空白の9年5か月は「監禁のための監禁」期間だった!
後藤勝訴判決文(5)
判決に関わる重要な事実認定部分です。熟読、再読を!お願いいたします。
後藤さんの「保護」は12年5か月という長期にわたるものとして有名になりましたが、このうちなんと9年5か月間、脱会説得は行われていません。これはどういうことでしょうか。「保護説得」を体験された方(親・子)はどう思われますか。
第3 当裁判所の判断
1 前記前提となる事実に証拠
「裁判所が採用した証拠」(判決文1)
(1)裁判所が認めた原告,被告から提出された証拠,陳述書の内容
アイ(判決文2) ウエオカキク(判決文3) ケコサ(判決文4) シスセソタ チツテトナニ
(2)裁判所が採用しない主張
ア 原告の供述について イ 被告宮村と松永の供述について
2 被告後藤徹ら並びに被告松永及び被告宮村の原告に対する不法行為の成否について
3 損害賠償についてI
4 被告法人の使用者責任について
5 まとめ
※判決文を読まれると、やたら記号が多いが、ポイントとなるのは括弧がつかないアイウエオ50音表記である。そのため、目立つように大文字にした。
シ 後藤宅での出来事に関する認定
(ア) 原告は,亡後藤父から招かれ,平成7年9月11日,亡後藤父宅を訪問し,両親及び被告らと共に食事をした。原告が亡後藤父宅を訪問した際には,亡後藤父宅の前には,ワゴン車は停まっていなかった。
また,タップの男性従業員は,後記のとおり,原告が亡後藤父宅の玄関からワゴン車の方へと移動するまでの間,原告の前に姿を現していなかった。
(イ)a 亡後藤父は,食事を終えた頃,原告に対し,前記オの話合いの際にはその話合いが終わる前に原告がホームに戻ってしまったことが残念である旨を述べるとともに,再度,場所を移動して原告が信者であり続けることの是非について話し合いたい旨を述べた。
原告は,話合いであれば亡後藤父宅において行うべきであるなどと述べ,当初は亡後藤父の求めに応じていなかったが,その後,1時間程度話をした後に,渋々ではあったものの,自ら立ち上がり,靴を履き,亡後藤父らや亡後藤父宅において待機をしていたO(原告の伯父)に付き添われて,玄関から亡後藤父宅の外に停められていたワゴン車の方へと向かい,これに乗り込んだ。
なお,原告が玄関を出て上記ワゴン車へと向かう際には,亡後藤父宅の庭先に,万が一の場合に備えて,タップの男性従業員が待機をしていた。
もっとも,原告においては,亡後藤父らと真摯に話合いを行う意思はなく,前記の統一教会における教えに従い,亡後藤父らから求められるままに形式的には話合いに応じ,偽装脱会を行い,時期をみて,統一教会のホームに戻ることを企図していた。
b 原告は,前記aのワゴン車の後部座席の中央に,亡後藤父と後藤母又は被告後藤兄のいずれかとにその両脇を挟まれる形で座り,パレスマンション多門に到着するまでの間,行き先を告げられることはなかった。
また,原告は,その間,一度も上記ワゴン車から降りることはなく,原告がトイレに行きたい旨を述べた際も,上記ワゴン車が停車することはなく,原告は,上記ワゴン車内に予め用意されていたポータブルトイレを用いて用を足した。
(ア) 原告は,平成7年9月12日から平成9年6月22日まで,パレスマンション多門に滞在した。
パレスマンション多門には3部屋があり,そのうちの1部屋は閉ざされていて誰も立ち入ることのできない状態にあった。
両親,被告後藤兄嫁及び被告後藤妹は,残りの2部屋のうちベランダに面した部屋を使用し,原告は,上記のベランダに面した部屋と閉ざされていた部屋とに挟まれた部屋を使用していた。
また,原告が使用していた部屋から玄関に向かうためには,構造上,両親らが使用する部屋を通る必要があった。なお,上記のベランダに面した部屋の窓は,開かない状態にされていた。
当時,原告の身長約182センチメートル,体重は約70キログラム前後であり,これに対し,後藤母の身長は約148センチメートル,体重は約36キログラム,被告後藤兄の身長は約173センチメートル,体重は約63キログラム,被告後藤兄嫁の身長は約158センチメートル,体重は約63キログラム,被告後藤妹の身長は約153センチメートル体重は約39キログラムであった。
(イ) パレスマンション多門には,当初の約1か月間,両親,被告後藤兄嫁,被告後藤妹及びO(原告の伯父)が滞在し,亡後藤父を中心として,原告との間で話合いを行っていた。また,原告は,亡後藤父の求めに応じて,家族らに対し,原理講論を用いて統一教会の教義の講義を行うなどしていた。 <注解1>
(ウ) その後,平成7年10月頃から,原告は,亡後藤父から求められ,パレスマンション多門において,被告松永との面談を行うようになった。
被告松永は,週に2,3回の頻度で,パレスマンション多門を訪れ,原告に対し,家族が何を心配しているのかについて問うとともに,原理講論の教えについて検証を行うよう勧め,原告は,被告松永に対し,聖書の内容を質問するなどしていた。
(エ) 原告は,平成7年12月頃,両親,被告後藤兄嫁及び被告後藤妹に対し,統一教会の教えが誤っていると考えるに至ったので統一教会を脱会する旨を告げ,統一教会宛ての脱会届を作成した。
その後,原告は,被告松永の勧めに応じ,平成8年3月頃,統一教会に入信してから脱会を決意するに至ったとする経緯に関する手記を記した。
その後,被告後藤兄と亡後藤父は,原告が平成7年9月頃まで滞在していた統一教会の施設を訪れ,原告の荷物を引き揚げた。
(オ) 原告がパレスマンション多門に滞在していた間,被告後藤兄は,最初の数日を除き,パレスマンション多門には滞在しておらず,仕事の休みの日などに時折訪れる程度であり,Oは,最初の1か月ほど滞在したのみであった。
