後藤徹の陳述書? 

後藤陳述書(4)

陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁/4・第1回目の監禁から脱出後の経緯
5・第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁
(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁/(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁/(4) 宮村等による脱会説得/(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)/(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)/(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)/(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯/7.最後に
 青印が今回アップした部分です。



<写真説明>
宮村氏らの非道ぶりを訴える「拉致監禁をなくす会」の小出浩久代表

東京から新潟へ

5.第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁

1995年9月11日夜、東京都西東京市の自宅に帰宅して滞在中、両親、兄、及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ、左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされて、家の中から引きずり出され、ワゴン車に監禁されました。後日判ったことですが、庭に潜んでいた男性は、宮村が経営する株式会社タップの従業員でした。

 ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り、見知らぬ男性が運転しました。
私は彼らによってワゴン車に監禁されたまま新潟に連行されました。

連行途中、私は用を足したくなり、トイレに行きたいと要求しましたが、家族等はトイレに行くことを許さず、代わりにビニール製の携帯用簡易トイレを私に手渡し、これで用を足すようにと言いました。このため私は見知らぬ者達の同乗するワゴン車の中で用を足さざるを得ず、大変屈辱的な思いをさせられました。(注1)

 新潟のマンションの部屋は、窓が全てストッパーで固定され開かないようにされていました。また玄関は内側から施錠できるタイプの玄関で、私が部屋に入れられた後、施錠されました。(注2)

同室では両親、妹、兄嫁が監禁場所に常駐して私を監視し、棄教を強要しました。
私が同室で監禁されていた最中、兄は東京で働いていたため、時々顔を見せる程度でしたが、来る度、私に棄教を強要しました。(注3)

 特に、私を監禁して間もない頃に兄は私に対して、
「言っておくが、この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは、覚悟しておけ」
 と言って、私が完全に棄教するまで絶対に監禁から解放しない旨述べて、私に棄教を強要しました。


死なない程度に悩め

そして、この兄の言葉は単なる上辺だけのものではありませんでした。兄を始め家族等のこの異常な決意によって、私は合計12年5ヶ月間に亘って監禁されたのです。
しかも、後述の通り私が3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ、この監禁は今なお継続していたとも言えるのです。

 その他兄は、
「窓から飛び降りたら絶対に死ぬぞ」
 と言って、私が窓からの脱出を図らないよう牽制し、
「死なない程度に悩め」
 と言って私に精神的苦痛を与えました。


 また同室には前記松永らが来て私に対し脱会説得を行い、棄教を強要しました。(注4)

 1995年12月末、私はこのままでは監禁状態から解放されることは不可能であると判断し、意に反して脱会した振りをし、意に反して脱会届を書きました。
 しかし、私が脱会を表明した後も、家族等は私を監禁し続けました。1987年の1回目の監禁の時、私が偽装脱会をしていたため、今度は家族等が慎重になったのだと思います。

 1996年、父が入院し、心臓のバイパス手術をしましたが、私は一切監禁から解放されませんでした。
 1997年6月22日、父が癌で死去(65歳)しました。


 

(注1)『我らの不快な隣人』でも書いたが、携帯用簡易トイレは監禁場所までの移送時における必携用具である。川嶋英雄氏も車の中で小用させられたが、「これまでの人生の中でもっとも屈辱的だった」と語っていた。(194頁参照)。

(注2)「拉致監禁をなくす会」代表の小出浩久氏(冒頭写真)は偽装脱会中に、マンションを監禁部屋にするため作業を行ったことがある。

「私は松永牧師と元信者の女性1人と共に、ロイヤルコープの部屋の準備のために行った。部屋の入り口のドアを本人が開けられないようにするチェーン式の鍵も、教会から持って行った。窓は内側から開けられないようにする器具を取り付け、障子戸なども開かないように釘で打ちつけた。
 すべて松永牧師の指示どおりに行った。
 部屋の準備が整うと、彼女の到着を待った。
 やがて親戚十人くらいに取り囲まれて、本人が運ばれてきた。
 Wさんは『離してよ。離してよ』と叫び続けていた」
『人さらいからの脱出』187頁)

