<再録>統一王朝と李氏朝鮮王朝 

統一教会考(48)

 この記事は4月16日にアップしたものである。なかなか学究的なテーマであり、コメント欄での議論も生産的であった。
 しかし、アップ2日後に「消えた200億円」の情報が入り、その直後にカープ女子学生が訴えた裁判での勝訴判決の報が届き、さらに被告佐賀大学の代理人のねじ曲がった判決評価のコメントを批判しなければならない破目になった。
 まあそんなこんなで、議論多き「統一王朝と李氏朝鮮王朝」記事が吹っ飛んでしまった。
 統一教会と儒教との関係は、現在の統一教会を知る上で、重要なテーマだと確信している。
 したがって、ここに再録し、さらなる意見を求める次第である。
 なお、私の注釈・感想を一つだけ追加した。(末尾の8)

 4、5日後には暗在翔子さんが抄訳してくれた『統一教会の儀式セックスによる血統転換』を紹介する。
 問題意識は「統一教会-儒教-シャーマニズム」の関係についてである。請う!ご期待。(6月7日記)

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は「イサン」の、22代国王である正祖(チョンジョ)の“成婚”式の場面。
は、2006年6月13日に行われた「天地人真の父母天正宮入宮戴冠式」の場面。まるで数百年前の李氏朝鮮王朝が亡霊のように現代に蘇った・・・。

-4月16日記-

  今回から後藤徹さんへのインタビュー記事を掲載していく予定だったが、前回のコメント欄に「神々の黄昏さん」が<権力構造の李氏朝鮮化の末路>と題した秀逸な論考を投稿して下さった。コメント欄に埋もれてしまうのはもったいないと考え、予定を変更してアップする次第である。

 私が統一教会に関わるようになったのは、周知の通り、拉致監禁問題に端を発するものだった。当初、統一教会そのものにはほとんど関心がなかったが、文鮮明氏没後の上層部の動きを知るにつれ、これまでの宗教とは異質で奇妙な団体と認識するようになっていった。
 といっても、明瞭な輪郭をもたない日本画の朦朧体ではないが、曖昧模糊としたものだった。なにしろ、比較できる宗教団体がないからである。

 そんなときに、後で登場していただくAさんから、韓国の宮廷ドラマ「イサン」(77話)を紹介していただき、さらに「朱蒙(チュモン)」のDVD(81話)をプレゼントしていただいた。 ストーリーも面白いのだが、それ以上に、統一教会とあまりにも似たところが多く、超長時間ドラマにもかかわらず、引き込まれてしまった。教えではなく組織の体質・構造が、である。

 今年の1月、後藤さんの勝訴判決後に、教団中央の幹部と立ち話をする機会があった。
 彼曰く。「うちのことを理解するには韓国の儒教のことを知らなければならない。最近、韓国のドラマをみて、そのことがつくづくわかったよ」

 こうした次第で、神々の黄昏さんの論考は、ぜひとも読まれるべきだと考えた次第である。今回アップするのは、コメント投稿文をもとに彼が書き直したものである。
 また、前出のAさんにはそれを読んでの感想を寄せていただいた。私も末尾にアットランダムな注釈、感想を盛り込んだ。  



神々の黄昏さんの論考


一教会の権力構造をめぐる動きは、韓国の儒教の影響を無視することはできない。極端に言えば、重臣たちの動きは、精誠などとは関係なく、自分の一族の発展を目的としたものである。すなわち、「誰につけば一族が発展するか」である」

この一文は前回の記事(深刻な王妃様の糖尿病)で私が書いたもの。

 統一教会の権力構造をめぐる出来事を米本さんが観察し(前回の記事)、それに対してなされる分析はとても新鮮であり、宗教的な観念に囚われない為、却って統一教会員が見落としているその核心部分を的確に捉えているように思われます。

 特に韓国人以外の統一教会員にとって理解するのが容易でないのは、統一教会の発祥の地である韓国統一教会の根底にある伝統的な儒教の影響です。

 その李氏朝鮮時代から脈打つ朝鮮型儒教の伝統精神はかなり根強いものであり、韓国の人々が理想を論ずる時には、必ずその儒教の伝統精神が頭をもたげてくるようです。

 既に四半世紀前にソウルにおいてオリンピックも開かれており、韓国の一般社会の人々の意識はより近代的な精神文化に近づいていると思われますが、朝鮮半島の人達が組織を作って理想を語り、思想活動を展開する場合はその朝鮮型儒教の影響は避けがたいようです。

 その典型こそが統一教会であり、さらに朝鮮民族として見れば北朝鮮の独裁国家体制がそれを物語っていると言えるでしょう。

 その典型的な二つの例には興味深い共通点があり、統一教会の原理講論に書かれた統一原理はキリスト教を発展させた形で誕生しており、キリスト教的な博愛主義を唱えたりしていますが、現実の組織体制は血統を中心とする絶対主義的な支配体制とも言えます。

 そして北朝鮮は共産主義を標榜していますが、その権力構造の実態は金王朝の独裁体制であり世襲的な一族支配を続けており、言うまでも無く共産主義とは別物です。

 統一教会の統一原理も北朝鮮の共産主義思想も、本来の思想そのものは“万民の平等”を認めていますが、朝鮮型儒教の影響は民族的体質として染み付いているようで、作られた組織体制の中で権力を握ってしまうと、その民族的性格が暴発してどうしても独裁的なものとなり、万民平等の民主主義的な体制を築く方向には権力者の精神が向かわないようです。

 教には人間関係の上下秩序のわきまえと区別がその基本としてあり、家族のように上下の構成が明瞭な人間関係においてはその矛盾が表れたりしないのですが、必ずしも上下関係ばかりではないのが発達した現代社会であり、その中で上下秩序の教えが中心の宗教思想をどこまでも貫き通そうとすると無理が生じ、世界的な浸透は困難であり、現代の宗教としては その中に多くの問題点があることを否定できません。

 つまり儒教においては五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の関係を明確にする必要があり、その関係を維持する為に五常(仁、義、礼、智、信)という徳性が必要であることを教えているのですから、そもそも“万民平等”が基本の現代社会の人間関係の全てに合致させようとすること自体に無理があるのです。

 それは、家族、あるいは管理上の上下関係が必要な会社組織の場合は適用しやすいのですが、より拡大した次元の一般社会での活用は差別に繋がる危険性さえあります。

 従って、進歩した現代社会において儒教思想に普遍性をもたせるのは難しく、博愛主義に反することも発生しかねない思想でもあるのです。

 また、儒教は発祥当事の中国の武力による覇道を孔子が批判するところから出発しており、支配者は徳によって天下を治めるべきであるという思想である為、必然的に儒教国家においては支配者はその地位にある資格を徳性に求めなければならなくなります。

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孔子像


 つまり、支配者は徳をもたねばならず、最高支配者であるならば最高の徳を備えていなければならず、その行いが常に正しい者でなければならないのです。

 の為、儒教の観点から支配者がその地位の正当性を主張する為には平民以上の特別な徳が備わっていることを人々に認めさせねばならず、たとえ自分に欠点があり、不徳な行為を行っていたとしても決してその過ちや罪を認めることはできず、嘘であっても自分の徳を人々に語り続けねばならないのです。

 さらに李氏朝鮮王朝時代に形成された両班を最高位とする身分制度は五百年以上に渡って朝鮮半島の人々を支配しており、朝鮮紀行(イザベラ・バード筆)においても その弊害の実態が記されていますが、両班がもつ意識はその儒教思想と相まってかなり独善的であったことがわかります。

 儒教思想によって上に立つ者は徳のある者でなければならないという考えがある為、何を行うにつけても自己正当化することになり、たとえ過ちを犯したとしても、その非を自分では決して認めないことにもなります。

 ウィキぺディアによれば、李氏朝鮮時代初期の両班は人口の約3%ぐらいだったそうですが、李氏朝鮮末期には地域によっては7割以上が戸籍上両班階級で、国民の相当多数が両班だったとのことで、現代の韓国人で、祖先が両班でないという人は珍しいそうです。

 某宗教団体の韓国人幹部に見られる見栄っ張りの性格や平気で嘘を突き通そうとする習性は、その両班の伝統に由来していると考えれば 全てが納得できます。

 総裁にも見られる「真の父母として誰からも崇められなければならず、自分がすることは絶対善であり、その意思は何よりも優先され、その行いに批判されるような間違いなどあるはずがない。」という発想は、間違いなく統一原理によるものではなく儒教思想と両班の伝統によるものです。

 その韓総裁や、さらには文先生にも色濃く影響している朝鮮型儒教思想と両班の民族的伝統は日本人にはなかなか理解しづらいものです。

 日本統一教会の開拓期において西川氏が伝道活動において目覚しい成果を上げることができたのは、純粋にキリスト教的な地上天国の実現を説いたからであり、現在の統一教会の内部で語られているような‘真の父母様に絶対服従する’儒教的な宗教思想が受け入れられた訳ではなかったのです。

 統一教会の初期において伝道された多くの日本の若者達が統一教会に心を惹かれるようになったのは そのキリスト教的な理想の実現運動と画期的な原理に接したからであり、儒教的な秩序社会の実現を目指す思想に共感したからではなかったのです。

 その西川氏から始められた伝道活動が成功したのは、疑いようもなく‘神の愛を中心として人類はすべて兄弟姉妹である’という博愛精神の故であり、その理想主義的な宗教思想が日本の若者達の心をとらえたのでした。

 その初期の日本統一教会の組織的性格が現在の統一教会と隔絶しているのは西川氏の証言〔「救い」の正体(別冊宝島編集部)〕によっても明らかです。

 現在の統一教会の韓国を中心とした権力構造の醜い実態は、日本の初期に語られていた理想主義的な統一原理の理念に魅力を感じていた者達からすれば 統一教会とは別世界ではないか考えてしまうぐらい違和感があるものなのです。

 西川氏は二歳から日本で育ったことが‘「救い」の正体’の中に書かれており、韓国本部から出される方針に反対していたこともその中に書かれていますが、考え方によっては初期の日本統一教会は韓国統一教会にある李氏朝鮮のような儒教的伝統と違ったところから出発したとも捉えられます。

 もちろん日本にも儒教文化はありますが、韓国のように厳格で形式的なものではなく、日本社会におけるその儒教による影響は韓国と比べてはるかに弱いものであり、その国民性が韓国とは違った性格の統一教会を生み出したとも言えます。

 統一教会においては1966年に原理講論が出版され、それが公の経典になりましたが、その内容は基本的にキリスト教の世界観を発展させたものであり、部分的な表現において儒教的な影響を感じさせる記述もありますが、決して朝鮮型儒教と密着した内容ではありません。
 あくまで原理講論を教義の基本と考えるならば、やはり、韓国統一教会の権力構造を生み出している朝鮮型儒教思想は統一原理とは別物と考えざるを得ないのです。

 文先生の膨大な説教集の中には、原理講論に書かれた統一原理からかけ離れた内容が多くあり、日本ブログ村の統一教会批判・告発カテゴリーにある「ちゃぬの裏韓国日記」がその問題を今までに数多く取り上げており、ブログで記事にしています。

 それらの文先生の説教内容にみられる統一原理からの乖離は 文先生が朝鮮型儒教思想によるところの最高支配者との意識であったためと考えなければその説明がつかないものであり、それ以外にはその説教内容が統一原理と矛盾してしまうことがある原因を探し出せません。

 つまり、文先生にとって原理講論にあるような「霊肉共の救いを完成する再臨のメシア」というようなキリスト教的な意識は信者が考えているような絶対的なものではなく、それほど強いものではなかったとも考えられるのです。

果には必ず原因がある」とは原理講論の基本である因果律ですが、現在の統一教会に統一原理と矛盾した様々な問題が生じたのは結局、創始者の実質的な宗教思想と教会員に対する実際の指導内容にその問題の根本原因があると考えなければならなくなり、現在の統一教会には深刻な問題があると考えるならば 当然創始者であり、最高権力者であった文先生の思想や宗教活動について、何が間違っていたのか追究せねばならず、その宗教思想と実践を改めて評価し直さねばならないことになります。

 その文先生に対する再評価については、反対派牧師がするような完全否定では何の解決にもならず、米本さんが思考するような「是々非々の考え方」でこそ、より発展的な問題解決が可能になるのであり、そのような過程を通してこそ、原理講論に書かれた真の理想世界を実現する道も開かれてくるのです。

 しかし、そのような真の理想の実現を目指す為には現在の統一教会組織を支配する朝鮮型儒教思想の害悪について真剣に考えなければならないと言えるでしょう。
文顕進氏支持者が指摘しているような統一教会組織の問題を解決する為には、その朝鮮型儒教思想の影響から完全に脱却する必要があると思われます。

 回の記事にある「王妃様」のことや、その後継者のことも 統一教会組織の根底に儒教思想があるから起こる問題であり、統一原理の中に存在する朝鮮型儒教の影響はまさしく“転移する癌”だと考える自分にとっては文先生一家の問題も「神格化された両班の末路」の物語としか思えません。

 ただ、それが韓国社会において注目されたりするのは、やはりそこに絡む莫大な金額の経済問題があるからだと思われます。

 もし、韓国統一教会に日本から多額の資金が投じられていなかったならば、宗教としての韓国統一教会が悪いこと以外で注目を浴びることはなかったのではないでしょうか。

 朝鮮型儒教式権力構造とは恐ろしいものです。
 たとえ、王様が「まだらボケ」になろうと絶対的地位は変わらず、重臣達はそれを利用して自分達一族の発展を策略し、王様亡き後「王妃様」が深刻な糖尿病になって認知症を疑わせるような言動を連発しようと、誰もそれを是正することができないのですから。

 結局、朝鮮型儒教思想から脱却しない限り 統一教会も李氏朝鮮王朝と同じ運命を辿るのではないでしょうか。

 

Aさんの感想

一原理はキリスト教を発展させた形で誕生しており、キリスト教的な博愛主義を唱えたりしていますが、現実の組織体制は血統を中心とする絶対主義的なものとも言えます。」 (神々の黄昏さん)

 これは正しい指摘です。お父様は、陰陽哲学と似た陽陰の二性性相が主体ではなく、性相と形状の二性性相が主体と強調されています。つまり、心情、真の愛が中心だと言われているわけで、まさしくキリスト教の伝統を発展させたのが統一原理です。

 統一原理の面白いところは、神の創造目的が人間の三大祝福の完成(個性完成、家庭完成、万物主管)であり、その家庭的四位基台を拡大し、地上天国をつくることであるとし、各自祖父母、父母、子女という三代が連結されて四位基台が完成すると言われています。

 これは儒教の「修身斉家治国平天下」に通じますし、「祖先崇拝」にも通じますし、「長子相続(血統)」の考えも出てきます。

 ただ、お父様の偉大なところは、東洋思想(儒教)と西洋思想(キリスト教)を統一しながら、あくまでもキリスト教を中心にしていることです。「真の愛」「ために生きる」「サタンの自然屈服」といったことが最も重要視されますし、お父様はそれを実践してきました。ですから、アメリカでも多くの人に受け入れられたのです。

 <韓国人幹部に見られる見栄っ張りの性格や平気で嘘を突き通そうとする習性は、その両班の伝統に由来していると考えれば 全てが納得できます。
 韓総裁にも見られる「真の父母として誰からも崇められなければならず、自分がすることは絶対善であり、その意思は何よりも優先され、その行いに間違いなどあるはずがない。」という発想は、間違いなく統一原理によるものではなく儒教思想と両班の伝統によるものです。>(神々の黄昏さん)

 お父様とその思想の偉大さが、幹部(お母様も含めて)は分からないため、権力闘争やお金をめぐる醜い争いが生じてしまうのです。これは韓国の悪い儒教が影響しているのかもしれません。

 かし、彼が指摘しているように、儒教では王様は「徳を持って治める」という考えがあり、逆に言えば、徳のない王様には反逆しても良いという「易姓革命」の思想があります。韓国では王様も絶対者ではないわけです。

 お父様が生きておられた頃でも、お父様の訓読会よりも自分の礼拝を優先せよという教会長、原理講義や本体論講義も、本流ではないにもかかわらず、自分のほうが正しいという講師がいました。

 今、韓国人がお母様に従っているのは、お金と地位を守りたいためで、朝令暮改で、ビジョンも示されないお母様を尊敬している人は幹部も含めて少ないと思います。

 一方、日本は、まったく自分の考えがなく、盲従しているだけですから、韓国人は馬鹿な日本人と嘲り笑っています。実際、日本人が韓国人が信じていない清平教にはまり、金を持ってくるのが韓国人には不思議なようです。
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統一教会のシャーマン、金孝南女史。「朱蒙(チュモン)」に登場したシャーマンは霊能力のある儒教的義に篤い人であった(ドラマだから、まあ当たり前か)。その点、金女史は王子王女から霊能力の有無を疑われ且つ嫌われている、王様への義は薄く王妃様ばかりに目を向けている宮廷政治的な人物である。私の目下の関心は、彼女(清心財団)が韓国国税の査察の対象となるかどうかである。

