ジョージ・オーウエルの世界 『1984年』 

一筆一論(5)

用語と用語法-ジョージ・オーウェルの世界

 どんな団体でも、多かれ少なかれ、独特の用語法がある。とりわけイデオロギー性の強い団体となると、外部からは理解しがたい用語と用語法があり、用語の使い方によって団体のメンバーを束縛する。

 ジョージ・オーウェルの有名な小説『1984年』(ハヤカワ文庫)では、全体主義国家の新語法によって人々の精神と行動を呪縛する様子が生々しく描かれている。

「タイムス 88・12・3 bb 日命 報道 極不可 言及 非実在者 全面的リライト ファイル前 用上提」
 これを旧語法に翻訳すると、
「1983年12月3日付けザ・タイムス紙に掲載された“偉大な兄弟”の日々命令報道は極めて不充分。既に実在しない人物に言及している。全面的に書き直して綴じ込む前に草案を上司に提出せよ」

 何のことかチンプンカンプンだという人には実際に小説を読んでもらうとして、話を先に進めると、この全体主義国家のスローガンは、次の3つである。

 戦争は平和である。
 自由は屈従である。
 無知は力である。


 この用語法が人々の精神と行動を呪縛する。すなわち、平和であるためには戦争を行い、自由であるためには指導部に屈従し、力を得るには無知であれ。
言い換えれば、戦争に疑問を抱けば(反戦思想)それは平和を破壊する行為であり、指導部を批判すれば自由が奪われ、知識を得ようとすれば力を失うことを意味する。

 国民はこのスローガンが流れてくると、瞬間的に、平和・自由・知識を求めていた心にロックがかかり、そのあとシャットアウトしてしまう。

 私が用語法に関心を抱いたのは、今から10数年前、ヤマギシ会を取材するようになってからだ。
 同会の特殊な用語は「研鑽」「一体」「執着心」「我執抹殺」「調正」「放つ」「棚上げ」「零位」「任せ合い」などである。

 たとえば、「お子さんをそろそろ放してみませんか」と言われると、会員である親は感情を激しく揺さぶられ、子どもをヤマギシズム学園に送り込むようになる。

  外側にいる私たちには理解不能だが、かつてのヤマギシワールドではこんな考え方が支配していた。
 親が子どもを手元に置いて育てようとすると、わが子への様々な執着心を捨てきることできず、その結果、子どもは親の執着心に影響され、不健全な育ち方しかしない。子どもを放ち学園に入れれば、子どもは自由になり、何でもできる子になる。
 だから、「放してみませんか」と囁かれると、それは子どもへの執着心を断つことと同義であるため、感情を揺さぶられるのだ。

 我執を抹殺し、学園に放てば、今度は「任せ合い」だ。
 ヤマギシ学園の世話係に子どもを任せるのだから、子どもが虐待を受けていても知らん顔だ。
小説ではなく、実際にあったことであり、ヤマギシ会に日弁連は「勧告」、広島弁護士会は「警告」処分を下した。

にわかには信じがたいだろうが、親がこんな風になってしまうのは、私も参加した7泊8日の合宿、「特別講習研鑽会」と呼ばれる「脳を洗うセミナー」(脳の神経回路を変容させるセミナー)が大いに関係する。

このように書いても意味不明でしょうから、興味がある人は『洗脳の楽園』を読んでください

 ちなみに、『我らの不快な隣人』は<カルトか反カルトか>の立ち位置に苦しんで数年を要したが、ヤマギシ会の取材に数年を要したのは、セミナーに参加したため私自身、おかしくなった(軽い解離性障害になった)こと、なにより同会の言説構造を理解するのがとても難しかったからだ。

特殊な用語と独特の用語法は統一教会ワールドにもある。
横的に流れる」基準が低い」「責任分担がなされていない」「負債を負う」などの特殊用語が、統一教会の用語法で使用されると、信者はとたんに負の感情で全身が包まれてしまう。

私たちが統一教会の信者から「あなたは責任分担をはたしていない」と言われても、「はあ?冗談はあさってにして」となるが、組織から足を抜けようかと悩んでいる信者は、奈落の底に突き落とされ、一晩中、神様の心情に思いをいたし、ときに水行をしたりして、翌朝、日の出とともに、決意あらたに「責任分担をはたします」ということなる。

