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『棄教を目的とした拉致と拘束』(人権報告-6) 

資料(15) 

 今回の報告で注目してもらいたのは、ヨーロッパの人権意識の高い知識人が後藤事件をどのような感覚で受け止めたのかということ。検察審査会の議決文に関する分析は、私にとってはきわめて新鮮だった。

 もう1点は、中見出し<後藤徹氏の例に見る親子関係の文化論>の記述である。
 石崎教授の言葉を借りた説得力のある分析である。日本社会全体にも通じる記述だと思う。この分析を推し進めていけば、拉致監禁を是とする反統一教会活動家は全体主義的思考の持ち主ということになろう。
 といっても、 当人たちにはまるでピンとこないだろうが・・・
 搾取されている人民を解放するために自分たちは犠牲的精神で活動していたと、心底、信じ込んでいた(と思われる)スターリン・チャウシェスク・ホーネッカー・毛沢東たち。彼らがタイムマシンで現代に戻り、自分たちの歴史的評価(全体主義者)を知っても、ピンとこないのと同じように。

「国境なき人権」調査報告書

-日本/棄教を目的とした拉致と拘束-

論点の整理
はじめに
第1章:日本の宗教事情の概観

第2章:現地調査の報告
前文/拉致問題の監視の状況
拉致・拘束下での棄教説得(1)~(9)(10)~(13)後藤徹さんが失われた12年は何のためか?

第3章:強制棄教を目的とした拉致と拘束、国際法の立場
第4章:結語と勧告

* 文中の(注)は報告書に記載されたもの。は管理人の注釈。
* 改行は一字空けとするなど、読みやすいように適宜、改行、行空けを行った。文中のゴチック、斜体字は原文のまま。
* ゴチックが今回アップしたところ。
一部の固有名詞をマスキングした。




後藤徹さん:失われた12年は何のためか?


 後藤徹氏は1963年、裕福な家庭に生まれた。
 家族は特に宗教的ではなかったが、社会慣習として仏事や神社行事に参加する家だった。
 後藤氏の人生の12年間が悪夢になるとは誰も予想しなかった。
 父親が社会的に高い地位にいて経済的に豊かだったせいで、後藤氏の悲劇が異常なほど長期化してしまったのかも知れない。実際、彼の父は製紙工場の工場長代理として千人以上の従業員を管理していた。
 父親は命令を与え、問答無用で従わせることに慣れた権威主義的な人物だった。徹氏は父親を尊敬していたが、互いに親近感をもっていたわけではなかった。


兄の■、妹の■子と徹本人への脱会工作

 徹氏が23歳、日本大学理工学部建築学科に学んでいた時、兄の■を通じて統一教会に出会った。彼らの妹の■子も、後に教会に入った。
 ところが1987年の春、兄が突然姿を消し、再び姿を現した時は別人のようだった。兄はプロテスタントになっていただけでなく、反統一教会活動に熱心だった。
 一体何が起こったのか。

 両親は3人の子供が妙な信心を持つことを憂え、統一教会から引き離そうとしていた。
 そこで両親は元信者の親たちで作った「水茎会」(みずくきかい)と連絡を取っていたが、そこの幹事役が宮村峻だった。
 宮村は広告代理店の社長で、宗教的な動機・背景のない脱会カウンセラーだった。
「水茎会」の親たちは、かつて後藤徹氏の両親と同じ心配を抱えていたが、子らを拉致・監禁して反統一教会活動家の手により再教育をしてもらい脱会させるのに成功した。そのために若い信者の親たちが引き寄せられていた。

 1987年の秋、後藤氏が24歳の時、父親から東京のホテルの一室で話をしようと呼び出された。
 驚いたことに母も兄もそのホテルで待っていて、激しい言い合いになった。徹氏は抜け出そうとしたが、ドアは特殊装置で閉め切られ、逃げ出すのは無理であった。憤慨した徹氏は兄や両親とつかみ合いになったが、結局、3対1では勝ち目がなかった。
 徹氏は結局このホテルの部屋に監禁され、その間、毎日のように宮村峻が統一教会元信者を数人連れてきて徹氏に棄教を迫った。
 その後、東京都杉並区荻窪のマンションに移された。逃げる術のないことを悟り、徹氏は信仰を断念する振りをして解放を待ったが無駄だった。それでも後日、彼は脱出した。

