小さな火の粉-教団本部からの抗議文
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統一教会考(75)
教団本部から広報名で、抗議文が12月26日にメールで送られてきた。最初は戸惑った。が、少しばかり考えると、これが突っ込みどころ満載の爆笑モノなのだ。
米本和広殿
広報からご連絡します。
貴殿のブログ「火の粉を払え!」に掲載された文章に「誤報」がありますので、以下、お知らせいたします。
「【追記仄聞情報】神山氏が公開討論の申し込みを日本の教団に送った。期限までに回答はなかった。近く、公開質問状を発表するそうだ。『今日の訓読のみ言友の会』に掲載されると思う。各自、チェックしてくだされ。」
とありますが、これは誤りです。
神山氏が15日に送ってきた「神山氏指定のメールアドレス」に宛てて「返答文」を12月19日16:53に送っております。
「期限までに回答はなかった」は誤りです。速やかに訂正するよう求めます。
抗議文が問題にしている火の粉ブログの記事は、前回の「鶴の心模様(2)-いつまで茶番(鮮鶴一体)を演じればいいの? 」。中段のところに挿入した【追記仄聞情報】の4行が間違いだという。
さて、抗議してきた教団広報は以下の人たちだ。
なぜ、阿呆なのか。
<神山氏が15日に送ってきた「神山氏指定のメールアドレス」に宛てて「返答文」を12月19日16:53に送っております>
返答文を送ったかどうかなんて、一体、誰がわかるというのか。
私は時空を超えて活躍する絶対善霊ではない。教団本部の部屋の上を徘徊し、返答文を見つけることなどできない(爆)
山陰の松江市に住む私ができることは、ネットを閲覧するだけだ。
実際、さっき再度確認したのだが、「教団の公式サイト」や「真の父母様宣布文サイト」、「統一教会広報局サイト 雲外蒼天」などに、返答文を送ったという記事は載っていない。
また、神山氏の言動を載せている「今日の訓読のみ言友の会」にも「返答文が届いた」といった記述はない。
ならば、どうして私が返答文を送ったということを知ることができるというのか。答えてくれたまえ。
したがって、火の粉の記事は「誤り」ではない。
しかも、である。教団が返答文を送ったというのは、私へのメールで示されただけのことであり、他のサイトでそうした記述は一切ない。今回、抗議文を公開しなければ、誰も知らない事実だろう。
さらに、しかもである。事実かどうか確かめることはできない。もし送ったのが事実だというのなら、「これこれの返答文を送りました」と具体的に示すべきだろう。こんなの<あたり前田のクラッカー>、社会常識だ。
盗人が証拠を示さず金は返した、と主張しているようなもの。あまりにも幼稚でワロえる。(爆)
「ならば、記事を書くときに教団に確かめるべきだ」と抗弁するのかもしれない。
健忘症で忘れたのかもしれないが、<「個人のブログには言及しない」という方針をかなぐり捨てて、yosia621さんのブログを批判した>ことについて質問したところ、こんな返事を返してきたのではないか!
(引用はじめ)
当法人としては、貴殿のブログ「火の粉を払え」に関して、当法人および韓鶴子総裁、また日本の徳野英治会長、宋龍天全国祝福家庭総連合会総会長、および教会幹部に対して、著しく礼儀を欠いた侮蔑的な表現が数多くみられ、なおかつ、当法人の活動行事に対しても公正とは言い難い記事が多いと判断し、今後については、上記指摘した点について改善が無い限り、貴殿からの問い合わせなどに対して、コメントすることはしない旨を通告いたします。
(引用終わり)
忘れたかい。
問い合わせに応じないと宣言されたのだから、返答文を送ったかなんて事前に確かめようがないではないか。違うかッ。(爆)
*この回答の全文は後日のブログで公開するとともに、徹底的に批判するつもりです。請うご期待!
