宇佐美有罪判決は憲法違反・最高裁判例違反(中) 

ストーカー事件の真相(25)

目 次

第1 はじめに……1頁
 1 本件上告の概要・・・・・・1頁
 2 本件事案の特殊性・・・・1頁

第2 上告理由……2頁
 1 憲法13条違反があること……………………………2頁
 2 最高裁判所判例と相反する判断をしていること……5頁
 3 憲法31条違反があること……審理不尽……………8頁

(上記は「宇佐美有罪判決は憲法違反・最高裁判例違反(上)」 に掲載しています)

第3 判決に影響を及ぼす重大な事実誤認……13頁
 1 恋愛感情充足目的に関する認定の誤り……………………14頁
 2 恋愛感情充足目的と意思確認目的の非両立性……………17頁
 3 「待ち伏せ」に関する認定の誤り…………………………19頁

 4 故意に関する認定の誤り…………・……………………… 27頁
 5 告訴人の「不安」についての疑問…………………………29頁

第4 証拠調べ手続きに判決に影響を及ぼすべき法令違反があること……32頁

第3 判決に影響を及ぼす重大な事実誤認

 1 恋愛感情充足目的に関する認定の誤り

 (1)原判決は,
①被告人は,告訴人と連絡を取ることができなくなった平成20年1月以降,様々な方法を使って執拗に告訴人の所在を捜し,平成22年4月には告訴人の父親が使用している自動車の底部にGPS機能付き携帯電話を貼り付けることまでしていたこと,
②告訴人は,平成20年12月に統一教会に対し,同教会から脱退し,被告人との婚約を破棄する旨の内容証明を送り,平成21年12月には,被告人との婚約を破棄し,会うつもりもない旨の被告人宛の手紙を被告人の実家に送り,被告人はそれらの内容を認識していたこと,
③被告人は,告訴人を愛している旨の手紙を書いたり,告訴人に対し,会いたい旨のメールを送信したり,原判示5の行為の直後にも告訴人が恋しかった旨をノートに記載していること
 
 これら3つの事実を根拠として,原判示の各行為時に,被告人が,告訴人には被告人に対する恋愛感情がなく,被告人と結婚する意思もなくなっていることを知りながらも,告訴人に対し,強い恋愛感情を有し,告訴人と会い,どうしかして告訴人との関係を修復したいと考えていたと認定した上,被告人には恋愛感情充足目的があったと認定した。

 しかし,原判決の前記事実認定には,以下に述べるとおり,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認が存在し,これを破棄しなければ著しく正義に反する。
以下,詳述する。

 (2)まず,前記①の事実は,被告人が,告訴人と連絡をとれなくなって以降,様々な方法を使って告訴人の所在を捜していたことを示す事実であるが,本件における被告人と告訴人の交際経緯及び告訴人の失踪経緯等に鑑みれば,かかる事実は,それ自体,被告人の恋愛感情充足目的を推認させる事実とはなり得ない。
 すなわち,本件において被告人は,結婚及び入籍を間近に控えた告訴人が突如行方不明となり,連絡を絶ったことから,告訴人を心配し,また,同女がいまもなお被告人との結婚意思を有しているか否かを確認する必要があったため,同女の所在を捜していたものである。

 このような被告人の気持ちや考え及び行動は,当時の被告人の置かれた状況を考えたとき,誰しもそのようなことを考え行動するであろうという意味において,極めて条理に適ったものであり,原判決が判示する如く,被告人自身の恋愛感情を充足するという身勝手な自己中心的目的のために同女の所在を捜し続けていたわけではない。

  したがって,前記①の事実は,本件の具体的な事実関係に鑑みれば,それ自体,ストーカー規制法における恋愛感情充足目的を推認させる事実となり得ないことは明らかである。
 

(3)また,原判決は,前記②の事実から,被告人が,原判示各行為時に,告訴人には被告人に対する恋愛感情がなく,被告人と結婚する意思もなくなっていることを知っていた事実を認定したが,以下に述べるとおり,これも極めて不当な事実認定である。
 
 すなわち,まず,告訴人が統一教会宛てに送った同教会の脱退及び婚約破棄の内容証明郵便について,当時,被告人は,直接,その郵便物の中身を見ていないばかりか,「脱会届が教会本部宛に来た。」としか聞いておらず,前記内容証明郵便に「婚約破棄」の内容が記載されていることを知ったのは,本件一審裁判の過程で証拠として同郵便を見たときなのである。

 またさらに,同郵便物が統一教会本部に届いた後,告訴人と電話で話した中務から告訴人の様子を聞いた被告人は,同女が偽装脱会をしていると認識した以上(中務調書8頁,第6回被告人調書23頁),前記内容証明郵便が同女の本心を表しているとは考えなかったのである。

 そうすると,被告人が,告訴人による前記内容証明郵便送付の事実を認識していたからといって,告訴人の本心,すなわち,被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことを知っていたと認定することはできない。

 また,平成21年12月に告訴人が被告人の実家に送った手紙とは,他の荷物(被告人が告訴人にあげた携帯電話,本など)と一緒に送られたものであるところ,そもそも,被告人がこの荷物を受け取ってその中にある手紙を見たのは,一審判決が認定したとおり,平成22年8月か9月頃,すなわち,公訴事実1,2の後のことである。
 また,それ以前において,被告人は,実家に荷物が送られたことを認識していたものの,荷物の中に手紙が入っていることまでは知らなかったのである(第9回公判被告人調書9頁)。

 そうすると,前記手紙を見た被告人の認識が如何なるものであろうと,少なくとも,公訴事実1,2当時における被告人の認識を推認させる事実となり得ないことは明らかである。

 また,公訴事実3ないし5当時における被告人の認識に関しても,控訴趣意書20頁にて詳述したとおり,被告人は,告訴人の前記手紙が同人の本心や真意を表したものであるとは思えなかったのである(第6回公判被告人調書35頁)。

 すなわち,当該荷物は,伝票(甲65・原審記録1050丁)の「ご依頼主」欄に「神奈川県相模原市■■■■■■」と書かれていたが,消印は荻窪川南の郵便局のものであったこと,また,緩衝材として杉並区や東京都の公報が入っていたこと,さらに,荷物に入っていた携帯電話のバッテリーが抜かれていたことなどから,
 明らかに不自然であると感じられ,前記荷物が工藤氏の実家から送られたものではなく,荻窪にいる強制改宗屋の宮村氏が関与して,告訴人の真意によらずに作成かつ発送された可能性があると考えたのである(第6回公判被告人調書33~36頁)。

 そして,かかる被告人の当時の認識は,一審公判廷において,当の宮村本人が,自ら荷物の発送に関与したことを認める旨の証言をしたことからも(宮村調書16~17頁),十分合理性があり信用性が高いというべきである。

 そうすると,被告人が告訴人の前記手紙を読んだ事実をもって,被告人が,告訴人の本心,すなわち,被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことを知っていたと認定することはできない。

 以上のとおり,被告人には,告訴人による上記内容証明郵便や上記手紙の文面が,告訴人の本心ではないという疑念を抱き,告訴人の本心がわからなかったことにつき合理的な理由があったのであり,控訴理由書15頁以下においても詳述したとおりである。

 したがって,前記②の事実をもって,被告人が,原判示各行為時に,告訴人には被告人に対する恋愛感情がなく,被告人と結婚する意思もなくなっていることを知っていたと認定した原判決の事実認定は,かかる認定にあたり,合理的疑いを生じさせる反対事実及び証拠を一切無視した極めて不当な事実認定というべきである。 
 

(4)
また,前記③の事実は,被告人が告訴人に対して恋愛感情を有していたことを示す事実であるが,当該事実から,被告人の告訴人に対する恋愛感情があったことを推認できるとしても,さらに,そこから当然に,恋愛感情充足目的があったと認定することはできない。

 そもそも,被告人は,恋愛感情というかどうかは別にして,告訴人に対し,好意的な感情を抱いていたこと自体は認めている。
 しかし,本来,ストーカー規制法で処罰されるのは,恋愛感情等を「充足する」目的で行われた行為に限られ,恋愛感情等を有していること自体が処罰されないことはもちろん,恋愛感情等を背景としながら,それを充足することを目的としない行為もまた,前記「充足する」の構成要件に該当しない以上,処罰してはならない。

 特に,本件のように,良好な関係を築いていた婚約相手が突如行方不明になったことを契機とし,その婚約相手を心配し,また相手方の婚約意思や本心を確認したいとの意思ないし目的をもって行なった被告人の各行為が,自らの恋愛感情を「充足する」目的で行なわれたものでないことは明らかである。

 にもかかわらず,被告人が告訴人に対して恋愛感情を有していた事実をもって,そこから当然に,恋愛感情を「充足する」目的があったと認定した原審の事実認定は,かかる認定にあたり,合理的疑いを生じさせる反対事実及び証拠を一切無視した極めて不当な事実認定というべきである。

(5)小括

  以上,原判決が行なった恋愛感情充足目的に関する事実認定は,当該認定にあたり,合理的疑いを生じさせる反対事実及び証拠を一切無視した上で,当該認定に都合の良い事実のみを根拠事実として抽出する,いわば「つまみ食い」的な事実認定であって,明らかに事実誤認である。

「つまみ食い的」は、法律文章として馴染めない形容句だろうが、「高裁判決文」と「控訴趣意書」とを比較して読めば、高裁の事実認定は明らかに「つまみ食い的」と形容する以外にない。

 そして,かかる原判決の事実誤認は,本件の核心的争点とも言えるストーカー規制法上の恋愛感情充足目的の有無に関するものであるから,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認であると同時に,これを破棄しなければ著しく正義に反することは明らかである。 

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宇佐美さんはストーカーじゃないんだけどなぁ。 


 2 恋愛感情充足目的と意思確認目的の
非両立性


(1)序

  原判決は,告訴人と会って,告訴人の本心を確認したいという気持ちと,告訴人に対し,強い恋愛感情を有し,告訴人と会い,どうにかして告訴人との関係を修復したいという目的は両立するものであり,被告人に告訴人の結婚意思の有無を再確認する意思があったからといって恋愛感情充足目的があったとの認定が左右されるものではないと述べている。

  しかし,原判決は,前記二つの主観を,単純に抽象化して論じているに過ぎず,以下に述べるとおり,本件における被告人の具体的認識を前提とする限り,これら二つの主観は全く相容れない非両立の関係にある。

(2)両主観の前提認識が非両立であること

 第一に,本件において弁護人が主張する意思確認の目的とは,告訴人の本心が分からない状況下において告訴人と会ってその本人を確認したいという気持ちであるのに対し,
 一審及び原審判決の認定した恋愛感情充足目的とは,告訴人には被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことを知りながらも,告訴人と会ってどうにかして,告訴人との関係を修復したいという気持ちであるところ,
 前者が,告訴人の本心が分からない状況下における気持ちであるのに対し,
 後者は,告訴人の本心を知った上での気持ちである点において,
 これら二つの主観は,その前提として認識している状況が全く異なるだけでなく,事実として全く両立しないのである。

(3)両主観の具体的内容そのものが非両立であること

 第二に,被告人が前者の意思確認の目的を持つに至った理由として,次のような認識を有していたことが証拠上認められる。
 すなわち,被告人は,過去にも,合同結婚式の相手が拉致監禁された際,後日,相手女性と会って,信仰及び被告人との結婚意思がないことを確認し,婚約を解消した経験があること(一審第6回公判被告人供述調書38~39頁),
 また,もし仮に自分が拉致監禁されて偽装脱会で何年か経って出てきた場合,相手女性が別の男性と合同結婚式を受けていたら,ショックであるとの気持ちから(一審第6回公判被告人供述調書36~37頁),
 告訴人において,本心から被告人に対する恋愛感情及び結婚意思がないことが確認できれば,それ以上,被告人としては告訴人との関係を修復しようとする意図はなく,別の女性と合同結婚式を受けることを考えていたという認識である。

 かかる被告人の認識は,被告人が公訴事実5において告訴人と会って本心を確認することができた後,新しい相手と合同結婚式に臨むための準備をしていた事実(一審第6回公判被告人供述調書36~37頁)からも裏付けられる。

 そうすると,被告人は,告訴人と会って告訴人には本心から恋愛感情や結婚意思がないことを確認できたならば,それ以上,告訴人の意思を無視してまで関係を修復しようとする意図を有していなかったことになり,その場合,原判決が認定したような恋愛感情充足目的は存在しないと言える。
 
 反対に,被告人には,告訴人の本心として恋愛感情や結婚意思が未だあると確認できたならば,告訴人と結婚したいという気持ちがあったと言えるが,そのような被告人の気持ちは,ストーカー規制法上の恋愛感情充足目的とは,明らかに質の異なるものである。なぜなら,告訴人に被告人と結婚する意思があるならば,告訴人との結婚を願う被告人の気持ちは,告訴人の意思と合致する以上,ストーカー規制法により処罰すべき感情ではないからである。

 この点,原判決が,本件において,被告人の恋愛感情充足目的の内容として「告訴人に恋愛感情や結婚意思がないことを知りながら」告訴人との関係を修復したい気持ちであるとしたのも,告訴人の気持ちを無視して,自分の恋愛感情を充たそうとする気持ちが,ストーカー規制法上の恋愛感情充足目的であるとの解釈を前提にしていると言える。

 結局,本件における被告人の具体的な認識を考察すれば,告訴人と会って意思を確認したいという主観は,もしそれが立証されるなら,ストーカー規制法上の恋愛感情充足目的は存在しなかったと言えるのであり,恋愛感情充足目的と両立して存在しうるものではない。

(4)小括

 以上述べたとおり,両者の主観が両立すると判示した原判決は,明らかに誤りであり,かかる誤りは,被告人の恋愛感情充足目的の認定に影響を及ぼしたため,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認であると同時に,これを破棄しなければ著しく正義に反することは明らかである。

 高裁判事が一見、説得力がありそうな「両立性」という言葉を使うから、弁護人も回りくどいと思われるほど緻密に論じているが、簡単に言えばこういうことだ。
 宇佐美さんが告訴人の意思を確かめたところ、
a)婚約破棄の意思表示が本心からのものではないことがわかった場合、関係は修復するから、ストーカー規制法に違反する行為は行っていないことになる。
b)本心からのものだとわかった場合、諦めるから、ストーカー規制法に違反する行為は行っていないことになる。
 ゆえに、両立性は存在しないのだ。
 宇佐美さんの場合、後者であったから、判示5の段階で告訴人の婚約破棄の意思を確認できたことから、その後、告訴人に会おうとするようなことはなかったのだし、新しい相手と合同結婚式に臨むための準備をしていたのである。



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地裁、高裁の判事はおかしいぞっ。 


3 「待ち伏せ」に関する認定の誤り

(1)序

 原判決は,ストーカー規制法における「待ち伏せ」の要件として,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があることが必要であるとした点は,解釈論として,正当である。

 しかしながら,原判決が,被告人の一審判示各行為には,前記意思ないし目的が存在すると認定した点は,以下に述べるとおり,同認定にあたり合理的疑いが存在したと言え,明らかに事実誤認である。

 すなわち,既に述べたとおり,被告人は,告訴人に対し自らの気持ちを伝えたかったのではなく,告訴人の気持ちを聞きたかったのであるから,「待ち伏せ」の要件としての前記意思ないし目的を欠くと言える。

 また,一審判示各行為がそれぞれ,上記の「待ち伏せ」の要件を欠き,同法の「待ち伏せ」に当たらないとすると,結果として反復性の要件も欠けることになり,被告人がストーカー行為をしたという認定は,まさに判決に影響を及ぼす重大な事実誤認ということになる。
以下,詳述する。

 以下、長い文章が続き辟易されるかもしれないが、主張はきわめてシンプルである。
 
 すなわち、今回のようなストーカー行為が認定されるためには「待ち伏せ」という行為があることが構成要件となっている。(待ち伏せをしていなければ、ストーカー行為とは認定されない)
 そして、ストーカー規制法でいう「待ち伏せ」は「自分の気持ちを相手に伝える意思」「自分の気持ちを相手に伝える目的」がなければならない。相手の気持ちを聞きたいというだけでは「待ち伏せの要件」を欠き、ストーカー行為と認定することはできない。
 
 法的には厳密性を欠く説明になるかもしれないが、わかりやすく言えば、どこかで相手が来るのを待ち、相手が現れたら、「好きだ、一緒になりたい」という気持ちを伝える。
 これだけではストーカー行為とは認定されないだろうが、相手が「あなたのことは好きでない」と表明したのにもかかわらず、反復的に気持ちを伝えることを繰り返す。こうした場合、ストーカー行為になる可能性がある。
 これに対して、どこかで相手が来るのを待ち、相手が現れたら、「私のことをどう思っていますか」と質問する。この気持ちを聞くという行為はストーカー行為とは言えない。まあ、当たり前のことである。

