腹をズブッと刺されるよりも・・・
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身辺雑記(8)
これまでの「がん体験記」は、
「大腸がんによる腸閉塞で妊婦腹に」
「蛙の腹が弾け、中身が土石流の如く流れ出す」
「死ぬ癌と死なない癌」
「がん業界と反カルト業界の類似性」
「医師と共に病気に立ち向かう」
「身も心も他者に委ねる人たち」
今回はいよいよ腹切りについてである。
記憶が飛んでいる
手術室に入るとき、家人と子どもにVサインした。手術室は冷え冷えした空気だった。麻酔科医が硬膜外麻酔をするための準備として骨髄に注射した。マスクと帽子の手術着姿の主治医大谷裕さんの目が異様にギラギラしていた。
ここまでは覚えている。
目が覚めたときは翌未明だった。
手術室に入ったのは9月17日の午後4時だったから、8時間以上は眠っていたわけだ。
あとで聞いたところによると、手術が終わった午後7時過ぎ、大谷さんは家人たちをベッドのそばに招き、切除したステント管付きの臓物を見せながら、説明を行なったという。
翌朝、子どもが呆れたように話した。
「えっ、覚えていないの。一緒にふむふむと聞いていたし、きつい冗談もかましていたのに」
この冗談は察しがついた。おそらく「この大腸を焼いて食べたらうまいだろうか」といったようなことだろう。
麻酔科医の説明が蘇った。
「全身麻酔から覚めたあと大谷先生から説明を受けると思いますが、その記憶はなくなっていると思いますよ」
そんなバカなと思ったが、やはり記憶は飛んでいた。
目が覚めたのは激痛からだった。ともかく痛かった。
暗がりを見渡すと、集中治療室のようなところだった。
ナースコールの呼び鈴を押し、助けを求めたかった。
しかし、手をもぞもぞと動かそうとしても、管につながれ自由がきかず、どこにあるのかわからない。
叫ぼうとしたが、声を出すと激痛だ。小さな声しか出ない。
一度だけ、看護師が隣の部屋に入ったような気配がした。オーイ、オーイと叫んだが、ささやき声しか出ない。
吉村昭の小説の一節を思い出した。
船が難破し、孤島にたどり着く。何カ月後に、近くを走る船を遠くに見た。大声で叫ぶ。助けてくれ!しかし、船は通りすぎていく。あとに残ったのは絶望感。
(このときのことは後日、看護師に話し、呼び鈴はすぐに押せるようなところに設置すべきだと提言した)
大谷の野郎!
ひょっとして、手術が失敗したからこんなに痛いのではないか。手術などしなければ良かった。大谷の野郎!
映画『アウトレイジ』の最後のシーンが蘇った。ビートたけしが刑務所で同じヤクザに腹を切られるシーンである。
激痛と孤独の数時間。ひょっとしたら1時間程度だったかもしれない。看護婦さんがそばに来たので、激痛を訴えた。すぐに麻酔を増量してくれた。
補足しておけば、全身麻酔は切れたが、硬膜外麻酔は少量だが自動的に注入されている。それでも痛かったのだ。なお、最近のトレンド、無痛分娩は硬膜外麻酔が使われている。
次に目が覚めたのは、集中治療室のような部屋から自分の病室に移されるときだった。
部屋に戻ると、我が家に戻ったような安堵感を覚えた。
といって、麻酔が切れると、激痛だ。
「痛ければ遠慮なく言ってください。痛いのを我慢していると身体に良くないですからね」
その言葉を思い出しては呼び鈴を押した。何度、ボタンを押したことか。
なお、痛み止めの副作用を心配される人もいるだろうが、短期間使用のことゆえ、常習性はないそうである。
看護婦さんに思わず聞いてしまった。
「ヤクザが腹を切られるのと手術で腹を切られるのと、どちらが痛いのでしょうか」
彼女は声を出して笑った。
「そりゃあ、手術に決まっていますよ。ヤクザが腹を刺されるのは一カ所、ブスっでしょっ。手術は大きく切られるんですから」
確かに、鳩尾(みぞおち)から臍下まで18㎝以上だ。
<注>「看護婦」「看護師」の呼称が混在しているのが気にかかる人もいるかもしれない。入院中、呼び方の問題は患者としても頭を悩ました問題である。入院病棟6階フロアには20数名のうち男性看護師さんが2人いたからだ。
