醜いアヒルの子-家族の愛とは何なのか。
長くなりましたが、これが最終回です。
判決文はA4版で60数頁にも及ぶものでしたが、私が納得できないというか身体が拒絶反応を示したのは、後藤徹を説得した家族の動機を「愛情ゆえのことだった」と認定した一行にあります。何一つ根拠を示すことなく!
統一さんも反統一さんも、保護説得をした信者家族の方々も、「家族の愛とは何か」について考えていただけることを願っています。
第3 当裁判所の判断
1 前記前提となる事実に証拠
「裁判所が採用した証拠」(判決文1)
(1)裁判所が認めた原告,被告から提出された証拠,陳述書の内容
アイウエオ(判決文2) カキク(判決文3) ケコサ(判決文4) シスセソタ(判決文5) チツテトナニ
(2)裁判所が採用しない主張
ア 原告の供述について イ 被告宮村と被告松永の供述について(判決文6)
2 被告後藤兄ら並びに被告松永及び被告宮村の原告に対する不法行為の成否について(判決文7)
3 損害額について
4 被告法人の使用者責任について
5 まとめ
※判決文を読まれると、やたら記号が多いが、ポイントとなるのは括弧がつかないアイウエオ50音表記である。そのため、目立つように大文字にした。
3 損害額について
(1) 被告後藤兄らの前記不法行為により原告が被った損害額については,以下のとおり,後記アからウまでの合計483万9110円であると認めるのが相当である。
なお,原告は,逸失利益についても被告後藤兄らの前記不法行為と相当因果関係のある損害に当たる旨主張するが,
前記のとおり,原告は,昭和62年に統一教会のホームに戻った後に自らの意思に基づき大成建設を退職し<注解1>,統一教会の信徒組織において専ら伝道活動や教育活動に従事する生活を送り,平成7年当時においてもそのような生活を続けていたことに加え,同年9月11日から平成20年2月10日までの間の原告の生活費の一切は両親及び被告後藤兄らにおいて負担していたことが窺われることなどからすれば<注解2>,逸失利益に係る原告主張の事情は,後記の慰謝料算定に当たって勘案するにとどめるのが相当であると認める。
ア 治療費 33万9110円
前記のとおり,原告は,その行動範囲に対する著しい制限が長期間に及び,原告の全身の筋力が低下するに至り,その治療のため,平成20年2月11日から同年3月31日まで,一心病院に入院したことが認められ,
また,証拠(甲8の1から10まで)によれば,その入院治療費用及びこれに関連する一心病院,東京都立大塚病院及び北里大学病院における各通院治療費用等として,合計33万9110円の支出をしたことが認められるから,その全額について,被告後藤兄らの前記不法行為との相当因果関係を認めるのが相当である。
イ 慰謝料 400万円
(ア) 前記のとおり,原告は,被告後藤兄らの前記不法行為により,10年以上もの長期間にわたり,その明示の意思に反してその行動の自由が大幅に制約され,外部との接触が許されない環境下に置かれ,その心身を不当に拘束され,棄教を強要されたものであり,そのことにより原告が被った精神的苦痛は極めて大きいものと認められる。
(イ) もっとも,前記のとおり,被告隆らが前記不法行為に及んだのが原告を案ずる家族としての愛情からであることは、容易に推察されるところであるほか<注解3>,一連の経緯において,原告が身体に対する物理的な拘束を直接加えられた証跡は存しないところであって,慰謝料の算定に当たっては,これらの事情も考慮されるべきである。
(ウ) 以上のほか,本件に現れた一切の事情を総合考慮し,慰謝料の額については,400万円が相当であると認める。
ウ 弁護士費用 50万円
被告後藤兄らの前記不法行為と相当因果関係のある弁護士費用の額は,50万円と認めるのが相当である。
(2) また,前記のとおり,被告宮村については,その被告後藤兄らの前記不法行為への加担が平成10年1月頃から同年9月頃までの期間に係る部分に限られるものと認められるところ,その関与の態様等を考慮すれば,被告宮村は,前記(1)の損害額のうち,その2割に相当する96万7822円について,被告後藤兄らと連帯して原告に対する賠償義務を負うものと認めるのが相当である。
