「マインドコントロール論」の弊害について
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一筆一論(8)
用語と用語法-マインドコントロール論の弊害
前回の一筆(7)のコメント欄で、nolemさんが次のように指摘されました。
<マインド・コントロール論の問題は、米本さんご指摘の点の他にも、「脱会者や脱退者の社会復帰に悪影響を与える可能性がある」という点を指摘したいです>
nolemさんがあとで書かれているように、 『我らの不快な隣人』290頁でも触れてはいますが、とても重要な指摘だと思うので、「用語と用語法」を続ける前に、「マインドコントロールの弊害」と題して、改めて書くことにしました。
かなりの長文になってしまいそうです。ゆっくり読んでいただけたら・・・。
「マインドコントロール論」の弊害はいくつかあります。
拉致監禁を正当化する
マインドコントロール論
1つは、信者家族をして拉致監禁(違法行為)に走らせる理論的背景になっていることです。
もちろん、「一筆(7)」で書いた通り、日本にこの論を普及させた西田公昭氏の『マインド・コントロールとは何か』では、「マインドコントロールとは(1)他者が自らの目的のために(2)本人が他者からの影響を知覚しない間に(3)意思決定過程に影響を及ぼすことである」としています。
この定義に、拉致監禁に結びつくような要素はありません。
しかし、同書を通読すれば、「信者は自律心を失い、組織の指示に従うロボット状態になっている」「本来の人格ではなく、カルト的人格になっている」という印象を強く受けます。西田氏もそのように読まれることを企図して書いたように思われます。
実際、スティーブン・ハッサンは『マインド・コントロールの恐怖』で、はっきり「信者はカルト的人格になっている」と書いています。
信者家族は、脱会説得者であるプロテスタントの牧師が主催する秘密の勉強会で「マインドコントロール論」を学びますが、西田氏の本をどこまで精読されたのか・・・。おそらく、牧師は都合のいいところを指し示し、それを信者家族は赤線を引いて覚える程度ではなかったかと思われます。なにしろ、心理学用語が散りばめられている本を吟味しながら読むのは、相当骨が折れる作業だと思うからです。
勉強会で「マインドコントロール論」を学んだ結果、
「うちの子どもは本来の人格を失い、カルト的人格になっている」
「自律は限りなくゼロに近くなっているため、子どもが自分を取り戻し、自分の力で脱会することは無理だ」
という認識に至れば、子どもを拉致し、監禁下でマインド・コントロールを解く専門家である牧師さんに脱会説得をしてもらうしかない-ということになってしまいます。
前回書いたように、マインドコントロール論は万能であり、空っぽの理論でしかないのですが、現実は信者家族をして違法行為に走らせてしまう。これがマインドコントロール論の弊害の1つです。
もう1つは、脱会後の親子関係や精神的予後が芳しくなくなってしまうことにあります。
nolemさんが注意を促された問題点だと思います。ここからが今回の「一筆一論」の本題です。
脱会者を不安にさせる
マインドコントロール論
私のところに相談があった女性“半”信者(50歳)のケースを紹介しておきます。
彼女は、統一教会に入会しようとしていたが、これ以上組織に関わるのはやめるようと決意した。それに至る彼女と私との関わりについては省略するが、ともかく退会の意思を表明し、それまでに払った200万円を10回払いで返還してもらうことになった。
返還完了後、つまり脱会の意思を組織に伝えてから1年後、彼女はこうもらしたのです。
「組織と決別し、お金の清算もきちんとできたというのに、最近、精神的に調子が悪くなりました。それは、マインドコントロールに関する本を読んでからなんです」
どういうことなのか。
彼女は組織への嫌悪感と同時に、仲間との語らいが楽しい思い出として蘇ってきたというのです。そうした感情が芽生えると、マインドコントロールの影響かと不安になったという。
少々、解説すれば、彼女の退会後の感情は、組織に対する嫌悪感、不快感だった。
正体を明かされることなく、印鑑だとか数珠とか次々とお金を取られてしまったという嫌な想いがあるから当然の感情である。
それとともに、時間が経過するにつれ、懐かしさとか楽しかったことの記憶も蘇ってくる。そのときの感情は「快」だった・・・。
快と不快が併存する。アンビバレンスなのですが、戦友会の例を持ち出すまでもなく、会社など所属していた組織をやめたあとに、私たちが日常的に経験していることです。
たとえば、離婚したときはなんていやな伴侶だったのだろうと思うけど、しばらく経ってみると、けっこういい面もあったなあ。そういえばあのときの会話は楽しかったなあ-といった感情が湧いてくる。
彼女の話を続けましょう。
「マインドコントロールって、組織が信者を心理操作をするってことですよね。本を読んでから、私を勧誘する仲間たちとの楽しい思い出が蘇ってくると、これはマインドコントロールの影響なんじゃないのか。統一教会は今でも私の心を操作しているんじゃないか。そう思うと、心が鬱々としてくる。楽しい思い出が蘇ると、それを封印しようとする。そうすると、気分は晴れず、終日鬱状態になることもある」
前述したように、快と不快が併存するアンビバレントな感情になることは決して珍しいことではありません。しかし、これに「マインドコントロール論」が介在してくると、快感情は否定しなければならなくなってきます。
監禁下での脱会説得に手腕を発揮してきた行田教会の牧師清水与志雄氏は、元統一教会の信者です。
彼は、私の問いに「統一教会時代?そりゃあ、楽しいことはたくさんあったよ」。正直な答えだったと思います。
ここらあたりの感覚・感情・記憶は『救いの正体』に載っているヤマギシ会、オウム、統一教会、エホバの証人の元女性信者たちの座談会記事「彼女をカルトをやめた理由」を読んでもらえば多少はわかると思います。
そもそも、辛くて嫌なことばかりなら、いくら信仰が正しいと思っていても(いくら一流企業であっても)、信者(サラリーマン)を続けることはできません。