12月22日にアップした記事で、仄聞情報と断ったうえで、「期限までに回答はなかった」と書いた。
その4日後の[2014/12/25 17:31]に神山氏の質問状が公開された。
ここには、次のように明記されている。
先日(2014年12月15日)、日本統一教会に対し、上記の「公開討論の呼びかけ」を送りましたが、1週間が過ぎても何ら回答がありません。よって、ここに私が疑問としていることを順次明らかにし、それに対する統一教会からの回答を求めたいと考え、以下公開質問状と致します。
時系列が重要なので、細かくなるのだが、神山氏が質問状を公開したのは[2014/12/25 17:31]。私への抗議文が送られてきたのは[December 26, 2014 6:49 PM]だ。
神山氏が「1週間が過ぎても何ら回答がありません」と書いてから、24時間後に私の仄聞情報に抗議する。
チグハグな奴らだ。(爆)
抗議するのなら、外野席の私にではなく、当の神山氏にだろうが。この

【提言】 「国民から信頼される宗教団体を目指す」(経済犯罪事件で引責辞任したときの徳野氏の言葉)というのなら、ごくごく社会常識的に、神山氏の質問状とそれへの返答文を、教団のサイトに載せるべきであろう。ただ、それだけのことだ。
【この出来事の構造の絵解き】
(1)広報は、こんな抗議文を書くほど知的レベルは低くない。誰かが米本に抗議しろと広報マンに命じた。宮仕えの広報マンのこと。「神山氏が1週間が過ぎても何ら回答がありませんと書いているのだから、神山氏に抗議するのが筋でしょう」などと抗弁することができなかった。
そうでなければ、こんな文章を私のところにメールしてこない。
(2)では、誰が命じたのか。徳野氏か?違うと思う。腐っても旧国立大二期の富山大卒。ときに脳が誤作動を起こすことはあっても、彼が命じることはないだろう。
私は、教団中央に棲む韓国人幹部だと推測する。
その理由は迂遠になるが、神山氏との距離感のことから説明したほうがわかりやすいと思う。
43家庭の神山氏は日本・統一教会の2代目会長であり、名誉会長の称号が授与されている。日本人の幹部たちはいずれも敬意の念を抱いている。神山氏を分派だとして攻撃するような人たちはいないはず。
それに対して、韓国人幹部たちにとっての神山氏は、日本の幹部ほど距離感が近くなく、敬意の念はそれほどない。
彼らがカチンときたのは、神山東京講演のときの小さな諍いだったと推測する。
【当該記事】「あなた方は、なにをそんなに怯えているのか!? 」。
(引用はじめ)
笑えるというか統一幹部の程度がわかるエピソードを一つ。
会場前の路上で、ガタイのでかい安ヨンソプ氏が神山氏に威圧的な態度で迫り、喚いた。
神山氏は「あんたのような威圧する韓国人は嫌いだ」と相手にしなかった。
これが松濤本部にかかると、「神山は『韓国人は嫌いだ』と話した。反韓になった」。言葉狩りの低レベル。呆れるばかりだ。
(引用終わり)
韓半島人はいい意味でも悪い意味でも血の気が多いし、プライドが高い(小中華指向)。このことがもとで、韓国人幹部は神山氏を敵視するようになった。
その副産物として、私に対しても憎悪を抱くようになった。これについてはいずれ詳述する。
(3)韓国人幹部が日本人幹部を服従させるのは、実に簡単である。
「お母様を、絶対と認めるかどうか。どうなんだ!」
と、語気鋭く、詰めよればいいだけのことだ。
そして、「お母様を批判する神山を許していいのかどうか」だ。

こんなのに迫られたら、草食系はひとたまりもない。太田朝久さんとて、そうだったと思う。
(4)神山氏に返答文(韓国人起案)を送ったのは、根拠はないが、事実だと思う。しかし、あまりにもレベルが低く、サイトに公開できない。神山氏もレベルが低く、歯牙にもかけない。
でも、私は読んでみたい。神山さん、公開してよッ!
【総括-統一教会に危機管理能力がなかった】
神山氏は、当初、ここまで事を大きくしたくなかったはずだ。韓国・釜山での講演を終えて日本に立ち寄り、公開討論を求めたとき、もう少し上手に徳野氏など幹部たちが立ち振る舞えば良かったのだ。
そうでなければ、東京・名古屋・福岡での講演など企画しなかったはずだ。ましてや、質問状など公開することもなかった。
教団の立場に立って言うのだが、返す返すも残念だったのは、日本統一教会の第5代会長の故櫻井設雄氏(43家庭)の妻節子夫人の提言を聞き入れなかったことだ。彼女は現執行部にこう提案した。
「神山先生のお話を松濤の本部で聞きましょうよ」
この提案を受け入れていれば、事態はまるで違ったものになっていたはず。
神山氏は松濤でしゃべってご満悦(?)。教団にとってはガス抜きである。
そのあと、神山氏が他のところで講演をすれば、信義則違反だとして分派批判しても、シックたちにはそれなりの説得力があったのだと思う。
だから、結局のところ、社会的経験がまるでない教団に、危機管理能力がなかったということだ。
今さら言ってもジローなのだが(泣
この拙文は、広報にも紹介しておく。「鶴の心模様(3)」は明日アップします。
興味深い記事だと思われた方は↓

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コメント
すげえ幼稚
本部って、こんなに幼稚だったんですね。私は本部に勤めたことがないので分かりませんが、米本さんにこんなメールを送ってくるなんて、呆れます。もしかしたら、地方教会よりレベル低いかもです。
>盗人が証拠を示さず金は返した、と主張しているようなもの。あまりにも幼稚でワロえる。(爆)
笑いました。神山先生にメールを送った証拠を見せてみろって。単純に公開したって証拠になりませんよ。メール文章なんて、いくらでも偽造できますからね。第三者のプロバイダーなどに証明してもらって、内容証明郵便とか配達証明郵便みたいなもののように効力のあるものを出してケロ!