 宇佐美さんが告訴人と接近した場面は5回(公訴事実1~5)ある。このそれぞれの場面での宇佐美さんの行動態様を具体的に分析し、「自分の気持ちを伝える意思ないし目的」があったかどうか、それとも「告訴人の気持ちを聞きたい」だけのことであったのかを、詳述しているのである。
 長文だが、主張構成はきわめてシンプルである。



(2)公訴事実1について

 一審判決は,公訴事実1について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が,告訴人の父親がパーキングの精算機で精算を終えて駐車中の車に戻るのを確認した後,パーキングの出入口の横に設置された精算機近くに移動し,同所を出ようとする父親の車の中の様子をうかがっていた行為,
 及び同車内にいた告訴人からは,同所を通過して左折する車を被告人が目で追うような感じで見ていたという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,この当時,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたのであれば,告訴人の父親が精算を終えて車に戻った直後で,かつ車が動き出す前に,同車に近寄って,工藤の父親又は同乗者に話しかけたか,少なくとも,話しかけようとする行動に出たはずである。

 ところが,実際に被告人がとった行動は,父親らが車に乗り込むまで,一切そのような行動をとることなく,精算機の前に立って,車が通過するのを目で追うようにして見ていたに過ぎないのである。
 かかる行為は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。

 すなわち,被告人は,当時,告訴人の父親がパーキングの精算機で清算しているところは目撃したものの(被告人第9回,同尋問調書添付の写真4,現場見取り図),告訴人が車に乗り込むところや,車内に座っているところは全く見えなかった(乙11・原審記録1372丁,第6回公判被告人調書47~48頁)。

 また,被告人は,当時,告訴人の居場所がパーキング周辺のマンション内にあり,そこに留められていると思っていたため,初めから父親の車には父親だけが乗っているのであろうと推測しており,まさか,その車の中に告訴人が乗っているとは認識も予想もしていなかったというのである(第6回公判被告人調書47頁,第9回公判被告人調書8頁)。

 この当時,被告人は,告訴人に意思確認するための前提として,告訴人の居場所を捜している最中であり,告訴人の居場所について何か手がかりが得られないかという思いで父親の車を観察していたにすぎず,この観点から見れば,被告人の上記のような動きは,むしろ自然である。

 したがって,公訴事実1の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

(3)公訴事実2について

 一審判決は,公訴事実2について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が,GPS機能付き携帯電話からの位置情報により,告訴人の父親の車が新宿の山口弁護士の事務所の帰りに東京都杉並区内を経由し,公訴事実2の道路付近を通過するのを知っていたことから,同所付近を確認するために出かけたという行為,
 及び告訴人は,車内から車の進行方向と同じ方向に歩いているのを見たという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,前記認定のとおり,告訴人の父親の車が,公訴事実2の道路付近を通過することをあらかじめ知っていたとしても,そのような車が一瞬で通過して行ってしまうような場所に,被告人が自らの気持ちを伝える意思ないし目的をもって行くというのは,あまりに不自然かつ不合理な行動である。

 また,被告人が,そのような車の通過する地点において,自らの気持ちを伝える意思ないし目的をもって,告訴人を待ち伏せするとすれば,少なくとも,バイクに乗って行くなど,告訴人の乗った車を追跡できる態勢をとって待ち伏せをするのが自然かつ合理的であるが,実際の被告人の行動は,徒歩で公訴事実2の場所まで行っており,当初から告訴人の乗った車を追いかける気など全くなかったと言える。

 このように,一審判決の認定した事実を前提としても,公訴事実2の被告人の行為は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。
 被告人は,公訴事実2の場所付近に,過去,GPSの発信記録が多く出た場所があったので,そこがどのような場所なのかを調べるため,同場所に行ったのであり(乙11・原審記録1372~1373丁,第6回公判被告人調書48~49頁),このとき,被告人は,あくまで過去のGPS位置情報に基づいて行動し,当日のGPS位置情報は確認しなかったのであり(第8回公判被告人p2~5),さらに,被告人は,公訴事実2の場所まで歩いて行ったが,その間,同場所付近を走行している車には関心がなく(第6回公判被告人調書49頁,第8回公判被告人調書5頁),告訴人の父親の車も見なかったというのである(乙11・原審記録1373丁,第6回公判被告人調書49頁)。

 この当時も,被告人には,まだ告訴人の居場所自体がわからず,意思確認以前の段階として,居場所を捜している最中であったのであり,この観点から見れば,上記のような被告人の動きは,むしろ自然である。

 したがって,公訴事実2の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。


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寝ころがって考えても、おかしな判決だったなあ。


(4)公訴事実3について


一審判決は,公訴事実3について,次の事実を認定した。
 すなわち,告訴人の父親の車に取り付けたGPS機能付き携帯電話の位置情報により,父親の車が新宿の山口弁護士の事務所に向かうものと予測し,同事務所があるさわだビル付近で告訴人を待っていたという行為,
 及び告訴人は,車内から同ビル前歩道上に被告人がいて,車道の方を向いて告訴人の乗った車が通り過ぎるのを目で追うような感じで見ていたという事実,
 及び,その後,告訴人らが公訴事実1のパーキングに車をとめ,さわだビルに戻るように歩いてくると,被告人がさわだビルの角に移動し,ビルの影から工藤の方を振り向き,再び,ビルの影に隠れるような動作をし,告訴人がさわだビルの入口の辺りに着くと,被告人は同ビルと反対側の歩道上に移動し,その後,告訴人がビルの中に入ると,ビルから離れるように歩いて行ったという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,当時,告訴人に自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたならば,告訴人がパーキングの方からさわだビルの方に向かって歩いて来るときに話しかけたはずであり,また,たとえ,そのとき話しかけられなかったとしても,告訴人らが弁護士事務所での打ち合わせを終えてビルから出てきたところを見計らって話しかけようとしたはずである。

 しかし,実際の被告人の行動は,一審判決が認定したとおり,告訴人に話しかける機会が何度もあることを認識しながら,話しかけるどころか,むしろ告訴人が被告人の方に向かって歩いてくると,反対側の歩道上に移動して告訴人に見つからないよう隠れる行動すらとっており,さらに告訴人がビルの中に入ると,その後は,告訴人がビルから出てくるのを待たずに立ち去るという行動をとっており,かかる被告人の行動は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。
 すなわち,公訴事実2の後から同3までの間に,被告人は,告訴人が新宿の山口弁護士との打合せをするために,父親の車で送り迎えしてもらっていることを把握し,
 公訴事実3の当日も,父親の車が新宿の同弁護士の事務所に向かうことは予測していたものの,杉並区内から新宿の同事務所までは,通常,地下鉄で30分もあれば到着できる距離であるにもかかわらず,わざわざ父親が車で,相模原から杉並区内経由で新宿まで,告訴人を送迎していること,
 及び,30歳を過ぎた大人の告訴人が,両親と一緒に弁護士事務所に相談に行くことに対し,不自然さを感じたものである。

 被告人は,もしかしたら,未だに,告訴人が両親の監視下にあり偽装脱会をしているのではないかと推測し,告訴人と両親の様子を観察するため,公訴事実3の場所に行ったというのである(第9回公判被告人調書15~17頁)。
 そして,実際に被告人が見た告訴人は,後ろから両親に監視されているような雰囲気で,両親とは会話もせず,表情も強ばっており,親子関係が良さそうな印象を全く受けなかったため,ますます,告訴人が偽装脱会中であると考えるようになったというのである(第8回公判被告人調書12~13頁,第9回公判被告人調書16頁)。

 このように,公訴事実3のとき,被告人は,あくまで告訴人とその両親の様子を観察することが目的であり,当初から告訴人に話しかけることは,全く考えていなかった(第6回公判被告人調書53頁,第8回公判被告人調書12~13頁,第9回公判被告人調書16頁)。

 したがって,公訴事実3の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

(5)公訴事実4について

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Kの隠れ家。宇佐美さんは右側の細い道でKと会い、咄嗟に塀の内側に身を隠した。 


 一審判決は,公訴事実4について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が,告訴人の父親の車に取り付けたGPS機能付き携帯電話の位置情報により,父親の車が新宿から荻窪に向かうことを確認し,以前から告訴人が住んでいるのではないかと思っていた荻窪所在の3か所のマンション周辺の道路を歩きながら同車を待っていると,同車が被告人のいた位置の道路脇から伸びた通路の反対側の通りに停止し,告訴人とその母親が降りるのを確認したが,告訴人らが被告人のいた通路を被告人の方に向かってきたため,通路の脇にあった公訴事実4の野村方敷地内に身を隠したという行為,
 及び,告訴人は,上記通路沿いのマンションに向かい,入口の前で鍵が開くのを待っていると,斜め後ろの方で,がさがさと音がしたので振り向くと,1.1メートルほどの通路を挟んだ反対側のブロック塀の隙間から身を乗り出すようにして告訴人の方を見ている被告人と目が合ったという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,当時,被告人が告訴人に自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたならば,前記のとおり,被告人は,公訴事実4の場所において,告訴人とわずか1.1メートルの距離をおいて,身を乗り出すようにして告訴人の方を見ていたのであるから,告訴人に対し,話しかけたはずである。

 ところが,実際に被告人がとった行動は,一審判決も認定したとおり,前記状況においても,一切,告訴人に話しかけることなく,むしろ告訴人がマンションに入ると,公訴事実4の場所から立ち去ったのであり,かかる被告人の行動は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。
 すなわち,このときの被告人は,当初から告訴人の居場所を探すことだけを考えていた上,予想外に至近距離に告訴人を目撃するに至ったため,告訴人に話しかける心の準備は全くなかったというのであり,
 また,被告人がとっさに隠れた場所は,第6回公判被告人調書の添付写真9に写っているとおり(被告人公判第6回60頁),他人の敷地内であり,話しかけるには不適切な場所であると考えたというのである(被告人公判第6回59頁)。

 したがって,公訴事実4の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。


(6)公訴事実5の前段について

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サウナの階段踊り場。宇佐美さんがソファに座っていると、Kや宮村たちが通りすぎていった。

 一審判決は,公訴事実5前段について,次の事実を認定した。
 すなわち,被告人が公訴事実4の際に告訴人の居場所であることを確認したマンションに行って,付近の様子をうかがっていたところ,同マンションの入口に停めてあった車に,統一教会の脱会を支援する関係者と思われる女性らがその車に乗り込んだので,被告人は,バイクで,その車を尾行すると,その車が宮村の住む家の前に停まり,人が乗り降りするのが見え,さらにその車を尾行すると,公訴事実5のサウナセンターの駐車場に駐車したので,先回りしてサウナセンターの出入口付近の階段踊り場で上記関係者らが来るのを待っていたという行為,
 及び告訴人は,上記関係者が運転する車に乗り,途中で宮村も加わった5人で一緒に,公訴事実5のサウナセンターに向かい,駐車場に車を停めて2階の受付に向かう階段を上っていくと,被告人が階段の踊り場の椅子に座って携帯電話をいじっていたが,告訴人はそのまま知らないふりをして階段を上っていき,サウナに入ったという事実である。

 以上の事実を前提として検討すると,もし仮に,被告人が,当時,告訴人に自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたならば,前記のように,脱会支援者や宮村が一緒にいる車を追いかけたりはせず,むしろ,告訴人が居住しているマンションを訪問して,告訴人に話しかけようと考えるのが合理的かつ自然である。

 また,仮に,当初から,上記車を追跡して,その外出先において告訴人に話しかける意思ないし目的を有していたならば,サウナセンターの出入口付近の階段踊り場などで待たずに,最初からサウナに入り,公訴事実5の後段の受付付近において告訴人が出てくるのを待ったはずである。

 しかし,実際の被告人の行動は,前記認定のとおり,上記車に告訴人が乗っているという明確な認識がないのに,脱会支援者の女性が乗っていることを認識していながら,上記車を追跡し,その外出先のサウナセンターの出入口付近の階段踊り場に,わざわざ先回りしたにもかかわらず,被告人の目の前を通り過ぎた告訴人に対し,何ら話しかけようともせず,ただ携帯電話をいじっていたというのであるから,
 かかる被告人の行動は,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有する者の行動として,極めて不自然かつ不合理である以上,少なくとも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的があったとするには,合理的疑いがあるというべきである。

 また,以下の被告人の公判廷供述からも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的がなかったことは,明らかである。

 すなわち,被告人は,公訴事実4の後,同5の日までの間に1度だけ判明したKの居場所に行ったことがあり,そのときも,同所に前記習志野ナンバーの車が停まっているのを見て(乙12・原審記録1378丁,第8回公判被告人調書23頁),脱会支援者の車かどうか関心を持っていたところ,公訴事実5の日に,その車に乗り込む女性を目撃し,告訴人の脱会支援者の一人なのだろうか,あるいは日が暮れたので,習志野方面に帰るのだろうかと関心が膨らみ,その脱会支援者が,どのような人で,どこに行くのか,Kに限らず他の拉致監禁事件で苦しんでいる人のために何か役立つ情報が得られるかもしれないと思い,その車の後をつけることにしたというものである(第6回公判被告人調書62頁,第8回公判被告人調書25頁)。

 すると,その車は,被告人の予想に反し,宮村の家の前に停まったが,このとき,被告人は,宮村宅前で,誰が車に乗り降りしたか,全く見ることができず(乙12・原審記録1378~1379丁),車に誰が乗っているのか,ますます関心が膨らみ,さらに同車の後を追跡したところ,結局,同車は,公訴事実5のサウナセンターの駐車場に入ったので,車に誰が乗っていたのか確認するため,サウナセンターの階段途中にあった踊り場の椅子に座って,彼らが来るのを待ったというものである(乙12・原審記録1379丁,第6回公判被告人62頁,第8回公判被告人26~27頁)。

 このように,被告人が前記椅子に座った理由は,前記車に,K氏の脱会支援者が乗っていると思い,その支援者が如何なる人物か,またどこに行くのかが気になって追いかけた結果,行き着いた場所が,前記サウナセンターであり,その人物の「顔を割るために」,前記椅子に座ったというのであるから(乙12・原審記録1379丁,第8回公判被告人27頁)このときの被告人は,告訴人の存在すら認識していなかった以上,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していなかったことは明らかである。

 したがって,公訴事実5の行為当時の被告人が,告訴人に対し,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を有していたと認定した原判決には,事実誤認があったと言え,かかる事実誤認は,「待ちぶせ」の認定に関わるため,判決に影響を及ぼす重大な事実誤認であって,これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

(7)まとめ

 以上,公訴事実1ないし5前段における被告人の各行為はいずれも,自らの気持ちを伝える意思ないし目的を持った行為と言うにはあまりに不自然であり,上記意思ないし目的を持っていたと認定できるほど合理的な疑いのない証明がなされたとは言えない。

 よって,ストーカー規制法上の「待ち伏せ」には当たらないというべきである。
 そうすると,ストーカー規制法上の「つきまとい等を反復した」という要件にもあたらないこととなり,結果として,被告人の行為は,ストーカー行為にはならないと解すべきである。 
 

-続く-


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-すべての教会員&統一に反対する家族はぜひ読んでください-



 12年間監禁されていた後藤徹氏の証言がブログ「拉致監禁by宮村の裁判記録」にアップされるようになった。すべての教会員は読むべし!(これまでに紹介したあとに、アップされたもの)

「原告後藤徹氏本人尋問(反対尋問 山口貴士弁護士編)-オタク弁護士のマニアックな質問に『何をおっしゃりたいんですか』と質問する裁判長」
「後藤徹氏兄の尋問傍聴記録-『続けてください』(裁判長)5連発」

(続く)



感想:私がブログで「拉致監禁問題」を取り上げないとイチャモンをつけていた「奇知外記」「韓流サッカーをエンジョイ」のpeace君と「ひだまり」のくろねこさん。宇佐美さんの上告趣意書のアップを再開したというのに、後藤裁判の証言録がアップされているというのに知らん顔。民度、低すぎ。ヘドロはどこまでいってもヘドロだなぁ。
 それに比べて、後藤裁判のことを取り上げている「いつも私のとなりに~」の松戸教会の総務部長さんは、ヘドロを洗い流したみたい。「彼は法廷で嘘をつき続けた。。。「統一教会は嘘つき集団」と言っていた兄の虚言! 【後藤裁判】」。ただ、この人のブログは日本語表記ではあり得ない、行頭ではなく行末を揃えるので、読みにくい。何度か注意してあげているのだが。


いよいよ、詐欺師の馬渕氏が御言葉で金儲け開始!

