判決をねじ曲げる反カルト弁護士 

“カルト”化する大学業界の人びと(16)-佐賀地裁判決の評価について

 これまで4回にわたって判決文をアップしてきた。
「佐賀判決文(1)-女子大生に脱会を迫るのは公権力の行使か否か-」
「佐賀判決文(2)-アカハラ・パワハラをともなう大学の“カルト対策”」
「佐賀判決文(3)-国家賠償法を適用!」
「佐賀判決文(4)-森先生と女子大生の秘密めいた会話」
(未読の方は、さらりとでもいいからぜひ通読を)

山口貴士弁護士
被告佐賀大学の代理人、山口貴士弁護士

♤ 勝訴以外のなにものでもない

 判決文を踏まえての判決評価である。
 判決文を素直に読めば、佐賀大学のカルト対策の一つとして行なわれた森善宣准教授の発言は「原告及び原告の両親の権利又は法律上保護される利益を侵害」する違法行為であり、同氏の発言は「公権力の行使」にあたり、国家賠償法が適用される-というもの。
 侵害の程度は別にしても、被告の行為は違法と認定されたのだから、原告の勝訴、被告佐賀大学&森准教授の敗訴である。それ以外の評価はあり得ない。
 
 勝訴の一報を流した「緊急ニュース-カープ狩りの佐賀大学敗訴!」 のコメント欄で、AUCAさんが後述する山口貴士弁護士(以下山貴弁護士)の「判決の評価」をもとに、「統一協会側の実質的敗訴ではないか」と書いていた。が、判決の本筋は上記の下線部分にある通り、実質的敗訴などといった評価は決してできない。

 ところで、今回の裁判では被告の間で主張が異なるところがあった。
 佐賀大学は、森氏の発言は森氏個人の責任であり、大学のカルト対策とは関係ないと主張したのに対して、森氏は「公権力の行使」(大学の事業の執行)であると主張した。簡単に言えば、森発言の責任は森氏個人にあるのか、カルト対策を行なっている大学にあるのかという争点である。(「判決文1」を参照)
 判決は、森氏の主張を認め、国家賠償法を適用した。佐賀大学及び山貴(やまたか)弁護士など佐賀大学代理人たちの完全敗北であった。

【面白い記事】「被告の佐賀大学を守れなかった反カルト弁護士」


♤ 山貴が引用した判決文

 さて、山貴弁護士がブログ「弁護士山口貴士大いに語る」に記した判決文へのコメント「大学におけるカルト対策の正当性と必要性を認めた佐賀大学事件判決」を検討していきたい。長文お許しを!(面白いはずだから、最後まで読んでね)
 
 このブログ記事は、判決文の引用、それへのコメントという構成で成り立っている。
 まず、判決文のどこを引用したのかについては、「佐賀判決文(3)-国家賠償法を適用!」の下線に目を通していただきたい。いかに恣意的引用であるかは一目瞭然だろう。 彼が引用した判決文を記しておく。 ゴチックと下線は私。


4 被告Yの発言の違法性に関する判示事項
「前記争いのない事実(1)(2)(4)及び認定事実(20)によれば、被告Yの本件発言は、被告佐賀大学の准教授であった被告Yが、被告佐賀大学内の被告Yの研究室内で被告佐賀大学3年生であり、被告Yの担当するゼミのゼミ生であった原告Aに対してなされたものである。また、一般に、大学は、学生に対し、在学契約に基づき、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を享受研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる(学校教育法83条1項)という大学の目的にかなった教育役務を提供する義務があるところ、その前提として、学生が教育を受けることができる環境を整える義務を負い、在学契約に付随して、大学における教育及びこれに密接に関連する生活関係において、学生の生命、身体、精神、財産、信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を負っていると解される。そして、前記認定事実(2)(3)(5)(9)によれば、被告佐賀大学は、学生に対する安全教育の一環として、正体を隠し、あるいは情報開示が不十分な勧誘活動を行うカルト的団体からの勧誘や被害にあった場合や、そのような活動を行っている者を見かけた場合は、速やかに学生生活課に知らせることなどの注意喚起を行っており、前記認定事実(4)(6)(9)(10)(16)ないし(18)によれば、被告佐賀大学を含む多数の大学では、CARP及び統一協会をカルト的団体として把握していることが認められる。そして、前記認定事実(19)(20)によれば、被告Yは、原理教に関して、原告Aと深く話し合いたいとして、統一教会や合同結婚式を批判するなどの各発言に及んでいることが認められる。以上によれば、被告Yの本件発言は、被告佐賀大学の学生に対する安全教育の一環として、カルト的団体からの勧誘や被害にあった場合に関する相談として、客観的に職務執行の外形を備える行為であったと認めるのが相当である。したがって、本件各発言は、被告Yが『その職務を行うことについて』したものと認められる。」
(判決文16、17頁)

「被告Yは、(中略)、統一協会の教義を信仰することをやめないと言っている原告Aに対して、それを辞めるように、『犬猫の暮らし』、『犬猫の教え』などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いたものであって、原告Aの信仰の自由を侵害するものと評価するのが相当である」(判決文18頁)

「また、被告Yは、(中略)、などと統一協会の教義等に対する批判に留まらず、統一協会の教義を信仰している原告らを『犬猫の結婚』、『犬猫の生活』、『犬猫の暮らし』などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いたものであって、原告Aの名誉感情を侵害したものと評価するのが相当である」(判決文18頁)

「統一協会やその信者が、霊感商法等の社会問題を起こし、多数の民事事件及び刑事事件で当事者となり、その違法性や責任が認定された判決が多数あることは公知の事実であること、被告Yが特定の宗教の教義等について意見を述べることは信教の自由として許容されること、被告Yは、被告佐賀大学の教員として、大学における教育及びこれに密接に関連する生活関係において、学生の生命、身体、精神、財産、信教の自由等の件を守るべき安全配慮義務を負っていると解されることに鑑みると、被告Yが、統一協会の教義等について、適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは、社会的相当性を有する行為であ」る(判決21頁)


♤ 判決文のねじ曲げ  
 
 この「恣意的引用」を、彼は以下の10行に要約するとともに、コメントを綴っている。 彼の文は色字にした。

1)裁判所は、佐賀大学によるカルト対策の必要性、適法性を前提とした上で、被告Yが原告Aを呼び出して、統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体を問題にすることなく、あくまでも被告Yが「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことに違法性を認定している。判決は、被告Yの不適切さ(違法性)を認定し、その限度で国家賠償を認めたものに過ぎず、被告Yの発言内容が穏当(適法)なものであれば、被告Yが原告Aを呼び出して、統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体は適法行為であり、佐賀大学の責任が問題にされる余地はなかった。

→ 大学側に、学生の生命、身体、精神、財産、信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を認め、大学のカルト対策の必要性、適法性を正面から認めたものと評価出来る

→ 個々の教員が、統一協会の教義について、「適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べること」は社会的相当性を有する行為(適法行為)であると認めたものと評価出来る。


 前掲、勝訴の一報記事のコメント欄で、神々の黄昏さんが秀逸な批判を行なっていた。それを大いに参考にしながら、綴っていくことにする。神々の黄昏さん、投稿感謝です。
 山貴弁護士が誤魔化しの名手なのかは知らないが、判決文をねじ曲げて要約している。

その1・「佐賀大学によるカルト対策の必要性、適法性を前提とした上で」

 判決文にはこう書かれている。
 被告佐賀大学は学生に対する安全教育の一環あるいは情報開示が不十分な勧誘活動を行うカルト的団体からの勧誘や被害にあった場合や、そのような活動を行っている者を見かけた場合は,速やかに学生生活課に知らせることなどの注意喚起を行っており,被告佐賀大学を含む多数の大学では,CARP及び統一協会をカルト的団体と把握していることが認められる。

 (以上によれば)被告森の本件発言は,被告佐賀大学の学生に対する安全教育の一環として,カルト的団体からの勧誘や被害にあった場合に関する相談として,客観的に職務執行の外形を備える行為であったと認めるのが相当である。 したがって、本件各発言は、被告Yが『その職務を行うことについて』したものと認められる。

 このことからわかるように、裁判所はカルト対策の是非を論じたわけではなく、一般的なカルト対策が各大学で行なわれていることを事実として認めただけであり、カルト対策の必要性、適法性を検討したわけではない。
 上記の2つの段落の主たるテーマは、被告森発言は個人的なものか大学の職務の一環としてのものかどうか-である。
 そもそも、原告は佐賀大学のカルト対策の是非を訴えたわけではない。 原告の「訴状」に目を通していただきたい。
 それゆえ、そのことは裁判の争点になっていない。争点は次の7点である。 「佐賀判決文(1)」 で、確認してください。

(1)被告森の本件発言が「公権力の行使」に該当するか。
(2)被告森の本件発言によって,原告元学生の権利又は法律上保護される利益が侵害されたか。
(3)被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。
(4)本件発言の際,原告父及び原告母の権利又は法律上保護される利益を侵害することについて,被告森に,故意又は過失があったか。
(5)被告森の本件発言は,原告父及び原告母の権利又は法律上保護される利益を侵害したか。また,仮に侵害が認められ,違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。
(6)被告森の本件発言は,「事業の執行につき」なされたものか。
(7)被告森の本件発言について,被告佐賀大学は,その事業の監督について相当の注意をしたか。


 裁判所は、原告の訴えそれに対する被告の答弁、弁明を聞き、双方に争いのない事実(今回は21点)と争点の整理(同7点)を行なう。そして、双方が提出した証拠及び準備書面をもとに争点に対する裁判所の判断を示し、判決を下す。きわめて単純にして明快である。
 争点にないことをわざわざ裁判所が判断を示すことはない。(ただし、蛇足の判決文を書く判事もいるが。参考図書は井上薫の『司法のしゃべりすぎ』

 繰り返すが、今回の裁判で原告の訴えにない佐賀大学によるカルト対策の必要性や適法性は争点になっていない。
 それにもかかわらず、「裁判所は、佐賀大学によるカルト対策の必要性、適法性を前提とした上で」と判決文を要約するのは、判決文のねじ曲げである。 こうした行為は、弁護士の職務規定(弁護士倫理)に反する。


♤ 教義批判と棄教説得は別次元のこと!