 (注3)この頃の兄は、宮村峻(たかし)氏が経営する荻窪にある「株式会社タップ」(広告代理業・印刷業、当時の従業員は7人程度)に勤めていた。このため、休日になると、新潟のマンションに訪れていた。
 ちなみに、このときは結婚して3年目。兄と兄嫁は別居生活だった。

(注4)東京の実家で拉致されたのに、どうして1回目の監禁時のように宮村氏がよく使用する荻窪界隈のマンションではなく、遠く新潟まで移送されたのかという疑問がわくだろう。東京なら兄夫婦が別居を余儀なくされることもなかったはずだ。
 残念ながら、この疑問は宮村氏の起訴後に行われる検察の冒頭陳述を聞くしかないが、宮村氏と松永氏の連携プレイは「拉致監禁をなくす会」代表の小出浩久氏も経験している。
 詳しくは『我らの不快な隣人』、また小出氏が書いた『人さらいからの脱出』を読んでください。

 宮村氏と松永氏のように連携して監禁説得が行われることはそう珍しいことではない。ルポ「書かれざる宗教監禁の恐怖と悲劇」や『我らの不快な隣人』で明らかにしたが、同じ日本基督教団の行田教会の清水与志雄氏と戸塚教会の黒鳥栄氏は連携して行っていた。
 連携の結びつきは、教団教派という属人的ものだけでなく、俗人的な結びつきもあるように思われる。
 いったいに日本基督教団の牧師は宮村氏を乱暴的だと嫌うが、同教団に属する元東北学院大学教授の浅見定雄氏は同郷だという理由からか宮村氏と親しい関係にある?といったように。
 全国弁連に所属する弁護士も宮村氏を嫌っていたが、山口広弁護士紀藤正樹弁護士は宮村氏と親しい関係にある。

 
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後藤陳述書(4)


陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁/4・第1回目の監禁から脱出後の経緯
5・第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁
(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁/(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁/(4) 宮村等による脱会説得/(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)/(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)/(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)/(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯/7.最後に
 青印が今回アップした部分です。



<写真説明>
宮村氏らの非道ぶりを訴える「拉致監禁をなくす会」の小出浩久代表

東京から新潟へ

5.第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁

1995年9月11日夜、東京都西東京市の自宅に帰宅して滞在中、両親、兄、及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ、左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされて、家の中から引きずり出され、ワゴン車に監禁されました。後日判ったことですが、庭に潜んでいた男性は、宮村が経営する株式会社タップの従業員でした。
 ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り、見知らぬ男性が運転しました。
私は彼らによってワゴン車に監禁されたまま新潟に連行されました。

連行途中、私は用を足したくなり、トイレに行きたいと要求しましたが、家族等はトイレに行くことを許さず、代わりにビニール製の携帯用簡易トイレを私に手渡し、これで用を足すようにと言いました。このため私は見知らぬ者達の同乗するワゴン車の中で用を足さざるを得ず、大変屈辱的な思いをさせられました。(注1)

 新潟のマンションの部屋は、窓が全てストッパーで固定され開かないようにされていました。また玄関は内側から施錠できるタイプの玄関で、私が部屋に入れられた後、施錠されました。(注2)

同室では両親、妹、兄嫁が監禁場所に常駐して私を監視し、棄教を強要しました。
私が同室で監禁されていた最中、兄は東京で働いていたため、時々顔を見せる程度でしたが、来る度、私に棄教を強要しました。(注3)

 特に、私を監禁して間もない頃に兄は私に対して、
「言っておくが、この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは、覚悟しておけ」
 と言って、私が完全に棄教するまで絶対に監禁から解放しない旨述べて、私に棄教を強要しました。


死なない程度に悩め

そして、この兄の言葉は単なる上辺だけのものではありませんでした。兄を始め家族等のこの異常な決意によって、私は合計12年5ヶ月間に亘って監禁されたのです。
しかも、後述の通り私が3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ、この監禁は今なお継続していたとも言えるのです。

 その他兄は、
「窓から飛び降りたら絶対に死ぬぞ」
 と言って、私が窓からの脱出を図らないよう牽制し、
「死なない程度に悩め」
 と言って私に精神的苦痛を与えました。