 馬渕氏が「MCI公式ブログ」で、ついに仮面を脱ぎ、金集めを開始した。
 「残り21日!あなたは『新堕落論?』を知るべき人か?」
 口上が笑えるほどに香具師そのもの。

(引用はじめ)
先回お知らせしました様に、本日、5月16日(木)からセミナーの前日、6月5日までの21日間を、新堕落論?公開キャンペーン「カウントダウン21」というPR期間として特別に設定しまして、さらなる(出来うる限りの)事前情報を提供させて頂きます。

ということで、今日からいよいよ、カウントダウン21日です。
とにかく、泣いても笑ってもあと21日です。
私としては、精一杯のところで提供させて頂きますので、何卒、宜しくお願いします。

(引用終わり) 

♪さあ、鬼が出るか蛇が出るか。入場締め切りはあと2分だよ。
 え~い!木戸銭はもう半額にしちゃう。精一杯のところで勉強させていただきます。♫

 馬渕氏にお金を払いたいのだったら、どうぞご自由に。
 その前に--。
 彼が何を示すかを無料で提供しますので、遠慮なく、個人メールで申し込んでください。それを読んでから、彼の金儲けに協力にしても遅くはありません(苦笑)

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コメント

統一教会食口の考えの、耐えられない軽さ。

よね様、ご機嫌よう。

私、今大変悩んでおります。ええ、子育てに関して。
宅の養っております子豚、マーク(小学校低学年、♂)。実は勉強が大好きなんですの。
1年ほど前から懇願されまして、子供たちに大人気の、あの○○じろうの通信教育をやらせております。(これが結構お高く、我が家の家計を圧迫しています。)

ところが、一ヶ月分の教材が届きますとね、それを一日で全部やってしまうんですの。
この年齢から勉強好きなんて、将来が心配です。

えっ?下らない子供の自慢話は、よそでやってくれ!!って。
ノンノン、ここからが本題ですのよ。

実は、このマーク。こんなにも勉強好きなのに、「小学校低学年で、この点数はあり得へんやろ!?」ってな、成績を取ってくるんですの。通信簿は、二重丸(甲乙丙の甲、ね)が4個か5個のみ。しかも、現在の趣味は「あやとり」。好きなアニメは○エモン、とくればもう将来は「のび○か!?」と心配するのは必然、でございましょう。

と言うことで、上記の内容、一部訂正。勉強好きなのにあまりにも報われず、将来がマジで心配です。

ふうっ。よね様は有名大学をご卒業なさった才子。また、今はご母堂様の介護を熱心にされている孝子、でもあられます。今度ぜひ、ご幼少のみぎりのお話等、ブログにアップして下されば、参考にさせていただきたく存じます。

さて、ここまでが前振りです。
ってか、食前酒みたいなものね。つまり、ちょっと酔っぱらいでもしないと、語れない、というか。

そう、宇佐美さんの件、ですね。
私、実は拉致監禁裁判の後藤さんの件に引き続き、この宇佐美冤罪事件に関しても、火の粉ブログを読みますと、強烈な感情を引き起こされるんです。

何故ならば・・・私も「統一教会」の名のもとに、逮捕され、刑務所に入れられた経験があるからなんです!!(なんか、嘘っぽく聞こえる?)ただし、日本で、ではございません。

以前にも申しましたように、私、統一教会内では極めてありふれた「宣教師」なるタイトルを保持しております。つまり、過去に宣教国にて「お前、統一教会の信者やろ。見せしめに逮捕してやる!!」となり、裁判も経ずにいきなりかの国の刑務所に放り込まれたんですの。

ええ、私一人でではございませんでして、計10数名が一網打尽にされました。
刑務所に入る前に、ですね。まず、空港の出国カウンターで拘束され、「HOLD ROOM」なる場所に放り込まれました。何故出国の際、統一教会の信者だと分かったかと言うと、私たちが日本人女性だったということと、パスポートの中の、ある国の入国スタンプを見られた、これだけです。つまり、逮捕されたその時、かの国で私たち食口は迫害の嵐の渦中におり、日本女性で、ある国にある時期滞在していたものが、ターゲットになっていたのでございます。(話し、ややこしい?そう言わんと、まあ聞いて。)

もちろん、なんも違法行為はしておりません。尋問ともいえないような簡単な調書(パソコンの画面をのぞいたら、”こいつは統一教会の信者で・・・うんぬんかんぬん”と書かれておりました。)を作成された後、囚人服にお着替え。

空港の「HOLD ROOM」を出る時は、手錠で数珠つなぎにされ、空港を引き回しの刑。そして、その夜遅く正真正銘の刑務所にぶち込まれた、という次第。

刑務所に入れられる時、なんか訳分からない注射をされたし。素っ裸にされて、両足の間まで見られる。頭髪もふりふりしろ、とか言われる。凶器、とか隠し持ってないか、多分調べるため?まあ、刑務官は女性でしたけど。ものっすごい屈辱的な経験でした。

ちなみに私、統一教会の信者である、という証拠物品は何一つ所持していなかったんですのよ。それで、この扱い!?

「お父様もかつてダンベリー刑務所に入られたじゃないか。」と必死で自分に言い聞かせて耐えました。

その後、一度別の刑務所(拘置所?)に移送された後、日本国に強制送還の刑!!

でね。先ほど私、「私も統一教会の名のもとに、逮捕され・・・」と書きましたね。
そう、宇佐美さんは私の認識では、統一教会員であるため、「見せしめに」逮捕されたんだ、ということなんですね。

ところが、また自分の話で恐縮なんですけど(一応謙遜しておきます。)、帰国してから愕然としたのは、さぞや仲間から同情されるだろう、と思いきや、「あの人たちは勝手な行動を取ったからこんなことになったのよ。」(by私を見捨てて逃げ去ったアベルA)、だの「外的に歩んでたから、逮捕されたのよ。」(同じ任地で歩んだ姉妹)だのと心無い誹謗中傷の嵐に取り巻かれたこと。

もし、もしもよ。篤実なクリスチャンだったら、迫害された仲間を見たならば、その仲間の背後に十字架に架けられたイエス様の面影を見るんじゃないか、と思うんですけど。どうも統一教会というところは、そうはならないようなんですの。

私たち逮捕されたメンバーの背後に、ダンベリーでのお父様の面影を見出した人は、一人もいなかったんですの。

私ね、よね様。あくまで仮定の話ですけど、食口が宇佐美冤罪事件に無関心なのは、彼が統一教会を代表した立場で見せしめにされている、とか、お父様のダンベリーの再来だ、とかっていう認識が極めて希薄で、食口が好きな「先祖の問題」とか、「慰安婦の蕩減」とか、個人的な信仰姿勢の問題、とかにされてるんじゃない?って思うんです。

私の所属教会でも、ほとんど語られることのないこの事件。火の粉ブログの良心的な読者諸兄のように、宇佐美さんが教会を代表して、ある意味全宗教的、全世界的な迫害を受けている、との認識を持ってらっしゃる方もいるでしょうが、そうでないボンクラ食口は、彼(宇佐美さん)の個人的問題だから、自分は関係ないも~ん、とか思ってる気がする。

こういう人たちは、その迫害がひとたび自分に向って襲いかかってきたならば、一瞬たりとも耐えることが出来ません。そう、すたこらさっさと逃げるんです。

ま、でもご安心くらはい。そういう人は神にもサタンにも魅力はないので、迫害されること自体極めてまれ、と言えるでしょう。

え?そういうお前は自分は魅力がある、って思ってる、ってか?

ふふっ、どうかしら。

と言うことで、私、宇佐美さんが無事戻られたならば、是非申し上げたい言葉があるんですけど、それはその時の為に大切に取っておきます。ただ、あなた様は統一教会のゆえに迫害されている、という私の見解はこの世界が崩れ落ちようとも変わることはありません、とだけ今は書くにとどめさせて頂きます。

Re: 統一教会食口の考えの、耐えられない軽さ。

「前振りの話」
 テストで間違う場合、問題文を正しく読むことができないためというのが、かなりの割合にのぼるそうです。

 江戸時代(?)から、教育で大切なのは「読み書き・算盤」といいます。テスト問題を解くより、読書が重要。本をよく読む子は試験問題文が正しく読み取れるのでは。
 算盤(算数)でつまずくのは、小4(数十年前はそうだった)から登場する割合、通分です。
「2分の1」+「3分の1」がどうして「6分の5」となるのか。
 これを理解するのは至難の技です。

 あっそれと、公文的なやり方は良くないみたいですよ。
 その昔取材で知った実話なのですが、小4で微分積分を完全マスターした「公文の神童」がいました。
 ところが、その子、高校に入る頃には公文で覚えたことはきれいさっぱり忘れ、数学が得意ではなくなっていたとか。

「食口さんの話」

 以下は、宇佐美さんと週刊実話の記者とのやりとりです。

-あなたは無実を勝ち取ることより、敏腕脱会屋の存在を世間に知らしめようとする統一教会に利用されたとは思いませんか。つまり“究極の献金システム”と反統一教会側から指摘される“祝福つぶし”を何とか阻止しようという教会側の犠牲になったと。「愛などなかった、信者の義務として探した」と言えば、ストーカー規制法違反での有罪にはならなかったのではないか。

「いや、むしろ教会は積極的に動いてくれませんでした。あの正月には、アベル(上司)がいないからとか言い逃れて、もっと機敏に動いてくれれば、彼女は棄教を迫られる前に家を脱出できたかもしれないのです。今となっては、結局みんなが不幸になってしまった。そんな思いです」

 統一教会員だったから逮捕されたという黒い羊さんの見方は正しいと思っています。

 それなのに、教会員の大半が宇佐美さんの冤罪事件に関心を示さない。何の感情も抱かない。
 黒い羊さんのタイトルをもじれば、「耐えがたいほどの感受性の欠如」です。

 こんなんで、自分のことを信仰者だと勝手に思い込んでいる。
「耐えがたいほどのバカ」というしかありませんね。

感受性の欠如は仕方ないよ。
そんな所なんだからさ。
最初から愛を求めるのは止めた方がいい。
再臨主と信じるなら、その信仰だけ持って周りは気にしないのがいい。
アドバイスは「周りは一切気にするな。自分の信じる通りに行け」ってとこだね。

隣は何を、、

なるほど、同じ日本教会のなかで他のシックが不当に苦しい目にあっていても、「隣は何をする人ぞ」という感じで関心を示さないどころか、先祖と本人の信仰が悪い!などと言って悪者にされるわけですね。

だったら、日本のシックが苦しんでいても、他国のシックがそれを助けようとしないのも、同じことですね。

人は人、自分は自分、自分がたまたま良い位置を得てお金もあるのは、先祖が良いからで、あのシックが苦しんでいるのは、先祖が悪いから?こういう考えはどこからきたんでしょうか。キリスト教の同胞主義ではないから、仏教の因果応報ですか?清平の影響もありそうです。

統一教会がそういう団体なら、聖霊降臨(ペンテコステ)など興るはずがありませんね。文先生昇天後は、ペンテコステがあって大復興がおこるなどと予言する人たちが確かいましたが、その方たちは今は何と言っているんでしょう?

隣に関心を抱く日本食口も!

 隣の苦悩に関心を抱く日本の食口がいることがわかり、少しうれしッです。

「ブームチャイのブログ」の記事「宇佐美さんの耐え難い屈辱」がそれです。
http://ameblo.jp/poomchai/entry-11531915748.html

 是非、ご一読を。

 なお、ブームチャイさんは、馬渕氏の詐欺師ぶりを自らの体験をもとに書かれた方です。



共産党員以下の良心レベル

>「つまみ食い的」は、法律文章として馴染めない形容句だろうが、「高裁判決文」と「控訴趣意書」とを比較して読めば、高裁の事実認定は明らかに「つまみ食い的」と形容する以外にない。


 米本さんが前回の記事のコメント欄で書かれたように、宇佐美さんの告訴、裁判問題、及び有罪判決の問題は 成績目当ての公安警察の暴挙と判検癒着によるものであることが露になったと思います。

 上告趣意書と高裁判決文、控訴棄却判決文とを読んで比較する限り どちらが論理的で事実に即しているか明白です。
 上告趣意書にある「つまみ食い的」という表現に米本さんも納得されましたが、私も素直に共感できる形容句だと思います。
 弁護人が上告趣意書において指摘した「原判決が行なった恋愛感情充足目的に関する事実認定に都合の良い事実のみを根拠事実として抽出する、‥‥」という裁判官の偏った「事実」の取捨選択は それが意図的なものではないかと疑わざるを得ない程露骨なものであり、如何にも不自然です。
そして、米本さんが見抜かれた その動機と目的の醜さには悪臭がプンプン漂っています。

 このような「仕組まれた」有罪判決が私達に見せてくれるものとは、弱者を食い物にしようとする人間の恐ろしい悪意であり、良心を捨て去った人間のエゴの醜さであります。
 過去の冤罪事件を探し出そうとすれば、結構見つかりますし、村木厚子・元厚生労働省局長の冤罪事件も記憶に新しいものです。
 
 宇佐美さんが受けたような判検癒着による冤罪は良心的な人、正義感を持った人にとっては許せないことであり、心が傷つけられる不幸な出来事です。
 しかし、その冤罪であることが間違いない宇佐美有罪判決に対し「教会員の大半が宇佐美さんの冤罪事件に関心を示さない。何の感情も抱かない。」と米本さんに指摘されたことを 真剣に考えなければなりません。

 前の記事のコメント欄に、米本さんが その考えられる理由を列挙してくださいましたが、現実として統一教会員の良心レベルがこのようなレベルであることは深刻な問題であると言わざるを得ません。
 以前の記事に 食口ブロガーに対し、教団本部のIT関係の担当者が「民度が低かったですねえ」と語ったと米本さんが書いておられましたが、特に統一教会本部を中心にこの問題を真剣に考えるべきです。

 これは日本統一教会員の全てに考えて欲しいことなのですが、
もし、宇佐美さんに降りかかったと同じことが日本共産党員、あるいは左翼組織の男性に降りかかったとしたら その共産党、左翼団体は その問題に対して静まりかえっているとお思いでしょうか?
 共産主義思想を前面に出してブログを毎日更新しているブロガー達がいたとしたら、その人達はその問題に一切触れもしないとお思いですか?

 自分の知っている限りでは、それこそ蜂の巣を突っついたような騒ぎになるとしか思えません。特に左翼学生運動が盛んな時代であったら 収集がつかない社会問題に発展する可能性さえあります。

 それを思うと、恐ろしい結論を導き出さざるを得ないのです。
つまり、日本統一教会全体としての良心基準は 共産主義組織の良心基準以下とみなさなければならないのです。
 米本さんが<こんなんで、自分のことを信仰者だと勝手に思い込んでいる。
「耐えがたいほどのバカ」というしかありませんね。>とコメントに書いたのは良心的な一般人の正直な感想であることを知るべきです。

 また、良心的な一般人が統一教会員の非情さを最大限に軽蔑してしまうような現状を知って、特に本部関係の指導者、教会の教育部長といった公職者が何も感じないとしたら、「統一教会の良心」は完全に死滅したという事が言えないでしょうか?

