「第4イスラエル」乗っ取り事件
統一教会の周辺びと(6)
前回の記事「3人の証言」が明かしている事実は、3つのことに集約されるだろう。(以下、敬称を略した)
その1・第4イスラエル(4研)で乗っ取り事件(表現を変えれば追放事件)があったこと。4研の創始者である岡本氏と彼を支持していた広氏が追い出され、大西氏たちが組織を乗っ取った。
その2・乗っ取りグループの一部は、統一教会の乗っ取りを目論んでいた。
その3・大西は反統一グループ(有田・紀藤&渡辺弁護士・反対牧師、さらには公安)と密に関係をもっていた。
3つの出来事は複雑に絡み合うのだが、順番に解説していくことにする。 ただし、裏付け取材が不十分な部分があるため、出来事の時系列には不正確なところがあるかもしれない。
第4と統一教会
第4乗っ取り事件は「3人の証言」に書かれていた通りである。いま現在の状況にさほど関係しない過去の出来事。それゆえに、簡潔に記しておく。
第4イスラエルの岡本は、大学生時代の1977年に統一教会に出会い(アンケート勧誘)、献身する。
その後、組織に疑問がわき、数年間(1983年~87年)悶々とする。
霊的啓示を受け、2001年に「氏族協会」を設立し、ホームページを開設する。
本部とのけっこう複雑なバトルは省略するが、ただ一つだけ書いておけば-バトルの内容は多岐にわたるが、最大の問題は岡本と分派組織・禹グループとの関係であった。
この組織は、代表の禹明植が文鮮明氏の庶子であると公言し、「真のメシアは禹明植の庶子」(庶子の庶子論)と主張する団体であり、教団本部が裁判に訴えたほどに嫌悪する団体である。
本部の関心事は、岡本が禹グループと関係あるやなしやにあった。
ここらあたりのことは正確にはわからない。
仄聞情報によれば、岡本は1994年から99年の5年間、禹明植のもとで文鮮明氏のみ言葉(説法)を勉強したことがあるが、組織的なつながりはないという。
しかしながら、禹明植から多大な影響を受けたことは間違いなく、それが前出の「氏族協会」の主張に色濃く出ている-ということなのだろう。
氏族協会は、統一教会という組織のあり方に疑問を抱く教会員を糾合し、教団本部としても無視できない存在になった。
東京・武蔵野地区に拠点を設け、未確認だが、そこに男子部・女子部といった施設まで設けていたと言われている。(現在どうなっているのかは不明)
同組織は、その後、「祝福二世相談室」に改名し、『100ヶ条の提題―原理本論概説』を出版し、本部に果たし状を突きつける。
すでに書いたことだが、本部もこれに呼応し、『誤りを正す』と題した小冊子を2冊出版する。
この頃、「祝福二世相談室」はスタッフ約30人、賛同者約100人の勢力になっていた。
ここまでは、堂々として好感がもてる。まあ、私にとっては「赤勝て、白勝て」の世界だが。
*1 両者の主張の違いを知りたい方は直接、文献を読んでくだされ。
*2 岡本たちの組織名は「氏族協会」、「祝福二世相談室」、「第4イスラエル」と変っていくのだが、名称変更にさして内容が照応していないこと、またややこしいので、以下「第4イスラエル」(第4、4研)と表記する。
第4にスポンサーが
本部と激しい、もしくは海千山千の闘いをしていた岡本に吉報がもたらされた。
今となっては結果として凶報としか言いようがないのだが、2006年の終わり頃、第4に資金を提供してくれるスポンサーが現れたのだ。
岡本は、第4のセンター的な拠点を東京山手線の田町駅そばに設けた。といっても雑居ビル(以下、田町ビル)の何室かを借りただけなのだが。
今の拠点(都下)はやはり江戸の城下から遠い。やっぱし、山手線の沿線だぜ♪ そう思ったのかどうかはわからないが、岡本が嬉々として引っ越したのは想像に難くない。彼の絶頂期であったと思われる。
これが間違いの元だった。
蜜の匂い漂うところに蝶が集まるように、金あるところに人々は群がってくるもの。その代表が大西弘行たちであった。
大西の人間性
大西は写真を撮られるのを極端に嫌がっていた。
関係者が話す。
「4研の合宿で、みんなで記念写真を撮ろうということになっても、大西は一人だけ、目立たないように、その場から離れていく。この写真が唯一手元にあったものです。動物に例えると熊ですね」
大西の話題に転じる。
彼の経歴はすでに書いた通り、1955年生まれで現在57歳。統一教会に入信したのは1974年。祝福は6000双(1982年)。九州に活動拠点を置き、91年に熊本の勝共事務局長、93年からは北九州の勝共事務局長を担当。