 天一国の最高委員でも、清平を原理に反するものと批判している人もいます。日本人のおろかな「絶対信仰」が、今の韓国統一教会を支えているのは間違いありません。

「お母様は、文家をこの地上に残そうと思われていないかもしれません。それは、顕進様に限らずだと思います。 」 (※前回の記事で引用したブログ「真実の向こう側」の一文)

 お母様は文家を発展させようとは考えていないでしょうが、根絶やしにしようとまでは考えていないでしょう。亨進様や善進様、お孫さんを立てようとしているのですから。
 ただ、自分の血統もすばらしいんだ、本来自分が王様になるべきだったといった祖先の証をして、自分に尊敬心を集めようとしているだけでしょう。

 儒教によれば、父子相続ですから、それに対抗し、自分を正当化するために、お母様の母親(太母様)だという清平を用いているのでしょう。それが金づるでもありますし。

 進様は、「自分は50%文氏で、50%韓氏ではない。100%文氏だ」「女性は畑で、種は男性からのみ」と血統を強調し、文家を一つにし再建することを目指していますので、お父様の願いを受け継いでいると言えるでしょう。 

 ところで、神々の黄昏さんは西川先生に心酔しているようですね。
 私は西川先生とは数回お会いしただけで、あとは彼が書いた「教育原論」といったものしか知りませんが、私の印象は深く原理を理解しておられるというよりは、その基本はキリスト教ヒューマニズムではないかという感じです。
 西川先生には、キリスト教神学を勉強された後、韓国でみ言にふれ、すぐ日本に派遣されたという事情もあるかもしれません。

 原理は「四位基台哲学」だといわれますが、西川先生にはそのような深い哲学的なものがありません。
 私たちは、この原理をもとにした勝共理論や統一思想などで、共産党や現代思想とも理論闘争をしてきたわけで、原理の偉大さを実感しています。
 
 それを単に、統一原理を儒教の亜流のようにとらえ、西川先生のヒューマニズムが解決策のように考えるのには同意できません。

 さらに、血統についていえば、神の創造目的が家庭的四位基台の完成であり、その拡大によって地上天国を実現するというのがお父様の考えです。
 この横的拡大の考えに、東洋の祖先から子孫への縦的流れ(血統)の考えを一つにしたのが原理です。
 確かに儒教の家族優先、血統絶対視の考えは、現在の統一教会のように間違った方向に行く危険性はありますが、東洋と西洋の思想統一という壮大な原理の考えは否定されるべきではありません。


アットランダムな若干の注解&感想
 
(1)何気ない一言だったが、私にとって印象的だったのは、冒頭の前口上のところで紹介した教団中央幹部の言葉であった。
「うちのことを理解するには韓国の儒教のことを知らなければならない。最近、韓国のドラマをみて、そのことがつくづくわかったよ」
 彼の実名を明かせば、「えっ、あの人」と驚くような人である。
 その人が今日に至って、統一教会と儒教との密接な関係を認識したのである。私にとっては衝撃的な呟きであった。なぜなら、統一教会を教会員のみならず私たちが理解するには、統一原理だけでなく、韓国の儒教のことを知らなければならない!-というわけなのだから。

(2)何人かの地位の異なる食口たちに、「文鮮明氏は自分のことをどう思っているのだろうか。メシアなのかそれとも王なのか」。全員が「おそらく王という意識でいらっしゃるのではないか」という回答だった。
 文鮮明氏が王だと思っているのなら氷解することが多い。

 文氏が王なら、その弟子たちは王の重臣という意識であり、王家と親戚・縁戚関係を結ぼうと必死になる。見事成功すれば、晴れて王族の仲間入りを果たすことになる。その過程で様々な権謀術策が蠢き、失敗すれば嫉妬の感情がめらめらと沸く。郭錠煥氏がパージされた背景の一つには、「王家への嫁入り」問題があったと聞いている。
 文氏が存命で、加齢によるまだら惚けでなかったら--
(晩年の文氏がそうなっていたのは間違いないが、その根拠を示すのはかなりの字数を必要とするので省略する)
 当然、後継者は文王の王子たちとなっていたはずだ。
 ところが、文氏が亡くなった。
 その結果、王妃である韓鶴子氏を軸に、重臣たち、また王族の間で、権謀術策をめぐらすことになった。それが今現在の統一教会の混乱ぶりである。

 イサンでは王妃(後妻)が王子をないがしろにし、重臣たちの派閥を利用して、権力を掌握しようと画策した。こればかりではないが、今の統一教会の動きはイサンの物語が再現されているといっていい。
 韓鶴子王妃様が賢妻・賢母であったらともかく、好悪の感情が強い人。なぜか、日本・統一教会の2代目会長の神山威氏をことのほか嫌っており、神山氏が文鮮明氏に面会を求めても会わせようとしなかった。神山氏の娘婿(韓国人)が教団の要職から外されたのも、王妃様の差し金だったと推測している。こうしたことを重臣たちは知っており、そのため王妃様に好かれ、取り入ろうとする。

 教会に影響力のあった王子や王女が後継者どころか王国から去ったことを、教会の教学担当者たちが統一原理を使って説明したそうだが、原理用語というフリカケをまぶしただけの、私には理解できない屁理屈にしか聞こえない。(「cocoaのブログ」 を参照)。儒教の影響を強く受けている統一教会の上層部の動きを、教学的に説明なんぞできるわけがない。苦心して理屈を編み出した担当者たちには申し訳ないけど。

 私たち一般人には理解しがたいのは「天一国」「天一国憲法」なる用語である。これも、文鮮明氏が王であり、彼は王国を築きたかったと考えれば、また王妃が韓国の国教を「統一教」にしたいと夢想していることも、誇大妄想とはいえ心情的には理解できる。「王国」意識は、旧約聖書の影響も受けているかもしれないが、やはり現実にあった李氏朝鮮国家が意識のベースになっていると推測する。冒頭の2つの写真を再度、眺めてもらいたい。

(3)擬装としてであれ「統一国家」には属国が必要である。李氏朝鮮国家は中国に貢ぎ物をする清国の属国であった。統一国はそのような属国であってはならない。世界の中心国家であらねばならない。中心国家には絶えず貢ぎ物をしてくる属国が必要である。その属国は日本(日本・統一教会)である。

 これまで、アダム国家が韓国、エバ国家が日本であるため、日本の教会員たちはアダム国家に(国王であるお父様のために)献金しなければならないと教えられたきた。
 かつてのエバ国家はイギリス。それが70年の初頭に日本に変わった。
 なぜ変わったのか、なぜ日本がエバ国家となったのか。
 教学担当者に説明を求めたが、彼らも理解できていなかった。
 結局のところ、文王の恣意的な指名にすぎず、かつてのイギリスは金持ち国家、70年の日本は「欧米に追いつき追い越せ」のスローガンのもと、金満国家に成長中だったから、という以外の理由は見つからない。清と朝鮮、世界の中心国家と属国という力関係の構図を想起すれば、宗教教義を装ったアダム・エバ国家論を、理解する必要なんかなく、ストンと落ちてくる。
 献金の理屈として、「かつて朝鮮を侵略した日本は罪を償わなければならない」は、宗教とは関係のない後出しの屁理屈にすぎない。そのことは、日本からの献金が韓国の従軍慰安婦たちのために一銭も使われていない事実を想起すればいいだけのことだ。

(4)なぜ、世界統一の中心である韓国・統一教会の幹部たち(文夫妻を含む)はいまだ儒教の影響を強く受けているのか。
 話はそれる。1988年のソウルオリンピックを契機に、韓国は現代化の道を歩み始めたと言われている。だが、それはソウルなどごく一部の大都市、サムソンなどごく一部の大企業に限られているのではないか。
 韓国社会は、今でも儒教の影響が色濃く残る社会だと思う。
【関連記事】「平昌パラリンピックを憂う…障害者を“奴隷扱い”する韓国の意識への懸念」

 日本は1964年の東京オリンピックを契機に、多くの企業が成長した。ところが、韓国ではサムソンなど以外に目ぼしい企業が生まれていない。それは、資本主義の発展を阻害する「五倫・五常、両班文化(勤労を尊ばない文化)」のためではないかと思う。
 翻って、韓国・統一社会を考えると、韓国人幹部は両班文化にどっぷり漬かり、儒教の影響を払拭する必要性など一度も感じたことのない人たちである。交流するのも教会員のみ。それゆえ、韓国統一社会は李氏朝鮮社会(1392年から1910年)がそのまままるごと残っている社会、と断定できよう。(その象徴は冒頭に掲げた2枚の写真)
 余談でいえば、韓国の儒教の変容というテーマで研究論文を書けと言われたら、サムソンと韓国・統一教会とを比較検討するだろう。 博士号取得は間違いなしだ。

(5)儒教社会とシャーマニズムとの関係はよくわからない。李氏朝鮮でもシャーマンが宮廷政治に深く関わっていたそうだが、親和性があるということなのか。

(6)門外漢ゆえ統一原理が真理かどうかはわからない。しかし、もし真理なら統一教会は様々な障害を乗り越えて発展するはずだ。真理を体現しようとする組織が発展しないわけがない。だが現実は、象徴的な言い方をすれば「お父様が成そうとされたことはすべて失敗した。遺されたのはコンクリートの塊だけである」
【関連記事】「“勝利した”統一教会は崩壊の過程に入った」

 統一原理(4位基台)が仮に真理だとしても、4位基台ですべてのことを解き明かすことはできない。一度、4位基台で世界経済を分析するという東大卒の教会理論派の講義を拝聴したことがあったが、笑いを堪えるのが大変だった。
 ニュートンの法則は真理であっても、それでDNAの仕組みなど説明できるわけがない。それと同じなのである。
「統一原理」論が真理かどうかを疑うのは、「原理講論」と「み言葉」の内容が矛盾していると指摘されながら、そのことを教会の教学担当者は解明しようとしない。
 それは、「壺売り」とその後の「高額エンドレス献金」のみに全力投球(80年代から今日までの実に30年間以上)、教学を疎かにしてきたためである。
 日本・統一教会の常勤の教学担当者は、広義昭氏が教会を去ってからは広氏の教え子的な大田朝久氏ひとりだけ。教会中央幹部たちは、この20年間にわたって教学のことはすべて大田氏にお任せ状態だった。宗教組織で一番重要なのは教学のはずだが、こんな体たらくだから、統一原理が真理として社会的に認知されるわけがない。
 ついでに言っておけば、統一教会のかつてのうたい文句は「宗教と科学を統一する」だったが、そのことに問題意識を持っていたのは、元光言社社長の小林浩氏ただ一人。情けない限りである。
 その原因は繰り返しになるが、すべて「貪欲なMONEY追及」にある。その結果、神学論争できるような問題意識の高い教会員は組織から去っていった。
 今の教会の中心勢力は、信仰ではなく組織依存症の婦人食口である。

(7)話を戻し、統一原理と儒教との関係について私見を述べておく。
 口先左翼(社会変革者)、実態は保守(現状維持)という人がこの世に五万といる。むしろ、口も体質も左翼という人はきわめて少ない。インターナショナルを唱えながら、やっていることは民族主義者そのものという人たちも少なくない。
 それと同じで、口では統一原理を唱えながら、体質は儒教そのもの-これが統一教会の真の姿ではないのか。

(8)イギリスの宗教社会学者のジョージ・D・クリサイディスの『統一教会の現象学的考察』に<儒教と統一思想>の一節がある。それを一部紹介しておく。
「儒家思想の主題の多くと、『原理講論義』の教えには明らかに類似性がある。まず、儒家思想における理想の家庭という考えは、『原理』の教えにとりこまれている。儒家と統一教会の信者の共通した理想とは、理想的な家庭である」
「人が血統を確保するという観念は、儒家思想ではもっとも重要とされ、統一教会の説く、人の血統は浄化され、サタンから神へ復帰されねばならないという概念が、儒家思想に依拠しているのは明白である」
「神の摂理と人間の責任という統一教会の教義は、天道と人道には不一致もありうるという儒家の認識にその萌芽がみえる」
「なんといっても重要なのは『原理』の概念である。統一思想において『原理』という言葉を単に口語の意味で解釈したり、一連の神の戒律だと決め込むと、とんでもない誤解が生まれる。統一原理は基本的に、どのようにすれば人間は宇宙とその歴史を支えている天の模範に従うことができるかを明らかにするものだ。したがって、『原理講論』が行動を『原理的』『非原理的』と表現するとき、その行動がどの程度、物質界の万物を支えている天道と適合しているかを意味しているのである」
「天道には三段階の発展があるという考えは、統一思想における『蘇生』『長成』『完成』の三段階の概念と類似している」

教会員が「真理」と思っている統一思想とか統一原理のかなりの要素は、儒教の教えそのものではないか。それにもかかわらず、教団の教学が儒教の研究をしたという話を聞いたことがない。
 また、クリサイディスの本は統一教会が資料提供など協力しなければ書けなかった本であり、決して批判本ではない。それにもかかわらず、この本が教会内で話題になることはない。どうしてなのか。読み解くのが難解ゆえの知的怠慢からなのか。今でも不思議でならない。
(この稿は6月7日に加筆した)

 異論、私論があれば、ぜひ投稿してください。議論の応酬を読んでみたいし、私もそこに加わりたいです。


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コメント

統一王朝と李氏朝鮮王朝

如何に韓国の儒教の影響が大きいかと言うことですね。

朝鮮半島は文先生夫妻の出身地でありアダム国家だから、韓国本部の献金要求におかしいと思っても何も言えないというのが実態なんですよ。

韓国人食口が如何に選民意識が強いか・・・

疑問氷解・・・・しかし。

私自身、神を中心とした人類一家族世界の理想を実現できると信じて統一教会に入信したつもりでしたが、気が付けばそんな理想よりも、ご利益ばかりが求められ、周りはなりふり構わぬ献金圧力で借金地獄に陥った人ばかり。

なぜこんな体たらくになってしまったのか?
今まで「火の粉」ブログを読みながら感じていたことが、今回の記事で見事に整理されたように思います。

儒教体質の染みついた統一教会に、変革を求めるは果てしなく難しい気がしてきました。

現在の統一教会が韓国ドラマそのものであることに、遅ればせながら幹部が気づくようになったことはわずかながら進歩です。清平の拡大に日本が寄与したのですから、今度は清平の撲滅に寄与する必要があります。日本全体が嫌韓に進んでいるので、統一教会内部でも嫌韓が進み、韓国人幹部の言いなりになる人は少なくなっていくと思います。北東アジアが急運告げている時に、自分たちのことしか考えない統一教会なんか必要ありません。これからは、全く無関係の人たちが文総裁の遺志を継いでいくでしょう。

感想と神々の黄昏さんへの質問

自分の中では御父母様の限界を既に感じていて世代的ギャップを感じるのはこの朝鮮型儒教のせいなのでしょう。

二世世代に希望を感じてますから、正直御父母様の神格化や絶対信仰の押し付けは若い感性を潰すから止めてほしいと思います。でも同じ二世父母の中にも神格化による絶対信仰が正しいと信じて疑わない人もいるからギャップもあります。それだけの絶対信仰がおありなら朝鮮型儒教の色濃い韓国の地域に子供を送ってほしいものです。

でも何故それだけの絶対信仰があるかといえば多くの一般婦人の方と同じく、ただそうする事により自分の先祖が救われ後孫に徳を残したいという真の愛や世界平和とはまるで関係ない所にいる姿も見られます。だからみ言も深く理解する事なく考える事もなくお題目のように読んでいるので疑問すらわかないようである意味羨ましい。家系図伝道の負の遺産です。これからもそんな伝道を続けて情報弱者ばかり伝道ターゲットにするなら本当に希望がない。

二世の教会離れが進むのはこの朝鮮型儒教の体質に魅力を感じないからと実感し、私も正直何処まで我慢できるかわかりません。
うちの教会の二世指導者は激しい献金摂理とは一線を引いている為理想に生きれてキリスト教的兄弟姉妹の愛を説いているので子供達は惹かれているようです。初期の教会はそういう雰囲気だったのでしょう。

何度も言いますが国境線撤廃を掲げる統一教会のトップ組織が国境を超えグローバル化せずにどうするのでしょうか?
韓国人からすればトップ組織を占領しておきたい故に血統やら伝統やら持ちだしているのでしょうが、神様と関係ないしがらみなんて不要ですから。

韓国の一般社会も今だに上下関係が厳しくしがらみが強いようだから同情します。ご子女様がアメリカで育たれて本当に良かったです。

最後に質問ですが、神々の黄昏さんは統一教会が朝鮮型儒教体質から転換させれなかったのは御父様のメシアとしての失敗だった点だとお考えなんでしょう?私はそう思います。加えて韓国人の特性の異常な程の愛国、韓国に対する評価も間違いだったと思います。もっと韓国の間違いを韓国人にも説くべきだった。しかし親日派や韓国を否定すると人間扱いされない韓国において基盤を作る為にはそれが出来なかったのかとも推察すると、非常に真実より現実的にある面打算的に生きた点もある方だったのかとも思います。
組織をグローバル化出来なかったのも失敗だったと思いますが、韓国人幹部に押し切られていたのでしょうか。