 このような宗教団体に一般人が憧れることなどあり得ないでしょうし、その信者達が理想世界を建設できるなどとは 誰も信じることはできないはずです。

米本さんから、前の記事の私のコメントに対し以下の意見を頂きました。
<ある教えを実践するために組織が生まれる。宗教に限らず、イデオロギー色の強い団体はみなそうです。
 そして、ある教えをその組織が実践していなければ、組織の構成員は怒ります。
 ところが、統一教会はそうではない。不思議な話です。>

私が<しかし、原理のエッセンスは今の統一教会とはかけ離れたところにありますから、統一原理が問題ではなく、現実の教会という組織に問題があることは間違いありません。>とコメントに書いた内容に対する米本さんの感想なのですが、この<統一原理と組織活動が乖離>しているという問題は統一教会という組織の本質を追究する上で、欠かせない問題でありますし、さらに発展させれば「宗教」自体の問題点とも関わってきますので 自分の考えを書き尽くそうとしたら かなり長文となってしまいます。

 ここで即座に答えられることは、<統一原理と組織活動が乖離>しているのは、信者の理性と組織の中での人間関係に対する依存心の働きを比べて、その人間関係に対する依存心が勝ってしまう為だと思われます。
 尚且つ、以前コメント欄の投稿文に書きましたように その組織の絶対的中心者であった文先生が統一原理と大きく異なる李氏朝鮮時代の儒教を思わせるような御言葉を語ることがしばしばあったものですから、その乖離は益々大きくなってしまったのです。

 また、統一教会員ではない米本さんには分かり辛いことなのですが、統一原理に含まれる蕩減復帰という理論が大変厄介でして、解釈によっては一般的には善とされること、悪とされることが逆転して捉えられ、非常識なことも肯定されてしまうのです。
 勿論、統一原理の基本である創造原理という理論は理想世界、地上天国について定義付けているのですが、それを実現する過程として一般常識に反する行為を実践することも肯定できる根拠となってしまうのです。

 しかし、その蕩減復帰原理は宗教性の強い理論でありながらも、最終的には創造原理に結び付く理論であり、非常識な宗教活動をして それが蕩減復帰摂理の理論に適っていると主張したとしても、その最終結果が(創造)原理的に善なるものでなければ それは蕩減復帰の行為ではなかったということになるのです。

 その辺りの解釈は結構複雑ですが、組織活動の最終的目的は理想世界、地上天国とされている訳ですから、その組織活動が統一原理と乖離しているかどうかは 理性を失わなければ、客観的に判断することが可能なのです。
 しかし 一方、理性の働きが弱く、人間信仰に偏った信徒は その蕩減復帰原理を拡大解釈してしまい、「スピッツ雌犬」や「頭がpeace」のような歪んだ人間も誕生してしまうのです。

 また、そのような理性的に生きるのは難しいという人間の弱点を利用して、教義を変形して悪用する「重臣」達がいる為、益々統一原理と組織活動が乖離することになってしまい、現在のような矛盾に満ちた統一教会に変わり果ててしまっていると言えるでしょう。

 しかし、統一原理を説いた原理講論については 今までコメントでも書いてきましたが部分的には現実と合致しない記述内容も発見できます。
 つまり、絶対的な教典、完璧な理論でないのは明らかであり、一字一句その文面を絶対化すると真理から遠ざかることになります。
 その原理講論も、実質的に完全な真理とは言えず、部分的な解釈は変更が必要です。
しかし、絶対的真理と確信することが出来、永遠不変の原理として考えられる部分がそこには存在するのです。

 私は、それが創造原理だと確信するのですが、それをここで断片的に説明しますと、暗在さんから哲学的な問いかけが飛んできそうですし、この問題を追究すると また記事のテーマから逸れた投稿となってしまいますので、その論述は別の機会にしたいと思います。

 ただ、今の統一教会には、組織の不協和音が拡大しているという問題のみでなく、教会の「生命」ともいえる「良心」が消えかかっているという深刻な問題も存在していることを全ての統一教会員は自覚する必要があります。

可笑しな原理解釈「アベル・カインの原則」

 統一教会員が「理性より人間関係に対する依存心が勝ってしまう」ことと統一原理の中にある蕩復帰原理の曲解が 統一原理と組織活動が乖離してしまう原因だと考えられるという内容を前のコメントに書きましたが、実例のない抽象的な論理になってしまい 特に米本さんには分かり辛かったのではないかと思います。

 そうしましたら、ブログ村「統一教会」の一つのブログの記事のタイトルが私の目に飛び込んできまして 滅多に見ないそのブログの記事を読んだところ、上の問題を説明するのに最適な例だと思いましたので、その記事の問題をとりあげながら説明致します。

 それは「アベル・カインの原則」ということです。
一般的な統一教会員、特に日本の教会員はこの「原則」というものに束縛されます。
そしてアベル=教会のリーダー、カイン=組織的下位の教会員という図式が作られ 下位の一般教会員は教会のリーダーに「従順に屈服」し、そのリーダーを絶対的な中心として「一体化」することが教会生活の基本だと思うようになります。

 例となるブログ記事を読めば、そのようなアベル・カインの図式を前提としていることがはっきりとわかります。
しかし、その記事のなかで 教会の中に「以外にわかっていない人が多い」として、「アベル・カインの原則」とは「中心とひとつになるということなのです。」と説いているのですが、その小節を読んだだけでも この方が原理講論をよく勉強していないこと、原理を曲解して 自分ではそれに拘っていることがよくわかります。

 そもそもアベル・カインという用語は原理講論の「アダムの家庭を中心とする復帰摂理」に出てくるものですが、そのアベルとカインの本来の意味さえこの方は理解できていません。
 原理講論を読めば、神が長子のカインと次子のアベルを善悪二つの表示体として分立されたのは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てさせる為であったことが書かれています。
 つまり、アベル・カインという用語の本来意味するところは「神が相対できる善の表示体」:「サタンが相対する悪の表示体」ということであって 相対的に善と悪を分立するための言葉なのです。

 原理講論の中にはそれに関連して「人間が常に立派な指導者や親友を探し求めようとするのは、結果的にみるならば、より天の側に近いアベル型の存在を求めて彼と一体化し、天の側に近く立とうとする天心から起こる行為である。」と書かれていますが、組織の指導者=アベル、組織の下位の者=カインなどという記述はどこにも見当たりません。

 統一教会内における組織的な上下関係は 神も干渉できない人間の5%の責任分担によって人事され、決定されたものであることは明らかですから その上位者と下位者の関係が原理的なアベル・カインの関係を意味しないというのは当然のことです。

 教会組織の中心者とは あくまで社会的な組織として体制を保持する為に職権を与えられた人物ということであって、形式的な位置づけに過ぎません。そこに善悪分立の概念であるアベル・カインの関係を当てはめ、無理矢理 教会の中心者=アベル、一般信徒=カインという考えかたをするのは強引であり、論理的にも間違っています。

 キリスト教国の歴史にも王権神授説という骨董品のような政治思想がありましたが、当然それは否定されていくようになりました。
 その王権神授説や教会のリーダー=アベルという考え方をするような間違いが起きるのは 原理講論が説いている「神も干渉できない人間の5%」という人間の責任分担の理論を理解できていない為であると言うことができます。
 組織運営の為に人事担当者によって人事された教会のリーダーが、神様から見たアベル型人物であるというような理屈は成り立たないのです。

 従って、例のブログにおいて「アベル・カインの原則」などと論じていても、そもそもアベル・カインの意味さえ理解できていないのです。
されに付け加えれば、アベル・カインとは神の視点からの観点でありますから、単純に人間的に判断できない場合もあり、内面的な意味合いも強く「原則」などといって形式化できるものでもないのです。

 つまり、例のブログに書かれている「アベル・カインの原則」は用語の前提からして間違っており、書いた人は原理講論さえ理解できていないのです。
 しかし、その方は教会のスタッフで教育と総務を担当しているということですから、マジで驚きます。

 結局、そのような原理講論の曲解と その実践によって出来上がる人間関係及び組織活動によって、統一原理と組織活動が乖離してしまう結果となるのです。
そして、統一原理の尤も重要な理論は、組織活動においては実践されなくなったりするのが現状の統一教会なのです。

 米本さんも 上の例にあげたブログのことは度々取り上げましたが、拉致監禁の問題をキチンと書いたりしていますので、あまり悪いことは書きたくないのですが 間違った原理解釈を見過ごすことはできません。
もし、このコメントを読んだとしたらご理解願いたいと思います。

 最後にそのブログ記事を読んだ素直な感想です。
米本さんが何度か書かれたように、文節の末端を揃えたレイアウトは読み辛いし、いただけません。あえて米本さんの助言を無視しているのかも知れませんが、そんなところにも頑なな性格が表れています。

 「まさに、芸術的なお父様なのです。」という記述には思わず笑ってしまいました。
文節の末端を揃えるようなセンスのない人が「芸術的」という言葉を使うとは、正しくシュールレアリズムの世界です。芸術的と褒められた人が可愛そうです。
 その教会スタッフ様は もっと知性とセンスを磨きましょう!

個人に対してとやかく言うよりも、責任者になった方が早いよ?

責任者になって自分が思うようにやればいい。

自己破産するまで、罪滅ぼし

 神々の黄昏さんの「共産党員以下の良心レベル」を読んで。

 コメントのコメント、感謝です。

>その蕩減復帰原理は宗教性の強い理論でありながらも、最終的には創造原理に結び付く理論であり、非常識な宗教活動をして それが蕩減復帰摂理の理論に適っていると主張したとしても、その最終結果が(創造)原理的に善なるものでなければ それは蕩減復帰の行為ではなかったということになるのです。

 統一原理については無知ゆえ、オカド違いになるかもしれませんが、この記述を読んで考えたことです。

 統一さんは「罪滅ぼし」とか「罪を償う」とった言葉が大好き。というか、蕩減用語にものすごく呪縛されているように思えます。

 一般的に、「罪を償わなければならない」といった深刻な事態になった場合、まず自分はどんな罪を犯したのか、イメージではなく、具体的事実に即して真剣に考えます。
 そして、そのことが認識できれば、その罪の質に見合った罪の償いをします。

 たとえば、心ない言葉によって、他の人を傷つけたのなら、その人の心の傷が癒えるような形で謝罪し、同時に、「どうして自分は他の人を傷つけるような言葉を発したのか」内省し、自分の欠点を克服しようと考えます。それによって、ときには傷つけた相手とよりよい人間関係が結ばれることだってある。

 内省と謝罪は対の関係にあり、内省なき謝罪、謝罪なき内省は全く意味がありません。

 このように考えていくと、「罪を償う」という行為は、人間を成長させます。

 この意味で、次の一文は理解不能でした。

>統一原理に含まれる蕩減復帰という理論が大変厄介でして、解釈によっては一般的には善とされること、悪とされることが逆転して捉えられ、非常識なことも肯定されてしまうのです。

 非常識が肯定されるような理論は、理論としては欠陥だと思います。


 ところで、今の統一さんの「蕩減」は、罪がきわめて曖昧模糊としており、イメージ的すぎる。
 人間的営為に結びつかないどころか、教会員を苦しめている。
 罪を償うという行為が貨幣(財布)と直結し、滑稽なことにトーゲンの結果、自己破産をもたらしている。罪を償った結果、その人が不幸になる。一般社会では信じられない話です。

 だいたい教祖が亡くなれば、2代目が中心になって、矛盾や欠陥もあった教義を整理整頓し、時代にふさわしいものに発展させるものです。そうした宗教団体は伸び、そうでない団体は滅びていく。
 統一の場合、後者の道を歩んでいるように思えます。

 舌足らずで、メンゴであります。

となりの困ったさん

 神々の黄昏さんが紹介してくれた「いつも私のとなりに神さま」の記事を読んで、つい笑ってしまいました。
http://uc-itsumokamisama.seesaa.net/article/362851598.html

 統一原理のことは知らなくても、矛盾したことに気がつかず、述べていることがわかるからです。

(引用はじめ)
アベルカインというのは、原則ですが、以外に(ママ、正しくは意外に)わかっていない人が多いと思います。中心とひとつになるということなのです。
(引用終わり)

(引用はじめ)
アベルはカインに対して「あなたたちは間違っている。カインはこうあるべきだ。絶対従順!」
そのようにして、み言を利用して相手を裁いてしまうのです。
(引用終わり)

 中心が誰を指すかは文脈によって異なるようですが、教会単位なら教会長、組織全体なら韓鶴子氏でしょう。
「中心と一つになる」ということは、具体的にいえば「中心の心と一つになる」「中心が願っていることと一つになる」というでしょう。

 中心にいる韓鶴子氏とて、神ではなく、たんなる教祖の妻だから、間違ったことを指示する場合もあります。

 その指示に従わなければ、当然、「中心と一つになっていない」と、上司は部下を叱責し、それでも中心に服従しなければ裁きます。

 それは当然のことです。

 省の事務次官-部長-課長-係長-係員の関係と同じです。本来なら、事務次官と一つとなって、省をあげて一つのことに取り組み、邁進しなければならない。しかし、事務次官の方針が間違っていれば、係員はサボタージュします。そうなれば、上司は係員を裁く。
 世俗では、よく行われていることです。

 となりさんは、イメージをもとにブログを綴るから、困ったさんです。

>米本さんが何度か書かれたように、文節の末端を揃えたレイアウトは読み辛いし、いただけません。あえて米本さんの助言を無視しているのかも知れませんが、そんなところにも頑なな性格が表れています。

 となりさんのお子が父さんの真似をして、原稿用紙に文節の末端を揃えて文を書いたらどうなるのか。彼は、そんなことを想ったことはないのでしょう。
 ちょっと溜め息が出ます。

 2世教育云々と、スコラ的なことを書くのであれば、原稿用紙の正しい書き方のお手本を子どもに示すことのほうが大切だと思うのですが・・・(泣

 ところで、aさんが神々の黄昏さんに、こんなことを書いていました。(aさん、タイトルはつけて)

>個人に対してとやかく言うよりも、責任者になった方が早いよ?
責任者になって自分が思うようにやればいい。

 気分感情はわからないでもないのですが(感情には劣情感がある)、今の統一さんで、統一原理のことを真面目に真剣に考えている人が責任者になれるとお思いですか。

「統一原理のことを真面目に真剣に考えている」教会員は、ほとんどすべてと言っていいほど、統一から離れています。

 そのシンボル的なエピソード。
 元会長の神山さんがアメリカの神学校で学んだ10名前後の教会員を日本・統一の教会長にしたことがあったけど、ほぼ全員が統一から退会してしまった。

 統一原理のことを真面目に考えている人は、スポイルされるのです。おそらく、ご存知だと思いますが。

 個人的なことになるけど、勝共の渡辺芳雄さんあたりが日本の教会長になれば、雰囲気ばかりか、人の配置は全く変わると思っております。

 まあ、統一さんが消滅しないための最後の砦になるような人は数人いますが、今のままだと「神々の黄昏」さんが責任職につくようなことは100%ないでしょうね。

 ところで、オルタナティブ。
 神々の黄昏さん、ブログを開設しませんか。
 タイトルは「統一原理を考える」
 座して崩壊を見るよりは、ダメ元で発信したほうがいいと考えます。
 どうかご検討を!

 翔子さんも、きっと大賛成ですよ(ニカッ)。

「蕩減復帰原理」の追加説明

>この意味で、次の一文は理解不能でした。

>>統一原理に含まれる蕩減復帰という理論が大変厄介でして、解釈によっては一般的には善とされること、悪とされることが逆転して捉えられ、非常識なことも肯定されてしまうのです。

> 非常識が肯定されるような理論は、理論としては欠陥だと思います。


 米本さんは「統一原理については無知ゆえ‥‥」と仰いますが、文章の中にある問題点を見抜くその鋭さは 流石その道のプロであると感服しております。

 自分で書いたコメントを後で読み返して、表現としては不適切な部分があったように思われて、正しく意味が伝わるか不安を抱いたその一節や、説明が抽象的で意味不明となってしまった文章については 度々、その問題ある一文を指摘されることがあります。

 今回も、まさしくそのような問題ある一節を指摘されてしまいました。
しかし、丁度よい釈明の機会ですので 指摘された一文の内容を もう少し詳しく説明しようと思います。

 まず、「蕩減復帰という理論が大変厄介」であるというのは、決して難解であるという意味ではありません。
 それは 統一原理の歴史観がキリスト教的であり、出発点において人類始祖が堕落したことになっている為、そこから生み出された人類は堕落人間であり、その社会は堕落した社会であるというものであり、進化論的な人間観、歴史観とは大きく異なっているのです。
 その為、その人類始祖が堕落したという前提に立った蕩減復帰の理論は その人類の堕落を信じない一般人には理解し辛い理論であり、説明するのに手間がかかることになります。
さらに、その中心テーマが罪と贖罪、善と悪という宗教的で、抽象的な題材である為 解釈が分かれたり、拡大解釈されたりする恐れもあり、的確に理解する為には ある程度の思考力が必要なのです。

 そこで蕩減復帰原理について述べれば、蕩減復帰の理論から判断する善なる行為、悪なる行為とは 一般的な道徳と必ずしも一致しないのです。
 つまり、現実社会が悪なる社会であり 一般的な人々も堕落人間であるという観点が前提ですから、一般社会や一般の人々を否定するような行為も時として善として肯定される場合があるのです。

 そういう意味では、共産主義思想の革命理論と似た側面があり、その現実社会=悪という発想を参考にすることもできます。
 統一原理の歴史観では ユダヤ教(イスラエル民族)→キリスト教会(国家)→統一教会というのが神側に立つ善の本体ということになりますから、その善の本体に敵対するサタン側の勢力を攻撃することは 神によって肯定されることにもなります。

 その典型的な例としては モーセの時代、イスラエル民族がカナンの地域に王国を建設する為に、それまでそこを領有していた31の王国と戦争して侵略したことや、そこに住んでいた住民をミナゴロシにしたことは蕩減復帰原理の歴史観に立てば善なる行為とされるのです。
 また、アブラハムの時代、アブラハムの正妻との一人息子であるイサクを「はん祭として捧げよ」という神の命令を受けたアブラハムが、その生きた我が子をコロして宗教的な供え物として捧げようとしたその行為も 完全に善なる行為となるのです。
 その実子をいけにえにする行為などは 非常識という言葉では済まされない程、常識離れしていますが、蕩減復帰原理によれば 論理的に正当化されるのです。

 ちなみに、米本さんには断っておきますが アブラハムがその子イサクをはん祭として捧げるためコロそうとした時、神は「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と言われて、結局神は イサクコロすなと命令を変えたのです。ご安心ください。