その人に「看護婦さん」と呼ぶことはできない。できるだけ名前で呼ぼうとしたが、覚えきれるものではない。それで、「看護婦さん」と呼んだり「看護師さん」と呼んだり。
看護師さんで統一すればいいのだろうが、女性の看護師ならどうしても看護婦さんと呼んでしまう。医者もそうだった。
その影響は今でもあって、気分によって呼び方が異なる。ご理解のほどを。
人生最大の選択
手術から2日目、ほんの少しだが痛みが軽減した。
といっても、起き上がることはできない。電動ベッドのボタンを押してようやく座ることができる程度だ。
咳をすれば激痛。“人生最大の敵”は痰である。
その痰が溜まり出したのだ。しかも夜中にである。痰がつまればふつう腹に力をこめてゲッと吐き出す。ところがそうすれば、死ぬほどの激痛が待っている。ゲッどころかケさえできない。痰がつまったとき、オーバーな表現と思われるかもしれないが、奈落の底に突き落とされたような感覚だった。
呼び鈴を押すと、蒸気を吸入する機器(喘息患者に使用されるような吸入器)をもってきてくれた。痰を柔らかくして、腹に力を入れることなく、横向きになって垂れるようにすればいいというのだ。気休めをと思ったが、これがうまくいったのである。やり方はうまく説明できないのだが。人ごとながら、術後に風邪を引いた場合、どうなるのかと思ってしまった。
この日、選択を迫られた。
尿管を外すかどうか。 “人生最大の選択”を迫られたのだ。
小水はトイレに行かなくても、尿管からたえずポリ袋に排出される。とても楽なのだが、屈辱的ではある。早くこの尿管を外したい。これは切なる想いであった。この日、友人が来ることになっていたから、なおさらだ。
しかし、外せば自分でトイレに行かなければならない。電動ベッドの力で座ることができても、腰を少しでも動かそうすると、ガキィーンである。
ところで、大腸がんに限らないのだろうが、早期離床は鉄則のようである。大腸がんの場合、床から出て身体を動かさないと、臓器同士が癒着する可能性がある。腹を切ると空気が中に入り、ネバネバして癒着しやすいからだという。癒着すれば腸閉塞となり、再手術だ。
早期離床の意義は手術前から理解できていた。だから、術後はすぐに歩行するぞ。看護婦さんにも高言していた。しかし、そうした考えは痛みの前でたじろいでしまった。外すことを迫る看護婦さんに、かなり逡巡したあと、きっぱり「やっぱり明日にします!」
この看護婦さんはなかなかの人で、「思い切ってやりましょうよ」となおも迫る。そうすればまた心が揺らぐ。ついに同意した。外してください。
5週間の入院生活で、彼女から刺激を受けたことは多かった。今でも感謝しています。ありがとうございました。
相手の立場に立っても理解できないことがある
尿管を外せば、トイレに自力で行くしかない。そうしなければ垂れ流しだ。
電動ベッドの力を借りて座る。トイレの便器まではわずか2mだ。だが、座った状態から少しでも腰を動かすと激痛が走る。その痛みと何とか折り合いをつけながら、床に足をつける。数えなかったが、ベッドから床に足をつけるまで10段階前後の動作が必要だった、と記憶する。
足が床についた状態から立ち上がり、少しずつ歩を進める。立ち上がると、お腹を圧迫することがないので、それほど痛くはなかった。(でも、すごい痛いのですよ。最悪のときよりほんの少しマシになっただけ)
便器に座り放尿したときはうれしかった。血尿も出なかった。
このときから歩行訓練を始め、急速に身体を動かすことができるようになった。
このときに思ったことである。
それは、昨年の8月のことだった。急激に母の動作がおかしくなった。いつも同じ姿勢(テレビの前で座っている)をしているため、肩回りの可動領域が狭くなり、手と腕の動きが不自由になったのである。
髪の毛を触ることができない、というより頭に手が届かない。パンツを腰まであげることができない。トイレに行くたびにぼくを呼ぶ。そのたびに、ぼくは母のパンツ、ズボンを上にあげる。 ともかく「できない」尽くしになったのだ。
ベッドでの動きも不自由になった。そのため、電動ベッドをレンタルで導入した。それが入れば、簡単に、ベッドから起き上がって床に足をつけることができる。そう期待したのである。
