後藤徹の陳述書? 

後藤陳述書(8)

陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁/4・第1回目の監禁から脱出後の経緯
5・第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁/(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁/(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁
4) 宮村等による脱会説得<下>
(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)/(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)/(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)/(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯/7.最後に
 青印が今回アップした部分です。



5・第2回目の監禁
4) 宮村等による脱会説得<下>

1999年12月、私は世の中のことが分からないまま年月が経過していくことに激しい不安感を感じ、家族に対し、『現代用語の基礎知識』を持ってくるよう要求しました。ところが、この要求を拒否されたため、家族等との間で激しい言い合いとなりました。(注)36歳

私が激怒して
「畜生、出てやる、ここから飛び降りてやる」

と言って奥の部屋の窓に突進したところ、窓の内側の障子が破れ、障子のサンが折れました。

これに家族は怯んだのか、2000年1月、『現代用語の基礎知識』を同室に持ってきました。
また、この頃から産経新聞を私に支給するようになりました。
その後新聞は、産経新聞から東京新聞に変わりましたが、2006年6月頃からは東京新聞も支給されなくなりました。(注1)


座敷牢の一生か


 『現代用語の基礎知識』や産経新聞により世の中の情報を知れば知るほど、私はマンションの1室に監禁された状態で世の中から取り残されていくことに極度の不安を感じるようになりました。

そして2001年2月になると、私は「このままでは、世の中から隔絶されたまま一生ここから出られない」との押さえがたい不安感に襲われました。このため私は玄関目がけて突進し、脱出を試みるようになりました。(注)37歳

そして家族から取り押さえられる度、私は力の限り近所中に聞こえるくらいの大声で、
「出せ」
「助けてくれー」
「警察を呼べ」

と何度も何度も繰り返し叫び、命がけで脱出を試みました。

そして家族に対しては、
「統一教会は人権侵害をしているというが、あんたらのやっていることの方が人権侵害じゃないか。統一教会はこんな風に人を監禁したりしないぞ!」
「これは拷問だ!」
「現代の魔女狩りだ!」
「一体何回選挙権を奪ったと思っているんだ!」
「こんなことが許されると思っているのか?あんたらのやっている蛮行は必ず白日の下にさらしてやる!」
「弁護士を立てて訴えてやる!」
「そっちが犯罪者になるぞ!」

と言って糾弾しました。



<後藤さんはこのマンションの最上階の804号室に監禁されていた>


暴力と狂気

しかし、私は兄、妹、母によって取り押さえられ、はがいじめにされ押し倒されました。
家族は私の助けを求める叫び声が近所に聞こえるとまずいと思ったらしく、布団で私をくるみ、口を押さえつけました。

このため、私は息が出来なくなり、窒息しそうになることもありました。長期監禁により殆ど運動する機会がなかったためか、この頃私は、兄と一対一で揉み合いになっても取り押さえられ、羽交い締めにされてしまいましたが、
更に妹と母が女性であるにもかかわらず半狂乱になり、まるで何かに取り憑かれたごとく怪力を発揮したため、私は3人から取り押さえられると全く歯が立ちませんでした。

こうした揉み合いにより私は顔や手足から出血して血だらけになり、体中アザだらけになり、着ていた上着はボロボロに破かれました。

手足からの出血は畳にもしたたり落ち、私はタオルで手や畳を拭きました。

このうち1枚のタオルはまだ家族が持っているかも知れません。また、夜は体中が痛み、寝ることができませんでした。
私は風呂に入るとき、アザだらけになった体を兄に見せ、「これを見ろ、ひどいじゃないか!」と激しく訴えましたが、兄は、「俺もそうだ」などと言って私の訴えを相手にしませんでした。

私はこうした揉み合いの最中、右手薬指を捻り、骨が曲がってしまいました。この時は激痛が走り、この痛みは2?3ヶ月間ほど続きました。

 また、こうした揉み合いの最中、家財が随分と損傷しました。私は、家族等から取り押さえられまいとして台所の棚(数本の金属棒で構成されている棚)の金属棒や、中央の部屋と玄関前の部屋との間のアコーディオンカーテンにしがみつきましたが、家族等が無理矢理私を引っ張ったため、台所の棚の金属棒は変形し、アコーディオンカーテンは破れました。