この時代の勝共連合はどういう状況にあったのか。
1988年、ポーランドで民主化革命が起こり、統一労働者党が自由選挙に敗れるとともに、ポーランド人民共和国は崩壊する。これを契機に、民主化の波は東欧諸国に押し寄せ、1989年にベルリンの壁が崩壊、そして1991年、ついにソ連が崩壊する。(東西冷戦体制の終焉)
つまり、大西が統一教会の政治組織・勝共連合の地方の役職に就いた頃には、同団体の存在意義は急速に失われつつあったということだ。
【参考図書】拙著『カルトの子』の「プロローグ-<神の子>骨折」
具体的な表れ方としては、支援金が集まらなくなり、地方の役職者の給料が出ない状況になっていた。こんなときに、大西は役職者に就いたのである。
大西の経歴で注目すべきは、熊本の勝共事務局長に就任した1991年、彼は第4イスラエルに近づきつつあった-ということにある。
大西が統一教会から除名になった時期は不明だが、1991年からの数年間、表の顔(統一教会)と裏の顔(第4)を持っていたわけだ。
大西という人物の人間性を知るうえで、このことはとても重要なことである。Aというサークルに入りながらB同好会にも参加していたといったレベルとは、質的にはまるで異なることだからだ。
統一教会にとっての第4は論戦相手ではなく、敵対的分派組織であった。
この頃の教団は、第4に関わっているような教会員を“査問”し、疑いが濃いとなったら、除名処分を下していた。
この問題に疎い食口にはピンと来ないかもしれないので、あるエピソードを紹介しておく。
「ミスターX。その人の名は元勝共連合の・・・」 で書いた通り、数年前から、私は火の粉ブログに悪罵を投げかけていたブロガー「韓定食」の正体を探していた。第4のメンバーと推測し、同メンバーの割り出しにかかっていた。
その候補者の1人に、関西のある食口A(事業経営者)がいた。風の噂で、私が疑っていることを知ったAは、「上京し、お目にかかりたい。身の潔白を晴らしたい」と連絡してきた。電話口の声は悲愴的ですらあった。もし、第4と関係しているという噂が広まれば、統一教会との取引は停止、事業経営が傾く可能性があったから、必死だったのだ。
それほどまでに、統一教会と第4は敵対関係にあった。今日の「郭グループ」の比ではなかった。なお、郭グループといったものは存在しない。正しくは、文鮮明氏の3男・文顯進氏を支持する人たちのこと。
大西の経歴で見逃せないのは、第4にどっぷり漬かりながらも、93年に北九州の勝共事務局長に就任したことである。
こうしたスパイ的なことを彼はその後も続ける。これについては次回以降の記事で触れる。
「H氏の証言」によれば、「(大西の)親戚に警察官がいた」「UCの前は部落解放同盟(解同)に所属していた」という。
解同の評価は避けるが、参考サイトとして、「同和利権の真相」をあげておく。
大西青年が解同の利権と関わっていたとは到底考えられないが、大人たちの汚いところが嫌になって、つまり解同では「差別」が無くなることはないと感じ、統一教会に入信したのではないかと思われる。
第4代表の岡本追放劇
話を戻す。大西は第4に加わるようになると、九州からたびたび上京していたが、田町に拠点ができるようになると、東京に常駐するようになった。この頃、大西は岡本の右腕的存在になっていた。
大西は、田町ビルの部屋で、岡本を抜きに、しばしば会議を持った。
岡本への虚実を取り混ぜた批判を行い、第4の主要メンバーと岡本との離反を画策していたわけである。その批判のうちの代表的トークが「岡本は九州の第4のメンバーから集めた献金(支援金)を横領している」というものであった。しかし、実際に横領していたのは大西である。
関係者が語る。
「ある人から受け取った金額は数百万円にものぼった。合計すれば1500万円から2000万円になるのではないのか」
岡本また広を追放し、第4を乗っ取ったのは、2007年10月21日のことだったという。
大西たちは銀行口座を抑え、1000万円の預金を手にいれた。
ここらあたりのことを「S氏の証言」から引用しておく。
2007年、4研が田町に事務所を借りていた頃、大西は再度馬淵と組んで一緒にやっていくと言いだし、岡本さんはそれを拒否したが、大西はそれを無視して馬淵と行動を共にし、ビジネスや活動を一緒に組んでやっているらしい。
2007年の8月くらいから大西、堀戸、笹塚などが岡本さんを追い出す作戦を考えて、その年の10月中頃に4研を「大西と笹塚」で乗っ取った。岡本さんも広さんもー旦4研から追い出され、大西と笹塚が会員もお金も全部掌握する結果となった。