その2・「被告Yが原告Aを呼び出して、統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体を(裁判所は)問題にすることなく、」

 山貴弁護士はほんとうに誤魔化しの名手というしかない。
 彼も引用している判決文にはこう書かれている。

統一協会の教義を信仰することをやめないと言っている原告元学生に対して,それをやめるように,「犬猫の暮らし」「犬猫の教え」などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いたものであって,原告元学生の信仰の自由を侵害するものと評価するのが相当である。 
統一協会の教義を信仰している原告らを「犬猫の結婚」「犬猫の生活」「犬猫の暮らし」などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いて,侮辱する発言をしており原告元学生の名誉感情を侵害したものと評価するのが相当である。

 裁判の争点となったのは、森准教授が統一教会をやめるように話したこと、そのための説得材料として「犬猫の結婚」発言(=稚拙な合同結婚式批判)をしたことにある。
 それにもかかわらず、上記2つの判決文を引用しておきながら、「統一協会の原告元学生信仰を辞めるように話したこと」(裁判の争点)と「統一協会の教義を批判する話をしたこと」(直接には裁判の争点になっていない)とを同次元のこととして並列にして、2つとも裁判所は問題にすることなく-とコメントしているのだ。
  違法行為と明記している判決文を引用しておきながら、「裁判所は問題にすることはなかった」とコメントする。
 こういう弁護士をなんと形容すればいいのかわからない。人生初めて出会った珍弁(ちんべん)である。

 今回の森発言は二重構造になっている。犬猫発言が強烈だけにそこだけに注目がいくが、一番重要なのは森准教授が「カープを辞めるように迫ったこと」にある。この構造についての説明は、神々の黄昏さんの言葉を借用する。
「棄教の強要が‘信仰の自由’に反する第一の違法行為であることは間違いなく、侮辱した発言による‘名誉感情の侵害’はさらに追加された第二の違法行為であるとも言えます」


♤ 違法行為と明記されているのに・・・

 次も同じである。
その3・統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体を問題にすることなく、あくまでも被告Yが「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことに違法性を認定している。

 やまたかさんは、やっぱり単なるバカなのかもしれないなあ  
 
 このことを理解できない人のために、あえて強調しておきたい。
 判決文で重要なのは、前述の二重構造でも述べたが、2つのことを裁いている-ということだ。
 山貴弁護士がコメントした通り、被告Yが「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことに違法性を認定したのは、その通りである。
 稚拙な合同結婚式批判=犬猫発言は、前掲判決文❷にある通り、原告の名誉感情を侵害したものとして違法行為として認定されている。
 しかし、山貴弁護士は判決文❶を全く無視している。 

 彼がたんなる阿呆弁でないとしたら、山貴ブログの読者に、今回の裁判は犬猫発言にみられる「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことの違法性だけが問題となっている、と印象づけたかったのかもしれない。
 もしそれにひっかかった読者がいたのなら、そいつはバカとしか言いようがない(文末に登場する御仁のように)。阿呆弁が引用した判決文に「信仰の自由を侵害するものと評価するのが相当」と明記されているのだから。

 なんだか、頭がおかしくなりそうだッ 
 そういえば、神々の黄昏さんは、「この記事内容をブログにアップしてしまった経緯には相当な時間的制約があったか、頭が薬物か睡眠不足でもうろうとしていたとかの理由を考えなければ到底説明できないほどの信じられない矛盾した発言です」と感想を述べていたなぁ。

 次に進む。
その4・ 「判決は、被告Yの不適切さ(違法性)を認定し、その限度で国家賠償を認めたものに過ぎず、被告Yの発言内容が穏当(適法)なものであれば、被告Yが原告Aを呼び出して、統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体は適法行為であり、佐賀大学の責任が問題にされる余地はなかった。」

 同じことの繰り返しになるので省略するが、森准教授の違法性の第一は犬猫発言ではなく、大学の教員が学生にカープを辞めるように話したことにある。前回の判決文4の森先生と学生のやりとりを再読してもらいたい。
「教授会で言ってるさ,みんな。はは(笑)そういう変な宗教から抜け出すように学生指導してくれと。」 
 森先生は学生にカープをやめさせたいと考え、その説得材料として合同結婚式のことを犬猫結婚として批判した。
 森氏は「職務を執行」したのであり、それゆえ裁判所は国家賠償法を適用したのである。

 やめさせるためのトークが穏当なものであれば適法、穏当でなければ違法-ということではないのだ。

 
何度同じことを繰り返さなければならないのか、本当に変になりそうだッ。
 どうして、山貴弁護士が判決文を素直に読むことができないのか不思議でならない。
(直接会って聞いてみたい。とりあえずは彼のブログにこの記事のことを知らせることにする。返事があればいいのだが)

 そもそもの話。山貴弁護士も引用している判決文には次のように書かれている。
 (大学は)大学における教育及びこれに密接に関連する生活関係において,学生の生命,身体,精神,財産,信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を負っている。
 守られるべき「信教の自由の権利」とは、先の侵略戦争の経験から、信仰を持っていることで差別されたり棄教を迫られたりしない権利のことを言っている。 これは確定している解釈(憲法レベル)である。 

 
♤ 反カルトが死守しなければならないこと

その5・
「統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと(略)自体は適法行為」  

 今回の佐賀大学の代理人は山貴弁護士、渡辺博弁護士、平山泰士郎弁護士、小山一朗弁護士、久保内浩嗣弁護士の5人である。
 この中で優秀なのは、渡辺博弁護士と同じ田村町総合法律事務所に所属する久保内浩嗣弁護士だそうだ。
 久保内先生が山貴弁護士のブログを読んだら、唖然呆然、卒倒するだろう。いや他の弁護士とて、いやいや法律に門外漢の一般の人とて判決のねじ曲げと思うのだから・・・。
 なにしろ、原告元学生に「辞める」ように話したのは原告元学生の信仰の自由を侵害するものという判決文を引用し、それへのコメントで統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと(略)自体は適法行為とするのだから。

 しかしながら、ここからが興味深い話になっていくのだが、山貴弁護士ばかりか久保内弁護士たちも、「大学の教員が学生にカープを辞めるように話すのは適法」とされなければならないと考えているはずだ。その理由を説明する。
 「全国カルト対策大学ネットワーク」をクリックすればわかるが、162の大学がこのネットに参加している。関わりの強弱は様々だろうが。
 次いで、「全国カルト対策大学ネットワークのご案内」をクリックしてもらえば、会の趣旨として「② ネットワークは、カルト対策を講じるにあたって学生の信教の自由を尊重します」と明記している。
「信教の自由を尊重する」とは具体的には、大学側が学生に学生が所属する宗教団体をやめなさい-といった法に触れるような対策活動は行なわないということだろう。実にまともということか、あたりまえの趣旨である。 (あとで再考する)

 ところがである。このネットワークの発起人の一人に山口貴士弁護士が名を連ねている。彼は前述したように、「統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと(略)自体は適法行為」と確信している。これは学生の信教の自由を尊重するというネットワークの趣旨と真っ向から対立する考え方だ。
 絶対的な矛盾である。山貴弁護士だけが趣旨に反した考えを抱いているのか。


♤ すべての道はローマに通ず

 ネットワークの発起人がどういう人物なのか見てみよう。
内野悌司(広島大学准教授)   
川島堅二(恵泉女学園大学教授) 
久保内浩嗣(田村町総合法律事務所・弁護士)
櫻井義秀(北海道大学大学院教授)
滝本太郎(横浜弁護士会・弁護士)
西田公昭(立正大学教授) 
平野 学 (慶応大学講師)
松田和憲(関東学院大学教授)  
山口貴士(リンク総合法律事務所・弁護士)
大和谷厚(大阪大学大学院教授) 

 知らない人もいるが、拉致監禁(保護説得)問題との絡みで、人物素描しておく。
 川島賢二、滝本太郎、平野学は拉致監禁黙認派。櫻井義秀、西田公昭は容認派、大和谷淳は積極的容認派
 一体、この人たちはどういう人なのか。大学のカルト対策ではリーダー的存在である大和谷氏のことについて書いた記事を読めば、だいたいのことは理解できよう。
【当該記事】「大阪大学のゲーペーウーは誰か!<注1> 」




 つまり、ネットワークの発起人たちの表の顔は「信教の自由を守るというやさしいお婆さん」、本当の正体は「脱会を迫る狼」ということなのである。より多くの大学にネットに参加してもらうには「学生の信教の自由を尊重します」と趣旨説明するしかなかった。正体を隠して勧誘を行なう団体よりもはるかに陰険で、狡猾であろう。
 
 なお、佐賀大学の代理人の一人、渡辺博弁護士は拉致監禁の実践派である。「渡辺博弁護士への懲戒請求書」 を参照のこと。

 話を元に戻せば、複数の大学のカルト対策の基本は、“カルト”からの脱会を迫ることが職務の一つとなっている。それゆえに、発起人たちをはじめとするカープ狩りの狩人教官たちは「統一協会の信仰を辞めるように話すことは適法行為」としてもらいたいと、今回の裁判で願っていた。その希望を、山貴弁護士は判決文をねじ曲げて書いているのであろう。  正直といえば正直だ。


♤ 争点にない蛇足判決 

 さて、彼はねじ曲げた判決の要約文をもとに次のように判決を評価する。

→ 大学側に、学生の生命、身体、精神、財産、信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を認め、大学のカルト対策の必要性、適法性を正面から認めたものと評価出来る。

 山貴ちゃんはノーテンキでいいなあ
 大学側に、学生の生命、身体、精神、財産、信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務があるのを認めたことはその通りだが、それをもってして、どうして大学のカルト対策の必要性、適法性を正面から認めた判決と評価出来るのか。まるで手品弁護士と揶揄したいが、すでに詳述したので、これ以上はやめる。
 それにしても、も~ぉ、頭くらくら。佐賀大学もいい弁護士を雇ったもんだ 

 次は、議論になる評価だと思う。
→ 個々の教員が、統一協会の教義について、「適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べること」は社会的相当性を有する行為(適法行為)であると認めたものと評価出来る。

 これは、ねじ曲げではない。判決文にこう書かれているからだ。
学生の生命、身体、精神、財産、信教の自由等の件を守るべき安全配慮義務を負っていると解されることに鑑みると、被告Yが、統一協会の教義等について、適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは、社会的相当性を有する行為

 しかし、この判決部分は間違っている。その理由を以下に論述する。  
 
 この部分は、争点3に対する裁判所の判断の中で示されている。「判決文3」で全体の構成を確認していただきたい。
 では、裁判所は争点3をどのように整理していたか。再び「判決文1」である。

3 争点及び争点についての当事者の主張

(3)被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。
(原告元学生の主張)
 被告森の本件発言により,原告元学生の信仰の自由及び名誉感情が著しく侵害された。
(被告らの主張)
 損害賠償責任における違法性判断は,当該発言が発せられるに至った経緯,発言の趣旨・内容,程度,発言がなされた際の客観的な状況等を総合的に考慮して決せられるところ,本件では,原告元学生は被告森と一対ーで談笑しながら会話をしており,原告元学生は,被告森の発言が不愉快であるならば容易に退出することもできるにもかかわらず被告森との会話を意図的に引き延ばした上で,秘密裏に録音しているのであるから,金銭賠償をもって補わなければならないほどの強度の違法性はない。

 これを読めばわかる通り、統一協会の教義等について適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べる-ことの正否は、争点になっていないのだ!
 その意味で蛇足判決文であり、しかもその蛇足は失当である。

私は法律や裁判のことに詳しいわけではありません。いわゆるカルト団体などから名誉棄損で提訴され、裁判を体験したときに得た知識程度しかありません。間違いがあれば遠慮なく指摘してください。


 なぜ、蛇足なのか。
 争点3に対する裁判所の判断を引用すると長文になるので、「判決文3」を見ながら説明したい。
 判断は(1)/(2)アイウエオ/(3)から成り立っているが、(1)と(2)はまさに争点に対する判断そのものである。
 ところが、「さらに」で始まる(3)は蛇足である。蛇足の中でも問題となる蛇足は下線で示した。