それにしても、こんなことやってるような知的レベルじゃ、とても神山先生と討論なんてできないですね。せいぜい、神山先生の人格批判くらいしかできないでしょう。
もちろん
>「国民から信頼される宗教団体を目指す」(経済犯罪事件で引責辞任したときの徳野氏の言葉)
なんて、10億年くらい早いでしょう。そのころには、人類が新たにな生物に進化しちゃってるかもしれません。
>盗人が証拠を示さず金は返した、と主張しているようなもの。あまりにも幼稚でワロえる。(爆)
笑いました。神山先生にメールを送った証拠を見せてみろって。単純に公開したって証拠になりませんよ。メール文章なんて、いくらでも偽造できますからね。第三者のプロバイダーなどに証明してもらって、内容証明郵便とか配達証明郵便みたいなもののように効力のあるものを出してケロ!
それにしても、こんなことやってるような知的レベルじゃ、とても神山先生と討論なんてできないですね。せいぜい、神山先生の人格批判くらいしかできないでしょう。
もちろん
>「国民から信頼される宗教団体を目指す」(経済犯罪事件で引責辞任したときの徳野氏の言葉)
なんて、10億年くらい早いでしょう。そのころには、人類が新たにな生物に進化しちゃってるかもしれません。
私は朝鮮人を愛しています。品性を持て朝鮮人!
ただ、ただ、恥ずかしいね〜‼️
日本統一教会本部の人間達も、朝鮮人統一教会責任者達を選民と思い込んで引け目を持たされている!
朝鮮人は選民という選民脳に取り憑かれているから、日本人は恨憎反日選民朝鮮人を虐げた民族的犯罪者なので朝鮮人選民様に御仕え、当たり前!民族的蕩減条件をやって当然!奴隷待遇当たり前!と彼等は思っているのです!
馬鹿野郎!日本在住の朝鮮人責任者達よ!それに奴等にのこのこ従う事が信仰と思っている日本統一教会生活が第一!公務員よ!
いつまで、恨憎反日詐欺師統一朝鮮人日本在住責任者達の命令に従順に従って、日本人兄弟姉妹を内外共に苦しめるつもりか!目を覚ませ‼️
どこまで脳が劣化、退化して行くのか?どこまで、恨み深い選民という名の賎民統一朝鮮人脳の奴隷脳になろうとするのか!賎民統一朝鮮人に取り憑かれると、この様になります!
洗脳と思ってない、、、間接洗脳は恐いね〜‼️日本国愛国者を反日にするのだから!朝鮮人の恨みは凄いね!
怨讐を愛すると、平気で言うのだから!恨み深い朝鮮人はシツコイ、シツコイ!本当〜にシツコイのですよ!ワカッテイルノカ?、、、ワカッテイナイダロウナ〜‼️
日本人よ!朝鮮人はシツコイシツコイ要注意民族です!、、、しかし、日本人統一公務員は、何時の間にか完全に間接洗脳されているので、目覚めるのは、そう容易ではないだろう!もしかしたら、もう手遅れかもしれない。
頑張れ‼️日本‼️朝鮮人に騙されるな‼️
日本統一教会本部の人間達も、朝鮮人統一教会責任者達を選民と思い込んで引け目を持たされている!
朝鮮人は選民という選民脳に取り憑かれているから、日本人は恨憎反日選民朝鮮人を虐げた民族的犯罪者なので朝鮮人選民様に御仕え、当たり前!民族的蕩減条件をやって当然!奴隷待遇当たり前!と彼等は思っているのです!
馬鹿野郎!日本在住の朝鮮人責任者達よ!それに奴等にのこのこ従う事が信仰と思っている日本統一教会生活が第一!公務員よ!
いつまで、恨憎反日詐欺師統一朝鮮人日本在住責任者達の命令に従順に従って、日本人兄弟姉妹を内外共に苦しめるつもりか!目を覚ませ‼️
どこまで脳が劣化、退化して行くのか?どこまで、恨み深い選民という名の賎民統一朝鮮人脳の奴隷脳になろうとするのか!賎民統一朝鮮人に取り憑かれると、この様になります!
洗脳と思ってない、、、間接洗脳は恐いね〜‼️日本国愛国者を反日にするのだから!朝鮮人の恨みは凄いね!
怨讐を愛すると、平気で言うのだから!恨み深い朝鮮人はシツコイ、シツコイ!本当〜にシツコイのですよ!ワカッテイルノカ?、、、ワカッテイナイダロウナ〜‼️
日本人よ!朝鮮人はシツコイシツコイ要注意民族です!、、、しかし、日本人統一公務員は、何時の間にか完全に間接洗脳されているので、目覚めるのは、そう容易ではないだろう!もしかしたら、もう手遅れかもしれない。
頑張れ‼️日本‼️朝鮮人に騙されるな‼️
あたり前田のクラッカー
米さん、相当古いねッ。
わかる人、少ないと思うよ。
理解できなかった人はこれを読んでね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E8%A3%BD%E8%8F%93
わかる人、少ないと思うよ。
理解できなかった人はこれを読んでね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E8%A3%BD%E8%8F%93
櫻井先生、さすが!