4 被告法人の使用者責任について
(1) 原告は,被告法人が被告松永の使用者に当たるとして,被告松永の不法行為につき使用者責任を負う旨主張するが,本件において被告松永に不法行為責任が認められないことは,前記認定説示のとおりであるから,原告の上記主張は,その前提において失当である。
(2) なお,付言するに,証拠(乙ロ1,被告松永本人)及び弁論の全趣旨によれば,被告法人は,その傘下にある個々の教会の運営について関知する立場にはなく,また,個々の教会において活動を行う牧師による活動について指示を与える立場にもなく,個々の教会において活動を行う牧師は,個々の教会の責任者として,被告法人とは独立した立場で自主的にその活動を行っており,また,被告法人は,牧師や伝道師に対する定期的な研修やその資格を停止し,又は剥奪する権限や人事権を有するも,それらの権限はキリスト教の信仰の枠組みを守る趣旨で付与され,その限度においてのみ行使することが許される性質のものであって,被告法人とその傘下にある個々の教会に務める牧師との間に使用関係を生じさせる性質のものではないことが認められるから,被告法人と新津教会の牧師である被告松永との間に使用関係があると認めることはできないものというべきであり,原告の上記主張は,この点からも理由がない。
5 まとめ
よって,原告の被告後藤兄ら及び被告宮村に対する各請求は前記の限度で理由があるからこれらを認容し,被告後藤兄ら及び被告宮村に対するその余の各請求並びにその余の被告らに対する各請求はいずれも理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。
東京地方裁判所民事第12部
裁判長裁判官 相澤 哲
裁判官 小島 法夫
裁判官 浦川 剛
<注解1> ここもひどい誤判である!
「原告は,昭和62年に統一教会のホームに戻った後に自らの意思に基づき大成建設を退職して」
判決文の「(1)裁判所が認めた原告,被告から提出された証拠,陳述書の内容」からこれに関するところを引用する。
「亡後藤父は,原告が(京王プラザホテルの)上記客室に到着するのに先立って,大成建設の原告の上司に対し,原告をしばらくの間休ませる旨を伝え,その旨の了解を得ていたが,原告は,そのことを知らされていなかった」
これは、1987年の10月の出来事である。
後藤が脱会を装い、逃げ出したのは荻窪教会の日曜礼拝があった「11月下旬頃のある日」のことである。
逃げ出した後藤徹が大成建設の上司に
「やあ、1か月ちょっとご無沙汰していました。上司はお元気でしたか。あのぉ~、復職したいのですが」
なんて言えると思っているのだろうか。
仮に後藤が言ったとしても、上司は聞くだろう。
「君は、何で1か月以上も休んでいたの?」
これまでの拉致監禁事例から類推すれば、後藤の父親は上司に本当のところを話したはずだ。
大成建設は一部上場企業。本人ではなく親からの嘘の休暇願いなど見抜けないわけがない。急病のためとしても、会社は病院の証明書を要求する。
父親は、正直に話し、「息子が統一教会から脱会したあと、引き続き雇ってくれ」と頼んだはずである。
父親は一部上場企業の子会社の役員をしていた。父親の頼みを後藤の上司は無下に断ることはしなかったと思う。
「その旨の了解を得ていた」というのは、こうしたやり取りの結果と思われる。 むろん、上司は「統一教会を脱会しなかったり、説得が長引いた場合は、復職はない」と話し、父親はそれを了承したはずだ。
後藤は荻窪栄光教会の日曜礼拝時に脱出したわけだが、そのあと、統一教会をやめていない後藤が大成建設に雇用の継続を申し込む-なんてことが考えられるだろうか。
机上の空論では申し込むことは可能だが、会社が統一教会員である後藤の復職を認めることなど100%あり得ない。仮に認めたとしても、再び拉致監禁が予想されるので、申し込むことなど考えもつかなかったはずだ。