 アメリカから輸入された「カルト」「マインドコントロール」も特殊な用語であり、使い方によっては社会に害をもたらす。
 その理由は、定義が不明確だからだ。
 おそらく国民の多くは、カルトからは「得体の知れない邪悪な集団」、マインドコントロールからは「心の操作」を連想するだろう。
 そのため、ネットメディアを含めメディアがカルトの定義もせずに「A団体はカルト集団だ」と報じれば、A団体は社会から排除されることになってしまう。カルト用語は使われ方によっては、たちどころに差別用語に転化するのだ。

 最近、個人のホームページで、特定の会社(ラーメン店をフランチャイズ運営する会社)について「カルト集団」などと中傷する行為を繰り返していた男性に、東京高裁は1審判決(無罪)を破棄し、検察側の求刑通り罰金30万円の有罪判決を言い渡した

 男性の弁護人を務めていた紀藤正樹弁護士は不当判決だと新聞記事でコメントしていたが、このホームページが広く社会に読まれていたら、会社が倒産した可能性も高く、決して不当判決とは思えない。ただし、「名誉」と「言論の自由」は相反する要素があり、国家権力がむやみに介入することには強い違和感を覚える。
紀藤氏側が上告したため最高裁の判断が待たれるが、棄却となれば、高裁判決は確定する。
ブログを立ち上げた私も自省、自戒しなければならない。
参考サイトは、天地の諸事情

ところで、私が『我らの不快な隣人』で問題にしたのは、統一教会員を拉致し監禁下で説得する強制説得の実態である。
 信者の両親が強制説得に踏み切るのは、牧師がこう説明するからである。
「統一教会はカルトであり、お子さんは統一教会からマインドコントロールされている」
 家族はこの説明を真に受け、子どもを拉致監禁し、その結果、家族は解体。元信者の中には重篤なPTSDを発症し、長期にわたってもがき苦しむ人たちもいる

特殊な用語と用語法は、人をときに狂気に走らせるのだ。

注)「放つ」というたった一語がどういう悲劇を生んだのか知りたい人は、私と元ヤマギシストの佐藤喜正さんと2人で自費出版した『虐待の真実』を読んでください。値段は送料別で1000円。送料は着払いで。申し込みはファックスか、このコメント欄で「管理者だけに表示」ボタンを押して、書き込んでください。すぐに郵送いたします。

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コメント

 今回の一筆を読んで、この間の郵政選挙、あれってどうなんだろうなって感じちゃいました。「改革路線」「抵抗勢力」で3分の2議席という現象も用語と用語法ですかね。「嫌われ者」をいじめて人気を取るという怖い方法があるんですね。「嫌われ者」って作ればいいんです。この仕掛けに世論が乗れば大ヒット。「守旧派!」とか「抵抗勢力!」とか。外国ではユダヤ人とかコソボ人とかチェチェン人とか少数派を批判の標的した政権の例もあります。「カルト」という用語もそういう脈絡で使われ始めるとごちゃごちゃですね。新進党があった時代に前例があるわけだから。高裁判決は妥当だと思うのですが、「カルト」の定義って何ですか?オーエルの全体主義国家ですか。ナチスは熱狂によって国民が選挙で選び出したことを考えれば、本当に用語と用語法に魔が差すときがあるでしょうし、その規模がでかければでかい程誰も気がつかない。赤信号をみんなで渡った責任は誰も取らない。

私の原理体験

ビデオセンターに行ったことがある。大分以前のことで細かい事情は忘れてしまったが、街でキャッチされ(笑)信者は営業マン風の若い男性。
早々に「コーヒー飲みませんか?」、「おなかは空いてしませんか? サンドイッチとカレーどっちにしまか?」とえらく待遇がいい。それでビデオ(内容は忘れた)を見てと、それでさすがにピンときた。なるほど、これが週刊誌などに載ってる原理なのかと(笑)。それで聞いたんですよ。「原理でしょう?」、最初は「違いますよ」などと言ってとぼけていたんですが、チクチクと「ホントは原理なんでしょう?」と追及するとついに白状「実はそうなんです」。それからが仰天、やおら「いくらか献金して貰えませんか」と切り出す。
まあ、コーヒーも飲んだしサンドイッチも食ったしビデオも見たわけで「じゃあ千円」と。しかしカルト信者はそれでは納得しない。「もう少しなんとかなりませんか」。結局2000円で無罪放免となったわけですが、なんなんだよ、原理ってキャッチバーのことかよ。