櫻井先生が、そんなこと言われたんですね。
櫻井先生が以前、
神山夫人のことを、
尊敬されている話をされたのを聞いたことがあります。
今回の騒動を、
櫻井先生がどのように思っていらっしゃるのか、とても関心がありました。
櫻井先生の思いを聞いてみたいです。
櫻井先生が以前、
神山夫人のことを、
尊敬されている話をされたのを聞いたことがあります。
今回の騒動を、
櫻井先生がどのように思っていらっしゃるのか、とても関心がありました。
櫻井先生の思いを聞いてみたいです。
滅ぶまで変わらない
添付された写真の人物の中に知り合いもおりますが
生活のため自己正当化を日々しているのでしょうね
気の毒です
生活のため自己正当化を日々しているのでしょうね
気の毒です
原理の本質的メッセージとは?
私は40年ほど前に原理講義にふれて統一シックになった人間ですが、わけあって教会を離れ、以来30年以上教会には行っていません。もちろん祝福も受けず現在でも独身です。統一原理に関する私の基本的考え方は14年ほど前にインターネットにアップした「原理の本質的メッセージ」という拙論がありますので、もし興味のある方がおられましたら、そちらの文章をお読みください。この論文に発表している基本的な私の考え方は現在でも変わりませんが、その後、聖書を何度も読み直し、また多くの一般書を読むことによって私の考え方は当時とは比較にならないくらい深まりました。
さてここからが本題ですが、最近の米本氏のブログで問題になっている韓女史の発言についての私の感想を述べさせていただきます。韓女史の発言の最大の問題は「無原罪のお宿り」というような概念を使っていることでしょう。いわゆる統一原理の奥義に属する「血統転換」の理論を自らの「無原罪性」の根拠として使っていることです。仮にそのような信念をお持ちになっているとしても、それをあえて信徒に向かって強調しなければならなかったというのは、何らかの事情があったのであろうと察します。
私自身はそもそも統一原理観による「原罪」とか「無原罪」という概念に対しては確たる根拠はなく、「血統転換」の理論についても懐疑的な立場に立っています。しかし、それはまったくなんの意味もない無根拠の概念であるという否定的立場にも立っていません。これは信仰の問題であって、その正しさを客観的に証明することは誰にもできないはずですし、また逆にそれが間違いであると証明することもできません。ただ韓女史がその自らの信仰を信徒たちにあえて強調していることについていかなる意味があるのだろうかと考えざるを得ないのです。
この見方で教会本部と神山氏の考え方が対立してしまったのは非常に不幸なことではないのかと思います。個人的には神山氏が韓女史の信仰に対して疑念をもつのは当然であり、そのような疑念を一切封じようとする本部教会の在り方はまるで四世紀頃の異端論争をみるようで異様な感じをもつのは致し方ありません。
そもそも「原罪」という概念自体が聖書的に根拠のある概念ではないことを統一シックの皆さんは知る必要があるのではないでしょうか?このような概念は旧約聖書の中には必ずしも存在していません。にもかかわらず「原罪」という概念が統一原理で頻繁に使われているのは原理の「堕落論」があるからでしょう。しかし他のキリスト教会では「原罪」の概念は使徒パウロの信仰によりそったものであって、これは統一原理の概念とはまったく異なる非現実的な概念でした。なぜならパウロによると「原罪」が無くなれば、人は「死」の定めからも自由となり、身体は永遠に朽ち果てることのない肉体(栄化)になり、死んだ人も墓からよみがえってくる(復活)と信じられていたからです。
そんなバカげた信仰をよくも信じたものだと思いますが、現在でもエホバの証人や一部の原理主義キリスト教徒がこのパウロの説を大真面目に信じているので、現代においてもこれは信仰のある人にとっては捨てられてはいないのです。
統一原理がユニークなのは、このパウロの超現実的な「原罪」概念を現実的に解釈した結果であるということです。すなわち「原罪」があってもなくても人の肉体は元々滅びるように創造されており、永遠に存在するのは霊界で存在する霊人体でのことであるという解釈をとったわけです。そうすると「原罪」のあるなしの差異はきわめておぼろげなものとならざるをえません。なぜなら統一原理の解釈では「原罪」あろうとなかろうと、いずれにせよ人間は死後霊界にいって永遠に生きることは保障されているので、「原罪」のない人間が特別に変わった生涯(死後も含めて)を送るということにはならないからです。
ですから統一原理の信徒同士が「原罪」の解釈をめぐって言い争うのはあまり意味のあることではないと思います。私自身は「原罪」の解釈は「原理の本質的メッセージ」ではないと考えておりますので、そんなことはどうでもよいと思っているのですが、本部教会の方々がまるでその解釈こそが本質であるととらえているとすれば、それは悪しき教条主義につながるものであろうと私は思います。
私自身は文先生のメッセージはそんな小さな枠にこだわるものではないはずだと考えておりますし、また統一原理の教えを鵜呑みにするのもバカげたことだと考えています。統一原理というのはあくまでも聖書の解釈にすぎません。そこには相当無理な解釈もありますが、しかしそれ以上に素晴らしい価値をもった解釈もあります。それに対して客観的な批判能力を養いながらも、この教えに対して絶対的な信仰と誇りをもつことができる部分もあるわけです。本部教会の方にはぜひそのような奥行きのある信仰を信徒たちにすすめていただきたいと思います。また韓女史の原理解釈にも誤りがありうるということは少なくとも認めるべきです。