復職を頼まなかったことをもってして、「自らの意思に基づき大成建設を退職」したと、どうして言えようか。
なぜこのような認定をしてしまったのか。
それは、おそらく逸失利益を発生させないようにするためには、自らの意思で退職し、進んで献身者の道を選んだということにしなければならなかったからであろう。
もし逸失利益を認めた場合、その額をどうするかで頭を悩ますことになる。これまでの判決の集積(賃金センサスをもとにした積算)からすれば、原告が請求している8000万円強を認めるしかないのだから。<それは認めたくない、ならばどうするか・・・>。
なぜ、認めたくないのか。
前回のブログでも書いたことだが、裁判官の頭の中には「一般のキリスト教団は善、統一教会は悪」といった構図があり、8000万円強の逸失利益を認めてしまうことは、その構図が崩れてしまうという「変なバランス感覚」があったためだと思われる。
逸失利益はさじ加減一つ(裁判官の心証)の慰謝料と異なり、算定額の根拠を示されなければならない。したがって、500万円とか1000万円とか適当アバウトに金額を決めることはできないのである。
<注解2> お笑い認定
ゼロ査定の不当性については、控訴状で詳しく述べられるだろうからここでは省略して、思わず吹き出してしまったことを書いておく。
(引用はじめ)
原告は,昭和62年に統一教会のホームに戻った後に自らの意思に基づき大成建設を退職し,統一教会の信徒組織において専ら伝道活動や教育活動に従事する生活を送り,平成7年当時においてもそのような生活を続けていたことに加え,同年9月11日から平成20年2月10日までの間の原告の生活費の一切は両親及び被告後藤兄らにおいて負担していたことが窺われることなどからすれば,逸失利益に係る原告主張の事情は,後記の慰謝料算定に当たって勘案するにとどめるのが相当であると認める。
(引用終り)
外出の自由を奪われ、生活費を一円たりとも稼ぐことができなかった後藤の生活の面倒は、誰がみるというのか。
当然、自由を奪った後藤兄らである。あたりまえの話だ。
彼らが面倒を見なかったら、後藤は死ぬしかないのである。
しかもである。生活費の一切といっても、スーツ一着を買ってもらったわけではなく、50日間も入院しなければならない傷害を負うほどに、貧しい食事しか与えられていなかった。インフルエンザにかかっても病院に連れていってもらえなかったし、市販の目薬さえ、水虫の薬さえ買ってもらえなかったのだ。 世間的評価でいえば、虐待生活である。
次のような例を考えれば、いかにオカシナ判決か反統一教会の人たちだって理解できるはず。
暴力団が善良なる一人の市民を監禁した。監禁から解放された市民が民事裁判で、12年5か月間も自由を奪われ、働くことができなかった。その逸失利益を払えと暴力団を訴える。
判決文。
「その間、暴力団があなたの生活費の一切を負担していたのだから、ゼロ円です」
まさに爆笑問題。全国紙は一面トップで「トンデモ判決が下された」と報じるであろう。
さらに言っておけば、後藤は本人尋問でこう答えている。
--最後に一つお聞きしますが,あなたは結局これで12年5か月という時間を奪われたわけなんですが,その少し前に,あなたはSKさんと祝福を受けて所帯を持とうというふうに話し合ってましたよね。その際に,所帯を持つにあたって,あなたはどこか就職しようとか,そういう話をしてたんですか。
後藤:はい。31歳になっておりましたので,SKさんと近いうちに家庭を持とうということで,SKさんと希望を持って話しておりました。
--その当時は青年組織で献身的にやってらっしゃったんですが,それじゃ生活できないですから,どこか一般の会社へ。
後藤:そうですね。もちろん,その青年組織から離れて一般の会社に勤めてそれで家族を養っていくということを自分は考えておりました。
この後藤の供述に、被告側は一切、異を唱えていない。またこれを否定する証拠も提出していない。
