宮村・松永のお次はあんた(高澤牧師)の番だよ!
拉致監禁リアル情報(41)
脱会屋の宮村峻、エセ牧師の松永堡智に鉄槌が下ったあとは、買春牧師こと神戸真教会の高澤守の悪行への裁きが待っている。告訴事件、刑事事件である。すでに他のブログで紹介されているが、統一教会広報局のアナウンスを紹介する。(文中一部敬称略)
(引用はじめ)
神戸市の牧師等を刑事告訴
広島市内在住の世界基督教統一神霊協会(統一教会)信者夫婦が、本年7月26日から31日までの6日間、大阪市内のマンションの一室に拉致監禁され、脱会強要を受けたとして、本日、神戸市の牧師等を広島西警察署に刑事告訴しました。
告訴状によると、7月26日、夫(43歳)は親族等から、入院中の親戚の見舞いに行くと言われてワゴン車に乗せられ、見知らぬ男性の運転で大阪市淀川区内のマンションの一室に拉致監禁されました。続いて、8歳の長女と3歳の長男の2人の子供達と共に広島市内の実家に招かれていていた妻(40歳)も、親族等から突然襲撃を受け、両腕、両足等を縛られ、寝袋に入れられ、更に寝袋の上からも縛られてワゴン車に監禁され、2人の子供達と引き離されたまま、夫が監禁されたのと同じ大阪市内のマンションの一室に監禁されました。
同室の玄関ドアは2種類の南京錠とチェーンとによって二重三重に施錠され、また、同室のベランダに通じる窓は、針金によってクレセント錠部分が固定され、開閉不能にされていました。同室では親族等が夫婦を監視しましたが、更に、親族ならぬ見知らぬ女性が、玄関ドアを施錠していた南京錠の鍵を首からぶら下げて監視し、同女の許可が無い限り誰も部屋から自由に出られないという、厳重な監禁下に置かれました。
同室には翌日からキリスト教神戸真教会の牧師高澤守らが訪れ、連日、統一教会の悪口や人格攻撃を行って信者夫婦に対する脱会を強要しました。夫婦は、暴力的に拉致監禁された上、幼い2人の子供達から無理矢理引き離され塗炭の苦しみを受けました。
7月31日午前1時頃、夫人が、監禁犯の1人の携帯電話を使用して警察に通報し、駆けつけた警察官によって遂に夫婦は解放されました。この日の夕方には、親戚の家に引き取られていた2人の子供達を戻され無事再会することができました。
夫婦は、今回の拉致監禁、脱会強要事件が高澤らの主導で行われたことから、親族が示談に応じるなら、親族を告訴対象から外し、高澤ら、親族以外の関与者のみを刑事告訴すべく、親族等と示談交渉を行いました。示談で要求した主な内容は、今回の拉致監禁にまつわる事実関係を認めること、事実や証拠を隠すことなく提供すること、今後2度と同種行いを繰り返さないと約束することの3点でした。ところが、親族等がこれに応じることを拒否したため、親族等も含めて刑事告訴するに至りました。
高澤守は、これまでにも、マンションの高層階に監禁された統一教会信者男性が脱出を図ってベランダから転落し、瀕死の重傷を負った事件に関与するなど、悪質な脱会強要事件に数百件関わり、2度民事訴訟で敗訴し、また、2度刑事告訴されました。しかし、刑事事件においては、2回とも起訴猶予により不起訴処分とされてきました。「自分は何をしても許される」との思い上がりから今回の事件に至った、というのが信者夫婦の主張です。
統一教会信者に対する拉致監禁、脱会強要事件は1960年代後半に始まり、それ以降、約50年弱に渡って繰り返し行われてきましたが、司法機関による救済は必ずしも十分なものではありませんでした。また、今年1月には、「全国 拉致 監禁・強制改宗被害者の会」の後藤徹代表が12年5ヶ月間に亘る監禁、脱会強要を理由に脱会説得を反復継続して行ってきた加害者等を相手に損害賠償を求めた民事の事案で、東京地裁が加害者側に対して支払を命じる判決を下しました。
こうした中、本年7月24日、国連欧州本部(スイス・ジュネーブ)の自由権規約人権委員会は、日本政府に対して行った人権状況に関する審査の結果、最終報告書の中で、「新宗教運動の回心者を棄教させるための、彼らに対する家族による拉致および強制的な監禁についての報告を憂慮する。締約国は、全ての人が自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない権利を保障するための、有効な手段を講ずるべきである」として、日本政府に対し勧告を行いました。
今回の夫婦拉致監禁事件は、国連勧告の数日後に発生しており、国際社会に対する挑戦とも言える事案ですが、司法機関の適切・迅速な対処によって、日本における同種人権侵害の撲滅に繋がることを大いに期待するものです。