(引用はじめ)
(3)さらに,統一協会やその信者が,霊感商法等の社会問題を起こし,多数の民事事件及び刑事事件で当事者となり,その違法性や責任が認定された判決が多数あることは公知の事実であること,被告森が特定の宗教の教義等について意見を述べることは信教の自由として許容されること,被告森は,被告佐賀大学の教員として,大学における教育及びこれに密接に関連する生活関係において,学生の生命,身体,精神,財産,信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を負っていると解されることなどに鑑みると,被告森が,統一協会の教義等について,適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは社会相当性を有する行為であり,また,前記のとおり,被告森は,本件発言の際,原告元学生の自由意思を尊重する発言もしていることが認められる。
(引用終わり)
 
 原告・被告ともに、争点3での主張で、「教義批判することは信教の自由として許容されない・許容される」とか「教義批判を適切な表現を用いる限りにおいて意見を述べることの社会相当性について」とかは、一切述べていないのである。
 それゆえ、蛇足なのだ。


♤ 教義批判は違法行為

 では、なぜこの蛇足文は失当なのか。
 一読すれば、実に読みやすい。また、何の疑問も抱かれないような、というより説得力あるように思えるだろう。
 しかし、よくよく読むと、実に荒っぽい。
 チャート式よろしく、この一文を分解してみることにする。

統一協会やその信者が,霊感商法等の社会問題を起こし,多数の民事事件及び刑事事件で当事者となり,その違法性や責任が認定された判決が多数あることは公知の事実であること,
被告森が特定の宗教の教義等について意見を述べることは信教の自由として許容されること,
被告森は,被告佐賀大学の教員として,大学における教育及びこれに密接に関連する生活関係において,学生の生命,身体,精神,財産,信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を負っていると解されること,
などに鑑みると,被告森が,統一協会の教義等について,適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは社会相当性を有する行為 (略)

 読みやすいのは起承転結の体裁を整えているからであろう。
 ①それゆえ②、ところで③、以上のことから総じて言えることは④-という論理展開である。

 判決文の間違いは、「社会問題」(行為)と「教義」(教え)との関係について考えようとせず、ある宗教団体が社会問題を引き起こしたのはその団体の教えに問題があるからだ、とアプリオリ(先験的、先天的)に認識、端から思い込んでいることにある。
 なぜ、これが間違いか。わかりやすい例をあげる。
 執拗な勧誘でしばしば暴力事件を起こしている冨士大石寺顕正会(顕正会)。顕正会の教義は日蓮の教えであり、今でもそうだと思うが、バイブルは日蓮の『御書』である。
 大学の先生が顕正会の学生メンバーに教義批判を行なう。どんな批判か。日蓮の『御書』批判である。でも、暴力事件で警察に摘発されることなど恐れずに勧誘しろ-といった御言葉があるわけじゃあないのに。
 実際こんなことがあったのなら、滑稽な構図である。

 このことからわかるように、教えと行為とは必ずしも一致しないのである。

 したがって、学生の生命,身体,精神,財産,信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を負っている大学の教員は、一般学生が宗教団体に属している学生(仮に宗教学生)から被害を受けないようにするためには、宗教学生にその団体の教義批判ではなく、社会問題を引き起こしている諸事件の具体例を示し、「このようなことはしないように」と説教すればいい。それだけのことである。

 裁判所の誤りは、さして検討することなく、「社会問題」(行為)と「教義」(教え)を同一次元のこととして捉えてしまったことにある。
 信者の宗教的活動はすべて教義をもとにしたものではなく、そのときどきの団体のリーダーのときに恣意的な、教義に反するような方針に基づく場合が少なくない。行為のすべては教義(新訳聖書)に基づくという「エホバの証人」は例外中の例外であろう(もっともこの団体とて教義解釈はアメリカのリーダーがときどき変更しているが)。
 裁判官たちは、こうしたことが理解できていないのだ。

 教えと行為を原因と結果の関係でとらえてしまうと、爆笑問題が発生する。
 あるカープ学生が一般学生に因縁トークを使って印鑑販売した。(カープよ、怒るな、例えばだよ)
 一般学生からの被害届けをもとに、大学の先生がカープ学生に一週間にわたって教義批判をする。
 最初の3日間:『原理講論』批判。
 次の2日間:統一原理批判。
 最後の2日間:統一思想批判。
 

 学生の安全配慮義務を果たすために、教義批判を行なうことなど、実効的には何の意味もないのである。

 このようなわけで、前述した判決文で②と④の「教義」は、「特定の宗教の社会的に認められない問題点」とすべきであった。先の判決文をそのように置き換えれば、何の問題もない。

 そもそも、大学の教員がある教えを信じる学生に、その教え(教義)を批判するのは、信教の自由の侵害である。

 なぜか、具体的に考えてみよう。
 カープ学生の親戚、知人、友人などが教義批判するのは自由であるし、何の問題もない。拘束なしの自由な環境下で反統一の牧師が教義批判するのも、これまた問題はない。

 ところが、大学の教員と学生の場合は、力関係が圧倒的に違うのである。2人の関係だけに限っていえば、大学・教員は権力者なのである。このことを裁判所は見落としている。
 教員は学生に単位付与の権限を持っているし、学生が進学、就職を希望する大学院や就職先への推薦状を書く・書かないかは自由である。教員の裁量権はまだあるだろう。恣意的であっても合法的な権限を使うことによって、当該学生が不利な状態に置かれることがあり得るのだ。 
 
 実際、教員の教義批判にどんなに信教の自由を侵害されていると学生が感じても、公然とは反論できないのである。
 前回記事のコメント欄に投稿された黒い羊さんの一文(タイトルは「人生イロエロ」)を引用しておく。 
「准がつくとはいえ教授。一介の学生では、『おまい、キモいわ』などと、面と向かって抗議出来る訳もなく、提訴に踏み切ったという勇気は本当に賞賛に値します」
 この勇気には、両親が教会員であり、娘の提訴に主体的に関わろうとしたことが支えになっている。娘が原告と同じようにいじめられていた、どこかの一世さんも見習ったらどうか。
 なお、大学、教員がいかに権力者であり、その権力を行使しているのかは、室生忠氏の『大学の宗教迫害』で具体的に詳述されている。
 

♤ 教義批判が違法ではない場合がある!

 ただしである。
 その宗教団体の社会的問題点と密接に繋がる教義はこの限りではない。
 オウムの無差別大量殺人事件に繋がるヴァジラヤーナの教えは批判されるべきだし(すでに、後継教団はこの教えを公式に破棄したと発表)、エホバの証人の輸血拒否の教えもそうであろう。
 統一教会の民事事件、刑事事件の原因になっているのは高額エンドレス献金。それに繋がる教えは「万物復帰」論であろう。それを批判するのは社会的相当性がある。高額エンドレス献金を具体的実践的に補強している韓国への贖罪論も然りである。
 しかし、それ以外の教義批判は違法行為である。

 もう一つ問題点を指摘しておきたい。
 再度、先の判決文に立ち戻る。この一文の出発点は①統一協会やその信者が,霊感商法等の社会問題を起こし,多数の民事事件及び刑事事件で当事者となり,その違法性や責任が認定された判決が多数あることは公知の事実であること」だった。

 なるほど、だがしかし--
 原告は統一教会ではなくカープに所属する学生である。
「統一原理を教育理念として活動する団体」とうたっているカープ(World CARP JAPAN)は、統一教会直属の学生サークル組織という色彩が濃いが、別法人である。統一教会の各教会には学生部があるが、そこには加わっていない。
 むろん、統一教会と違う別団体ではないのだが、ともかく「イコール」ではない。
(従来にない組織形態になっているため、既成の組織論では説明がつかない。便宜上、統一教会を親組織、カープを子組織と呼ぶ)

「霊感商法等の社会問題を起こし,多数の民事事件及び刑事事件で当事者」
となったのは親組織であって、子組織ではない。子組織が事件の当事者になったことは一度もないはずだし、カープ(原理研究会)が社会問題となったのは今から40年以上も前の「親泣かせの原理運動」として批判されていた時代のことである。なお、批判の結果、大学を中退して原理運動に身を投じる学生はいなくなった。
 親組織には批判されるべき社会的問題はあるが、子組織にはない。
「正体を隠して勧誘」といった問題が指摘されるが、民事事件になったことがないため、その詳細は定かではない。また、「正体を隠して勧誘」という行為はそれ自体単独で、違法行為と認定されたことはないと記憶する。(日弁連もそのような見解を示したことはない)
 四の五の書いても、ここで子組織の問題点に言及することにはさほどの意味をもたない。なぜなら、今回の判決文はカープの問題点に触れていないからだ。
 唯一あるのは、別の文脈で書かれている「情報開示が不十分な勧誘活動」。ただし、この表現は裁判所の判断ではなく、佐賀大学当局の主張として紹介されているだけだ。 先の争点整理でも、カープの社会的問題点は俎上にのぼっていない。

 結局のところ、私が問題にしている判決文を検討していけばいくほど、説得力に欠けるオカシナ判決文ということがわかってくる。
 もしこの判決文が通用するとすれば、カープ学生ではなく、統一教会の学生部に所属する教会員学生だと思う。

 オカシナところはまだある。
 前掲の①②③を認めたとしても、④の具体(教義=合同結婚式批判)を考えれば④(教義批判は合法)は絶対に認めることはできない。
 ややこしい表現になって申し訳ないが、簡単に言えば判決文によれば「統一教会は社会問題を引き起こしている」それゆえ「統一教会の教義の一つ、合同結婚式批判するのは社会的相当性がある」ということになってしまうのだ。過去の霊感商法と合同結婚式とは何か関係があるとでも言うのか!あっち向いてホイ、ナンジャラホイだ。
 犬猫結婚ゆえに霊感商法事件が起きたわけではないのだ。
 
 なぜ、判決文にこんなオカシナ一文が加わったのか。
 察するに、被告代理人から馬に食わせるほどの霊感商法関連の資料、また民事事件の膨大な判決文が提出され、裁判官たちはそれに圧倒され(ないし無視するわけにはいかんだろうと)、さしたる研究・検討することなく、俗耳に入りやすい判決文を書いたということではないのか。 

総括 イワシの頭に神が宿るとかどんなに荒唐無稽と思われようが、教義は信者にとっては一つの価値であり、それを信じるのは憲法で保証されている。クリスチャンがイエス・キリストは死者を蘇らせたというオカルト話を信じる自由も、である。
 したがって、大学&教員が学生に、学生が信じる宗教団体の教義を批判するのは社会的相当性から逸脱しているのである。それゆえ、当該判決文は失当なのである。



♤  負けるな、佐賀大学代理人たち

 山貴先生のコメントはまだあった。ボヤキみたいなコメントだ。

2)国家賠償は、「客観的に職務執行の外形を備える行為」について認められる。本判決は、あくまでも、「客観的に職務執行の外形を備える行為であったと認めるのが相当」と認定しているものであり、問題となった被告Yの言動が「被告佐賀大学の学生に対する安全教育の一環として、カルト的団体からの勧誘や被害にあった場合に関する相談」に該当すると認定したものではない

 そうかなぁ~
 準備書面、証拠は読んでいないが、一般学生から苦情があったからではないのか。
 もしそうでなければ、森先生に下心があって、原告の女子大生を呼びつけてネチネチしたということになる。
 であったら、抽象的にではなくそのことを理由にして、森発言は「大学の職務でなかった」と主張できたはずだ。

3)国家賠償法1条1項が適用された以上、裁判所としては、被告Yの行為の違法性を認めた場合には、佐賀大学に損害賠償を命じ、被告Y個人に対する損害賠償請求を否定する判決を書くしかない(使用者責任とは違い、佐賀大学に免責の余地なし)。

 その通り!

