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統一教会信者の拉致監禁に対する警察の態度? 

統一教会考(1)
統一教会と警察(上)

 統一教会(統一協会)信者の拉致監禁に、これまで警察はどのような態度を取ってきたのか。

 信者が拉致され監禁場所に移送中に、何らかの理由で、警察が職務質問を行なう場合がある。
 そうしたとき、信者は必死で訴える。
「私は拉致されている。助けてください」
 しかし、家族はこう説明する。
「子どもは統一教会の信者です。家族で話し合うために静かな場所に向かう途中です」
 そうすると、家族から羽交い締めにされている信者の姿を見ても、警察は「(このまま)行ってよし」と咎めることはしない。

 これは一体どういうことなのか。

この出来事は『我らの不快な隣人』71頁で書いたが、114頁の小林宗一郎氏もまったく同じ体験をしている。

小林氏の場合、3度監禁され、そのうち2回ほど警察と遭遇している。
2回目は、監禁場所に移送中のときのことで、前述した出来事とほとんど同じである。
1回目はもう少し“ドラマチック”だ。

最初の監禁場所は東京上野のウィークリーマンションだった。
小林氏は窓ガラスを壊し、「助けてくれえ」と何度か叫んだ。
近所から通報を受けて、機動隊を中心に約200人の警察官がやってきた。
窓ガラスが壊れ、その中からSOSの叫び声が聞こえる。近所の通報によって、警察は凶悪犯人が人質を取ってマンションに立て籠もっていると判断したのも無理はない話だ。
部屋にやってきた警察に家族が事情を説明すると、警察官はなんだという顔をして、小林氏の頭を小突き「人騒がせするな。親子できちんと話し合え」と言って、立ち去ったという。



 拉致監禁事件で信者が警察官に遭遇するケースはまれではないが、
「親子の話し合いといっても、本人が嫌がっているのであれば、監禁の罪に問われますよ」
と、警察がたしなめ、移送中、あるいは監禁されている信者を解放した事例は、取材した限りではただの一例もなかった。

 日本の警察官は、愚直と表現されるほどに職務に忠実である。罪の軽重を問わずどんな犯罪であろうと、曖昧にすることなく、毅然とした態度で、取り組んできた。(『裸の警察』所収の拙文参照)

 それなのにどうして、日本の警察はこと統一教会信者の拉致監禁には曖昧な態度を取るのか。
 
逮捕監禁など違法行為が罰せられない(許される)のは、生命、身体、財産に対する危難を避けるためやむを得ずにした行為(刑法37条・緊急避難)に限られる。

 たとえば、猛スピードで走ってくる対向車と正面衝突を避けるために(危難)、ハンドルを思いっきり右に切って(違法行為)、田んぼに突っ込んだとする。こうした場合、緊急避難として違法行為は罰せられない。

小林氏が他人に何らかの危害を加えようとしていたそのときに、家族が犯罪を食い止めようと、とっさに人手を頼んで部屋に閉じ込める。それは緊急避難として認められる。
しかし、小林氏がたんに統一教会員だからというだけで、監禁が許されるわけがない。こんなたとえを出せば小林氏に失礼なのだが、日常的に警察のお世話になっている指定暴力団の構成員だからといって、ただそれだけの理由で監禁していいことにならない?ことを考えれば、あまりにもあたりまえのことである。

 警察庁長官は国会答弁で「拉致監禁には厳正に対処していく」と発言している。
 それにもかかわらず、なぜ、現場の警察官は警察トップの答弁通りに対応しないのか。



 後藤徹氏の監禁事件のことに転じる。
 
 荻窪警察署は、後藤氏の告訴状、陳述書、私の陳述書を読んで、どう対処すべきか考えたはずだ。
(読者の方々も告訴状を受理した警察官になったつもりで、統一教会、反統一教会といった立場を超えて価値中立的に、告訴状、陳述書を再度、読んでみてください)