 そのような例にあげた、一般的な常識的道徳からは決して肯定されないことが、蕩減復帰の理論を基に考えれば肯定されることになるのです。

 しかし、そのような極端な例は 時代背景とも関連した特殊なものであり 蕩減復帰原理によっても、現代社会においては同様のことは肯定されなくなります。
つまり、蕩減復帰の思想に従えば 時代と共に善悪の基準も変わることになるのです。

 ただ、そのような複雑な善悪観に立っている為、思考力の足りない人、あるいは浅い人は蕩減復帰原理を拡大解釈して、「アベル・カインの原則」などという屁理屈を作ってしまうこともある訳です。

 この蕩減復帰の思想は、キリスト教的な観点に立たなければ理解できない宗教的なもので、その前提が変わってしまうと その思想に対する真偽の判断も変わってしまうので、大変厄介な理論とも言えるのです。

 次に「a」さんの私のコメントに対する意見には、暗在さんの場合と違って 反応する気さえ起こりませんが、米本さんがそのことに触れたので一言申し上げたいと思います。

 そこに書かれている内容自体「a」さんの読解力に疑問が沸いてくるコメントです。
私が他の人の原理解釈について追究するのは、そこに明らかな間違いがあるからであり、その間違いを指摘し、批判しながら 自分が考える正しい原理の捉え方を説明するのは、その人の思考を深める材料になるであろうし、それを読む第三者の統一原理に対する理解を深める参考にもなると思うからです。

 つまり、私が自分の組織運営方法をアピールする目的でコメントを書いているのではないことは 人並みの読解力があれば理解できるはずです。

 私がコメントを通して伝えたいと思う意思は「真理、真実発見しよう」ということであって、それによってしか統一教会が変わることはないと思っているのです。

「a」さんは あまり真理追究には関心がなさそうで、「相対基準が合わない」人との議論に時間を割くほど私も暇ではないので、これ以上何もコメントする気になれませんが、最後に一言だけ差し上げます。「読解力を磨きましょう!」

 そして、米本さんからブログの開設を勧められましたが、諸事情から実名を出して記事を書くことはできませんので、その資格がないと思っています。
また 統一原理については、絶対真理であるという確信がある部分がある一方、真偽を判断しかねる部分が多くあり、考察中ですので どこまで統一教会という組織を肯定できて、どれだけ否定できるかも定かではないので、断定して言えることはまだ少ないのです。

 それに加えて時間的な問題もあり、まだその意思がないとお伝え致します。
しばらくは、米本さんと仲良くやって行こうと思いますので、宜しくお願い致します。
 

米本さん、神々の黄昏さん

米本さん、
宇佐美さん裁判について(下)まで読ませていただきました。
婚約者として良好な関係の最中に突然姿を消して後、間接的に脱会届と離婚書類を送付したのみという背景が問題で、人間の(相手側の)持つ偏見と不信感を考えさせられました。



神々の黄昏さん、
多くの各論コメント(具体的な事柄についてのご意見ご考察)、関心しております。
それらに関して、私めはほぼ何も言うことはございません。
世の中では“総論賛成、各論反対”などとよく申しますが、神々の黄昏さんに関しては、どちらかというとその逆で、各論賛成、総論は「?」

以下、伝わるか分からず、書きにくいのですが、フランクに、気になったことなど書かせていただきます。(ほぼ私の問題です)

>タイトル:共産党員以下の良心レベル
>それを思うと、恐ろしい結論を導き出さざるを得ないのです。
>つまり、日本統一教会全体としての良心基準は 共産主義組織の良心基準以下とみなさなければならないのです。//

もしたとえそうだとしても、そんなに恐ろしい結論なんですか。共産党員・共産主義組織をずいぶんザックリ下に見ている前提が感じられるのです。
確かにこの部分は具体的な事柄からの流れで読めば別にそれほどではないのですが、以前今年の初め頃でしょうか、黄昏さんの以下のような発言があって、増幅されました。

>「そのように考えますと、ブログ村で話題にされている「強制移動」の問題は、明らかに四位基台の理念に反する行為です。
>根本的な信仰は同じであるにも関わらず、狭い組織的な利害関係から仮想の敵を作り、議論を重ねるよりも相手を排除することを優先する思想は完全に統一原理の思想に反しており、共産主義的な弁証法的思想そのものです。 //

いきなり共産主義がでた。“共産主義的な弁証法的思想そのもの”はそんなに悪いものではないのでは。少なくても全否定するものなのか。
人類の尊い精神史の一部であることは間違いないと思いますが。

そして今度はこれが:
>文節の末端を揃えるようなセンスのない人が「芸術的」という言葉を使うとは、正しくシュールレアリズムの世界です。芸術的と褒められた人が可愛そうです。 //

「なんともシュールな世界です」位だったら、言いたいことはわかるので、なんとも思わないですが、「シュールレアリズム」と正式名称でこられると。
シュールレアリズムがどうしようもない無価値なものに貶められているような印象を持ちました。
昔だいぶ読んだのですが、シュールレアリズムも人類の尊い精神・芸術史の一部だと思います。

これらは話の大筋とは関係なく、言葉尻、文章尻を捉えたようなもので、申し訳ないのですが、言いたいことは、「なにかを悪者にする、下を探し出す」という構造・カタチのことです。
こういうのが気になるということは、私自身にそれがあるということです。少なくてもそういう世界に居る、浸かっている。そんなつもりはなかったけれども、何か精神に盲点的な落ち込み・け躓きがある。社会的落ち込みといってもいい。
それは何か外のものを否定しているようでいて、自分自身を分離していることになり、自分の一部を否定して切リ捨てていることだと分かりました。(ちょっと何いってるかわかんない:もう一度いってみろ/どっからだよッ byサンドウィッチマン)
自分の偏見・先入見が壁のようになって世界をナローにしている。壁を壊してそこから出たい、それを手放したいと意志します。
自分に残っていた目に見えない微細な、捉えにくい盲点を捉えることができて感謝します。

神々の黄昏さんには、偏見の実体はないと思います。ただたまに形骸的に文章尻にそれらしきものが?(いろいろ事情がおありかと思いますが)
もし何か形骸・殻があって、蟹々の黄昏になると、もったいないと思うので、殻があれば破ってください。

統一原理と組織活動の乖離問題

 私が米本さんの意見に対する応答の続きを投稿しようとしたら、暗在翔子さんのコメントが飛び込んできていました。
 正直、困ってしまいました。暗在さんの問いかけは面白すぎて、話に引きずり込まれそうなのです。
シュールレアリズムについても然りです。
しかし、逆に返答したい内容が多すぎて すぐ、簡単な言葉では返答できないのです。
 丁度、プロ野球選手のバッターが ピッチャーからど真ん中の直球が来た時、瞬間的に手が出なくなるのと似たような状態です。
 しかし、時間の関係もあるので、ここは我慢して 米本さんへの返答を先に書きたいと思います。
 いずれ、その他の多くの問題に関しても暗在さんの問いかけに対する応答のような内容は投稿しようと思います。

 私の前のコメントでは、米本さんに蕩減復帰という思想の厄介さを説明したのですが、最初に米本さんが提起された問題点「統一原理と組織活動が乖離している」のは何故か、という疑問に対する答えとしては不充分なので 一応、簡単であっても完結した答えにしたいと思います。

 そして、その原因を究明することは、何が統一教会の最大の問題点なのかを明確化することにもなり、統一教会が反社会的団体として危険視され、信者の親族が拉致監禁を決行するまでに至らせてしまうその教会としての根本原因を発見することにも繋がります。

 つまり、信者が拉致監禁されるまで危険視される「カルト宗教」でなくなるようにするにはどうしたらよいのか、という問題を解く鍵になるとも言えるので、米本さんのブログと全く無関係でもありません。

 前のコメントで、蕩減復帰原理についてその特色を大まかに説明したのですが、その蕩減復帰という思想があったとしても、その思想だけでは統一原理と組織活動が全く乖離するようにはなりません。
 原罪をもつとされる堕落人間がメシヤ(真の父母)によって原罪を清算することや、遺伝罪(先祖の罪)、連帯罪(共同体の一員としての罪)を清算する為の蕩減条件(贖罪の条件)は米本さんが書かれた「その罪の質に見合った罪の償い」と同じような理屈で その蕩減条件が決定されます。

 従って、それは全く理不尽な条件を要求されることにはならず、基本的に犯した罪を清算できる内容を備えた善なる行為が蕩減条件となります。
 蕩減条件を例えれば、製造会社が欠陥商品を製造して それが原因で購買客が健康を害したり、損害を被ったとしたら、その製造会社が社会的信頼を取り戻す為には 損害賠償金を支払ったり、原因を究明して謝罪し、改善処置を発表したりしなければならなくなります。
 それらは、犯したミスに対しての蕩減条件ということで、蕩減復帰原理と同じ理屈です。

 基本的に蕩減条件を立てるということは、善なる行為によって悪なる行為やその結果を清算するということで、その蕩減復帰という思想が社会的に非難される行為を犯す原因になることはありません。
 しかし、前に書いたように 人間は堕落しているという前提に立つと、戦争が肯定されるような根拠となってしまうことがあるのも確かです。
それでは、その場合 どの戦争は肯定されて、そこにどんな蕩減復帰原理が働いているのかという問題は、やはり複雑なので、ここで説明することはしません。
ここでは統一教会の問題と関係する事柄だけを説明しようと思います。

 統一教会員が蕩減復帰という言葉を理解する内容は、個人的次元の問題の場合と教会組織次元の問題の場合では 全く違った捉え方をする場合が多いのです。
 つまり、個人的次元では 原理の基本に沿った蕩減復帰の考え方をするのですが、教会組織次元の問題では全く違った、原理と矛盾するような蕩減復帰の考え方をしてしまうのです。

 米本さんが、献金による自己破産の問題を書きましたが、何か宗教的な問題が生じた場合、それに対する蕩減条件は 日本の統一教会においてはほとんどの場合、献金が蕩減条件となり、高額な数字まで決められた献金が要求されます。
 そして、それを捧げなければ 蕩減条件が満たされないというような言い方をされることさえあるのです。

 しかし、それが果たして蕩減復帰原理に適っているのだろうかと考えた場合、それは違うとしか考えられないのです。
 その献金の条件によって宗教的な目的が達成されるなどという理屈は全く説得力がないのです。
 それでは、何故そのような原理と矛盾したことが統一教会組織として行われてしまうのかと考えれば、それは「復帰摂理」という教義に原因があることがわかるのです。
 教会内部では 簡単に「摂理」という言い方がされますが、この「摂理」というものの考え方こそが統一原理と組織活動が乖離する最大の原因なのです。

 摂理という言葉の本来の意味は、神の意志、神の計画というような意味です。一般的なキリスト教内においてもその言葉が使われたりしますが、抽象的な意味で使われることがほとんどです。
その摂理というものを具体的に しかも断定的に語るのは統一教会の最大の特徴とも言えるでしょう。

 統一教会内においては 文先生が神格化され、文先生は神様の心情とその意思、ご計画もすべてご存知だということになっています。
 その為、文先生が「天の摂理」として教会員に指令を出せば それを神の願いとして教会員は否応なく それに従わざるを得ません。
 しかも、それが原理的に理解し辛い内容であったとしても 文先生が神の代身であるという信仰をもっていますから、何か深い理由があるのだろうという自問自答で疑問を解決し その指令を摂理として実践してしまうのです。

 その為、結果として理解し難い、非常識な指令(高額献金、韓国人中心の人事等)があったとしても、統一教会員はそれを拒むことができず、客観的にみれば統一原理と組織活動が乖離するような結果となってしまうのです。
 米本さんが「指示待ち食口が体質化してしまったのではないか。」と書いた問題点も その天の摂理を絶対視する思考に原因があると言えます。
 さらに言えば、教会員が拉致監禁問題に関心を示さないのは 創造原理的な良心よりも摂理に対する意識が強く、それが摂理であるという指示が来ない為 積極的に関わろうとしないのだと思います。
 従って、献金することよりも拉致監禁の問題を解決するほうが優先だというような「天の摂理」が伝えられたら、教会員は一斉に拉致監禁問題に取り組むようになるはずです。

 しかし、私は 文先生が神の「摂理」をすべてご存知だという考えは間違っていると思います。
 それは、原理講論にも間違った部分があるという事実や今までなされてきた統一教会の「摂理」が決して理想世界の建設に結び付いたものでなかったという現実をみても判断することができます。
 そして、それらの釈明としての 食口の責任分担が果たされなかった為だという理由は全く説得力がありません。
 文先生自身が、苦闘しながら原理を発見したと言われている真実や、神様だったらどう考えるだろうかという思考を重ねて、意思決定をされているという真実を参照させても、統一教会の言う「天の摂理」が100%神の「摂理」でないのは明らかです。

 つまり、過去の歴史を蕩減復帰摂理として説明できたとしても、未来の摂理ついては人間の力ではそれを断定することはできないのです。
そして、それは、当然文先生についても言えることなのです。
その、間違った文先生の神格化というものを是正することが、統一教会が統一原理の最も重要な理論を実践する第一歩になることは間違いないと思うのです。

 

統一教会の真と偽

 関係者の全てを不幸に陥れる拉致監禁という犯罪行為のルポを書かれる米本さんが その過程で統一教会自体がもつ様々な矛盾を発見し、その現実的問題に関しても追及され、意見を述べられるのは当然の成り行きであり、その問題指摘の観点は興味深いものばかりです。
また それは、統一教会という一宗教団体の矛盾に止まらず、宗教というものの本質にメスを入れるような問題を提起していることもあり、宗教に関わっている人間からすれば、どこまでもそれを追究したくなる話題が多いのです。

 特に、統一教会の場合は その宗教がもつ 良い面、悪い面が極端な形で現れ、宗教そのものの本質を追及する上でも重要な問題を明確に提起しています。
 特に、「統一原理と組織活動が乖離している」のは何故かという問題は 疑問が限りなく発展し、「宗教」「人間」「真理」についての本質的な探究を避けて通れません。

 しかし、それらの問題は究極的な哲学的テーマであり、ブログ記事のコメント欄で扱いきれるような問題ではありません。
 それを論じ始めると、当然 ブログ記事のテーマからはみ出してしまうことになります。
ただ、拉致監禁の問題や、統一教会の具体的問題と関わりのある場合は そこに多少足を踏み入れざるを得ない場合があります。

 私も時々、そのようにして米本さんのブログに投稿している訳なのですが、それを許容してくださる米本さんにはどこまでも感謝しております。

 それで、統一原理と組織活動が乖離している直接的な原因については、上のコメントで簡単に思うところを書いたのですが、もう少し踏み込んで 宗教、真理に関わる問題について書き加えさせて頂きたいと思います。
 そうすると、暗在翔子さんが私を蟹のような人間と思っている、ある意味での誤解が解けるかもしれないので、非常に助かるのです。

 「統一原理と組織活動が乖離している」という命題が成立するのは、現在の統一教会の組織活動や、そこで語られている方針とは全く違ったところに統一原理の真理が存在すると認識される為であります。
 もし、統一教会の最高責任者に絶対服従して忠誠をつくし、その指示を果たすことによって理想世界が実現され、個人的にも真の幸福が得られると確信できるなら、そのような問題意識が生まれるはずもありません。

 その、現在の統一教会が最も尊重する、真の父母様に対する忠孝の実践が統一原理の最も重要な実践であると納得することができるなら、そのように組織活動に対して疑問を呈することもないかもしれません。
しかし、私は 少し違うのではないかと思うのです。

 統一原理が私達に真理として認識させてくれたもの、本心を揺り動かしたものとは何であったのか、それは 心情的な神の実在ということだと思われるのです。
 神が実在するということ、そして歴史を通して人間と関わり、生きて現在の社会、そして私自身と関わっているという確信がもてる理論、そして そこに滲み出る神の愛と深い心情が私達の魂を揺さぶったのではなかったのでしょうか。

 その統一原理が私達を覚醒させてくれた真理の力は圧倒的なものであり、問題意識の深い多くの若者を統一教会に導いてきました。そこには 神の息吹が感じられ、神霊協会という名前がまさに相応しかったのです。
 ところが、真の父母様が親としてではなく 王冠を被った王として教会に君臨するようになり、神様の心情よりも真の父母様の権威が強調されるようになってから、その教会組織は次第に変化するようになってしまったかのように映るのです。

 真の父母様が神様の恨みを解放して、全てを勝利され、真の父母様の心情と一体とならなければ、神様とつながることができないという内容は統一原理の本質と合致しているのでしょうか。
 私は大いに疑問なのです。

 四位基台について考えてみてください。
それが根本的真理であるならば、人間は神という存在と切っても切り離すことはできないのです。
形状的に考えれば第一原因として人間の体と関わっています。そして、精神の世界で考えれば、心情を中心として深く結びついているのです。
 人間を堕落させたとされる天使長サタンは、人間に霊的に関与することはできても、創造原理を変えることはできないのです。