とりわけ、学舎(アパート)で共同生活をしながら、大学に通い、勧誘活動や万能布巾販売などの経済活動を行ってきた「原理研究会」(カープ)の元メンバーにとって、共同生活は楽しい思い出になっているようです。善悪はともあれ、仲間と共同生活をしながら一つの目標に向かって進むような体験(国士館大学の塩谷政憲教授の言葉によれば「通過儀礼」)は、今日では消滅してしまっただけに、強烈な体験として残っているはずです。
同じように共同生活をしながら信者の勧誘を行っている、教祖が強姦容疑で逮捕された摂理でも、やめた人は「楽しかった」と語っているようです。このブログにリンクしている「S-tasion」のBBS(投稿記事)を読んでみてください。
話はそれますが、“カルト”視される「最近宗教」を理解するには、この「楽しさ」を理解しない限り、不可能だと思います。ところが、私もその典型ですが、新聞や雑誌、テレビは元信者の声を中心に団体を批判してハイ終わり。なぜ、社会から批判されるような”カルト”に若者が入っていくのか、そのことは無視してしまう。無視というより、取材に相当な時間がかかるだけでなく、従来のパラダイムでは理解不能だから、マインドコントロール(「騙されている」)であっさり片づけてしまう。
「楽しさ」の正体を知れば、“カルト”を生む土壌、大学を含め現代社会が喪失しつつあるものが見えてくるはずです。
しかし、オウムを取材した森達也氏を除いて、この問題に正面から取り組んだジャーナリスト、研究者は一人もいません。
さて、話を戻せば、
脱会者たちが「統一教会(原理研究会)は楽しかった」と正直に話すと、周囲は「マインドコントロールが解けていない」「マインドコントロールの後遺症がある」と見なします。
それゆえ、脱会者は自由に物が言えなくなり、楽しい記憶、楽しかったときの感情を封印せざるを得なくなります。ややこしい話かもしれませんので、もう一度、説明しておきます。
反統一教会、反“カルト”の人たちは、「信者は楽しいと思っているがそれはマインドコントロールによってそう錯覚させられているだけだ。脱会したあとに楽しかったなんて感情が生まれるのだとしたら、マインドコントロールの影響を引きずっているからにほかならない」と、考えるからです。少しでも“カルト時代”の楽しかったことをしゃべると、ギロリと睨まれる。だから、感情を抑制をせざるを得ないのです。
(実際、清水氏と連携しながら脱会説得を行ってきた戸塚教会の黒鳥牧師は、信者家族を前に、「清水先生はマインドコントロールから抜けていない」と平然と語ったことがあります)
感情を抑圧するのは、ときに精神疾患をまねくことになります。サラリーマンが嫌だ嫌だと思いながらもその気持ちを閉じ込めて会社に通い続ければ、鬱病になる。そのことを想起すれば理解できると思います。
このようなわけで、マインドコントロール論は脱会者の精神に悪影響を及ぼしているのです。
人から言われることだけが問題ではありません。
私と会った彼女は、マインドコントロール論を読んで、ひとり鬱々した気分になった。
マインドコントロール論とは、前の「用語と用語法」で書いた通り、他者からの影響を受けることです。そうすると、楽しい思い出が蘇った場合、それも「他者からの影響を受けた」結果ということになります。そのため、彼女は「統一教会は今でも私の心を操作しているんじゃないか」と不安になったのです。
独りよがりの不安感情ではないかと思われるでしょうが、そうではありません。
統一教会(どの団体でも同じ)に入会する場合、統一教会からの影響を受けて(他律)、なおかつ、その影響を肯定的にとらえる(自律)からです。
何だか小難しそうですが、これは私たちの日常そのものです。
お店で洋服を買うとき、店員さんが「よくお似合いですよ」と働きかける(他律)。それですぐに買う人はいません。再度、鏡を見て、「確かに似合っている」と思えば(自律)買うし、「いや、似合っていない。きっと販売成績をあげるために、適当に言っているのだろう」と思えば(自律)買わない。
ところが、マインドコントロール論は「他者からの働きかけ」(他律)のみに着目したものですから、この理論を受け入れてしまうと、不快ゆえにやめたのに、快感情が蘇ってきた場合、「他者からの働きかけを無意識のうちに今でも受けている」と思うようになってしまうのです。
親子関係の再生を阻む
マインドコントロール論
なぜ脱会後の親子関係にも影響を与えるのでしょうか。
これも前述したことと同じです。親は教会の勉強会で「マインドコントロール論」を学びます。それと同時に、良質な親なら、脱会したらハイ終わりではなく、「子どもが脱会したら、子どもときちんと向き合い、隠し事などない、何でも話せるような関係を築いていきたい。」と決意を新たにします。
脱会した子どもに親は話します。
「何でも話せるような関係になろうね」
子どもはそれを真に受け、統一教会時代の楽しかったことを話し、「霊の子(自分が勧誘した人)に会ってみたないなあ」なんて感想をもらします。
ちなみに、統一教会信者は世の中を斜に構えて見るような人は少なく、疑うことを知らないのではないかと思えるほどに、純粋な人(いわゆるいい子)が多い。
子どもが正直に話すと、親は「カルト的人格が顔を出した」とギョッとし、「マインドコントロールの影響が残っている」と判断し、不自然な対応することになります。ときにはあわてて秘かに牧師に相談の電話をかけます。(周囲には子ども思いのいい親のように見えるはず)
まるで漫画のようだと思われるかもしれませんが、脱会者にインタビューした大阪大学の渡邉太氏もそのように書いています。(拙著290頁参照)
子どもからすればたまったものではありません。監禁という過酷な体験をしてようやく脱会したというのに、いつまでも観察的な態度で私を見る。「親は口先だけで私の心を理解しようとしないのだ」
親と一緒に暮らしたくないと思うのは当然のことです。
マインド・コントロールの信奉者の欠点は、白か黒かの二元論的思考の持ち主という点にあります。
統一教会は邪悪な組織であり、子どもはさぞかし過酷な体験をしている、と家族は考える。
ここまではいいのてすが、過酷な体験をしてきたのだから、「楽しい思い出なんかあるわけがない」と決めつける。暗黒社会には明るい日は一日たりともなく、暗い日々しかないというわけです。