4)大学の業務の実態を踏まえれば、国家賠償法ではなく、民法上の使用者責任の枠組みで判断されるべき事案ではないか(私見)

 佐賀大学の代理人は、弁護士の職務として、山貴私見を高裁判決に取り入れられるようにすべきではないのか。
 どのようにして?実に簡単なことである。主張の論理はこうだ。
(1)佐賀大学は戦前・戦中・戦後一貫して信教の自由を尊重してきた。最近のカルト対策にあたっても、教員職員に「学生にやめるように話すことは断じてやってはならない」と、日頃から口うるさく指導してきた。
(2)しかるに、大学の指導に反し、森准教授は原告学生に「やめる」ように話した。
(3)これは、「職務遂行の外形」を備えていたとしても、職務の遂行から大きく逸脱し、到底「職務の遂行」と言えるものではない。事実、佐賀大学は地裁判決のあと、森准教授を懲戒処分にした。 (していないはずだが)
(4)こうした大学の業務の実態を踏まえれば、国家賠償法ではなく、民法上の使用者責任の枠組みで判断されるべき事案である。

 佐賀大学とその代理人たちがこう堂々と述べれば、傍聴席は拍手喝采間違いなしだ。
 そして、観客席は次の佐賀大学と森准教授のバトルの幕開けを待つ。

(これにて山口貴士弁護士の判決評価への批評はおしまい)

 
(追記) ところで、おバカな弁護士のレクチャーを真に受けて、カルト新聞の田中清史(エイト)敏腕記者が「“佐賀大学事件”で大学のカルト対策の正当性を認める画期的判決―佐賀地裁」という秀逸な記事を書いていらっしゃるのだが、涙が出るほどあまりにもすばらしく、コメントするのが憚られるので省~略 


(激しいボヤキ)佐賀地裁の判決に関しては、「緊急ニュース-カープ狩りの佐賀大学敗訴!」 を書いて終わりのつもりだった。それが優秀な弁護士さんが秀逸な判決の評価コメントをするものだから、判決文を全文紹介したうえで、それへの反論コメントを書かざるを得なくなってしまった。時間を取られることこの上もなし。10本近くある予定稿のアップが遅くなり、陳腐化しかねなくなっている
 判決を評価するのは自由だが、その場合、最低限のモラルとして、つまみ食い的ではなく判決文全文を載せたうえで評価すべきだろう。
 判決文全文が新聞や『判例時報』あるいはネット上に掲載されていれば別だが、そうでないと読者は山貴弁護士の論評を鵜呑みにするしかない。判決の批評を書きたいのなら、判決文を最初にアップしてから行なうというのがフェアというもんだ。
  先生がお手本を示せば、お弟子さんも判決文を載せた上で論評・解説するような癖がつく。
 どうか前向きにご検討を!!
 

 不思議でならないこと


 それは、森氏の犬猫発言を知っても、ブログを開設している食口、元食口がさほどに怒っていないことだ。怒ってはいるのだが、それをブログで表現することができないというブロガーもいるだろう。
 しかし、私たち一般社会の人にとってどうでもいいような内容のブログを、人生最大の生き甲斐とばかりに毎日、更新しているブロガーもいる。1日3回も更新しているブログフェチだっている。
 それなのに、犬猫発言については書こうとしない。
 人気ランキング上位のいつも隣さん、教育部長さん、パシセラさん、gildong さん、ちゃぬ さん:・・・。自分のことが批判されるとキャンキャン吠える人も。
 あなた方夫婦の結婚は犬猫結婚だ!-と、居酒屋での酔っぱらいではなく、国立大学の先生から痛罵されたというのに。義憤を感じることはないのだろうか。
 要するに、自分のこととして捉えてみるという想像力が欠落しているのだ。それに加え、カープ学生のことであれ、隣の人のことには関心がないということなのであろう。
 もしかしたら、統一さんも反統一さんも、統一教会特有の上から目線で、真実を知らない大学の教員がバカなことを言ってるな-という感覚なのだろうか。

 それは、統一教会が大っ嫌いになった元食口夫婦とて同じである。教会をやめていようが元食口夫婦は森先生によれば犬猫カップルであり、その子どもたちは犬猫の子だ。
「与えられて,まあようするに犬猫がメスが来るとパッと来るのと同じゃん。男が与えられて,セックスして,はい子供ができてとそれと同じやん。何ら愛情もないのに。そこに何の愛情もないやろうもん,だって。それでセックスするんやぞ。どうあんた,それ,好きかどうかもわからない男に抱かれて,子供産んで,どう。」

 反統一教会の立場に転じた元食口にとっても侮辱発言のはず。しかし、知らん顔。
 統一教会に打撃を与えることだったら何だって大歓迎。その逆はノーウェルカム。このような白か黒か体質のせいで、自分たち家族が侮辱されたとは思えないのかもしれない。だとすれば、元も感受性が喪失したままになっているということなのかもしれない。統一対反統一というベクトルを棚上げして、是々非々で考えることができないもんか。
  そうそう。唯一コメントしていた反統一元食口がいた。一言、「犬猫発言されたくらいで、裁判するなんて変」 だった

 もう一つ不思議なことがある。
 山口貴士弁護士の判決コメントに対する反論を、食口諸君が誰一人として書かないことである。
 どうして、統一教会批判派の私が時間を割いて書かなければならないのか。
 まあ、隣の人に関心がない「神サンだけが命」の人たちのことだ。愚痴っても、ないものねだりということだろうけど。




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コメント

山口貴士ブログへのコメント

 記事で予告した通り、山口貴士弁護士のブログに、次のコメントを送りました。

(引用はじめ)

Comments

 山口さんの<大学におけるカルト対策の正当性と必要性を認めた佐賀大学事件判決>について、私の火の粉ブログで批判しました。

 記事に間違いなどがあれば、ご連絡ください。修正ないし削除いたしますので。
 よろしくお願いいたします。 

Posted by: 米本 | May 31, 2014 at 11:17 AM

(引用終わり)

そうは思いませんが

「…信仰することをやめないと言っている原告元学生に対して、それをやめるように、‥‥などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いたものであって,原告元学生の信仰の自由を侵害するものと評価するのが相当である。」の判決を解釈するに際して、「それをやめるように」という説得行為Aと、「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」という行為Bの2つの行為として考えた場合、この判決をA and B ⇒ 信仰の自由を侵害するものと評価(C) とするか、A or B ⇒ C とするかで大きく変わります。

ここで「それをやめるように」の文章からは、目的を表すための句と捉えるのが自然だと思われ、そうであるならば、論理学的には、A and B ⇒ Cとなるのではないでしょうか。
ならば、この判決は、これら2つの行為が重なって(一体として)信仰の自由を侵害するものと評価しているのであって、やめるように説得すること自体については何ら評価していないのではないでしょうか。
また論理学的には、A and B ⇒ C の対偶 notA or notB ⇒ notC も 成り立つので、「配慮を欠いた不適切な表現をしなければ問題ない」との反カルトサイドの主張のほうが理にかなっています。

さらに、争点(3)(被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。)の判決においては、「被告森の本件発言は,配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いるなどして,原告元学生の信仰の自由を侵害し,また,同人を侮辱するものである。」となっており、ここでは「やめるように」に関する表現は用いられていません。すなわち、配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いることが問題の中心であり、このことが信仰の自由を侵害し、また同人を侮辱したと捉えられます。

以上のことから、普通に読めば、不適切な表現を繰り返し用いたことが問題の中心であり、蛇足判決だと米本さんが指摘した「適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは社会相当性を有する行為」は蛇足でもなんでもなく、「それをやめるように、適切な表現を用いて批判的な意見を述べる」ことは、信仰の自由を侵害しないことを示唆しているものと思います。

不思議でならないこと

犬猫発言に関して、相手にしていないと言うところですね。

世間の統一教会批判発言は数多いので、一つ一つに反応しないと言うところでしょうか。

地方駅弁の准教授の発言にたいして影響力があるとも思えません。

論理的演習

細かいことで失礼しますが、リオスさんのコメント中の:
>また論理学的には、A and B ⇒ C の対偶 notA or notB ⇒ notC も 成り立つので、、「配慮を欠いた不適切な表現をしなければ問題ない」との反カルトサイドの主張のほうが理にかなっています。


それは「対偶」ではなく、「裏」だと思います。
ある命題が正しいとき、その「対偶」は常に真になりますが、「裏」や「逆」は真だとは限りません。

「論理的思考法―逆と裏と対偶」
http://ronri2.web.fc2.com/hanron04.html
はじめて見たページですが、わかりやすい。
(みなさまへ)

論理的演習

暗在様

ご指摘ありがとうございます。
対偶は、notC ⇒ notA or notB でしたね。
すなわち、信仰の自由を侵害しないと評価⇒それをやめるように説得しない、もしくは配慮を欠いた不適切な表現しないのいずれか ということで、やはり反カルトサイドのほうが理にかなっていることのなるのではないでしょうか。

苦笑

>「それをやめるように」という説得行為Aと、「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」という行為Bの2つの行為として考えた場合、この判決をA and B ⇒ 信仰の自由を侵害するものと評価(C) とするか、A or B ⇒ C とするかで大きく変わります。

ここで「それをやめるように」の文章からは、目的を表すための句と捉えるのが自然だと思われ、そうであるならば、論理学的には、A and B ⇒ Cとなるのではないでしょうか。


疑問①
 <「それをやめるように」の文章からは、目的を表すための句と捉えるのが自然だと思われ、>だとするならば、「それをやめるように」は‘行為’として成り立っておらず、「説得行為A」として完結した一行為として表すのはおかしい。
「A and B」で初めて、説得行為A’となるのであって、あくまでもA’=Cである。
 また、Bは「配慮を欠いた不適切な表現」をしたことではなく、「不適切な表現を繰り返し用いた」ことであって、似たようでありながら行為内容としては決して同じではない。
 何で、こんな中学生でもわかることを理解できないのか?

疑問②
 <「それをやめるように、適切な表現を用いて批判的な意見を述べる」ことは、信仰の自由を侵害しないことを示唆しているものと思います。>
 その行為が「それをやめるように」という目的のもとになされた行為であるならば、「信仰の自由を侵害」する行為となるのは必然である。
日本国憲法、第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
同、第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
が何故理解できないのか?