いずれにせよ偉大な功績も多々ありますが、失敗もあったと感じてますがそんな事を教会で言える雰囲気ではない。
そこは北朝鮮にも似た言論の不自由さを感じます。そして言論の不自由さは思考停止文化を生むとも思うのです。

韓国のシャーマニズム

神々の黄昏さん、Aさん、米本さんが三つ巴のとても興味深い記事だと思います。
気軽に感想したいですが、その前に、米本さんの注解にもありましたが、韓国のシャーマニズムについて、最近読んだので、儒教やキリスト教や統一教会と関係して面白く感じた部分を要約・意訳でまとめてみたのを長くなりますが投稿させていただきます。
Kirsti L. Nevalainen (著)
『Change of Blood Lineage Through Ritual Sex in the Unification Church』。(日本語版なし)より:

韓国の土着の宗教はシャーマニズムで、その主な特徴は、ハナニム(または天の王)を、数々の自然神のうちで最高の神として信仰することにある。
シャーマニズムの世界観では、神は超越ではなく内在していて、神々や女神や精霊たちは霊媒であるシャーマンを通してしゃべり、シャーマンの体の中に安定して住みつく。これはシャーマンと神との霊的な結婚であり、ネリムクッの儀式と呼ばれる。

現代の韓国のシャーマニズムは道教と仏教が徹底して混ざっている。
外国から入って来たこの2つの宗教はシャーマニズムと混ざり渾然一体と化して、それらを分けるのが難しいほどだ。

他方で儒教は、シャーマニズムと相克する信仰ではなく、相棒のように相対する信仰になった。
それらは互いに補完し合って、家族の生活のための独特の宗教を形成した。
特に李氏朝鮮時代では、男の世界はシャーマニズムよりも主に儒教の儀式・制度が実施されるのが見受けられ、女性の領域である家庭内のことはシャーマニズムの儀式が取り仕切ることが多かった。

韓国の文化の核はシャーマニズムである。シャーマニズムは韓国に外国の宗教が入って来ても消滅せず、廃れるかわりに混合主義を促進してきた。
シャーマニズムは、朝鮮の長い歴史を通して人々の心と社会文化の構造に、基本的な視点を提供してきた。

シャーマニズムは、宗教のシステムとして道徳や倫理の問題にそれほど関心を持っていない。
それは、形而上の問題ではなく、健康、物質的保証、出産や個人的手引きのような生活にまつわる事柄に重きを置くきらいがある。

19世紀以前から、韓国のシャーマニズムは新しく外国から入って来た宗教、キリスト教の教えや概念も取り入れてきた。
韓国の民間キリスト教は、伝統的なシャーマ二ズムの世界観にひどく影響されていて、公式の神学に比べると、神の内在が強調されている。民間クリスチャンは聖霊の力を必死で求める。
霊的な能力は、しっかりした聖書の知識や善なる人格、道徳的な行い、専門的トレーニングなどよりももっとずっと重要だとみなされる。
今や韓国のプロテスタントはキリスト教的シャーマニズムにに成り下がって、礼拝の形式と用語はクリスチャンだが、信仰の内容と構造は基本的にはシャーマニズムだ、と論ずる学者たちもいる。
外国から入って来た宗教の信仰と実践は、シャーマニズムのパターンの考えと実践に同化されて、本来の意味を失う傾向があった。

1920年代から40年代にかけて、韓国では数多くのキリスト教系メシア団体が現れた。 それらは教義を混合・合併させ、シャーマニズムの特徴である霊界への多大なる関心を持ち、霊と交信し儀式を行った。
韓国でカルト的な運動が盛んになるのは、シャーマニズムの影響が密接に関係している。
カリスマ的指導者たちは恍惚状態のなかで神からメッセージを受けたと主張し、千年王国や神の地上王国を建てるのだと主張する。それはその霊的団体の設立者が君主となる王国である。
多くの韓国の霊的団体はメシアが朝鮮半島に人間として生まれると信じている。

20世紀の前半に韓国に興った数々の新興宗教団体もシャーマニズムの影響を色濃く受けていて、実際文鮮明氏もそれらに参加し、ピガルムあるいはヨンチェといわれる性の儀式を受けて『サタンの血統から神聖な血統に転換』された。それから自分の団体を立ち上げた。
イブがエデンの園でサタンと性的関係を持ち、その結果、人間はみなサタンの血統に汚されて、新しいメシア、再臨の主から始まる新しい血統によって浄化されるべきだという考えは、文鮮明氏が発明したのではなかった。
1945年の時点で、自分がメシアだと主張する少なくとも70人が韓国に実際いた。

著者は統一教会の主目的である血統転換と性の儀式を、より広く韓国の歴史的文脈(韓国の性儀式伝統)の中に据え、しっかりと位置付けて洞察していて有意義である。またその由来をユダヤ旧約偽典、中近東の古い宗教にまでさかのぼっていて興味深い。
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*清平が統一教会内でのしあがったことが連想されて面白かった部分の訳:
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韓国ではムダン(女シャーマン)になることは、家庭内の力関係を変えるために一番効果のある方法だといわれる。霊に取りつかれ神の招命に応えれば、彼女は実際家庭内クーデターを起こしたようなものだ。
韓国は伝統的に儒教社会で、家庭内で強い上下の位置関係の決まりがあり、三従の教えの如く女はいつも男より下でなければならない。

対照的にムダンは常に彼女の家庭の中で中心人物だ。外で仕事を持っている夫たちはほとんどの場合、妻がムダンになったのを恥じて仕事を辞めてしまい、家で家事や子育てをするようになる。
女シャーマンと以前彼女を圧制した夫やその親たちとの力関係が逆転し、逆転を継続させながら、彼女は経済的に自立、家族は彼女に経済的に依存、その一大変化は韓国のムダンの生活史において際立つ特徴になっている。
歴史的に嫁たちの脅威といわれる姑さえも、息子のムダンの嫁に対して年老いた召使かのような弱腰のへりくだった態度をとるようになる。嫁に以前辛くあたったことに、霊力を使って復讐されるの恐れるのだろう。///

メシアというより皇帝。。

>>何人かの地位の異なる食口たちに、「文鮮明氏は自分のことをどう思っているのだろうか。メシアなのかそれとも王なのか」。全員が「おそらく王という意識でいらっしゃるのではないか」という回答だった。

なるほどそういうことだったんですね。多くの末端シックや世間の人は「メシア?」が判断基準だと思うのですが、ご本人は「王」という意識だったんですね。これはもしかしたら当初からそうだったかもしれませんが、後年に強くなった傾向ではないでしょうか。当初はお話のなかにイエス様のことがよく出たし、教会の雰囲気もやり方もキリスト教的伝統にある程度従っていたのが、80年代後半くらい、さらに90年代には決定的に変わりましたから。訓読会にイエス様の話など一つも出なくなったと思います。

教会のやり方も雰囲気も変わって、特に日本は献金・集金組織になったのは、幹部の責任もあるでしょうが、文先生の意識や目的が変わったことも大きな要因ではないでしょうか?アメリカは一般伝道がぱっとしないこともあって、近年は牧師渉外に力を入れてきたので、霊的なことを重視したように見えましたが、実際はキリスト教会とアメリカ社会から認められたい、という世俗的目的が原動力だったということかもしれません。

今思い出すのは、文先生が亡くなった時の聖和式のビデオで「聖真徳皇帝、、、」と直筆で書かれた垂れ幕(?)で、それを見たときには、少なからず驚きました。シックの皆さんは驚かなかったですか?いつ書かれたのか知りませんが、皇帝だと自負されていたんですね。つまり、万民を救って神のもとの幸福に導こうというメシア(これって菩薩様のような、私のメシア観かもしれませんが)ではなく、万民を治める皇帝という意識にいつの間にか変わっていたとするなら、確かにいろいろな現象に納得がいきます。

メシアは王の王だから皇帝だ、とシックの皆さんは言うかもしれませんが、やはりちょっと違うと思います。メシアは世界と一人一人の救いに心を砕くと思いますが、皇帝は外的な統治や版図の拡大をまず考える人でしょう。

Aさんの思い違いと統一原理について

 今回の記事の中で米本さんが書かれた<アットランダムな若干の注解&感想>は私にとってとても挑発的でした。
 今まで、統一教会信者ではない一般人が統一教会について、批判的に、あるいは中立的に意見を述べた記事を読んだ記憶の中でも、これほど鋭く要点を捉え、真実に激しく迫ったおもしろい記事を読んだことはありません。

 その一つ々の論評のどれもが奥行きがあり、興味深いテーマを提示してくださっているので、その米本さんの“注解&感想”にコメントしようとすると止め処も無く書き続けてしまいそうで、それに夢中になるあまり自分の生活の他の用事を放り出してしまいそうな身の危険を感じました。(笑)
そのような訳で、米本さんの‘我を忘れてしまうぐらい’興味深い論評の挑発的な誘惑には、自制心を働かせて、あえてコメントしないことにします。

 しかし、<Aさんの感想>には私についてやや誤解されている記述も見られましたので、その辺の誤解だけは解いておこうと思います。
 特にAさんが書かれた「それを単に、統一原理を儒教の亜流のようにとらえ、西川先生のヒューマニズムが解決策のように考えるのには同意できません。」という私の統一原理解釈に対する判断は正しくありません。

 私は間違っても統一原理を儒教の亜流だなどとは考えておりません。
統一教会の「真の父母様」を中心とする組織体制は間違いなく李氏朝鮮型支配体制の亜流だとは思っていますが、統一原理そのものは儒教をはるかに超えた内容を持つ‘真理’だと思っています。
 Aさんは<原理は「四位基台哲学」>だといわれて、それに対し西川先生は「基本はキリスト教ヒューマニズム」であると見なしながら、その考え方において「四位基台哲学」を理解しておらず、深い哲学的なものがないと低く評価されていましたが、西川先生が単なる「ヒューマニスト」だったとしたら立正佼成会の庭野会長から宗教を超えてその活動を評価されることはなかったであろうし、その立正佼成会の若い優秀な信徒達が、自分の教団を飛び出して西川先生の下に身を投じることはなかったはずです。

 そのような伝道が可能だったのは、西川先生が既存の宗教を超えた深い精神性を持ち、神の国を実現しようとする実践力を持っていることが人々に認められたからであって、単なる人文主義者、人道主義者には そのような伝道は不可能なのです。
 またAさんは「キリスト教ヒューマニズム」という表現を使いましたが、通常、キリスト教とヒューマニズムは対立した思想内容として捉えられ、キリスト教は神が中心であり、ヒューマニズムは人間が中心です。
 つまりキリスト教とヒューマニズムは元々相反するものであったのですが、キリスト教思想の発展の中でキリスト教的ヒューマニズムという思想が現れてきたのであり、それは“創造原理”に近いかなり高度な思想なのです。

 即ち、人間の存在自体を神の意志に適ったものとして認め、その人間としての善なる本性を社会的に発揮した時にその人も社会も幸福になるという思想で、「他者のために生きる」精神をそのキリスト教的ヒューマニズムの真髄とする見方もあります。
 それはまさしく“創造原理”そのものの考え方で、なぜその思想に深い哲学的なものがないと言えるのか私には理解できません。

 Aさんは<原理は「四位基台哲学」>と言ってくださり、私が「統一原理を儒教の亜流のようにとらえ」ていると何故か書いておられたのですが、これぞ神様もびっくり仰天のサタンと左端の間違いのトンデモ大誤解です。
 私は非常に「四位基台哲学」を愛しており、そのことは“火の粉を払え”で時々英文和訳をされ、お笑いコメントまで披露してくださる暗在さんが証人です。

 ただし、統一原理は完璧視しておらず、創造原理以外の部分については現実として間違いが明らかになっている部分が多く、真理とするためには理論的に変更せざるを得ない箇所が少なくないと思っています。
 しかし、それでも「四位基台」には強い拘りと確信をもっているのです。

 Aさんは「四位基台」の理論的内容について、特に家庭的四位基台の完成という観点から考えておられるようで、確かにそのように考えている教会員は多いし、ほとんどそうであるかもしれません。
 しかし私は四位基台を、神という存在の遍在性を単純明快に表象した概念として捉えており、創造目的のような目標の青写真のようには捉えておりません。
 例えば家庭的四位基台の完成という意味内容も 何か夫婦、親子が信仰的に結束しているような理想を言い表しているのではなく、夫婦、親子が理想的な愛の関係を築けば、必然的にそこに神が遍在するようになるという原理を意味していると思っています。
 またそのような理想に向かわざるを得ないような存在として形成されていることから四位基台として家庭関係を捉えられるのだと思っているのです。

 多くの統一教会員は神という存在を極端に擬人化して捉える習慣があり、その神の遍在性をよく理解していない人が多いと感じています。
 しかし、統一思想の内容をもっと勉強していけば、その神の擬人化の間違いについてもよくわかるはずです。

 西川先生が尊敬に値するのは 地上天国を実現しようとするその実践力のすばらしさであり、その情熱と深い愛情は神と内的に結び付いたものと考えなければ理解できないはずです。
 西川先生に私が心酔しているという表現は適切ではなく、西川先生は本心に忠実であり、命がけで善を実践してきたし、間違ったことはしてこなかったと充分尊敬しているという言い方が正しいと思います。
 統一教会の悪い韓国人幹部とは正反対のかたで、両班の伝統からは決して生まれてこないような人格者であり、その韓国人幹部達との格差が大きい分だけ、どうしても名前を挙げざるを得ないのです。

 <Aさんの感想>に対する弁解は以上として、桜子さんの「神々の黄昏さんは統一教会が朝鮮型儒教体質から転換させれなかったのは御父様のメシアとしての失敗だった点だとお考えなんでしょう?」という質問にも答えさせて頂きます。

 まず、文先生は自らを「真の父母」とし、「再臨のメシア」と宣言されましたが、そのことにも問題があり、信者の大きな誤解と錯覚を生み出したと思っています。
 メシアという称号は、人々を実際に救済できた時に与えられるべきであり、最初からメシアという存在だったというのは矛盾した考えなのです。

 原理講論には復帰摂理としてメシアの誕生が語られているのですが、これを統一教会や文先生に当てはめてしまいますと却って大変なことになってしまいます。
 つまり、統一教会はその終末とされる時代に 実際に宗教統一などできなかったし、文先生は堕落した罪の根であるはずの不倫の愛の問題を解決することはできなかったのです。
 それどころか、文先生の子女様においてさえその不倫の問題が発生しているのですから、原理講論にしたがって「再臨のメシア」という称号を与えられて一番困るのは文先生御自身なのです。
つまり、現実が教義と矛盾してしまい、普通に考えれば「偽メシア」となってしまうのです。

 文先生の説教などを調べても、自らを再臨のメシアを呼んで話している講話はあまりないと思います。
 それよりは、儒教的な「真の父母」「人類の王」という意味合いの表現のほうが圧倒的に多く、その内容はほとんどキリスト教的な観点から外れてしまっています。
 つまり、文先生においても朝鮮型儒教の影響は強く働いており、その朝鮮型儒教思想の弊害にどこまで問題意識を持っていたかは疑問なのです。

 ただ、文先生は神を中心とした人類一家族の理想を説いていた訳でありますし、それを目指した宗教の融和運動も展開されていたのでありますから、その理想と現実のギャップに苦悩しておられたのも確かだと思います。
 しかし、文先生にも朝鮮型儒教思想と両班の伝統の強い影響が働いていた為、決してその間違いを公に認めることができず、最後まで真の父母という立場を貫き通したというのが真実なのではないでしょうか。

 ただ、世界に統一原理を伝えて「宗教と科学を両面の真理としてそれが統一された究極的な真理」を人類が獲得できる道を開いた文先生の功績は大きく、歴史的な使命を担っていたことは間違いないでしょう。
 しかし、その真理を完全なものとし、世界に浸透させ、理想世界を実現するには 朝鮮型儒教思想と両班の伝統の弊害はあまりにも大きな壁だったということではないでしょうか。

真理とは

創造主である神様は、「無限なるお方」と捉えるが一般的だと思うのですが、であるならば、真理も無限と言えます。無限であるなら、「これこそが真理」と言うこと自体がナンセンスでは。それゆえに、四位基台等々は単なる物事を捉える一つの切り口に過ぎないと考えています。
さらに、「宗教と科学を両面の真理としてそれが統一された究極的な真理」なんて無いと考えます。科学はある現象、すなわち有限的事象を対象とするものであるのに対して、宗教は無限なる真理の切り口を与えているものだからです。したがって、『世界に統一原理を伝えて「宗教と科学を両面の真理としてそれが統一された究極的な真理」を人類が獲得できる道を開いた文先生の功績は大きく、歴史的な使命を担っていたことは間違いないでしょう。』とは全く思いません。ただ単に妄想を打ち上げて、混乱させたに過ぎないと思います。

統一王朝と李氏朝鮮王朝2

韓国社会には儒教の考えが深く根付いています。

韓国人は、過去に中国から文明を教えてもらい、今度は自分たちが日本に文明を教えたために今日の日本の発展があると考えるために、どうしても日本を格下に見てしまうのです。

日本は自分たちに感謝しなければならない立場なのに、戦国時代に朝鮮半島を侵略し帝国主義時代には植民地支配をしたという韓国人にとっては耐えがたい過去があるために、なかなか日本を許すことが出来ないのです。

一般韓国人のみならず、韓国人食口においてさえもそのように教育を受けて来たし恨の心情は簡単に消せるものではないので、実際の組織運営に大きな影響を与えてしまっているのが実情です。

韓国の朴槿恵大統領が日本に対して「加害者と被害者という立場は、千年過ぎても変わらない」と演説しましたが、大統領がそのような演説をするほどに簡単な問題ではないんです。

Re: 統一王朝と李氏朝鮮王朝

> 朝鮮半島は文先生夫妻の出身地でありアダム国家だから、韓国本部の献金要求におかしいと思っても何も言えないというのが実態なんですよ。

 やや的外れな返信コメントだとは思いますが。
 アダム国家=韓国、エバ国家=日本
 こう決めたのは、文鮮明さん。その方が亡くなったから、「これからのエバ国家は(話題の)ブラジルだ」とご託宣を述べる人はいないでしょうね。

 つまり、日本のシックは永遠に金を払うだけの人になりました。嗚呼、アージュです。

Re: 疑問氷解・・・・しかし。

> 儒教体質の染みついた統一教会に、変革を求めるは果てしなく難しい気がしてきました。

 まさにザッツライトです。
 考え方を修正させるのはできるのですが、体質を変えさせるのは至難の技です。

 総理大臣の安倍さんのことを想起しつつ。

タイトルなしのhide6500さん

>日本全体が嫌韓に進んでいるので、統一教会内部でも嫌韓が進み、韓国人幹部の言いなりになる人は少なくなっていくと思います。

 狭い取材範囲内ですが、中央は嫌感ではなく価値中立的に物事を考える人が圧倒的に多いです。

 端的に言えば、朝日と産経のどちらに真実がありますかという質問に、「そりゃあ、朝日でしょっ」(全員ではありませんよ!)  