だから、子どもが楽しかったと言っても、まともに耳を傾けようとせず、マインドコントロールの影響だと考えてしまう。その結果、親子関係は子どもが統一教会から脱会してもうまくいかないのです。
真の脱会を阻む
マインドコントロール論
また、マインドコントロール論を信じると、脱会者は完全に組織から自由になることができません。
強制脱会であれ自主脱会であれ、組織をやめることは相当なエネルギーを費やします。自分が信じてきたものを捨てさることのみならず、それまで築き上げてきた人間関係を切ってしまうからです。
そのためには組織や信仰の間違いをきちんと認識しなければなりません。
<ほんとうに間違っているのだろうか>といった疑問が残ったままだと、完全に自由になることはできません。
いったいに、信仰者が信仰を捨てさるのは、相当な葛藤があってのことです。
芽生えてきた信仰への疑問点を、書物を読んだり、指導的な信仰仲間との対論したり、あるいはやめた信者に会ったりして、認識を深めながら?といった過程を経て、脱会(退会)するのが一般的なパターンです。
白か黒か、エイやーとばかりにオサラバすることはありえません。
ところが、マインドコントロール論を信じてしまうと、やめたあとに、<ほんとうに間違っているのだろうか>という一抹の不安を解消することはできません。
なぜなら、組織や信仰仲間に近づくことができないからです。近づけば、「他者からの心理操作によって影響を受ける」(マインドコントロール論)と考えてしまうからです。
(注)「心理操作」といっても、チャルディーニの『影響力の武器』を読めばわかる通り、明治以前から商売人が客に働きかけてきたテクニックにすぎない。にっこり微笑むとか、客を褒めるとか。
とりわけ強制説得による脱会の場合、監禁下で統一教会の批判をさんざん聞かされても、脱会届けを書くまでは身体の自由が拘束されているから、疑問点を確かめることができない。
脱会したあとに、信仰仲間などに会って確かめることは理屈の上では可能ですが、監禁中に「マインドコントロール論」を刷り込まれていますから、近づけばマインドコントロールされてしまうと思ってしまう。
このようなわけで、マインドコントロールを信じてしまうと、<ほんとうに間違っているのだろうか>という一抹の不安を解消することができず、信仰や組織から完全に自由になることができないのです。
これもマインドコントロール論の弊害の1つです。信者脱会の武器であるはずなのに、なんとも皮肉な話としか言いようがありません。空っぽにして似非学説でしかないのだけど、とてもやっかいな言説(「一筆6」のコメント、パパイヤさんの言葉を借りれば都市伝説)なのです。
なんでもかんでも
マインドコントロール
角度を変えて、もう少し語ることにします。
ある組織をやめたあと、その組織の影響を引きずり、ときには精神に変調をきたす。
PTAや子供会あるいは地域の自治会といった組織ならともかく、イデオロギー性の強い組織の場合、あり得ることです。
これをマインドコントロール論者は「マインドコントロールの後遺症」とか「マインドコントロール・シンドローム」といったりします。
はたしてそうなのでしょうか。
私が取材した限りでの印象ですが、退会したのに組織(信仰・組織体質・生活スタイル)の影響を強く引きずるのは、「エホバの証人」と「浄土真宗親鸞会」の元信者に多いように思えます。
その理由については、エホバの証人については『カルトの子』、親鸞会は『教祖逮捕』を読んでいただければなんとなく理解できると思います。
なお、エホバの証人の精神疾患については、エホバの証人と精神疾患に詳しく書かれています。
親鸞会の信者の場合、教祖高森顕徹氏の本を読んで入信した人は別ですが、大学生は「後生の一大事」、徹底的に死後の地獄の世界を、それこそ毎晩地獄の夢を見るほどに、リアルに教え込まれます。
そうすると、死んだあとに無限地獄でのたうちまわりたくないと考える。
それから逃れるためには信心決定(しんじんけつじょう)しなければならない。まあ簡単に言えば、高森顕徹さんの聴聞を聞き続けることです。
親鸞会をやめた元信者は、
<死後の世界はあるのではないか。ひょっとしたら俺は無限地獄を苦しみを味わい続けるのではないか>
と不安におののきます。とても苦しく、ときには鬱状態になる。
地獄を恐れる親鸞会の信者とハルマゲドンに怯える「エホバの証人」の信者は精神構造がよく似ているように思えます。
脱会後の不安定な状態を、「マインドコントロールの後遺症」などと、訳のわからない言葉で表現する必要はないはずです。マインドコントロール論者、とりわけキリスト教の牧師や信者は、何かというと「マインドコントロール」なのですが、たんに「組織の後遺症」と言えばすむことです。
・ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊を目の当たりにして、世界の“共産主義者”は呆然自失。数年間にわたって鬱々とした状態が続いた主義者もいたと思います。
その様子を見て、「マインドコントロールの後遺症だ」と思う人はいません。
長年、信じてきたものが一挙に崩壊してしまったのだから、無理もないなあ。そう思うでしょう。
・在日朝鮮総連の活動家は、祖国・北朝鮮の労働党が拉致監禁に関わった事実を知って、とても苦しみました。一時期、精神がおかしくなった人もいたようです。それは在日朝鮮総連が最高指導者である金正日の影響を強く受けていたからです。
もがき苦しんでいる状態を指して、誰も「マインドコントロールの後遺症」とは言いません。
・『聖書』の一字一句を信じ、『聖書』はイエス・キリストの手によって書かれたものと信じ込んでいるプロテスタントの牧師や信者が、聖書の矛盾や、聖書の大半はイエスが書いたものではないことを知ったとき、激しい葛藤を覚えるでしょう。何日間も抑鬱状態になるかもしれない。
それだからといって、誰も「マインドコントロールの後遺症」とは言いません。
個人的な体験ですが、私が中学生の頃、近所の叔母さんが狂ったようだと噂されたことがあります。なんでも、世界救世教に入信し多額(確か当時とすれば家一軒分ぐらいだったと記憶する)のお金をつぎ込んだが間違いに気がついた。それで頭がおかしくなったということでした。