だとすれば、後藤の「一般の会社に就職するつもりだった」という人生設計は認められなければならない。
統一教会を脱会して反統一マインドとなった元信たちは、今回の判決に不満を抱いているようだが、上記の尋問でのやりとりに虚偽があるやなしや。感想を聞きたいものである。
私の取材体験上、献身者から一般の会社へ-は、ごく一般的な流れだと思うのだが、いかがか。
後藤は保護説得さえなければ、SKさんと結婚し、それと同時に一般の会社に勤めていたはずだ。
とすれば、後藤逸失利益は原告代理人が訴状で書いているように、
(1) 逸失利益
原告が監禁されていた12年5ヶ月間(31歳~44歳)及びその後の入院治療期間(1か月と3分の2)に失った逸失利益は、金8627万9417円である(大卒男子の平成20年賃金センサスから上記期間の賃金を積算)。
--が正しい。
しかし、後藤父の財産をあらかた使った後藤兄夫婦、妹に負担せよというのは、法レベルとは関係なく、忍びない。
だが、宮村には財産が蓄積されている。元信者たちとバリ島で遊び、ゴルフに興じ、寿司をたっぷりと堪能できるほどの余裕はある(有田国会議員も山口広弁護士もご相伴にあずかったはず)。宮村が払えばいいのだ。
<注解3> 愛情の質について
「被告後藤兄らが不法行為に及んだのが原告を案ずる家族としての愛情からであることは,容易に推察される」
この認定に強い違和感を覚えるし、嫌悪感さえ抱いてしまう。
後藤父・母・兄・妹に後藤徹への愛があったのかどうか。
これはじっくり考えてみる必要があるテーマだろう。読者も考えてみてもらいたい。
最初の出発点は、原告を案ずる家族としての愛情があったのかもしれない。
しかし、「家族の愛」とは普遍的で無条件のものである。
子ども(兄弟)が万引きした。人さまを傷つけるような暴力行為を行なった。家族に隠れて援助交際をしている。あるいは暴力団に入った。だから、もう子ども(兄弟)を愛せなくなった。
こういうのを「家族の愛」とは言わない。
こうした愛を、私は「条件付きの愛」と定義づけている。
「条件付きの愛」なる言葉が思い浮かんだのは、エホバの証人を取材していたときだった。
(『カルトの子』のエホバの証人の章を読んでもらいたい)
立派なエホバ二世として育ってくれれば愛するけど、そうでなければ愛せない。
これを「条件付きの愛」と定義したのだが、言葉本来の意味からすれば、決して愛と呼ぶことはできない。
裁判所の認定に戻って考えてみよう。
後藤家族に徹への愛があったかどうか。
統一教会をやめてくれれば徹を愛する。そうでなければ愛さないというものだったのではないのか。徹は父、母の葬儀に列席することすら、許されなかったのだ。
つまり、「自分たちの価値観と同じようになってくれれば愛する」というレベルの“愛”でしかないのだ。
以上の事実認定からすれば、先の判決文「被告後藤兄らが不法行為に及んだのが原告を案ずる家族としての愛情からであることは,容易に推察される」は、次のように改めるべきなのだ。
「被告後藤兄らが不法行為に及んだのが原告を案ずる家族として価値観を同一にしたいという感情からであることは,容易に推察される」
保護説得に失敗した。子ども(兄弟)は統一教会に戻った。でも、私たち家族は子ども(兄弟)を愛している。
そういうケースは寡聞にして知らず、だ。 音信不通になっているケースも少なくない。もしあるとすれば、親がもうろくしたか、老後の面倒を見てもらいたいという本能的な打算 ゆえのことであろう。
後藤家族の場合は、途中から「条件つきの愛」とさえ呼べないことを、息子(兄弟)にしている。
それは、すでに書いた通りの食事制裁(虐待)である。
この見方に反発する読者もいるかもしれない。
ならば、問いたい。
2008年2月11日、徹をマンションから追放したときに、「家族としての愛情」があったかどうか。
12年余にわたって(yoshiさんの表現を借りれば、この間オリンピックが3回開かれていたほどの長さだ)、社会から隔絶した中で生活していた後藤徹に行き場所があると考えて追放したのか。しかも無一文で!
