『我らの不快な隣人』書評-大田俊寛(宗教学者) 

書評・感想(11)
 


“カルト”化する大学業界の人びと
の続きを書く予定だったが、拙著『我らの不快な隣人』の書評が月刊誌『日経ビジネス アソシエ』(7月号)に載ったので、先にそれを紹介する。
 これまでの書評に比べ、もっとも文字数が少ないものだが、私が拙著で言いたかったことの一つを的確に評したものである。それゆえ、正直、とてもうれしかった。

 評者は大田俊寛さん。まず、アソシエに載った筆者紹介を引用する。

【埼玉大学非常勤講師。1974年生まれ。専攻は宗教学。グノーシス主義と呼ばれる初期キリスト教の異端から、オウム真理教のような現代宗教まで、宗教史を幅広く研究。著書に 『オウム真理教の精神史-ロマン主義・全体主義・原理主義』(ともに春秋社)がある】
 知のプラットフォームSYNODOS(シノドス)でも発信中。
 太田さんのサイトは「宗教学の探求:太田俊寛の研究室。同サイトの「えりぬきツィッター」はきわめてエキサイティングで、刺激的だ。

 拙著の書評が載ったのは、<われわれは「カルト」とどう向き合うべきか>というテーマでなされた大田さんへのインタビュー記事(120~121頁)で、論者の推奨としてコラム的に取り上げられたものである。
 

by:google

-論者の推奨-

「反カルト」のカルト性を問題視
『我らの不快な隣人-統一教会から救出されたある女性信者の悲劇』

 著者の米本和広氏はこれまで、幸福の科学、オウム真理教、ライフスペースなど、様々なカルト問題を扱ってきたジャーナリスト。特に『洗脳の楽園-ヤマギシ会という悲劇』においては、ユートピア社会の実現を目指すヤマギシ会において行われていた「洗脳」の技法を明らかにした。

 しかし、本書では、著者の視点が大きく転換する。統一教会問題において、監禁による脱会説得という強制的手段を取っていたのは、むしろ「反カルト」の陣営だったと言うのである。
 
 現在の著者は、反カルトのカルト性、すなわち「カルトは純然たる悪であり、そうした悪しき存在が善良なる社会を棄損している」という考え方が、実はカルト的な善悪二元論と相似形にあることに警告を発している。

 同書に対しては、今も様々な意見が戦わされているが、カルト問題が一筋縄ではいかないことを理解するためにも必読の本と言える。

 
反カルトがカルト化しつつある!

 これまで拙著は、宗教評論家の芹沢俊介さん 翻訳家の徳川家広さん 精神科医の斉藤環さん 宗教社会学者の真鍋祐子さん 雑誌の編集長でクリスチャンの谷口和一郎さん ジャーナリストの石渡嶺司さんによって取り上げられている。(システム災害からの復旧が未完成のため、一部が文字化けしています。「?」は、「-」あるいは「~」に読み替えてください)

 いずれも比較的高い評価を頂いているが、「反カルトのカルト性」について言及されたのは大田さんが初めてである。

 そこで、いい機会なので、このテーマについての最近の私の認識を述べておくことにしたい。

 大田さんのを含めこれらの書評には、拙著は「統一教会を擁護している、統一教会の教義・活動を肯定的に評価している、それが欠点だ」などといった指揮は、一切なされていない。

 それは当然のことで、そんなことはひとつも書いていないからだ。それどころか、「拉致監禁」のテーマから逸れるのを覚悟で、統一教会の本質的な問題点を高額エンドレス献金と析出し、あえて一章(「借金集団」)を設け、同団体を批判をした。 当ブログでもよりラジカルに批判している。(カテゴリー「統一教会考」を参照)

 それにもかかわらず、反統一教会陣営の有田芳生国会議員は、私のことを「統一教会の御用ライター」と、ツィッターで多い日には1日4回も、つぶやくようになった。50回を超したところで、ならぬ堪忍で、弁護士を通して警告文を送った。それによってようやく辞めたが、これは名誉棄損罪に該当する違法行為である。(カテゴリー「有田議員を糺す」を参照)

 ところで、現在、12年間監禁されていた後藤徹さんが、監禁に関わったメンバー(脱会屋の宮村峻氏、牧師の松永氏、後藤さんの兄弟姉妹)を相手取って、東京地裁で訴えを起こしている。

 双方書面のやりとりが行われているが(拉致監禁by宮村の裁判記録を参照)、宮村氏は陳述書で私のことを「統一協会のお抱えジャーナリスト」とレッテルを貼り、宮村氏の代理人山口広弁護士は「統一協会のお抱え的ジャーナリスト」と書面に書く。
 また、原告側は私を証人申請しているが、被告側は「統一協会のシンパ的ジャーナリストだ」として、「不要」と主張する。

 これらの記述も、名誉毀損に抵触する表現である。

 不要だとする根拠は、要するに、①統一教会は拉致監禁に反対している(あたりまえだ。自分たちの信者が拉致監禁されているのに反対しない団体は、世界にただ一つとしてないだろう。拉致監禁に反対しなかった09年夏までの統一教会は、世界にただ一つの団体だった)、②米本も拉致監禁のことを書き、それに反対している、③よって、米本は統一教会とズブズブの関係で、統一教会のシンパ的ジャーナリスト-というものである。