 再び拉致されるのを恐れ、徹氏は働いていた大成建設を辞め、名前も居所も変え、教会活動に専念することに決めた。
 その1年後に、妹の■子さんも統一教会を脱会した。
 1990年に徹氏は家族と連絡を持つようになり、しばしば実家を訪問するまでになった。家族が再び拉致を行わないと約束してくれたからだ。

 1992年8月、徹氏は韓国ソウル市で挙行された3万双国際合同祝福結婚式に、婚約者の■■■■■さんと一緒に参加した。
 しかし婚約者の親は後日、彼女を脱会させた。
  1995年頃、徹氏の兄は■■■子さんという、宮村と松永堡智牧師(日本同盟基督教団・新津福音キリスト教会)によって棄教させられた元統一教会信者の女性と結婚した。
 一方、徹氏は1995年8月に36万双国際合同祝福結婚式に、新たな婚約者・■■■子さんと参加した。
 

後藤徹氏への二度目の棄教工作

 最初の拉致監禁から8年が経過した1995年9月11日の夜、徹氏は西東京市にある実家を訪ねた際、両親、兄と見知らぬ男性に力ずくでバンの車両に押し込まれた。

 このとき彼が実家を訪ねた目的は、後藤氏の宗教について「家族の話し合い」をするためであったと家族側は主張している。2時間ほど話し合った末に、徹氏は拘束され、新潟県にある一室に連行され(パレスマンション多門607号)、1995年9月12日から1997年6月22日までそこでの生活を余儀なくされた。
 徹氏の記憶によれば、監禁場所は厳重に閉ざされ、全ての窓と玄関ドアは内側から鍵をかけられていた。
 彼には外出用の鍵は渡されなかった。両親、妹、兄嫁らが常に周りを固め、信仰を棄てるよう圧力をかけ続けた。松永牧師もしばしば訪れては統一教会からの脱会説得を行った。

 1995年の終わりごろ、後藤氏は脱会を表明したが、両親も牧師も信用せず監禁を続けた。
 翌年3月に父が入院したが、その後パレスマンション多門に戻ることはなかった。母親は死に向かう夫の看病に忙殺され、徹氏は兄嫁の監視下で生活した。
 父はガンが原因で1997年6月22日、65歳を一期として他界した。徹氏は西東京市の実家に連行され父の遺体と対面した。そのような折でも8人に「同行され」、逃亡のチャンスは全くなかった。
 父親が亡くなった直後、徹氏は東京のアパート(荻窪プレイス605 号)に移された。そこでも鍵を与えられず、6カ月間監禁された。
 1997年の年の瀬に徹氏は荻窪フラワーホーム804号室に連れて行かれ、そこで約10年間監禁された(注49) 。婚約者は3年間も徹氏の消息を探したが、ついに再会を断念した。

(注49) ●●▲▲さんは二度拉致され、それぞれ6カ月間と29カ月間監禁された。彼女は現在、韓国で暮らしている。彼女が「国境なき人権」に対してソウルで語ったところでは、●●さんが棄教を宣言した後、1998年に宮村は、●●さんに半強制的な形で後藤徹氏を訪ねさせ脱会説得をさせた。●●さんは後日、統一教会に戻った。




宮村峻による棄教の強要

 1998年1月から9月まで、宮村峻は統一教会元信者らを804号室に連れてきて、徹氏に棄教を強要した。
 徹氏自身の記録によれば、宮村は9月までに73回もマンションを訪れた。
 宮村はこううそぶいていたという:
「貴様を監禁しているのは俺じゃないぞ、お前の家族だ。外に出たいなら家族に訴えるんだな!」。
 つまり脱会カウンセラーとして、後藤氏の自由が奪われていたことは百も承知だった。実兄も妹も威嚇的に語ったという:
「あなたが変わらないなら、一生ここで暮らすことになる!」

 ●●▲▲さんは一時期、脱会説得をする側で協力したことがある。当時の後藤徹氏の状況を、「国境なき人権」に次のように証言した:

「私も以前、同じフラワーホームの別の部屋に監禁されました。1998年にそのマンションの804号室を訪れると、後藤さんが監禁されていました。
 元信者の方がドアをノックすると、後藤さんのご家族が重い錠を外して私たちを中に入れてくれました。そしてすぐに内側から鍵をかけました。
 宮村が批判の言葉を浴びせ続ける間、後藤さんは終始うなだれていました。
 私たちが部屋を出ようとすると、後藤さんのご家族が玄関の錠を開けてくれ、外に出るやいなや再び錠を掛けました。
 後藤さんを見たのは、その時だけでした。
 定かではありませんが、大体20分から30分の間だったと思います。その部屋に入った時、宮村と他の方々は後藤さんに語りかけていましたが、宮村は私のことを、『この人は、あんたの大学の後輩だ。初めのうちは彼女も口を開かなかったが、今では我々の仲間だ!』などと紹介しました。

 後藤さんは下を向いていました。
 説得の最中は張りつめていましたので、私までひどくストレスを覚えました。
 目を伏せた後藤さんの姿を見て、本当に気の毒に思いました。私は後藤さんに何も語れませんでした。宮村の脱会説得の手助けになるような言葉も一切言いたくありませんでした。
 その部屋にいた後藤さんは身動きひとつせず、下を向いていました。宮村らは後藤さんが脱会説得に対して全く反応しなかったので、大学の後輩である私が顔を出せば、少しは先輩風を吹かせるとでももくろんだのでしょう。
 それと暗に、『お前より激しく抵抗したこの女性も、結局、我々の話を受け入れて統一教会を離れたんだ!』と後藤さんを揺さぶろうとしたのでしょう。」’

 時が経つにつれ後藤氏は絶望的になって、玄関に向かって突進して逃げようとまでしたが、家族に制止されるばかりであった。
 彼はしばしば「警察を呼べ!」とか「弁護士を立てて訴えてやる!」と叫んだ。
 そんな時には家族の方も徹氏を布団巻きにして口を塞いだりしたので、ある時は呼吸困難に陥り窒息寸前まで行った。
 何度かの逃亡の試みはすべて失敗し、監視が厳しくなるだけであった。

 2004年から2006年までに、後藤氏は三度、ハンガーストライキをした。21日間のハンガーストライキを二度、30日間のハンガーストライキを一度断行したが、家族は「信仰上の断食だ」と黙殺した。


12年5カ月後に回復できた自由
 
 2007年11月頃、後藤氏の家族は監禁に伴う経済的負担が重くなってきたようで、監禁を継続するか否か話し合うようになったようだ。
 東京でマンションを借りるのには月15-20万円を要するからだ。

 2008年2月10日午後4時頃、徹氏の兄、兄嫁、母親そして妹が突然、徹氏にマンションから出ていくよう命じた。
 当時、徹氏の肉体は非常に弱っていたが、室内着を着ただけで、玄関前のコンクリート廊下に投げ出され、私物も身分証の類も渡されなかった。
 後藤氏は統一教会本部に行こうとして、近くの警察署でお金を借りようとした。だが事情をうまく説明できず追い返されてしまった。本当に幸いなことに、道ばたで統一教会信者に出くわし、小銭を借りてタクシーで教会本部に到着できたのだ。
 その夜、後藤氏は「栄養失調」と診断され、緊急入院することとなった。しばらくの間は立ち上がるのにさえ不自由した。

「家族の仕打ちを決して許せません。人間の尊厳を奪い、私の人生の一番大切な時期を奪ったんです。しかも家族も宮村も反省どころか謝罪の言葉もありません。宮村に至っては、荻窪フラワーホームの玄関ドアが南京錠で締まっていたことを全く知らなかった、などと言い逃れする始末です。」


法的な闘い

2008年4月、後藤徹氏は巣鴨警察署長宛に刑事告訴状を送付した。

2008年6月、後藤氏の監禁に関わった人たちを正式に刑事告訴した。

2009年12月9日、検察は刑事告訴について「証拠不十分」を理由に不起訴処分とした。

2010年6月23日、後藤徹氏は刑事訴訟手続きの再開を期待して、東京検察審査会(注50)に審査請求を行った。

2010年10月6日、後藤氏からの請求について東京検察審査会は、本件が強制、逮捕、監禁、傷害のケースなのか否かを判断するには疑問が多い、との理由で不起訴相当との決定を下した。
 