 統一原理によって、神がイエス・キリストを十字架にかける摂理をなされたのは、イエス・キリストを犠牲にされても全人類を救済するのが神の願いだったからだと説明されているのです。
 紛争の種が絶えない現在の世界を見渡して、神様の恨みが解放されたと本当に信じることができるのでしょうか。
 神様が王様の背中に隠れていて、その命に従わない人には見向きもしないと考えるのは正しいのでしょうか。

 それらの考えは四位基台の原理とはかけ離れているのです。
統一教会員は もう一度、神を中心とする四位基台についてよく考えなければなりません。
神が子として愛するあるあなたといつも共にいるというその原理は誰も変えることができないのです。
そうであるなら、いつでも神はあなたのそばに存在していたことになるのです。
統一教会員であるあなたが 今まで勝利された理想家庭だと思っていたその方々がそうではなかったという事実を知って落胆し、悩み苦しむ心を神が知らないとでも思うのでしょうか。
 また、信頼していたその教会があなたに牙をむき 罵るその言葉を聞いて傷つくその心を神が知らないとでも思うのでしょうか。
 そして、重たい「摂理」によって家庭が犠牲になり、休まることのないその心に神が痛みを感じないとでも思うのでしょうか。
 四位基台の原理が正しいのならば、神が子であるあなたから離れたところに天国を建設することはないのです。
神は階級社会の天国など願うはずがなく、あなたを直接 我が子として愛そうとするはずです。
 神の心は今までもそうであったし、これからも変わることがなく、責任分担を果たさないからと言って 神があなたから離れ、立ち去ることはないのです。
‥‥‥(自分に対する但し書き)

 暗在さんが、以前のコメントで「神を中心とする四位基台、と「神」という言葉を出しただけでは、個人によって神の捉え方が違うし‥‥」と私に問いかけていましたが、私が理解する神とは統一思想にあるように心情を中心とした存在としての神なのです。
 それが何を意味するのかと言えば、人間と同じように心情を中心とした存在であり、神は人間の心情的根源者そして心情的共鳴者として関係していると捉えられるのです。

 人間の心情と神の心情を切り離して考える考え方は正しくないと私は思っています。
人間の堕落によって神との心情的な因縁が切れてしまったというような考え方は、心情というものを正しく理解しておらず、感情と混同しているのです。
 統一思想で意味するところの心情とは、喜びを得ようとする情的衝動ということであって、創造活動を行おうとするその衝動的な原動力、そして愛を与えようとする情的な原動力という解釈ですから、喜怒哀楽の感情とはやや異なるものなのです。
 私は心情という言葉を 創造活動に対する情熱、そして他者への愛を実践することに対する情熱という言葉でも言い表せると思っています。

 つまり、神の心情というのは、人間が創造活動への情熱に満たされた時、あるいは他者への湧き上がる愛の情熱に満たされた時に感得することが可能であると考えます。
そしてそれは 決して表面的な喜怒哀楽の感情のような受動的性質のものではないのです。
 その心情こそが神を認識できる本性なのですから、創造的情熱を持たない人、他者を愛そうとはしない人が神を認知することは難しいのです。
 しかし、それらの心情は本来人間に備わったものですから 親の愛情を充分に受けて育てば、その心情を持たない人間など存在しないのです。
 その意味では、家庭の愛情関係と幼年期の教育が人間的完成の為には極めて重要であるということが言えます。
 親が宗教活動に狂った家庭の二世が、統一教会から離れるというのは原理の理論から当然なのです。

 そして、創造と愛の実践によって喜びを得ようとするのが心情という本性だと考えると、自ずと 神と人間との内的な関係性が解明されてくるのです。
 つまり、神の心情が向かうのは 創造目的の完成と本然の愛の実現という目的に対してであり、その未完成期における挫折感、願わない結果に対する「恨」のようなものは神の心情に含まれないことになります。
 つまり「神様の悲しみの心情を解放する。」「神様の恨みを解放する。」というような理屈は成り立たないのです。
 そのような観点は神を擬人化したものであり、その思想は儒教的な発想によるものです。

 さらに、心情という本性について考えると、人間精神の中心である心情は 全ての精神的営みの原動力とも言えるエネルギーですから、それは 人間個体から独自的に発生するものではなく、絶え間なく流れてくるその源流というものが存在すると考えなければならないのです。
そして、それこそが 神の心情であるということになるのです。

 従って、人間の心情の源流を辿っていけば、それは神の心情という大本に交わることになるのです。そして、個性真理体として無限に繁殖する人間の心情は結局 神の心情の源流で交わることになりますから全ての人間の心情は神の心情と繋がるということにおいて調和し統一されるようになるのです。
 そこで、心情は独自性と連結性をもっているという言い方ができるので、神はその心情的エネルギーの供給源として常に人間に働きかけていることになります。
 つまり、人間に何故常に新しい文化を創造しようという情熱が湧き上がり、社会的愛を実現しようとする情熱が湧き上がってくるのかといえば、それはそこに神が働きかけているからであるということになるのです。

 従って、歴史を動かすような指導者、芸術家のその心情的な源流として神は人間社会と関わっており、そのような人物の心情に働くことによって歴史を動かしているということも言えるのです。
 それでは、統一原理でカイン的指導者とされる人々の心情はどのようなメカニズムになっているのかという問題が生ずることになるのですが、それを書き始めると長文となってしまうのでここでは書かないことにします。
 
 私が暗在さんの問いかけに まず最初に答えられるのはそのような神の捉え方についてです。
短い言葉では、心情を媒介として認知され、その内的原動力として存在するのが神であると答えることができます。
 もっと具体的な説明をすれば、イエス様が「汝の敵を愛せよ」と語ったその愛の原動力として神が存在したのであり、天才ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが第9交響曲を作曲したその心情の根源に神が確かに存在していたのであり ミケランジェロ・ブオナローティがシスティーナ礼拝堂天井画を描いたその心情の根源に神が存在していたのです。

 暗在さんについて私は思うのですが、暗在さんは「タマゴが先か、ニワトリが先か?」という問題を問われた時、「それは どちらとも言えない」というタイプなのではないかと思うのです。
 しかし、私は明確な結論を出したいタイプなのです。そして それなりの答えを持ちたいと思うのです。

 それは共産主義思想についてもそうであり、シュールレアリズムについてもそうです。
先に述べた神を中心とした世界観から見た場合、その思想家や運動家に対してではなく、思想そのものに対しては当然一定の評価をすることになります。
 そして、議論や更なる思考を通してその評価が変わることも当然あり得えます。
つまり、一つの考えを固定化しようとまでは思ってはいないのです。
しかし、理解し得たことは、それを発展させて考えたいと思っているのです。

 暗在さんへの返答としては 入り口の話しか書けませんでしたが、私の基本的な考え方は幾らか理解できたのではないでしょうか。
また少しずつ返答を継ぎ足して行きたいと思いますのでご理解願いたいと思います。 

因みに、「タマゴが先か、ニワトリが先か?」に対する私の答えは明白です。
それはタマゴです。
何故ならば、現実的な種の発展は進化論的段階を辿りますから、ニワトリの前の種は別の鳥類か、かなり大まかに考えても爬虫類です。そして どちらの場合でも卵を産んで繁殖します。
 つまり、ニワトリという鳥類の誕生は タマゴの後なのです。

Re: 統一教会の真と偽

どちらかと言えば、統一教会員様向け、または一般の求道者様向けでしょうか、
または神々さんの信条表明ともいえるもので、私が返信しなくてはならないものではなかろう…… なのですが、勿体なくも一応返信してしまいます。


>短い言葉では、心情を媒介として認知され、その内的原動力として存在するのが神であると答えることができます。 //

神と人間の本質は、(統一思想にあるように)“喜びを得ようとする情的衝動”である「心情」ーー
ここは統一理論の中でも、一番好きな所でした。
その心情を、「創造活動に対する情熱、そして他者への愛を実践することに対する情熱」と解釈するのも過不足のないものでしょう。
そして、
>人間の堕落によって神との心情的な因縁が切れてしまったというような考え方は、心情というものを正しく理解しておらず、感情と混同しているのです。
>統一思想で意味するところの心情とは、(略)喜怒哀楽の感情とはやや異なるものなのです。//

との神々の黄昏さんの洞察もその通りだと思います。
昔原研にいた頃、まさしく心情のその如くの意味と波動で、「統一思想でいうところの心情が重要だ、心情、心情……」とよく語っていた学区長がいて、
Yg崎さんというのですが(黄昏さんもご存知かもしれませんが)、そのYg崎さんはいつからか統一系の大学で教授職をされているようで、
たぶん今も学生たちに「心情だ、心情だ」と“心情の伝道師”をやっておられることと思います。
えらそうに言って失礼しますが、当時もその他の方々の語る神の心情……等は、おっしゃるように、感情と混同されていたり、固い兜をかぶっているようだったり(兜蟹じゃないよ)、
比べると、濁っていて狭い波動を醸し出していました。

余談ですが、その頃の統一思想要綱での心情の定義は「喜びを得ようとする衝動」でした。
何年かたって、「喜びを得ようとする情的衝動」と“情的”が加わりました。
最近、統一思想研究院のホームページをネットで見たところによると、現在は「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」が心情の定義のようですね。
最初のが一番良かったような気がしますが。
だんだん説明的、保守的、表面的、偽善的になっているような気がするのは私だけか。
創造活動に対する情熱のような、初源的な、ある種荒々しいものがそぎ落とされているような、誤解を恐れて取りつくろっているのか、信者を統卒しやすい領域におくようにしたいのかと思うのも考え過ぎでしょうけど。

別の観点から言えば、「喜びを得ようとする衝動」は、人間文教祖の人生の本質そのものだったかもしれないと思います。カジノ、釣り、復帰(ちわけ)その他いろいろ。
わたしは、メシア云々もう全く思っていないので、「いいんじゃないですかあ」としか言いようがありませんが。
しかし復帰は相手があることだし、相手が皆不幸になっているんじゃだめですが。


四位基台については、神は人間(自分)と離れておらず、いつも一緒にある との根拠として捉えているのですね。
正 → 分 → 合 の順番で考えるのではなく、むしろ逆に、(たとえば第一祝福の個性完成を例にすれば)
自分という個体がある(合)→ その自分には心と体という二側面がある(分)→ それらの背後には神の存在がある(正)
と考えると、そうなりますね。ユニークな解釈だと思います。
教会内では、「神を中心とした個人(または家庭)になろう(目標)、ならなければならない、なっていなければならない(基準)、なっていないのではないだろうか(反省)」……
のような捉え方が多いことと思います。
神々の黄昏さんの解釈はユニークであるし、そこから導き出る内容は正しいと思います。
正しいというか、現在最先端のスピリチュアルな教えの内容とほぼ合致すると思われます。
まあわたしも、いつも考えているわけではありませんが、一応そのように思っています。自分の内側に、外的な刺激に波立つ喜怒哀楽の奥に、全体(地球と宇宙)と通じる、全体そのものである変わらない静寂な場所・存在がある、というような。
神という言葉を使ってももいいけれど、人格神とは捉えていません。(それは四位基台とは違うと言われそうですが)。
エックハルト・トールの言葉でいうと「大いなる存在」だったか。バシャールでは、 all thai is とか。

無神論や脳科学も何年か心底納得して過ごしたことがあって、それも否定しません。
霊的贅肉が付きやすい(依存や現実逃避や自己満足、地に足が着かない等の症状が出やすい)ので、スピリチュアルを断つ断食・ダイエットとして、無神論や脳科学は精神の健康・シェイプアップに必要。

ですから、「タマゴが先か、ニワトリが先か?」の例でいえば、私は「どちらともいえる」というところでしょうか。
「どちらともいえる」は対極の「どちらとも言えない」に通底するかもしれず、神々の黄昏さんが、
>暗在さんは「それは どちらとも言えない」というタイプなのではないかと思うのです。
というのも間違っていないかもしれません。それも含めて「どちらともいえる」

「蟹々の黄昏」の件については、シャレですよ。
亀でもよかったですが、甲羅が厚いかと思い、蟹にしましたが、セキツイ動物の大台に乗っている亀のほうがいいかも、セキツイ動物の中でも魚類や両生類ではなく、亀はそれより上流階級のハチュウ類ですよ。
おけら族のわたしからすれば、ハチュウ類なんてあこがれの存在ですよ。カニは軟骨はあれど背骨はなく、ぶくぶくバブルの申し子といった儚いイメージですから、大変失礼しました。背骨が一本通った亀にします。
以前のコメントで「蟹々の黄昏」と書いた箇所を「亀々の黄昏」に訂正します。
だからシャレだと言っているんですが……(笑)

統一教会の真と偽の続き

 暗在翔子さんが 四位基台という概念にとらわれず、相対的な思惟を重ねながら真理に到達しようとしているのはよく理解できました。
 私は今のところ、基本的には統一原理、統一思想が真理であるという認識ですが、その全ての内容を絶対化するような捉え方をしていないのはご存知のことと思います。

 しかし、その中核となる四位基台、心情を中心とした精神性をもつ人格神の存在を認めるその基本的原理は肯定しており、究極的な真理であると確信しております。
 暗在さんも 統一教会の信仰をもっていた過去がある訳ですから、かつてはその統一原理、統一思想に共感し、真理として受容していたことも事実だと思います。

 しかし、人格神としてではなく、異なる観点で「神」の存在を捉えるようになってしまったのは、実態としての統一教会の矛盾に遭遇したことが大きな原因になったようにも想像できます。
 勿論、それは表面的な「躓き」というものではなく、統一教会の特色の一つで、特に文先生が強調されるような擬人化した神の捉え方と現実から生ずる様々な矛盾に対して、統一原理が不完全なものとして認識された為なのではないのでしょうか。
 それはあくまで私の一方的な推測ですが、もしそうであるとすれば、それは決して間違いとは言えず、至極当然のことであります。

 私が自身の世界観を語る場合、必然的に統一原理、統一思想を基本として語るようになりますが、そのようになったのも 真理を探究しようとして遭遇したその思想が宇宙、人間、歴史に対する最も論理的で現実と適合した解釈であると、その価値を認めたからであり、自分の知り得たもの、経験してきたものと一致したからであります。
 いわゆる人格神として捉える神の存在についても同様であり、そのように考えても矛盾しない心情的、精神的状態にあったからであります。

 統一原理の世界観は人格神として捉えた神を中心としたものであり、宗教という形を作っていますから、組織的にも関わりをもつことになります。さらに、統一原理は基本的な救済論を含んでおり、宗教としての統一教会の中では文先生を再臨主として信じている訳ですから 当然我々の内的な思想に止まらず、生活的実践、社会的実践もそれによって支配されることになります。
 もし、統一原理、統一思想が完全なものであるなら その生活的実践、社会的実践によって矛盾した結果が現れるはずもなく、その思想に適った結果が現れなければならないのは当然です。

 しかし、長い年月そのように統一教会員として過ごすようになれば、多くの矛盾を発見し、社会的、人間的現象についても決して人間の責任分担が果たされていないからという程度の説明では解決できない多くの矛盾に遭遇するようになるのも事実です。
 それらの矛盾は主に 文先生の語られた「御言葉」と現実との矛盾で、統一原理、統一思想の価値は変わることなく、基本的に真理であると私は考えていました。

 しかし、統一原理を初めて知った当時 総論として真理として受容しながらも、充分にその意味を理解しきれず、断定保留で言葉のみ信じていた各論があったのも事実です。
その為必然的にその完全な解明を試みなければならないことになります。
 そして、その各論がさほど重要な部分でなければ自分の信仰にも影響がないのですが その原理の根幹に関わる問題となれば 自分の世界観にも大きな影響を与えることになります。
 特に原相論に関する解釈であれば、それはかなり大きな意味をもつことになるのです。

 ここで、暗在さんとのやり取りで取り上げることになった四位基台の中心としての「神の心情」はまさしく統一原理の根幹に関わる問題で、その解釈は大きな意味をもつことになります。
 私の前の投稿では、暗在さんが言う「統一教会員様向け」(笑)のような、より統一思想に忠実な書き方で神の心情について述べましてが、そこは入り口なので 取り敢えずもう少し掘り下げた投稿をしておこうと思います。

 まず、前の投稿で私は「統一思想で意味するところの心情とは、喜びを得ようとする情的衝動ということであって、創造活動を行おうとするその衝動的な原動力、そして愛を与えようとする情的な原動力という解釈」と書きましたが、心情という概念の定義は統一思想の中でも最も重要且つ基本的なもので、その辺の解釈を間違うと、統一原理が矮小化、あるいは儒教化する危険性を孕んでいることがわかります。