 でも、御身大切の事勿れ主義の人たちですからねえ(フ~ッ)、改革は絶望的でしょうね。

 裏付けなしの仄聞情報ですが、世界平和連合(勝共連合)のボスは「韓国わが命」となっているそうですよ。

 問い合わせしてみたらいかがでしょうか。
http://www5.ocn.ne.jp/~hosting/fwpform.html

(追記)ぜひ、タイトルを付けてください。

 

Re: 韓国のシャーマニズム

 すみません。考えることに疲れたので、また明日です。

 朝起きたら、いろんな投稿がきてたらうれしいですね。

イスラエルと韓国

イスラエル民族はローマの圧政から自分たちを解放してくれる救世主としてイエス様に具体的な軍事力や政治力を期待したと思いますが、イエス様は『許せ、愛せ』としか言わず客観的には何もしないように見えたため十字架につけられたと思います。
イスラエル民族とイエス様の間に隔たりがあったように、韓国の人や食口と文先生の間の認識にも大きな隔たりがあると思います。
  • [2014/04/18 00:33]
  • URL |
  • ホーリーナッツ
  • [ 編集 ]
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言論の自由に感謝

千尋さんは
>キリスト教会とアメリカ社会から認められたい世俗的目的が原動力だったということかもしれません。

と述べておられますが、私は文先生のやり方は世俗的だったけど動機は世界平和の為だったと信じたいです。自分の為だけに死ぬ間際まであんなに体を酷使しながら動けるとは思わないし、ご自分の家庭を犠牲にされ働いてこられたのは事実です。

あとaさんが韓国を完全に被害者として同情されているように感じ違和感を感じました。
被害者の痛みを知るならベトナム戦争でよく現地の一般人に残虐な行為が出来たなぁと思います。韓国は被害者であると同時に加害者なのにベトナムの大人しさに甘えて被害者の面ばかり主張しているように見えます。おまけに慰安婦問題を世界中に拡散したいなら、世界に広がる韓国人売春婦をどうにかされたらと感じざるにはおれません。
多くの韓国人は謙虚さが足りないのは文先生も然りかなと感じます。
韓国での船の沈没事件は韓国の嫌な面が凝縮され現れて、また日本で嫌韓が進みそうで残念です。
大切な命ですから一人でも多くの方が救出されますように。なりふりかまわずアメリカや日本にも救助を要請して下さい。

最後に神々の黄昏さん。
回答ありがとうございました。
原罪が無くても生まれ育った環境や文化は大きく染み付き、その人の人格に大きな影響を与えるのだと思わされました。
あとメシアはイエス様と同じで原罪がない立場でお生まれになったからメシアと名乗られたと思ってました。生まれた時から神様が準備され、その使命を受けるにあたり確定したのかなと。イエス様も失敗した内容はあるにせよメシアはメシアです。
まぁ、自己顕示欲が強い韓国人はメシアと名乗る方が多数おられるようですけどね。

それでもう一つ神々の黄昏さんにお尋ねしたいのは、文先生は本当に日本より韓国が優れていると思ってたのですかね?
留学していたなら日本人の勤勉さや器用さ、韓国人より基本的には人がいい事もご存知なはずです。
今回の船の沈没事件の原因も日本ではあり得ないでしょう。
日本をパートナーとして認めたくない韓国人の為に日本をあえて貶めて仰っているのか、韓国人の特性の異常な愛国心で真実が見えなくなったのかは謎です。
しかし異常な愛国心を持ち続けていたら人類のメシアと名乗るのはおかしいような。昔は人類というより朝鮮半島のメシアかと感じた時もありますが、ユダヤ教.イスラム教.キリスト教の和解に貢献されたのは人類のメシアとして評価できます。

それと神々の黄昏さんは四位基台に非常に感動されているようですが、原理の堕落論など他の箇所はどうお考えでしょうか?祝福による原罪清算など。

私の周りにはいない考えのタイプの方なので興味が尽きません。
あと差し支えなければお答え頂きたいのですが、教会とは今どのように関わられてますか?独自で歩んでおられるのでしょうか?

とにかく一般では話しにくい教会の話題で、いろんな方の考えをお聞きする事が出来本当に感謝しております。

小中華思想

投稿文の一つ一つにコメントを書こうと思っていましたが、なんだか偉そうになってしまうと、やめました。

 ただ、ひとつだけ言っておけば、暗在さんが紹介されたKirsti L. Nevalainen著の翻訳文にはとても知的刺激を受けました。
 これまで統一教会の「霊」に関する言説と清平の存在にひどく違和感を覚えていましたが、それが氷解した気分になりました。


 もう一つ、千尋さんの
>今思い出すのは、文先生が亡くなった時の聖和式のビデオで「聖真徳皇帝、、、」と直筆で書かれた垂れ幕(?)で、それを見たときには、少なからず驚きました。
 -という感想にも刺激を受けました。

 議論が様々な分野に広がりそうな気配がしますが、ブログのテーマは「統一王朝と李氏朝鮮王朝」(統一教会と儒教との関係)です。どうかご留意ください。
 このテーマで議論されたことはこれまで一度もなかったことですから。

 私の「アットランダムな若干の注解&感想」に一つだけ追加しておきます。
 李氏朝鮮時代には小中華思想があり、その思想は今日まで払拭(克服)されたことはないと思います。
「小中華思想」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
「韓国人ななぜ異常に自尊心が強く自国中心的なのですか?」http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1425675.html

 統一教会&文鮮明氏は、ことのほか「統一」を強調していますが、それぞれの宗教、政治、国家などを対等の立場から「統一」することを考えているわけではなく、あくまで韓国あるいは統一教会を中心とした統一に過ぎません。
 統一教会の集いを見学したことがあります。
 ごく一部のイスラム、仏教、キリスト教などの信者も参加し、「宗教の統一」を演出していますが、イスラムや仏教などの集会に統一教会信者が参加したことはほとんどないでしょう。少なくとも、そうしたことがサイト等で報じられたことはありません。
「統一教会を中心とした世界の統一」。ここに「小中華思想」の影響を見て取ることができると考えています。
 この点でも「統一王朝と李氏朝鮮王朝」との共通点があると思います。

四位基台哲学の弁明

>統一原理(4位基台)が仮に真理だとしても、4位基台ですべてのことを解き明かすことはできない。一度、4位基台で世界経済を分析するという東大卒の教会理論派の講義を拝聴したことがあったが、笑いを堪えるのが大変だった。


 米本さんの<アットランダムな若干の注解&感想>について、その批判する観点の鋭さや統一教会の矛盾した現実を見逃さない観察力に驚き、その批判内容に我を忘れるぐらい深く共感してしまい、とても簡単なコメントで済ますことなどできないため 却って筆が止まってしまいましたが、(6)の項目の中で書かれた上記の部分に関してだけは多少の違和感がありました。

 とは言っても統一原理に対する理解は統一教会内部においても千差万別であり、それを正しく理解して現実生活に活用できる信者が果たしてどれぐらいいるのかも定かではありません。
 その上、米本さんが指摘されている通りに、「原理講論」と「み言葉」の内容が矛盾している実情の中で、教会員はどちらの理屈、理論に従うかと言えば、圧倒的に「み言葉」に従う教会員が多く、ややもすると「原理講論」に忠実であろうとする教会員は分派扱いされてしまう恐れさえあります。

 にほん‘ブログ村・統一教会’の中のブログにおいても、教会信者が原理講論に沿って現統一教会の問題点を指摘し、それを批判したりする記事がけっこう多くありましたが、より教会本部に近い教会信者からのそれらに対する反論は 最初に「郭グループ」というレッテル貼りから始まることが多くありました。
 今はさすがに「郭グループ」という言い方はしなくなりましたが、そのような「み言葉」中心の体質はかなり強く根付いており、そのような面ではやはり統一教会は思想集団ではなく、独裁的グループなのだと実感します。

 したがいまして、統一原理の中でも‘四位基台’の理論はその中核なのですが、それを論じることさえ今の統一教会の中ではマイナーな所作であり、その言葉が何を意味しているのかさえ全くわからない統一教会員も珍しくないと思われます。
 米本さんが言及された「東大卒の教会理論派」の講師がどのようにして四位基台で世界経済を分析されたのかわかりませんが、それが果たして‘四位基台’の正しい解釈なのかどうかは定かではありません。
しかし、米本さんが「笑いを堪えるのが大変だった。」というぐらいですから、「み言葉」に強引に辻褄を合わせようとする‘四位基台’解釈だったのではないかと想像してしまいます。

 Aさんも四位基台哲学という表現をされていましたが、この‘四位基台’の存在、現象解釈は決して簡単に批判されてしまうような低劣なものではないと思っています。
 そこには、神という存在や自然現象、人間の社会現象を整理して理解できるような枠組みがあり、様々な事例に当てはめてみると物事を極めて理解しやすくしてくれます。

 その‘四位基台’原理の最大の特徴は神と人間の関係の捉え方にあり、神を人間という存在から完全に分離された超越的な存在とは捉えておりません。
 つまり、存在として表裏一体であり、いわば人間は神の体であり、その分身であるというような見方であり、汎神論に近い側面をもっております。
そしてその汎神論の中でも‘万物は神に内在する’と捉える万有内在神論に最も近いと言えます。

 ただ、一般にある万有内在神論と異なるのは その万物に‘個性真理体’という独立性を与えていることであり、人間も 神から独立した自由意志と主体性をもった存在であるということを説いているのが統一原理なのです。

 そして‘四位基台’原理については 原理講論では単純に中心が‘神’と表示されていますが、統一思想要網にはさらに詳しい解釈があり、その中心は‘心情’-‘目的’であることが説明されています。
 つまり、‘四位基台’の中心としての‘神’は究極的には神の心情や目的を指すことになります。

 統一原理の‘四位基台’における存在物の捉えかたとしては それらを汎神論のように、神の本性が目にみえる形となって現象化した存在と捉えており、神の性質が万物に遍在していることになります。
 しかし、その存在状態にありながら、人間には独立した主体的な心が神から付与されており、人間の心だけは最初から神と表裏一体ではなく、そこに自由意志が与えられており、最終的には善を目指すようにはなるが、成長過程において間違いを犯す可能性も合わせもっているという捉えかたをしているのです。
しかし、人間が精神的に成長し、善なる人格を完成した時にはその心も神と表裏一体となり、神性が遍在するようになるというように統一原理は捉えているのです。

 つまり、‘四位基台’とは神を「正」としその属性を複数の「分」とし、その属性の相互作用から生じる結果を「合」としてその正→分→合の展開によって生じた各存在物の位置関係について論じているのですが、「正」→「分」は時空を超越した因果関係によるものであり、人間の場合で言えば「正」である神と「分」として人間の関係は深い精神的世界の関係になります。
 したがって、‘四位基台’とは汎神論のようでもあるのですが、人間世界における神との関係には特殊な要素が含まれることになり、完全な汎神論ではなくなるのです。

 しかし、その神と人間の関係は‘四位基台’原理を基に考えれば、原因と結果の表裏一体の関係でありながらも 精神的な面では神が「目的」「理想」の対象となり心情的な関係も作られることになり、それを完成するには人間の成長期間における努力が必要になります。
 それを原理講論では「人間の責任分担」と表現していますが、その神と人間の関係を統一原理ではわかりやすく親子の関係と言い表しているのです。
 つまり四位基台における神と人間の関係は心と体の関係と親子の心情関係を複合したものであり、複数の人間が各々神と一体の関係をもったならば、その人間間においても完全な調和関係が成立できるという原理なのです。

 ‘四位基台’原理は単純な構成ですが、様々な存在、現象への適用が可能であり、それを社会現象に当てはめてみるのも意味があることだと思います。
 しかし、王妃様が「自分は神様の妻である」と言ったり、晩年の王様が「夜の神様と昼の神様」の話を真面目にするのが今の統一教会ですから、Aさんのように統一原理を「四位基台哲学」と言える統一教会員が果たして世界に何人いるのか想像もできず、哀れな現状です。

感想雑感

神々の黄昏さん:
>私は非常に「四位基台哲学」を愛しており、そのことは“火の粉を払え”で時々英文和訳をされ、お笑いコメントまで披露してくださる暗在さんが証人です。 ///
はいはい、証人になりますよ。神々の黄昏さんが「お笑い」を非常に愛しておられることの。そして「四位基台哲学」に強い愛と拘りと確信をもっておられるらしいことの。以前からの「火の粉を払え」ブログの一読者として証人になりますよ。ってか。

Aさんの:
>西川先生にはそのような深い哲学的なものがありません。
>単に、統一原理を儒教の亜流のようにとらえ、西川先生のヒューマニズムが解決策のように考えるのには同意できません。///
など、少し系統の違ったものや人を何というかケチョンケチョンにいう他ではめったにお目にかかれない急降下なこの角度、諸先輩方の定番、なつかしーい波動でした。「主」への愛着が強すぎる故の諸先輩方のご愛嬌のようなものではないでしょうか・・・と自分がターゲットになっていない場合はこんなことも言えてしまう私ですが・・・

以前神々の黄昏さんが「四位基台」についての拘りを見せた際に、やはり普通に「個人的四位基台または特に家庭的四位基台の完成」という観点からででも考えているのだろうと思い、あまりピンと来ず、それについて尋ねる気さえ起らなかったのですが、今回は、はあそういうことでしたか、“何故か”黄昏さんが深めた「四位基台」の論考が、汎神論という概念なども取り入れて発展して語られる機会が得られたようで、よかったです。
リオスさんが書かれたような中世の「普遍論争」的問題もありますが、どちらもいえるということで、結論は単純ではないのでしょう。
それでうまくいけばいいですけどね。(←ちょっと自分何言ってるかわからなくなってすいません)

教育勅語と儒教

>統一教会の権力構造をめぐる動きは、韓国の儒教の影響を無視することはできない。(米本氏)

>特に韓国人以外の統一教会員にとって理解するのが容易でないのは 統一教会の発祥の地である韓国統一教会の根底にある伝統的な儒教の影響です(神々の黄金氏)

>「統一原理」論が真理かどうかを疑うのは、「原理講論」と「み言葉」の内容が矛盾していると指摘されながら、そのことを教会の教学担当者は解明しようとしない。(米本氏)