また,亡後藤父は,平成8年3月に心臓病により入院し,更にその後に膵臓ガンに罹患していることが判明したこともあり,同月以降は,亡後藤父宅に戻り,後藤母は,そのような亡後藤父の看病のために亡後藤父宅に戻るなどしていた。
被告後藤兄嫁は,同年1月に実家に戻り,その後は平成9年3月に亡後藤父が再度体調を崩したことにより後藤母が亡後藤父宅に戻るまでの間,時折パレスマンション多門を訪れる程度であったが,被告後藤妹は,常時パレスマンション多門に滞在していた。
原告は,パレスマンション多門に滞在していた間,自由に外出することを許されず,また,パレスマンション多門には電話機が設置されていなかったため(なお,亡後藤徹父は携帯電話を所持しており,その電話を用いて外部との連絡を取っていた。),合同結婚式に一緒に参加したS(後藤の婚約者)はもとより統一教会の関係者の誰に対しても連絡をとることができない状況にあった。
セ 宮村と後藤父との約束
(ア) 亡後藤父は,平成9年3月頃,後藤母と共に,被告宮村の元を訪ね,被告宮村に対し,自らが末期ガンの状態にあり,余命3か月であると宣告されている旨,原告が偽装脱会をしていることは明らかであり,被告宮村において原告との話合いを行ってほしい旨を述べ,被告宮村は,亡後藤父の意向に応ずることとした。
(イ) 被告後藤兄は,前記(ア)のような亡後藤父の意向をかなえるべく,水茎会からの紹介を受け,亡後藤父と原告との話合いの場所として,荻窪プレイスを準備した。
ソ パレスマンション多門(新潟)から荻窪プレイスへの移送過程、また荻窪プレイスでの出来事に関する認定
(ア) 平成9年6月22日,亡後藤父が死亡し,原告,被告後藤妹及び被告後藤兄嫁は,亡後藤父宅を訪れ,亡後藤父の遺体と対面した。
原告がパレスマンション多門から亡後藤父宅へと向かう際には,ワゴン車が準備され,当該ワゴン車には,被告後藤兄嫁,被告後藤妹,被告後藤兄嫁の2人の兄,元信者であるTらが同乗していた。
なお,原告は,パレスマンション多門を発つ時点において,パレスマンション多門には戻らない予定である旨を告げられていなかったため,再度パレスマンションに戻るものと考え,自身の免許証等の身の回りの品をパレスマンション多門に置いたままにしていた。
(イ) 原告は,亡後藤父の遺体と対面した後,被告後藤兄から,新潟には戻らない旨を告げられ,そのまま,車で被告後藤兄らと共に荻窪プレイスへと移動した。
(ウ) 原告は,平成9年6月22日から同年末頃まで,荻窪プレイスに滞在した。
荻窪プレイスには2部屋があり,そのうちキッチンがある部屋を被告後藤兄ら及び後藤母が使用し,ベランダに面した部屋を原告が使用していた。
原告が使用していた部屋から玄関に向かうためには,構造上,被告後藤兄らが及び後藤母が使用する部屋を通る必要があった。
また,荻窪プレイスの玄関にはカーテンが引かれており,原告が使用していた部屋からは玄関のドアの様子を窺うことはできなかった。
原告が荻窪プレイスに滞在していた間は,被告後藤兄ら及び後藤母も荻窪プレイスに居住しており,被告後藤兄が日中に仕事に出かけたり,他の家族らが買物に出かけたりすることはあったが,原告のほかに家族の誰かが必ず常駐している状態であって,原告が1人になることはなかった。
また,原告は,荻窪プレイスに滞在していた間も,自由に外出することを許されず,統一教会の関係者の誰に対しても連絡をとることができない状態にあった。
(エ) なお,前記のとおり,原告が荻窪プレイスに滞在している間,亡後藤父の葬儀が執り行われたが,原告,被告後藤兄嫁及び被告後藤妹は,これに列席しなかった。
タ 荻窪フラワーホームでの出来事に関する認定
(ア) 原告は,平成9年12月,被告後藤兄から,場所を移動する旨を告げられ,車で荻窪フラワーホームに移動した。
荻窪フラワーホームは,被告後藤兄が水茎会の紹介により借り受けたマンションの1室であり,原告が荻窪プレイスから荻窪フラワーホームに移動する際には,原告の家族らのほか,被告後藤兄の知人3名がこれに立ち会った。
なお,信者及び元信者の中には,原告と同様,荻窪フラワーホームと同じマンションの別の室において,家族や被告宮村から脱会の説得を受けた者が複数存在している。<注解2>
(イ) 原告は,平成9年12月から平成20年2月10日までの間,荻窪フラワーホームに滞在した。
荻窪フラワーホームには,3部屋があり,キッチンのある中央の部屋を挟み,玄関側にある部屋を被告後藤兄らが,その反対側のベランダに面した部屋を原告がそれぞれ使用していた。
原告が使用していた部屋から玄関に向かうためには,構造上,被告後藤兄らが使用する部屋を通る必要があった。
また,被告後藤兄らは,玄関のドアの内側のドアチェーンの部分に南京錠で施錠をしており,当該南京錠を解錠しなければ上記ドアを開けることができない状態にしていたほか,ベランダに面した部屋の窓についても,鍵の付いた錠を設置し,開閉ができない状態にしていた。
(ウ)a 原告は,荻窪フラワーホームに移動してまもなく,被告後藤兄ら及び後藤母に対し,自らが偽装脱会をしていたことを告白し,「嘘をついていてすみませんでした。」と述べた。
その頃,原告が,荻窪フラワーホームの外へ出ようと玄関に向かっていったところ,被告後藤兄から取り押さえられたということがあった。
b(a) 原告が偽装脱会の告白をした後の平成10年1月頃,被告宮村が元信者らと共に原告の元を訪れ,原告に対し,再度,自らが考えるところの統一教会の教えと聖書の教えとの矛盾点や文鮮明に関する話について語るなどした。