 暗在さんが上に書かれた<現在は「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」が心情の定義のようですね。
最初のが一番良かったような気がしますが。
だんだん説明的、保守的、表面的、偽善的になっているような気がするのは私だけか。>
とは、的を射た意見であり、私はその解釈の変化を最大限に問題視しています。
 それは何故かといえば、現在の「愛を通じて‥‥」という定義では統一原理全体がかなり矮小化し、矛盾さえ生じてしまうからです。

 つまり「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」が心情の定義だとすると、第一原因として考えられる神の万物創造に向かう第一の動機が「愛」ということになります。
それは、自存する様態での個体的動機を論じているのに、その答えを相対関係においてのみ成り立つ愛という言葉をもち出して答えを出しており、論理的に破綻しているのです。

 昭和49年度版の統一思想要綱では「原相には多くの要素があるが、そのうち心情は最も基本的なものであり、この心情が動機、原因となって、その他の諸属性が互いに作用するようになり、心情が動因となって、ことば(構想)、創造などが始まるようになっていると見る。なぜならば、心情はそれ自体が目的を持っていると同時に、その目的実現のための指向性をもっているからである。」との記述があり、心情とは(神の実体対象の)創造が始まる以前の、それ自体が目的をもっている神性であると定義付けているのです。
 つまり、相対関係を前提としなければならない愛を通して、その後に生ずる愛の喜びとは、対象の創造以前には動機とは成りえないのです。

 また、「愛を通じて‥‥」では喜びの性質自体を制限してしまい、それ以外の性質の喜びを除外することになり、全ての諸属性が互いに作用する動機、原因として定義しようとすると無理が生じることになります。
 上の「心情が動因となって、ことば(構想)、創造などが始まるようになっている」という説明さえ不可能になるのです。

 そのように考えると、「愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動」という心情の定義は原存在(神)自体を矮小化してしまうと同時に、統一原理に対する偏向した解釈を生み出す原因ともなってしまうのです。
 私は、そのような心情に対する定義の歪曲によって、統一教会員は益々原存在(神)を見失い、人間の神格化、人間信仰に傾いていってしまったのではないかとも思っています。
 そうでなければ、神様と韓総裁の結婚式だとか、夜の神様、昼の神様などという馬鹿げた神話を、統一原理、統一思想を学んだ人達が本気で考えられるはずはないと思っています。
 聖書のように比喩と象徴ではなく、真理をあからさまに語った最終的真理が「夜の神様と昼の神様」ですか?
それを真面目に考えること自体、統一原理、統一思想の価値を全く理解していないことの証明だと思っています。

 しかし、私はそのような心情の定義の変化は、もとをただせば 心情に対する統一思想の定義が曖昧で踏み込みが足りなかったせいではないのかと思っています。
 つまり、心情の定義をさらに極めていけば より明確な原存在の定義が生まれてくるのではないかと考えるのです。

 そこで、私は心情を「創造によって喜びを得ようとする情的な衝動」と定義したほうが相応しいのではないかと思っています。
 言わば「タマゴが先か、ニワトリが先か?」という設問に似せれば「創造の喜びが先か、愛の喜びが先か?」という問題に置き換えて考えられるのです。
 原存在が実体対象を創造することが第一の喜びとして心情に作用したのか、あるいは その実体対象を愛することが第一の喜びとして作用したのかという問題です。

 統一思想には「愛はこのような情的結合性に由来する。」と書かれており、(有ってあるものである)永遠に自存する絶対者である原存在の(有ってある)心情に作用した第一の喜びが愛を通じたものだと定義すると前に述べたように自己矛盾に陥るのです。
 従って、それは純粋に、永遠に自存する絶対者である原存在の心情に作用した第一の喜びは創造するということそのものの喜びだと定義すべきなのです。

 つまり、愛を通じての喜びは二次的であり、創造することの喜びが第一に心情に作用したのです。
 そのように明確に「心情」を定義すると、愛を第一とした人格神として神を捉えた場合に生ずる様々な矛盾が解決されてきます。
 例えば、多くの人間が悲惨な被害を被る大地震を避けられないのは何故か?
という問題に対しては 愛を第一とした人格神という神の捉え方では、矛盾しない答えを探し出すことができないのです。
 身近な問題では、形状的な意味で「美しい」人間を創造する一方、愛し辛い「醜い」人間を創造したのは何故か?という問題に対しても、愛を第一とした神の捉え方では充分に納得できる答えを見出すことができないのです。
しかし、創造することそのものに第一の喜びがあり、愛を通じての喜びは二次的なものであると考えると それらの疑問にも答えることができるのです。

 従って、私は「創造によって喜びを得ようとする情的な衝動」と心情を定義して原存在についても考えるべきだと思っており、その論理を演えき的に発展させれば、統一原理や統一思想の内容もより正しく理解できると思っています。
 そして、その心情の定義は 決して愛の作用を軽視することには繋がりません。
何故ならば、被造物が被造物としての価値を持つ為には、愛の作用が不可欠だからです。
情的結合性に由来する愛とは調和という概念と近しい関係にあり、愛なくして人間世界の調和も発展もあり得ないのです。
つまり、愛の作用がなければ 人間という被造物は存続することもできないのです。

 愛を通じて喜びを得ようとする情的な動機というものは人間社会においては理解しやすく、一定の範囲ではそれが心情の本質のように解釈することもできます。
 しかし、それは相対関係を前提とした人間社会の環境の中での論理であり、原存在の中心としての心情という概念を定義できるものではありません。
 ところが、創造活動によって得られる喜びというものは より普遍的で本質的なものとして理解できます。
それは原存在の心情の定義として考えられるのは勿論ですが、人間のあらゆる社会的、個人的活動についても、その創造によって喜びを得ようとする情的な根本的動機を発見することができるのです。

 人間の精神的な価値である真善美に関しても、その価値追求行為および価値実現行為である科学的研究、産業技術の開発そして社会的公益活動、芸術活動なども その根本的動機には創造的な喜びが存在していることがわかるのです。
 つまり、人間の精神活動全ての動機には「創造によって喜びを得ようとする衝動」である心情が存在していると考えられるのです。
 その「創造」という極めて根元的な概念は人間の精神活動のありとあらゆる事象に適合するのですが、それによって喜びを得ようとするのが心情であると考えれば、心情を中心とした四位基台という原理はより理解しやすく、歪曲した解釈によって宗教的な贅肉が加わることも無くなるのです。

 統一思想において重視される「心情」は親しい言葉でありながら神秘に満ちています。
神という存在を考える上でも、人格神として捉えるその根拠となるのですが、その心情が創造によって喜びを得ようとする情的な衝動として定義されると、神に対する捉え方がより明確になってきます。
 即ち、神(原存在)から見た時 実体対象としての人間は創造した存在、神がもつ全ての本性を時空間の中で形象的に実体化した創造物であり、人間から見れば 神は創造主、己がもつ全ての本性を内包する第一原因者ということになります。
 そして、それを分かりやすく例えれば、親と子という関係に例えられ、神が人間を愛するのは子供として創造したからだということになります。
 つまり子として創造したが故に、その必然的な結果として「愛する情」が発生したものと考えられるのです。
 神が人間を創造したのは 愛を通じて喜びを得ようとしたからではなく、創造それ自体が喜びであったからであり、結果として創造された人間に対しては形象的実体対象である子供として必然的に愛する情が発生したと考えるべきなのです。

 しかし、親と子供という例えはあくまで心情的な世界での例えであり、存在関係から捉えるとそれとは違った捉え方になり、いわゆる性相と形状という心と体の関係になります。
 そして、時空間に存在する人間がその目に見える形で神を認識することはできず、究極的には心情的な力の源泉として認識できることになるのです。
 実生活を通して人間が神を実感するというのは、経験的な結果から神の働きを推測しているのであって、言わば観念的な認識です。
 最も本質的で直接的な神と人間との繋がりは心情的なものであり、創造的なエネルギーと喜びを感知する時こそ神の存在を実感できることになります。

 そのように創造によって喜びを得ようとする衝動である心情が 神の、そして人間の中心であると定義すると、人間が生きる現実世界においては弁証法的思考が可能なことも充分理解できます。
 即ち、有限な世界においては創造と破壊は密接な関係にあり、創造活動をする為には破壊的行為が必要になる場合が生ずるのです。
 裏を返せば、破壊的行為は 創造活動が目的となっているということも言えるのです。

 従って、創造によって喜びを得ようとする衝動である心情を中心として人間が生活しているという原理は普遍的な真理であると考えられ、その心情を追究するところから人間の真の幸福と理想がどのようなものなのかも定義できることになります。

 創造による喜びと愛することによる喜びの相関関係を論じ始めると、さらに長文になってしまい「○○が泣いた」ということになってしまいますので それについてはここでは書きません。
 しかし、神の存在に対する今の私の捉え方は多少なりとも暗在さんに理解してもらえたと思い、その関連は機会があれば述べたいと思います。

 しかし、暗在さんから問いかけられているシュールレアリズム等の問題に辿り着くのはかなり後になりそうです。
 それらの芸術論を論じる場合でも、私の世界観から説明しないと正しくそれを理解してもらえないからです。
 ただ、一言だけお詫びしておきたいと思います。
暗在翔子さん、センスのない無教養な公職者を批判するためとは言え、シュールレアリズムという正式名称を使ってしまって本当にすみませんでした。
米本さんの良心的で純粋な真心からの忠告も一切無視する、教養なし、常識なし、理性なしの統一教会の恥さらしスタッフと同等であるかのような表現をしたのは私の間違いでした。
心からお詫び申し上げます。
アンドレ・ブルトン様、サルバドール・ダリ様、マックス・エルンスト様本当に申し訳ございませんでした。
言葉の勢いで、皆様の芸術運動を侮辱してしまい、深く、深く悔い改め申し上げます。
(暗在さん、これぐらいのお詫びで許してもらえるでしょうか?‥‥‥これに対する返答は不要です。)
 

欧米か! 極東か!

古いコメント欄になってしまいますが、引用もあるのでここに書きます。神々の黄昏さんはすでに、心情:「創造によって喜びを得ようとする情的な衝動」の発展編を新しい場所に書いておられますが。

>しかし、人格神としてではなく、異なる観点で「神」の存在を捉えるようになってしまったのは、実態としての統一教会の矛盾に遭遇したことが大きな原因になったようにも想像できます。 ///

迫り来る老視のゆえ、最初「異なる観点」を「単なる観点」と誤読していたため、
「単なる観点」ではなく、「境地」です。
とコメントしようと思っていましたが、これに関しては特に言うことなくなりました。老視とは老眼の正式名称だそうです。正式名称を使って怒られたらすいません(←得体のしれないジョーク)
「実態としての統一教会の矛盾に遭遇」はしましたが、離れてしばらくしてからプロテスタント教会に2,3年通っていたこともあり(受洗した)、そのように、統一教会をやめた後も人格一神教を奉じられるのは既得権のように内心思っていた時期もあるので、それが大きな原因ではないと思います。

統一思想の「心情」がどういったものか、論理破綻や自己矛盾を避け、よく突き詰められておられると思います。
しかし、神々の黄昏さんの書いておられるように根本の「心情」を捉えるとして、神という存在が人格神でなければならない必要性があるんですかねえ。
私は必要性を感じませんけどね。
もちろん人格神と捉えることもできるでしょう。
こうなってくると、各々、個性や土壌やお国柄の好みということでいいのではないでしょうか。
まあ、神々さんの得意の論理でいろいろ持ち出してきて、“……したがってこのように、人格神でなければならないという結論に達するのです。”などのコメントが存在するのだろうか(永遠の今に)。
そもそも統一のその問題ある擬人化神と人格神の厳密なはっきりした違いはあるのだろうか。
擬人化神と「心情」(神)の違いなら、今までの書き込みからよく分かりますが。

「全米が泣いた!」について:
数年前、ハリウッド系映画が日本に入ってくる際に、感動的な映画だと宣伝するために、どれもこれも「全米が泣いた!」と銘打ってあって、釣られて映画を観てみると実際それほど感動的ではないことが続いたので、
日本では、「彼女に振られた」「全米が泣いた」
「今朝駅の階段で転んじゃった」「全米が泣いた」
という会話状態になっています。ですから「全米が泣いた」は現代日本では小さなことに使うので、神々の黄昏さんの長めの投稿も全然大丈夫です、気にしないで下さい。
タイトルの「欧米か!」について:これはあるお笑いコンビのツッコミの定番の言葉で、もう日本では何気なくカタカナ言葉を使うと、道行く知らない人からも「欧米か!」と突っ込みを入れられてしまう状態です。ですからタイトルは、お笑いのツッコミになります。気にしないで下さい。

Re:暗在さん(人格神について)

>そもそも統一のその問題ある擬人化神と人格神の厳密なはっきりした違いはあるのだろうか。
擬人化神と「心情」(神)の違いなら、今までの書き込みからよく分かりますが。


 暗在さんは神という存在が人格神でなければならない必要性について懐疑的ですが、そもそも神を人格神として捉える根拠とは 人間がもつ精神的機能である知、情、意を神がその属性として有していることですから、形而上学的な真理として因果律を認めるかぎり 第一原因として考えられる神という存在が人格神にならざるを得ないのは必然です。

 むしろ問題となるのは 神が人格神か否か、ではなく 神の「人格」とは如何なるものなのか、という問題であると言えます。
 つまり、神を人格神として定義した場合 必然的にその「人格」の内容が重要な問題となってきます。
 しかし、その「人格」は言葉で定義することができても イメージとして描くことはほぼ不可能です。何故ならば、人格をイメージする場合 そこには必然的に個性が伴ってしまうからです。

 統一思想においては「原存在の個別相に似て各個体ごとに特有な側面もまた持っているのである。‥‥これは原相の中にある無数の個別相中の或る一つに各個体が各々似ているためであると統一原理では見るのである。」と書かれていますが、性相の中の内的形状である個別相が伴うことによって初めて人間には人格として認識されますから、その個性的な人格しか認識できない人間にとって 無数の個別相を内包した、神の「人格」を完全に認識することは不可能なのです。

 つまり、巨大な球体をあらゆる角度から眺めてその部分的な特徴を認識することはできても、それを同時に全体として認識することは極めて困難だということです。
 さらに、その球体は無限大に近いのでありますから 神の「人格」を人間が対象化してイメージしたとしても、それは決して全体像ではないのです。
 それは、無限という概念を人間は認識できるのかどうかという問題と同じです。
有限な存在である人間にはそれが不可能なのです。

 結局、神が人格神であるという問題に関しては その神の人格という概念が人間には理解し切れない、あるいは偏狭な理解しかできないところから、様々な疑問や問題が生じてくるのだと言えるでしょう。
 しかし、内的性相として知、情、意を有し その中核としての心情を内包した存在である訳ですから人間と人格的な関わりをもつというのは当然です。
 そして その関わりは決して個性を持った人間の人格と人格の関係のようではなく、無限大でより根元的な人格とその一部として生み出された人格との関係ということになるのです。
 つまり、最も平易な言葉で言えば 心の親と、そして子という人格的関係と言い表せるでしょう。

 そのように考えると、「統一のその問題ある擬人化神と人格神の厳密なはっきりした違いはあるのだろうか。」という疑問に対する答えは自ずと導かれます。
 ただ 最初に理解しておかねばならないのは、私が説明した人格神は 統一思想、創造原理に従ったものであり、そこから理解される自然な解釈です。
 暗在さんが問題視される「統一の擬人化神」とは 統一思想の基本原理から離れて 文先生が語った寓話的な言説が独立し、新たな神学として統一教会の中で教義化されたものです。
 そして、それは統一思想より 遥かに朝鮮型儒教の人間観に近く、追究すれば 様々な矛盾さえ発見され、とても統一原理、統一思想の定義する人格神とは一致できないものです。
 前にもコメントに書きましたが、その文先生の思想と統一思想の齟齬には深い謎があり、簡単に結論付けられるようなものではありません。
 ただ、次第に垣間見えたきた背景も自分の頭の中にはあるのですが、その解明は今後の課題です。

 その統一思想が論ずる人格神とは心情を中心とした存在であるとは言え、遍在性があり、かつ原存在(第一原因としての神)と存在者(結果的存在としての人間、宇宙等)という関係が明瞭であり 前の投稿で書いた通り、心情を中心とした精神性においては人間と表裏一体であり、神は無限の心情的エネルギー源として人間と繋がっているという観点での人格神です。

 しかし、「統一の擬人化神」とは 喜怒哀楽が極端に強調され、無限の個別相を内包した人格神ではなく 父母なる神と定義しながらも「天の王権」という言葉が使われるなど、権威者としての人格神として語られており、統一思想の観点とは異なる、人間と階級的な距離をおいた断絶した人格が賦与されています。