 また同室には前記松永らが来て私に対し脱会説得を行い、棄教を強要しました。(注4)

 1995年12月末、私はこのままでは監禁状態から解放されることは不可能であると判断し、意に反して脱会した振りをし、意に反して脱会届を書きました。
 しかし、私が脱会を表明した後も、家族等は私を監禁し続けました。1987年の1回目の監禁の時、私が偽装脱会をしていたため、今度は家族等が慎重になったのだと思います。

 1996年、父が入院し、心臓のバイパス手術をしましたが、私は一切監禁から解放されませんでした。
 1997年6月22日、父が癌で死去(65歳)しました。


 

(注1)『我らの不快な隣人』でも書いたが、携帯用簡易トイレは監禁場所までの移送時における必携用具である。川嶋英雄氏も車の中で小用させられたが、「これまでの人生の中でもっとも屈辱的だった」と語っていた。(194頁参照)。

(注2)「拉致監禁をなくす会」代表の小出浩久氏(冒頭写真)は偽装脱会中に、マンションを監禁部屋にするため作業を行ったことがある。

「私は松永牧師と元信者の女性1人と共に、ロイヤルコープの部屋の準備のために行った。部屋の入り口のドアを本人が開けられないようにするチェーン式の鍵も、教会から持って行った。窓は内側から開けられないようにする器具を取り付け、障子戸なども開かないように釘で打ちつけた。
 すべて松永牧師の指示どおりに行った。
 部屋の準備が整うと、彼女の到着を待った。
 やがて親戚十人くらいに取り囲まれて、本人が運ばれてきた。
 Wさんは『離してよ。離してよ』と叫び続けていた」
(『人さらいからの脱出』187頁)

 (注3)この頃の兄は、宮村峻(たかし)氏が経営する荻窪にある「株式会社タップ」(広告代理業・印刷業、当時の従業員は7人程度)に勤めていた。このため、休日になると、新潟のマンションに訪れていた。
 ちなみに、このときは結婚して3年目。兄と兄嫁は別居生活だった。

(注4)東京の実家で拉致されたのに、どうして1回目の監禁時のように宮村氏がよく使用する荻窪界隈のマンションではなく、遠く新潟まで移送されたのかという疑問がわくだろう。東京なら兄夫婦が別居を余儀なくされることもなかったはずだ。
 残念ながら、この疑問は宮村氏の起訴後に行われる検察の冒頭陳述を聞くしかないが、宮村氏と松永氏の連携プレイは「拉致監禁をなくす会」代表の小出浩久氏も経験している。
 詳しくは『我らの不快な隣人』、また小出氏が書いた『人さらいからの脱出』を読んでください。

 宮村氏と松永氏のように連携して監禁説得が行われることはそう珍しいことではない。ルポ「書かれざる宗教監禁の恐怖と悲劇」や『我らの不快な隣人』で明らかにしたが、同じ日本基督教団の行田教会の清水与志雄氏と戸塚教会の黒鳥栄氏は連携して行っていた。
 連携の結びつきは、教団教派という属人的ものだけでなく、俗人的な結びつきもあるように思われる。
 いったいに日本基督教団の牧師は宮村氏を乱暴的だと嫌うが、同教団に属する元東北学院大学教授の浅見定雄氏は同郷だという理由からか宮村氏と親しい関係にある?といったように。
 全国弁連に所属する弁護士も宮村氏を嫌っていたが、山口広弁護士と紀藤正樹弁護士は宮村氏と親しい関係にある。

 

宮村の同郷とは?

浅見定雄は、「日本の宗教学者、神学博士。旧約聖書学、古代イスラエル宗教史を専攻。東北学院大学名誉教授、日本脱カルト協会顧問、特定非営利活動法人「小諸いずみ会」理事。 * 1931年 山梨県都留市に生まれる。* 東京神学大学神学部卒業。* 東京神学大学博士課程修了。* 1964年 ハーバード大学神学部博士課程卒業。Th.D.。* 1965年 東北学院大学助教授。」ということらしい。ということは、宮村も山梨県都留市か?