荻窪のマンションから追放された後藤が真っ先に調べたのは、「ここはどこか」だった。
つい、アンデルセン童話の「醜いアヒルの子」を思い出した。(以下、「8月16日の世界の昔話「から引用)
「しばらくたって、やっとタマゴを割って出てきたのは、たいそう体の大きなみにくいひなでした」
「みにくいアヒルの子はどこへ行ってもいじめられ、つつかれて、かげ口をたたかれます」
「はじめのうちはみにくいアヒルの子をかばっていたお母さんも、しまいには『本当にみにくい子。いっそ、どこか遠い所へ行ってくれたらねえ』と、ため息をつくようになりました」(引用終わり)
後藤家族の間で、いつの頃からかはわからないが、徹のことをいつしか「醜いアヒルの子」(自分たちの価値観とは相容れない子、異質物)と思うようになったのではないか。
なお付言しておくが、後藤兄と妹は醜いアヒルからふつうのアヒルになった。これまで4000人以上の教会員が保護(拉致監禁ン説得を受け、3000人が脱会し、1000人が脱会しなかった。1000人は徹と同じ、醜いアヒルの子。3000人はふつうのアヒルになり、親から条件付きの愛を受けているということになる。
狭い法曹界の中だけで生きているエリート裁判官たちが抱く「家族の愛情」観は、実に薄っぺらなもの。吐き気すら催してくる。
それと同時に、イエスキリストの十字架像の前で毎日祈りのしぐさをするような連中が説く「愛」にも嫌悪してしまう。
もし、既成キリスト教会に「真の愛」があるのであれば、「後藤徹の12年余の監禁」に口先だけでもいいから、何らかの声明文を発表してもしかるべきである。
今利理絵やアントール美津子が牧師の清水、黒鳥を訴えたとき、既成キリスト教会は「清水・黒鳥両牧師を支援する」という決議文を相次いであげていたのに。
しかし、今回の後藤勝訴判決には沈黙したままである。正直、気味が悪い。近所の十字架を見るたびに、山崎浩子の本の題名ではないが、「偽りの愛」という言葉が浮かんでしまう。
コラム-拉致監禁諸派の愛情作戦-
富澤裕子さんが買春牧師こと高澤守氏を訴えた裁判では、一部勝訴判決が下った。
高裁でも不法行為の認定は覆らなかったが、慰謝料は大幅に減額され、わずか10万円の認定となった。
彼女は鳥取教会で母親と話し合っていたところを、父親ら、また父親が雇った武器を手にした興信所の職員たちに襲撃され、拉致された。 そして1年以上にわたる監禁生活を余儀なくされた。
その慰謝料がわずか10万円とは!
統一教会が嫌いな一般人とて、いくらなんでも安すぎると思うだろう。
これについて、弁護士の山口広氏は、『自立への苦闘』(右サイトで紹介している本)で、「慰謝料が低額に抑えられたのは、裁判官が親の子を想う心を考慮したのだろう」 といった趣旨のことを書いていた。(同書278頁)
被告代理人たちは、今利裁判、アントール美津子裁判、寺田裁判でも、一様に「家族の愛情」を法廷で強調していた。それが功を奏した、というわけである。
弁護士たちは、判事らの家族愛に対する見方が薄っぺらなもの、言葉を変えていえば<浪花節だよ、おっ母さん>が通じる人種だと見抜いている。それはそうだろう。法理論、法的論理は得手であっても、大学入学以来勉強一筋、法曹関係者以外と付き合ったことのない、純粋培養の中で成長してきた人たちである。
<親の子どもを想う気持ち>なんて言葉が書面に書かれていれば、「愛の質」なんか考えることなく、電気信号が身体に走ったようなビリビリ感で、家族愛=絶対と思ってしまうのだ。
今回の裁判でも、12年余にわたる監禁生活の慰謝料がわずか400万円となったのも、「被告後藤兄らが不法行為に及んだのが原告を案ずる家族としての愛情からであることは,容易に推察される」 ことが大きく影響していると思われる。
被告たちは富澤高裁判決を教訓に、控訴理由書で「家族愛」を強調してくるだろう。原告はそれにどう対応するのか・・・・。
なお、『自立への苦闘』」は私の月刊現代の記事「宗教監禁の恐怖と悲劇」に対応するために急遽出版された本である。火の粉ブログを開設したとき(2009年1月)、この火の粉を払うことを予定していたが、書かれなければならないことが次から次へと持ち上がり、もう5年も経つというのに、いまだ実現していない。いずれ、振り払う!「全国統一協会被害者家族の会」さん、ご覚悟を(苦笑)。
-絶対に読まれるべきブログの紹介-(追記:3月25日の夕方)
奈々草さんのブログ「親の気持ち・子の気持ち」の記事「拉致監禁脱会後の現役統一教会員に対する私の気持ち」 を、是非読んでください。とりわけ、現教会員にとっては必読でしょう。
強制脱会者の微妙な気持ちが実に正直に綴られています。
-次回は判決文の総評、そしてエイト君の稚拙な論評への若干のコメント(クスッ)である。
-「判決文(7)」-に戻る。
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コメント
醜いアヒルの子-家族の愛とは何なのか
「家族の愛」で押して行けば、例え拉致監禁であったとしても裁判官の心証がかなり変わってくるんですよね。
誰でも思いつくレベルの手法なんですが、戦略としては悪くないですね。
しかし、戦後日本の価値観はずっと変化してきましたから、今後もその戦略が同じように通じはしないでしょうね。
あと、エホバの証人でもキリスト教でも彼らが語る「愛」には笑ってしまいますよ?