訴えているのは告訴人の後藤だけ、監禁されていることを目撃した者はおそらくはいないだろう。
米本が提出した陳述書によれば、宮村は「後藤はどうせ訴えてくるに違いない。だから、俺が監禁にかかわったかどうかは法廷の場ではっきりさせる」と語っている。捜査の手が入ることを覚悟しているようだ。
当然、監禁場所となったマンションはすでに引き払われ、後藤が訴えている南京錠など物証は処分されているはず。
捜査に着手するにしても、後藤が告訴した6人からほぼ同時に一斉に聴取しなければ、口裏を合わせられてしまう。すでに弁護士が入り、口裏合わせの打ち合わせをしている可能性もある。
であれば、証拠隠滅(口裏合わせ)の恐れがあるという理由で、逮捕拘留して取り調べるのが常道だろうな。
宮村や宮村の会社など家宅捜索の必要もある。


 私が警察官なら、そう考える。

 それゆえ、警察署に提出した陳述書でも、口裏合わせのことには注意を促しておいた。

 しかし、警察は身柄を拘束せずに、任意で事情聴取するという捜査方針を採用した。

 捜査の結果、宮村氏ら6人を東京地検に書類送検した。このことは「ニュース(1)」で書いたが、次のような感想も述べておいた。

事件の中心人物と見られる宮村氏本人には任意での事情聴取を繰り返してきた模様だが、証拠に乏しいこの種の事件では家宅捜査を含め逮捕拘留して取り調べるのが一般的。それをしなかった警察の態度には疑問が残る。

 ところで、先に「愚直なまでにと表現されていいほど職務に忠実な現場の警察官」と表現したが、後藤氏の告訴状を受理してからの警察官の動きは、宮村氏らの身柄を拘束しなかったことを除けば、実に職務に忠実だったと思う。

 警察は、荻窪警察署の捜査一課、警視庁の捜査一課の刑事10人の合同捜査チームをつくり、手分けして捜査を行なった。

 陳述書を提出した私のところにも二度ほど2人の刑事がやってきた。
 訪問目的はいくつかあったが、直接的な目的は後藤徹氏の体重は39キロと告訴状ではなっているが、写真を撮影したときに、その通りに見えたかどうか。そのことを確認するためだった。
 見舞ったときに体重計ではかったわけではないから答えようがなかった。

 news080220_2

(右の写真は09年2月15日。体重は70キロ。左の写真は08年2月13日。このときの体重は39キロ。読者のみなさんはどう思われますか)

 警察は、後藤氏ら統一教会側が反統一教会陣営の主力メンバーに打撃を与えるために、体重を少なめに記載したのではないかと疑ったようだ。身体検査を行なったのは統一教会と関わりのある一心病院。疑われてもしかたのないことだ。

 最初は私の陳述書の内容が疑われているのかとムッとしたが、考えていくうちに<なるほど、警察官という職業はあらゆるケースを想定して疑問のひとつひとつつぶしていくものなんだなあ>と逆に好感を抱いた。

 刑事さんとは雑談を含め、様々な話をしたが、私が想像もしなかった人にも事情を聞いていたりして、、つっこんだ捜査をしていることだけはわかった。事件が終結していないので、その内容を書くことはできないが、一例をあげておく。

陳述書(米本陳述書3)で、宮村氏の女性問題のことに言及しているが、刑事は宮村氏の女性関係のことまで調べていた。これには正直、驚いた。
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コメント

マインドコントロールについて

初めて聞いた拉致監禁、読めば読むほどムチャクチャな話で、多分、私の感覚が一番”普通”に近いと思いますが「警察は何やってるんだ?!」ですよ。

こんな無茶無体ができる前程にあるのが「マインドコントロール論」、下火になったとはいえこんな出鱈目を大学の教授が言いだすんだから困ったもんです。「そんないい加減な大学、補助金を廃止して事業仕分けしろ!」ですよ。

マインドコントロールを定義します。
「誰かが」「誰かを」「邪悪な意思を持って(不正、不当な利益)」「心理学的な手段で」「支配する」「支配された当人はこの状態を不当、不快とは感じない」としましょう。
まず、こんなことは技術的に不可能。たとえばオウムですが、LSDとか変なお薬を飲ませ、閉所に監禁して一日中ビデオを見せる。頭に電流を流す。そこまでやってもダメなんですよ。なにかの手段があったとしても、こんなことべらぼうなコストと手間がかかってペイしそうもないですよ。

