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後藤徹の陳述書? 

後藤陳述書(3)

陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁
4・第1回目の監禁から脱出後の経緯
5・第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁/(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁/(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁/(4) 宮村等による脱会説得/(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)/(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)/(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)/(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯/7.最後に
 青印が今回アップした部分です。



兄と兄嫁は「青春を返せ裁判」の原告に

4.第1回目の監禁から脱出後の経緯

ホームに帰ってより後は、職場に戻ると再度家族等から拉致されるかも知れないという恐怖心があったため、戻ることができませんでした。
このため大成建設を退社し、その後は、信徒組織にて献身的に伝道活動や教育活動に従事するようになりました。

1988年末頃には、妹が両親、及び兄等によって拉致され、脱会しました。

 兄は、脱会後、宮村が行う統一教会に対する反対活動に加わるようになり、1991年には東京地裁に統一教会を被告とする損害賠償請求訴訟(いわるゆる「青春を返せ裁判」)を提起しています。

1992年8月、私は■■■■という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加しましたが、日本に帰国後、■■さんは家族らによって脱会説得を受け、信仰を失いました。このため、■■さんと結婚生活を開始することはできませんでした。(注1)



1993年頃、兄は■■■■という女性(以下、「兄嫁」と言う)と結婚しました。兄嫁も、親族に拉致監禁され、宮村、及び松永堡智(日本同盟基督教団新津福音キリスト教会牧師)らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した元統一教会信者で、脱会後は統一教会に対する反対活動を行うようになり、1991年に新潟地裁で「青春を返せ裁判」を提起しています。(注2)


2回も結婚破綻

 1995年8月、私は■■■■という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加しました。
既に年齢も31歳となっていたことから、この頃より私は将来家庭を持つことに備えて、統一教会での信仰は続けつつも信徒組織での活動を辞め、一般の仕事に就くことを考えるようになりました。

 しかし、同年9月に私が2回目の拉致監禁の被害に遭ったため、■■さんと結婚生活を始めることはできませんでしたし、また、一般の仕事に就くこともできませんでした。(注3)

 (注1)92年の合同結婚式は、アイドル歌手の桜田淳子氏なども参加し、マスコミによって全国的に有名になった。

(注2)後藤さんの兄弟関係を整理しておく。後藤さんの兄、兄嫁、妹も統一教会の信者だったが、いずれも強制説得で脱会した。兄、兄嫁は「青春を返せ裁判」の原告(兄は東京、兄嫁は新潟)になった。

 (注3)統一教会の合同結婚式から結婚生活に至る過程は『我らの不快な隣人』の26?27頁で説明したが、一般の社会と違い、結婚式と結婚生活の間には聖別期間(韓国・統一教会の用語では性別期間)がある。
 この期間に、相性が悪かったり、性に関する教えに双方で食い違いがあったりして(その多くは外国人男性が性別期間を待てないため)、破談になるケースは少なくない。
 また、強制脱会によって一方が脱会し、破綻になったケースもそう珍しいことではない。

 だが、後藤氏のように2回(1回目は相手が拉致監禁、2回目は後藤氏が拉致監禁)も破綻した例はそう多くはないと思われる。
正統派を自認するプロテスタントの一部の牧師たちは、統一教会信者の人生を弄んでいることに気がつかないのだろうか。

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1・略歴/2・統一教会への入会/3・第1回目の監禁
4・第1回目の監禁から脱出後の経緯
5・第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁/(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁/(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁/(4) 宮村等による脱会説得/(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)/(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)/(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)/(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯/7.最後に
 青印が今回アップした部分です。



兄と兄嫁は「青春を返せ裁判」の原告に

4.第1回目の監禁から脱出後の経緯

ホームに帰ってより後は、職場に戻ると再度家族等から拉致されるかも知れないという恐怖心があったため、戻ることができませんでした。
このため大成建設を退社し、その後は、信徒組織にて献身的に伝道活動や教育活動に従事するようになりました。
1988年末頃には、妹が両親、及び兄等によって拉致され、脱会しました。

 兄は、脱会後、宮村が行う統一教会に対する反対活動に加わるようになり、1991年には東京地裁に統一教会を被告とする損害賠償請求訴訟(いわるゆる「青春を返せ裁判」)を提起しています。

1992年8月、私は■■■■という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加しましたが、日本に帰国後、■■さんは家族らによって脱会説得を受け、信仰を失いました。このため、■■さんと結婚生活を開始することはできませんでした。(注1)



1993年頃、兄は■■■■という女性(以下、「兄嫁」と言う)と結婚しました。兄嫁も、親族に拉致監禁され、宮村、及び松永堡智(日本同盟基督教団新津福音キリスト教会牧師)らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した元統一教会信者で、脱会後は統一教会に対する反対活動を行うようになり、1991年に新潟地裁で「青春を返せ裁判」を提起しています。(注2)


2回も結婚破綻

 1995年8月、私は■■■■という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加しました。
既に年齢も31歳となっていたことから、この頃より私は将来家庭を持つことに備えて、統一教会での信仰は続けつつも信徒組織での活動を辞め、一般の仕事に就くことを考えるようになりました。

 しかし、同年9月に私が2回目の拉致監禁の被害に遭ったため、■■さんと結婚生活を始めることはできませんでしたし、また、一般の仕事に就くこともできませんでした。(注3)


 (注1)92年の合同結婚式は、アイドル歌手の桜田淳子氏なども参加し、マスコミによって全国的に有名になった。

(注2)後藤さんの兄弟関係を整理しておく。後藤さんの兄、兄嫁、妹も統一教会の信者だったが、いずれも強制説得で脱会した。兄、兄嫁は「青春を返せ裁判」の原告(兄は東京、兄嫁は新潟)になった。

 (注3)統一教会の合同結婚式から結婚生活に至る過程は『我らの不快な隣人』の26?27頁で説明したが、一般の社会と違い、結婚式と結婚生活の間には聖別期間(韓国・統一教会の用語では性別期間)がある。
 この期間に、相性が悪かったり、性に関する教えに双方で食い違いがあったりして(その多くは外国人男性が性別期間を待てないため)、破談になるケースは少なくない。
 また、強制脱会によって一方が脱会し、破綻になったケースもそう珍しいことではない。
 だが、後藤氏のように2回(1回目は相手が拉致監禁、2回目は後藤氏が拉致監禁)も破綻した例はそう多くはないと思われる。
正統派を自認するプロテスタントの一部の牧師たちは、統一教会信者の人生を弄んでいることに気がつかないのだろうか。

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