荻窪フラワーホーム804号室間取図_convert_20090507142752

クリックすれば拡大します。


 家族等は、私の抗議行動に危機感を感じたらしく、私が抗議行動を起こすと玄関と部屋の間の木戸を施錠し、開閉できないようにしました。(注2)

 私は、こうした激しい抗議行動を約1ヶ月間に亘って繰り返しましたが、この間、宮村が804号室に2度来ました。

最初に来たのは私が抗議行動を起こした最初の日で、私が玄関に向かって行ったとき兄はすぐに私を取り押さえると、妹に「おい」と言って目配せし、妹に携帯電話で電話を掛けさせ、宮村を呼びました。

宮村はすぐに804号室に駆けつけましたが、既に私が兄によって取り押さえられた後だったため、様子を見ただけで帰りました。(注3)

2回目に宮村が来たとき、私は風呂場に入って「監禁だ!」と言って叫びました。すると宮村は、風呂場に入ってきて私の首の後ろの襟を掴み、私を風呂場から引きずり出しました。


虚脱感と絶望感

 私はどんなに力づくで脱出を試みても取り押さえられる上、更に厳重な監禁状態になってしまったことから、言いようのない虚脱感と絶望感に襲われるようになり、遂に力づくでの脱出を断念させられました。

 一方、こちらから要求もしないのにビデオテープ、イヤホン、卓上電気スタンドなどが、ベランダに面した部屋に持ち込まれました。
また、あらゆるジャンルの書籍を兄が持ってくるようになりました。

この頃以降、私が2004年4月に第1回目のハンガーストライキを決行するまでの間、家族等による脱会説得は殆どなくなりました。

また、宮村及び元信者等は804号室に来なくなりました。
今にして思えば、長期監禁に対し後日私が彼らを訴えることを恐れたのだと思います。

監禁から解放されてより後に知ったことですが、実に前年の2000年8月には、宮村と懇意にしているキリスト教神戸真教会の高澤守牧師が、同牧師によって逮捕監禁、脱会強要の被害を受けた統一教会信者から訴えられた民事裁判で敗訴していました。

 また、同室にて脱会説得活動を殆どしなくなったにもかかわらず彼らは私を804号室に留置し続けましたが、これも、私を解放した場合、私が彼らを訴えることを恐れたためだと思います。

即ち家族や宮村等は、自分達の犯行が明るみに出ることを恐れ、口封じのために私を監禁し続けたのです。私が「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って彼らを糾弾したことが、彼らにとっては相当の脅威となったようです。(注4)

 2001年9月12日、1987年の第1回目の脱会説得の際、私と会ったことがあるという脱会説得の専門家(男性)が1日だけ804号室に来て脱会説得をしました。この男性は翌日も来ると言って帰りましたが、その日以降、同室には来ませんでした。

 

(注1)新聞が支給されなくなったのは、何かの思惑があってのことではなく、家族がたんに生活費を節約するため、新聞の宅配を断ったからのようである。

(注2)玄関と部屋の間の木戸を施錠されたことによって、後藤さんは木戸と玄関の2つの鍵を壊さなければ外に出ることができなくなった。

(注3)フラワーホームと宮村の自宅とは歩いて20分弱。車なら5分程度の距離にある。

(注4)陳述書のここのくだりを整理しておく。

 後藤氏が荻窪のフラワーホームに移送されたのは97年12月頃。翌年から宮村氏は訪問するようになったが、99年頃からは2度の例外を除き、顔を出さなくなった。
 それにもかかわらず、後藤氏の監禁は続いた。
 また、家族は04年までは脱会説得を行わなかった。
 つまり、監禁のための監禁状態が続いたわけだ。
 実に不可解な話である
 これについて、後藤氏は陳述書で、宮村氏が訴えられるのを怖がったためと推測する。
 この推測は正鵠を射たものと思う。

 99年に今利理絵、アントール美津子、富澤裕子が相次いで「拉致監禁され、監禁下で脱会説得を受けた」としてそれぞれの牧師を相手取って、民事訴訟を提起している。
 それと前後して刑事告訴も行っている。
 参考サイトは「主な拉致監禁事例」。また、今利さんの裁判については「弁護士山口氏のコラムを評す」。富澤さんの裁判については「室生忠の宗教ジャーナル」