統一教会広報局
(1) 夫がどこから大阪のマンションに連れられていったのか不明だが、妻は広島市内から両腕、両足等を縛られ、寝袋に入れられ、更に寝袋の上からも縛られてワゴン車に監禁された状態で、4時間かけて、大阪のマンションに連行されている。
まるで暴力団の内部抗争の一コマ、凶悪きわまりない事件である。
17年前の富澤裕子事件が蘇る。
富澤は、鳥取市の鳥取教会で母親と話し合っているところを、武装した父親(警察官)らによって襲撃され、鳥取から徳島県鳴門市のリゾートマンション、すぐに鳴門からJターンして大阪マンションに。鳴門から大阪までは、手錠をかけられた状態でフェリーで移送されている。むろん、首謀者は高澤守だ。
【関連記事】『我らの不快な隣人』(180~181頁)
(2) 広報局のニュースリリースにある通り、高澤は富澤裕子、寺田こずえを拉致監禁し、監禁下で脱会説得を行なった。寺田は高知から大阪に監禁移送されている。
【関連記事】前掲書(184頁)
2人は高澤を刑事告訴、そのあと民事提訴した。結果は不起訴処分(ただし起訴猶予=違法性はあるがおめこぼし)、民事では違法性を認め、少額だが損害賠償命令が下った。
今回の告訴人は、「(不起訴処分によって)自分は何をしても許されるとの思い上がりから今回の事件に至った」と見ているようだが、少しばかり違うような気がする。
高澤は、再臨主は雲に乗ってエルサレムの方から現れることを信じている聖書原理主義者である。世俗法(憲法、法律)より、天法がすべて。それゆえ、日本の法律など頓着していないと強く推認される。
では、彼がなぜ強制説得を中断していたのかという疑問がわく。
それは、白い旅団によって、買春のことが暴露され、妻・娘・息子から糾弾されたからであろう。
【関連記事】「白い旅団~本来の目的」(2011年7月)
家族の糾弾から3年余り。ほとぼりが冷め、また異端派を正統派クリスチャンにしたいという天法虫が騒ぎだしたのであろう。
それにしても、聖書原理主義者の牧師は少なくないのに、どうして高澤だけ(倉敷の牧師高山も)が強制説得に手を染めるのだろうか。それは、快感に酔いしれたいという欲求がむらむらと湧いてきたからではないのか。
監禁中の信者がある瞬間、表情を一変させ、バタっとひれ伏し、「もう脱会することにしました」と言われたときに、ドーパミン(快楽物質)が脳内に噴出する。覚醒剤中毒、パチンコ中毒(依存症)と同じである。
【参考記事】『教祖逮捕』(ドキュメント救出)
そして、敵対的な態度を取っていた教会員がある日を境に「高澤先生」と呼ぶようになる。まさに快感!人の心を変え、自分に服従させることほどの嗜虐的な喜びはない。
宮村峻も同じであろう。
後藤さんから告訴され提訴されているのもものかは、拉致監禁説得を続けているのは、支配-快感を味わいたいからという理由以外に考えられない。宮村ガールズの存在を想起せよ! 後藤裁判で敗訴しても、宮村は拉致監禁活動は続けるだろう。30年間もやってきたのだから、監禁説得は彼のアイデンティティになっている。やめればただの老人だ。
(ただし、信者家族は今回の2200万円、金利を含めると3000万円の賠償金の支払いにたじろぐはず)
なお、宮村と高澤は師匠と弟子の関係にある。
(3) これまでの経験から、脱会説得家の間では、既婚の夫・妻を拉致監禁するのは御法度になっていた。
入籍前の青年の婚約者が拉致監禁された場合、警察は婚約者でしかないという理由すなわち法的地位を楯に、訴えを取り合わなかった。逆に言えば、結婚していれば捜査に乗り出すということだ。
これを恐れてのことだと思うが、2000年頃までは既婚者もやっていた宮村だが最近はやっていない。(宮村の顧問的弁護士・山口広の忠告があったからだと推測している)
これに対して、重度の天法病・快感依存症の高澤守は、そんなことには頓着しない。結婚していようがいまいが、結婚して妊娠している夫人だろうが、ともかく誰だっていいのだ。
【夫婦を監禁した事例】前掲書(190~192頁)
(4) 話は前後するのだが、ニュースリリースの次の記述は注目すべきであろう。
「親族が示談に応じるなら、親族を告訴対象から外し、高澤ら、親族以外の関与者のみを刑事告訴すべく、親族等と示談交渉を行いました。示談で要求した主な内容は、今回の拉致監禁にまつわる事実関係を認めること、事実や証拠を隠すことなく提供すること、今後2度と同種行いを繰り返さないと約束することの3点でした。ところが、親族等がこれに応じることを拒否したため、親族等も含めて刑事告訴するに至りました」