人は自分が全身全霊で信じ込んでいたものが虚無だったことに気づけば、狂うことだってあるのです。その後、その叔母さんは別の宗教団体に入って元気を取り戻しました。やれやれ。
一時期的に狂った状態を「マインドコントロール・シンドローム」なんて一言で表現するほうが、それこそ頭がどうかしていると思うのです。人の心がわからないというか・・・。
「他者からの影響を強く受ける」ような組織に所属していた人が、信じていた「他者」が間違っていると知ったからといって、容易に「他者(組織・教義・イデオロギーなど)からの影響」を払拭することはできないのです。
それは今に始まったことではなく、「マインドコントロール」という空疎な用語が誕生するはるか昔からあったことです。
「反統一教会」を御本尊とするような人たちは、ともかく統一教会は恐ろしいところだ、専門家でないと太刀打ちできないと信者家族をマインドコントロールしたいために、なんでもかんでもマインドコントロールで説明しようとする。薄気味悪さすら感じてしまいます。
脱会者の成長をストップさせる
マインドコントロール論
所属する組織の間違いに気づき、そこから離れる場合、人は過去を振り返りながら反省します。
なぜ間違った組織に入ったのだろうか。
活動しているときに、なぜ間違いに気がつかなかったのか。
どうして批判の声に耳を傾けなかったのか。
人は反省することによって過去を教訓化し、次の人生の肥やしにしようとします。それができれば、その人の人間性は豊かになり、人として成長します。
なかには、なんでもかんでも他人のせいにし、反省しない人もいます。そんな人はいつも失敗を繰り返し、いつも他人の悪口ばかりをいって、人生を終える人です。清水牧師の悪口を言っている牧師さんのように。
ところがです。
マインドコントロール論を信じれば
・入信したのもマインドコントロールのせい
・間違いに気がつかなかったのもマインドコントロールのせい
・批判に耳を貸さなかったのもマインドコントロールのせい
-ということになってしまいます。
一言でいえば、「他者から影響を受けたから」。
なぜ、人間の主体性は消えてしまうのでしょうか。
それは、マインドコントロール論を提唱した人、支持する学者がいずれも「社会心理学者」ということに関係します。
この学問は、社会からの影響によって、人間の心理はどのように変わっていくのか、主に「実験室での実験」によって調べる学問です。
言葉を換えれば、「最初から人間の主体性を捨象し、人間を社会から影響を受ける客体的存在として見る」学問といってもいいでしょう。
「環境がその人の存在を決定づける」と説いたのは、数千万人の人々を殺害したソ連のスターリンです。
ここでいう「環境」とは、他者を含め、その人の主体性以外のすべてことを指します。
スターリンおよびスターリニストたちは、心底から、「人は環境によって変わる」と考えていました。
それゆえ、“社会主義”を批判する人を見つけると、思想改造の強制収容所にぶち込んでいたわけです。強制収容所で、労働に従事させれば、その人を改造することができると本気で考えていたからです。
社会心理学発祥のルーツは知りませんが、スターリン哲学となんだかとても似ています。
統一教会を信じる人を監禁場所にぶち込めば、統一教会から脱会させることができる。
強制収容所の発想と同じではないでしょうか。
信者家族、脱会した信者家族の方にお願いしたいのは、お子さん(といっても、いい大人)のほんとうの気持ちに耳を傾けてください。謙虚で真摯な姿勢で向き合えば、現役の信者である子どもは、組織に対する疑問を吐露するはずです。
これで「マインドコントロール論」批判は終わりにしたかったのですが、統一教会時代は決して暗い日々ばかりではなく、信者たちはロボットではなく自分でいろんなことを感じていたことを理解してもらいたいために、次回は「資料」として脱会者の声を紹介しようと思っています。
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- [2009/04/10 15:53]
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コメント
マインドコントロール論の弊害
くわしい、お返事はお時間下さい。
一つだけ、私の知る限りの話で、問題点を指摘すると、マインドコントロール論は当初「誰でも被害者になる可能性がある」つまり入信過程の最初の部分に焦点をあてていたように思います。信者が、入信後に教団の思考に「染まる」点については、マインドコントロール論を用いなくても「朱に交われば赤くなる」ということわざの通り、誰でも想像がつくからです。
だから、マインドコントロール論は、驚きを持って迎えられ、旋風を巻き起こしました。
現在、入信の第一歩におけるマインドコントロールは、ほぼ強調されなくなっています。裁判の判決でも、「勧誘時に教団名を名乗らなかった」という点にだけ、その痕跡をとどめる以外に、マインドコントロール論は採用されなかったと思います。
従って、現在のマインドコントロール論は「朱に交われば赤くなる」の「赤くする方法(*)」にいつの間にかシフトしているようにおもいます。このシフトの過程に、マインドコントロール論者による反省や、再検討があったのか疑問です。
その根拠として、マインドコントロール論に様々な亜種が誕生していることです。最初の段階で、きちんと反省や再検討が行われずに、状況に合わせてなりゆきでの適用を繰り返した結果、こういう現状が生まれたのではないかと思っています。
(*)例えば、マインドコントロールの例として、「教団以外の情報を遮断する」というのが挙げられることがあるが、これは明らかに「入信後」もしくは「堅信に至る過程とその後」の行動である。
マインドコントロール
彼のマインドコントロール論と西田氏のマインドコントロールとの違いはあるのでしょうか。
また反トーイツはなぜ苫米地氏と組まないのだろう。とふと思った次第です。
権威のみの学者さんより、実績のある苫米地氏を活用したほうがもっと脱洗脳しやすくなるはずでは?