 元信者の春さんの言葉を借りれば「あ~、腹がよじれて、腸ねん転!」

論理的演習2

昨夜は、ブログ記事本文をまだ読んでいなかったのに、先ずコメント欄だけ見て「対偶」に反射的に反応してコメントしましたが、
本日 記事本文を読みました。

わたしとしては、
「信仰することをやめないと言っている原告Aに対して、それを辞めるように」発言したこと⇒ 信仰の自由を侵害するものと評価するのが相当。
「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」こと ⇒ 原告の名誉感情を侵害したものと評価するのが相当。
という解釈をどちらかというと支持したい、そういう世の中になってほしい、たとえば会社の上司などに仕事の遂行には何の影響もない自分の思想信条について、それをやめるように言われるとしたら暗澹たる気分になりますから。

つまりリオスさんの分け方でいくと、A or B ⇒ C、(Aも違法、Bも違法)の方になりますが、論理学的に対偶を考えてみるのも一興でしょう。

A and B ⇒ C (AとBが同時に起これば違法)の対偶は、
notC ⇒ notA or notB ですが、この意味は「違法ではないと評価 ⇒ それをやめるように説得しない、または配慮を欠いた不適切な表現しないのどちらの場合も成り立つ」、つまり独立してどちらも成り立つものでなければならないというものだと思います。
notC ⇒ notA と notC ⇒ notB がそれぞれ成り立つ(同時にではない)わけです。わかりにくいですが。
つまり、山貴弁護士の解釈のように「被告Yの発言内容が穏当(適法)なものであれば、統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと(略)自体は適法行為である」とするなら(=notBの方)、もう一つの方(notA)の、
「被告Yがその信仰を辞めるように言わなければ、配慮を欠いた不適切な表現をしたこと自体は適法行為である」というのも正しくなければならないのです。
論理的にはどちらか一つだけ取る謂れはない、片方だけでは不均衡・不公平です。
辞めろとさえ言わなければ、辞めさせようとしなければ、配慮を欠いた不適切な表現をしても適法だ、ってどうですか。ついに無制限の表現の自由が得られた、地上天国が来た、キタコレ遅れてきた基元節かっ・・・って違うのではないでしょうか。
そういう解釈以前に「違法(配慮を欠いた不適切)な表現をしても適法だ」というような内部矛盾があって文として成り立たない気がしますが。つまりこの対偶(と命題)は無理がある(真ではない)のではないでしょうか。

かたや、
A or B ⇒ C、(Aも違法、Bも違法)の方の対偶は、notC ⇒ notA and notB 「違法ではないと評価 ⇒ それをやめさせようとせず、配慮を欠いた不適切な表現もしない」となり、これ一本で問題なく、この対偶は真だと思います。対偶が真なら元の命題も真です。
いかがでしょうか。

前コメントへの追加

前のコメントに追加いたします。
○「それをやめるように」=目的
○「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」=手段
という日本語を狐目弁護士脳の方々は理解できないようです。
また、
○信仰をやめるように説得する行為
 =信仰の自由を侵害する行為
 =憲法違反
○配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いて,侮辱する発言をしたこと
 =名誉感情の侵害
という極めて基本的な法律の解釈もできないのではないでしょうか。
 もう一度、米本さんが書かれた本文をよ~く読んでから、もし理解できなかったら義務教育の国語を一から勉強し直して、その後 また‘火の粉を払え’をよ~く読んでから投稿された方がよろしいのではないでしょうか。
 本文を理解できずに頓珍漢な批判をするのは失礼だと思います。

暗在様、
考察を展開して下さってありがとうございます。
『信仰を辞めるように言わなければ、配慮を欠いた不適切な表現をしたこと自体は適法行為である」というのも正しくなければならないのです。論理的にはどちらか一つだけ取る謂れはない、片方だけでは不均衡・不公平です。辞めろとさえ言わなければ、辞めさせようとしなければ、配慮を欠いた不適切な表現をしても適法だ、ってどうですか。』

もちろん適法ではなく侮辱罪等には繋がるでしょう。しかしここでの論点は、信仰の自由を侵害するか否かであり、やめさせることを目的とした説得でなければ、信仰の自由を侵害することには繋がらないと思います。

神々の黄昏様
『「それをやめるように」という目的のもとになされた行為であるならば、「信仰の自由を侵害」する行為となるのは必然である。』と捉えられての様々の疑問、反論を書かれているようですが、これに関しての考えが違うようです。
「それをやめるように」という目的のもとになされた行為であっても、あくまで本人の自由意志を尊重することを前提に、(判決文を引用すれば)適切な表現を用いて批判的な意見を述べることは社会相当性を有する行為であり、信仰の自由を侵害しないのではないでしょうか。

本判決もやり方(手段)が適切でないことが問題であり、前投稿で引用した争点(3)(被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。)の判決においても、「被告森の本件発言は,配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いるなどして,原告元学生の信仰の自由を侵害し,また,同人を侮辱するものである。」として、「不適切な表現を繰り返し用いる」ことが違法性の主要因として記載されていますよ。

よく理解できないのですが・・・。

 いやぁ、暑かったですねえ。もっとも松江は29度だったので、それほどでもなかったのですが。それでも、夕方、大橋川の川沿いで涼んできましたが。


 ところで、いま、ざっとコメント欄を読ませていただきましたが、一読しただけでは到底理解できませんでした。とりわけ、論理学。

 ところで、判決文の文章は難解です。それは精緻な“論理学的論理”で構成されているからではなく、一文がきわめて長いからです。今回のは比較的まともなほうですが、ひどいのになると、主語と述語の間に5000字以上もあるとか。
 もう一つは、法律専門用語が使われていること。(このことは今回は棚あげして)

 そのような悪文にせよ、判決文は裁判の当事者(一般には平均的な市民)が論理学、数学の対偶に関するテキストを読み、論理学的思考を駆使しなければならないほど難解なのものでは決してありません。(論理は法的論理のみ)
 
 それで、論理学はスルーさせていただいて(ごめんね、今回の判決文を読解するために、対偶のあれこれをメモしてこの場合はこうとか、時間を使う必要はないと思うので)、リオスさんに質問です。

 リオスさんは、判決文を読み、米本の解釈は間違っている、佐賀地裁は「これこれこのような判断を示した」のだと思われています。

 どのような判断を示したと考えられたのか、それを端的に教えてください。そうしていただけたら、再考することができます。

 りオスさんの最後のタイトルなしのコメントによれば、

 裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。
 ということでよろしいでしょうか。ほかにはどんなことが?

 ご指摘、よろしくお願いいたします。

米本さんへ

『裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。
 ということでよろしいでしょうか』。

そのように解釈しています。

端的に言えば、その根拠は先に引用した下記内容です。

4 争点(3)(被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。)について
(1)前記3のとおり,被告森の本件発言は,配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いるなどして,原告元学生の信仰の自由を侵害し,また,同人を侮辱するものである。

ここでは、「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いる」ことが、信仰の自由を侵害する主な要因として記載されています。

さらに判決文では諸事情が記載され、「被告森の本件発言の社会相当性逸脱の程度を過大視することはできず,また,本件発言によって被告元学生が被った精神的苦痛は,さほど大きいものとはいえない」と裁判所は結論付けています。
そして、この諸事情の中に、「…被告森が特定の宗教の教義等について意見を述べることは信教の自由として許容されること,……,被告森が,統一協会の教義等について,適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは社会相当性を有する行為であり,…」と書かれています。逆に言えば、これは、今回問題となった話会い、すなわち原告への脱会説得を目的とした話し合いにおいて、適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べるにとどまっていたなら、なんら問題なかったと判断している内容です。

おかしいですよ。

米本さんの質問によってリオスさんの意見があらかたわかりましたが、前後のやり取りで、論理矛盾してますよ。脱会説得が目的かどうかについての部分で。正反対の主張をされています。

山口貴士弁護士が、裁判所は脱会説得を争点にしなかった(故に違法でないと認定された?)、あくまで、不適切な表現をしたことが名誉棄損に当たると判断したと主張したかったのだと読みました。文脈から明らかにaは合法でbは違法だと言い切っています。

しかし、「佐賀大学の責任が問題にされる余地はなかった。 」というのは真っ赤なウソでしょう。賠償命令が出ているのだから。ほんとに弁護士かな(苦笑)いや、不適切な表現に対しての賠償命令だったと言いたかったのかな、あくまで、信教の自由の侵害を認めた上ではなく。

宗教問題に対する無知

>したがって、学生の生命,身体,精神,財産,信教の自由等の権利を守るべき安全配慮義務を負っている大学の教員は、一般学生が宗教団体に属している学生(仮に宗教学生)から被害を受けないようにするためには、宗教学生にその団体の教義批判ではなく、社会問題を引き起こしている諸事件の具体例を示し、「このようなことはしないように」と説教すればいい。それだけのことである。


 佐賀判決文の中で米本さんが‘蛇足判決’とされた「被告Yが、統一協会の教義等について、適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは、社会的相当性を有する行為」との記述内容に対する解説は非常にわかり易く、よく整理してくださっている上、重要なポイントを再認識させてくださいます。

 米本さんが「教えと行為とは必ずしも一致しないのである。」と例をあげて説明された‘教義’と‘宗教団体の行為’の流動的な関係は 宗教問題に詳しくない人々は簡単に見逃してしまうところです。
 それを整理して教えてくださった米本さんはさすがに‘にわか宗教問題記者’とは違ったプロフェッショナルジャーナリストだと実感します。
 いくら「被告代理人から馬に食わせるほどの霊感商法関連の資料、また民事事件の膨大な判決文が提出され」たとは言え、「さしたる研究・検討することなく、俗耳に入りやすい判決文を書いた」としか思われないのは、やはり「狭い法曹界の中だけで生きているエリート裁判官たち」は宗教問題に対する観点も薄っぺらなものでしかないのかと考えるしかありません。

 その‘教義批判’に関しては確かに米本さんが指摘された通り、それを始めたら ほとんどの宗教の教義には非科学的な内容が含まれており、キリスト教の例以外においても、お釈迦様が生まれた直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」としゃべったなどと、非科学的だと批判されても仕方がない内容が信仰されているのであって、やはり宗教に対する‘教義批判’は‘公的機関での指導’の中では相応しくないことになります。

 米本さんが指摘された通り、学生が違法な経済活動に関わっている可能性が認識されたならば、そのような違法行為は行わないよう指導することは‘社会的相当性を有する’のであり、学内において教官が生活指導の中で‘教義批判’することは‘信仰の自由’を侵害する行為と同様のものになってしまいます。
 そのように考えれば、「統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと」は当然として「統一協会の教義を批判する話をしたこと自体」も決して適法行為ではなくなってしまうことになります。
 その米本さんの説明は理に適っており、多分国際的な人権感覚と一致していると思われます。
 なにしろ、米国では進化論を学校教育の場で教えることが反キリスト教という観点で裁判沙汰になるぐらいですから、大学内における個人指導として行う直接的な‘教義批判’などは国際的人権感覚からすれば、明らかに‘信仰の自由’を侵害する行為と考えねばならなくなります。

 そのような問題を裁判官が理解できなかったのは、一つにはやはり‘教義’と‘宗教団体の行為’の流動的な関係を裁判官がよく研究・検討しなかったからであり、宗教問題に無知だったことになります。
 自分も教官が純粋に、客観的に教義批判することは適法行為であるかのように思いましたが、確かに米本さんの書かれた通り、教官が学生を生活指導する場において その持っている信仰の教義批判を行うことは「信仰の自由」を侵害することになるのだと思います。
 宗教社会学、比較宗教学等の学問において研究することは肯定されても、大学の教官によってなされるその宗教教義に主観的価値判断が加えられた‘教義批判’はたとえ「表現が適切なもので」あっても人権問題に関わってくるという理解が正しいと考えられます。