大西は、岡本さんに隠れて九州の壮年壮婦たちの献金を自分の懐に全部入れていたらしい。
その金額は1000万円以上に上ったと聞いている。
田町でも大西、笹塚による使途不明金が1000万円を超えていると聞いた。結局、大西、馬淵、笹塚らは4研の金を狙ってそのような行動に出たとしか考えられない。
しかし、第4を乗っ取ったものの、結果は--。
元々は文師の御言を解明したのが岡本さんだったので、ほとんどのメンバーは大西たちの活動を不審に思って、元の岡本さんの方につながった。大西に付いて行ったのは、笹塚、赤山、白木、福浦、佐木たち10名くらいの組織中枢にいたメンバーだった。それと、九州の20名くらいの壮年壮婦や元献身者たちがいたと思う。
印象にすぎないのだが、組織中枢にいた10名くらいのメンバーは一匹狼的な人が多く、また実務能力に乏しく、乗っ取った第4を発展させることはできなかった。 実際、福浦は周辺に「もう大西氏とは関わりたくない」と語っているという。
大西の誤算は、POST岡本の座に据えようと考えていた理論派の笹塚(仮名、元県議。70年の777双)が、「ある女性とアダム・エバになって、妻と3人の子供を名古屋において、実家を出て行った」ことだ。
結果からすれば、第4を乗っ取ったといっても、1000万円の預金を手にしただけだった。
しかし、大西や馬渕たちの野望は「4研の金を狙ってそのような行動に出たとしか考えられない」といったチンケなものではなく、統一教会の乗っ取りをその後、2人で画策していく。
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news (4月13日朝)
(東亜日報報道)
統一グループ、平和自動車事業者取り消し申請
東亜日報は、去る2012年11月統一グループが統一部に平和自動車事業者承認取り消し申請が完了した。したがって平和自動車は門を閉めることになったと報道した。朴相権(パク・サングォン)社長は新しい事業を模索しているという内容も共に掲載された。
関連記事はhttp://economy.donga.com/dongAuto/3/0111/20130409/54313744/2
【ミニ解説】平和自動車は、日本人食口の多額の献金をもとに、故·文鮮明統一教総裁が1998年に北朝鮮と合弁(出資比率は7対3)で設立した企業である。
教会内で俗に言う「平和自動車摂理」を実現するために、教会員の多くは借金した。今でも借金の返済をしている人もいるのではないか。
それが無に帰した。
創業以来一度も利益を出すことなく、事実上、閉鎖となったのである。
高額借金献金のために、進学を断念させられた二世も少なからずいたと思われる。
嗚呼、なんと悲しいことだろう。
- [2013/04/11 09:12]
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最近になく驚いたこと。
後藤さんの裁判ブログの、先日開かれた法廷の傍聴記です。
証人尋問の報告ー追い詰められ涙で訴える被告側証人
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-152.html
ぜひ、読んでみてください。
なぜ、驚いたのか。裁判ブログのコメント欄にも書いたことですが・・・。
主尋問でのひとつ印象的な場面は、福本弁護士が「弟のMさんが、あなたに対する保護説得なるものは被告宮村指導による拉致監禁であったという内容の陳述書を書いているのですが・・・」との質問をした時に、山口広弁護士がいきり立って「異議あり!そんなこと書いてないでしょ!」と叫んだシーンでした。福本弁護士がMM氏の陳述書を見せながら説明をすると、まさに、福本弁護士が発言した通りの内容が書いてあったため、山口弁護士は沈黙せざるをえなくなりました。
あの反統一の親分的存在である山口広弁護士が、原告側の陳述書をきちんと読んでいなかったとは!
信じられない話です。
結構な着手金を受け取っていると聞いていたのに、書面をきちんと読んでいなかった。これにはものすごく、びっくりしました。
こと統一教会問題では優秀な弁護士だと思っていたのに・・・。イメージと現実は違うのですね。勉強になりました。
(注)このコメントに対するコメントは、裁判ブログのコメント欄にお願いいたします。
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