苫米地氏が反トーイツ側を相手にしないのでしょうか。
用語と用語法??マインドコントロール論の弊害
前回の一筆(7)のコメント欄で、nolemさんが次のように指摘されました。
<マインド・コントロール論の問題は、米本さんご指摘の点の他にも、「脱会者や脱退者の社会復帰に悪影響を与える可能性がある」という点を指摘したいです>
nolemさんがあとで書かれているように、 『我らの不快な隣人』290頁でも触れてはいますが、とても重要な指摘だと思うので、「用語と用語法」を続ける前に、「マインドコントロールの弊害」と題して、改めて書くことにしました。
かなりの長文になってしまいそうです。ゆっくり読んでいただけたら・・・。
「マインドコントロール論」の弊害はいくつかあります。
拉致監禁を正当化する
マインドコントロール論
1つは、信者家族をして拉致監禁(違法行為)に走らせる理論的背景になっていることです。
もちろん、「一筆(7)」で書いた通り、日本にこの論を普及させた西田公昭氏の『マインド・コントロールとは何か』では、「マインドコントロールとは?他者が自らの目的のために?本人が他者からの影響を知覚しない間に?意思決定過程に影響を及ぼすことである」としています。
この定義に、拉致監禁に結びつくような要素はありません。
しかし、同書を通読すれば、「信者は自律心を失い、組織の指示に従うロボット状態になっている」「本来の人格ではなく、カルト的人格になっている」という印象を強く受けます。西田氏もそのように読まれることを企図して書いたように思われます。
実際、スティーブン・ハッサンは『マインド・コントロールの恐怖』で、はっきり「信者はカルト的人格になっている」と書いています。
信者家族は、脱会説得者であるプロテスタントの牧師が主催する秘密の勉強会で「マインドコントロール論」を学びますが、西田氏の本をどこまで精読されたのか・・・。おそらく、牧師は都合のいいところを指し示し、それを信者家族は赤線を引いて覚える程度ではなかったかと思われます。なにしろ、心理学用語が散りばめられている本を吟味しながら読むのは、相当骨が折れる作業だと思うからです。
勉強会で「マインドコントロール論」を学んだ結果、
「うちの子どもは本来の人格を失い、カルト的人格になっている」
「自律は限りなくゼロに近くなっているため、子どもが自分を取り戻し、自分の力で脱会することは無理だ」
という認識に至れば、子どもを拉致し、監禁下でマインド・コントロールを解く専門家である牧師さんに脱会説得をしてもらうしかない?ということになってしまいます。
前回書いたように、マインドコントロール論は万能であり、空っぽの理論でしかないのですが、現実は信者家族をして違法行為に走らせてしまう。これがマインドコントロール論の弊害の1つです。
もう1つは、脱会後の親子関係や精神的予後が芳しくなくなってしまうことにあります。
nolemさんが注意を促された問題点だと思います。ここからが今回の「一筆一論」の本題です。
脱会者を不安にさせる
マインドコントロール論
私のところに相談があった女性“半”信者(50歳)のケースを紹介しておきます。
彼女は、統一教会に入会しようとしていたが、これ以上組織に関わるのはやめるようと決意した。それに至る彼女と私との関わりについては省略するが、ともかく退会の意思を表明し、それまでに払った200万円を10回払いで返還してもらうことになった。
返還完了後、つまり脱会の意思を組織に伝えてから1年後、彼女はこうもらしたのです。
「組織と決別し、お金の清算もきちんとできたというのに、最近、精神的に調子が悪くなりました。それは、マインドコントロールに関する本を読んでからなんです」
どういうことなのか。
彼女は組織への嫌悪感と同時に、仲間との語らいが楽しい思い出として蘇ってきたというのです。そうした感情が芽生えると、マインドコントロールの影響かと不安になったという。
少々、解説すれば、彼女の退会後の感情は、組織に対する嫌悪感、不快感だった。
正体を明かされることなく、印鑑だとか数珠とか次々とお金を取られてしまったという嫌な想いがあるから当然の感情である。
それとともに、時間が経過するにつれ、懐かしさとか楽しかったことの記憶も蘇ってくる。そのときの感情は「快」だった・・・。
快と不快が併存する。アンビバレンスなのですが、戦友会の例を持ち出すまでもなく、会社など所属していた組織をやめたあとに、私たちが日常的に経験していることです。
たとえば、離婚したときはなんていやな伴侶だったのだろうと思うけど、しばらく経ってみると、けっこういい面もあったなあ。そういえばあのときの会話は楽しかったなあ?といった感情が湧いてくる。
彼女の話を続けましょう。
「マインドコントロールって、組織が信者を心理操作をするってことですよね。本を読んでから、私を勧誘する仲間たちとの楽しい思い出が蘇ってくると、これはマインドコントロールの影響なんじゃないのか。統一教会は今でも私の心を操作しているんじゃないか。そう思うと、心が鬱々としてくる。楽しい思い出が蘇ると、それを封印しようとする。そうすると、気分は晴れず、終日鬱状態になることもある」
前述したように、快と不快が併存するアンビバレントな感情になることは決して珍しいことではありません。しかし、これに「マインドコントロール論」が介在してくると、快感情は否定しなければならなくなってきます。
監禁下での脱会説得に手腕を発揮してきた行田教会の牧師清水与志雄氏は、元統一教会の信者です。
彼は、私の問いに「統一教会時代?そりゃあ、楽しいことはたくさんあったよ」。正直な答えだったと思います。