仮りにマインドコントロールというものがあったとして、今度は「誰が」「どうやって」これを判断するか、という問題が生じます。考えようによっては人様の人格を丸ごと否定する、ということですからこれに匹敵する行為で思いつくのは最高裁での死刑判決ぐらい。いくらなんでも最高裁判決は「個人が思いつきで」といったものではないでしょう。蓄積された法理論や判例があり、責任体制があり、複数の裁判官が厳密に検討する。マインドコントロールにはそんなもの何もないんだもんねぇ。
本気にしてはいけない俗説の一つじゃないですか。
  • [2010/05/08 06:15]
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統一教会考(1)
統一教会と警察(上)

 統一教会(統一協会)信者の拉致監禁に、これまで警察はどのような態度を取ってきたのか。

 信者が拉致され監禁場所に移送中に、何らかの理由で、警察が職務質問を行なう場合がある。
 そうしたとき、信者は必死で訴える。
「私は拉致されている。助けてください」
 しかし、家族はこう説明する。
「子どもは統一教会の信者です。家族で話し合うために静かな場所に向かう途中です」
 そうすると、家族から羽交い締めにされている信者の姿を見ても、警察は「(このまま)行ってよし」と咎めることはしない。

 これは一体どういうことなのか。

この出来事は『我らの不快な隣人』71頁で書いたが、114頁の小林宗一郎氏もまったく同じ体験をしている。

小林氏の場合、3度監禁され、そのうち2回ほど警察と遭遇している。
2回目は、監禁場所に移送中のときのことで、前述した出来事とほとんど同じである。
1回目はもう少し“ドラマチック”だ。

最初の監禁場所は東京上野のウィークリーマンションだった。
小林氏は窓ガラスを壊し、「助けてくれえ」と何度か叫んだ。
近所から通報を受けて、機動隊を中心に約200人の警察官がやってきた。
窓ガラスが壊れ、その中からSOSの叫び声が聞こえる。近所の通報によって、警察は凶悪犯人が人質を取ってマンションに立て籠もっていると判断したのも無理はない話だ。
部屋にやってきた警察に家族が事情を説明すると、警察官はなんだという顔をして、小林氏の頭を小突き「人騒がせするな。親子できちんと話し合え」と言って、立ち去ったという。


 拉致監禁事件で信者が警察官に遭遇するケースはまれではないが、
「親子の話し合いといっても、本人が嫌がっているのであれば、監禁の罪に問われますよ」
と、警察がたしなめ、移送中、あるいは監禁されている信者を解放した事例は、取材した限りではただの一例もなかった。

 日本の警察官は、愚直と表現されるほどに職務に忠実である。罪の軽重を問わずどんな犯罪であろうと、曖昧にすることなく、毅然とした態度で、取り組んできた。(『裸の警察』所収の拙文参照)

 それなのにどうして、日本の警察はこと統一教会信者の拉致監禁には曖昧な態度を取るのか。
 
逮捕監禁など違法行為が罰せられない(許される)のは、生命、身体、財産に対する危難を避けるためやむを得ずにした行為(刑法37条・緊急避難)に限られる。

 たとえば、猛スピードで走ってくる対向車と正面衝突を避けるために(危難)、ハンドルを思いっきり右に切って(違法行為)、田んぼに突っ込んだとする。こうした場合、緊急避難として違法行為は罰せられない。

小林氏が他人に何らかの危害を加えようとしていたそのときに、家族が犯罪を食い止めようと、とっさに人手を頼んで部屋に閉じ込める。それは緊急避難として認められる。
しかし、小林氏がたんに統一教会員だからというだけで、監禁が許されるわけがない。こんなたとえを出せば小林氏に失礼なのだが、日常的に警察のお世話になっている指定暴力団の構成員だからといって、ただそれだけの理由で監禁していいことにならない?ことを考えれば、あまりにもあたりまえのことである。

 警察庁長官は国会答弁で「拉致監禁には厳正に対処していく」と発言している。
 それにもかかわらず、なぜ、現場の警察官は警察トップの答弁通りに対応しないのか。



 後藤徹氏の監禁事件のことに転じる。
 
 荻窪警察署は、後藤氏の告訴状、陳述書、私の陳述書を読んで、どう対処すべきか考えたはずだ。
(読者の方々も告訴状を受理した警察官になったつもりで、統一教会、反統一教会といった立場を超えて価値中立的に、告訴状、陳述書を再度、読んでみてください)