原理講論の中にある「自然屈服」と言う言葉には共感できても、文氏のみ言葉による「絶対服従」と言う相反する言葉には、以前から強烈な抵抗感がありました。
だれに対する絶対服従なのか...神なのか? 文氏なのか? どこからこんな言葉が生ずるのか?
やっとその疑問が、お二方の秀逸な論考により解けました。まさに朝鮮型儒教思想の流れが、根底にあったのですね。改めて、それぞれの国の背景にある歴史文化の流れを知ることは必要なことだと知りました。
そんな中、数か月前に、どなたかのブログの中で、たまたま「教育勅語」の言葉を目にし、検索すると、「教育勅語の口語文訳」があり、その内容を始めて知って驚きました。その中には、統一原理で言う「四位基台」を思わせるような内容もあり、感動を覚えたりもしましたが、よくよく読むと当りまえのことが書かれているのですね。下記を是非ご覧ください。
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.html

下記は、評論家の高森明勅氏による動画での歴史的背景による教育勅語の解説ですが、Q4では、儒教道徳は、序列による縦の道徳、教育勅語は、和を重んじる横の道徳であると明快な口調で高森明勅氏で解説されています。ここにも国民性の違いを感じます。是非ご覧になってください。
http://blog.goo.ne.jp/nk53613/e/26410d6a81d5cdfa6d94b849fc5a9afb

原理も儒教も同根

儒教の中核は父子、君臣、夫婦等々の人との関係性にありますが、原理における神も人格神として人との関わりの中で述べられている等々から、原理自体も儒教をベースにしていると強く感じます。
それに、もっと汎用性を付与するために、いかにも理屈ぽく、論理性があるがごとく体系化されているために、そこに新しさを感じるのは事実です。
しかしだからといって、そこに深い宗教性や哲学性があるとはあまり感じません。
多くの人々に共感を得ようと、何とか体裁を整えるべく努力した軌跡は見て取れますが、「宗教と科学を統一した課題として」と総序にて大々的に謳っておきながら(期待させておきながら)、それ以後の本論にて、宗教と科学を統一した課題として説かれている箇所が何一つないのは唖然とします。

神々の黄昏さんは、原理、中でも四位基台の有用性を強調されていますが、「統一原理に対する理解は統一教会内部においても千差万別であり、‥」と述べられているように、人によって解釈が異なってしまうようなものであれば、普遍的真理のかけらすらなく、そこらの酔っ払いの講釈とさほど変わらないと見ています。(どんな内容であっても、聞く方が悟れば真理となるようなものです。)
「それを正しく理解して」ともおっしゃられても、そんなものがあるのであれば初めから何故文章にしないのでしょうか。結局、言葉を定義することなくあいまいなままであるからではないのでしょうか。例えば、よく言われる「神を中心として」とか「神の心情」とはどうように定義された内容なのかよく分かりません。神は第一原因であるので、何もしなくとも、神を中心にしているのでは?逆に言えば、全ての特性、性質を兼ね備え、時空を超越し、偏在する神を中心にするということは、何をも中心にしないとこととイコールでは?同様に、全ての個性真理体の原因である神の心情は、全ての心情を持っており特定できないのでは?あるいはどのように特定するのでしょうか? 等々全てにおいて曖昧です。

教会では、「原理は素晴らしい」と自画自賛を繰り返し、そこに探究、批判、議論を進め、もっといいものにしていこうとの働きかけが全くなく、「問題は原理ではなく、真意を理解できない私」とする姿勢 ‥‥ これってまさに儒教の悪しき権威主義の成せる技のように思います。

リオスさんへ

>創造主である神様は、「無限なるお方」と捉えるが一般的だと思うのですが、であるならば、真理も無限と言えます。

>「宗教と科学を統一した課題として」と総序にて大々的に謳っておきながら(期待させておきながら)、それ以後の本論にて、宗教と科学を統一した課題として説かれている箇所が何一つないのは唖然とします。


 米本さんは既に新しい記事をアップしておりますが、リオスさんからの問いかけも無視できないので、その統一原理に対する疑問に対しても簡潔に返答しておきたいと思います。
 上記の最初のコメントにあるリオスさんの発想には問題があります。
つまり、<神様は「無限なるお方」と捉える>という表現は漠然としていて定義としては曖昧であり、一般論として成り立ちません。

 神が「無限」であるという言い方は丁度「心の世界は無限である」と言うのと同じであって、ただ有限な姿、形では表しきれないという意味であり、たとえ無限のエネルギーと無限の特性ともっていたとしても、そこに統一性がなければならないのは当たり前なのです。
 もし存在としての統一性がなかったならば、そのものを神と名付けることもできないのです。

 つまり、‘神’という概念がなりたつ以上、他の存在物との関連性やその実在性についても真理としての追究が可能なのです。
 神が無限とされるのは 人間から見たその存在範囲の大きさにおいてであり、‘神’という概念と同時にその属性となる概念も生じてくる訳でありますから、真理は無限に追究することはできても、矛盾した理論は‘真理’とは言えないので 相反する真理が無限に増えるということはないのです。

 また上記の下のコメントは、そこでのリオスさんの不満も充分理解できます。
原理講論の真理としての内容は、学問的というよりはやはり宗教的なものであり 科学性はそれほど徹底されてはおりません。
 しかし、「統一思想要網」はその原理講論が論じている真理により近い内容を著しており、‘真理’について真剣に追究されるお考えがあるならば、「統一思想要網」はかなり参考になるはずです。

 ただ、「統一思想」について論じることは 今の統一教会では超‘マイナー’なので、それを勉強していっても今の統一教会の信仰を理解することには全くならないと思います。
 しかし、統一教会にではなく‘真理’と神の存在について関心があって それを追究しようと思うならば、「統一思想要網」を学ぶことは必須だと思います。

皇帝

米本様、

文先生の聖和式のビデオで見た一連の漢字は、今写真で見ると、赤い棺に金の字で大きく書かれてあったものだとわかりました。

棺の一方には
「天一国真聖徳皇帝」
反対側には
「億我蒼生為?君皇」(すみません、一字読めません)

天一国の皇帝で、真の聖なる徳をそなえた皇帝だと言いたいのは、私でもわかります。「億我、、、」がよくわからないので、説明いただけると助かるのですが。。文先生の自筆があったのを基にしたと思うのですが、決定的な証拠はありません。



神々の黄昏さんへ

ご回答ありがとうございます。

「神様は無限なるお方と捉える」と書いたのは、別に定義したわけではなく属性の一つを述べただけで、また、別に統一性があるとかないとかを言っているわけでもありません。

「真理は無限に追究することはできても」と仰られているように、無限に追求しうる対象の真の真理を、有限存在の人間が解明できるわけがないと考えているのです。「原理講論」や「統一思想要網」で語られる内容は単なる物事の捉え方、見方、切り口にすぎず、それを真理というのは自画自賛でしかありません。

ウィトゲンシュタインという哲学者は、「われわれは語り得るものしか語ることができない。」そして「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」と有名な言葉を残しています。これは、「神」を説明しようとしても、言語で神を語り得る範囲を決して超越することはできず、形而上学の問題は、それを単にそれをごまかしているだけで、本来の哲学の役割は、「何が語り得ることであり、何が語り得ないかを明確にしていく」こと、この行為と探求自体が担うべき役割であるとの指摘をされており、私も全く同感です。「原理講論」も「統一思想要網」も神に対する説明は単なる「言葉遊び」の範疇であり、「真理と神の存在について関心があって それを追究しようと思うならば、「統一思想要網」を学ぶことは必須だと思います。」と言われてもはっきりとお断りします。(時間の無駄です。)

哲学とは前学問的学問

科学と哲学を同列に考え、科学的思考を哲学一般に当てはめようとするのは愚の骨頂です。なぜなら、思索する対象となるものが、科学とは根本的に異なっているからです。さらに言えば、語り得ぬものというものを規定することは、学問を大幅に陳腐化させる結果をももたらします(主に研究者の世界のことを思い浮かべますが)。人の探求心が、あらゆるものに向けられてきたからこそ、豊かな学問の発展があったわけです。形而上学的なものを切り離して哲学を規定したならば、哲学の主要な部分の多くが失われるでしょう。そういう意見もまた、思索の一部分でしかありえないのです。

神々の黄昏さんが統一思想を挙げられたのは、よくわかります。全くの創作ではなく、ギリシャ哲学等ですでに語られている部分から始まって、各分野にわたって体系だてられているからです。教理解説書である原理口論とは、アプローチが違います。李相憲氏が、医者だったこともあって、学説的な論文になっているという印象です。

保守とリベラル
冷戦構造の中、統一教会が世界摂理としてテーマにしてきたのは、アメリカ共和党保守派の戦略です。サタン勢力とみていた左翼リベラリズムは革新派、改革派というよりは、マルキストのことを言います。

しかし、戦略家の視点から見た時、それは、多極構造から、第二次世界大戦を経て、米ソの二極構造に、ソ連崩壊によってアメリカの一極支配構造に、アメリカ衰退によってふたたび多極構造になっているだけです。右派、左派の冷戦構造も、作られた支配体制の帰結でしかなかったのです。

神々の黄昏さんにこれだけは尋ねたいです。です。

ちょっと前回は質問内容が多岐にわたりすぎたのでブログテーマ内で。

今回の船の沈没事件は全てが杜撰で日本では考えられないレベルです。ああいう体質を見て韓国人が選民という事に納得出来る人は少ないと思います。

日帝時代の苦難故に韓国が選民国家として選ばれたとしても、あまりにも御父様のみ言は韓国贔屓に偏っています。日本は御父様のお情けとイギリスの失敗で母の国に選ばれたように言われますが、世界から賞賛される日本の素晴らしさの土壌は昔から培われたものが多いです。忠孝の精神以外御父様が日本を褒められた事はあまり聞きません。

そこで前の質問ですが、文先生は本当に日本より韓国が優れていると思ってたのですかね?
留学していたなら日本人の勤勉さや器用さ、韓国人より基本的には人がいい事もご存知なはずです。

日本をパートナーとして認めたくない韓国人の為に日本をあえて貶めて仰っているのか、韓国人の特性の異常な愛国心で真実が見えなくなったのか謎です。

李子朝鮮王朝のプライド故に、鼻から日本は自分達の弟の立場と見なしてた故に真実を認められなかったのか、文先生の策略がそこにあったのか神々の黄昏さんはどうお考えですか?
どう考えても韓国を妻の立場で支えていける国って男性に仕え耐えて支えてきた女性の歴史を持つ日本以外ないと思うのですが。

桜子さんへ

 桜子さんの質問に対しては その答えをここのコメント欄において米本さんが紹介した‘小中華思想’によって説明できると思います。
 文先生が‘み言葉’の中で忠、孝、烈などを強調していることが多いことを見ても、文先生ご自身が儒教思想の強い影響を受けているということは比較的分かりやすいのですが、‘小中華思想’は儒教と違い、統一教会員にとってあまりなじみの無い言葉です。

 小中華思想についてはウィキぺディアにその概略が書かれていますが、中国王朝を世界の中心と考えて‘中華’とし、それ以外の国々を‘夷狄’(文明化しない野蛮人)、‘禽獣’(獣に等しい存在)と蔑むのが中華思想であり、小中華思想とはその‘中華’をさらに‘大中華’と‘小中華’に分け、中国王朝を大中華とし朝鮮は小中華であるとして 朝鮮はその世界の中心である中華の一部であると考える思想です。

 したがって中国より下ではありながらも、それ以外の国々に対しては優越感を持ち、周辺諸国を野蛮な夷狄、禽獣として見下すことになります。
 さらに、現実はどうであれ「朝鮮は中国王朝と共に世界の中心をなし、周辺諸国を従属させている」との解釈に向かったとのことですから、当然日本人も文明化しない野蛮人と見なされ、朝鮮に従属している立場と考えていたことになります。

 しかしウィキぺディアには、18世紀後半になると、「小中華思想から崇拝すべき大中華が抜け落ち、儒教文明化した朝鮮のみが唯一の華だとする朝鮮中華思想へと変貌を遂げることになる」と書かれており、その民族主義的思想が現在の朝鮮民族を支配していると思われ、文先生や韓国統一教会にも大きく影響していると考えられます。

 桜子さんは「文先生は本当に日本より韓国が優れていると思ってたのですかね?」という質問をされましたが、文先生は儒教的な観点が強いですから、能力的なものはあまり重視していなかったと考えたほうがよいと思います。
 それは、見事な失敗に終わった「パンダ自動車の摂理」をみても明らかです。
その失敗は朴普煕氏に全てを任せた結果なのですが、最初から能力の有無など考慮しておらず、ただ文先生が補佐官として信頼していたという理由で、そのビジネスの素人に大金を投入した事業まで全て任せてしまった訳でありますし 最初から能力など度外視していたと考える以外にないのです。 

 つまり、文先生にとっては、一つの事業や社会活動を行うにしても、それが成功するかどうかよりも、それを韓国人が行うことに意義があり、韓国人がトップであることが重要なのです。
 それはまさしく朝鮮中華思想と密接に関連したものであり、そこに朝鮮型儒教思想が加わっているのです。

 文先生の思想は血統中心でありますから、優れているかどうか以前に、血統的な内容が価値をもつことになり、その血統中心の人間観からしても、韓国人が上の立場になり日本人やその他の国々の人々は必ずその下の立場にならなければならないのです。
 それはアベル・カインなどという‘復帰原理’では説明できないことで、選民思想という形での朝鮮中華思想と言えるのではないかと思います。

 多分桜子さんは文先生が世界の人々を格差のない平等な立場で統一しようとされたのが「摂理」だったと思っていたため、そのような疑問がわいてきたのだと思います。
 ところが、いままでの統一教会の組織構造をみるかぎり、そのような理想を目指していたとは考えられず、米本さんが指摘されたように韓国人中心の「王国」を目指していたとしか考えられないのです。
 それは当然原理講論にある共生共栄共義主義社会とは別物であり、そこに統一教会組織の矛盾が集約されているという見方もできるのです。

 ただ、文先生が「日本を褒められた事」がそれ程ないわけではなく、古い話ですが 持ち運びできる携帯型ビデオデッキを日本企業が開発、普及したことを褒められたり、太平洋戦争でさえ、日本が欧米国家と対等に戦ってその植民地を解放したことをアジアの代表として高く評価したりもしています。
 しかし、そのような評価と教会内での人間評価は全く違った観点なのです。
今回の韓国船沈没事故はニュースを聞けばわかるように、ほとんど人災といって差し支えない事件であり、日本の専門家も呆れるぐらい信じられないミスが重なっています。
 しかし、そのような韓国社会の後進性は世界の人々があきれようと、韓国人自身にはよく自覚されていないのかもしれません。

 朝鮮半島の人々の中にある朝鮮中華思想は、統一教会や文先生の思想の中にもはっきり見て取れますが、かなり厄介な思想、体質であることは間違いありません。
 しかし、この根強い‘堕落性’としての民族主義を克服しなければ、統一教会が理想世界を目指す団体として生まれ変わることはできないでしょう。

神々の黄昏さん、コメントありがとうございます(*^^*)

 >つまり、文先生にとっては、一つの事業や社会活動を行うにしても、それが成功するかどうかよりも、それを韓国人が行うことに意義があり、韓国人がトップであることが重要なのです。
 それはまさしく朝鮮中華思想と密接に関連したものであり、そこに朝鮮型儒教思想が加わっているのです。
 文先生の思想は血統中心でありますから、優れているかどうか以前に、血統的な内容が価値をもつことになり、その血統中心の人間観からしても、韓国人が上の立場になり日本人やその他の国々の人々は必ずその下の立場にならなければならないのです。
 それはアベル・カインなどという‘復帰原理’では説明できないことで、選民思想という形での朝鮮中華思想と言えるのではないかと思います。


自分には理解不能な点が多いです。
神々の黄昏さん指摘の格差のない平等社会よりややピラミッド型なのかと漠然と感じていましたが、アベルの正道のみ言もあったのでトップはカインの為に生きれる能力と心情を持った人が選ばれるべきだと考えていました。

神々の黄昏さんが仰るように文先生が韓国人と血統にこだわっていたなら、馬鹿な血筋が民衆の血を吸う北朝鮮と基本的構造は一緒で、そこにアベルの正道は存在せずカインの犠牲のみが生じる事が正当化されアベルの正道のみ言との矛盾が生じてきます。

能力がないアベルをもサポートする道はカインの正道かもしれませんが、アベルとカインがそれぞれ努力して一体化すべきが理想なのにカイン側のみにより重荷を背負わすのは納得できません。ただ立場はカイン側でも心情においてアベルな為にそのような責任が天から与えられたと見る事も出来、そうすると馬鹿な韓国リーダーは天から見たら心情的位置はカインで実は日本をアベルとして見て期待していたとも取れるのかと思いました。

神々の黄昏さん説の文先生は朝鮮中華思想故に韓国人をリーダーとして立てる事を重視してたとなるとかなり複雑な思いもわきますが、ちょっと違う観点から見る事も出来ますね。
ただあまりにも複雑でこれをどうやってフツーの氏族や伝道対象者に語れるか自信がありません。
そんな考えで万民救済も難しいとも思うのですが。

次のご子女様の代で朝鮮中華思想を脱した指導者が出るのが神様の摂理なのでしょうか。
それ以外に統一教会の希望の道はないと思われます。今のままならオウムの生き残りのアレフと同じです。

あと文先生の太平洋戦争のみ言は軽く記憶にあったのですが、どのみ言にありましたか?韓国人幹部はそのみ言を知っているのか疑問です。

“火の粉を払え”は統一ブログ村の金字塔です。

神々様のコメントを米本様がアップされた内容がとても興味深いタイトルだったので、読まなければと思いつつ、米本様のブログは私にとって、読むのが難しいので、後回しにしておりましたが、・・・最高に意義深い内容でした。・・・米本様と神々様とコメントをして下さっている統一教会で、稀に見る正常で意識の高い方々に感謝します。

しかし、神々様は、統一教会の真実の実体を深く掘り下げて認識していらっしゃる様で、驚くと共に神々様をメシアと慕って行ったら、私の頭の中でモヤモヤや、解決出来ない矛盾もスッキリしそうな見通しを感じます。・・・しかし、神々様も私の様なカイン的人間につきまとわれても大変でしょうから、米本様のブログの中だけでも結構です。

兎に角、米本様、神々様、ありがとうございます。・・・珍しく私の中の意識と感情が高まりました!