 この中で、宮村氏の心中が穏やかでなくなったのは、約14カ月監禁されていた富澤さんが神戸真教会の高澤守牧師を訴えた事件だったと思う。
 なぜなら、宮村氏を「東京のタワー長」(師匠)と仰いでいた高澤守氏から頼まれたのか、宮村氏は東京から元信者を連れて、富澤さんが監禁されていた大阪のマンションに説得に出向いていたことがあるからだ。
 富澤さんは鳥取地裁に証拠として提出した陳述書の中で、そのときのことを詳しく書いている。
 ちなみに、富澤さんが高澤牧師の元から脱出したのは98年9月、提訴したのは翌99年5月のことである。
 
 宮村氏は、富澤さんが脱出したこと、また民事提訴、刑事告訴に驚愕したと思われる。
 このため、宮村氏は<このまま脱会説得を続ければ、今度は自分が訴えられることになるのではないか>と不安になり、後藤氏の脱会説得を中止するとともに、当分、監禁したままにしておくことを決めたのではないか。
 そのように解釈する以外、ほかに考えようがないのだ。

 当時、脱会率?1の脱会カウンセラーだと自負し、東京・青春を返せ裁判で主導的役割を果たした宮村氏が途中で脱会説得を中止する。どう考えても有り得ないことである。(『我らの不快な隣人』186?190頁、402頁参照。富澤さんの拉致については179頁)

 94年に鳥海豊氏が『監禁250日証言「脱会屋」の全て』、96年に小出浩久氏が『人さらいからの脱出』を書き、宮村峻氏の監禁下での言動を暴露している。富澤裕子さんの脱出、提訴の報を聞いたとき、これらの本を読んだときの苦い記憶が蘇り、怯懦(きょうだ)になったのかもしれない。

 なお、富澤さんの拉致監禁については、統一教会・鳥取教会を襲撃するというものだっただけに、反統一教会陣営の中でもさすがに批判の声があがり、高澤牧師は四面楚歌状態になった。唯一、高澤氏を庇ったのは宮村氏だけだったと言われている。
 
 ところで、当分監禁状態を続けることは家族だけで決めたのか、家族だけにしても宮村氏は関与していたのか・知っていたのか?という疑問点が残る。
 これについては、後藤さんが解放された直後に、私が宮村氏にインタビューしている。
 後日、アップする私の陳述書を読んでいただければ幸いである。

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統一協会(統一教会)ダミー団体一覧

統一協会(統一教会)関連団体一覧
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=easycure9999
・GMS(グローバル・マイ・スペース)/ FLC(ファミリー・ライフ・センター) ・ROYAL PALACE(ロイヤル・パレス)
・KTX/川崎平和教育フォーラム・ニューアーズ(旧 ルピナス川崎) 
・ヘルシーボックス ・ウエストガーデン/GPS(グローバル・ピース・ステーション)
・ティアラ ・Sirius(シリウス)/レ・ザンジュ ・age/AGE(アージェ/アージュ)
・クレッシェンド(旧 パステル/ステップワン)/ビギン/クローバー/たんぽぽ/草の根ムーブメント
・ヨコハマ・ライフ・アカデミー(旧 ニューセンチュリーYOKOHAMA)
・エル・ソフィア/八王子カルチャーセンター ・ファトス ・MYF ・フォーチュン ・クリスティーナハン ・クラウンローズ 
・杉並ライフアカデミー(SLA) ・フウスイカン ・豊島 ・ハピネス ・新世 
・おあしす・ピュアファミリー ・和み堂/和三堂     etc・・・
    
  
街頭での『手相の勉強』や『アンケート]から、又は自宅に訪ねてきた自称鑑定士から、あるいはポスティングの葉書から
これらのの鑑定所やビデオセンター(カルチャーセンター)などでのセミナー(コニュニケーションセミナー)に誘われ、受講料や開運グッズと称し高額な
グッズを購入させられた方、これらは悪質な宗教カルト【統一協会(統一教会)】のダミー団体です。至急下記のHPに相談してください。
【CULT & FRAUD】  http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=easycure8888
【悪質統一協会勧誘撲滅委員会・悪質手相勧誘撲滅委員会】 http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=tesou