 頭がくらくらするような論法だが、彼らは真面目にそう考え、主張しているのだ。 真面目、ここが重要だ。
 法廷に出された書面であり、私が好む揶揄・からかい文章などでは決してない。

 私が日蓮を賞賛する記事を書く。そうすると、反創価学会、反顕正会の団体が「米本は創価学会のシンパだ」「顕正会のシンパだ」というのと、本質的に同じである。

 ヤマギシ会の、略して「とっこう」と呼ばれる特別講習研鑽会に参加すると、脳の神経回路が変容し、変性意識となる。とっこう参加者は、汚く悪臭が漂う豚小屋を見て、なんと清潔な小屋、豚は幸せに暮らしている-ように見えてしまう。 これは事実としてあった。

 被告側の弁護士の脳もそれと同じではないかと思われる。
 彼らの通常の弁護活動はきわめてまともなものだと思う。
 ところが、通常の仕事を終え、反統一教会陣営に再び足を入れると、脳の神経回路が急速に変容し、統一教会と同じように拉致監禁に反対している私が「統一教会のシンパ」として見えてくる。

 少々不気味である。

 ところで、カルトには大田さんもインタビューで語っているように、学問的に定まった定義はない(学問以外でも!)。

 ここでは便宜的に、カルト=絶対性、違法性、排他性、激しい攻撃性を有した集団としておく。

 私が本を書きながら、「反カルトのカルト性」を感じたのは、こうした性格が共通していると漠として感じていたからだが、最近では比喩的な意味ではなく、反カルト集団(主に反統一陣営)は、反カルトを冠にしたカルト集団に進化(変質)しつつあると認識するようになっている。

 最初はヨガ、精神世界が好きな若者の集まりだったミニサークルが、次第に進化(変質)し、最後にはサリンをばらまくようになった。
 成田ミイラ事件のライフスペースも、最初は自己啓発セミナーに過ぎなかったが、主宰者とスタッフが共依存する中で、カルト化していった。

 反カルト、反統一教会だからといって、カルトに変質しない保証はない。


 私が<これは危険だな >と不安を覚えた出来事がある。

 先の後藤裁判である。
 原告側の訴えを支持するMKさんが陳述書を書いた。(1)宮村氏の監禁説得を受けて脱会した(その後、再入信)、(2)脱会の過程で、監禁されている後藤さんの部屋に行った-という衝撃的なものだった。
「MK氏の陳述書ー後藤徹氏の監禁現場に宮村氏と同行したMK氏の驚くべき陳述書」を是非、参照のこと。

 しかし、これだけなら、被告側は統一教会の指示によって書かされた虚偽の羅列だと主張することができる。

 ところが、被告側を震撼とさせるような陳述書がさらに提出されたのである。
 それは、MK氏の監禁に関わったMK氏の弟が,姉の陳述の正しさを裏付ける陳述書を提出したのである。
 弟さんは、今でも統一教会が大嫌いな、統一教会なんかつぶれてしまえと思っている人である。

 窮地に立たされた被告の宮村グループはどうしたのか。

 なんと、弟の自宅を電撃訪問したのである。
MK氏の弟の陳述書-かつて姉を脱会させるために妻子を犠牲したMK氏の弟の衝撃的な陳述書を是非、参照のこと。

 この話を聞いて、私は思わず、「口封じ」(?)、そこから松本サリン事件のことを連想してしまった。


 この出来事から、反統一陣営にカルト性を見出すレベルから、カルトそのものになりつつあると認識するようになったのである。

 もう一つの出来事は、反統一陣営の宣伝ブログ、「やや日刊カルト新聞」(以下、カルト新聞)の最近顕著になってきた排他性、攻撃性である。

 詳細は<プロローグ - 「やや日刊カルト新聞」の自由報道協会での記者会見><心の腐った 「やや日刊カルト新聞」 主筆>を読んでもらいたい。

 この連載はまだ続くようだが、記者会見に参加した、カルトとかには一切関係のない人が「カルト新聞(管理人の藤倉善郎氏と田中清史氏)は最凶カルト」と感じたことである。
「やや日刊カルト新聞という最凶カルト」。これにも是非目を通していただきたい。

 ある集団が一つの方向に向って進化(変質)すると、それに歯止めをかける装置がない限り、いつしか怪物になってしまう。

 1930年代のドイツ、ソ連、日本、粛清がともなう金日成の個人崇拝化が進んだ1940年代の北朝鮮を想起せよ。

 カルト新聞の進化に歯止めをかけることができるのは、反統一教会陣営の弁護士たちだと思うが、この弁護士たちもカルト化しつつある(全国霊感商法対策カルト弁護士連絡会に)。

 国家の変容と、マイナーな反統一教会陣営の変容とを同列に扱うのは、「飛躍だ」と思われるのは当然だろう。

 しかしながら、集団の変容は規模の大小を問わないのではないか。国家だろうが、数人のミニ団体だろうが。
 先のライフスペースもそうだが、連合赤軍然り、日本共産党の新日和見主義者査問事件然り、ビンラディングループ然り、毛沢東グループ然り。たくさんありすぎる。