如何に偽善の愛かと言うことです。
親の愛は無償の愛か?家族の愛は無条件か?
いくつか例をあげましょう。
・婚活:男女共、いくつか条件をあげて結婚相手を探している。
つまりは、夫として、妻として愛せる条件の人を探している。
・出産:卵子の老化が報道されて、変に誤解したおバカな未婚の息子をもつ父母が、「結婚相手は、34歳以下じゃないとダメ。」と言う。
つまりは、子供を産めないかもしれない女性は嫁として認めない。(家族として愛せない)
・出生前診断:最近より確率が高くなったよう。生まれる前から、障〇があるとわかったら、わが子として受け入れない。(子供として愛せない)
・出産後:新生児室に障〇のある赤ちゃんが両親に受け入れられず、そのまま大きくなっている子がいるそうだ。
この他にも、お受験やステージママ等、親が条件つきで愛している例はたくさんあります。
いい加減、親の愛は無償の愛というバカな洗脳から解き放たれた方がよいです。
親の愛は、所詮自己愛の延長です。
無償の愛というのは、親から子への愛ではなく、乳幼児から親への愛です。
乳幼児は、どんな親でも、無条件で受け入れています。
北風と太陽
12余年にもわたり拉致監禁されていた後藤さんを取り巻く人たちは、イソップ物語の「北風と太陽」を思い出させます。北風になって無理やり(拉致監禁)旅人のコート(信仰)を脱がそう(脱会)とする周辺の人たちの異常極まる姿が浮かびます。家族の本来あるべき愛の姿がすっかり形を変え、家族崩壊へと追い込んで行く拉致監禁に怒りを覚えます。裁判に勝訴したとしても、家族の絆を回復することは不可能だと思うと悲しいです。
献身など望んでなかった
兄らの「不法行為」と認めつつ、「家族としての愛情」として情状酌量している、ということでしょうか。
・12年間、外出させない
・友達と交流させない
・結婚させない
・病院に行かせない
・免許を更新させない
・ガリガリになるまで食事を制限する
・無一文で寒い屋外に突き出す
・子供の信仰を認めない
どこが愛情なのでしょうかね。
「愛情」の定義を聞いてみたいものです。
<拉致監禁諸派の愛情作戦>に
<狭い法曹界の中だけで生きているエリート裁判官たち>は見事に騙されている、ってことでしょうか。
エリート裁判官も、人情の分かる人、親心の分かる人、って思われたいんでしょうかね。
「愛情」という言葉に弱いのかな。
エリート裁判官は、統一教会をはじめ、新興宗教の世界はかすりもしないで、ガリ勉人生を生きてきたことでしょう。
統一教会の悪い話をさんざん聞かされ、「ああ、世間にはそんなにトンデモナイ組織もあるんだなあ。オレが騙されて、その世界に入ってしまったら、うちの両親はさぞ悲しむだろうなあ。オレを救い出すために、財産を投じて、オレに付き合ってくれるに違いない…」と、勝手に監禁した家族に同情してしまうんでしょうかね。
でも、情にほだされるくらいなら、まだ可愛いですが、なんと、そこに虚偽があったとは…。
徹さんが一般の会社に就職する意思を持っていたことを知りつつ、献身を望んでいたことに、ねじ曲げた!。<逸失利益を発生させないようにするために>。
許せませんね。
えげつない裁判長だったんですね。
相澤裁判長には、なんとなく、好意的な感情を持っていましたが、見方が変わりました。
今青空になりました。
条件付き愛
愛という言葉で変わってくる判決。
よくぞここまでかいてくださいました。
最高に秀逸な注解
「被告後藤兄らが不法行為に及んだのが原告を案ずる家族として価値観を同一にしたいという感情からであることは,容易に推察される」
今回の記事は統一教会員に対する親族による拉致監禁、棄教強要問題を追究する米本さんの問題意識の深さを再認識させられる内容でした。