宮村と浅見の関係

 唐変木さん、情報ありがとうございました。
 浅見さんは、山梨県都留市出生でしたか。ちょっと驚き。

 浅見さんは翻訳したハッサンの『マインドコントロールの恐怖』の訳者註で、翻訳本を出すにあたって、「同郷の宮村氏に世話になった」(要旨)と書いていました。

 明治大学法学部卒で司法試験の勉強していた宮村氏が英語に精通しているわけではないはずなのに、なぜ、世話になったと謝辞の言葉を述べるのか今でも不思議なりませんが、それはともかく「同郷」のよしみで、仲がいいのかと思っていました。

 宮村氏の出身は新潟と聞いていたので、浅見氏もそうかと・・・。
 しかし、浅見氏が都留市生まれなら、宮村氏も都留市生まれということになりますが、実際はどうなんでしょうか。

 山梨県都留市といえば、川崎経子氏が都留市の谷村教会の牧師をしていたことが想起されます。

 都留市を軸に、宮村・浅見・川崎の関係を調べてみたいと思います。

 とまれ、情報ありがとうございました。
 また古い記事にも目を通していただき、うれしい限りです。

浅見定雄氏について

米本さん
いつも、詳しい正確な情報ありがとうございます。
今年から、拉致監禁に関心をもって、ネットでいろいろ見ています。反対牧師がいますが、牧師がなぜこんな蛮行をするのか、という疑問がありました。浅見氏を知っている人のプログをみつけて、わかりました。その日記の中に、>日本基督教団は左翼の宗教団体で、浅見もどうやら、左翼らしい、、、>私は、浅見に言いたい、左翼小児病的妄言を吐くのは、もうやめていただきたい、、>と書いてありました。(カトリックは世界最大の反共組織とも書いてありました)川崎氏もきっと同じ左翼ですね。そしたら、統一教会に反対するでしょうね。しかし、拉致監禁に加担し強制棄教するのは、犯罪行為ですね。

匿名希望さんへ

 初めての投稿、ありがとうございました。

 最初にお願いです。ブログの左サイトにある「投稿にあたっての注意事項」で書いていますように、次回からはハンドルネームでの投稿をお願いいたします。

 さて、投稿にあった左翼の件です。

 日本基督教団は様々な教団教派が合体して生まれたメガ教団です。そのため、右から左まで、実に多種多様な牧師たちで構成されています。
 したがって、日本基督教団を「左翼の宗教団体」というのは間違っています。

 浅見さんは進歩的な言説を唱えてきた人ですが、川崎さんはどうでしょうか。おそらく、共産党の機関誌に載った=左翼という単純な図式からでしょう。

 左翼をどう定義するかは人それぞれでしょうが、ここでは体制を変革しようとするのが左翼ということにしておきます。
 なぜ、体制を変革しようとするのか。それは、今の体制のままであれば、人が人としての権利をまっとうすることができないと考えるからです。そのために体制の変革を志向する。つまり、左翼の源流は人権思想にあります。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。

 強制説得を手がける人たちは、統一教会員の人権をまったく無視しています。拙著でも詳述したように、強制説得によって脱会した麻子さんは脱会後、PTSDに苦しんでいる。
 そのことを知りながらも、清水牧師、黒鳥牧師をはじめ強制説得をする側の人たちは、誰も救いの手を差しのべようとはしない。川崎さんがどういう態度を取ったかについては、カテゴリー「“救出カウンセラー”の正体」で書きましたので、ぜひ、読んでみてください。

 偽装脱会によって監禁から逃れた人がPTSDになる。そうした人たちのことを無視するのは、統一対反統一のベクトルからすれば理解できなくもないが、脱会者のことも同じように無視しているのです。つまり、脱会しようがしまいが関係なし。

 結局のところ、彼らには人権思想がまるでないということなのです。
(この点では、統一教会と監禁諸派はまるで同じです)

 このことからすれば、強制説得者たちの中には誰一人として左翼と呼べる人はいないということです。浅見さんも進歩的言説は述べても、根底にあるのは反人権であり、保守思想です。

 もし「私は左翼だ、進歩的な人間だ」という人がいたら、笑止千万です。そういう人にお目にかかってみたいと思っています。

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