ここらあたりの感覚・感情・記憶は『救いの正体』に載っているヤマギシ会、オウム、統一教会、エホバの証人の元女性信者たちの座談会記事「彼女をカルトをやめた理由」を読んでもらえば多少はわかると思います。
そもそも、辛くて嫌なことばかりなら、いくら信仰が正しいと思っていても(いくら一流企業であっても)、信者(サラリーマン)を続けることはできません。
とりわけ、学舎(アパート)で共同生活をしながら、大学に通い、勧誘活動や万能布巾販売などの経済活動を行ってきた「原理研究会」(カープ)の元メンバーにとって、共同生活は楽しい思い出になっているようです。善悪はともあれ、仲間と共同生活をしながら一つの目標に向かって進むような体験(国士館大学の塩谷政憲教授の言葉によれば「通過儀礼」)は、今日では消滅してしまっただけに、強烈な体験として残っているはずです。
同じように共同生活をしながら信者の勧誘を行っている、教祖が強姦容疑で逮捕された摂理でも、やめた人は「楽しかった」と語っているようです。このブログにリンクしている「S-tasion」のBBS(投稿記事)を読んでみてください。
話はそれますが、“カルト”視される「最近宗教」を理解するには、この「楽しさ」を理解しない限り、不可能だと思います。ところが、私もその典型ですが、新聞や雑誌、テレビは元信者の声を中心に団体を批判してハイ終わり。なぜ、社会から批判されるような”カルト”に若者が入っていくのか、そのことは無視してしまう。無視というより、取材に相当な時間がかかるだけでなく、従来のパラダイムでは理解不能だから、マインドコントロール(「騙されている」)であっさり片づけてしまう。
「楽しさ」の正体を知れば、“カルト”を生む土壌、大学を含め現代社会が喪失しつつあるものが見えてくるはずです。
しかし、オウムを取材した森達也氏を除いて、この問題に正面から取り組んだジャーナリスト、研究者は一人もいません。
さて、話を戻せば、
脱会者たちが「統一教会(原理研究会)は楽しかった」と正直に話すと、周囲は「マインドコントロールが解けていない」「マインドコントロールの後遺症がある」と見なします。
それゆえ、脱会者は自由に物が言えなくなり、楽しい記憶、楽しかったときの感情を封印せざるを得なくなります。ややこしい話かもしれませんので、もう一度、説明しておきます。
反統一教会、反“カルト”の人たちは、「信者は楽しいと思っているがそれはマインドコントロールによってそう錯覚させられているだけだ。脱会したあとに楽しかったなんて感情が生まれるのだとしたら、マインドコントロールの影響を引きずっているからにほかならない」と、考えるからです。少しでも“カルト時代”の楽しかったことをしゃべると、ギロリと睨まれる。だから、感情を抑制をせざるを得ないのです。
(実際、清水氏と連携しながら脱会説得を行ってきた戸塚教会の黒鳥牧師は、信者家族を前に、「清水先生はマインドコントロールから抜けていない」と平然と語ったことがあります)
感情を抑圧するのは、ときに精神疾患をまねくことになります。サラリーマンが嫌だ嫌だと思いながらもその気持ちを閉じ込めて会社に通い続ければ、鬱病になる。そのことを想起すれば理解できると思います。
このようなわけで、マインドコントロール論は脱会者の精神に悪影響を及ぼしているのです。
人から言われることだけが問題ではありません。
私と会った彼女は、マインドコントロール論を読んで、ひとり鬱々した気分になった。
マインドコントロール論とは、前回の「用語と用語法?」で書いた通り、他者からの影響を受けることです。そうすると、楽しい思い出が蘇った場合、それも「他者からの影響を受けた」結果ということになります。そのため、彼女は「統一教会は今でも私の心を操作しているんじゃないか」と不安になったのです。
独りよがりの不安感情ではないかと思われるでしょうが、そうではありません。
統一教会(どの団体でも同じ)に入会する場合、統一教会からの影響を受けて(他律)、なおかつ、その影響を肯定的にとらえる(自律)からです。
何だか小難しそうですが、これは私たちの日常そのものです。
お店で洋服を買うとき、店員さんが「よくお似合いですよ」と働きかける(他律)。それですぐに買う人はいません。再度、鏡を見て、「確かに似合っている」と思えば(自律)買うし、「いや、似合っていない。きっと販売成績をあげるために、適当に言っているのだろう」と思えば(自律)買わない。
ところが、マインドコントロール論は「他者からの働きかけ」(他律)のみに着目したものですから、この理論を受け入れてしまうと、不快ゆえにやめたのに、快感情が蘇ってきた場合、「他者からの働きかけを無意識のうちに今でも受けている」と思うようになってしまうのです。
親子関係の再生を阻む
マインドコントロール論
なぜ脱会後の親子関係にも影響を与えるのでしょうか。
これも前述したことと同じです。親は教会の勉強会で「マインドコントロール論」を学びます。それと同時に、良質な親なら、脱会したらハイ終わりではなく、「子どもが脱会したら、子どもときちんと向き合い、隠し事などない、何でも話せるような関係を築いていきたい。」と決意を新たにします。
脱会した子どもに親は話します。
「何でも話せるような関係になろうね」
子どもはそれを真に受け、統一教会時代の楽しかったことを話し、「霊の子(自分が勧誘した人)に会ってみたないなあ」なんて感想をもらします。
ちなみに、統一教会信者は世の中を斜に構えて見るような人は少なく、疑うことを知らないのではないかと思えるほどに、純粋な人(いわゆるいい子)が多い。
子どもが正直に話すと、親は「カルト的人格が顔を出した」とギョッとし、「マインドコントロールの影響が残っている」と判断し、不自然な対応することになります。ときにはあわてて秘かに牧師に相談の電話をかけます。(周囲には子ども思いのいい親のように見えるはず)