また,同年2月又は3月頃には,被告松永が,被告宮村と共に,原告の元を訪れた。
原告は,被告松永及び被告宮村が共に原告の元を訪れた際,被告松永に対し,偽装脱会をしていたことを告げた。
これを聞いた被告宮村は,原告に対し,「そんなことするから長引くんだ。」などと述べた。
(b) 被告宮村は,平成10年1月頃から同年9月頃までの間,合計73回にわたり,元信者らを連れて原告の元を訪れ,繰り返し,原告に対し,自らが考えるところの統一教会の教えと聖書の教えとの矛盾点や文鮮明に関する話をするなどした。
そのような際,被告宮村は,時折,原告に対し,
「お前は全然人の話を聞いていない。」,
「頭を使え。自分の頭で良く考えろ。」,
「自分の頭で考えられるようになるまではここから出られないぞ。」,
「もし自分の子供が統一教会を辞めなければ,家に座敷牢を作って死ぬまで閉じ込めておく。」,
「もし文鮮明が正しくて統一原理が真理であれば,俺はこの場で腹を切る。もし文鮮明が偽物で統一原理が真理でなかったらお前はこの場で腹を切る覚悟があるか。」,
「原理のどこが真理なんだ,説明してみろ。こんなものを信じ続けることができるのは,お前がマインドコントロールされている証拠だ。」 <注解3>
と述べたり,
統一教会の初期に教祖とのセックスリレーがあったという話をして,「文鮮明は何であんなに女が好きなんだ。何人の女と寝たか,分からない。」などと述べるなどした。<注解4>
(c) 被告後藤兄は,原告に対し,
「お前に統一教会をやめろと言っているのではない。ただ,家族としては,これほど問題のある団体でお前を活動させておく訳にはいかない。だから,いったんニュートラルになって考えてほしい。」
などと頻繁に述べて,原告との話合いの機会を持とうとしていたが,原告は,これに対し,
「拉致・監禁して閉じ込めておいて,ニュートラルになって考えろもないだろ。」,
「監禁なんかして」
などと述べ,抗議をしていた。
(d) 原告は,平成10年9月下旬頃,被告宮村に対し,
「宮村さん。私はもう,統一教会がでたらめで間違っていることも分かった。文鮮明がメシアでないことも分かっている。でも,私はどんなに間違っていてもこの活動を続けたい。私がやりたいからやるのであって,他人のあなたにとやかく文句をつけられる筋合いではない。」
などと大声で述べた。
それを聞いた被告後藤兄は,被告宮村に対し,しばらく家族だけで話し合うこととしたい旨を告げ,被告宮村は,その日以降,原告の元を訪れなくなった。<注解5>
(エ) 原告は,平成13年2月頃から,荻窪フラワーホームの自らが使用していた部屋の中で暴れるようになり,窓の内側にある障子戸の障子を破ったり,障子戸の桟を壊したりするなどした。
また,原告は,時折,玄関の方に向かっていったが,そのような場合には,被告後藤兄らによって取り押さえられ,大声を出すも被告後藤兄らからその口を押さえつけられるなどした。
被告後藤兄は,その頃,荻窪フラワーホームの玄関と居室とを隔てる箇所に設置されていた木戸のドアノブを,施錠が可能なものに取り替えた。
(オ) 被告後藤妹及び後藤母は,原告が荻窪フラワーホームに移動した後,原告と共に荻窪フラワーホームに居住していた。
被告後藤兄は,移動直後は荻窪フラワーホームに寝泊まりしてタップに通勤していたが,平成13年1月頃にタップを退社した後,平成16年3月に人材派遣会社に就職するまでは,常時荻窪フラワーホームに滞在して,原告と共に生活を送っていた。
なお,被告後藤兄は,同月以降,約2年間は荻窪フラワーホームに滞在していなかった。
被告後藤兄嫁は,平成10年春頃から平成11年年末までは,体調を崩して埼玉県新座市にある自宅に戻っており,その頃から平成15年末頃までは,荻窪フラワーホームに週2,3日の頻度で通う生活を続け,平成16年3月頃から,荻窪フラワーホームで生活をするようになった。
(カ) 原告は,荻窪フラワーホームに滞在していた間,自由に外出することを許されず,また,S(原告の婚約者)はもとより統一教会の関係者の誰に対しても連絡をとることができない状態にあった。
荻窪フラワーホームには,電話は設置されていたものの,その着信音が鳴ることはなく,原告がその電話を使用することも許されていなかった。
被告後藤兄においては,専ら携帯電話を使用して外部との連絡をとっていた。
(キ) 原告が荻窪フラワーホームに滞在していた間,時折,設備点検等の作業のため,業者が室内に立ち入ることがあったが,そのような際にも必ず家族の誰かが立ち合っており,原告がそれらの業者に対して助けを求めることはなかった。
また,平成15年11月頃には,荻窪フラワーホームのトイレのドアの鍵が壊れ,被告後藤兄が1時間以上もトイレ内に閉じ込められるという事件が起きた。
その際,荻窪フラワーホーム内には,被告後藤兄のほか,原告,被告後藤妹及び後藤母がおり,被告後藤兄の携帯電話で助けを求められた被告後藤兄の知人が,持参したバールでドアをこじ開けることにより,被告後藤兄を救出したが,そのような機会にも,原告は,荻窪フラワーホームから退出を試みようとする素振りを見せなかった。<注解6>
(ク)a 原告は,平成16年,平成17年,平成18年にそれぞれ断食を行った。なお,2回目の断食直後の原告の体重は,約45キログラムとなっていた。
b 後藤母及び被告後藤妹は,日常的に,原告の食事を用意していた。
被告後藤妹は,かつて信者であった頃に断食を行った経験を有していたことから,原告が断食を終えた際には,自身の経験に基づき,原告の食事を普通食に戻すまでの間に時間を置き,その間は,重湯やスポーツ飲料等を摂取させるようにしたり,粥の濃さを徐々に調整したりするなどして,原告の体調を気遣っていた。