ところが、電動の力によって、どうにか座ることはできるのだが、床に足をつけるまでにものすごく時間がかかる。
<どうして、こんな簡単なことに時間がかかるのか>
イライラし、声を荒らげたこともあった。
今回の腹切りで、このときの母の身体のことがわかった。
どんなに相手の立場に立って物事を考えてもわからないことがある。とても勉強になった。
なお、母はこのあと、10カ月にわたる訪問リハビリのおかげで、ほぼ元に戻った。
術後の経緯
退院までを簡単に記しておく。
17日/手術。
18日/病室に戻る。
19日/尿管を外す。歩行訓練を開始。血栓予防の靴下を脱ぐ。
20日/麻酔の管を外し、痛み止めの薬を飲み始める。流動食を開始。
21日/ドレーンを外す。ドレーンとは、腹に溜まった血などの不要な液汁を外に排出する管である。
22日/栄養のための点滴管を外す。これで管からすべて解放された。ものすごい喜びであった。シャワーを浴びる。
23日/血液検査。貧血・栄養状態・炎症の程度が大幅に改善している。
24日/腸のレントゲン写真。縫い合わせた腸がうまく結合しつつあることを確認した。痛み止めの薬をやめる。
25日/抜糸。
27日/血液検査。栄養士による術後の食事のレクチャー。
29日/退院。露天風呂に直行。露天風呂のあとに食べたのはきつねうどん(半分以上、残した)。食いたかった豚カツなのに、まるで食い気は失せていた。
イソジンとガーゼの先生
手術から退院まで12日間。特別早いわけではない。
ところが、同じ松江市立病院の他の消化器外科医の場合、もっと長くかかることがあるという。
それは、術痕にイソジン(消毒液)を塗り、ガーゼをあてるからだ。昔ながらのやり方である。
それだと、なぜ長くかかるのか。
「イソジンは殺菌力が強い消毒液です。そのため、傷の周辺の正常な組織にもダメージを与える。といって、すべての菌を殺すわけではない。また、ガーゼを取り替えるときにガーゼと傷口がくっついているため、皮膚組織まで剥ぎ取ってしまう。そうすると、治りかけていたのにまた新たな傷を作ってしまう。その繰り返しが長く続く。だから、入院が長引いてしまうのです。
今は消毒も何もしないのがトレンドです」
大谷さんの説明である。
昔ながらのやり方をしているため、入院が長引いてしまう。費用も余計にかかるわけだから、とんでもない話である。
ぼくの場合、切ったあとはリンゴを包装するような格子状のポリエステル?の上に絆創膏が貼ってあるだけ。こんなんでいいのかいな、と心配になったほどシンプルだった。
イソジンとガーゼを使う先生のことを「イソジンとガーゼの先生」と、命名することにした。
看護師に「この病院に、イソジンとガーゼの先生はいるの」と聞くと、ピンときたようで、苦笑しながら「いらっしゃいますよ」
松江市立病院は、地域の「がんセンター」を目指しているという。笑止である。
イソジンとガーゼの話だけからではない。
大谷ドクターに消化器外科のセンター的役割を担わせるというのなら、話はわかる。40歳前後の大谷さんを中心に若手医師が数人いる。
ところが、大谷さんが一番ペイペイだという。地域のがんセンター化?寝言はどうか明後日に。
<注>大谷さんから紹介してもらったホームページを紹介しておく。「新しい創傷治療-消毒とガーゼの撲滅を目指して」。管理人は夏井睦さんである。
露天風呂
このことと関連することである。
ぼくは退院してから家に戻る前に、露天風呂に直行した。
大谷さんに行っていいか聞いたところ、「ああ、全然かまいませんよ。アメリカでは術後3日目からシャワーOKですから。ただし、傷口はいじらないでね」
ところが、である。
退院数日前に、看護婦さんに質問したことがある。
「退院してからすぐに温泉につかりたいのですが、どうなんでしょうか」
彼女はクククと笑って、やや小馬鹿にしたように、
「退院後、再診があります。そのときに先生に聞かれて、OKが出ればね」
つまり、この看護婦さんは「イソジンとガーゼの先生」に影響されているのだ。
とまれ、ここからも教訓を得た。