まるで漫画のようだと思われるかもしれませんが、脱会者にインタビューした大阪大学の渡邉太氏もそのように書いています。(拙著290頁参照)
子どもからすればたまったものではありません。監禁という過酷な体験をしてようやく脱会したというのに、いつまでも観察的な態度で私を見る。「親は口先だけで私の心を理解しようとしないのだ」
親と一緒に暮らしたくないと思うのは当然のことです。
マインド・コントロールの信奉者の欠点は、白か黒かの二元論的思考の持ち主という点にあります。
統一教会は邪悪な組織であり、子どもはさぞかし過酷な体験をしている、と家族は考える。
ここまではいいのてすが、過酷な体験をしてきたのだから、「楽しい思い出なんかあるわけがない」と決めつける。暗黒社会には明るい日は一日たりともなく、暗い日々しかないというわけです。
だから、子どもが楽しかったと言っても、まともに耳を傾けようとせず、マインドコントロールの影響だと考えてしまう。その結果、親子関係は子どもが統一教会から脱会してもうまくいかないのです。
真の脱会を阻む
マインドコントロール論
また、マインドコントロール論を信じると、脱会者は完全に組織から自由になることができません。
強制脱会であれ自主脱会であれ、組織をやめることは相当なエネルギーを費やします。自分が信じてきたものを捨てさることのみならず、それまで築き上げてきた人間関係を切ってしまうからです。
そのためには組織や信仰の間違いをきちんと認識しなければなりません。
<ほんとうに間違っているのだろうか>といった疑問が残ったままだと、完全に自由になることはできません。
いったいに、信仰者が信仰を捨てさるのは、相当な葛藤があってのことです。
芽生えてきた信仰への疑問点を、書物を読んだり、指導的な信仰仲間との対論したり、あるいはやめた信者に会ったりして、認識を深めながら?といった過程を経て、脱会(退会)するのが一般的なパターンです。
白か黒か、エイやーとばかりにオサラバすることはありえません。
ところが、マインドコントロール論を信じてしまうと、やめたあとに、<ほんとうに間違っているのだろうか>という一抹の不安を解消することはできません。
なぜなら、組織や信仰仲間に近づくことができないからです。近づけば、「他者からの心理操作によって影響を受ける」(マインドコントロール論)と考えてしまうからです。
(注)「心理操作」といっても、チャルディーニの『影響力の武器』を読めばわかる通り、明治以前から商売人が客に働きかけてきたテクニックにすぎない。にっこり微笑むとか、客を褒めるとか。
とりわけ強制説得による脱会の場合、監禁下で統一教会の批判をさんざん聞かされても、脱会届けを書くまでは身体の自由が拘束されているから、疑問点を確かめることができない。
脱会したあとに、信仰仲間などに会って確かめることは理屈の上では可能ですが、監禁中に「マインドコントロール論」を刷り込まれていますから、近づけばマインドコントロールされてしまうと思ってしまう。
このようなわけで、マインドコントロールを信じてしまうと、<ほんとうに間違っているのだろうか>という一抹の不安を解消することができず、信仰や組織から完全に自由になることができないのです。
これもマインドコントロール論の弊害の1つです。信者脱会の武器であるはずなのに、なんとも皮肉な話としか言いようがありません。空っぽにして似非学説でしかないのだけど、とてもやっかいな言説(「一筆6」のコメント、パパイヤさんの言葉を借りれば都市伝説)なのです。
なんでもかんでも
マインドコントロール
角度を変えて、もう少し語ることにします。
ある組織をやめたあと、その組織の影響を引きずり、ときには精神に変調をきたす。
PTAや子供会あるいは地域の自治会といった組織ならともかく、イデオロギー性の強い組織の場合、あり得ることです。
これをマインドコントロール論者は「マインドコントロールの後遺症」とか「マインドコントロール・シンドローム」といったりします。
はたしてそうなのでしょうか。
私が取材した限りでの印象ですが、退会したのに組織(信仰・組織体質・生活スタイル)の影響を強く引きずるのは、「エホバの証人」と「浄土真宗親鸞会」の元信者に多いように思えます。
その理由については、エホバの証人については『カルトの子』、親鸞会は『教祖逮捕』を読んでいただければなんとなく理解できると思います。
なお、エホバの証人の精神疾患については、エホバの証人と精神疾患に詳しく書かれています。
親鸞会の信者の場合、教祖高森顕徹氏の本を読んで入信した人は別ですが、大学生は「後生の一大事」、徹底的に死後の地獄の世界を、それこそ毎晩地獄の夢を見るほどに、リアルに教え込まれます。
そうすると、死んだあとに無限地獄でのたうちまわりたくないと考える。
それから逃れるためには信心決定(しんじんけつじょう)しなければならない。まあ簡単に言えば、高森顕徹さんの聴聞を聞き続けることです。
親鸞会をやめた元信者は、
<死後の世界はあるのではないか。ひょっとしたら俺は無限地獄を苦しみを味わい続けるのではないか>
と不安におののきます。とても苦しく、ときには鬱状態になる。
地獄を恐れる親鸞会の信者とハルマゲドンに怯える「エホバの証人」の信者は精神構造がよく似ているように思えます。
脱会後の不安定な状態を、「マインドコントロールの後遺症」などと、訳のわからない言葉で表現する必要はないはずです。マインドコントロール論者、とりわけキリスト教の牧師や信者は、何かというと「マインドコントロール」なのですが、たんに「組織の後遺症」と言えばすむことです。
・ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊を目の当たりにして、世界の“共産主義者”は呆然自失。数年間にわたって鬱々とした状態が続いた主義者もいたと思います。
その様子を見て、「マインドコントロールの後遺症だ」と思う人はいません。
長年、信じてきたものが一挙に崩壊してしまったのだから、無理もないなあ。そう思うでしょう。
・在日朝鮮総連の活動家は、祖国・北朝鮮の労働党が拉致監禁に関わった事実を知って、とても苦しみました。一時期、精神がおかしくなった人もいたようです。それは在日朝鮮総連が最高指導者である金正日の影響を強く受けていたからです。
もがき苦しんでいる状態を指して、誰も「マインドコントロールの後遺症」とは言いません。
・『聖書』の一字一句を信じ、『聖書』はイエス・キリストの手によって書かれたものと信じ込んでいるプロテスタントの牧師や信者が、聖書の矛盾や、聖書の大半はイエスが書いたものではないことを知ったとき、激しい葛藤を覚えるでしょう。何日間も抑鬱状態になるかもしれない。
それだからといって、誰も「マインドコントロールの後遺症」とは言いません。
個人的な体験ですが、私が中学生の頃、近所の叔母さんが狂ったようだと噂されたことがあります。なんでも、世界救世教に入信し多額(確か当時とすれば家一軒分ぐらいだったと記憶する)のお金をつぎ込んだが間違いに気がついた。それで頭がおかしくなったということでした。
人は自分が全身全霊で信じ込んでいたものが虚無だったことに気づけば、狂うことだってあるのです。その後、その叔母さんは別の宗教団体に入って元気を取り戻しました。やれやれ。
一時期的に狂った状態を「マインドコントロール・シンドローム」なんて一言で表現するほうが、それこそ頭がどうかしていると思うのです。人の心がわからないというか・・・。
「他者からの影響を強く受ける」ような組織に所属していた人が、信じていた「他者」が間違っていると知ったからといって、容易に「他者(組織・教義・イデオロギーなど)からの影響」を払拭することはできないのです。
それは今に始まったことではなく、「マインドコントロール」という空疎な用語が誕生するはるか昔からあったことです。
「反統一教会」を御本尊とするような人たちは、ともかく統一教会は恐ろしいところだ、専門家でないと太刀打ちできないと信者家族をマインドコントロールしたいために、なんでもかんでもマインドコントロールで説明しようとする。薄気味悪さすら感じてしまいます。
脱会者の成長をストップさせる
マインドコントロール論
所属する組織の間違いに気づき、そこから離れる場合、人は過去を振り返りながら反省します。
なぜ間違った組織に入ったのだろうか。
活動しているときに、なぜ間違いに気がつかなかったのか。
どうして批判の声に耳を傾けなかったのか。
人は反省することによって過去を教訓化し、次の人生の肥やしにしようとします。それができれば、その人の人間性は豊かになり、人として成長します。
なかには、なんでもかんでも他人のせいにし、反省しない人もいます。そんな人はいつも失敗を繰り返し、いつも他人の悪口ばかりをいって、人生を終える人です。清水牧師の悪口を言っている牧師さんのように。
ところがです。
マインドコントロール論を信じれば
・入信したのもマインドコントロールのせい
・間違いに気がつかなかったのもマインドコントロールのせい
・批判に耳を貸さなかったのもマインドコントロールのせい
?ということになってしまいます。
一言でいえば、「他者から影響を受けたから」。
なぜ、人間の主体性は消えてしまうのでしょうか。
それは、マインドコントロール論を提唱した人、支持する学者がいずれも「社会心理学者」ということに関係します。
この学問は、社会からの影響によって、人間の心理はどのように変わっていくのか、主に「実験室での実験」によって調べる学問です。
言葉を換えれば、「最初から人間の主体性を捨象し、人間を社会から影響を受ける客体的存在として見る」学問といってもいいでしょう。
「環境がその人の存在を決定づける」と説いたのは、数千万人の人々を殺害したソ連のスターリンです。
ここでいう「環境」とは、他者を含め、その人の主体性以外のすべてことを指します。
スターリンおよびスターリニストたちは、心底から、「人は環境によって変わる」と考えていました。
それゆえ、“社会主義”を批判する人を見つけると、思想改造の強制収容所にぶち込んでいたわけです。強制収容所で、労働に従事させれば、その人を改造することができると本気で考えていたからです。
社会心理学発祥のルーツは知りませんが、スターリン哲学となんだかとても似ています。
統一教会を信じる人を監禁場所にぶち込めば、統一教会から脱会させることができる。
強制収容所の発想と同じではないでしょうか。
マインドコントロール論に対する評価を、最後になぞかけで表現しておきます。
マインドコントロールとかけてなんと解く。
煙草と解く。
その心は「百害あって一利なし」。
信者家族、脱会した信者家族の方にお願いしたいのは、お子さん(といっても、いい大人)のほんとうの気持ちに耳を傾けてください。謙虚で真摯な姿勢で向き合えば、現役の信者である子どもは、組織に対する疑問を吐露するはずです。
これで「マインドコントロール論」批判は終わりにしたかったのですが、統一教会時代は決して暗い日々ばかりではなく、信者たちはロボットではなく自分でいろんなことを感じていたことを理解してもらいたいために、次回は「資料」として脱会者の声を紹介しようと思っています。
「ブログの骨格(目次)」を参照。
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