誰だって、自分の父さん、母さんなんか訴えたくない。夫婦は最後の最後まで告訴を逡巡していたと聞いている。
「親思う心にまさる親心」という全くその通りと思う格言があるのだが、今回の場合、「子思う心にまさる子心」だ。
しかし、両親は子の親思う気持ちが理解できなかった。というより、高澤の磁力が強かった、親子関係の情より強制説得家との義が強かったということであろう。他者との関係より親子関係、家族関係を一義にする人間からすれば、理解不能であろう。
(5) 今回の告訴と後藤の告訴とはどう違うのか。
後藤の場合、当初、巣鴨警察署に告訴状を提出した。ところが、受理することなく、監禁場所かつ宮村の自宅を管轄する荻窪警察署に提出してくれ、と。そこで荻窪警察署に提出したが、すんなり受理しなかった。つまり、最初から捜査に乗り気ではなかった。
これに対して、告訴人夫妻の告訴には警察はきわめて積極的で、告訴状の修正指導までしたと聞いている。救出した大阪の警察署と広島の警察署は連絡を取り合っているのであろう。
これだけが根拠だが、起訴処分が下ると思う。起訴されれば、逮捕監禁罪(刑法220条)が適用され、3カ月以上7年以下の懲役刑が言い渡される。
罰金刑の略式起訴ではないはず。子どもと分離され、6日間監禁され、監禁場所に妻は、
両腕、両足等を縛られ、寝袋に入れられ、更に寝袋の上からも縛られてワゴン車に監禁された状態で、4時間かけて、移送された
-のだから。これで、罰金50万円で済むのなら、やりたい放題、日本は法治国家ではなくなる。
ただし、夫婦への拉致監禁に高澤がどの程度、関与したかを捜査段階で詰めきれるかが問題となる。もっとも、高澤には先の2件の前歴(起訴猶予、民事では違法行為と認定)があるだけに、物証抜きの、「関与していない」というだけの主張は認められないのではないか。
(6) 起訴されれば、広島地裁で刑事裁判が開かれる。幸いなことに私は松江市在である。3000円、3時間弱で広島地裁に行ける。法廷後は原爆記念館などなども観ることができる。広島ラーメンも食することができる。嗚呼、楽しみだ。
高澤先生とは寺田こずえの裁判以来のご対面と相成る。6年振りか。まるで修学旅行の前夜みたいな気分だ。
実刑が下されれば、高澤の親分、齢(よわい)70近くの宮村にとっては衝撃的であろう。
宮村先生、お弟子さんがどこの刑務所に収監されようが面会にいってあげてくださいな。広島、浜田刑務所などだったら、私も行けますが。府中だったらとてもとても。
(7) 刑事のあとは民事である。告訴人夫婦が提訴するかどうかわからないが、私としては是非やってもらいたい。高澤ならともかく親に損害賠償を請求するのはしのびない。その気持ちはよく理解できる。しかし、金額の多寡ではない。訴額は1万円でいい。「イラク派兵違憲訴訟では1万円の損害賠償を求めて争われた。
提訴すれば勝訴は間違いなく、刑法・民法の両方で、すなわちすべての法律で、拉致監禁の違法性が認められることになる。
コラム-反統一びとと妄信的シックは瓜二つ-
リリアンさんはブログで、後藤勝訴判決に対して、「わたしは元信者なので勝訴しない方がよかったのが、本音です。 家族の方やカウンセラーの人や牧師さんはお気の毒だと思います」 と綴った。
また、ツィッター(https://twitter.com/ririan1030 )でも、「後藤さんの記事、家族の賠償が多すぎるような気がします。12年はやりすぎだけどなんともお気の毒。家族もバラバラになって大丈夫なのかしら・・。勝訴って喜んでいる場合かな」「家族に賠償させて勝利? 」と述べている。
「31歳から44歳までの12年5か月にわたり、同じ天井と壁を見るだけの毎日」
リリアンさんは想像力を働かせて考えるべきだ。
<12年5カ月間、6畳一間に閉じ込められた生活をしろと言われた場合、いったいいくらの金額だったら引き受けるだろうか>と。
小生なら、1億円、2億円もらっても引き受けないだろう。
当事者の立場になって、想像力を働かせて考えない。妄信的信者と同じである。
被害の法的回復を求めた裁判で勝訴しない方が良かったとか、被害代償の2200万円が多すぎるといった感覚は尋常ではないし、異様ですらある。
また、リリアンさんは「両腕、両足等を縛られ、寝袋に入れられ、更に寝袋の上からも縛られてワゴン車に監禁された状態で、4時間かけて、移送」されても、なんとも感じないのか。告訴しないのか。親たちがやったことだから許すのか。