 ヨガのサークル時代の松本氏(麻原彰晃)を知っているある鍼灸医が、私にこう語っていた。
「あの松本君がオウム真理教の教祖となって、サリンまで撒くようになるなんて。信じられないですよ」

(追記)オウム真理教は、サリン事件のことでマスコミから追及されたとき、弁護士の青山氏をはじめとする幹部たちは全否定した。統一教会員の拉致監禁のことを追及されたとき、山口弁護士たちは「拉致監禁などなかった」と全否定している。よく似ている。
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コメント

カルトのメルマーク

確かに、反カルト陣営と銘打った拉致監禁派のカルト化は著しいものがあります。
とは言っても、これはこれまで統一教会のカルト性に隠されてきたものが、他の人目に見えるようになってきただけではないかと私には思えるのですが。

統一教会vs反統一教会の戦いは、カルト対カルトの構造を呈していたのですが、統一教会側は自らの絶対性を信じるあまり、宣伝工作の重要性に気がつかず、反統一教会陣営は宣伝の重要性を認識し、積極的に活用することにより、反統一教会陣営のカルト性は、統一教会のカルト性の陰に隠れてしまったのが事実ではないかと思います。

何故そう判断するのかという理由は、この拉致監禁の問題に端的に表れているのではないかと考えています。

拉致監禁のピークは90年代中葉です。毎日のように拉致監禁が行われていたのに、いくら何でもこれはおかしいとというストッパー的批判が出てくるのは、米本さん・室生さんのお二人の出現を待たなければならなかった事が、反統一教会が今も昔も、カルトであった証拠だろうと考えています。
最盛期にストッパーがでていないのです。

年間300件、拉致監禁が起こったとしたら、関係者は1000人以上に上るでしょう。もっと早くにおかしいと考える人が出てきてもおかしくない数字です。でも、批判者は現れなかった。
おそらく潜在的に批判者は居たと思いますが、顕在化していないのです。

私は、カルトかどうか?この判断のメルマークは、内部批判者の存在を許容しているかどうかと批判に対する態度だろうと考えています。

内部批判者を圧殺する、外部批判者の批判をまともに取り合わない。
これこそが、カルトかどうかの分かれ目だと。

何故なら、それは自分の考えの絶対化を行っていること、自分の考えとは違う考えを排除していることの現れであるからです。
これを突き詰めれば、自分の考えが法であるという考えと、自分のと違う考えに対する憎悪に繋がっていきます。
従って、これこそが、米本さんが言われる、

カルト=絶対性、違法性、排他性、激しい攻撃性を有した集団

のメルマークになるものです。
つい最近、紀藤弁護士のツイッターに次のような興味深いやりとりがなされています。
少々長いのですが、カルトの重要な論理、特徴が現れており、少々長くて申し訳ないのですが、紹介させていただきます。

http://twitter.com/#!/masaki_kito
<紀藤正樹弁護士の発言>
勉強不足と理解しようとする気持ちがないから詭弁に感じる>@nihon_koutei:中島さんはネットの現実をご存じないみたいですね。あおり行為はやめていただきたいと思います。僕も中島さんも実名ですがこの人は日本国皇帝を名乗ってネットで暴れる人にすぎません

<日本国皇帝‏さんの発言>
うん?私が実名でない事を批判したのは紀藤弁護士でしょうか?だとすれば個人情報保護や人権侵害への正当な自衛手段を弁護士が認めないという由々しき問題と考えます。

<紀藤正樹弁護士の発言>
相変わらず的外れの批判を繰り返されていますが、匿名を選ばれた以上、その分、発言に説得力がなくなるのは必然かつ当然です。表現に全責任を負うだけの重みがないからです

<日本国皇帝‏さんの発言>
そもそも匿名による発言であっても実名と同じく自らの発言に法的責任を負うのは同じですし、現実にIPアドレスよる個人の特定も可能です。貴方の匿名への批判こそ弁護士としてまさに的はずれです。

<紀藤正樹弁護士の発言>
実名であれば様々な人との関係性が生まれアドバイスや情報をもらえ知識も得れて人として成長できるのに。理屈をこねまわす人生はやめたら?>@nihon_koutei 匿名発言であっても実名と同じく自らの発言に法的責任を負うのは同じ・IPアドレスよる個人の特定も可能←可能だが容易でない!