訴えているのは告訴人の後藤だけ、監禁されていることを目撃した者はおそらくはいないだろう。
米本が提出した陳述書によれば、宮村は「後藤はどうせ訴えてくるに違いない。だから、俺が監禁にかかわったかどうかは法廷の場ではっきりさせる」と語っている。捜査の手が入ることを覚悟しているようだ。
当然、監禁場所となったマンションはすでに引き払われ、後藤が訴えている南京錠など物証は処分されているはず。
捜査に着手するにしても、後藤が告訴した6人からほぼ同時に一斉に聴取しなければ、口裏を合わせられてしまう。すでに弁護士が入り、口裏合わせの打ち合わせをしている可能性もある。
であれば、証拠隠滅(口裏合わせ)の恐れがあるという理由で、逮捕拘留して取り調べるのが常道だろうな。
宮村や宮村の会社など家宅捜索の必要もある。

 私が警察官なら、そう考える。

 それゆえ、警察署に提出した陳述書でも、口裏合わせのことには注意を促しておいた。

 しかし、警察は身柄を拘束せずに、任意で事情聴取するという捜査方針を採用した。

 捜査の結果、宮村氏ら6人を東京地検に書類送検した。このことは「ニュース(1)」で書いたが、次のような感想も述べておいた。

事件の中心人物と見られる宮村氏本人には任意での事情聴取を繰り返してきた模様だが、証拠に乏しいこの種の事件では家宅捜査を含め逮捕拘留して取り調べるのが一般的。それをしなかった警察の態度には疑問が残る。

 ところで、先に「愚直なまでにと表現されていいほど職務に忠実な現場の警察官」と表現したが、後藤氏の告訴状を受理してからの警察官の動きは、宮村氏らの身柄を拘束しなかったことを除けば、実に職務に忠実だったと思う。

 警察は、荻窪警察署の捜査一課、警視庁の捜査一課の刑事10人の合同捜査チームをつくり、手分けして捜査を行なった。

 陳述書を提出した私のところにも二度ほど2人の刑事がやってきた。
 訪問目的はいくつかあったが、直接的な目的は後藤徹氏の体重は39キロと告訴状ではなっているが、写真を撮影したときに、その通りに見えたかどうか。そのことを確認するためだった。
 見舞ったときに体重計ではかったわけではないから答えようがなかった。


 news080220_2

(右の写真は09年2月15日。体重は70キロ。左の写真は08年2月13日。このときの体重は39キロ。読者のみなさんはどう思われますか)

 警察は、後藤氏ら統一教会側が反統一教会陣営の主力メンバーに打撃を与えるために、体重を少なめに記載したのではないかと疑ったようだ。身体検査を行なったのは統一教会と関わりのある一心病院。疑われてもしかたのないことだ。

 最初は私の陳述書の内容が疑われているのかとムッとしたが、考えていくうちに<なるほど、警察官という職業はあらゆるケースを想定して疑問のひとつひとつつぶしていくものなんだなあ>と逆に好感を抱いた。

 刑事さんとは雑談を含め、様々な話をしたが、私が想像もしなかった人にも事情を聞いていたりして、、つっこんだ捜査をしていることだけはわかった。事件が終結していないので、その内容を書くことはできないが、一例をあげておく。

陳述書(米本陳述書3)で、宮村氏の女性問題のことに言及しているが、刑事は宮村氏の女性関係のことまで調べていた。これには正直、驚いた。
2に続く

警察には問題は無いと思います

私の言いたいことはタイトルに書いた通りです。

なぜなら、統一教会から子供を助けたいと願う親は、例え警察が法を遵守し、拉致しようとする自分たちを罰しようとしても、必ず子供を助けようとすると思うからです。

私でもそうします。

自分の子供が、自分が「非」と思う宗教に入ってしまった。
でも子供がなぜその宗教に入ってしまったか分からない。
そして遠くに行ってしまおうとしている。

私なら罰せられようと拉致してでも理由を聞きますね。
貴殿の本に書いてあった家族のような酷い方法は取りたくありませんが。



この世の中に無償で自分を守ってくれるのは家族だけです。

統一教会は、罰せられてまで信者のことを無償で守ってくれるとは思いません。
貴殿の本にもそのような記述はなかったと思います。

信者が家族に拉致された時、法に訴えてまで家族から信者を取り戻そうとしたことがあったのでしょうか?
違法なのだから統一教会側が家族を訴えれば勝てるのではないでしょうか?
(勉強不足なので、もしそのような事実があったのならばすみません)