統一教会憎しのあまり反統一の鬼になったリリアンさんは、自分の姿を等身大で見ることができなくなっている。
統一教会員が刑事罰を受けたことをサタンからの迫害だとする妄信・狂信シックとまるで同じなのである。
言説は反統一、統一擁護と相反するが、思考様式、体質は瓜二つ。そのことに気がついていないから、哀れというしかない。
統一教会を退会したリリアンさんは、統一時代の思考様式を何ら自己検証することなく、何一つ内省することもなく、反統一の鬼となっただけのことだ。つまり、人間として成長していないのだ。
浅見定雄さんに「脱会とは何か」と聞いたことがある。「それは人間性が豊かになることだ」。統一から反統一になる、統一からクリスチャンになる。「それだけだったら人としての意味はない」とも。
UC[統一教会]食口の悲劇!のKyokoさんも同じである。彼女、曰く。
「統一教会に踊らされて、自分の親兄弟を犯罪者に仕立てた「後藤」が哀れ・・・カウンセラーは、後藤家の騒動に巻き込まれて、本当に可哀そう・・・」
反統一の塊となり、反統一がアイデンティティになってしまった彼女たちは、50歳になっても60歳になっても70歳になっても、ひたすら統一撲滅のために発言し続けるだろう。寂しい人生である。
治療薬はないが、恋に陥れば変わるかもしれない。
そうでなければ、「反統一院リリ・Kyoko怨嗟大姉」の戒名をいただいて終わるだろう。
諸行無常の響きあり 南無阿弥陀仏 チーン
火の粉の主張
脱会屋・宮村峻は、監禁一年目になる石橋正人さんを解放せよ!
【当該記事】「脱会屋・宮村は石橋正人さんを解放せよ!」
-次回から「文家の娘、妍進(ヨンジン)と情進(ジョンジン)の結婚問題」を5回にわたって連載する-
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コメント
広島裁判傍聴
私も、ご一緒させてください。日本での拠点、実家の岡山から、新幹線で1時間、東京よりも楽です。
- [2014/11/18 16:45]
- URL |
- Yoshi Fujiwara
- [ 編集 ]
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重度の天法病・快感依存症の高澤守
米本さんがおっしゃるように、統一も反統一も、同じ精神構造に思えてきますね。統一教会幹部も、違法行為だと知りつつ異常な献金(退職金狙い、遺産狙い、借金強要)をプッシュし続けていますが、同じでしょうね。
こういう精神構造から解決しないと、統一教会内の種々の問題も、教会員に対する拉致監禁問題も、本質的には解決されないように感じます。
ともかく警察や司法には、統一、反統一の別なく、「この世」の法に則って粛々と、厳格に対処してほしいと思います。
親も原理主義者
そういうことだと思います。
<親子関係の情より強制説得家との義が強かったということであろう>
両親はすでに反統一活動家の頭、聖書原理主義者になっていて、親の情はあまり働かなかったのではないかと私は思います。
<起訴処分が下ると思う。起訴されれば、逮捕監禁罪(刑法220条)が適用され、3カ月以上7年以下の懲役刑が言い渡される>
これまでやってきた所業からすると、これでも十分じゃない気はします。
でも、起訴→刑事罰という“示し”をつけることで、警察や司法当局、マスコミの意識は完全に変わるはず。
今回の告訴は、拉致監禁撲滅史、信仰の自由獲得史において、大きな一歩になると確信します。
三度目の正直
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天法を妄想する危険宗教者
>そして、敵対的な態度を取っていた教会員がある日を境に「高澤先生」と呼ぶようになる。まさに快感!人の心を変え、自分に服従させることほどの嗜虐的な喜びはない。
>重度の天法病・快感依存症の高澤守…
統一教会信者に対する拉致監禁問題を追究し、実際にその関係者達を取材したり、観察してこられた米本さんがなす心理分析は説得力があり、大変興味深く記事を読ませていただいております。
上に掲げた米本さんのご指摘も高澤守牧師個人の問題を越えた領域へと問題意識を広げ、多くのことを考えさせられるようになります。
一番目の「世俗法(憲法、法律)より、天法がすべて。それゆえ、日本の法律など頓着していない」はそっくりそのまま‘7/1韓講話’で語った韓総裁の発言内容にも当てはまり、統一教会独自の概念である‘天法’という言葉を用いても拉致監禁牧師に関する説明が成り立つところも非常に興味深いと言えます。