<紀藤正樹弁護士の発言>
せっかくのTwitterのタイムラインが乱れるので、しばらく、僕への無意味なご意見に対する反論は控えることにします。つまり反論がないのは、”無意味”だという意味でご理解ください。>特に匿名の⇒ @tubupoko とんびさん@nihon_koutei 日本国皇帝さん

このやりとりを読まれて、統一教会の方達は、おそらく、紀藤弁護士の意見の方にシンパシーを感じるでしょう。
統一教会は、その教義に「責任のない自由はない」というものがあり、それを根拠として、実名でなければ批判は許さない、という論法が根強く残っています。

紀藤弁護士の考えと同じです。
そして、紀藤弁護士は、このやりとりの最終は、意見をシャットアウトすることにより終わらせました。

この論法は批判を封じ込め、自らを絶対化させ、異論を排除する、もっとも普遍的な、カルトに共通する思想といっても良いかと思います。

被批判者が責任、責任という時には、その言葉の裏には、被批判者が批判者に責任をとらせよういう思想、つまり、被批判者が自らが批判者の責任をとらせる姿勢を見せて、その口封じしようという思想が根底にあるわけです。

批判者、告発者の責任はデリケートな問題です。

健全な社会・社会を保つためには、ストッパーが必ず必要です。しかしながら、批判・告発は、被批判者・被告発者にとり不利益に働く、このため、往々にして、批判者・告発者は、被批判者・被告発者から著しい不利益を被ることが多く、法的にその権利を守る必要すらあるデリケートな問題です。

また原則的にも、批判とは、批判される側の責任問題を取り扱っている以上、その批判が正当なものであれば、批判者の責任ではなく、その責任主体は被批判者にあります。

例えば、ある人が誰かの悪口を言っていた。それを見とがめた人が、悪口を止めるように注意した。
そうしたら、悪口を言っていた人が、きちんと名前を名乗れという。何故なら、あなたの発言には責任が伴っていないからと。

これは、どう考えてもおかしな事です。

批判者がどんな立場であれ、どんな個人であれ、問題は、その批判が正しいかどうか?的を射ているかどうか?であり、批判が正しいもの、当を得たものであれば、被批判者にとりその批判は有益なものであり、批判者がどんな存在かとか、その責任はどうでもいい話です。

ですが、カルト化した人たちは、そうは考えません。

批判の内容の前に、批判自体が問題なのです。批判を封じ込めようと考えるわけです。
そして、封じ込める口実に、この責任論が非常に都合が良く、結果、批判を封じ込め、圧殺する人たちの集団がもつ特徴的な考えとして、流布されています。

但し、気をつけなければならないのは、匿名をいいことに、名誉毀損・無責任なおもしろ半分の言動・無根拠のでっち上げを行う人物達が多く、このような人物群に対しては、この責任論は正論になりますし、相手が真剣かどうかのバロメータとしては有効でしょう。決定的要因ではないですが。

中国の王朝、宋の趙匡胤に有名な石刻遺訓があります。遺訓は二つ。その中の一つが

言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。

宋は内憂外患を地でいくような時代に、中国文明の華を咲かせました。
そして、文弱王朝と言われますが、岳飛等の忠勇烈士を最も多く排出した王朝といわれます。

健全な社会、健全な団体であるかどうか、カルト化した社会、カルト化した団体であるかどうか、

のメルマークは、健全な批判者の存在と批判に対する責任論の有無、そして、被批判者の批判に対する取り組みにこそ現れると言っていいと、私は考えます。

不快な隣人、怖い隣人

新書でも近著でもないのに、このように取り上げられるということは、宗教専門家にとっては『我らの不快な隣人』は相当インパクトのある書籍なのだろうと思います。

たしかに、反統一で塗り固められたジャーナリズムの中にあって、この書籍の提示した問題提起は非常に大きいものがあると思います。

その後、時代も大きく変化し、反カルトのカルト性が顕著になってきていますので、どうでしょう、第二弾を執筆されてみてはいかがでしょうか。

そこで、タイトルですが、『我らの不快な隣人の隣人』、『不快な隣人より不快な隣人』、『我らの不快な隣人、怖い隣人』、なんてのはどうでしょう。

カルト化に関して

昨日に続いて、長文で申し訳ありません。
このようなカルト化は何故生じるのか?ということを考えていました。

カルトとは何でしょうか?

元々は、カルトとは礼拝を意味する言葉から派生した言葉です。
当初の意味づけとしては、宗教の主流派から外れてしまった、分派した小規模宗教団体とされてます。
そうした小規模団体は、周囲の理解を超えた行動を行うことが多く、その中には反社会的とも思える行動をとる、又本当に反社会的行動をとる団体が目立ち、

次第に、こういう反社会的行動をとる小規模宗教団体のことをカルト、次にはそういう烙印を押された小規模宗教団体、更には、手当たり次第に小規模宗教団体をカルトと呼ぶような状況になってきているのではないかと思います。

これは、現在の社会全般の雰囲気ですが、一方、専門的で冷静な人達は、その本質の方に着目し、米本さんのように絶対性・排他性・反社会性・攻撃性などの特徴をもって分類しようという動きも見受けられるわけです。

ただ、一般的な性向としては、語源、語の意味合い経歴より、カルトとは先の特徴持つ宗教団体というような理解であり、これを非宗教的団体、集まり、勢力、個人に広げることに違和感があり、

これが米本さんの言われる反カルトのカルト化という言葉の理解がなかなか難しい、進まない理由になっているのではないかと思います。

確かに、カルト化が顕著に観察されるのは宗教団体です。

何故でしょうか?