統一王朝への若干のコメント

<注>以下のコメント文は、Aさんからかなり以前に個人メールでいただいたものである。しかし、そのときはブログのテーマが佐賀地裁判決に移っており、アップしても注目度が低いと判断し、保留にしていた。ようやく前記事を再録することができたので、代わって投稿することにした。

・・・・・・・・・

 
 
 お父様が戴冠式をされたことをもって、朝鮮王朝との類似性が指摘されているようです。しかし、お父様の発想は、統一原理そのものから来ているのであって、決して朝鮮王朝のような絶対服従を意図したものではありません。
以下、原理講義のようになってしまうのをお許しください。

 ご存知のように、神の創造目的は、子である人間が、三大祝福(個性完成、家庭完成、万物主管)を成就して、喜んでいる姿を見て、親である神も喜ぶということでした。ところが、アダムとエバは成長期間において堕落したために、第二アダムとしてイエスが来られて、その三大祝福を成就しようとしましたが、エバを復帰し家庭を築くことができず、十字架で亡くなられました。

 そのイエスの価値について、キリスト論には
「イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。何故なら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また、原理がイエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間であると主張したとしても、彼の価値を決して下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引き上げるだけである。」
 とあります。

 これはすなわち、イエス様と同じように創造本然の人間として来られたのがお父様ですから、お父様も同じ価値を持ち、さらには私たちも創造本然の人間となれば、その価値は同じだということです。

 お父様は王について、
「男女が真の愛で一つになった家庭は、王権に属するのです。本来、アダム家庭は王家を意味します。そこから氏族王、民族王、国家王が出てくるのです。」(平和神経14)
 と説明されています。
 すなわち創造本然の人間となれば、誰でも王、王子、王女となり、それが拡大して氏族、民族、国家、世界の王となるということです。
ですから、2006年の戴冠式では、参列者に対して、
「永遠の平和の王、神様を真の父母として侍って暮らす真なる王子、王女になってください。」(平和神経5)
 と呼びかけています。

 お父様と私たちとの関係においても、愛において平等であると述べています。
「人類始祖のアダムとエバも、神様を父と呼びます。だとすれば、彼らの子女たちは、神様をおじいさんと呼ばなければならないでしょうか。しかし、彼らも父と呼ぶのです。なぜそうするのですか。縦的な中心である神様の立場からすれば、すべての愛の相対は平等です。神様の愛を横に広げて繁殖させ、生産されるその相対は、時空を超越し、誰彼を問わず平等の価値を待つようになります。すなわち、完成した愛の価値は平等だということです。」(平和神経3)

 さらに明確に、
「『家庭盟誓』は、『統一教会は文総裁の家庭を中心として誓いなさい!』ということではありません。皆様は、皆様の家庭を中心として誓うのです。平等です。」(平和神経14)
 とも言われています。

 またさらにお父様は、カイン・アベルの蕩減復帰時代が終わり、後天時代に入った、そこでは「『正午定着』的な人生、すなわち影のない人生を営みさえすれば、皆様は今から自動的に天国に入っていける、恩賜圏の時代」(平和神経3)と言われています。

 お父様は、良心に基づいて、影のない正午定着的生活をして、それを毎日神様に報告する生活(アージュ)をしなさい、そして愛の家庭を完成しなさいと教えられているのであって、権力維持に汲々としている教会指導部に従順屈服せよとは言われていないのです。
  • [2014/06/07 13:05]
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  • Aさんの代筆(米本)
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儒教スンバラシイ!アレ?

再録アップですね、されるもんですね、拝見しました。
米本さんが(8)で書かれたように、統一原理や統一思想にはかなり儒教が入っていると思います。

受験科目の「倫理」の参考書の中の儒教の章が意外にもすんばらしかったので、その後聞いた「統一原理」を否定し切ることができずに、結局深入りするはめになった、
でも実際の(朝鮮型)儒教はいやですね。

ロックやブルースといったミュージックシーンの中の黒人はすばらしかったので、
祝福の相手に黒人を志望したら文氏がサッと黒人の相手を連れてきてくれ、
アメリカにも行ったのですが、私は実際の黒人(たち)は御免こうむった方がよかったようでした。

いつも頭の中の世界と現実がこんなに違うのは、解離ともいえるかもしれませんが、自己分析や人間研究が足りないのでしょうね。この☆地球は勉強になるなあ。
この星の住人は愛おしい。by宇宙人ジョーンズ (笑)

すばらしい黒人ヴォーカルデュエット例
http://www.youtube.com/watch?v=ijvx-baNMdU
だらけて見えるのはリハーサルだから。でも音声は完璧で本番並み。さすが。
左端の起動されてないキャラクタは着のみ着のままのストリートミュージシャン、グランパ・エリオット。

統一王朝と李氏朝鮮王朝3

「絶対服従」って言葉をアベルの立場の人間はよく使いますよ。

神や文先生夫妻だけではなく、文先生夫妻の代身である教区長や教会長に対しても「絶対服従をしろ」と言って来ますからね。

主力が婦人たちなので、原理をよく分からずに盲目なんですよ。

朝鮮型儒教の問題

「儒家と統一教会の信者の共通した理想とは、理想的な家庭である」との指摘は否定することができません。
 それは原理講論においても、神の愛は家庭における父母の愛、夫婦の愛、子女の愛という形の三対象の愛として現れるという記述があり、まさに神の愛が現実世界に展開されるその基礎であると述べています。
 従って、原理講論において説かれた‘神の愛’とは神と人間個人の関係において感得できるものではなく、親子関係など家庭における人間関係の中で具現化し、体得できるものとなっているのです。

 しかし、伝統的なキリスト教においては、そのように家庭を重視しておらず、むしろ個人の内面世界における神との関わりを基本として‘神の愛’についても考えています。
 その為、エロスの問題においても、神の愛=アガペーをエロスと対立した形で理解するようになってしまうのですが、それに関しては前の記事のコメントで米本さんが書いたような違和感さえ生じてくる問題があるのです。

 そのように考えて行けば、神の愛を人間の家庭に展開される愛の根本原因として捉え、その神の愛が実現される場としてではあっても、家庭を重視するという意味では、統一原理は確かに儒家思想と共通性があります。
 そして家庭を重視するならば、必然的にそこから派生する‘血統’という概念についても尊重するようになってくるのです。

 米本さんが紹介されたジョージ・D・クリサイディス氏が「儒家と統一教会の信者の共通した理想とは、理想的な家庭である」と理解したのは確かに頷けるのですが、しかし統一原理の世界観全体を捉えるならば、やはりキリスト教を発展させたもの捉えるべきだと思われます。
 何故ならば、統一原理においては理想的な家庭を完成させる前段階の最も基礎的な目的として「個性完成」について論じており、人間が自由意志を持って精神的に成長し、神と同様に心と体が統一され、成熟した人格を完成せねばならないことを説いているのです。
 つまり、多様な愛を獲得できるのは家庭においてであり、家庭を中心としなければならないことを説きながらも、人間が個として完成せねばならないことを最初に説いており、あくまで神と人間が‘一体化’するのが第一であると考えているのです。

 統一原理において神の第二祝福とされる「家庭完成、子女繁殖」が理想として語られていることに関しては確かに儒家思想と共通するのですが、統一原理においては、それも神と相似するまでに至った人格の成熟した男女によって初めて可能であるということになっており、それを達成する方法と人間観においては思想的な違いがあります。

 しかし、儒家思想と統一原理にそのような違いがあるとは言え、家庭の理想的な人間関係を重視することなどは かなり似た側面があるのも事実です。
 ただし、その儒家思想とは孔子が説いた原点にあるもので、いわゆる五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持する為に、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することを教えた儒教のことです。
 ‘仁’とは人を思いやることで、孔子は仁を最高の徳目としていたとのことですが、それは統一原理、あるいはキリスト教における‘愛’とほとんど同じ意味と解釈できます。
 そこには大きく見れば、宗教が教える‘普遍的真理’といったものさえ発見できます。

 しかし、統一教会の問題と大きく関係している朝鮮型儒教はその本来の儒教とは異なっているように考えられるのです。
 それは李氏朝鮮王朝が権力維持に儒教を利用したことによるのでしょうが、愛を示すような「仁」などの言葉よりは「忠」「孝」「烈」といったような位置が下の者が上位の者に奉仕することを美徳として奨励する言葉が統一教会の中でも強調されているのです。
 つまり、原点にある本来の儒教は統一原理と親和性があるものであっても、朝鮮型儒教は支配者に都合のよいものに歪曲されており、統一教会に悪影響をもたらしたものは、そちらの朝鮮型儒教なのです。

 米本さんが「教団の教学が儒教の研究をしたという話を聞いたことがない。」というのも当然のことで、孔子が説いた本来の儒教は統一原理と共通性があるとは言え、統一原理はキリスト教的な観点から真理を追究して、その思想を凌駕していると考えており、一方 朝鮮型儒教に関してはそれ程思想的に高度なものではなく、却って それを研究するとそれを口にする文先生の御言葉と統一原理の間の矛盾が露になってしまうと教団の教学が理解しているからだと思っています。

一口に「キリスト教」といっても・・・

神々の黄昏さん
>米本さんが紹介されたジョージ・D・クリサイディス氏が「儒家と統一教会の信者の共通した理想とは、理想的な家庭である」と理解したのは確かに頷けるのですが、しかし統一原理の世界観全体を捉えるならば、やはりキリスト教を発展させたもの捉えるべきだと思われます。


 一口に「キリスト教を発展させたもの」といっても、それはどんなキリスト教なのかが問われます。

 無知ゆえ、ウィキペディアの「韓国のキリスト教」を紹介するだけですが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99
 ヨーロッパ(?)の宣教師によってもたらされたキリスト教はその国々の伝統的な文化によって、独自の変容、発展を遂げたと思われます。聖書というテキストは基本的に 同じであっても。

 このことは、日本のプロテスタントが100派以上あることを考えれば容易に理解できるでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E6%95%99%E6%B4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7

 このことから、神々の黄昏さんの言葉を正確に書くとすれば、「韓国のキリスト教を発展させたもの」ということになるでしょう。

 ところで、『統一教会の現象学的考察』には、前出のウィキペディアより、より詳細にこのことが書かれています。(ぼくの知識では理解不可能)

 同書の目次を紹介しておけば、
(前略)
第2章 統一教義
第3章 韓国宗教の伝統
第4章 キリスト教の到来
第5章 韓国の新しいキリスト教徒
第6章 統一思想におけるキリスト
(後略)
 となっています。

 また、同書の著者・クリサイディス氏は、統一教会は韓国の新しいキリスト教(少数派宗教集団)の影響を受けているとして、聖主教・胎内教・ペクナムジュ率いる集団・リーヨンドの神秘主義・イスラエル修道会の5つの集団をあげています。

 このように見ていくと、先の「韓国のキリスト教を発展させたもの」という定義も危うくなってきます。

 なお、次回の暗在さんが訳してくれた本でも、このことに若干触れています。


>米本さんが「教団の教学が儒教の研究をしたという話を聞いたことがない。」というのも当然のことで、孔子が説いた本来の儒教は統一原理と共通性があるとは言え、統一原理はキリスト教的な観点から真理を追究して、その思想を凌駕していると考えており、一方 朝鮮型儒教に関してはそれ程思想的に高度なものではなく、却って それを研究するとそれを口にする文先生の御言葉と統一原理の間の矛盾が露になってしまうと教団の教学が理解しているからだと思っています。

 ということもあるでしょうが、クリサイディスの本を研究する知力が教学担当者たちになかったからだと思います。身も蓋もない言い方をすれば。

億我蒼生為?君皇

 李朝と統一教会との類似性を論じたすばらしい記事の再掲載に心より拍手をお寄せ致します。前回の千尋さんの疑問(投稿「メシアというより皇帝」)を少しは解決するのではないかと思い・・・。

億我蒼生為?君皇

 数字の「億」ではなく、記憶の「憶」ではありませんか?

 記憶の「憶」ならばですね、

 我が蒼生(そうせい=国民)を憶(おも)い

 ときれいに読めます。

 李朝時代、『朱子家礼(しゅしかれい)』に則って、葬列の先頭には布の上に漢文の対句をしたためた幟と、それを持った人が立ったものです。
 近年では、1989年に亡くなられた、日本の皇族出身の李朝最後の皇太子妃「李方子」女史の葬列が代表例として挙げられましょう。
 もっと古くは、彼女の夫君である李垠(り・ぎん)殿下のお葬式がそうでした。また、日本ではあの同志社の創立者、新島襄のお葬式の先頭にも、そういう幟を持った係りの人が立ちました。幟の文字は勝海舟がしたためたものだったと記憶します。

 なお、後半の「為?君皇」ですが、たぶん「為〔其〕君皇」ではありませんか?

「其の(その=天一国)の君皇(くんのう=皇帝,君主)と為る」と、これもきれいに読むことができます。

 ただ、申し訳ないことですが、晩年の文氏は宗教よりも李朝を舞台にしていた時代劇の主人公を演じているような、そんな気分にしばしば陥っていらしたように見受けられます。こうした字句を見るにつれて、その思いは確信にまで高まりました。

一口に「キリスト教」・・・付け足し

「キリスト教を発展させたもの」にこだわることのお許しを。

 おそらく、この定義は教団の公式見解ではないかと思われるのですが、このように言い切れるということは、教団がきちんと、カトリック、プロテスタント諸派などなどのキリスト教観を超越した立場に立った上で初めて言えることだと思います。

 では、統一教会はきちんとキリスト教を理解しているのでしょうか(この言い方にも矛盾がありますね)。

 そもそも、今の教会員で『聖書』を読んだことがある人はどれだけいるでしょうか。
 このように書くと、身も蓋もない言い方になってしまいますね。
 では、草創期の頃の教会員は?

 ぼくが知っている日本・統一教会の教学担当は、広義昭さん(その後、教学的に統一教会を批判するようになる)と、現在の教学担当の大田朝久さんだけです。(80年代以後の教学担当?)