そこには“カルト宗教”と“反カルト活動家”が共通した思想的特徴をもっていることが象徴的に示されており、拉致監禁実行者の問題と同時に統一教会自体の問題も再認識でき、改めてその問題の根深さを考えさせられます。
「天法」という言葉は原理講論においては僅か数箇所に使われているだけですが、文教祖の‘御言葉’の中ではふんだんに使われており、原理的な思考によるものではなく現実離れしているという意味での宗教的な発想による言葉と理解できます。
統一教会内で「天法」と語られる場合、その言わんとしている内容は理解できなくもないのですが、もっと哲学的でわかり易い言葉で言い換えることも可能なのではないのかと、私は多少なりとも違和感を覚えておりました。
それは如何にも権威主義的な考え方であり、‘無形実体世界’とされる霊界について論じるのに適切な用語とはとても考えられなかったのです。
しかし、統一教会信者のみでなく高澤牧師にもそのような「天法」的思考があると考えればその違法性に頓着しない行動が納得できるものとなるわけですから、非現実的な宗教信者が共通して好む概念であるとも言えそうです。
ただ、「天法」を絶対化することの危険な問題点は それは普遍性がなく、根拠が曖昧なものでしかないにも関わらず宗教信者は一般常識よりもその主観的な「天法」を優先して行動してしまうために、罪意識もなく違法行為を行ってしまうことがあることと、宗派が違えば「天法」もまったく異なるものになってしまい、宗教戦争を引き起こす原因を作ってしまうことです。
高澤牧師はそのような弊害によって、宗教戦争意識の中にあると考えればすべてが納得でき、拉致監禁行為についても根本的な原因が何であるか理解できるようになります。
また、米本さんが指摘された高澤牧師の「人を服従させる嗜虐的な喜び」の快感依存症については、宮村脱会屋の記事においても同様の内容が追究されておりましたが、宮村脱会屋の場合との相違点しては、やはり米本さんが指摘されたとおり、「異端派を正統派クリスチャンにしたという」勝利感、支配的達成感だと思われます。
いわば、宗教戦争に勝利し、異端者を征服した嗜虐的な喜びが絶大で忘れられなくなり、快感依存症に陥った状態になるわけですが、そのように考えると高澤牧師の心理が手に取るようにわかりますし、違法な行為であることにも頓着しない理由が充分理解できます。
この拉致監禁を繰り返す高澤牧師の場合も、異常な献金活動を繰り返す統一教会員の場合と同様に異常心理学による探究がその精神分析の為には不可欠なのかもしれません。
しかし、高澤守牧師による信教の自由を侵害する憲法違反の拉致監禁、棄教強要行為は被害者に深刻な後遺症さえもたらす行為であり、法律によって厳正に処罰されるべきなのは当然です。
それは対象が問題が多い統一教会の信者だからといって許されることではなく、二度と同じ違法行為を行うことができないくらい重たい、何年にもわたる懲役刑が課せられて当然と思われます。
また一方で高澤守牧師や他の拉致監禁派の人達は人間として見ても非常に卑怯な人間だと思います。
統一教会の宗教活動の問題点や組織的な矛盾点、社会生活を破壊する危険性等を信者に自覚させ、脱会を勧めたいならば、統一教会内において操作されたようなものではない、隠されていた‘真実’の情報をオープンな場所で充分に提供して話し合えばよいだけです。
真実として統一教会には優れた思想も存在するのですが、組織全体の活動を見れば、その‘真理’と思える宗教思想と完全に矛盾する活動も行われており、却ってその信者達を不幸にし、人生を破壊してしまう危険性さえあるので、そのオープンな話し合い自体はとても意味があると思います。
現在、知られている統一教会の異常な献金活動などは拉致監禁などを行わなくても、どのような場所でも信者にその問題点を理解させることができるし、教会内の教義の矛盾などは数え上げたら切りがないほどで、牧師のような宗教職者に頼らずとも、資料さえあれば誰でもその教義の矛盾を指摘することができます。
統一教会の主張していることと実践していることの矛盾を証明するだけなら、‘統一教会批判・告発カテゴリー’の「ちゃぬの裏韓国日記」ブログの記事を過去から遡って読むだけで充分です。
ちゃぬさんは文教祖の実際の‘御言葉’や過去に引き起こした事件についても詳しく調べており、客観的な視点に立っていて、信者は冷静に統一教会の実像を捉えることができますし、いちいち統一教会反対派の牧師の説明を聞く必要もないほどその矛盾について明確に説明してくれています。