それは宗教の絶対に避けることができない特性が、カルト化を強力に押し進めてしまうからです。

宗教は信じることこそが命です。

信じたものが正しいと信じることこそが宗教であり、正しいと思うことを絶対化しなければならないわけです。

逆に言えば、それに反する考え、思想は悪であり、排斥しなければならいものであり、排斥することは正しいことだと信じることでもあります。

教えの絶対性の確立、反する考えの排除、正しい法の実践こそが宗教の目標であるわけです。

カルトとは、絶対性・排他性・違法性・攻撃性の特徴を持つとすると、まさしくすべての宗教はカルト化こそを目指すのだと言えるではないかと思います。

だからこそ、宗教団体の一つの定義としてカルトという言葉が派生し、定着してきたのではないかと考えられるわけです。

勿論、高等宗教にはこのカルト化を防ぐための教え、例えば隣人愛とか慈悲、例えば修行のあり方、世俗との関わり方とかを教える教えがあり、バランスがとれるようにはなっているのですが、一旦カルト化が始まると抑えが効かず、暴走してしまっているというのが歴史的にも認められるものです。

このように書くと、宗教の存在自体が悪であると書いているように思われるかもしれませんが、これはカルト化という現象に関する宗教の負の影響力の解析に過ぎませんので、宗教が悪だと考えているわけではありません。

このままの流れですと、このような宗教の特性を踏まえて、宗教の正の影響力を最大限に生かすためにはどうすればいいのかという話になるのですが、

ここでは、主題より外れますので、話題を転じます。

じゃあ、宗教以外にカルト化は生じないのでしょうか?

歴史的に見れば、そうではないことは明らかです。

絶対性・排他性・違法性・攻撃性をもつのは、団体はおろか、国家全体がそうなってしまった事例があるわけです。

ナチスドイツ・大日本帝国・ソ連・中国、絶対的な正義、絶対的なイデオロギーの元に、反対者の圧殺・大量虐殺・異論の封じ込め、排除を行いました。

ここで特徴的に判ることは、カルト化は正義を掲げる団体・人達に起こるということです。

これはある意味当然の帰結です。

何故なら、正しいの対義は間違いであり、正義の対義は悪。

自分が正しければ、自分に反対するものは悪。批判するものは悪。逆らうものは悪なのです。

間違いは正されなければならず、悪は排除しなければならないわけです。

従って、正義を掲げるものはカルト化する危険性と常に隣り合わせの状況であるというのが実際の所であろうと判断できるわけです。

このことを念頭に考えてみると、宗教の次にカルト化するのは、政治関係者及び司法関係者であると言えましょう。

但し、民主社会では選挙があるため政治関係者のカルト化は一定の歯止めがあるため、日本の実際上では、司法関係者(司法・司法行政・司法警察・弁護士)が宗教に次いでカルト化のおそれが高い状況ではないかと判断できるわけです。

このことは、例えば、宇佐見さんの事件でも如実に表れています。

宇佐見さんは、行動自体は認めても容疑は否認しました。このことが悪質され、起訴されたと言われています。

ようは、検察は異論を認めず、異論を懲罰するために起訴を行ったわけです。

これが殺人犯で、状況証拠・物的証拠が完全に揃った状況で(そういう状況が可能かということは脇に置いて考えてください。また安楽死とか異論があるものはここでは考慮に入れないでください)、こういうことやったのならば、これはカルトの特徴ではなくなるでしょう。

殺人は異論の余地なく、悪いことであるためです。

しかしながら、解釈に異論があるなか、異論の検討を行わず、異論を懲罰するために起訴を行う。極めてカルト的な判断と行動です。

宇佐見さんの行動は、少しでも正常な思考が行われれば、人として当然の行動をとったまでのことであることは、一目瞭然です。

ところが、「人として当然の行動をとった、だから、犯罪を犯しては居ない」という主張に対して(検察にとって異論)、それが本当かどうかの検討は行われず、むしろ、その主張を懲罰し、圧殺するために起訴を行っているわけです。

まさしく、カルト化した行動であることが判ります。

この危険性は、司法関係者である弁護士たちにも、また、それらの影響下に置かれた正義を掲げる、

例えば、霊感商法を撲滅する正義、カルトに反対するという正義を掲げる人達にも共通する危険性であろうと思います。

つまり、カルト化というものは、それは宗教専売の特徴ではなく、正義を掲げる人、正義を行おうとする人達に共通する陥穽であろうというのが、私の考えです。

これを避けるためには、批判を封じ込めないこと、批判に耳を傾け、検討を行い、妥当なものがあれば修正することを心がけること。

これこそが肝要であると考えます。

全統一教会信者諸君に告ぐ!(上)

 ブログのテーマと関係のないことで申し訳ないのだが、信者諸君に読んでもらいたい記事がある。

 世界日報の「PTSD発症」というタイトルの連載記事である。右サイト下にリンクしている「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」に紹介されている記事である。どうかクリックを。

「PTSD発症(1)」
http://kidnapping.jp/news/20120608.html
「PTSD発症(2)」
http://kidnapping.jp/news/20120609.html
「PTSD発症(3)」
http://kidnapping.jp/news/20120610.html
「PTSD発症(4)」
http://kidnapping.jp/news/20120612.html

(注)このブログサービスのコメント欄はURLの貼り付けが多くなると、アップされなくなるので、続きを書く。

全統一教会員諸君に告ぐ!(中)

-続き-
「PTSD発症(5)」
http://kidnapping.jp/news/20120613.html

 拙著でも少しばかり触れたが、日本で最初に監禁牧師を相手取って提訴した今利さん家族のその後のことをフォローした記事である。

 今利さん一家は、メインで提訴した理絵さんが働く一方、夫の智也さんが精神疾患に苦しみ、そして2人で4人の子ども(下のチビちゃんは2歳のはず)を育てるという苦難な環境にある。

 全統一教会信者よ!
 今利さんたちが提訴したから、拉致監禁が激減したのだ。そのことを考えよ!