 また米本さんは「その宗教団体の社会的問題点と密接に繋がる教義はこの限りではない。」と書かれましたが、オウム真理教による事件を考えれば、それは間違いないことだと思われます。
 ただ、一言付け加えさせていただきますと、統一教会の「万物復帰」論、韓国への贖罪論は文先生の「御言葉」を根拠にしたものですが、論理的に思考するならば、統一原理の根本理論と決して一致するものではなく、むしろ完全に矛盾した考えだと思っています。

 私は統一教会入教当時、統一原理を真理として受け入れましたが、初めて「万物復帰」論を聞かされた時は、違和感があり、理論的に統一原理に沿った考えでないことは否定のしようもなかったのです。
 ただ、組織活動を維持するためには資金が必要であるのは当然ですし、単なる資金調達の隠語のようなものとしてしか「万物復帰」論を考えておりませんでした。

 それは当然であり、原理講論においても統一思想要網においても 万物(金銭等)は神が人間に付与した創造性による経済的創造活動の産物と捉えているからです。
 ある意味では創造性を付与された人間がその創造性を発揮して‘無’から生み出したものであり、神が一方的に人間に与えたものではないのです。
 つまり、その万物(金銭等)はその創造活動を行った者の所有物であり、別にどこからか奪ってきたものではないのです。

 従って、「万物」(金銭等)に対して「復帰」などという言葉を用いる場合は、泥棒された場合でもなければ言葉として適切ではなく、資金調達するのに「万物復帰」と称するのは「統一原理」と矛盾した用語使用をすることであり、統一教会の悪い習性の典型だと思っていました。
 つまり、「万物復帰」論は統一原理を基本的な教義とするならば、‘インチキ教義言葉’以外の何ものでもないのです。
 「韓国への贖罪論」も同様であり、文先生の「御言葉」の中には発見されても、統一原理の中にそれを発見することはできないのです。

 そのように考えても、米本さんが書かれた通り、統一教会を問題視する場合においても 教義批判は意味をなさないことになります。
 ただし、統一原理ではなく文先生の「御言葉」を教義とするならば、「ちゃぬの裏韓国日記」ブログの過去記事を見れば明らかなように批判されて当然なのは確かです。
 しかし、それは見方によっては教祖である文先生が統一原理を無視して、それと異なった宗教活動を行っていたことになり、非常に複雑な問題が生じてきます。
 統一教会が特に経済問題において違法行為を犯してきたのは間違いない訳でありますから、その「御言葉」教義を信仰することには大きな問題があると言えます。

 しかし、米本さんが書かれたように、CARP組織の場合は必ずしも統一教会組織の問題が当てはまらず、やはり現実的に如何なる違法行為を行ってきたかという観点から大学はCARP所属学生を指導せねばならないことになります。
 統一原理の基本的教義そのものは「万物復帰論」や「韓国への贖罪論」を持ち合わせていない訳ですから、やはり、教官による教義批判は意味をなさず、‘信仰の自由’の侵害以外の何ものでもないことになります。

 統一教会が特に‘エンドレス高額献金’において問題を抱えた団体であるのは間違いありませんが、それを批判する勢力が‘元知ったかコメンテーター’や‘狐目弁護士’のような知性に問題を抱えた人物が中心となっていることを考えると、なかなか理想的な形で宗教の問題が解決されるのは難しいように思います。
 やはり、多くの人々が米本さんの記事に目を通すべきだと思います。

自由と自治

人権侵害と、言論の自由、自由と自治など、線引きを明確にすべき問題について、僕なりの意見は、実はリオスさんに近いと思います。ただ、具体的な場面を想定せずして、相互担保できないものだと思います。
大学では、自治が重んじられているため、その敷地内では、その法人としての、権利を主張できるもの、逆に、公的機関として、学生の権利を守る義務が課せられるものとがあると思います。サークル活動等において、風紀を乱すあるいは、校風に合わないものを認めないケースもあれば、敷地外で一般的には指導しないようなことに対して監督責任を負うこともあるでしょう。警察官だに無許可でははいらないと聞きます。カルト対策問題もデリケートな問題の一つではないかと思います。原研に入ったら留年も中退も当たり前という時代もありましたから。ここで、大学は、自治において、学生が、学業や活動上に支障なく、成長できる環境を整えようとします。宗教団体が過激な活動や詐欺行為をするならばそれも障壁となり得ます。しかし、自由や、人権において、これが脅かされてはなりません。そこで、
①どのような場所で
②どのような方法で
③どのような表現を使ったのか
④また、頻度において、人権侵害に当たると言えるものかなど、
具体的に考えなければいけないものだと思います。
例えば、ある宗教や、ネットビジネス、悪質なアルバイトに入ったことで、ねずみ講の被害や、落第者の増加があったことに対し、注意喚起は問題なくできるでしょう。ただ、布教活動の妨害や、執拗な取り調べ等を行うならば、憲法で保障される人権侵害に当たると思います。カルト対策の時間を設け、学生全員を集めたうえで、個別の宗教団体や個人を名指しし、指導したならば、侵害に当たるでしょうが、名指しせず、被害と認められる根拠等を述べ、注意喚起するのは許されるかと。不特定多数の前で個人が特定される場面を設定したり、あるいは、サークル活動や、友人、知人の前で注意をしたり、教授間で学生個人の情報を共有するのはアウトでしょう(プライバシーの侵害)。また、個人との会話において、その文末が、「辞めたほうがいいと思う(意見や方針の伝達:侵害にならない)」という表現は、表現の自由としての範囲内ですが、「辞めなさい」とか「辞める指導をするように決まっている(命令、指導:侵害になる)」はアウトでしょう(米本さんのおっしゃったような強制力が生じる力を大学関係者は持っているため)。もし、そうでないとしても、回数や程度において、著しい不快感を与えると認めるにふさわしい程度に及ぶなら、表現の自由の範囲を逸脱しているとみるべきだと思います。
何事も「穏当である」程度を逸脱しなければ言論の自由として担保されなければいけませんが、何しろ、主観的問題ですから、判断の難しい要素を含んでいるでしょう。尚、蛇足ですが、報道機関や情報誌が情報操作やねつ造をする自由はありません(作家の創作物とは違います)。弁護士が嘘をつくのもいけないと思います。

ネットワーク存亡の危機

このたびのブログは力作ですね。
法律論で、なかなか読むのに苦労しましたが、山貴弁護士がなぜに、かくもヘンテコリンな解釈をしたのか、その背景がよ~く分かりました。

<カープ狩りの狩人教官たちは「統一協会の信仰を辞めるように話すことは適法行為」としてもらいたいと、今回の裁判で願っていた。その希望を、山貴弁護士は判決文をねじ曲げて書いているのであろう>

左翼か何か知りませんが、活動家魂がそうさせたのでしょうね。
これまで自分たちが、大学界に構築してきた魔女狩りシステムが崩壊するのを恐れたのでしょう。
方便の「信仰の自由を守ります」が、裁判で嘘だと見抜かれたとなると、一大事ですからね。

国際会議、法廷、マスコミ、大学…。
次々と自分たちの足場(反統一ネットワーク)が崩れていく~~~。
化けの皮もはがれそうだーーー。

山貴、頑張れ。
反統一教(宮村教)の存亡は君にかかっているぞ。

追記

本文において、特に納得できないのは下記箇所です。
「その3・統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体を問題にすることなく、あくまでも被告Yが「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことに違法性を認定している。
‥‥
このことを理解できない人のために、あえて強調しておきたい。
判決文で重要なのは、前述の二重構造でも述べたが、2つのことを裁いている-ということだ。
山貴弁護士がコメントした通り、被告Yが「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことに違法性を認定したのは、その通りである。
稚拙な合同結婚式批判=犬猫発言は、前掲判決文❷にある通り、原告の名誉感情を侵害したものとして違法行為として認定されている。
しかし、山貴弁護士は判決文❶を全く無視している。」


判決文❶は、信仰の自由に関するものであり、❷は名誉感情に関するもので全くジャンルが異なりもので、普通に読んでいても分けて考えると思います。ましてや弁護士が混乱するわけがないでしょうし、わざとこんな分かりきったことをあえてしないと思います。

この2つの判決は、争点(2)(被告森の本件発言によって,原告元学生の権利又は法律上保護される利益が侵害されたか。)についての判決、すなわち、違法性があるのかないのかを述べているものです。
❶の信仰の自由に関しての判決に限って言うならば、その判決文「‥‥‥などと,統一協会の教義を信仰することをやめないと言っている原告元学生に対して,それをやめるように,「犬猫の暮らし」「犬猫の教え」などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いたものであって,原告元学生の信仰の自由を侵害するものと評価するのが相当である。」の中で、「‥ものであって」の前の長い状況等の説明全てを受けて違法だと判断しています。文章が長いので先の投稿では、2つの内容に分けて論理学的に述べたのですがよけいに混乱させてしまったようで申し訳ありません。(戦ってるね様、「正反対の主張をされています」と解釈されたのは、暗在さんとの論理学的展開の中で、1つの仮説命題を述べただけで、意見ではありません)
この判決は、この長い文章で述べられている今回の状況に関して違法だと言っているのであり、書かれている要素をピックアップしての判断はしていないのではないでしょうか。(「信仰することをやめないと言っている原告元学生に対して,それをやめるようにする行為」を限定して違法だとも、「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた行為」を限定して違法だとも判断していません。)
繰り返しますが、この判決文は今回のケースが単に違法であるか否かだけを述べています。

その違法性の程度については、争点(3)(被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。)で述べられており、ここでの内容から、前回投稿でも述べたように「裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。」と考えるものであり、某弁護士も『「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことに違法性を認定している。』と判断したと思われますが、いかがでしょうか。

リオスさんの誤読です(1)

 何度も読み返して、リオスさんの意見がようやく理解できました。誤読の理由は、一部を全体から切り離して論理展開されているからです。色字は判決文。

【争点整理】
(1)被告森の本件発言が「公権力の行使」に該当するか。
(2)被告森の本件発言によって,原告元学生の権利又は法律上保護される利益が侵害されたか。
(3)被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。
(4)本件発言の際,原告父及び原告母の権利又は法律上保護される利益を侵害することについて,被告森に,故意又は過失があったか。
(5)被告森の本件発言は,原告父及び原告母の権利又は法律上保護される利益を侵害したか。また,仮に侵害が認められ,違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。
(6)被告森の本件発言は,「事業の執行につき」なされたものか。
(7)被告森の本件発言について,被告佐賀大学は,その事業の監督について相当の注意をしたか。

 ここで争点整理の構造を説明すればもっと判決文全体の意味が理解できると思いますが、リオスさんの主張への批判から外れてしまうので、省略します。


 ただし、(2)と(3)の関係は明確にしておくべきだと思います。(3)は(2)が違法行為だった場合、違法性の程度はどのようなものかを争点にしています。これは損害論と関係します。あとでもう一度、触れますが、ここでは違法性とか社会的相当性は争点整理のテーマとなっていないことに注意すべきです。