匿名希望さんへ

 匿名希望さん、投稿ありがとうございました。
 ところで、このブログは後藤陳述書(8)を掲載しています。一筆一論(1)http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-15.html#moreのコメント欄で、憂国団々長さんと長崎組々長さんにお願いしたように、ブログのテーマに沿ったコメントにしてください。管理人としてのお願いであります。

 まだ一度も書いていませんが、「統一教会考」というカテゴリーを設けています。いずれ統一教会についても考察する予定でいます。あくまで強制説得と関連した事柄に絞ってですが。そこで、コメントをいただくことも可能かと思います。

匿名希望さんは、12年間の長きにわたって後藤さんが監禁されていたこと、またこのブログにある<2回目に宮村が来たとき、私は風呂場に入って「監禁だ!」と言って叫びました。すると宮村は、風呂場に入ってきて私の首の後ろの襟を掴み、私を風呂場から引きずり出しました>などの事実について、どう思われたでしょうか。
 ご感想があれば、コメントをお寄せください。

反カルトの匿名希望さんへ

匿名希望さん

反カルトのカルト性についてどう思うか教えて下さい。

自らの反カルトとしての立場を一方的に書き込むだけなら、あなたも結局カルトと同じやり方をしているではないのか?

所詮同じ穴のムジナ、五十歩百歩、目くそ鼻くそ。

後藤陳述書(8)

陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁/4・第1回目の監禁から脱出後の経緯
5・第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁/(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁/(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁
(4) 宮村等による脱会説得<下>
(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)/(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)/(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)/(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯/7.最後に
 青印が今回アップした部分です。



5・第2回目の監禁
(4) 宮村等による脱会説得<下>

1999年12月、私は世の中のことが分からないまま年月が経過していくことに激しい不安感を感じ、家族に対し、『現代用語の基礎知識』を持ってくるよう要求しました。ところが、この要求を拒否されたため、家族等との間で激しい言い合いとなりました。(注)36歳
私が激怒して、
「畜生、出てやる、ここから飛び降りてやる」
と言って奥の部屋の窓に突進したところ、窓の内側の障子が破れ、障子のサンが折れました。

これに家族は怯んだのか、2000年1月、『現代用語の基礎知識』を同室に持ってきました。
また、この頃から産経新聞を私に支給するようになりました。
その後新聞は、産経新聞から東京新聞に変わりましたが、2006年6月頃からは東京新聞も支給されなくなりました。(注1)


座敷牢の一生か


 『現代用語の基礎知識』や産経新聞により世の中の情報を知れば知るほど、私はマンションの1室に監禁された状態で世の中から取り残されていくことに極度の不安を感じるようになりました。

そして2001年2月になると、私は「このままでは、世の中から隔絶されたまま一生ここから出られない」との押さえがたい不安感に襲われました。このため私は玄関目がけて突進し、脱出を試みるようになりました。(注)37歳

そして家族から取り押さえられる度、私は力の限り近所中に聞こえるくらいの大声で、
「出せ」
「助けてくれー」
「警察を呼べ」
と何度も何度も繰り返し叫び、命がけで脱出を試みました。

そして家族に対しては、
「統一教会は人権侵害をしているというが、あんたらのやっていることの方が人権侵害じゃないか。統一教会はこんな風に人を監禁したりしないぞ!」
「これは拷問だ!」
「現代の魔女狩りだ!」
「一体何回選挙権を奪ったと思っているんだ!」
「こんなことが許されると思っているのか?あんたらのやっている蛮行は必ず白日の下にさらしてやる!」
「弁護士を立てて訴えてやる!」
「そっちが犯罪者になるぞ!」
と言って糾弾しました。




<後藤さんはこのマンションの最上階の804号室に監禁されていた>


暴力と狂気

しかし、私は兄、妹、母によって取り押さえられ、はがいじめにされ押し倒されました。
家族は私の助けを求める叫び声が近所に聞こえるとまずいと思ったらしく、布団で私をくるみ、口を押さえつけました。