 東京第四検察審査会の決定の要旨によれば、「■(徹氏の兄)の友人3人が来たが、統一教会からの奪還防止のために手伝ってもらったものであり、逃走防止のためではない。」
 この表現から察するに、後藤氏の家族が彼のことを単なるモノであるかのように見ていて、徹氏自身の信仰を持つ自由などは認めていなかった事実、また同氏の家族が彼を、統一教会から守るとか統一教会から奪還されるのを防ぐとかいった口実のもと、まるで個人的意思を持ち合わせない人であるかのごとく、本人の承諾も得ずに転々と監禁場所を変え、精神障害者のように扱った事実を、検察審査会も理解していたことが分かる。

 しかし後藤氏本人は統一教会による奪還から守ってほしいなどと一言も頼んではいない。むしろ違法監禁から解放された直後、同氏はその足で統一教会に向かい、助けを求めたのである。後藤氏は現在、統一教会の活動的メンバーの一人として、拉致監禁・強制棄教の非道を国際的な舞台で訴え続けている。

 2011年1月31日に後藤氏は、家族と脱会カウンセラーに対する民事訴訟を起こした。
 後藤氏は「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」(注51)を設立した 。
 同氏のリーダーシップで、同会は反カルト活動家との対話を求め、彼らの活動がいかなる被害をもたらしているかを啓蒙する努力を続けている。

(注50) 検察審査会は非公開で、参加者の氏名も明かされない。後藤徹氏のケースで開かれた審査会は、東京都の有権者から抽選で選ばれた11名の一般市民で構成された。この制度は米国の大陪審制度に似ている。起訴にもちこむには、同審査会で11名のうち8名以上が「起訴相当」と判断しなければならない。東京第4検察審査会「議決書」は、裁判所の判決と同じような体裁で書かれている。

(注51) 「被害者の会」は2010年1月8日に設立、約500名の会員がいる。その目的は、1)拉致、監禁、ディプログラミングをなくす、2)これらの実行犯を起訴にもちこむ、3)被害者のケアをしつつ、日本と世界にこの問題の存在を知らしめる、の3点だ。日本語と英語のウェブサイト:
http://kidnapping.jp




後藤徹氏の例に見る親子関係の文化論

 心理学者の石崎淳一氏(注52) は「国境なき人権」に対して、家族による拉致・監禁という現象を分かりやすくするため、日本の親子関係の文化的背景を説明してくれた。

「後藤さんの親自身は、警察や検察の目から見てそれほど特別に悪い人物ではなかったかもしれない。むしろ、だからこそ『よい親子』である後藤さんの親と兄妹たちにとっては、その自分たちの『よい』家族関係に合わせず、『言うことをきかない』問題児の後藤さんに対する強い怒りや憎しみが生じたのだろうと思われる。

 しかし、それにしても後藤さんの親は、なぜ成人した子供を監禁し、暴力を振るってまで自分の思い通りにしようとしたのであろうか? まさにここに日本の家族の特質が関係していると思われるのである。その根本にあるのは、家族成員の一人ひとりが独立した人格としての十分な(心理的)地位を持っていないということである。

 いわば日本の家族は全体として共依存的なまとまりを持っているが、家族成員の心理的な独立性が低く、もし誰かが独自の思想や信仰のような内面的価値において独立性を高めると、残りの成員の心理的アイデンティティーを強く脅かすことになるのである。お互いの独立性を保持したまま家族としてまとまって機能することに慣れていないのである。
 その『一体感』の拘束力は無意識である分、強力である。

 このような独立した人格と基本的人権を認めない文化は、もし全体と異なる個人が現れた場合は、これを激しく排斥し、その個人の自由すらも奪って全体の意思に従わせようとする『村八分』文化なのであって、全体主義といってよい。
 そして、家族においては、本来は保護者として子供の人権を擁護すべき立場の親が、逆に不当な支配者と化してその人権を蹂躙(じゅうりん)することになるのである。
 しかも、『これは躾(しつけ) である』と言って児童虐待している親が虐待の事実を否認するように、そうした自分の行為の意味を親自身が十分に自覚しておらず、『家族の問題』であり『家族の話し合い』であると見なしている可能性がある。」