 では、(2)で整理された両者の主張はどうなっているか。
(原告元学生の主張)
被告森の本件発言は,統一協会の教義及び教義に基づく合同結婚式を批判・否定するなどし,合同結婚式により婚姻した原告元学生の両親を聞くに堪えない言葉で侮辱した上,統一協会からの脱会を強要したものであり,これにより原告元学生の信仰の自由及び名誉感情が侵害された。 これに対して、被告側は
(被告らの主張)
被告森の本件発言は,原告ら自身の精神活動に直接に向けられたものではなく,その帰依する宗教団体又は信仰の対象に向けられており,これによりいわば間接的に自己の信仰生活の平穏が害されたに過ぎず,その不利益は,法的救済の対象とはなり得ない。

被告らは脱会の強要について、主張していない。主張がなければ、結果として被告の主張を認めたということになるが、そこまでは判決文から読み取ることができないし、そう結論づけてはならないだろう。
 はっきりしているのは、裁判所は原告の脱会を強要されたという主張を取り入れ、そのことについての被告らの主張は載せていないということである。

 何度も繰り返して紹介するのは、いささか面倒になるのだが、これに対する裁判所の判断は、次の通りである。

(元学生の信仰の自由侵害についての訴え)
統一協会の教義を信仰することをやめないと言っている原告元学生に対して,それをやめるように,「犬猫の暮らし」「犬猫の教え」などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いたものであって,原告元学生の信仰の自由を侵害するものと評価するのが相当である。
(元学生の名誉感情の侵害についての訴え)
統一協会の教義を信仰している原告らを「犬猫の結婚」「犬猫の生活」「犬猫の暮らし」などと配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いて,侮辱する発言をしており原告元学生の名誉感情を侵害したものと評価するのが相当である。

「不適切な表現の繰り返し」を問題視しているのは共通しているが、前者と後者の大きな違いは「信仰することをやめないと言っている原告元学生に対して,それをやめるように」という文言の有無である。
 そして、それによって、前者の訴えは「信仰の自由の侵害」、後者は「名誉感情の侵害」として、どちらも違法行為と認定したのである。
 これ以上でも以下でもありません。

リオスさんの誤読です(2)

 リオスさんは次のように書いています。

(引用はじめ)
この判決は、この長い文章で述べられている今回の状況に関して違法だと言っているのであり、書かれている要素をピックアップしての判断はしていないのではないでしょうか。(「信仰することをやめないと言っている原告元学生に対して,それをやめるようにする行為」を限定して違法だとも、「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた行為」を限定して違法だとも判断していません。)

(引用終わり)

 その通りです。
 ですが、ピックアップ傾向にあるのは後述するけど、当のリオスさんですよ。
 
 裁判所は訴えに基づいて判断するわけで、訴えから離れて、こうだった場合はこう判断するとか、こんな場合ならこう-とかなんて(限定条件付き)、判決文では書きません。事案の演習問題をやっているわけではありませんから。
 あえて厭味を言っておけば、対偶とか逆は真ならずなんてことを考えて判決文を書くわけではないのです。

 元学生の訴え(訴状)を再録します。リオスさん再読してください。http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-334.html

(引用はじめ)

2 不法行為

 被告森は,平成24年2月ころ,当時被告佐賀大3年在学中の原告■■■を自己の研究室に呼び出し,これを受けて原告■■■は同年2月10日に同被告の研究室を訪れた。 <注2>
 すると,被告森は,統一教会の教義を一方的に批判し,原告■■■の信仰を軽蔑・侮辱する発言を繰り返しながら「原理教なんてやめるべき」などと申し向け,CARP及び統一教会からの脱会を執拗に勧め,原告の信仰の自由を侵害した。

 また,被告森は原告■■■のみならず原告■ ■■・■■ら家族の信仰についても言及し,同原告らが統一教会の合同結婚式を通じて結婚したことが「おかしい結婚」,「動物の世界」,「犬猫の結婚」であり,夫婦生活は「強姦するのと同じ」であって,原告ら家族の生活は「犬猫の暮し」であるなどと蔑み原告ら家族を侮辱した。

(引用終わり)

 これに対して、前掲の判断を示したわけです。これ以上でも以下でもない。

リオスさんの誤読です(3)

 書かれている要素をピックアップして結論づけたのは、私ではなく、山口貴士弁護士です。

 そえゆえ、やめさせるためのトークが穏当なものであれば適法、穏当でなければ違法-ということではないのだ-と書いたのです。

 そして、リオスさんもそう。

(引用はじめ)
裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。ということでよろしいでしょうか』。

そのように解釈しています。

(引用終わり)

リオスさんの誤読です(4)

 私は、「穏当であっても脱会を働きかけるのは違法行為である」とは、山貴コメント批判のところ(判決文解釈論)では述べていませんが、記事後段で書いているように違法行為、憲法違反だと考えています。

 国家(国立大学=佐賀大学、国家賠償法が適用される対象)が国民(学生)に特定の宗教団体からの脱会を勧めるのは、神々の黄昏さんが引用されている憲法に違反します。

再びリオスさんのコメント
裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。

 リオスさんはあまりにもワン・センテンスを分析、ピックアップし、論理学的に思考した結果、憲法を忘れたしまったのでしょう。

【法学・演習問題】
 仮の話だが、佐賀大学及び森准教授が「穏当な表現で学生に脱会を働きかけていれば、違法行為ではなかったはず」と訴えた場合、模範判決はどのようなものになるのか。

リオスさんの誤読です(5)

 山貴弁護士は、
「統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体を問題にすることなく、あくまでも被告Yが『配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた』ことに違法性を認定している」
 とコメントしています。

 彼が引用した判決文を読めば、そのように誤解釈する読者もいると思います。

 判決文のどの部分を山貴氏は引用したのか。煩雑でしょうが、チェックしてみてください。

最初の引用文(争点1に対する判断のところ)
2番目・3番目の引用文(争点2に対する判断のところ)
最後の引用文(争点3に対する判断のところ)

 争点が異なっている判断部分を、並列に引用すれば、前述したような山貴コメントはもっともだと思う読者も出てくるでしょう。
 それゆえ、「恣意的引用」だと批判し、判決文のコメントを書くのなら、判決文全文を紹介してからにすべきと苦言したのです。

 山貴氏は悪意から争点2と3の判決文を並列し、読者が誤解釈するように誘導した。
 リオスさんは、それに乗っかって、判決文を熟読されたはずなのに、山貴コメントを真に受けている。

(リオスさん、引用はじめ)
その違法性の程度については、争点(3)(被告森の本件発言が原告元学生との関係で,仮に違法であるとした場合,違法性の程度はどのようなものか。)で述べられており、ここでの内容から、前回投稿でも述べたように「裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。」と考えるものであり某弁護士も『「配慮を欠いた不適切な表現を繰り返し用いた」ことに違法性を認定している。』と判断したと思われますが、いかがでしょうか。
(引用はじめ)

 
 リオスさんが引用した判決文は、記事でも書いた通り、蛇足なのです。後述しますが、その前に。
 リオスさんはよほどの分析好きのようですが、山貴さんの癖が移ったのか、判決のねじ曲げ解釈をしています。

「被告森が,統一協会の教義等について,適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは社会相当性を有する行為 (略)」(判決文)
「裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。」と考える(リオスさん)

 教義批判と脱会説得行為とはまるで違いますよ。このことはブログ記事で明記したはずです!(「教義批判と棄教説得は別次元のこと!」のタイトルのところなど)
 ひょっとして、師匠の影響を受け、悪意あるねじ曲げ???

 でなければ、真面目に反省を。

リオスさんの誤読です(6)

 本題に戻します。

 争点3は、「誤読です(1)」で書いた通り、違法性の程度についての判断を示すところです。違法性の内容ではありません。内容は争点2ではっきりと判断が示されていますから。

 争点3に対するそれぞれの主張と裁判所の判断をチェックしてみてください。

 裁判所の判断はこうです。
(1)森発言は侮辱発言である。
(2)しかしながら、アないしエの事情に鑑みると,本件発言によって被告元学生が被った精神的苦痛は,さほど大きいものとはいえない。

 その結果、損害額は低い額となりました。
 損害論はこれで終わりです。過不足なく論じられている。

 理解していただくために、争点3の原告被告の主張を引用しておきます。

(原告元学生の主張)
 被告森の本件発言により,原告元学生の信仰の自由及び名誉感情が著しく侵害された。
(被告らの主張)
 損害賠償責任における違法性判断は,当該発言が発せられるに至った経緯,発言の趣旨・内容,程度,発言がなされた際の客観的な状況等を総合的に考慮して決せられるところ,本件では,原告元学生は被告森と一対ーで談笑しながら会話をしており,原告元学生は,被告森の発言が不愉快であるならば容易に退出することもできるにもかかわらず被告森との会話を意図的に引き延ばした上で,秘密裏に録音しているのであるから,金銭賠償をもって補わなければならないほどの強度の違法性はない。


「被告森が,統一協会の教義等について,適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べることは社会相当性を有する行為 (略)」か否かなんて、原告被告ともに、主張していないのです。

 社会的相当性を有していないから損害の程度は大きい(原告)、社会相当性を有する行為だから、損害は発生していない(被告)とか述べていないのです。

 それゆえ、蛇足文なのです。付言すれば、「適切な表現を用いる限りにおいて」と、争点にまるでないことを持ち出すのは、法学ゼミの演習か、と言わざるを得ませんね。

 記事で書いた通り、馬に食わせるほどの統一教会の違法認定資料を時系列関係なく出してきた佐賀大学代理人に対するリップサービスでしょうね。

 なお、これまた記事で書いた通り、国が国民に特定の宗教団体の教義を批判するのは、違法行為(憲法違反の可能性もあるのでは)です。神々の黄昏さんが気付いてくれて幸いでした。

(追記1)これから6日まではパソコンを開きません。時間をずいぶん割かれました。リオスさん、何かあれば論理学的に精緻でなくていいから、分かりやすく書いてくださいね。
(追記2)目が疲れたので読み直しはしません。テニヲハなどの間違いがあれば、ご寛恕ください。オ~シマイ

山貴をかばう必要なし

しつこいようですが、山貴の「統一協会の信仰を辞めるように話をしたこと、統一協会の教義を批判する話をしたこと自体を問題にすることなく」

信教の自由の侵害を争点にした裁判でありえない話です。これが、後付の理屈で正当化されるとしたら、そのような理論を屁理屈と言います。騙しているという他に言いようがありません。この部分を除いて、いったい何が裁けると言うのでしょうか?もし、その人が、仮に意見が似てる人であったとしても、このような人を(たとえ弁護士であってもなくても)僕は信用しません。

>国家(国立大学=佐賀大学、国家賠償法が適用される対象)が国民(学生)に特定の宗教団体からの脱会を勧めるのは、神々の黄昏さんが引用されている憲法に違反します。

そう、国立大学でしたね。米本さんが蛇足だと指摘した文章中の「批判」を「説得」に変えれば、犯罪の勧めになってしまいます。国家が憲法を無視するという…。大いに語るべきですね。