 では、この2人はどの程度、理解しているのか。

 2人は元キリスト教徒だけど、ある教派(名前失念)に所属していた。

 その教派に矛盾を感じ、統一教会に回心し、その教派からはアウフヘーベン(止揚)されたと思うけど、全知全能的にキリスト教を理解されたとは思えません。
(もっとも、全知全能的にキリスト教を理解する人がいるなんているわけないけど)

 話を戻せば、「キリスト教を発展させたもの」と言っても、所詮、そのように規定する人のキリスト教への理解、その理解のスタンスが問題になるということだと思うのです。
 そして、それは文鮮明氏たちのキリスト教理解とは異なるものでしょう。

人材不足とダブルスタンダード

お久しぶりです。

米本さん
>話を戻せば、「キリスト教を発展させたもの」と言っても、所詮、そのように規定する人のキリスト教への理解、その理解のスタンスが問題になるということだと思うのです。

おっしゃる通りだと思います。太田さんの個人的見解が公式見解になってしまうことが問題だと思います。もっともっといろんな人が携わり、議論や研究をして、統一教会としての見解を定めていくべきだと思います。端的に言ってしまえば「人材が乏しい」ということになります。

しかも韓国と日本でも、教学理解はまったく違うと思います。例えば「天一国憲法」などは韓国本部では完全に「来たるべき天一国という国の憲法」と理解していますが、日本本部では「あくまでも教会内の規律」のように考えています。日本の出版物(TODA'S WORLD JAPANなど)では必ず「天一国憲法(教会法)」と、括弧で書かれている通りです。

(参考)
http://ameblo.jp/yosia621/entry-11804324915.html

日本の一般信徒は韓国側と同じく「来たるべき天一国という国の憲法」と思っているのですが、日本本部はそう考えていないというか、「国の憲法」などと断言してしまうと、クーデターでも起こしかねない団体に思われてしまうから(教会法)などと括弧書きせざるを得ないのでしょう。

統一教会の最大の問題は、このようなダブルスタンダードだと思います。表向きは「あくまでも教会内の規律ですよー」と言っているけれども、実際は「統一教会の国を作って、そこの憲法になるんだ」と思っているダブルスタンダード。

表向きは「本部は信徒の経済活動に関与していない」と言っているけれども、実際は会長自らが率先して献金プッシュをしているダブルスタンダード。先月も徳野会長のビデオを礼拝で見せられましたが、「聖和2周年までに60数を勝利しましょう」と言っていました。60数といったら60万円ということは、教会員のみならず統一ウォッチャーならば誰でも分かること。それで本部が慌ててこのビデオを回収していましたとさ。間抜けです。徳野通達が聞いて呆れます。

統一原理という、本来ならば教理であり行動原理となる教えがあるのに、韓国本部は儒教を行動原理にしているところも、やはりダブルスタンダードです。ダブルスタンダードこそ、統一教会の最大の問題だと思います。一般社会では、表と裏がある人間・団体は決して信頼されません。統一教会がダブルスタンダードを続ける限りは、いつまで経っても社会から信頼されることはあり得ません。

ここに気づいていない幹部は「脳にビニール」(お懐かしい~)でしょう。気づいた幹部がいても、それを正そうとするとクビになる儒教社会になっているから、問題意識のある人間はどんどん組織を去って行きます。見ざる聞かざる言わざるの「脳にビニール幹部」しか残っていないのでしょう。何の才能もないのに、職を失ってはたいへんですから。おとなしく教会職員としてダブルスタンダードを遵守して、平和な家庭生活を営むサラリーマン宗教人(宗教サラリーマン)だけしか残っていないのでしょう。

そして、冒頭の話に戻って、端的に言ってしまえば「人材が乏しい」ということになります。こういう団体は、そんなに先は長くないでしょうね。

米本さんのごもっともな指摘

>このように見ていくと、先の「韓国のキリスト教を発展させたもの」という定義も危うくなってきます。


 統一教会員が考える「キリスト教」自体が、充分過去のキリスト教を網羅したものではなく、統一原理を「キリスト教を発展させたもの」と統一教会員が捉えたとしても それはキリスト教全体に対して充分な理解がなされずに、主観的で狭い知識に偏ったキリスト教理解を基にした曖昧な言葉でしかない、というような米本さんのご指摘には反論のしようがありません。

 私のキリスト教に対する知識も断片的でしかないのは間違いなく、原理講論の中で批判されているキリスト教の教義も キリスト教全体から見れば、ほんの一部でしかないのは間違いないと思います。
 それにも関わらず、「キリスト教を発展させたもの」と統一原理をより高く評価するのは、全く説得力がないのは確かなのです。
 このような問題を何らかの形で指摘した意見を読んだ覚えもあるのですが、統一教会の教義や組織を根本から考えるテーマの中で、改めて米本さんから問題提起されると、そこに統一教会が面している問題を解く大きな鍵があるようにも思えてきます。

 私が統一原理を「キリスト教を発展させたもの」と単純に書いてしまったのは、確かに主観的なものなのですが、その考えの基本としてあるのは、神の概念に対する因果律に基づく論理的な整理、イエス・キリストの神格化の否定と その価値の再評価、他宗教との接点を模索する多様性、等が統一原理に内包されていて 統一原理の特徴となっていると捉えていた為です。
 特にイエス・キリストの神格化はキリスト教の基本教義と考えていた為、その束縛から解放された違った観点からイエス・キリストを捉え直し、別の観点からの救済論を展開した面においては 「発展」との評価も可能と考えたのです。

 しかし、「発展」か、単なる「変化」かを的確に判断するのは決して容易ではなく、統一原理を「キリスト教を発展させたもの」と定義するには、キリスト教全体に対する理解が余りにも不足しているのは間違いありません。
 従いまして、米本さんのように、統一教会員と違って正確な言語表現を重視するかたに、不用意に「発展」という表現を統一原理に対して用いてコメントしたことは、適切ではなく、定義としての根拠が不充分なので、その「キリスト教を発展させたもの」との表現については「キリスト教を新しく展開させたもの」と書いたほうが内容として正しかったのだと思います。

 米本さんは宗教的な偏りがない為、その指摘は常に新鮮であり、考えさせられることが多くあります。
 統一教会員が伝統的なキリスト教を 問題解決されない発展途上の宗教として判断することには問題があり、米本さんが指摘されるとおり 余りにもその根拠が薄弱であり、研究不足なのだと思います。
 統一教会が原理講論に書かれているように真面目に「キリスト教の統一」「宗教、思想の統一」を目指すならば、その拡散し、発展し続けている神学的教義に対する研究と、その課題を克服できる発展的な理論の提示こそが重要視されるべきなのですが、米本さんが既に指摘されているとおり、統一教会組織は全くそちらの方には力を注いではおりません。
 ましてや、統一原理の根拠も定かではない「万物復帰」活動には違法ぎりぎりのところで全勢力をあげてまい進するのですから、とても統一教会の本部が真面目に「キリスト教の統一」「宗教、思想の統一」など考えているとは思えません。

 今の統一教会の矛盾した実態を見ると、「韓国のキリスト教を発展させたもの」という定義も危うくなってくるのも確かです。
 既に統一原理の中には理論と現実の不一致が明らかになっている部分があり、さらに真理として追究し、理論的に確立していく為には、その韓国における誕生過程に対しても、事実に沿ったより深い研究が必要だと思われます。

ダブルスタンダード、追記

ブログのテーマから逸れてしまうかもしれませんが、先に投稿した内容の補足ということでお許しください。

昨年、文先生聖和式の写真集がエロ本出版社から出されたことで、ブログ村ではかなり話題となりました。

(参考)エロ本出版社から文鮮明師の聖和式写真集「慟哭」が出版で驚愕!!
http://ameblo.jp/tourisugarijouhoutsu/entry-11548347477.html

私は、この出版社の実態を把握していない日本本部のビニール脳職員が、「外部の出版社から聖和式の写真集を出版しましたー」という実績を示したかったためのミステイクで、きっとその後お偉方に怒られてクビにでもなっただろうと思っていました。

ところが、なんとその同じエロ本出版社から、性懲りもなくまた出版していました。

(参考)日本人宣教師13人の手記『宣教師』が出版
http://www.ucjp.org/?p=17288

日本本部はGoogle検索すらしないんでしょうかね。「大洋図書」をGoogle検索すればトップに出て来るのが、
   B'Sgarden|大洋図書|ボーイズラブ BL 耽美
という男性同性愛の文庫シリーズです。

結局、ダブルススタンダードなのです。表向きは「純潔、性に厳格、同性愛はサタン」などと言っていますが、外部の出版社が出版してくれるという実績が作れれば、そんなことお構いなし。文先生聖和式だろうが宣教師の話だろうが、エロ本出版社から平気で本を出す。当然、これらの出版費用も信者の献金から出しているのですから、信者がこの事実を知ったら喜ぶでしょうか?

それとも、「信者はGoogle検索なんてしない」と思い込んでいるのでしょうか? いずれにせよ、ダブルスタンダードのビニール脳サラリーマン宗教人が組織の弊害となっていることは間違いないでしょう。

Re: ダブルスタンダード

サイゾーさん、具体的でリアりティに富む投稿、ありがとうございました。

 これまで、私は「宗教官僚」という表現を多用してきましたが、彼らの真実に近い姿を具体的により鮮明に思い描くことができました。

 後日のブログで、投稿を使わさせていただきます。ペコリペコリ

否定し難い朝鮮型儒教の影響

 統一教会組織と李氏朝鮮王朝を関連付けて考えられるのは どちらも朝鮮型儒教の上下秩序の規範に則った支配体制である為なのですが、米本さんから そもそも統一原理がその土台としている韓国のキリスト教自体が韓国の風土の中で培われた特色をもっており、統一教会員がキリスト教と思っているそのキリスト教のイメージ自体も キリスト教の一部であり、その全てとは言えないと指摘され、統一原理の中で、それ程疑問にも思わなかった事柄についても もう一度掘り下げて考える必要性を感じました。

 統一原理の‘創造原理’は神の存在そのものについてと、人間、宇宙との関わり等について論述していますが、一神教の宗教信者に違和感を与えるほどおかしな論理を用いてはおりません。
 しかし、‘堕落論’‘キリスト論’に関してはやはり聖書に対する独特の解釈と表現があり、朝鮮民族の伝統的な文化が反映されています。
 特に‘血統’を根幹においた人間観はジョージ・D・クリサイディス氏が指摘しているように儒教の影響を受けたものであり、一般的なキリスト教の観点とは大きく異なります。

 「人類始祖の性的な堕落によって子孫がサタンの血統になった」などといった理論は科学的真理との統合を目指した‘新しい真理’とはとても言えず、やはり科学的な論理性を放棄して儒教の人間観が表出されたものと考える以外にありません。
 そのような原理講論の中にある矛盾は結局 儒教の人間観をそのままキリスト教が扱う問題に単純に当てはめてしまったために生じたのであり、そこに‘真理’としての欠陥が生まれることになったのです。

 ‘火の粉を払え’の以前の記事に投稿したコメントの中で血統転換理論の矛盾について書いたことがあるのですが、たとえ人類始祖の堕落が間違った性関係だったとしても それによって人類がサタンの血統になったなどという論理は成り立たず、非真理であると言わざるを得ません。
 そのような間違いは詰まるところ、「科学と一致すべき新しい真理」としての基準にまで統一原理が全体としては到達していなかったということになるのです。
 ましてや、血統転換を繰り返し強調する‘天聖経’などは統一原理においてキリスト教以下とされる儒教レベルに後退する非科学的宗教言説でしかありません。
 残念ながら統一原理の大きな柱の一つである‘堕落論’や‘キリスト論’は論理的にも実証的にも科学に通ずるレベルには到達していないのです。

 統一教会、そして統一原理が朝鮮型儒教の影響を受けていることを否応なしに認めざるを得ないその典型的教義用語とは、紛れも無く「真の父母」という言葉です。
 文先生を教会員が信仰の対象として呼ぶ場合、「再臨のメシア」「教祖」などと呼ぶことはほとんどなく、即座に「お父様」「真の父母様」と呼んでおり、それが統一教会員にとっては普通の呼び名なのです。
 カトリック教会においても神父を「father」と呼ぶ為、それと類似した呼び名と思う人がいてもおかしくはないのですが、‘堕落論’や‘キリスト論’を読めばわかりますように、それは血統転換教義から生じた言葉であり、人類を‘神の血統’に産み直すことができる無原罪の完成した‘人類の父母’というのが本来の意味なのです。

 つまり、‘血統’を根幹においた人間観から生まれ出た言葉であり、「父母」は儒教において崇敬されるべき存在でありますが、まさしく儒教で尊重されるのと同様の意味内容が込められた言葉でもあるのです。
 逆に考えれば、儒教を理解せねば、‘堕落論’や‘キリスト論’の背景についてはよく理解できないことになります。
 実のところ、キリスト教の概念である「メシア」を「真の父母」として解釈していたその思想内容こそ朝鮮文化の根底にある儒家思想の現れ以外の何ものでもなかったのです。

 それを考えると、韓国人が「真の父母」と呼称する場合と、儒教文化をもたない者が同じく呼称する場合では かなり意味が異なってしまうことになるのです。
 そのことが韓国統一教会に生じた権力闘争の有様に他国の統一教会員が違和感を覚えた理由でもあるのです。
 日本の歴史の中での儒教の影響は朝鮮半島のように強いものではなく、一般民衆においては、学問としての儒教思想はほとんど普及しなかったのです。
 明治時代に至って、教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、奨励されたこともあったのですが、道徳的・文化的な影響も韓国ほど強くはないことが‘ウィキペディア’の中にも書かれています。

 日本人などが「真の父母」と聞かされれば、究極の親の愛情が備わった父と母を思い浮かべますが、それは大きな間違いでもあったのです。
 権力によって利用された朝鮮型儒教の観点から考えるならば、それは家庭における絶対権力者を意味し、家族が忠孝を尽さねばならない「王様」を意味したのです。
 「父母」が子供のために真心を尽して面倒を見、それを保護すべき存在と考えるのは日本人や欧米人が考えることであって、朝鮮型儒教の道徳的・文化的な影響下にある人々は「父母」は子供によって忠孝を尽して崇敬され、精誠を捧げられるべき存在として考えられているのです。
 韓国人ではない統一教会員は「真の父母」が意味する内容を勘違いしてしまった可能性が大きいのです。

 そのように統一教会を朝鮮儒教の観点から考えますと多くの疑問が氷解するのです。
 例えば、「真の父母」が「子供達」に自分のために献金せよと命令します。
日本人などからすれば、それは元もとの与える立場と受ける立場が逆ではないかと疑問が生じることになるのです。
 しかし、韓国人からすれば違うのです。
「子供達」は父母に奉仕するのが生まれもった義務であり、父母には絶対服従せねばならないのです。
 韓国人からすれば「父母の義務」ではなく、「子供の義務」こそが優先されるべきなのです。

 統一教会において「真の父母」である文先生や韓総裁の言動が決して「慈愛に満ちた父母」に相応しいものばかりではなく、権威を盾に厳しい要求を「子供達」に突きつけてくる情況は朝鮮型儒教の伝統をもった韓国人には当たり前のことなのです。
 ある統一教会員がつぶやいていたグラックジョークを紹介します。
「真の父母様の願いであると言って、持っているすべてのお金を捧げよ、といつも要求され続ける。
 しかし、サタンである肉の親は 自分が本当に困っていれば、必ずお金を仕送りしてくれる。
真の愛とは要求することなのだ。」

 統一原理の‘創造原理’の中には「授受作用」という原理があり、主体的立場のものが対象的立場のものに‘愛’を注げば、それに応じて‘美’が返ってくる相互作用について説いています。
 そしてその「授受作用」によって全ての存在が循環運動をなし、渾然一体となるとも説明しています。
 それらの原理は‘創造原理’の中に存在するのですが、統一教会の「理想の家庭」の中には何故か原理として存在しないのです。
 その‘創造原理’と‘朝鮮型儒教的家庭倫理’の不一致こそがまさしく韓国統一教会に混乱が生じる可能性を生み出していたのです。

 多くの統一教会員は「真の父母様」は「子女様」を犠牲にする‘蕩減’の道を歩まれたと考えておりますが、それは現実とは食い違っているのです。
 統一教会ブログ村では有名になっている金孝律氏は文家専属の家庭教師を長く務めていたのであり、それに加えて孝進氏などに多額の金銭の供与がなされていたことを考えても、「子女様」が捨てられた立場にあったなどいうのは、決して事実に沿った説明とはなっていないのです。
 もし、‘犠牲の立場’と言えるとしたら、実の親に‘真の愛’を感じて育つことができなかったという心情的な世界についてのみ言えるのです。

 ‘親の義務’よりも‘子供の義務’をことさら強調する家族関係を「理想の家庭」として矛盾を感じないのは朝鮮型儒教の伝統を基準にしているが故であり、統一原理のキリスト教的な基本理念とは無関係なのです。
 さいぞうさんは統一教会のダブルスタンダードについてコメントされましたが、それは現実的な組織活動に止まらず、統一教会の教義の根本的なところにも存在していたのです。
 しかし、「真の父母」解釈のダブルスタンダードは 誤魔化しというよりは日本の統一教会員などの朝鮮半島に根付く儒教に対する理解不足から生じた‘誤解’とも言えます。
 韓国の統一教会員が「真の父母様」を慕うのは 特にその人徳が優れ、指導力が卓越しているからではないのです。
 「父母」に絶対服従するのが朝鮮型儒教の伝統に従った慣わしであり、生活習慣なのです。
 たとえ「為に生きなければならない」と語っていながら、その本人がそのように行動していなくても、朝鮮儒教の考え方として、「真の父母」に対してそのように批判することなど許されないのです。

 日本人の統一教会員が「真の父母」と呼ばれる必要条件として完全な愛の人格者として完成された方と考えるのは勝手な思い込みだったのです。
 つまり、朝鮮型儒教の伝統が体に染み付いている朝鮮半島人にとっての理想の家庭とは、父母が王様で 子供を絶対服従させている家庭のことなのです。
 おそらく、‘創造原理’の中で示された「理想の家庭」像は、そのような義務に束縛された韓国人がその儒教的束縛から解放されるのを夢見て理想を描いたとも言えるものなのです。
 ただ、その原理を実践しようとする段階では、「父母」の立場に立つ者は朝鮮型儒教の倫理を強調した方が都合がよく、それが態度として端的に表れているのが韓総裁であるとも言えます。

 そのような朝鮮型儒教の根強い伝統は北朝鮮の支配体制にも表れており、1910年まで五百年以上に渡って続いた李氏朝鮮王朝の文化は日本の江戸文化以上の影響を残しており、簡単に変改できるような類のものではありません。
 その自己改革が不可能な韓国統一教会の問題に対して、真の理想世界を日本の統一教会員が願うとしたら如何に行動すべきなのか、それは日本の統一教会員が人間の責任分担として真剣に考えなければならない信仰的な課題でもあるのです。
 

Re:ダブルスタンダード

統一教会では、ダブルスタンダードはよくあることで、動機あるいは結果がよければ多少の事は許されるという考えが横行しています。
これは、本音と建前があらゆることに見受けられることにも通じています。

旧約聖書に、モーセがエジプト人を打ち殺した内容が書かれていますが、統一原理では、これはモーセがイスラエル民族を率いて出発するために必要な摂理であったと説いています。
このことを教訓として、動機がよければ全てよしとする風潮です。

殺人も許されると本気で信じている食口はいないと思いますが(たぶん?)、統一教会は反社会的と烙印を押される原因の一つなのでしょう。

磐石を2度打ったモーセの気の短さ故の行動故が、イスラエル民族がカナンに入る時期が延長された一つの原因であったことも事実です。
このこともよく考えるべきことと思いますが、なぜか動機と結果だけが重要視されてきた統一教会です。

文教祖夫妻は真の父母(メシア)ではない!と結論づけたかったのですが。

〉神々の黄昏様へ

〉その自己改革が不可能な韓国統一教会の問題に対して、真の理想世界を日本の統一教会員が願うとしたら如何に行動すべきなのか、それは日本の統一教会員が人間の責任分担として真剣に考えなければならない信仰的な課題でもあるのです〈

神々様は忍耐強く寛容過ぎで懐が深過ぎだと思います!