 先駆的な役割をしたのに、あれこれいう奴もいて、恵まれない環境にあるのだ。
 少しは思いを馳せよ!
(まあ、バカな教会員だから、無理かもしれないけど)

全統一教会員諸君に告ぐ!(下)

 この連載記事を書いた日報記者は誰か知らないが、とても優秀、想像力がある記者だと思う。

 それに比べ、後藤徹氏が代表となっている「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」のサイトは、最低である。

 その1・連載記事は5で終っているが、続くかどうか明記していない。

 その2・連載記事5の次は水戸での拉致監禁裁判反対デモの記事である。
 ここには小生の、宇佐美控訴のことを書いたブログも紹介されていた。  しかし、中途半端

「趣意書4」で終っている!

 今回の連載も、5で終わりかどうかもはっきりしない。

 つまり、いい加減なのだ。

愛がなく、継続性もない

 水戸での反対運動はいいと思う。

 しかしながら、200人のデモ参加者のうち、誰が今利さん一家の苦悩に思いがよぎったことだろうか。

 おそらくゼロだろう。

 統一教会は変な宗教団体である。「為に生きる」と抽象的に夢想しながら、その実、誰の為に生きるのか具体がない。
 愛がないから、今利さん一家のことに思いをいたすことがない。

 ブログも継続性がない。

 継続性があるのは高額エンドレス献金だけだ。

 と、愛している知人に書き送ったのだが、その返事。
「高額エンドレス献金もいい加減だから」

お~しまい

機械になろうとした司直の矛盾

鸞鳳さんの考察を大変興味深く読ませてもらいました。非常に奥深い考察であると思いましたが、やや強引な印象もあるように思います。検察や裁判所がカルトになりうるというのはちょっと無理があるのではないでしょうか。

私は次のように思います。

現代の検察や裁判所の問題には、人間の内面性を考慮しないという問題があると思います。彼らは人間の心というものを無視して、あたかも機械のように客観的な証拠から事件の判定をしようとします。たとえばゴビンダさんの事件でも、ゴビンダさんがどんなに無実を叫んでも、その信ぴょう性は考慮されず、あくまでも客観的な事実だけから白か黒かを判定しようとするわけです。人間の心の中は誰にも覗けないので、それは判定の対象にはなりえないと彼らは考えます。

ところが一方で検察官や裁判官はあくまでも人間であり機械ではありません。彼らはどんなに機械になろうとしても、彼ら自身の心が無意識に動くことは避けられません。そこに落とし穴があるのだと思います。ゴビンダさんの事件の場合、ゴビンダさんがどんなに無実を叫んでも彼らはその訴えには耳を貸さず、あくまでも機械的に判断しようとしました。そして事実を客観的にみるかぎり、ゴビンダさんが犯人であることは否定しえないと彼らは結論づけました。ところが実はそれらの証拠はいずれも決定的なものではなく、ゴビンダさんが100%犯人であるという証拠ではありません。にもかかわらず、ゴビンダさんが犯人にされたのは、彼らが無意識にゴビンダさんが犯人に違いないという人間的な判定が加わっていた証拠なのです。つまり、彼らは自ら機械になろうとしながらも、その判定の中にはいつのまにか無意識の人間的判断が入り込んでいたわけです。その人間的判断の中には(佐野真一さんらがいうように)無意識の差別意識があったのだと私は思います。

同じようなことは宇佐美さんの事件でもいえると思います。宇佐美さんの事件がストーカー事件の類ではないということは宇佐美さんの立場からすれば明白だと思いますが、ところが、もし人間性というものをまったくもたない機械の判定にゆだねられたとすれば、その事件はやはりストーカーという犯罪の構成要件にひっかっかることもまた当然かもしれません。つまり機械にとっては、自称被害者(告訴人)が婚約を破棄したにもかかわらず、被告訴人(元婚約者)があきらめずにひつこくあとをつけまわされ復縁を迫ろうとしているという単純なストーカー事件にみえてしまうわけです。その決定的な証拠物件が車につけられたGPSだというわけです。彼らにとってはその証拠があるだけで、ストーカー事件は成立すると判定しました。