やや飛躍するかもしれないが、アグレッシブに病気に立ち向かえば様々な情報が入ってくる、ということだ。
すべて先生に委ねる。こういう姿勢からは情報は入ってこないし、何も学ぶことができない。このことは、別に病に限った話ではないだろう。
リンパへの転移なし
再診は10月8日だった。
切除した組織の病理検査を聞くことになっていた。
検査の結果、病期(ステージ)はⅡだった。
Ⅱはリンパ節に転移していない。
Ⅱaは3つ程度のリンパ節に転移している。
Ⅱbは無数転移している。
(すべてを疑え。この分類が正しいかどうか、なぜ「3つ」なのか疑ってかかる必要があるのだが、時間を考えてスルー)
「ステージⅡだから、抗がん剤の必要はありません」
<注>がん患者が一喜一憂する腫瘍マーカーの数値の説明もあったが省略する。あまりあてにすることができない検査だから。
少々、ほっとした。
Ⅱa以上だったら、大谷さんはガイドラインに則って、抗がん剤を勧める。そうすれば、転移予防の効果と延命効果についての評価をめぐってバトルが始まる。退院しているので文献を読むことができるから、そうそう負ける気はしなかった。でもそうなると、気まずい関係になってしまう。それが回避できたから、安心したのだ。
ともかく長かった
時間感覚のことである。
子どもの頃は、一日がとても長く感じられた。ところが、大人になると月日はあっという間に過ぎていく。老母も毎日がとても早いという。とりたてて何かをしているわけではない。でも、早く感じるのだ。
この時間感覚が不思議だった。
こう解釈した。
子どもの頃には様々なことを学ぶ。毎日が新鮮だ。
大人になると、学ぶことは多くはない。いろんな人に会い、いろんな酒場に行き、いろんな本を読む。でも、毎日は「まったりとした日常」だ。
学ぶことがあれば、それを吸収するのには時間がかかる。
だから、学ぶこと多き子どもの頃の一日は長く、大人になってからは短い。そう考えるようになっていた。
今回の5週間の入院はとても長く感じられた。
それほど学ぶことは多かったのだと思う。
後藤徹さんは12年間監禁されていた。12年間は無為の日々である。刑務所と同じ。翌日になっても新しいことは何もない。昨日と同じだ。さぞ、時間の長さに苦しんだことだろうと想像した。
ところが、後藤さんに聞くと、
「いやあ、今から振り返ると、12年間はあっという間だったという気がします。それより、監禁から解放されてから今日までがすごく長く感じられますねえ」
彼は解放されてから、無数のデモに先頭に立ち、みんなの前で演説をする。彼が「拉致監禁をなくす」ために、足を踏み入れた先は、韓国・ワシントン・ニューヨーク・スイスなどなど。ワシントンには何度も出向いたと記憶する。
解放後は、結婚し子どもも授かった。
彼はものすごく学んだと思う。だから、監禁の12年間よりも、解放後の5年間のほうが長く感じられたのではないか。
12月17日は判決の日である。後藤さんが一部でも勝訴したら、彼のインタビュー記事を載せたいと思っている。請うご期待だ。
他者のことが考えられなくなる
とまれ、大腸がんになっていろんなことを学んだ。
学んだことでは、もう一つ書いておかなければならないことがある。
自分のことばかりに囚われると、他者のことが考えられなくなるということだ。
大腸がんになっても、余裕をもって周囲のことを考えているつもりだった。ところが、今から考えれば、やはり相手とか周囲のことには関心が薄れていた。
自分のことで頭が一杯になると、自己が肥大化し、他のことが考えられなくなる。考えているつもりでも、どうしても「自分を軸に」 考えていたように思う。
これも教訓である。
徐々に回復し、久方ぶりに、「ブログ-統一村」を眺めるようになった。
自分のことで一杯一杯になっている(自己正当化)ブロガーが目についた。といっても男女2人(いずれも教会員)だが。
他から批判を受けると、まるでハリネズミのハリ全開の如く、総毛立つ。
本人はそのことにまるで気がついていない。
善意の第三者が注意しても、まるで聞く耳を持たない。
等身大の、肥大化した自己が見えないのだろう。哀れというか、みっともないというか。