でも統一教会はそこまではしないのではないですか。
所詮信者はただの他人です。無償で愛してなどくれないでしょうから。



統一教会への入信は私のなかでは「非」です。

新興宗教への入信が「是」であるという認識など、一般の日本国民には普通は無いと思います。
日本では宗教などと無関係に生きている人がほとんどだからです。

心が弱っているときに、言葉巧みに誘い、なんらかの宗教に入信させるということは、「非」を無理やり「是」にする行為ではありませんか。
(宗教に関心が無い状態を「非」とまでは言わないかもしれませんが)

無理やり「是」にされてしまった信仰心を、拉致によって「非」に戻すことは、見た目の行動自体を嫌らしさは拉致に問題がありますが、虫酸が走るのは前者の方です。

※前提が「言葉巧みに入信させる」ということにしてしまっていますが、もしそうではない入信方法であれば問題ないと思います。


家族だけでは救えないからと、統一教会と変わらないような怪しい人物や団体などに頼るしかない状況が問題ですね。

もっと問題なのは、「家族だけでは救えない」状況にしてしまう統一教会側だと思います。
  • [2012/03/05 01:02]
  • URL |
  • 新興宗教全てが嫌い
  • [ 編集 ]
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Re: 警察には問題は無いと思います

「新興宗教全てが嫌い」さん、初めての投稿、ありがとうございます。

 率直に書いておきます。

>統一教会から子供を助けたいと願う親は、例え警察が法を遵守し、拉致しようとする自分たちを罰しようとしても、必ず子供を助けようとすると思うからです。

 はたして、そうでしょうか。
 信者家族は、脱会カウンセラーを名乗る人(主に牧師)から、「子どもを統一教会から脱会させるには<保護説得>しかない」と教え込まれて、拉致監禁を実行してきました。

 保護説得が法に違反する(逮捕監禁罪、最高刑は懲役5年)ことなど、思いもせずに。

 99年に今利理絵さん、アントール美津子さん、富澤祐子さん、02年に寺田こずえさんが牧師を提訴し、保護説得が法に触れることが次第に信者家族の間で認識されるようになりました。

 その結果、保護説得は激減しました。いまだに無くならないのは、保護説得の「恐怖と悲劇」を認識することができない信者家族がいるということです。(情報ラグないし情報アクセスラグ)

 山崎浩子さんのことが話題になった92年には年間300件以上の拉致監禁事件が起きていましたが、ここ1、2年は10件程度に減っています。

「新興宗教全てが嫌い」さんの見方が正しいとすれば、自分たちが罰せられようが子どもを助け出そうとする親が減少した-ということになりますが・・・。

>心が弱っているときに、言葉巧みに誘い、なんらかの宗教に入信させるということは、「非」を無理やり「是」にする行為ではありませんか。

 そのように見ることは確かにできます。

 しかしながら、宗教に限らず、政治、ビジネスなど、人を勧誘するときには「言葉巧みに」やるものです。別に、このこと自体が悪いことだとは思いません。「言葉ぞんざい」に勧誘する人たちはこの世にいませんから。

 昨今のAIJ年金詐欺事件は、「言葉巧み」に加え、虚偽のデーターを使っていたことに問題があります。

「心が弱っている」とき、人々はどこに救いを求めればいいのでしょうか。教えてください。
 新興宗教なかりせば、精神病院は満員御礼です。(この言葉は日本脱カルト協会の理事長)