おそらく、文教祖を絶対化している信者で ちゃぬさんの記事に対しまともに反論できる人はいないと思います。
にほんブログ村・統一教会カテゴリーにおいてブログ活動している公職者などは言うまでもなく太刀打ちできません。
その為、「ちゃぬの裏韓国日記」は否応なしに‘統一教会カテゴリー’から強制移動させられるのです。
ことのついでですが、‘火の粉を払え’の前の記事のコメント欄のやり取りとも大きく関連しておりましたので以下の公職者のブログ記事のタイトルを見て興味を覚え、記事を読んでみたのですがその愚劣さに唖然としてしまいました。
http://uc-itsumokamisama.seesaa.net/article/409136258.html
その公職者は駄作記事を書いてたびたび米本さんの怒りをかっておりますが、教育部長を名乗ってのブログでありますので、その矛盾点を見逃すこともできず、私もコメントを投稿いたしました。
しかし、次の記事がアップされたにも関わらず、まったく私のコメントがブログに現われてきませんでした。
おそらく、それは削除されたか、あるいはシステムがうまく機能しなかったものと思われます。
しかし、私の投稿は現在の統一教会の日韓関係解釈の偏向に対して問題提起したものであって、決して中傷罵倒の類ではないのでそれが記事に反映されなかったことは残念でならないのです。
そのコメント内容は前の記事のコメントのやり取りと関連したものですが、統一教会反対派が拉致監禁のような罪を犯さずとも、誰でも統一教会の考え方に矛盾があることは理解でき、その一例を示すものとなりますので、その投稿したコメントをそのままここに紹介させて頂きたいと思います。
もし、米本さんからこちらの記事のコメント欄には相応しくないと指摘されれば、いつでも削除いたします。
(コメント初め)
>日本は、「社会」を大事にします。
>韓国では、社会よりも家庭に重要性をおいている一つの表現としては、…
この比較は普通に考えて、韓国の文化が未発達であることを証明しているようなものです。
社会秩序が整った先進国では、『道徳』『ルール』『マナー』を尊重するのは常識です。
欧米の国々の文化をよく勉強してください。
「社会よりも家庭に重要性をおいている」のは、より大きな共同体を尊重する道徳観が発達していないからであって、「(社会や全体の)ために生きる」精神が発達していないためなのです。
>二番目の違い、これは『格位』の違いです。
日本は真のお父様が『母の国』というように、
どちらかといえば、女性的であり、
対象的であり、受身的な国であると言えるでしょう。
そして、韓国は男性的、主体的、能動的なのです。
上のお話はまったく意味不明ですし、第一現実の歴史とまったく正反対です。
日本が「受身的な国」であるなら、なぜ第二次世界大戦の時代において大東亜共栄圏を築こうとしてアジアの他の地域にまで勢力を拡大しようとしたのですか?
1910年、韓国はまったく抵抗もなく日本に併合されてしまい、第二次世界大戦が終戦となるまで、ただ一方的に日本に統治されていただけなのですよ。
現代においても、日本人と韓国人と比べて世界の様々な分野でどちらが主体的、能動的に能力を発揮し、活躍しているのかを見るならば、圧倒的に日本人のほうが勝っており、男性『格位』であり、世界の国々から頼られているのです。
韓国はただ、大国の後を追う「対象的」で、「受身的」な存在で、世界から見れば明らかに日本より下で女性『格位』なのです。
もう少し現実を観察してものごとを述べてください。
>これは「もらう」の謙譲語である「いただく」という言葉です。
ご馳走を頂くという「対象」になって表現します。
食べ終われば「ご馳走様でした」と挨拶します。
これも「対象」に立って相手にいう言葉です。
>ご飯を食べるときに、「チャール、モッケスムニダ」、と言います。
意味は、「良く食べます」です。
さらには、食べ終わった時には「チャール、モゴッスムニダ」
つまりは、「良く食べました」、となるのです。
相手がどうのこうのではなく、私が食べた、食べ終わった、
すなわち、「主体」に立って表現する言葉なのです。
日本人が「対象」の立場で「いただきます!」「ご馳走様でした」と挨拶するのは、まさしくその料理を提供してくれた他者への『マナー』としてのものであり、「対象」の立場に立つのは必然的であるのです。
他者に挨拶するのに、「主体」の立場でしか相対していないとしたら、それは『マナー』としてレベルが低いということなのではないでしょうか?