次回は、「食」で学んだこと-食は禅の道に通じる-を書いて、がん体験記は終わりにしたい。
コラム-保険会社の陰謀か
お金の話である。
入院中、あまり考えないようにしていたが、費用のことが気になっていた。がんにかかれば2、300万円かかると聞いていたからである。保険には一切入っていなかったから、まるまる出費を余儀なくされる。
入院期間は8月25日から9月29日まで。
恐る恐る請求書を見れば、な、なんと18万円だ(1泊4000円ちょっとの個室代を除く)。拍子抜けした。思わず「ほっ、ほんとうにこれだけですか!?」と、やや興奮気味に事務員に確認したほどだ。
話はそれるが、大腸がんになっているのではないかと以前から疑っていた、とブログで書いた。これは後出しジャンケンではない。では、なぜもっと早く診察を受けなかったのかと疑問に思われるだろう。
それは、2、300万円説を鵜呑みにしていたからだ。
<診察を受けるのであれば、その前にがん保険に入っておかなければ。がんと診断されてから保険に入ることはできないのだから>
しかし、横着ゆえ、ずるずるとそのままに。
なぜ、2、300万円が流布したのか。
自由診療の場合の金額なのか、病院が国から受け取る金額なのか。病院の会計事務員に質問するなど調べてみたが結局、わからなかった。
察するに、アメリカ資本のがん保険業界が流布したのではないか。そうとしか考えられないのだ。
ぼくだけが特別安かったというわけではない。
退院後、『がん保険のカラクリ』を読んだが、抗がん剤代を含めて30数万円となっていた。
がん保険に入るのは考えものだと思った。毎月最低でも5000円の保険料を払う。年間6万円。保険に入る人はがんになるまで保険料を払い続けるのだろうから10年間で60万円、20年間で120万円だ。保険に入って5年以内にがんになれば、どっこいどっこいだが、それ以上になると・・・。
がん保険は考えものだと思いましたとさ。
コラム-俺はコンビニの商品か
まず、写真を眺めて欲しい。![]()
これは、入院してからすぐにぼくの腕につけられた輪である。
どんな風に使われるのか。
たとえば、点滴を交換するとき。看護婦さんはまず自分のネームプレートのバーコードに読取機をあてる。次いで、ぼくの腕輪のバーコード、最後に点滴液のバーコードにあてる。
ここ数年、患者取り違え、薬剤の取り違えといった単純医療ミスが起きている。単純なミスだが、結果は最悪である。そこで、ミスを防ぐためにバーコードの導入になったみたいだ。どの病院でもそうなっていると聞く。
看護師たちの動作を目の前で見ていると、まるでコンビニ、ドラッグストアの光景が蘇ってきた。
目的はいいと思う。しかし、やられる側になると、<俺はコンビニの商品か>という気分になってしまう。
「患者さんの権利宣言」が病院の壁に大きく張り出されている。その5番目に「尊厳を得る権利」として、次のように書かれている。
患者さんは、個人としての人格、価値観など尊重され(略)る権利がある。
バーコードの輪っぱを患者の意見も聞かず、流れ作業のようにはめるのは、患者の尊厳からしてどうなのか。考えたことはないのだろうか。
権利意識を低下させれば、受容できないことではない。
しかし、実害もあるのだ。
点滴の交換は市立病院では「2時」が軸になっている。
激痛のため痛み止めの点滴をしてもらい、ようやく12時近くなって眠りについたと思ったら、2時に腕を手に取られ、バーコードを読み取る。どうしても目が覚めてしまう。それから日が昇るまで悶々とする。
患者取り違え、薬剤の取り違えは防がなければならない。そこで、解決策を2つばかり考えた。
その1・取り外しが自由な輪っぱにし(今はハサミで切らない限り、取れないようになっている)、夜はベッドの冊にはめるようにする。まさか、部屋を間違えて別の患者がベッドに眠ることはないのだから。
その2・点滴の取り替えを「10時」にする。そうすれば、何の問題もなくなる。
(追記)このがん体験記を終えたら、病院には感謝の意味も込めて、「病院への提言書」を提出する予定だ。
コラム-俺の被爆量は?