>もっと問題なのは、「家族だけでは救えない」状況にしてしまう統一教会側だと思います。

 家族だけでは救えない?
 はたして、そんな状況があるのでしょうか。
 具体的にご教示いただければ、勉強になります。

 拙著を読んでいただいたようで、感謝です。
 その本の中で、私はこう書いています。
 統一教会をやめた人たちは圧倒的に多くが自主脱会者である、と。

 恋愛に夢中になっているときは、アバタもエクボに見えてしまいますが、時間が経過すれば、アバタはエクボではなくアバタに見えてしまう。そう思っています。

 実際、恋愛に夢中になっているような青年教会員も、自分の思考力によって、やめています。

 人は受動態ではないのです。生き生きとした能動態でもあるのです。人から影響を受けるのだけど、その影響を自分の意思で断ち切ることもできるのです。

 反統一というか拉致監禁派の統一教会員観の間違いは、つねに「言葉巧みに騙された人」という見方にあるのです。人間、そんなにバカではありませんよ。

紀藤弁護士のオセロゲーム

今日の2時半頃、日テレのワイドショーで紀藤弁護士が面白いことをしゃべっておりました。いま話題のオセロ中島さんがはまっているとされるマインドコントロールとはどういうものかという宮根アナの質問に対して、「洒落ではなくオセロゲームのようなものです」とトンチのような答えをしておりました。紀藤氏がいいたかったのはこういうことです。つまりマインドコントロールされている人は「白か黒か」という単純な二項対立でしか判断ができなくなっているので、そのような人の考え方を変えることは大変なことですというわけです。中島さんのことを私はまったく知りませんが、なかなか巧い解説だなぁと感心しましたが、「おいおいちょっと待てよ!」といいたい。紀藤弁護士は気づいていないのでしょうが、皮肉にもオセロゲームにはまっているのは、彼自身を含む脱カルトという運動に従事している方々ではないのかと思います。

紀藤氏よりもはるかに冷徹な米本氏がいうとおり、本当は統一教会の信者は他人が思うほど単純な思考法に呪縛されているわけではなく、むしろ一般の社会がそのような型にはまったステレオタイプイメージしかもてなくなっているから、脱カルトという手法がリアリティをもって語られているのでしょう。

白か黒かというオセロ的思考に陥りやすいのはいわゆるカルト団体だけではありません。あえていえば、それは人間の本質的弱点だと私は思います。ユダヤ教にしてもキリスト教にしてもイスラム教にしても、いずれも歴史的に同じような誤りに陥りました。それは複雑な物事を二項対立に単純化して人為的に敵を作り無実の人間を葬るという誤りです。いわゆるレッテルというのは、そのような人間の弱さから生み出されるのではないかと思います。クリスチャンは当初ユダヤ教徒に異端呼ばわりされて迫害されましたが、そのクリスチャン自身が後に「異端」とか「魔女」というレッテルを作り、無実の人々を累々と葬り続けました。そのようなキリスト教の偽善を否定したはずの共産主義者が、さらに同じような誤りを繰り返しました。「反動分子」とか「反革命分子」というレッテルによって、何千万という無実の人々が命を失ったことはわれわれの記憶に新しいことです。

レッテル貼りというのは白黒ゲームの単純な二項対立の思考法からきているのはいうまでもありまえん。気に食わない相手に「悪」イメージのレッテルを貼ることで、その成員や支持者をすべて「黒」(=悪)に判定できるわけですから、勝者にとっては、こんなに簡単で面白いゲームはないでしょう。いわゆる「カルト」や「マインドコントロール」という言葉は、今現在のわれわれの社会でそのようなゲームに使われているのだということに気付くべきです。かつては「アカ」とか「部落」というレッテルだけで日本人は身震いをしましたが、最近は「カルト」というだけで多くの人々が怖れを抱くようになりました。これはオウムの事件が影響していることはいうまでもありませんが、そのレッテルによってオウムと同じイメージを貼り付けられるのですから、これは恐るべき二項対立のゲームです。紀藤氏は彼らをオセロ的思考から救うことが難しいというようなことをいっておりましたが、そういいながら自らはカルトという名のレッテルを無定見に使用し続けているわけですから奇妙です。彼がもし本心から二項対立の思考を排するというなら、まず自らが率先してカルトやマインドコントロールという図式を使用しないことを示すべきでしょう。でなければ彼はただの偽善者だということでしょう。

変なオセロゲーム

補足ですが、信者の監禁の際に、まいどのように元信者といわれる方たちがかけつけ、牧師と一緒になって監禁相手を追い詰めていくという手法がとられてるようですが、この手法はまさしくオセロゲームそのものです。そういうゲームが許されている日本という国はやはり変な国ですね。ついでながらまもなく3.11から一年たつというのに、オセロ中島さんのことで大騒ぎをしているマスコミというのもよほど変な集団です。まともなのはNHKだけでしょうか?

