スタンドの電球が切れたまま、新しい物を支給されない中で活字を読んだこと、目が疲れても目薬を支給されなくなったことなどが影響してか、監禁前には1.5あった視力が、0.2に落ちていました。

このため、監禁前には裸眼で運転免許をとることができたのに、今は眼鏡がなくては車も運転できません。もっとも、運転免許証の書き換えには行けなかったので免許は失効しており、車を運転しようとしたら、最初から免許を取り直さなければなりません。


    

(写真説明左の2枚は08年2月13日、右は09年4月5日に撮影。クリックすれば拡大します。目に注目してください)


写真撮影

2月13日、ジャーナリストの米本和広さんが見舞いに来てくれました。(注1)
 私は米本さんに監禁中のいきさつを話し、また、取材に協力するため写真撮影に応じました。

 なお翌日、米本さんが荻窪フラワーホームや宮村の家を取材に行ったところ、宮村が出てきて暫く話し、私に対し脱会説得をするためフラワーホームに来たことを認めたとのことでした。(注2)

また、宮村は私が長期監禁され家族から虐待されたために痩せ細ったことについて、

「後藤が断食なんかするからだ」

と言ったとのことです(2008年3月5日付米本和広陳述書)。

私がハンガーストライキを始めたのは2004年4月のことであり、宮村は2001年2月に最後に804号室に来て以降も、私の家族等と連絡を取り続け、私に対する監禁を共謀し続けていたことが上記発言で明らかとなりました。

ところで、ハンガーストライキ自体、監禁から解放されるためやむなく行ったことであり、2004年に21日間、2005年に21日間、2006年に30日間と3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ、今回解放されることはなかったと思います。

また、こうしたハンガーストライキをしたとしても、普通の食事さえ出してくれていたならば、2006年のハンガーストライキが終わってから1年11ヶ月も経つ現在、体重が元に戻らないなどということはあり得ません。
 

(注1)陳述書にあるように、私は昨年の08年1月13日、後藤さんを見舞った。確かクッキーを持っていったと記憶する。
 病院の会議室で待っていると、車椅子に押されながら、後藤さんが現れた。<見たいような見たくないような>で気分で、彼を観察した。
 車椅子姿には痛々しさを感じたが、それほど悲惨さは感じなかった。
 今になって、2種類の写真を比べると、違いがはっきりするが、監禁前の顔も話し方も知らなかったため、見舞ったときには目を中心としたくぼみを見ても、とぎれとぎれの間延びした話し方を聞いても、正直、あまり心が動かされることはなかった。

 職業柄のせいなのかもしれないが、服の中が見たいと思った。裸になってくれとお願いした。
 後藤さんの服の脱ぎ方で、異常を感じた。
 私が手伝わなければ、一人で服の上すら脱ぐことができないのだ。靴下を脱いで、パンツ1枚になってもらうまでに、10分以上はかかったように思う。
 気が気ではなかった。暖房の効きが悪いからか、室内が寒く、風邪でもひかれたら大変だと思ったからだ。

 彼の身体をファインダーから覗いたときの印象を、「我らの不快な隣人」から採録しておく。
「時間をかけて服を脱いだ後藤の裸体は、目を背けたくなるほど貧弱な身体つきだった。骨と皮に、申し訳程度にくっついている萎えた筋肉、太ももからくるぶしまでは、死にいく老人のそれと同じだった」
 
 申し訳程度の筋肉は、前回の陳述書にある「15分間の室内運動」の賜物だろう。

余談になるが、10日後にもう一度、見舞った。そのときは二の腕を見せてもらった。少しばかり肉がついていた。このぶんならいずれ体重は回復するだろうと安堵した。と同時に、写真を撮っておいて良かったとつくづく思った。
 今の状態(マイク姿の写真)の後藤さんが、監禁で39キロにやせ細ったと訴えても、おそらく現役信者であれ、反統一教会の人たちであれ、誰も信じることはなかった、信じたとしてもリアリティをもって感じることはなかっただろうから。

2度目のお見舞いの品は、95年から08年までのカレンダー。後藤さんに所望されたものである。このカレンダーをもとに記憶を必死に蘇らせ、陳述書を作成したのであろう。

(注2)私の陳述書は後日、アップする。

[2009/05/29 15:29]

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