なお,1回目及び2回目の各断食の終了後の原告の食事は,いずれも約1か月をかけて普通食に戻されたが,平成18年4月に原告が3回目の断食を行った後は,前2回に比して断食の期間が長かったことから,約70日間にわたって流動食が用意され,その後に普通食に戻された。
また,その普通食についても,原告が再度断食を行う旨の意向を表していたことから,身体に負担のかからないものが用意されていたため,原告と同等の身長のある一般の成人男性に必要とされるカロリーを摂取するのに十分なものではなかった。
<注解1>原告後藤に限らず、監禁下で家族に『原理講論』の説明を行うのは一般的だ。これは、「おまえが信じていることを説明してくれ」と言われるからだ。一通りの説明が終わったら、「今度はこの本(いわゆる反対本)を読んでくれ」という。これも一般的だ。
<注解2>ブログ統一教会脱会請負人・牧師「宮村峻・高澤守」研究の管理人の婚約者が荻窪フラワーホームに監禁されていた。
<注解3>こうした宮村の乱暴な口の利きかたを、日本基督教団の牧師は嫌っていた。もっとも、同教団の現行田教会の牧師、清水与志雄は監禁下のアントール美津子に対して「一生、座敷牢に入っておれ」などと、宮村顔負けの汚い言葉を吐いていたのだが。
<注解4>これは注解ではないのだが、「元女性信者を次々と毒牙にかけるおまえから言われたくない」

<注解5>今回の事件でもっとも不思議な部分であり、最大の謎 である。説明すると長くなるので、感想のところで詳述する。
<注解6>後藤兄の知人とは大倉文明のこと。ペンネームは多田文明。今回の裁判では被告側の証人として証言している。
【大倉文明の証言】「被告側証人OB氏の主尋問-抗議行動は相手をびびらせるため?監禁を全面否定するOB氏」
「被告側証人OB氏の反対尋問ー親が出させてくれないと口を滑らしたOB氏」
<注解5>に関することである。私の疑問を理解していただくために、出来事を時系列で整理しておく。判決に関わる出来事も含めた。(出来事は判決文の事実認定を、その表現は後藤の主張を採用した)
95年9月11日:後藤の実家(西東京市、旧保谷市)から、後藤が連れ出され、新潟のパレスマンション多門の一室に隔離される。
95年9月12日から97年6月22日まで:後藤はパレスマンション多門に監禁される。この間、牧師松永が週に2、3回の割合で脱会説得に訪れる。
[*松永が来訪した期間は正確に言えば上記97.6.22までの全期間ではない]
95年12月頃:後藤は(偽装)脱会を表明する。その後、統一教会の施設から後藤の荷物を引き上げる。しかし、監禁が解かれることはなかった。
97年3月頃、後藤父が後藤の偽装脱会を疑い、宮村に説得を依頼する。
97年6月22日:後藤父が死亡。
97年6月22日:後藤は、パレスマンション多門から荻窪プレイスに移送される。
97年6月22日から97年年末まで:後藤は荻窪プレイスに監禁される。
97年12月:後藤は荻窪プレイスから荻窪フラワーホームに移送される。その直後に、 脱会は偽装脱会だったと明かす。
97年12月から08年2月10日まで:荻窪フラワーホームに監禁される。<荻窪フラワーホーム時代での出来事>
98年1月頃から98年9月頃まで:宮村が合計73回にわたり,元信者らを連れて説得に訪れる。
98年9月下旬: 後藤は、被告宮村に対し,
「宮村さん。私はもう,統一教会がでたらめで間違っていることも分かった。文鮮明がメシアでないことも分かっている。でも,私はどんなに間違っていてもこの活動を続けたい。私がやりたいからやるのであって,他人のあなたにとやかく文句をつけられる筋合いではない。」
などと大声で述べた。
それを聞いた被告後藤兄は,被告宮村に対し,しばらく家族だけで話し合うこととしたい旨を告げ(この認定は後藤兄の主張を取り入れたもので、後藤は全面否定!),被告宮村は,その日以降,原告の元を訪れなくなった。
01年2月頃から:荻窪フラワーホームの自らが使用していた部屋の中で暴れるようになり,窓の内側にある障子戸の障子を破ったり,障子戸の桟を壊したりするなどした。後藤兄は,その頃,荻窪フラワーホームの玄関と居室とを隔てる箇所に設置されていた木戸のドアノブを,施錠が可能なものに取り替えた。
04年3月:後藤兄が人材派遣会社に就職する。この後、2年間は荻窪フラワーホームで暮らさず。後藤兄と入れ替わるようにして、後藤兄嫁がフラワーホームに。
04年:1回目の断食 (21日間)
05年:2回目の断食(21日間。パレスマンション多門に移送されたときの後藤の体重は70キロ。断食後、45キロに)
06年:3回目の断食(30日間)
08年2月:後藤はマンションから追放される。
宮村と父との約束
原告後藤が大声をあげたことをきっかけに、平成10年9月下旬以降、宮村が説得に訪れなくなった。
これは、何故なのか?
「亡後藤父は,平成9年3月頃,後藤母と共に,被告宮村の元を訪ね,被告宮村に対し,自らが末期ガンの状態にあり,余命3か月であると宣告されている旨,原告が偽装脱会をしていることは明らかであり,被告宮村において原告との話合いを行ってほしい旨を述べ,被告宮村は,亡後藤父の意向に応ずることとした」
-というのに。
絶対に落してやる
宮村は京王プラザホテルでの監禁説得が失敗に終わった後、「荻窪栄光教会から礼拝中に逃げていった馬鹿な男がいる」「今度は絶対に落としてやる」と語っていた。(裁判の証拠に記載されている)
また、保護説得をやっている牧師のことを「おれは、そんじょそこらのヘッポコ牧師とは違う」と周囲に豪語していた。 (裁判の証拠にはない)
それなのに何故?