米本さんがこれらの問題をルポルタージュされた記事の最上級に評価されて然るべき価値内容とは その社会の多様な人々に対する‘偏見のなさ’だと改めて確認できた次第です。
それは、問題多き統一教会に対しても、「是々非々の考えかた」で捉え、その宗教思想に対しても一つの価値観として認め、存在価値を否定していないのです。
凡庸な常識的人間ならば、「一般のキリスト教団は善、統一教会は悪」との宗教的価値判断に意義を唱えることはなく、後藤さんの裁判の判決文において上記のように「不法行為に及んだのが原告を案ずる家族としての愛情からであることは,容易に推察される」と裁判官が判断したとしても違和感を覚える人はほとんどいないのではないでしょうか。
もちろんその理由は今まで統一教会が行ってきた数々の詐欺的経済活動や教祖を盲信して その命令ならば不法行為も厭わない狂信的な信仰に対する一般人の評価なのですが、その巨大な人間社会において現象化する様々な矛盾をも認識できる知性と良心を備えた(倫理的に)覚醒されたジャーナリストからは、その浅薄な判断は適正とは見なされず、そこでは違法行為の本質を見落とし、間違った認定を犯していることが明白にされてしまったのです。
米本さんが判決文に書かれた「家族としての愛情」という言葉に強い違和感を覚えたのは当然と言えるでしょう。
様々な社会問題をルポしてこられた米本さんにとって 社会に存在している他者との利害関係に左右される愛憎とは別次元にある「家族としての愛情」には特別の意味づけがなされなければならない充分な理由があったと理解できます。
米本さんが<「家族の愛」とは普遍的で無条件のものである。>と定義づけした解釈は、統一原理を学んだ者達には非常にわかり易いのですが、その“家庭的愛”の重要性は‘創造原理’の中でも強調されています。
また実態的にも、民族、国家の境なく、「家族の愛」が個人の人間性を育み、道徳心を形成していることは真実として認められ、疑いようもなく、「家族の愛」には無条件の包容力と共存しようとする肯定的感情が含まれるものとして一般的に認識されているのです。
従って、普遍的な意味で「家族としての愛情」という言葉を使うのであれば その人間性を無視し、人格を蹂躙する行為を実行する動機として理由付けするのには不適切で、まさに判決文にある「家族としての愛情」との‘認定’は真実を無視していると言えるでしょう。
そして、米本さんが示した「原告を案ずる家族として価値観を同一にしたいという感情からであることは,容易に推察される」という表現こそが的を射た動機の解釈であります。
さすがにあらゆる‘真実’に精通されている米本さんの示した‘正論’であると思います。
米本さんは正真正銘の「是々非々の考えかた」ができるジャーナリストである為、統一教会に対しても、その違法な組織的経済活動や現実離れした宗教理論に対して鋭い批判を加える一方で、その統一教会に救いを求める人間が存在するようにもなる現代社会の実情というものも深く理解しておられ、さらには一般のキリスト教団の‘偽善性’についても鋭く考察しておられる為、このような極めて理路整然とした“注解”が可能だったのだと思われます。
その米本さんと比較すれば、判決文を書かれた裁判官も、やはり、“偏った宗教判断の壁”が自身の中にあり、それを越えることができなかったのだと言えるでしょう。
確かに「狭い法曹界の中だけで生きているエリート裁判官たち」の哲学的思考の限界と言えるのかもしれません。
その判決文の中にある、重大な欠陥の部分に対し、その間違いを裁判官が後に認識できるようになれば良いのですが、“大岡裁き”に似せて松永牧師を救ったのだなどと自己満足していたとするならば、日本の司法に対しては悲観的にならざるを得ません。
それを考えても、ジャーナリストとしての米本さんの存在の貴重さがより強く実感できます。
実に正直な気持ちが綴られているブログ