「相手がどうのこうのではなく、」という考え方は「主体的」なのではなく、ただ「自分本位で視野が狭い」と理解したほうが当てはまります。
>日本では、言葉が対象的なので、行動するときも相手はどう考えているのか、
どうしたら喜んでもらえるか・・・・と相手を中心にして、
自分が対象になって考える傾向があるのです。
一方、主体的な表現の多い韓国語を使う韓国人は、
発想が主体的になり、私があなたにしてあげたい、
私が喜ばせたいというように、主体的に行動します。
上の記述もまったく「主体的」の説明になっていません。
社会や人に対して行動する時は、社会や相手の人の考えや感情を考慮するのは当たり前ですし、大人としての当然の態度です。
自己の「私があなたにしてあげたい、私が喜ばせたい」というような感情や願望を優先するのは、「主体的」なのではなく、ただ単に考えかたが幼稚なのであり、子供っぽいだけなのです。
やはり、韓国人は自分より大きな存在としての社会に対する「ために生きる」公的精神が未発達なのだと思います。
>まさに、日本は対象になって主体に「美」をお返しする文化があり、
韓国は主体になって「愛」を表現する文化があるということです。
日本は一般的に「和」を重んじる文化を持っていると表現されており、『日本は対象になって主体に「美」をお返しする文化があり、』とは何を根拠にそのようなことが言えるのかまったく理解に苦しみます。
第一言葉として意味不明ですし、文化の説明になっておりません。
日韓の文化を論じるのであれば、もう少し歴史を勉強されて、最低限の知識を持つことが必要なのではないでしょうか?
>真のお父様は、韓国が父の国、日本が母の国、
そのように表現してくださっています。
真のお父様が韓国が「父の国」と話されたのは希望として語られたと考えなければ矛盾してしまいます。
韓国は極端な反日思想によって「母の国」を一方的に批判、攻撃しているだけなのが現実で、「父の国」としては失格ではないでしょうか?
韓国の問題点は「母の国」や「子の国」の面倒を見てあげれるような公的精神が欠如していることと、逞しい経済力や創造力が不足していて、日本に賠償金や資金を要求することしか考えていないことだと思います。
(コメント終わり)
主体対象・男性女性
>まさに、日本は対象になって主体に「美」をお返しする文化があり、
韓国は主体になって「愛」を表現する文化があるということです。このように、男性と女性の性質が正反対であるように、
韓国と日本もそのように対称的な関係だと見ることができます。
韓国が主体で男性、日本が対象であり女性なんですね。もちろんこれは前から聞いていることだし、原理も「男性が主体で女性が対象」と言っていますが。男性と女性はそれでも場合によって主体対象が逆になるし、一つになれば主体対象という区別もなくなる、などという説明をうけて、以前はそうかなと思ってきました。男性も女性も、国籍も関係なく、人は平等という根底意識となんとか同居させてきたわけです。
しかし、最近の教会の流れを見ると、主体対象・男性女性という位置を与えてきた、文先生や韓国人幹部は、人間平等という意識がまずなかったのだろう、と思われます。人や国家をあくまで上下関係で捉えていたんですね。男性が女性の上だし、主体は対象の上、その位置は絶対変わらないという教えだったんだな、と今更感じています。こういう教えだから広まらないんじゃないでしょうか。
Re:主体対象・男性女性
現在の統一教会で語られる‘御言葉’は儒教のように人間の上下関係を強調したものが多く、千尋さんが指摘されたように「人間平等という意識」はあまり感じ取れませんが、それに対して問題を感じている千尋さんの感性は極めて正常ですし、統一原理の本質に忠実に教会の問題を捉えていると思います。
創造原理の第一節‘神の二性性相と被造世界’においては「主体」と「対象」の相対関係についての詳しい説明がなされていますが、それらはほとんどが性相(内性)と形状(外形)の相対関係についての説明であり、原理講論においてはその性相と形状の二性性相の相対関係こそがより根本的なものであると説明されております。
つまり男性と女性といった陽性と陰性の二性性相の相対関係よりも心と体という性相と形状の相対関係こそがより重要であると述べているのです。
創造原理において「主体」と「対象」の格位の違いを強調しているのは あくまで人間の「心」と「体」についてであり、その心を主体とし、体を対象として心と体が一体化して初めて人間個体として完成し、神と相対できるようになると書かれているのです。