KHさんへ

 秀逸な投稿ありがとうございました。

 まさしく、すべてその通りです。

 言わんとする文脈から逸れてしまうことを意識しながら、私はあえてニ項対立の問題を、有田の「カルト脳」とか、矮小化して書いたきらいがありますが、KHさんがおっしゃっている通りです。

 二項対立は、なにも“カルト”の特徴ではなく、キリスト教に顕著にみられる傾向です。
<天国か地獄か>
 イギリスでは社会問題になっていると聞きました。

 全国弁連で、宗教に詳しくなったのは山口広さん(おそらくただ一人)で、彼は紀藤弁護士の発言を、軽いなあと苦々しく思っているはずです。

 わが紀藤さんは、テレビからお声がかかると ヒョイヒョイではなく、「重々しく」(テレビ局の人の話)、条件をつけて出演するそうですが、どうにも軽いようですね。

 中島さんの芸名「オセロ」を使って、気の利いたコメントを吐いたつもりでいても、やはりテレビ好きは否めません。もう、軌道修正ができなくなっている年齢になっているはずです。

紀藤弁護士のオセロゲーム②

>二項対立は、なにも“カルト”の特徴ではなく、キリスト教に顕著にみられる傾向です。

それは本当に米本さんのいわれるとおりだと思います。たとえば、かつて原爆や東京大空襲という史上最大の大虐殺を行ったアメリカの所業はキリスト教の徹底した二項対立的思考と無縁ではないと私は思っています。当時のアメリカ軍にとっては日本人=悪そのものでした。だから軍人も民間人も区別なくネズミのように無慈悲に殺されたのでしょう。一方、日本軍は南京へ攻略前に安全区という区域を設け、そこに逃れた民間人は決して殺さないという人道的ともみえる約束をして攻撃を仕掛けました。その日本軍の行動が東京裁判で一方的に大虐殺として裁かれたのは不条理なことです。

しかし、だからといってアメリカ軍=悪玉ではなく、日本軍=善玉であるともいえないでしょう。当然、その逆もまたしかりです。善か悪かという単純な判定はオセロゲームと同じように単純すぎます。

これは統一教会についてもいえることです。統一教会の活動には悪い部分もあれば良い部分もあると思います。良い部分をあげさせてもらいますと、たとえばレーガン時代に冷戦終結に影響を与えたという事実があります。あるいはまた宗教や民族、国境を越えた数々の平和活動を行ってきました。これは世界中の元首クラスの政治家からも認められていることです。にもかかわらず統一教会をカルトだという人々は悪い部分だけをとらえて、そういうレッテルを貼ろうとしているのではないでしょうか。つまり、それこそが紀藤弁護士のいう二項対立的思考ではないでしょうか?

紀藤弁護士によると普通の日本人は白でも黒でもなくグレーなのに、カルト団体は白か黒かどちらかの見方しかできない。だから彼らをそのような間違った見方から救うことが必要なのだと説いていましたが、そのようにカルトを規定することこそが、実はオセロゲームでなくて何でしょうか?

すなわち、その論拠によりますと紀藤氏の立場自体が矛盾してくるはずです。たとえば拉致監禁を背後から指導しているのは、まさに二項対立の権化のような牧師さんたちです。彼らによると、統一教会の文鮮明は悪魔の親玉(すなわち偽キリスト)だから、これを潰さなければならないと考え、それを実行しています。それこそ恐るべき二項対立のオセロゲームに他なりません。紀藤弁護士が二項対立の危険性をもちだすならば、むしろ拉致監禁をやめなければならないと真っ先にその正当性を否定すべきでしょう。ところが奇妙なことに、紀藤弁護士の関係者が拉致監禁の現場に居合わせているという事実まであると聞きます。なんと奇怪なことでしょうか。

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