原告後藤が大声を出し、そのため後藤兄が宮村に「家族だけで話し合う」ことを伝えた。宮村が素直にそれに従うとは到底考えられない。
そもそもの話である。
最初は家族だけの話し合いで、子どもの脱会説得を試みる。それがうまくいかないから、脱会説得者に依頼するのである。これが基本であって例外はない。プロの説得者(ディプログラマー)が説得を試みてうまくいかなかったから、家族だけで話し合う。こんなことはあり得ないのだ。
私が取材した範囲でしかないが、プロにお引き取りを願ったケースを2つばかり知っている。それは家族が監禁生活に疲れてしまい、説得を諦めたからである。この場合、プロが去ったあと、子どもは解放され、家族も保護したマンションから自宅に戻る。ごく自然な流れであろう。
また、判決文(3)(4)で裁判所が認定したように、脱会マニュアルと脱会説得者の指導は絶対のものとされ、脱会説得者が説得に訪れるか否かもプロの脱会説得者の判断、都合で決められることであり、家族の意向が忖度されることはない(マニュアルに家族の意向を尊重するといった文言はない)。
もし、「もう家族だけで話し合う」といった提案が聞き入れられるようなことがあれば、説得現場は無秩序になってしまう。当然のことだろう。
これと関係することでいえば、故樹村さんは牧師清水与志雄の許可なく、監禁中の息子を外に連れ出し、家族みんなで寿司を食べたことがある。子どもの心は和み、その後脱会した。一つの勝利の方程式のはずだが、あとで大問題になった。マニュアルから外れた行為だったからだ。それほどマニュアルは絶対的なのだ。
後藤兄らとその後の宮村との関係
前掲の時系列一覧で見る限り、98年9月下旬から宮村と後藤兄らとは接触がなかったように思えるだろうが、後藤が断食したことは、宮村が陳述書で述べている通り、後藤兄から知らされていたし、私が後藤追放から3日後に宮村を取材したとき、宮村は後藤の断食のことを知っていた。また、後藤が追放されたことも知っていた風だった。(後藤が荻窪フラワーホームから追放された話をしても、宮村は驚くことなく、平然としていた)
したがって、「98年9月下旬後の宮村」は後藤兄らに何らかの指導をしていたと考えるのが自然である。
少なくともマニュアルでは、家族独自の判断で何かを決めることは認められていない。後藤兄らは宮村に逐一報告し、指示を仰いだはずだ。
後藤兄らは説得せず!
宮村が荻窪フラワーホームに訪れなくなった98年9月下旬から後藤が追放された08年2月までの約9年5か月間、後藤兄・兄嫁・妹は後藤に脱会説得(話し合い)を試みたことはない。少なくとも、関係者の陳述書、証言録に記されていない。実際、判決文でも認定されていないのである。
これはどういうことなのか。
後藤兄は「家族だけで話し合う」と語っていたのに、どうして、説得しなかったのか?
宮村が説得をやめた理由
この謎は推測するしかないのだが、(1)脱会説得者は絶対的な権限を有していた、(2)後藤兄は宮村を絶対的な指導者として仰いでいた、その結果、(3)宮村から「後藤を当分、出すなよ」と命令された場合、あがなうことはできなかった-からではないのか。
(宮村と後藤兄との関係は、弁護士の伊藤芳朗の証言を再読してもらいたい。前回の判決文(4)の<注解2>で記している)
では、脱会説得では自尊心の塊のような宮村は、なぜ訪問しなくなったのか。
それは、宮村の部下的存在である牧師高澤守のもとから、富澤裕子が逃げたことが原因していると思われる。
富澤は監禁中に、高澤から3年間も監禁されている男性信者、後藤のことを聞かされたことがあったし、宮村の脱会説得を受けたこともあった。
その富澤が逃げ出したことを、高澤から聞かされた宮村は、いずれ富澤は告訴・提訴してくると不安になり、後藤のもとを訪れなくなったのではないか。<73回も説得したのに、いまだ落ちないしぶとい野郎だ。落すにしても当分時間がかかるな>
実際、逃げた富澤は教団本部に後藤という人がいまだ監禁されていることを伝え、その後、高澤を告訴、提訴している。
一方、後藤は監禁中に「ここを出たら、警察に訴えてやる」と発言していた。
絶対的な矛盾
重要なことなので、繰り返しになるが、要点のみを再度書いておく。
(1)後藤兄は、後藤が大声を出したことをきっかけに、宮村に「家族だけで話し合う」ことを伝えた。
(2)後藤兄らは9年5か月もの長きにわたって、後藤を説得したことは一度もなかった。
この2つは矛盾する。(2)は前述したように、原告被告双方ともほぼ「争いのない事実」である。だとすれば、後藤兄が宮村に語った言葉は偽りだったということだ。
これが偽りだったとすれば、後藤が大声で「宮村さん。私はもう,統一教会がでたらめで間違っていることも分かった。文鮮明がメシアでないことも分かっている。でも,私はどんなに間違っていてもこの活動を続けたい。私がやりたいからやるのであって,他人のあなたにとやかく文句をつけられる筋合いではない」 と語ったことも創作である。実際、後藤はそんな発言をしたことないと否定している。
簡単なことだが、ちょっとややこしい。整理する。
宮村が98年9月下旬から荻窪フラワーホームを訪問しなくなったのは<争いのない事実>である。
問題はなぜ脱会説得をしなくなったのかということだ。
前述したように、私は富澤脱出が原因していると強く推認しているのだが、ともかくなぜ来なくなったのか法廷で説明しなければならない。
そこで、後藤が大声で語り、後藤兄が宮村に「家族だけで話す」と訪問を断った-という架空の話を作り上げた。
くどくなるが、この推測が間違いないことを補強しておく。頭の体操である。
こうした-後藤が後藤兄らから説得されることなく監禁されたままだった-ことからすれば、宮村が「後藤を出すな」と指示したとしか考えられないのだ。それ以外の解釈はほかにあるだろうか。 宮村の支持者たちよ、教えてくだされ。
後藤が大声で語った言葉である。よく吟味しながら読んでみてください。