入院中、3回のCT検査と10数回のレントゲン検査を受けた。
退院後、自分の身体のことを知るために、被爆量の情報提供を病院に求めた。そんな要求をする患者は珍しい部類に入ると思うのだが、すぐに放射線の技師から電話がかかってきて、丁寧に詳細な数値を教えてくれた。
被爆総量は82ミリシーベルト強だった。
がんになる可能性がある量は100ミリシーベルトと言われているから、かなりの放射線を浴びたわけである。福島の原発事故で、子どもの被爆が100ミリシーベルトだったら、新聞記事になる量である。こういう比較のほうがわかりやすいかもしれない。原発作業員の被爆限度量は5年間で、100ミリシーベルトである。
ただ、メリット(大腸がんを治癒する)とデメリット(がんになる)を考えれば、ぼくの場合、メリットのほうが高いと思う。
ではなぜ、コラムでこのことを書こうと思ったのか。
第一に、被爆は遠い出来事、過去の出来事ではなく、身近なことであることを知ってもらいたかったからである。
帰郷する前、ぼくも役員をしていた管理組合の役員会で、原発事故による放射線の影響のことを話題にしていた。場所はさいたま。単位はミリではなく、マイクロである。それでもかなり神経質的な議論がなされていた。杉並区がその典型だ。
しかし、議論をしている人たちの中にはCT検査を受けている。それなのに、その被爆のことが意識にのぼっていないように思える。元民主党の総理、菅直人さんはCT被爆に言及していたっけ。
第二に、CT検査にはナーバスになったほうがいいということを伝えたかった。CT機器は高額である。そのため、元を取るために、不必要で過剰なCT検査を行う病院もある。その結果、がんになったら笑うに笑えない。確か、日本のCT機器の数は世界の三分の一ではなかったか。
第三に、とくに子どもがいる人に被爆についての覚醒を促したかった。過剰なCTによってがんになるのはアバウト20年後のこと。大人(50歳以上)はいいけど、子どもはどうか。30歳ぐらいにがんになっても、原因が20年前のCT検査と思いつく人は誰もいないだろう。ご注意を。
では、予防策は?検査を受ける前に主治医に、あとで「被爆量を教えてください」と言えばいい。その一言だけで、過剰なCT検査はなくなる。3・11後、病院はCT被爆の数値管理をするようになっている。また、病院経営者と違って臨床医は良心的である。
【参考図書】『放射線被ばく CT検査でがんになる』
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- [2013/11/21 10:15]
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コメント
相手の立場に立っても理解できないことがある
体の痛みは体験してみないとなかなか伝わらないよね。
学んだ事
昨年は:(カルト新聞のおかげですが)
- 精神薬の薬害問題
http://humanrightslink.seesaa.net/article/272666391.html#more
少し前には:(後藤裁判での被告の、原告は栄養失調ではなったという主張を、ひっくり返した原告側の主張):
- 栄養失調のアルブミン値
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-231.html
そして、米本さんの今回の身辺雑記から
- ガンに対する認識
- 創傷に対する認識
いろいろと新しい考え方、見方を学び、とても感謝です。
- [2013/11/21 18:04]
- URL |
- Yoshi Fujiwara
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