http://ameblo.jp/angelstairway/entry-11802179176.html#cbox
私のブログは、非教会員、また拉致監禁未体験者であるがゆえに、感情をできるだけ抑え、神々の黄昏さんが指摘されたように、理路整然と綴ることを心がけて書いたものです。
そのため、監禁体験者の微妙な感情に言及できていないという欠陥があります。
その穴を、奈々草さんが埋めてくれています。奈々草さんだけの心のひだひだで、普遍化できないかもしれませんが、強制脱会者の感情に思いをいたすには、絶対に読まれるべき記事です。
ブログの末尾に、追記として、奈々草さんのブログを紹介します。
感じられるところがあれば、奈々草さんのブログのコメント欄にどうぞ。
民主主義は多数決ではない
緑色に着色した雛をヒヨコの群れに入れるといじめられるというものです。異物排除の本能は、外界との接触の少ない時代において、肯定すべきものだったかもしれませんが、グローバル化の進んだ今の時代においては、衝突や軋轢を生むものとして、価値観として乗り越えなければいけないものとなっていると言ってよいと思います(取り除けばいいという事ではありません)。
民主主義、法治主義を掲げながらも、日本が主権国家の三権において、放置してしまっている矛盾が数多くありますが、とりわけ、価値観の違いを生理的に嫌悪する社会というのは、まだまだもろさを持った未熟な社会と言えるのではないでしょうか?
人が類的存在である限り、何かに依存するという未熟さを持ち続けることになると思います。その自覚と教訓から、近代の国家体制が出来たのでしょうが、長い歴史の中では近年になってからのことです。
司法においても、法治主義が徹底されているとは言えません。関係ない話かもしれませんが、例えば、最高裁判官を罷免することは、今の制度ではほぼ不可能です。ただ、選挙の時に、出口調査などで、反対票の数を集計し、言論的圧力を与えることはできるかもしれません。
事実を追求し、声を上げ続ければ、少しづつでも周知され、いずれ、社会のゆがみを是正し得る流れが作られるのではないでしょうか。無辜の人間が住みにくさを感じない社会へと徐々に脱皮していきたいものです。
司法の闇
1審・静岡地裁で死刑の判決文を書いた元裁判官、熊本典道さんは真っすぐに裁判長を見据えて受け答えする袴田死刑囚の様子や、任意性に乏しい供述調書などを通じ、「有罪認定は難しい」と思っていたが、結審後に判決文を検討する中で、結果的に先輩判事に押し切られたと振り返られました。
半年後、耐えられず退官し、弁護士に転じ合議の秘密を破り、第1次再審請求中の2007年、「無罪の心証があった」と告白したが、
請求棄却が確定した。先月末には古巣の静岡地裁を訪ね、再審開始を求める上申書を提出。「自分は他の裁判官を説得できなかった。
償いをしたい」と訴えたようです。
この方はまだ耐えられず裁判官を辞められましたが、誤判を繰り返しながら裁判官を続けてる方もおられるでしょう。
裁判官は殆ど罷免もなく、雲の上の存在ですが俗っぽい世界もあるんでしょうね。
後藤さんの裁判官が明らかに誤判を行った事は今回の記事でより理解できましたが、裁判官の生きている環境も判決に影響するんでしょう。
司法の闇に米本さんが今後切り込んで行かれるのが楽しみです。
愛情作戦
★被告の 「愛情作戦」 慰謝料算定に大きく影響
http://humanrightslink.seesaa.net/article/397975926.html
- [2014/05/31 12:35]
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- Yoshi Fujiwara
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