脱会を望んで話をしてしまう場面、十分起こり得ると思いますが、そう言えば、統一教会の信仰について大学の教授と話した時、当時、(私大でしたけれども)僕の権利にかかわることに立ち入ってまでの話を教授は避けました。教授も個人的な話にとどめるスタンスを貫いていたと思います。

反論

『ピックアップ傾向にあるのは後述するけど、当のリオスさんですよ。』

もともと、「(2)被告森の本件発言によって,原告元学生の権利又は法律上保護される利益が侵害されたか。」の判決を「棄教の強要が‘信仰の自由’に反する第一の違法行為であることは間違いなく、侮辱した発言による‘名誉感情の侵害’はさらに追加された第二の違法行為であるとも言えます」との分析的内容(神々の黄昏さんのコメント)を引用して話を展開されていたではないですか。
それならば、この2つの要因に分けて見るならば、そのぞれはand条件で結ばれるものと解釈すべき(すなわち優劣をつける類のものではなく、一体化した内容と見るべき)で、さもないと論理学的にはおかしくなりますよとのことを示すために論理学的考察をしたまでです。(棄教の強要が‘信仰の自由’に反する第一の違法行為とピックアップ的な都合のいい解釈がおかしいことを示すためです。)

『裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。

リオスさんはあまりにもワン・センテンスを分析、ピックアップし、論理学的に思考した結果、憲法を忘れたしまったのでしょう。』

目的は形がないもの、そのものが直接違法の有無には繋がりません。目的のもとでの行為が問題の対象となります。もちろん、特定の宗教団体からの脱会を勧めるのは、信仰の自由に抵触する懸念はあります。(脱会説得が目的かどうかは関係ありません。)
説得において、裁判所が示した「特定の宗教の教義等について意見を述べること」や「適切な表現を用いる限りにおいて批判的な意見を述べること」を行う限り(説得を目的としても、脱会を進めてはいないのですから)は社会相当性を有する行為であるということではないのですか。


『裁判所は、原告への脱会説得が目的であっても、被告の説得の表現が適切なものであれば、信仰の自由を侵害したとは判断していない。」と考える(リオスさん)

 教義批判と脱会説得行為とはまるで違いますよ。このことはブログ記事で明記したはずです!』

争点(3)の判決で「被告の説得の表現が適切なものであれば、」よしとしているではないですか。この場合の状況は当然「やめさせよう」との目的の下、すなわち脱会説得が目的ですよ。

『リオスさんが引用した判決文は、記事でも書いた通り、蛇足なのです。
 リオスさんはよほどの分析好きのようですが、山貴さんの癖が移ったのか、判決のねじ曲げ解釈をしています。』

都合の悪いところは蛇足ですか。
だったら、判定をねじ曲げているのではなく、蛇足部も判定通りとして素直に解釈したことにはならないのでしょうか。
争点になってないから蛇足だとしていますが、ここでは違法性の程度を判断すべき箇所であり、そのためには、判断基準が必要なのは当然です。信仰の自由をどの程度侵害したかを判断するために示さざるえなかった内容ではないでしょうか。この箇所がなければ判断できません。よって、蛇足として一蹴するほうが判決を捻じ曲げていることだと思いますが。

驚きのトンデモ見解

 久しぶりにパソコン開いたら、リオスさんの「反論」がありました。少々驚いた。
 反論投稿は3日の夜、今は6日の昼過ぎ。「追記反論」の投稿はなかったから、上記「反論」をリオスさんの最終的な「反論」と判断させていただきます。

 結論。私はかなり時間を割いて、リオスさんの誤読を指摘しました。それへの具体的な反論はなく、自分の見方を繰り返し書いているだけです。反省もない。私の指摘をきちんと読んだのかさえ、疑わしい。
 トートロジーに付き合うと、時間の無駄遣いになってしまうので、再反論はしません。どうかご勘弁を。

 一つだけ、新たな「トンデモ見解」が書かれていたので、それについてコメントしておきます。

>目的は形がないもの、そのものが直接違法の有無には繋がりません。目的のもとでの行為が問題の対象となります。

 思わず、目が点となりました。推測ではなく断定。ぶっ飛びましたねえ。

 なぜなら、裁判で重要視されるのは目的だからです。リオスさんはまるで逆のことを書いている。だから、ぶっ飛んだ。

 リオスさんに分かりやすく、次元が異なる3つの例をあげておきますね。
 もっともわかりやすいのは刑事事件でしょう。

(かなり具体的に書いたのだけど、なぜか不正コメントと見なされ、送信できず。そこでネットの記事を貼り付けることにしました)

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140320/waf14032019340026-n1.htm

 刑罰の軽重は、目的(●意)があるかどうかが最大のポイントとなります。

 もう一つは詐欺罪。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%90%E6%AC%BA%E7%BD%AA

 詐欺罪が成立するには、「行為者に行為時においてその故意及び不法領得の意思があったと認められること」です。つまり、騙す目的があったかどうかです。

 リオスさんの「(目的は)直接違法の有無には繋がらない」というのは、デタラメ、知ったかぶり見解です。


 12年監禁の後藤さんの控訴審が始まりましたが、争点となっているのは拉致監禁という行為があったかどうかということと同時に、脱会させる目的があったかどうかということです。これに対して、被告たちは「家族の話し合いだった」と繰り返し主張しています。(違法)行為と目的とは不可分の関係にあるからです。

 後藤さんの場合、監禁期間があまりにも長いので、被告らの「家族の話し合いが目的だった」の主張は1審では通用しませんでしたが、仮に監禁期間がもう少し短かった場合はどうだったか。原告は「拉致監禁が目的だった」ことを立証する(形で示す)のは相当な困難を要したはずです。
 ここでは今利裁判、アントール美津子裁判、富澤裁判、寺田裁判のことには触れませんが、ともかく行為の目的は、行為そのものと同じように、裁判では重視されます。


 3つ目の例です。
 リオスさんは、統一教会会長の徳野通達を読まれたことはないでしょうか。

当法人に対する民事裁判においては、このような行為が、目的・方法・結果において社会的相当性を逸脱する不法行為と認定され、当法人の使用者責任が問われてきました。

 統一教会が行為の目的にも触れざるを得なかったのは、山貴弁護士が所属する全国弁連の弁護士たちがこれまでの判決で勝ち取ってきたからです。
 献金集めを目的に、正体を隠しての勧誘などの伝道(方法、行為)をしたかどうか-が争われた。確か福岡高裁でだったと記憶するけど。

 このように違法行為の判断には目的が深く関わるのです。

 リオスさん、知ったかコメントを書きたかったら、どうか「元知ったかコメンテーターのブログ」にお願いします。
 3つばかり忠告しておきます。
 感想でなく、何かを論じる場合、それも他者を批判的に論じる場合、自分が正しいと思っている考えはひょっとして思い込みに過ぎないのではないかと内省しながら書いてください。視野を広げ、観念論的思考を棚上げして。
 2つ目。わかりやすく正確に書くこと。おそらく読み返して「うん、わかりやすいな。説得力あるな」と確信して、送信ボタンを押されたのでしょうが。実にわかりにくいですよ。
 もう1つ。反省されない限り、今後のリオスさんの投稿の信用性は確実に減退します。

(時間を取られて、嫌になる)

謎の弁護士界

リオスさん討論は終わりましたかね。
では、私の感想です。(それも迷惑なんだよという米本さんの心の声が聞こえるようですが無視させて頂いて)

やはり被告それぞれの立場での弁護士がいる佐賀大裁判の方がまだ正当的だし、真実が見えやすいと感じました。後藤裁判の場合被告双方の弁護士が連携しあって気持ち悪いし真実も見えづらい。全国弁連の弁護士個人個人の正義感があれば真実の探求も成り立つかもしれませんが期待できない面子です。
光市殺人事件の弁護士達への失望感に似たものがあり、もはやこういう方々を相手にするより所属する弁護士会のお偉方に指導して頂いた方がよいと思います。お子ちゃまの責任は親に取らせるしかありません。つくづく弁護士のあるべき姿って何か考えさせられました。

そういう弁護士の代表格として、、ブログが読みづらくて、比較して内容は難しいけど米本さんがいかに読者に読みやすく工夫して下さってるか感じた「弁護士山口貴士大いに語る」ですが、ブログ名から笑ってしまう。
ちやみに山貴さんのWikipediaがあったので読ませて頂くと慶応高校から大学に上がったらしいからお坊ちゃんなんでしょう。

東京弁護士会に所属、皆様ご存知の通りリンク総合法律事務所に在籍して、日本脱カルト協会理事。この人が理事なんだ。ハー。
日英バイリンガルならそれを生かし国際的基準で向かい動けばいいのに。
もろもろのしがらみでもっとスマートな弁護士に頼めなかった後藤兄さん側も不憫です。

NGO-AMIの理事であり、コミックマーケットのスタッフでもあるから表現規制、特に児童買春.児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律や青少年有害社会環境対策基本法案が同人界に及ぼす危機には凄い熱心に取り組んでいそうですね。
児童ポルノ法や東京都の青少年健全育成条例はしずかちゃんの水着シーンもどうかという馬鹿げた次元もあるようで熱心な賛成派反対派両方に引いてしまうけど、市民のプライバシー侵害を理由に児童ポルノの単純所持処罰化に反対し続けているなら信仰における市民のプライバシーも尊重しろと言いたくもなります。

人権はあまり考えないタイプなんだろうなと感じたしオタクイメージを良くはしないであろう見た目なので仲間の方々に同情してしまいました。とにかくリンク法律事務所の稼ぎ先内容には疑問を感じてしまうけど、同じ弁護士仲間から見て客観的にどう写っているのか知りたいなぁ。
あと東京都には、単位弁護士会として、東京弁護士会(弁護士7047名)のほか、第一東京弁護士会(弁護士4359名)・第二東京弁護士会(弁護士4491名)が存在し、所属する法律事務所が東京都内にある弁護士は、この3会のいずれか1つに所属する必要があるそうですが、東京都のみ地方裁判所管轄区と無関係に複数の弁護士会があるのは、会のあり方をめぐる考えの違いにより分裂したためとされているのがすごく興味をそそられ他の弁護士会の信仰上の拉致監禁についての意識の傾向が知りたいです。でも後藤さんの弁護士の福本さんは第二で宮村の弁護士山口広氏も第二だからあまり関係ないか。とにかく統一教会もだけど、弁護士界も謎だらけです。

最後の投稿とします。

「目的は形がないもの、そのものが直接違法の有無には繋がりません。目的のもとでの行為が問題の対象となります。」の表現に対して、3つ例を反証として挙げられていますが、
いずれも「目的のもとでの行為」を契機として問題になる(なった)ものばかりですけど。
問題になった事象に対して、目的や動機を考慮して違法性の程度(刑罰の軽重)や違法性の内容(何の罪にあたるか、あるいは違法性がないのか)を定めるのであって、目的そのものが直接、問題の起点にはなりません。(あたりまえじゃないでしょうか。殺意を持っていたとしても、何もしなければ何の違法性も問われません。)
米本さんとは冷静な議論は無理だと判断し、これを最後とします。

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