その考え方は非常に重要であり、原理の根幹と言っても差し支えないように思います。
その原理の理論から何が導き出されるかというならば、人間においては常に心を主体とし、特に本心を中心として、その目的に従って生きねばならないということになるのです。
そしてその本心は神と直接に相対関係を結べるものであるので、絶対的な価値があり、他の存在によっては否定されないことになります。
そのような原理を根拠として「人間は平等」と主張することも可能になるのです。
創造原理は根本的に人間を‘形象的個性真理体’として捉えているので、神を中心とした観点ではその人間一人々の価値は絶対的であり、そこに差別などあろうはずがないのです。
その原理は真理であるが故に、人類歴史が進歩し人間の本心が覚醒され、精神文化が発展するに従い、世界の人々はあらゆる差別を撤廃し、人間の平等を主張するようになってきたのです。
そのような人間平等の思想は原理講論の‘総序’でも語られており、人間と人間の間に格差を設ける考え方こそ創造原理に反しており、文明社会の発達にも逆行しているのです。
創造原理において男子と女子の関係に主体と対象という格位を付けているのは、主に家庭における夫と妻という関係においてであり、どちらかといえば肉体的な機能における関係において当てはまる原理なのです。
精神的な面においては、夫と妻の関係における主体と対象の立場は固定的なものではなく、どちらが常に主体でなければ家庭が完成されないなどということはないのです。
千尋さんもこれまでの‘火の粉を払え’の記事は一応読んでおられることと思いますが、「文先生や韓国人幹部が人や国家をあくまで上下関係で捉えていた」のは原理的な根拠からではなく、明らかに朝鮮儒教や小中華思想の伝統的考えに基いているのです。
多分、千尋さんは原理講論は文先生の基本思想を書き表した経典だと今でも思っておられるのでしょうけど、それは明らかに思い違いなのです。
もしそのように考えてしまうと統一教会の過去の宗教活動の矛盾は説明困難になってしまうのです。
やはり、原理講論は劉孝元氏が自ら学び取り、体系化したキリスト教的思想を基本として執筆したと考えねばならず、そう理解しなければ原理講論と文先生の‘御言葉’の論理的な矛盾の問題など説明のしようがないのです。
文先生の血統中心の人間観や擬人化した神の心情解釈などは 原理講論の中で主に創造原理以後の各項目に反映されているのですが、そこに創造原理と矛盾した論理を生み出してしまったりしているのです。
その為、原理講論は注意深く読んで行くと、内容的に矛盾した部分が数多く発見されるのです。
結局、原理講論は聖書から一歩進んだ有神論を展開することはできたのですが、その結論は再臨論という形で旧型の人間信仰の宗教理論に変化し、理論全体が歪曲された統一性のないものになってしまっているのです。
その統一原理の歪みから生じた「真の父母様」人間信仰の教義は既に現実的にも矛盾が露出している訳ですから、普通に考えて伝道による教会の発展など考えられません。
唯一、生き残れる道があるとしたら、それは血統転換などの教義の変更によってできる道筋であり、創造原理を基本として教義全体を再構築する以外に道はないのです。
しかし、それを韓国人幹部が行えるはずもなく、彼らは逆に宗教を金儲けの手段とし、高額献金の強要をいつまでも続けようとしている訳ですから、結果的に日本統一教会の献金活動がますます統一教会を改革困難にしてしまっているとも言えるのです。
とにかく教義等の進歩を促す為にも教会が現状のままであってはならず、高額エンドレス献金をストップさせることが統一教会改善の第一歩だと思います。
1度も中断されていない
>それは、白い旅団によって、買春のことが暴露され、妻・娘・息子から糾弾されたからであろう。
この米本氏の推測は失当です。
高澤牧師は中断することなく、宮村氏や「全国統一協会被害者の会」のメンバーと連絡を取っていましたから。
広島夫妻の刑事告訴 棄却方向か?
「国境なき人権」からのニュースレターにより、広島事件の刑事告訴の続報が入ってきました。広島検察は、(9月半ばの時点で)棄却の方向。
http://humanrightslink.seesaa.net/article/427833739.html
- [2015/10/14 20:51]
- URL |
- Yoshi Fujiwara
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