後藤徹の陳述書?
後藤陳述書(1)
これから、12年5カ月にわたる監禁事件の被害者、後藤徹さんが告訴状とともに警察に提出した陳述書を掲載する。
なにしろ12年以上もの監禁体験!
端折って書かれてはいるが、きわめて長文である。
それゆえ15回にわけて載せることにする。
参考サイトは「ニュース(1)」 「ニュース(3)」 「ニュース(6)」
統一教会の人たちであれ、反統一教会の立場を取る人たちであれ、12年間も監禁された一人の青年が綴った体験談に、真剣に、耳を傾けてください。
『我らの不快な隣人』のエピローグを先に目を通していただいたほうが読みやすいと思います。
長文ゆえ読みやすくするために、(1)行空け・改行を適宜行いました。(2)中見出し(緑色)をつけました。(3)色付けや太字にしました。(4)意味をわかりすくするためにリンクを貼るとともに、補足説明を行いました。(注)としたところが説明部分です。
陳述書の構成 (08年4月2日作成)
1・略歴
2・統一教会への入会
3・第1回目の監禁
4・第1回目の監禁から脱出後の経緯
5・第2回目の監禁
(1) 新潟のマンションでの監禁/(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁/(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁/(4) 宮村等による脱会説得/(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)/(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)/(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)/(8) 監禁からの解放
6.入院後の経緯
7.最後に
青印が今回アップしたものです。
1.略歴
私は1963年11月2日、山形県米沢市にて父■■(昭和6年11月25日生まれ、1997年6月22日死去)、母■■(昭和7年12月10日生まれ。現在76歳)の間に次男として出生しました。
兄弟は、兄■■(昭和35年3月28日生まれ。現在47歳)と、妹■■(昭和42年2月14日生まれ。現在41歳)とがいます。
1970年4月、私は東京都武蔵野市立大野田小学校に入学し、1972年9月に東京都保谷市立保谷第一小学校に転校し、1976年3月、同小学校を卒業しました。
1976年4月、私は保谷市立青嵐中学校に入学し、1977年に熊本県八代市立八代第二中学校に転校し、1979年3月、同中学校を卒業しました。
1979年4月、私は熊本県立氷川高等学校に入学し、1982年3月、同高等学校を卒業しました。
1983年4月、私は日本大学理工学部建築学科に入学し、1987年3月、同大学を卒業しました。
1987年4月、私は大成建設株式会社に入社しました。
3兄弟全員が信者に
2.統一教会への入会
1986年8月、大学4年の時、兄からの紹介で東京御徒町のビデオセンターに通うようになりました。そこは、世界基督教統一神霊協会(以下、「統一教会」と言う)の信者らが運営するビデオセンターで、私はビデオを通して統一教会の教理である統一原理を学びました。
その後ツーデーと呼ばれる2泊3日の修練会、及びフォーデーと呼ばれる4泊5日の泊まりがけの修練会に参加し、統一原理の内容に感銘を受けたため、統一教会に入会しました。(注1)
修練会に参加した後は、学生部という大学生の信徒らで組織する部署に所属し、ホームと呼ばれる寮で寝泊まりして生活しました。(注2)
兄は私に続いて、当時短大生だった妹も伝道しました。妹は短大近くのビデオセンターで統一原理を勉強するようになり、統一教会に入会しました。
1987年3月、私は日本大学理工学部建築学科を卒業し、同年4月より大成建設株式会社に入社しました。同社入社後は、御徒町のホームに寝泊まりしつつ、通勤しました。
(注1)統一教会に入会したのは22歳のとき。ちょうど“霊感商法”が話題になっていた頃、一方で拉致監禁が本格化しつつある頃である。
(注2)大学生が統一教会に勧誘されるパターンは2通りあり、それによって入会後の所属も異なってくる。学外で教会員に勧誘された場合は統一教会の学生部、学内で原理研究会のメンバーに勧誘された場合は原理研究会に所属することになる。
- [2009/04/19 14:00]
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コメント
リンク希望について
後藤さんが先日熊本に来られて、お話されました。ぜひ、リンク張らせて下さい。
みやさんへ
リンクフリーですので、どうかよろしくお願いいたします。
また、ご友人、知人でサイトをもっていらっしゃる方がいらっしゃったら、ご紹介のほど、よろしくお願いいたします。
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