「私はもう,統一教会がでたらめで間違っていることも分かった。文鮮明がメシアでないことも分かっている。でも,私はどんなに間違っていてもこの活動を続けたい」
別に統一教会員に限ったことではないが、信者が宗教活動するのはその団体の教義と教祖のことが絶対だと思っているからだ。逆に、教義と教祖が間違いだとわかったら、その団体の活動などしたりしない。
笑えるほどに当たり前の話だ。
例えば、「幸福の科学」の信者が大川隆法の本を頒布したりするのは、「幸福の科学」の教えと教祖・大川が正しいと信じているからだ。間違いだと知りながら、本の頒布活動をする信者は一人もいない。
仮にそんな人がいたら、心理学と精神医学の貴重な珍種として研究の対象となる。
もし、チョコレートは嫌いだがチョコレートを食べ続けたいといったような精神が分裂した言葉を、後藤が発したとすれば、宮村と後藤兄らはすかさず、「文鮮明がメシアでないことが分かりながら、どうして文鮮明の教えを広める活動を続けたいと言うのか」と畳みかけて追及するはず。
しかし、被告たちの主張は、大声を発した⇒宮村の訪問を断った-だけなのである。
そして、そのあと、後藤兄らは後藤の説得をしなくなる。
頭がクラクラするような話ではないか。
監禁のための監禁
私が注目した事実の一つは、「04年3月:後藤兄が人材派遣会社に就職する。この後、2年間は荻窪フラワーホームで暮らさず。後藤兄と入れ替わるようにして、後藤兄嫁が荻窪フラワーホームに」である。
つまり、01年1月にタップを退社した後藤兄は、3年後の04年3月にようやく次の就職先を見つけたわけだ。そして、荻窪フラワーホームに住むこともやめた。
[*01年1月は後藤兄の陳述。宮村の陳述ならびに原告後藤の陳述は01年2月。判決文は認定を間違えている。正しくは「01年2月にタップを退職した後藤兄」である]
後藤兄がタップを辞めた時点で、後藤を解放(追放)しても良かったはずだ。それにもかかわらず、後藤兄と入れかわかるようにして、体調を崩していた兄嫁が入り込む。 兄嫁は荻窪フラワーホームではなく、後藤兄のところにいけば良かったではないか。そうすれば、遅くなったとはいえ新婚生活を享受できたのではないか。
宮村がいなくなってからも、後藤の脱会説得を続けていたのならおかしくはないが、そうでないから「監禁のための監禁」だったというしかないのだ。
何のために?
宮村が後藤兄らに、「後藤を出すな」と命令していたから。
客観的な事実経過をたどれば、12年5か月間の監禁のうち、「9年5か月間は監禁のための監禁」だったということなのである。
今回の裁判で不満が残るのは、原告代理人の福本、また3人の裁判官が“空白の9年5か月間”のことを追及しなかったことだ。
その結果、この期間の宮村の不法行為は認定されなかった。
裁判官は9年5か月もの間、後藤兄らが脱会説得をしていなかったという事実に疑問を抱かなかったのか、とにもかくにも不思議でならないのである。
このことが後藤の控訴状でどのように書かれているのか楽しみである。ただし、取り上げていたとしても、控訴審で証人尋問が行われることはないから、後藤兄らに聞く術はない。
宮村の絶対性
読者には、信者家族が宮村のことをそこまで絶対と思うのか、理解しがたいと思うだろう。
私も実はそうだった。出すなと言われて、後藤兄・兄嫁・妹は9年と5カ月間も人生を無駄にすることがあり得るのか。
しかしながら、後藤判決文をこうしてアップしていく中で、点と点が結ばれ、あり得ると確信するに至った。
(1)宮村は、信者家族に頼まれれば、すぐに「保護(拉致監禁)説得」を行うわけではない。このことは宮村も陳述書で述べている。「信者家族には勉強してもらう」といった言葉で。
実際、勉強会に何年も通っているのに、いまだ保護説得のゴーサインをもらっていない信者家族が複数いる。
(2)私の取材でも、宮村は家族から頼まれたから説得を無条件で引き受けるわけではないと語っていた。
(引用はじめ)
――あなたはなぜ脱会説得をしているのか。
宮村「家族から頼まれるからだ」
――頼まれるからやるのか。
宮村「そうだ。俺は人権の尊重とか正義とかそんな大上段に振りかぶった目的でやっているわけではない。家族から頼まれるからだ」
(略)
―頼まれたら、すべて引き受けるのか。
宮村「そんなことはない。俺の考えで引き受けるかどうかを決める」
――引き受けるかどうかの基準は何なのか。
宮村「そんなことを話す必要はない」
――ある家族の依頼には応じ、別の家族の依頼には応じない。恣意的なように思えるが。
宮村「恣意的?ともかく俺が必要だと思えば引き受ける。ただそれだけだ。どう俺が必要に思ったのかは話すつもりはない」
(引用終り)
このときの私は、宮村が引き受ける基準は女偏が関係しているのではないか。そうした疑念から聞いていたのが、それは単純すぎたと今では思っている。
引き受けるかどうかの絶対条件は、家族が宮村のことを真の意味で「絶対」だと思うようになったかどうかにあるのだ。
子どもにどんな非道と思えるようなことをしても、宮村のことを絶対的な指導者として家族が崇め立てるまでになったかどうか・・。
その次は金そして女偏だ。
宮村の特異な人間性
宮村は「自分を絶対的な指導者だ」と思うようになるまで教育する。
これは、ある意味で正しい。子どもを「絶対に落す」つまり「脱会させる」ためには必要なことかもしれないからだ。
しかしながら、宮村は少なからずの信者に逃げられている。それだけでなく、逃げた信者によって、宮村を糾弾する本が二冊も小出、鳥海によって書かれている。最盛期には500人はいたらしいが、こんな脱会説得者は宮村しかいない。
これに比して、新体操の山崎浩子の脱会説得に成功し教団が目の敵にしていた愛知・岡崎の牧師杉本誠はどうか。
彼は、信者や信者家族に対して支配的ではなかった。説得場所も民宿で部屋に鍵はつけていない。表現は難しいがマイルドな拉致監禁といったところか。