このため、私は息が出来なくなり、窒息しそうになることもありました。長期監禁により殆ど運動する機会がなかったためか、この頃私は、兄と一対一で揉み合いになっても取り押さえられ、羽交い締めにされてしまいましたが、
更に妹と母が女性であるにもかかわらず半狂乱になり、まるで何かに取り憑かれたごとく怪力を発揮したため、私は3人から取り押さえられると全く歯が立ちませんでした。

こうした揉み合いにより私は顔や手足から出血して血だらけになり、体中アザだらけになり、着ていた上着はボロボロに破かれました。

手足からの出血は畳にもしたたり落ち、私はタオルで手や畳を拭きました。

このうち1枚のタオルはまだ家族が持っているかも知れません。また、夜は体中が痛み、寝ることができませんでした。
私は風呂に入るとき、アザだらけになった体を兄に見せ、「これを見ろ、ひどいじゃないか!」と激しく訴えましたが、兄は、「俺もそうだ」などと言って私の訴えを相手にしませんでした。

私はこうした揉み合いの最中、右手薬指を捻り、骨が曲がってしまいました。この時は激痛が走り、この痛みは2?3ヶ月間ほど続きました。

 また、こうした揉み合いの最中、家財が随分と損傷しました。私は、家族等から取り押さえられまいとして台所の棚(数本の金属棒で構成されている棚)の金属棒や、中央の部屋と玄関前の部屋との間のアコーディオンカーテンにしがみつきましたが、家族等が無理矢理私を引っ張ったため、台所の棚の金属棒は変形し、アコーディオンカーテンは破れました。

荻窪フラワーホーム804号室間取図_convert_20090507142752

クリックすれば拡大します。


 家族等は、私の抗議行動に危機感を感じたらしく、私が抗議行動を起こすと玄関と部屋の間の木戸を施錠し、開閉できないようにしました。(注2)

 私は、こうした激しい抗議行動を約1ヶ月間に亘って繰り返しましたが、この間、宮村が804号室に2度来ました。

最初に来たのは私が抗議行動を起こした最初の日で、私が玄関に向かって行ったとき兄はすぐに私を取り押さえると、妹に「おい」と言って目配せし、妹に携帯電話で電話を掛けさせ、宮村を呼びました。

宮村はすぐに804号室に駆けつけましたが、既に私が兄によって取り押さえられた後だったため、様子を見ただけで帰りました。(注3)

2回目に宮村が来たとき、私は風呂場に入って「監禁だ!」と言って叫びました。すると宮村は、風呂場に入ってきて私の首の後ろの襟を掴み、私を風呂場から引きずり出しました。


虚脱感と絶望感

 私はどんなに力づくで脱出を試みても取り押さえられる上、更に厳重な監禁状態になってしまったことから、言いようのない虚脱感と絶望感に襲われるようになり、遂に力づくでの脱出を断念させられました。

 一方、こちらから要求もしないのにビデオテープ、イヤホン、卓上電気スタンドなどが、ベランダに面した部屋に持ち込まれました。
また、あらゆるジャンルの書籍を兄が持ってくるようになりました。

この頃以降、私が2004年4月に第1回目のハンガーストライキを決行するまでの間、家族等による脱会説得は殆どなくなりました。

また、宮村及び元信者等は804号室に来なくなりました。
今にして思えば、長期監禁に対し後日私が彼らを訴えることを恐れたのだと思います。

監禁から解放されてより後に知ったことですが、実に前年の2000年8月には、宮村と懇意にしているキリスト教神戸真教会の高澤守牧師が、同牧師によって逮捕監禁、脱会強要の被害を受けた統一教会信者から訴えられた民事裁判で敗訴していました。

 また、同室にて脱会説得活動を殆どしなくなったにもかかわらず彼らは私を804号室に留置し続けましたが、これも、私を解放した場合、私が彼らを訴えることを恐れたためだと思います。

即ち家族や宮村等は、自分達の犯行が明るみに出ることを恐れ、口封じのために私を監禁し続けたのです。私が「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って彼らを糾弾したことが、彼らにとっては相当の脅威となったようです。(注4)