上記の様に韓国人の人間性や考え方を認識し、受け止めて信仰生活をしている日本信者が何人いるでしょうか?・・・そういう事はどうでも良いですが!・・・神々様は流石です!が・・・韓鶴子夫人の態度も韓国儒教の影響を受けた人間の振る舞いだと神々様は真の家庭をメシア家庭と信じていらっしゃる様ですが、・・・もう、真の家庭も統一教会も祝福家庭も書くのが大変な位矛盾が有り過ぎですよ!

・文教祖の言葉
*天皇暗殺の汚い言葉(人間性)
*真の子女や祝福子女は神様や霊
 界と会話出来る。
*その他、多多多多多多多多多多!

・・・一番重要なのは血統転換の文教祖の言葉ですが、書くのが大変なので・・・・・・兎に角、文教祖自身の過去の言葉を見れば、誤り!嘘?だったという結果が現実に現れています!

種が実って結果が現れた訳ですから、もう言い逃れは出来ないと普通の常識ある感覚の人間なら、そう思うのではないでしょうか?・・・今の統一教会の人間や組織はトップから末端まで、無惨矛盾哀れの渦巻状態です。日本統一教会員、etc. 哀れ!

 

呪縛から解き放たれるとき

大阪生まれ、18才で献身。韓国人夫、5人の成長期の子どもたち。5年前経済的破綻で離婚するも、現在同居。しかし教会と夫婦関係も距離をおいている。今後は私と子どもたちは教会から離れていくでしょう。
世界を救えるのは日本の神道と誇り高き精神ということに、気がついた。日本人としてのアイデンティティーから背を向けてきた結果の私の人生でした。呪縛からの解放にはもう少し時間を要します。

Re:呪縛から解き放たれるとき

なにわのアラレさん、勇気がいったであろう投稿ありがとうございました。

 今の状況を想像すると、涙がにじみ出てきます。

 最近、離婚して日本に戻ってきた人、離婚を踏みとどまり子どもが成長するまではと思い止まっている人。
 みんな大変な状況だと思います。

 口幅ったい言い方になりますが、「呪縛から解放される」ためには、2つの方策があります。

 1つは、日常生活に前向きに没頭すること。
 2つめは、文献を調べること。

 後者はしんどいので、前者がお勧めです。
 一番いいのは、市井の人と交流することですね。

 とまれ、なにわのアラレ、生きろ活きろ。

楽しい旅人さんへ

>楽しい旅人さんのコメント
>韓鶴子夫人の態度も韓国儒教の影響を受けた人間の振る舞いだと神々様は真の家庭をメシア家庭と信じていらっしゃる様ですが、・・・もう、真の家庭も統一教会も祝福家庭も書くのが大変な位矛盾が有り過ぎですよ!


 「真の家庭をメシア家庭と信じていらっしゃる様ですが、」は私のコメント文の誤読です。
 文先生や韓総裁は朝鮮型儒教の考え方や両班がもつ伝統を受け継いでおりますが、それはキリスト教の博愛主義に到達していない未成熟な精神レベルだということです。
 そもそも「真の家庭」などという言葉は死語であり、文先生の家庭の人々を見て、「真の家庭」という言葉を使えるとしたら、完全に妄想でしか物事を考えられない人だと思います。
 ‘火の粉を払え’のこの後の記事を読めばわかりますように、文先生が「原罪のないメシアとして誕生した」というのは真実ではなく、事実は「シャーマニズムの儀式を行うことによって、その時からメシアの資格を与えられたと自分では思い込んでいた」ということだったのです。
 それはほぼ間違いないと思われ、様々な資料や証言はそれを裏付けています。
 なおかつ、シャーマニズムの儀式によって本当に「メシア」のような「原罪」のない人間に生まれ変われたのかと言うならば、実際の結果を見れば明らかなように、結果的にそのような「メシア」にはなれなかったのです。
 つまり、「メシア」でもなかったし、「メシア」になることもできなかったのです。
 統一教会員の中には、三世代を通して「血統転換」されるなどという‘後付け教義’を信じている人もおりますが、原理講論にある‘使命達成の従的延長’論を‘使命’とは全く性質が異なる「血統転換」に強引に結び付けた非論理的なこじつけであり、全く説得力がありません。
 仮に文先生の孫の代において「血統転換」がなされたと言うならば、その孫に当たる人物が「メシア」なのであって、文先生は「メシア」そのものではないのです。
 つまり、如何なる論理を用いても、文先生がメシアとなることはないのです。

 楽しい旅人さんは「メシア」にとても拘っておられるようですが、あまりそれを追求するのは意味がないように思います。
 統一原理の重要で正しいと思われる部分に、人間を神が創造された「形象的個性真理体」とする内容があります。
 それは、人間は神の性質を受け継ぎながらも、皆唯一無二の個性をもっており、性格が異なれば、能力も異なるということなのです。
 つまり、時空間に限られた地上に生まれた限り、神のような完全無欠の人間などは存在しないのです。
 仮に、より崇高な人格と高度な知性をもった人物がいたとしても、それは絶対的なものではなく、相対的な評価に過ぎないのです。
 つまり重要なことは、人々が切磋琢磨して精神的に向上していくことなのだと思います。
 ‘創造原理’は暗示に富んでおり、かなりの部分が真理であると思っています。
 しかし、そのことは、文先生を「メシア」とすることには結びつかないのです。
 そして、人間を神格化し、絶対化することこそ間違っていると教えているのです。
 多分、現代においては「メシア」的存在はいたる所に存在するのだと思います。
その、より理想的な人物の良いところを吸収して自分自身が精神的に成長していくことが最も重要かと思います。

一歩ずつ

ありがとうございます。

遠からず、呪縛から解放されるとき、この団体と決別する時。その準備をすることが私を支えます。
疑問を抱いてきたことは確かです。
5年前に夫婦、仕事の人間関係に限界を感じたのがきっかけで紆余曲折ありました。
統一原理の歴史観、(メシア観も)は 歪んでいる。反日意識、日本人にとっては罪悪感から信仰が出発することになってしまう。このことは子どもたちへ何をつなげることになるのか!と教会へ叫びたい。子どもたちの心に、精神に異常をきたすことになるかもしれない。韓国のように。
 それから盲目的な信仰と集団に依存する心が命取りになることを実感します。
韓国の民族性と歴史の真実を知ったのですが、30年間私の中で美化されつづけた韓国の姿は崩れる。抵抗もなく受け入れることができた。
米本さん、ありがとうございます。調べていくうちに米本さんのサイトに辿り着いた次第です。背中を押していただいたような感覚です。
市井の人、、?初めて聞いたものですから??になっています。
  • [2014/06/14 15:14]
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  • なにわのあられ
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続き

歴史の真実をあまりにも知らなさ過ぎました。
半島は、いまだ李朝の闇の中(歴史通3月号)が頭から離れません。

文氏は一教祖であり韓国朝鮮人です。私は後者を強調したい。
今、世界は日本を韓国をどう評価しているか。文氏はこのことを予測していたのではないか。このあわれな民族がどうすれば、生き残れるのかと考えていたのでは?文氏について私はいろいろと推測してみる。そして再臨論は納得がいかないものとなってきました。
韓国朝鮮人の民族性、気質の光と影は日本人が想像する以上です。栄光は自分のもの、栄光を得る手段とは、有るものから奪うもの、常に考えているのです。それを私は生活の中で感じてきました。

少々疲れてきまして、、。このへんで。
  • [2014/06/14 22:30]
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  • なにわのあられ
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神々の黄昏様は私の救い主です。

 〉文先生や韓総裁は朝鮮型儒教の考え方や両班がもつ伝統を受け継いでおりますが、それはキリスト教の博愛主義に到達していない未成熟な精神レベルだということです〈

=ナルホド、ソウデスカ!何かホットしました。

 〉そもそも「真の家庭」などという言葉は死語であり、文先生の家庭の人々を見て、「真の家庭」という言葉を使えるとしたら、完全に妄想でしか物事を考えられない人だと思います〈

=イヤ~マサシクそうですね!何か安心しました!

〉‘文先生が「原罪のないメシアとして誕生した」というのは真実ではなく、事実は「シャーマニズムの儀式を行うことによって、その時からメシアの資格を与えられたと自分では思い込んでいた」ということだったのです。 それはほぼ間違いないと思われ、様々な資料や証言はそれを裏付けています。 なおかつ、シャーマニズムの儀式によって本当に「メシア」のような「原罪」のない人間に生まれ変われたのかと言うならば、実際の結果を見れば明らかなように、結果的にそのような「メシア」にはなれなかったのです。  つまり、「メシア」でもなかったし、「メシア」になることもできなかったのです〈

=ナルホド!凄く説得力があり、何か救われた様でますますホットしています。

 〉統一教会員の中には、三世代を通して「血統転換」されるなどという‘後付け教義’を信じている人もおりますが、原理講論にある‘使命達成の従的延長’論を‘使命’とは全く性質が異なる「血統転換」に強引に結び付けた非論理的なこじつけであり、全く説得力がありません〈

=そうですよね!私は三代というより、漠然と何世代かかかって遺伝罪、連帯罪の血統が拭われて行くと考えていました。

〉つまり、如何なる論理を用いても、文先生がメシアとなることはないのです。

=ますますホットしました。

〉 楽しい旅人さんは「メシア」にとても拘っておられるようですが、あまりそれを追求するのは意味がないように思います〈

=そうですね!文鮮明教祖がメシアでないという事が明確になれば、メシアの唯一無二の特権の血統転換(原罪清算)も祝福で成されていない!という事が明確にハッキリするので、全ての矛盾が合点行く訳です。私もこれで自称メシア(文鮮明教祖)に止まって余分なエネルギーを使う必要がなくなりそうです。真に有り難うございます。ただでさえ、良い年したオッサンになってますが、まだまだ、今から頑張らなければならない私なのです。余分な時間もエネルギーも無駄にはできません!

 〉 つまり重要なことは、人々が切磋琢磨して精神的に向上していくことなのだと思います〈

分かりました。ヤッパリ人間信仰、自称メシア依存では成長しないですね!自分自身で自分を成長させ創造して行くと言う事ですね!

〉‘創造原理’は暗示に富んでおり、かなりの部分が真理であると思っています。
 しかし、そのことは、文先生を「メシア」とすることには結びつかないのです。
 そして、人間を神格化し、絶対化することこそ間違っていると教えているのです。
 多分、現代においては「メシア」的存在はいたる所に存在するのだと思います。
その、より理想的な人物の良いところを吸収して自分自身が精神的に成長していくことが最も重要かと思います〈

なる程、そうですね!少し気が楽になりました。私も意識をその様に早く転換して、残りの人生頑張りたいです。有り難うございました。

  ~米本様長くなってすいません~

Re: 一歩ずつ

>市井の人、、?初めて聞いたものですから??になっています。


 まあ、庶民一般、ぼくのような煩悩を抱えているような人たちのことです。

(あと2日後に更新するので、ちょっと気楽に以下を)

Re: 一歩ずつ

>統一原理の歴史観、(メシア観も)は 歪んでいる。反日意識、日本人にとっては罪悪感から信仰が出発することになってしまう。このことは子どもたちへ何をつなげることになるのか!と教会へ叫びたい。子どもたちの心に、精神に異常をきたすことになるかもしれない。韓国のように。
 それから盲目的な信仰と集団に依存する心が命取りになることを実感します。
韓国の民族性と歴史の真実を知ったのですが、30年間私の中で美化されつづけた韓国の姿は崩れる。抵抗もなく受け入れることができた。


 なにもお手伝いすることができず、ごめんね。
 在韓日本人食口で、江利川総統を含め夫である韓国人をいいと思っていた人はほとんどいない(おそらく〇に近い)ようです。

 在韓日本女性食口の場合、統一原理ピ-チクよりも、目の前、目のすべてが「朝鮮」ですからねえ。 

Re: 続き

(歴史通3月号)を読みたいです。ご紹介を。

>このあわれな民族がどうすれば、生き残れるのかと考えていたのでは?文氏について私はいろいろと推測してみる。そして再臨論は納得がいかないものとなってきました。
韓国朝鮮人の民族性、気質の光と影は日本人が想像する以上です。栄光は自分のもの、栄光を得る手段とは、有るものから奪うもの、常に考えているのです。それを私は生活の中で感じてきました。

 万感おもる思いがいたしました。

 この言葉の一節を次のブログで使わせていただきます。

 これからも、コメントしてくださいね。

 なお、蛇足なのですが、日本・韓国・中国といった漢字文化圏のことを考えてしまいます。

 いろいろ交流があったにもかかわらず、韓国人は箸の持ち方、立ち居振る舞い、何から何まで違います。
 どうしてなのか。実証的な比較文化論を読みたいと思っています。

 これまで読んだ本の中で、優秀だったのは韓国統一教会の部長(失念、元つくば大の原研)だけでした。

 いろいろ、のんびりと、ゆっくり書いてね。

神と人と

 「元信者の場合、文氏をメシアだと信じてきた自分への嫌悪(無意識)があり、その結果、文氏批判の表現が過激になっているような印象を受ける。」

信仰を捨てれば、この限りではありませんが、キリスト教に改心したならば、これは当然のことです。キリスト教の信仰は何か宗教を信じるのではなく唯一絶対の神のみを信じることですから。メシヤ(救い主:ここでは罪からの救い)は宗教上の人物でも、偉人でもなく、神の独り子でなければいけないのです。もし、仮に文氏が自分がメシヤでないとの自覚があったのなら、キリスト教の理解があった、或いは信仰を持っていたとは言えません。人々の救いを阻むことになりますから、無自覚もいいところです。偽キリストは何よりも最も悪いのです。

教学的には、統一教会はユダヤ教とキリスト教徒の関係よろしく、キリスト教ではないという事になっています。全く新しい神の啓示によって摂理宗教としての使命を受けたのだと。そして、新しい真理によって聖書を解説した教理解説書が原理口論という事です。つまり、聖典としては聖書をいただきながら、信仰の規範は、成約の新しい預言である原理(原理口論だけを指しているわけではない)に従う、キリスト教とは別宗教という事です。(名称にキリスト教が入っているのは、キリスト教を統一する使命を帯びた神霊集団という意味です)

僕の感想は、クリスチャンは僕の統一教会時代に見たものより、もっと直接的な神様との関わりを経験しているように見えました。自身も内面が大きく変えられる経験をしました。真理の漸進とともに、古い時代の教科書である真理は光を失い、新しい真理との間には齟齬も生じると、統一教会では教えていますが、そんなことありません。ユダヤ教から引き継いだ聖書をしっかりと守っています。

あ、コメント欄間違えました。すみません…

なぜすでにたやされた朝鮮王朝?いまも続く日王崇拝は?

セウォル号の時も、国家元首の大統領に国民が謝罪を求めて謝罪したでしょう。

「一般の」韓国人は左派も右派も激しいから、「種」は朝鮮王朝にさぐれるとしても、それだけではここまでの腐敗組織を現代に再現するほどのものはないと思いますよ?

一方日本は原発や先の大戦やら日王アキヒトに謝罪を求めたりやめろと迫ったりもしないですねえ?

せいぜい酒のツマミにエタ・ヒニン格の韓国の悪口いってストレス解消するだけ。

だいたい、統一教会の信者が一番多いのは日本なんですよ。

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