さてここからが本題ですが、最近の米本氏のブログで問題になっている韓女史の発言についての私の感想を述べさせていただきます。韓女史の発言の最大の問題は「無原罪のお宿り」というような概念を使っていることでしょう。いわゆる統一原理の奥義に属する「血統転換」の理論を自らの「無原罪性」の根拠として使っていることです。仮にそのような信念をお持ちになっているとしても、それをあえて信徒に向かって強調しなければならなかったというのは、何らかの事情があったのであろうと察します。
私自身はそもそも統一原理観による「原罪」とか「無原罪」という概念に対しては確たる根拠はなく、「血統転換」の理論についても懐疑的な立場に立っています。しかし、それはまったくなんの意味もない無根拠の概念であるという否定的立場にも立っていません。これは信仰の問題であって、その正しさを客観的に証明することは誰にもできないはずですし、また逆にそれが間違いであると証明することもできません。ただ韓女史がその自らの信仰を信徒たちにあえて強調していることについていかなる意味があるのだろうかと考えざるを得ないのです。
この見方で教会本部と神山氏の考え方が対立してしまったのは非常に不幸なことではないのかと思います。個人的には神山氏が韓女史の信仰に対して疑念をもつのは当然であり、そのような疑念を一切封じようとする本部教会の在り方はまるで四世紀頃の異端論争をみるようで異様な感じをもつのは致し方ありません。
そもそも「原罪」という概念自体が聖書的に根拠のある概念ではないことを統一シックの皆さんは知る必要があるのではないでしょうか?このような概念は旧約聖書の中には必ずしも存在していません。にもかかわらず「原罪」という概念が統一原理で頻繁に使われているのは原理の「堕落論」があるからでしょう。しかし他のキリスト教会では「原罪」の概念は使徒パウロの信仰によりそったものであって、これは統一原理の概念とはまったく異なる非現実的な概念でした。なぜならパウロによると「原罪」が無くなれば、人は「死」の定めからも自由となり、身体は永遠に朽ち果てることのない肉体(栄化)になり、死んだ人も墓からよみがえってくる(復活)と信じられていたからです。
そんなバカげた信仰をよくも信じたものだと思いますが、現在でもエホバの証人や一部の原理主義キリスト教徒がこのパウロの説を大真面目に信じているので、現代においてもこれは信仰のある人にとっては捨てられてはいないのです。
統一原理がユニークなのは、このパウロの超現実的な「原罪」概念を現実的に解釈した結果であるということです。すなわち「原罪」があってもなくても人の肉体は元々滅びるように創造されており、永遠に存在するのは霊界で存在する霊人体でのことであるという解釈をとったわけです。そうすると「原罪」のあるなしの差異はきわめておぼろげなものとならざるをえません。なぜなら統一原理の解釈では「原罪」あろうとなかろうと、いずれにせよ人間は死後霊界にいって永遠に生きることは保障されているので、「原罪」のない人間が特別に変わった生涯(死後も含めて)を送るということにはならないからです。
ですから統一原理の信徒同士が「原罪」の解釈をめぐって言い争うのはあまり意味のあることではないと思います。私自身は「原罪」の解釈は「原理の本質的メッセージ」ではないと考えておりますので、そんなことはどうでもよいと思っているのですが、本部教会の方々がまるでその解釈こそが本質であるととらえているとすれば、それは悪しき教条主義につながるものであろうと私は思います。
私自身は文先生のメッセージはそんな小さな枠にこだわるものではないはずだと考えておりますし、また統一原理の教えを鵜呑みにするのもバカげたことだと考えています。統一原理というのはあくまでも聖書の解釈にすぎません。そこには相当無理な解釈もありますが、しかしそれ以上に素晴らしい価値をもった解釈もあります。それに対して客観的な批判能力を養いながらも、この教えに対して絶対的な信仰と誇りをもつことができる部分もあるわけです。本部教会の方にはぜひそのような奥行きのある信仰を信徒たちにすすめていただきたいと思います。また韓女史の原理解釈にも誤りがありうるということは少なくとも認めるべきです。
覆水 盆に返らず
>神山氏は、当初、ここまで事を大きくしたくなかったはずだ。韓国・釜山での講演を終えて日本に立ち寄り、公開討論を求めたとき、もう少し上手に徳野氏など幹部たちが立ち振る舞えば良かったのだ。
そのようにしていれば、「公開質問状」がブログ村ランキングで一位になることもなかったのだ。
http://philosophy.blogmura.com/uc/
そもそも、神山氏はブログなど作る予定はなかった。
実際、福岡集会で神山氏は「ブログ?そんなの作れないよ」と語っていた。
そういうレベルだったのに、教団が不誠実な態度を取るから、神山シンパがブログを開設を
することになったのだ。
もしあのとき、東京講演の視察にやってきた教団幹部たちが会場に入り、講演を聞き、神山氏とフレンドリーになっていれば・・・。