これは要するに検察官や裁判官が人間的な判断を一切捨て去って機械になろうとした結果です。もし機械だったらそう判断するだろうと彼らは考えて、その判定に瑕疵はないと結論したのでしょう。重要なことは、その判定の中に宇佐美さんの(極めて特殊な!)事情や内心の思い(正義心といってもいい)などはまったく考慮されていません。拉致監禁という複雑な問題がその背景にあったとしても、検察官や裁判官はあくまでも機械的な判定を下すうえで、そのような複雑な背景は無視してもよいと考えたのでしょう。しかし、もし音声認識も可能なほど優秀なコンピューターであれば、この事件の背景に複雑な問題があるということを認識し、単純なストーカー事件ではないと判定を下す可能性もあります。ではなぜ、彼らはそうしなかったのか?そこにもまた彼らの無意識の人間的判断が入り込んでいると私は思います。つまり検察官や裁判官は人間的な判断をさけ機械になろうとしながら、結果としては逆に人間的な判断がどこかに入り込んでいるのです。そこにあるのもゴビンダさんのときと同じような無意識(あるいは故意?)の差別意識ではないかと思います。


この事件の異様性は法の番人が極めて軽微な違法性の適用のために、より重大な違法性の認識をないがしろにしているという事実です。宇佐美さんの事件の背景にある問題は憲法に対する違反であるということは明白です。それをあえて認識しようとしなかった司直はおおいに反省すべきでしょう。この事件は日本の司直のあり方が問われているのであり、最高裁で争われるべき大問題であると思います。

有田氏のびっくり発言

本日、小沢一郎の妻和子夫人が夫につきつけた離縁状が週刊文春に公開されました。大震災後に小沢氏がとった卑怯な行動に対して40年以上も連れ添った妻が自殺も考えたほど夫に対する失望と怒りの念にかられて、やむなくしたためた衝撃的な内容です。もちろん直筆の原稿ですので、他人が夫人になりすまして手紙を書いたということは考えられません。私自身も大震災後の政治家小沢一郎の身勝手な政局的行動に対して強い怒りの念を感じていましたので、和子夫人の手紙には深い同情を禁じ得ません。

ところが、こともあろうにあの有田芳生氏が、この手紙を「偽造情報をもとに書かされた政治文書だ」とツイッターで発言しているというのです。その情報源をあげておきましょう。

http://www.j-cast.com/2012/06/14135680.html

この発言が本当だとすると、ある意味でこれは相当踏み込んだ発言です。和子夫人が第三者に書かされたのだというからには、それなりの証拠が必要ですが、いったい彼は何を知っているというのでしょうか?もし証拠もなしにそんな発言をしているのだとしたら、彼の人間性そのものが疑われれてしかるべきでしょう。

有田氏は日頃から小沢一郎氏を信奉しているようで、「人間的に深みがあり、日本の政治家では大局をつかめる稀有な人物だ」と自らのブログでも賞賛しています。そもそも有田氏が民主党議員になれたのも、小沢氏の力により公認された経緯があり、以来小沢氏とは深い関係があったと想像されます。

しかし、この期に及んでも小沢氏を弁護するというのはびっくりです。それなりの覚悟でもあるのでしょうか?単にいままでの自らの発言とつじつまをあわせるための希望的観測気球にすぎないのだとすると、要するに「バカじゃなかろうか」とも思います。有田さん、あなたひょっとしたら焦っているんじゃないですか?

「所詮、カルトはカルト」

 Yoshiさんのブログが更新されした。
 タイトルは<「所詮、カルトはカルト」-やや日刊カルト新聞の危険な思想http://humanrightslink.seesaa.net/article/275057038.html
 
 いわゆるカルトに反対する人たちの「善悪二元論」がよく理解できると思います。
 改めて、反カルトのカルト化が急速に進んでいることを認識させられました。

 是非、一読ではなく熟読を。


(注)まさひろさん、ブログのテーマにあったところに投稿をお願いいたします。カテゴリー「有田議員を糺す」のところがふさわしいと思います。これからよろしくお願いいたします。投稿の感想を書きたかったのですが、テーマから逸れてしまうので、やめました。

 私も反省です。「全統一教会員諸君に告ぐ」の連載投稿は、カテゴリー「保護説得と親子関係」のところに載せるべきでした。PTSDもサブテーマになっていますから。

紀藤弁護士によるコメント荒らし

紀藤弁護士が自身の著作に低評価をつけたAmazonレビユアーにたいし、中傷するコメントを書いていました。

コメントはAmazonによりガイドライン違反で削除されたようです。

http://kitoamazon.seesaa.net/

著者自らこんなことをするなんて悪質ですよね。

カルト化考

GOZOさん、ご意見ありがとうございます。

やや強引な印象もあるように思います。

あの文章だけでは、このように感じられても致し方ないかと思います。

できるだけ短文(他の人からすれば、相当長いと思われるとは思うんですが・・・)で、テーマを追っていこうとすると、どうしても端折る部分が出て来ます。

一つの物事が起きる当たって、たった一つの要因、力で起きることはあり得ません。
様々な要因や働き賭ける力があるわけです。
それは同じように物事の発生を促進する要因や力もあれば、逆に、それを抑止する要因も力もあり、それらが複合して、物事は発生していくわけです。

例えば、司法関係がカルト化しやすいという命題を真と仮定した時、例えそれが真だとしても、それが偽であると言える根拠はあるわけです。

そして私は、その偽であると言える根拠を複雑になるために触れてませんので、現在の日本の状況からの実感として、強引であると受け取られても仕方がない面があります。

司法関係がカルト化するか、しないかという命題を考えるに当たって、どうしても看過し得ない、カルト化を防ぐ力が司法関係者には作用しています。

それは、彼らが法に従うこと要求され、法に仕えなければならない、という力です。
そして現在の法は、国・司法がカルト化しないことにかなりの精力を割いており、すべての法に従おうとすれば、カルト化はできないように成っているからです。