(注52)石崎淳一博士は神戸学院大学の教授で臨床心理士。


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コメント

弱い絆

 弱い絆で結ばれた”普通”の家族
 http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/kenzenforum/kenzenchiiki/07011912/007.htm 抜粋
 家族に対する満足度を聞くと、アメリカは非常に高いんだけれども、日本は非常に低いと。ここも勘違いがあるんですが、アメリカと日本を比べると、先日というかちょっと前ですけれども、ある有力な政治家に会いましたが、「いや、先生ね、もう日本はアメリカのようになったら大変ですな」と言うんですよ。何かというと、要するにアメリカのように家族が崩壊したら大変だというんです。
 ところが、その実態はアメリカの方がはるかに安定している。要するに、あなたは家族に満足していますかということを聞くと、満足していると答える率が圧倒的にアメリカの方が高いんですね。つまり、家族が崩壊しているという印象というのは、離婚率で考えてしまう。これ社会的な適応性で考えてしまいますけれども、心として満足しているかどうかというのを聞くと、はるかにアメリカの方が家族に満足している。


 米本さん、有難うございます。書き加えます。
宮村峻による棄教の強要(本文から)

A:「貴様を監禁しているのは俺じゃないぞ、お前の家族だ。外に出たいなら家族に訴えるんだな!」。

B: 宮村に至っては、荻窪フラワーホームの玄関ドアが南京錠で締まっていたことを全く知らなかった、
などと言い逃れする始末です。

 宮村の言うとおりB:”南京錠が有ることを知らなかった”と云うことにしても、何をもって宮村氏はA:「・・監禁」であると認識していたのか。不思議です。

監禁-ウィキペディア
日本では物理的に自由を奪う場合のみならず、脅迫を以って脱出を断念させることも監禁罪となる。
継続的に被監禁者を取り囲む、扉の前に立つ等の行為も監禁の手段となる。

Re: 弱い絆

 林さん、いつもながら興味深い投稿ありがとうございました。

 とても刺激を受けました。

 アメリカの離婚率は世界4位、日本は26位。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9100.html

 家庭の定義問題もあるだろうけど、最近夫と別れて母子家庭を営んでいる母親(34)と話しているのですが、「今はとても自由で、幸せ」だと。 彼女の夫も知っているけど、決して変な奴ではないです。 

犯罪と自覚

<『これは躾(しつけ) である』と言って児童虐待している親が虐待の事実を否認するように、そうした自分の行為の意味を親自身が十分に自覚しておらず、『家族の問題』であり『家族の話し合い』であると見なしている可能性がある>

とても分かりやすい分析ですね。
でも、ちょっと優しすぎる、という感じがします。

家族らは自分たちのやっていることが犯罪であることを認識しつつ、それを実行したのではないかと思います。

なぜなら、家族らは決して“話し合い”の全貌を語ろうとしないし、「本人が話し合いを了承した」などとウソを言い続けています。後ろめたさ、ありありです。

<拉致監禁を是とする反統一教会活動家は全体主義的思考の持ち主>

何よりも問題なのは、何も知らない親をそそのかして、拉致監禁を実行させる連中です。

全体主義も全体主義。
マスコミや法曹界に手を回し、正しい言論・ジャーナリズム、正しい裁きを封殺しようとしているのですから、ヒトラー級の犯罪者集団です。

しかも、自らは手を汚さず、「家族の問題」として、家族らを盾にして、自己保身に奔走しているのですから、腹黒いことこの上なしです。

拉致監禁問題の解決は、この連中が断罪されなければ、終わらないように思います。

追伸。オセロ・中島知子さんも同じ連中によって監禁・思想改造されているように思えてなりません。

後藤徹と山口貴士

 ブログ「拉致監禁by宮村裁判記録」に、被告の代理人・山口貴士弁護士の書面が掲載されました。

 後藤徹さんが荻窪のマンションから追放されてから渋谷の教団本部まで歩いた道程を、山口氏も歩き、その結果、「原告が、2008年2月10日に荻窪フラワーホームを出て、渋谷の統一協会へと向かった際に栄養失調等のために衰弱していたという事実が存在せず、逆に同人が十分に健康であり、体力と気力があったことは明らか」という暴論です。

 これに、同ブログのコメント欄に反論投稿文を5回にわたって載せました。

 読んでみてください。
http://antihogosettoku.blog111.fc2.com/blog-entry-87.html

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