敵対的態度を取れば、相手も敵対的になる。嗚呼、どうしてこんな単純なことがわからないのか。
火の粉の読者は、韓米の読者も少なくない。
そのことからすると、公開質問状も世界のシックが読んでいるだろう。
もうどうすることもできない。「覆水 盆に返らず」だ。
そのようにしていれば、「公開質問状」がブログ村ランキングで一位になることもなかったのだ。
http://philosophy.blogmura.com/uc/
そもそも、神山氏はブログなど作る予定はなかった。
実際、福岡集会で神山氏は「ブログ?そんなの作れないよ」と語っていた。
そういうレベルだったのに、教団が不誠実な態度を取るから、神山シンパがブログを開設を
することになったのだ。
もしあのとき、東京講演の視察にやってきた教団幹部たちが会場に入り、講演を聞き、神山氏とフレンドリーになっていれば・・・。
敵対的態度を取れば、相手も敵対的になる。嗚呼、どうしてこんな単純なことがわからないのか。
火の粉の読者は、韓米の読者も少なくない。
そのことからすると、公開質問状も世界のシックが読んでいるだろう。
もうどうすることもできない。「覆水 盆に返らず」だ。
血統転換を信じるかどうか
昨日の投稿の補足として書かしていただきます。
昨日も書いたように「原罪」とか「血統転換」の理論には必ずしも聖書的な根拠はありません。「原罪」の概念を最初に作ったのは明らかにパウロでした。イエスには「原罪」の概念があったかどうかきわめて不確かです。ただし、イエスは旧約聖書に予言されていたメシアであるという信念はもっておりました。これはまちがいがないと思います。しかし、パウロはこのイエスのメシア性に「無原罪」という黄金の箔をつけて、他のいかなる預言者とも次元の異なった究極のメシア(=神の子キリスト)であると考えたのです。これがキリスト教が非ユダヤ化せざるをえなかった特異思想であり、そしてこのキリスト教の特異思想を、現代においてさらに特異的に解釈したのが統一原理の原罪思想です。これは原理の「堕落論」に結びついて体系化されました。その理論化の過程の中で「血統転換」という極めて秘儀的な理論が挿入されました。この理論を最初に考えだされたのは文先生かもしれませんが、しかしこれは秘儀中の秘儀として原理講論の中でも説明されることはありませんでした。
この独特な解釈の根拠になっているのはルカ福音書の中の洗礼ヨハネの父ザカリアに関する話です。イエスの母マリアはエリザベツの夫であるザカリアと寝ることによって神の子イエスを宿すことになったと暗示されている部分です。ただし、このような解釈はいままで誰によってもなされていません。ですから、この話は文先生が啓示によって確信した事実であったのだとされていると思います。このような究極の復帰摂理の考え方によって統一教会はイエスが無原罪であった理由を説明し、そしてまた再臨のメシアもまた同じ理論によって無原罪性が与えられていると解釈していると思います。
この理論は確かに原理の教えの本質部分かもしれませんし、韓女史が自らのメシア性に箔をつけるためにもそのような解釈が必要であると考えているのかもしれません。しかし、このような解釈はいずれにしても証明ができない単なる仮説にすぎないものなのです。これはただ信じるか信じないかというだけのことです。統一シックは必ずこれを信じなければならないのでしょうか?確かに、これを信じなければ祝福の意義もなくなるではないかと考えられるでしょう。
しかしながら、現実には「祝福の子が無原罪である」というのは虚構にすぎません。これはこの数十年間ではっきりとしたことです。無原罪性を受け継ぐはずの文一家の子供たちでさえ不倫や堕落をしてしまったのですから、もうこれはどうしようもない現実だと認めるしかないでしょう。ましてや一般の統一シックの祝福二世、三世においても理論に矛盾する現実が次々と表れています。
したがって私は思います。このような理論はあくまでも理論に過ぎないものであって絶対化してはならないと思います。「血統転換」の理論は確かに非常に魅力的ですが、それは万能の理論ではありえないことがはっきりとしました。だったらそれは完全な誤りであったというべきなのか?私は必ずしもそうではないと思います。これを信じることはすべての統一シックに課されている原理の本質部分ではあると思いますが、しかしだからといって、これを絶対化すべきではないと考えます。なぜならこれは証明されえないからです。もし証明されるとすれば歴史が証明するでしょう。統一シックの皆さんがその歴史を信じて、これからも祝福家庭を産み増やしていくことを自らの使命と感じてやるのかどうか。これは統一シックの皆さんの信仰の問題です。私は統一シックのみなさんがそのような信仰に立脚するのであれば、決してそれを周りが否定すべきものでもないと思っています。いずれは歴史が証明するわけですから。
最後に韓女史の発言はあまりにもショッキングにみえますが、なぜそのようにいわざるをえなかったのかという背景を考えると、周囲からの誤解や不信に耐えられなかったのではないかという気がしています。