それなのに、脱会率は高く、杉本を批判した拉致監禁体験者は知っている限りでは一人しかいない。ちなみに、宮村は杉本が大嫌いだ。
つまり、宮村の支配欲は、脱会説得とは関係ない、個人の資質によるところが大きいということなのだ。
それは、宮村個人の生育歴(親から十全な愛を受けて育たなかった)によるところが大きいのではないか。
複雑な家庭環境にあったと聞いている。
不可解な話
本筋から外れる。
「後藤を外に出すな」
そう指示されたとしても、ベンツに乗っていたという故後藤父の預貯金などを取り崩して監禁生活を続けることが限界に達するまで(刑事の話によると、12年間で1億円費消)、後藤を監禁し続けることが人間の感情としてできるものか。
この疑問は解けない謎のままである。
家族の話し合いなき9年5か月は、後藤のみならず後藤母・兄・兄嫁・妹にとっても無為の日々であった。
その結果、後藤兄夫婦は子どもを授かることができなくなった。妹は幸いその後結婚したが、子どもを授かることはほぼ絶望的だ。
宮村が去って無為の日々が始まった98年9月からの2、3年間ならまだしも、歳月を重ねるごとに、妹は婚期を逸していく。
そのことを後藤兄らはどう思っていたのか。
事実経過をみれば、12年5か月間にわたって後藤と一緒にいたのは妹ただ一人だけである。
後藤兄が一緒にいなかった時期は少なくなかったし、兄嫁にしてもそうだ。
妹(義妹)の将来のことを考えなかったのか。
一番分からないのは、後藤の母親の心理である。
娘の将来のことを思わなかったのか。
「娘の幸せを願う母の情」と「尊師宮村の指示に従わなければならないという義務感」との間で揺れ動くことはなかったのか。
聞きたくても、その母はもうこの世に存在しない。
-判決文(6)に続く-
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- [2014/03/05 18:41]
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宮村脱会屋の性格
子どもにどんな非道と思えるようなことをしても、宮村のことを絶対的な指導者として家族が崇め立てるまでになったかどうか・・。
その次は金そして女偏だ。
宮村脱会屋は監禁者に告訴・提訴されることを真剣に恐れていたという米本さんの分析はとても分かり易く、間違いないように思われます。
そして、そのように考えれば「空白の9年5か月間」の疑問も矛盾なく理解できます。
流石に真相の追究に拘りをもっておられる本物のジャーナリストの業だと感心せざるを得ません。
しかし、そのことを考えると、宮村脱会屋は自分が指導して行っている「保護説得」行為が違法行為であることを充分理解していたことになります。
そして、もし監禁者に告訴されて裁判になれば 有罪となってしまうことも自覚していたことになり、その「保護説得」は実のところ違法な拉致監禁行為であることを認識していた確信犯ということになります。
実に如何わしい性格であったことがわかり、今まで長年裁かれずにきたのですから憤りを感じてしまいます。
そして、その犯罪行為としての認識が上の米本さんの分析にも結びついてくると思われ、宮村脱会屋を信者の家族が絶対者として崇敬するかどうかは、拉致監禁行為を行う上での絶対条件となることは間違いないと思われ、その分析を否定することは難しいのではないでしょうか。
これぞ究極のマインドコントロール(他者の精神的支配)と言えるかもしれません。
さらにそれは、米本さんが指摘されている如く宮村脱会屋のもつ強い支配欲とも相まってますます異様な方向に走ったと思われます。
その次は金そして女偏‥ということはかなり説得力があります。
宮村脱会屋について分析した米本さんの記事を読めば読むほど、宮村脱会屋とあくどい犯罪者のイメージは重なりますが、改めて統一教会員に対する拉致監禁問題を考えますと、その拉致監禁事件を巡る関係者の性格や感情の様相に奇妙な特異性を感じてしまいます。
つまり、少し古い言葉ですが、宮村脱会屋は如何にも“肉食系”であり 獲物を捕らえるためには手段を選ばず、非常にずる賢く、貪欲で支配的です。
そして、多くの統一教会員は典型的な“草食系”で、従順屈服を美徳と考え、身の回り以外のことには思考をめぐらそうとはしません。
そして、たとえ群れの仲間が肉食獣に襲われたとしても 反撃することもなく、遠くから餌食になった仲間を眺めているだけである草食動物と性格が酷似しています。
実は、ネットの野生動物の動画を見ていたら 草食動物のそのような生態が、米本さんが何度も指摘してこられた拉致監禁問題に対する統一教会信者の無関心さとダブってしまって、統一教会信者の性格は“草食系”そのものだと思うようになったのです。
そして、狡猾で支配的な宮村脱会屋の性格が明らかになると、まさしく“肉食系”なのだと変に実感してしまったのです。
この統一教会信者=“草食系”性格、拉致監禁者=“肉食系”性格の例えは単なる思い付きですが、奇妙に一致することが多いので ついついコメントとして書いてしまいました。
短絡的な例えだと文句を言われてもしかたがないのですが、仲間が猛獣に貪られている様子を遠くから無表情に眺めている草食動物の受身な性質が自分にとっては不思議な印象を残し、日本ブログ村・統一教会のブログ記事を読んだ時の印象と何故か重なってしまったのです。
しかし、統一教会員のもつ「真の父母様」を絶対化し、神格化する信仰は環境に受身の存在である草食動物の特徴や弱点と共通点が多く、興味深く感じています。
ただ、“肉食系”と“草食系”を比較した場合、頭が良いのは“肉食系”で“草食系”はそれ程知恵を使いません。
その辺も統一教会員と共通しているのが残念ではあります。
憚りながら、「マインドコントロール」
「カルトから家族を取り戻す。(救出する)」…甘い誘惑でしたか?