 2001年9月12日、1987年の第1回目の脱会説得の際、私と会ったことがあるという脱会説得の専門家(男性)が1日だけ804号室に来て脱会説得をしました。この男性は翌日も来ると言って帰りましたが、その日以降、同室には来ませんでした。

 
(注1)新聞が支給されなくなったのは、何かの思惑があってのことではなく、家族がたんに生活費を節約するため、新聞の宅配を断ったからのようである。

(注2)玄関と部屋の間の木戸を施錠されたことによって、後藤さんは木戸と玄関の2つの鍵を壊さなければ外に出ることができなくなった。

(注3)フラワーホームと宮村の自宅とは歩いて20分弱。車なら5分程度の距離にある。

(注4)陳述書のここのくだりを整理しておく。

 後藤氏が荻窪のフラワーホームに移送されたのは97年12月頃。翌年から宮村氏は訪問するようになったが、99年頃からは2度の例外を除き、顔を出さなくなった。
 それにもかかわらず、後藤氏の監禁は続いた。
 また、家族は04年までは脱会説得を行わなかった。
 つまり、監禁のための監禁状態が続いたわけだ。
 実に不可解な話である。
 これについて、後藤氏は陳述書で、宮村氏が訴えられるのを怖がったためと推測する。
 この推測は正鵠を射たものと思う。

 99年に今利理絵、アントール美津子、富澤裕子が相次いで「拉致監禁され、監禁下で脱会説得を受けた」としてそれぞれの牧師を相手取って、民事訴訟を提起している。
 それと前後して刑事告訴も行っている。
 参考サイトは「主な拉致監禁事例」。また、今利さんの裁判については「弁護士山口氏のコラムを評す」。富澤さんの裁判については「室生忠の宗教ジャーナル」。

 この中で、宮村氏の心中が穏やかでなくなったのは、約14カ月監禁されていた富澤さんが神戸真教会の高澤守牧師を訴えた事件だったと思う。
 なぜなら、宮村氏を「東京のタワー長」(師匠)と仰いでいた高澤守氏から頼まれたのか、宮村氏は東京から元信者を連れて、富澤さんが監禁されていた大阪のマンションに説得に出向いていたことがあるからだ。
 富澤さんは鳥取地裁に証拠として提出した陳述書の中で、そのときのことを詳しく書いている。
 ちなみに、富澤さんが高澤牧師の元から脱出したのは98年9月、提訴したのは翌99年5月のことである。
 
 宮村氏は、富澤さんが脱出したこと、また民事提訴、刑事告訴に驚愕したと思われる。
 このため、宮村氏は<このまま脱会説得を続ければ、今度は自分が訴えられることになるのではないか>と不安になり、後藤氏の脱会説得を中止するとともに、当分、監禁したままにしておくことを決めたのではないか。
 そのように解釈する以外、ほかに考えようがないのだ。

 当時、脱会率№1の脱会カウンセラーだと自負し、東京・青春を返せ裁判で主導的役割を果たした宮村氏が途中で脱会説得を中止する。どう考えても有り得ないことである。(『我らの不快な隣人』186?190頁、402頁参照。富澤さんの拉致については179頁)

 94年に鳥海豊氏が『監禁250日証言「脱会屋」の全て』、96年に小出浩久氏が『人さらいからの脱出』を書き、宮村峻氏の監禁下での言動を暴露している。富澤裕子さんの脱出、提訴の報を聞いたとき、これらの本を読んだときの苦い記憶が蘇り、怯懦(きょうだ)になったのかもしれない。

 なお、富澤さんの拉致監禁については、統一教会・鳥取教会を襲撃するというものだっただけに、反統一教会陣営の中でもさすがに批判の声があがり、高澤牧師は四面楚歌状態になった。唯一、高澤氏を庇ったのは宮村氏だけだったと言われている。
 
 ところで、当分監禁状態を続けることは家族だけで決めたのか、家族だけにしても宮村氏は関与していたのか・知っていたのか?という疑問点が残る。
 これについては、後藤さんが解放された直後に、私が宮村氏にインタビューしている。
 後日、アップする私の陳述書を読んでいただければ幸いである。

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