昨日も書いたように「原罪」とか「血統転換」の理論には必ずしも聖書的な根拠はありません。「原罪」の概念を最初に作ったのは明らかにパウロでした。イエスには「原罪」の概念があったかどうかきわめて不確かです。ただし、イエスは旧約聖書に予言されていたメシアであるという信念はもっておりました。これはまちがいがないと思います。しかし、パウロはこのイエスのメシア性に「無原罪」という黄金の箔をつけて、他のいかなる預言者とも次元の異なった究極のメシア(=神の子キリスト)であると考えたのです。これがキリスト教が非ユダヤ化せざるをえなかった特異思想であり、そしてこのキリスト教の特異思想を、現代においてさらに特異的に解釈したのが統一原理の原罪思想です。これは原理の「堕落論」に結びついて体系化されました。その理論化の過程の中で「血統転換」という極めて秘儀的な理論が挿入されました。この理論を最初に考えだされたのは文先生かもしれませんが、しかしこれは秘儀中の秘儀として原理講論の中でも説明されることはありませんでした。
この独特な解釈の根拠になっているのはルカ福音書の中の洗礼ヨハネの父ザカリアに関する話です。イエスの母マリアはエリザベツの夫であるザカリアと寝ることによって神の子イエスを宿すことになったと暗示されている部分です。ただし、このような解釈はいままで誰によってもなされていません。ですから、この話は文先生が啓示によって確信した事実であったのだとされていると思います。このような究極の復帰摂理の考え方によって統一教会はイエスが無原罪であった理由を説明し、そしてまた再臨のメシアもまた同じ理論によって無原罪性が与えられていると解釈していると思います。
この理論は確かに原理の教えの本質部分かもしれませんし、韓女史が自らのメシア性に箔をつけるためにもそのような解釈が必要であると考えているのかもしれません。しかし、このような解釈はいずれにしても証明ができない単なる仮説にすぎないものなのです。これはただ信じるか信じないかというだけのことです。統一シックは必ずこれを信じなければならないのでしょうか?確かに、これを信じなければ祝福の意義もなくなるではないかと考えられるでしょう。
しかしながら、現実には「祝福の子が無原罪である」というのは虚構にすぎません。これはこの数十年間ではっきりとしたことです。無原罪性を受け継ぐはずの文一家の子供たちでさえ不倫や堕落をしてしまったのですから、もうこれはどうしようもない現実だと認めるしかないでしょう。ましてや一般の統一シックの祝福二世、三世においても理論に矛盾する現実が次々と表れています。
したがって私は思います。このような理論はあくまでも理論に過ぎないものであって絶対化してはならないと思います。「血統転換」の理論は確かに非常に魅力的ですが、それは万能の理論ではありえないことがはっきりとしました。だったらそれは完全な誤りであったというべきなのか?私は必ずしもそうではないと思います。これを信じることはすべての統一シックに課されている原理の本質部分ではあると思いますが、しかしだからといって、これを絶対化すべきではないと考えます。なぜならこれは証明されえないからです。もし証明されるとすれば歴史が証明するでしょう。統一シックの皆さんがその歴史を信じて、これからも祝福家庭を産み増やしていくことを自らの使命と感じてやるのかどうか。これは統一シックの皆さんの信仰の問題です。私は統一シックのみなさんがそのような信仰に立脚するのであれば、決してそれを周りが否定すべきものでもないと思っています。いずれは歴史が証明するわけですから。
最後に韓女史の発言はあまりにもショッキングにみえますが、なぜそのようにいわざるをえなかったのかという背景を考えると、周囲からの誤解や不信に耐えられなかったのではないかという気がしています。
ハヤシさんごめんだよ。
>韓女史の発言はあまりにもショッキングにみえますが、なぜそのようにいわざるをえなかったのかという背景を考えると、周囲からの誤解や不信に耐えられなかったのではないかという気がしています。
この問題意識に沿うような事実を「鶴の心模様(3)(4)」で書いているのですが、「返答文」のことで新たな情報が入ってきたので、「(3)」は29日にします。
ぜひ、(3)と(4)でコメントを。
この問題意識に沿うような事実を「鶴の心模様(3)(4)」で書いているのですが、「返答文」のことで新たな情報が入ってきたので、「(3)」は29日にします。
ぜひ、(3)と(4)でコメントを。
討論をしたら良かった
年末年始にかけて、各方面のサイトを読みました。神山先生のほうが正しいかどうかは疑問ですが、意見を交わす事を拒否するかの体制は対外的にマイナスイメージとしか思えません。年末に「神山氏についての注意」のようなメールが(おそらく教会所属の全教会員に)来ましたが、その以前には「神山氏の講演会には行かないように」呼びかけていたと思いますので、大半の教会員は神山先生の主張が何かはよくわからないまま、とにかく関わってはいけないんだなとしか理解していない事でしょう。
以上は内部の状態であり、外から見れば何か意見し・討論を呼びかけたら(しかも元会長、名誉会長である人物が)反逆者扱いされる団体となれば、どういう印象の団体でしょうか。
文先生が語られた「み言葉」は解釈によってはいろんな意味に取られる事柄もあります。幹部レベルでオープンな討論ができずして、末端信者や世間が納得するような団体としていられるのでしょうか。
(そもそもの話、韓総裁と神山先生がお話し合いしていれば済んだ事かもしれませんが周囲に止められでもしたのでしょうか?)