こんなことを書くと、「カルト」という言葉が新しいが概念であるため、そんなことの目的のために法が作られているわけではないと、「??」が飛び交うとは思いますが、

米本さんみたいに、カルトという言葉の本質に迫って考えれば、言葉の概念自体は新しくとも、このカルト化は昔からの現象であり、人間はこれを克服するために努力をし続けたことが判ります。

いわゆるカルトの特徴として、先に米本さんは、「絶対性・排他性・反社会性・攻撃性」ということを挙げられましたが、これは性質面での特徴です。

実際の行動面の特徴としては、

①権威主義。上位的存在の絶対化
②外部者の理解を超える不可解な行動
③反対意見の抹殺、封じ込め
④賛同しない者と反対者の弾圧、及び、反対者に対する軽視、人権無視
⑤下位同意者の財貨と労役の収奪

の5点ではないでしょうか?
これを拉致監禁派と実行家族に当てはめると、実にすべてが当てはまっているのが面白いのですが、
(今度の紀藤弁護士のアマゾンでの発言なんかは③④に当てはまるとか・・・)

それはともかく、司法関係に話題を絞って考えると、最上位現行法である憲法が、このようなことが発生しないための構造になっていることが判ります。

憲法とは、国家権力を縛る法律です。つまり、国、具体的には権力を実行する人達を縛る法律な訳です。

そしてその中で、権利と人権の尊重は大きなウェイトを占めています。

思想及び良心の自由は保障しなければならない、不当に逮捕してはならない、差別してはならない・・・エトセトラエトセトラ。

つまり、反対意見を反対意見だからとして意見を抹殺してはならない、不当に逮捕してはならない、差別してはならない、と国に対して釘をしているわけで、

こうなると、国、司法関係は憲法を守っている限り、カルト化の特徴である、反対意見の抹殺、弾圧、人権無視ということができなくなるわけで、よって、カルト化はできないということが言えるわけです。

でも、ちょっと待ってください。

でも、何故縛っているのでしょうか?

それは、実際にはカルト化の特徴である反対意見の抹殺・弾圧・人権無視に国・権力行使者は流れやすいからではないでしょうか?そして実際これが起こってきたからではないでしょうか?

例えば、「横浜事件」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6

これなんかは、国や警察、司法行政機関、司法が起こしたものですが、これとオウム真理教の坂本弁護士事件と比較して考えてみてください。

どこがどう違うのでしょうか?

オウム真理教がカルトならば、ここでの国は、警察は、司法行政機関は、司法はカルトではないと誰が言い切ることができるでしょうか?

そういうことを考慮する時、現行法体系の影響を大きく評価して、司法関係がカルト化することはないと考えることは、逆に無理があるのではないかと考えます。

それと、宇佐見さんの事件に絞って言えば、KOZOさんは、宇佐見さんの件が公安が主導しているというファクターを見落とされていると感じます。

公安は、国家的安全確保を目標としており、単なる偏見・差別の域を超えた思惑がファクターとして絡んでいる、と捉える方が自然だと考えています。

ただ、いずれに致しましても、拉致監禁問題と宇佐見さんの事件は、警察・検察の憲法に対する重大な挑戦であると判断しており、

この事件は日本の司直のあり方が問われているのであり、最高裁で争われるべき大問題であると思います。

ということには、諸手を挙げて賛成致します。

Re: 紀藤弁護士によるコメント荒らし

hanatanさん、とても面白い情報、ありがとうございました。

 屈託なく笑い、そして大笑いしました。弁護士が違反行為を咎められて削除。爆笑です。

>著者自らこんなことをするなんて悪質ですよね。

 という言い方もできますが、紀藤弁護士がとても幼稚であることを、自ら暴露してしまったという言い方もできます。

「高偏差値バカ」という言葉があります。勉強はとてもできるのだけど、頭が悪いという意味です。
 まさに、紀藤大先生にぴったしの形容句です。

 紀藤氏は山口の片田舎の高校から大阪大学に進学(神童と言われたらしい)、そしてさほどの苦労なく司法試験に合格。絵に書いたようなエリートコースを歩んできたわけですが、今回のことでインテリジェンスのカケラさえない、たんなるガキ(苦労して書いた本だから、悪く言うのはやめでぇ~)だということなんでしょう。
 もうそろそろ50じゃなかったっけ。

 とまれ、感謝です。Yoshiさんのブログhttp://humanrightslink.seesaa.net/に紹介することにします。どうかご了承を。

 これからもオモシロ情報を期待しています。

(追記)題名からして内容がわかるような本ですが、紀藤大先生に失礼だから、一度本に目を通してみます。琴線に触れるところあれば、ブログで書くことにします。

BLOGOSにも

大田俊寛氏が米本さんや室生さん、そして火の粉ブログのことにふれています。

BLOGOS記事の最後あたりです。

http://blogos.com/article/43779/

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