この命題はある意味、間違っている。なぜなら、本人が、自分で考え、自分の意志で入信したのだから。一度は、立ち止まって考えるべきである。例えば、わが子が家出をしたとき、それをいろいろな事情のせいにするのは間違いである。なぜなら、本人自らが家出を決定したのだから。
そう、そこにあるのは単純な事実なのだ。こんな簡単なことを彼ら(反対派)は認めない、いや、認めることができない。彼らの(説得者)犯罪性が明らかになってしまうから。
今も、これからも、我が家での戦いは続くであろう、わが子(の心?)を取り戻す為の戦いが。そして、目の前にある普通の現実から目を背け続ける。
変なことを吹き込む方々(事の真偽がどうであったとしても、悪い人々だ。)、「あなたのお子さんは暴力団より悪い犯罪組織に入った犯罪人ですよ」と言う前に、自分たちが勧めて行おうとしていること、そして信者家族に吹き込んでいることは何なんだ!そして家族は、嘘をつき、家族の一員を貶める他人に心を任せ、考え方を受け入れたのである。
正しくは、「カルトを辞めさせる」だ。
家族の愛情だけを誇示するため、美談を語るだけでなく、自分の行動をある程度は客観視できるようになるのではないだろうか。
「憚りながら」としたのは、説得されなければ、辞めることはなかったと思うからです。しかし、事実を歪めたり、隠ぺいするのは我慢なりません。ターゲットとなる人に要求するのと同じ様に、自分の首も正直に秤にかければいいのです。
そうだぞ、草食系。
ほどほどに、大概にしてやれよ~(笑
神々の黄昏さんは、思想的な面においては肉食系といえそうですが;
統一原理にむしゃぶりついて、鋭い歯で肉を裂き、ガウガウ言いながら骨をしゃぶり砕き、髄まで啜る、という…… グルメリポーターなら、「ワォ~ これはまるで……統一原理の解体ショーや~。うーん、この肉、ジューシィ じゅうご じゅうろく……」 などと言いそうな;
しかし総合的にいうなら、やはり草食系なのではないですかあ。(実際はまったく分かりませんが、単に確率的に、教会員ならそっちのほうの可能性が高そうだということです。)
わたしはといえば、やはり草食系かなあ。
米本さんは肉食系かあ(?) わらい
肉食系、草食系以上のもの
世間で“肉食系”“草食系”という言葉は主に男子の恋愛に対する態度を表現する時に使われた流行語なのですが、私の直感的なイメージ自体は 勿論、その流行語の定義とは関係なく、動物の純粋な生態から生み出されたイメージです。
と言うのも、私は原理講論が創造原理の中で説いている「(自然世界等の)万物は神の象徴的な個性真理体であり、人間は形象的な個性真理体である」との世界観がそれまでの自分の世界観と非常によくフィットしまして 自然世界を眺める時は、真美善の価値追求という観点からも人間世界に関連付けられる諸々の存在、現象として捉えており、自然は最高の先生だと思っているのです。
そのような観点は私が信じるところの至上の芸術家であるベートーベンも同じように語っており、様々な人の言葉として よく耳にします。
つまり、人間の性格等も動物に例えたりすると、案外分かり易かったりするのです。
勿論、“象徴的”ですから、一つの例えが全てを言い表している訳ではありません。
あくまで、人間の一面を象徴するものとして自然世界が参考になるということです。
そのような世界観が根底にあるものですから、人間の性格を“肉食系”“草食系”というように分類してしまったのは私の無意識的な発想なのです。
しかし、暗在さんが私を肉食系にしたり草食系と考えたり、いろいろと言ってくださったので自分の名誉のためにも(笑)少しその観点を発展させていただきたいと思います。
動物は通常、肉食動物か草食動物かという分類だけでは不十分で、雑食動物という分類も加わります。
当然、人間はその“雑食系”に属する訳でして、霊長類は皆それに属します。
そして、肉食系よりもさらに知能が発達しているのが雑食系であるとも言えます。
いわば、肉食系と草食系の性格を統合して超越したのが雑食系なのです。
つまり能動性が強く表れた肉食系の性格だけでは不完全であり、受動性が顕著な草食系の性格でも完全とはなり得ないのです。
私は「統一教会員は典型的な“草食系”」であると書き、従順屈服を美徳と考えていることなどを例にあげましたが、統一原理の創造原理を純粋に追究しますと、その“草食系”性格は創造原理の理想とは一致していないことが明確にわかります。
創造原理において説かれた個性完成した理想的人間とは 神と一体であり、神の心情を体じゅつ(体得)できることになっています。
そして個性完成する為には人間の「責任分担」として自由意志によって善を実践する過程が必要であり、その善なる人格を自ら造成できた時に初めて神の創造目的である理想的人間になれると読み取ることができるのです。
その「自由意志によって築き上げられた完成した人格」が「従順な人格」「目上に侍る人格」だけでは不充分であるのは明らかであり、「主体的に善を行い得る人格」が完成できなければ個性完成できたことにならないと理解できるのです。
統一原理には「蕩減復帰原理」があり、蕩減条件として目上に対する従順屈伏が必要であることを強調したりもするのですが、人間の個性完成という観点からは あくまで「創造原理」が基本であり、純粋な原理的発想に基づけば、「蕩減復帰原理」は副次的な理論であり、救済という目的での限定的な役割しかもっていないことになります。
つまり、「真の父母様に侍る」「真の父母様に絶対服従する」ことによっては、原理的にそれだけでは個性完成に至らないのです。
その「真の父母様中心主義」は紛れもなく、李氏朝鮮時代から脈打つ朝鮮型儒教思想の流れを汲むもので、基本的に「創造原理」や統一思想とは異質の思想と言えるでしょう。
分かり易く表現すれば、「真の父母様中心主義」とは“草食系”人間を生み出そうとしているのであり、「創造原理」は発達した“雑食系”人間にまで成長せねばならないことを教えているのです。
「雑食系=完成した人間」というのはかなり無理がある言い方ですが、「環境に対してより能動的である」という意味で捉えれば、草食系と比較した場合での違いは多少類似した側面もあります。
そのような見方からすれば、雑食系と呼ばれることこそが理想を目指すものにとってはありがたいことになります。
そのような訳で、私は「真の父母様中心主義」ではありませんので、できましたら暗在さんにも草食系とは呼ばれたくはないのです。
多分、暗在さんも草食系とは違うのではないでしょうか。
もしできることでしたら、雑食系と呼んでいただきたいと切に願っております。(笑)
それと、米本さんこそ雑食系ですから、肉食系はハズレですね。
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