 また、前の投稿で、心情という概念に対する定義が新しく変更されている問題を暗在さんが指摘されていましたが、その全てが愛を目的として創造されたという矛盾が生じる観念的な心情に対する理解や 教会内で頻繁に使われている心情圏という言葉の使い方を考察しても、統一思想が衝動と捉えた根源的な心情とは別物となっており「統一の擬人化神」の心情とは、元来統一思想が定義した神の心情とは異質であることがわかります。

 つまり、「統一の擬人化神」とは人間によって作り出された人格神であり、強い民族性を帯びた神と言えます。
その為、人間と神の関わりもかなり形式化され、神の代理人が指示する命令に従わねば、神が愛することもできなければ天国にも入れないといった関係となってしまい 度量の狭い背後霊のような存在に貶められているように思えます。
 イエス・キリストを犠牲にしても 全人類を救済しようとした愛ある神というのは統一思想と矛盾しませんが、一人の人間が悪との戦いや様々な試練に勝利したことによって歴史的な恨や悲しみから解放され、栄光の王として君臨できるようになった神という考えが統一思想と一致するとは到底思われません。

 その「統一のその問題ある擬人化神」と人格神の厳密なはっきりした違いをさらに述べるには、歴史を通して人間社会と関わる神を捉える観点についても述べねばなりませんが、それを今回は詳述しません。
ただ 統一思想から考えれば 人間社会全体が一人の完成した人間個体のように調和した有機体の如くならなければ、決して神の人間社会に対する創造目的が達成できたことにはならないということを理解する必要があります。

 次に、人格神を理解する上で重要な創造による喜びと愛することによる喜びの相関関係を考えると、前の投稿では 創造によって喜びを得ようとしたのが神の心情の働きであると書きましたが、形象的な実態対象として人間を創造した後においては 創造による喜びに質的な変化が起こり、実態対象としての人間に対しては情的な結合性が発揮され、愛する情と喜びが発生するようになったと考えることができます。

 それは原存在である神にとっては二次的な喜びと表現することができ、創造の結果に対する心情的作用であるとも考えられます。
 そして、神の形象的実態対象として創造された人間は統一思想に記されている通り、神相を普遍相として備え、神性と同様の特性も持つようになります。

 そして神が人間を愛する具体的な作用は何かと言えば、神が感じたのと同じ創造の喜びを共有しようとすることであり、人間に創造活動の条件を与えることであります。
 しかし、原存在ではなく被創造者である人間の創造活動は 当然神の創造とは異質なものになり、真、善、美という文化的価値の創造ということになります。
 そして神の創造との最大の違いは何かと言えば、無から有を生み出す創造ではなく、個別相、即ち個性を発揮する形での創造活動ということであります。

 しかし、その文化的創造活動によって得られる喜びは神の創造の喜びと同質のものであり、その創造活動を通して人間は神と喜びを共有することができ、神自体の喜びともなります。
 また、神の創造と人間の創造活動のもうひとつの違いは、神は人間にその一つの個別相を与えたが故に神が人間の創造活動を見て喜びを共有する場合、人間の共同体としての創造、即ち社会的な創造活動こそ神の創造に近いものとなり、その文化的創造において神はより一層人間と喜びを共有できることになります。
そして、人間の一個体の如く統一された共同体を形成する力こそが愛の力だということになるのです。

 そこから何が言えるかというと、人間がより神に近い創造活動を実現する為には社会的愛が条件となるということであり、社会的倫理を体得し人類愛を獲得してこそ真の文化的創造活動が可能になるということです。
 新しい統一思想においては特に、愛することの喜びを心情と結び付けて表現するようになってしまいましたが、それは人間社会における特性であるとも言えます。

 しかし、その人を愛することが人間社会において必要不可欠であるとはいえ、そこにおいても究極的喜びを得られるのは、その愛によって一体となった社会においてなされる創造活動によってであり、その文化的価値の創造によって神と人間は喜びを共有できることになるのです。

 そのより大きな社会的共同体の中での創造活動においてこそ神とより大きな喜びを共有することができると考えれば、人間が幸福の実現において目指すべき第一の条件は個性完成であり、次に家庭的愛の完成というのが原理ですが、最大の喜びは第三の万物主管、即ち文化的創造活動においてであるという結論になります。

 愛とは目的となるものではなく、人間が社会を形成する上で必要条件となるものです。
つまり、本来人間は親の愛を充分に吸収して育ち、社会と調和できる人格を完成してから、真の創造活動を展開するようになるのですが、現実の社会においてはその愛の関係が失われ、社会的共同体そのものが完全な形で完成されていない為、その人類愛を実現することが最大の課題とされているのです。

 つまり、人間社会が喪失している人類愛を実現することが神の摂理であり、それが人類の最大の課題であると言えます。
 人間が神の存在を感知できないのは、充分な親の愛を受けることができなかったり、創造活動の喜びを味わったことがないからだとも言えますが、そのような意味では ほとんどの人間は完全な愛を受けてきたと言うことはできず、真の創造的な喜びを味わったとも言えない訳ですから、結局理論的な理解による刺激を受けて神を感知するしかないことになります。

 そのような意味では統一思想による人格神の定義は充分に納得できるものだと思われます。
 しかし、恨の情を抱いたり、王権を主張したりする神というものはその人格神と一致させるのは困難であり、単に人間の感情を投影した擬人化された、架空の神としか思われません。

神々の黄昏さん(人格神について)

神々の黄昏さん

それでは、統一原理や統一思想の原相論が説く神観と、文先生の寓話的な言説から定義された神観との乖離が生じた根本原因は何ですか?

後者については、

>遥かに朝鮮型儒教の人間観に近く、父母なる神と定義しながらも「天の王権」という言葉が使われるなど、権威者としての人格神として語られており

とのことですが、こうした神観は紛れもなく文氏自身の思想そのものと言えます。それは、(あまりメジャーではない)み言葉の中に、明らかに誇張された朝鮮民族優越主義と不当な日本民族蔑視主義の考え方が露骨に現れているからです。のみならず、明らかに客観的事実に反するみ言葉も多々含まれている。一体これは何を意味するものか?

思うに、原理講論や統一思想要綱、共産主義の終焉などの書物は、文氏の公認を受けて出版されたものとはいえ、言うまでもなく、それぞれ、劉孝元氏や李相憲氏が執筆した書物であり、直接的には彼ら自身の思想が体現されたものです。つまり、これらは「文氏の思想である」という看板を掲げているとはいえ、文氏が直接語られたみ言葉の本音ともいえる部分の思想(いわゆる「統一の擬人化神」など)とは、似て非なるものなのです。このほか、「血統転換の理論」も統一原理や統一思想にはなく、あくまでも文氏の思想なのです。

そして、前者(つまり統一原理や統一思想の神観)が正しく、後者(文氏の神観)が誤りであるであるとのご意見は個人的にも正しいと思いますが、そのことは、とりもなおさず、文氏の思想には、致命的な誤りの部分が含まれているということを意味するものだと思われませんか?また、単に教義や思想レベルだけでなく、今まで統一グループが行ってきた数々の事業が悉く失敗していること、日本においては、霊感商法等の社会問題を発生させ、さらに、日本人食口達に高額エンドレス献金に苦しめられたこと、そしてこれらの指示が直接・間接に(神格化された)文氏から発せられたものであること、さらに真の家庭の子女達の数々の不祥事等は何を意味すると思われますか?

要するに、文氏は、本当に再臨主であるかどうかは別にしても、少なくとも「宗教指導者として、その実践面においては致命的な誤りを犯した」ということにはならないでしょうか?そして、そのことは、文氏のみ言葉自体にも如実に示されているのではないか?
いくら、統一原理や統一思想の教義が他の宗教教義に比べて、理論面において、格段の優越性が認められるにしても、肝心要の実践面において「箸にも棒にも掛からぬほど」の大失敗に帰した根本原因はどこにあるのでしょうか? 韓国と日本の統一教幹部をはじめとする公職者達ですか?

しかし、彼らに指示を出したのは、文氏自身なのです。文氏の指示がいわば「神の摂理」として示され、そして、一般信徒達に対しては、有無を言わさず、絶対服従を強いることが続いた結果が、今日の統一教会の惨状となって現れたのです。否、統一教会という一宗教の惨状という面だけでなく、この地上に創造理想世界を建設するための統一運動そのものが衰退しているのです。

ということは、「文鮮明氏はメシアではない。少なくとも、たとえ、メシアであったとしても、実践活動において、致命的な誤りを犯したがゆえに、地上天国の建設という使命を完遂することなく、この世を去った人物であり、いわば、失敗したメシアである」ということを率直に認めるべきではないでしょうか?

それから、統一原理や統一思想は、再臨主が解明した完全無欠の絶対的真理などと捉えるべきでなく、あくまでも、劉孝元、李相憲といった優れた思想家たちが、文鮮明という宗教指導者の公認を受けて体系化された宗教思想の1つに過ぎない(ただし、有神論の立場に立つ限り、他のいかなる宗教教義や宗教思想よりも理論的側面において卓越しており、目下のところ、普遍的真理としてみなしてもよい)と捉えるべきではないでしょうか?

Re:Watcherさん(教義問題について)

>思うに、原理講論や統一思想要綱、共産主義の終焉などの書物は、文氏の公認を受けて出版されたものとはいえ、言うまでもなく、それぞれ、劉孝元氏や李相憲氏が執筆した書物であり、直接的には彼ら自身の思想が体現されたものです。つまり、これらは「文氏の思想である」という看板を掲げているとはいえ、文氏が直接語られたみ言葉の本音ともいえる部分の思想(いわゆる「統一の擬人化神」など)とは、似て非なるものなのです。このほか、「血統転換の理論」も統一原理や統一思想にはなく、あくまでも文氏の思想なのです。

Watcherさんが原理講論や統一思想要網と文先生の宗教思想の違いについて考えられた事柄は否定することができないことです。
 文先生が残された説教集は615巻という膨大な量であり、それらは様々な場所と異なる摂理過程において語られており、それらを統合して文先生の思想を完全に理解することは容易なことではありません。
 さらに、それらは執筆された文章ではなく はなし言葉でありますから、厳密に正しい教義として理解してよいのかどうか判断できない話も沢山あります。
 極端なことを言えば、反対派であるブロガーが書いている「ちゃぬの裏韓国日記」に書かれているような御言葉も間違いなく文先生の話された言葉であり、それも文先生の思想の一部として認めなければなりません。

 そのように考えると実際問題として文先生の御言葉は原理講論と照らし合わせても矛盾だらけとなり、文先生は大法螺吹きか詐欺師のような人間となってしまいます。
 しかし、人間であれば冗談も言えば、物事を例え話で話すこともあるというおおらかな観点にたち、文先生が絶対的真理として認めた理論だけを文先生の思想として論じたほうが間違いではありません。

 そのように考えると、現在ブログ村でも議論されている天聖経などは最も重要な参考資料となります。
 それは文先生が天国の聖書であるとまで評価し、遺言であるとも言われています。
従ってそこに書かれている教義が原理講論と矛盾するのであれば、結論として原理講論と文先生の思想は別物であり、原理講論は劉孝元氏の思想となり、統一思想は李相憲氏の思想ということになります。

 そこでその違いを探してみると、第一に注目せねばならないのはWatcherさんも指摘されている血統転換の理論です。
 原理講論においてはそれと通ずる概念としてサタンの血統という言葉が堕落論に出てきますが、創造原理とは異なり 堕落論においてはその理論に非科学的な部分が目立つようになり、その後のキリスト論も合わせると、論理的に食い違う箇所も現われることになります。

 その例を挙げれば、一つには堕落論の霊的堕落という項目でエバと天使長が「不倫なる霊的性関係」を結んだことが霊的堕落であると説明されていますが、次の肉的堕落の項目では 何の説明もなしに論理が飛躍し「エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだ」という表現に変化しています。
 この部分は原罪を理解する上で非常に重要なところで、論理的な正確さには特に拘らなければなりません。
 そうすると、果たして霊的性関係はイコール血縁関係を結んだことになるのかという疑問がわいてきます。
 それを科学と矛盾しない真理とせねばならないという条件の下で考えると その記述は論理的に繋がらないのです。
 人間に例えれば、未熟な女子が未成年の男子と一度不倫な性関係をもってしまっただけで、子供が産まれた訳でもないのに それがその女子の血縁となって引き継がれていくのだろうかという問題です。
 天使は人間以上の機能をもった存在ではなく、神の子である人間以下の存在です。そうであるならば、天使長との霊的性関係が人間同士の性関係以上の意味をもつことはあり得ません。
 つまり、一度 不倫な霊的性関係があったからといってそれが霊的血縁関係として引き継がれるという論理展開には無理があるのです。

 そこは原理講論が血統転換の理論を正当化するか否かの重要なポイントですが、原理講論の記述自体が矛盾しており、本来は血統転換の理論に繋がって行かないのです。
 しかし、一方において原理講論では堕落した人間が創造本然の人間に復帰する方法について、血統転換とは全く違った観点からも論述しているのです。
 それは第二章 堕落論・第四節 人間堕落の結果・(二)人間世界に対するサタンの活動、においての記述で、「‥‥それ故に人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探し出し、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。」と説明しているのですが、そこでは血統転換については全く触れていないのです。

 その原理講論の記述自体の矛盾や論理の不統一が劉孝元氏の思考力不足によってもたらされたものとは考えられません。
 東大の医学部と同等とまでは言えないでしょうが、ソウル大学、医学部を卒業した劉氏がそのような非科学的な血統の繋がりを論ずる間違いを犯すはずがありません。
 原理講論は劉孝元氏が文先生の監修を受けながら執筆したということですから、そこに文先生の意向が反映された結果が そのような矛盾した記述や論理の不統一を生む原因となったと考えるのが自然です。

 そのように血統転換と関連する原理講論の記述を調べると、あるところでは血統的な罪について述べていたり、別のところでは全く違った理論となっていたりと非常に曖昧であり、劉孝元氏の戸惑いさえ感じられます。
 しかし、天聖経においては 人間が堕落してサタンの血統を受け継いでいることが強調され、曖昧な原理講論とは違って、真の父母によって血統転換されねばならないことが繰り返し語られています。
 そして、文先生の血統転換理論の特徴は、エバが天使長サタンの血統を受け継いだという考えが大前提となっており、「復帰」についても特に「真の父」と新婦としての「エバ」の関係が重視される理論となっています。
 従って、天使長とエバの一度の霊的性関係によってはエバが天使長の血統を引き継ぐようにはならないという科学的論理が成立してしまうと、血統転換理論は根本的に間違った理論となってしまうのです。

 以上のことからわかるように、血統転換理論の有る無しについては原理講論と文先生の教義を集大成した天聖経などとでは明らかな違いがあります。
 さらに前の投稿にも書いたように、神の心情については 文先生と統一思想を執筆された李相憲氏とでは異なった解釈となっており、まず基本的に心情という言葉の定義からして違い、李相憲氏は哲学的に根源的な概念として心情について論じているのに対し 文先生はほとんど喜怒哀楽の感情と同様の意味で語っています。
 従って、Watcherさんが述べられたように、原理講論や統一思想要網と文先生の宗教思想は分けて考えるべきであり、それを一貫した思想と考えると大変な間違いを犯してしまうことになります。
 天聖経は天国の聖書とされていますが、統一原理や統一思想と異なり、非科学的な論理が目立ち、論理的な緻密さに欠けるのが気にかかります。
 
 また<文氏は、本当に再臨主であるかどうかは別にしても、少なくとも「宗教指導者として、その実践面においては致命的な誤りを犯した」ということにはならないでしょうか?>という意見を否定することは困難でしょう。
 私は前の投稿に書いたように、(天の摂理という名目で)日本の統一教会員から集めた献金で(メシア王国建設という名の下に)その資金を利用した「創造活動による喜び」に支配され、それを克服できなかったところから神の摂理と無関係な方向に進むようになってしまった可能性が高いと思っています。

 私は原理講論や統一思想要網のような論理的で説得力のある理論が文先生の思想そのものであると思い込んでしまったことが 大きな悲劇を生んだと思っています。
 つまり、非常識な献金の摂理が発表されても「統一原理のようなすばらしい真理を発見されたお方が、無意味なことをなさるはずがない」と思って、それに疑問を感じながらも 全てを犠牲にしてその命令に盲従してしまった。
 しかし、結果的には世界が変わることはなく、かえって多くの日本人食口の家庭が犠牲となり、その献金の要求に苦しみ続けるようになってしまった、ということではないかと思います。

 もし、文先生の思想が天聖経のようなものだとわかっていたら、そのような思い違いをして犠牲になる教会員もそんなに多くはなかったと思います。
 そのように考えると、文先生の神格化を止めるべきなのは当然ですが、間違った血統転換の理論も整理し、上に引用した原理講論の第二章 堕落論・第四節 人間堕落の結果・(二)の中にあるような劉孝元氏が説かれた原理の基本に忠実な信仰をもつことが自分自身と、そして世界の救済に繋がる道だと思われます。

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