以上は内部の状態であり、外から見れば何か意見し・討論を呼びかけたら(しかも元会長、名誉会長である人物が)反逆者扱いされる団体となれば、どういう印象の団体でしょうか。
文先生が語られた「み言葉」は解釈によってはいろんな意味に取られる事柄もあります。幹部レベルでオープンな討論ができずして、末端信者や世間が納得するような団体としていられるのでしょうか。
(そもそもの話、韓総裁と神山先生がお話し合いしていれば済んだ事かもしれませんが周囲に止められでもしたのでしょうか?)
フォイエルバッハという人
米本さんのブログにもフォイエルバッハのような考えの方がコメントする。割とそんな人は多いのかもしれない。
確かフォイエルバッハという人は自書の「キリスト教の本質」の中で神とは自身の理想や願望を対象化したものだとした。すなわち「妄想」であるということだ。したがって「妄想」に祈ったり願望したりする信仰生活は無意味となると考えたが、彼はヒューマニストで人間愛は大切だと説いた。
そういうフォイエルバッハに対してマルクスの盟友であるエンゲルスは「フォイエルバッハは下部は唯物論者だが、上部は観念論者だ」と徹的に批判した。すなわち人間愛の根拠を示せないというわけだ。共産主義唯物論者からすると人間愛も唯物論的に説明されなければならない。すなわちフォイエルバッハはある意味評価するが思想的には中途半端だ「フォイエルバッハ論」で批判したのだ。
結局のところ神の存在を肯定するか否定するかどちらかの立場に立つしかないのだろう。その議論はドーキンスなどで今も続いている。
少なくともここの読者は神の存在を肯定している人が多いといえるだろう。
しかしだからと言って全ての宗教者が目に見えない神に対して謙遜であるとは限らない。一部の人が神を偶像化し教義を振りかざし信者を間違ったことに駆り立てることはどの宗教にもあることだ。そうなると人は不幸になる。神を信じてるのにどうして不幸になるのか?そこにフォイエルバッハのような人が現れるのだろう。イエスキリストの話は作り話としたシュトラウスの「イエス伝」もそのような時代に現れた書だった。
米本さんのブログも統一教会、あるいは文鮮明という人物、あるいは韓鶴子という人物の実像に迫ろうとしていて、そこが「真実」を知りたい読者には興味深いのだろう。北朝鮮の住民が実情を知らされず外国にいる脱北者の方が実情をよく知っている。そして実情をよく知る者に政権の中枢にいる人たちを付け加えないといけないのもどこかとよく似ているようだ。
本部にいる人たちの中にも米本さんのブログの愛読者がたくさんいることだろう。しかし彼らは滅多なことでは本心を明かせないのだろう。
神の偶像化、教祖夫婦の神格化はもう止めにしようよ。シュトラウスやフォイエルバッハのような人に批判される土壌をつくるだけだよ。
私たちは本当のところを知りたいだけなんだ。
確かフォイエルバッハという人は自書の「キリスト教の本質」の中で神とは自身の理想や願望を対象化したものだとした。すなわち「妄想」であるということだ。したがって「妄想」に祈ったり願望したりする信仰生活は無意味となると考えたが、彼はヒューマニストで人間愛は大切だと説いた。
そういうフォイエルバッハに対してマルクスの盟友であるエンゲルスは「フォイエルバッハは下部は唯物論者だが、上部は観念論者だ」と徹的に批判した。すなわち人間愛の根拠を示せないというわけだ。共産主義唯物論者からすると人間愛も唯物論的に説明されなければならない。すなわちフォイエルバッハはある意味評価するが思想的には中途半端だ「フォイエルバッハ論」で批判したのだ。
結局のところ神の存在を肯定するか否定するかどちらかの立場に立つしかないのだろう。その議論はドーキンスなどで今も続いている。
少なくともここの読者は神の存在を肯定している人が多いといえるだろう。
しかしだからと言って全ての宗教者が目に見えない神に対して謙遜であるとは限らない。一部の人が神を偶像化し教義を振りかざし信者を間違ったことに駆り立てることはどの宗教にもあることだ。そうなると人は不幸になる。神を信じてるのにどうして不幸になるのか?そこにフォイエルバッハのような人が現れるのだろう。イエスキリストの話は作り話としたシュトラウスの「イエス伝」もそのような時代に現れた書だった。
米本さんのブログも統一教会、あるいは文鮮明という人物、あるいは韓鶴子という人物の実像に迫ろうとしていて、そこが「真実」を知りたい読者には興味深いのだろう。北朝鮮の住民が実情を知らされず外国にいる脱北者の方が実情をよく知っている。そして実情をよく知る者に政権の中枢にいる人たちを付け加えないといけないのもどこかとよく似ているようだ。
本部にいる人たちの中にも米本さんのブログの愛読者がたくさんいることだろう。しかし彼らは滅多なことでは本心を明かせないのだろう。
神の偶像化、教祖夫婦の神格化はもう止めにしようよ。シュトラウスやフォイエルバッハのような人に批判される土壌をつくるだけだよ。
私たちは本当のところを知りたいだけなんだ。
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