心理学には「欲求」「禁止」「許可」「抑圧」といった概念があるのだそうです。
目の前の食物を手づかみで食べる。気に入らないことがあると、泣き暴れる。サリバン先生が着任する前のヘレンケラーがその様だったそうだから、自然な欲求とはこんなものかもしれません。
こうしたむき出しの欲求は当然社会との軋轢を生むから、内的、外的な規範によってそれらを禁止して社会的適応をはかるんでしょう。
では、金銭をねだる行為についてはどうか。子供の時代、全く親に小遣いをねだった記憶のない人も少数だろうから原体験としてそれはあるわけだ。抑圧かどうかはともかくとして成人になるに従って禁止(もしくは蔑まれる)行為の一つであることは間違いない。

実際、寄付を求める(受け取る)業界はそう多くない。災害などの非常時を除けば、宗教、政治、福祉、教育の分野に限られるのではないか。このうち常態として寄付、献金を求める業界は、宗教と政治でしょうか。
「禁止を解除する概念は「許可」でしょうが、では宗教と政治の何が「許可」を与えるものなのか。そもそも、宗教(又は政治)の為の献金なのか、それとも献金の為の宗教(又は政治)なのか。
トヨタ自動車が献金を募ったという話は聞いたことがないから、罪を犯さない良い人は案外多い。
”政治とカネ”の問題がマスコミに取り上げられない日はないが、”宗教とカネ”は一部の人の問題として忘れられがちだ。
しかしながらですよ、今なお多くの宗教団体が教育に携わっていることを思うなら、これは無視できる問題でもないと思いますよ。


  • [2010/06/12 12:07]
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用語と用語法??ジョージ・オーウェルの世界

 どんな団体でも、多かれ少なかれ、独特の用語法がある。とりわけイデオロギー性の強い団体となると、外部からは理解しがたい用語と用語法があり、用語の使い方によって団体のメンバーを束縛する。

 ジョージ・オーウェルの有名な小説『1984年』(ハヤカワ文庫)では、全体主義国家の新語法によって人々の精神と行動を呪縛する様子が生々しく描かれている。
「タイムス 88・12・3 bb 日命 報道 極不可 言及 非実在者 全面的リライト ファイル前 用上提」
これを旧語法に翻訳すると、こうなる。
「1983年12月3日付けザ・タイムス紙に掲載された“偉大な兄弟”の日々命令報道は極めて不充分。既に実在しない人物に言及している。全面的に書き直して綴じ込む前に草案を上司に提出せよ」

 何のことかチンプンカンプンだという人には実際に小説を読んでもらうとして、話を先に進めると、この全体主義国家のスローガンは、次の3つである。

 戦争は平和である。
 自由は屈従である。
 無知は力である。

 この用語法が人々の精神と行動を呪縛する。すなわち、平和であるためには戦争を行い、自由であるためには指導部に屈従し、力を得るには無知であれ。
言い換えれば、戦争に疑問を抱けば(反戦思想)それは平和を破壊する行為であり、指導部を批判すれば自由が奪われ、知識を得ようとすれば力を失うことを意味する。

 国民はこのスローガンが流れてくると、瞬間的に、平和・自由・知識を求めていた心にロックがかかり、そのあとシャットアウトしてしまう。

 私が用語法に関心を抱いたのは、今から10数年前、ヤマギシ会を取材するようになってからだ。
 同会の特殊な用語は「研鑽」「一体」「執着心」「我執抹殺」「調正」「放つ」「棚上げ」「零位」「任せ合い」などである。

 たとえば、「お子さんをそろそろ放してみませんか」と言われると、会員である親は感情を激しく揺さぶられ、子どもをヤマギシズム学園に送り込むようになる。

  外側にいる私たちには理解不能だが、かつてのヤマギシワールドではこんな考え方が支配していた。
 親が子どもを手元に置いて育てようとすると、わが子への様々な執着心を捨てきることできず、その結果、子どもは親の執着心に影響され、不健全な育ち方しかしない。子どもを放ち学園に入れれば、子どもは自由になり、何でもできる子になる。
 だから、「放してみませんか」と囁かれると、それは子どもへの執着心を断つことと同義であるため、感情を揺さぶられるのだ。

 我執を抹殺し、学園に放てば、今度は「任せ合い」だ。
 ヤマギシ学園の世話係に子どもを任せるのだから、子どもが虐待を受けていても知らん顔だ。
小説ではなく、実際にあったことであり、ヤマギシ会に日弁連は「勧告」、広島弁護士会は「警告」処分を下した。

にわかには信じがたいだろうが、親がこんな風になってしまうのは、私も参加した7泊8日の合宿、「特別講習研鑽会」と呼ばれる「脳を洗うセミナー」(脳の神経回路を変容させるセミナー)が大いに関係する。

(このように書いても意味不明でしょうから、興味がある人は『洗脳の楽園』を読んでください)

 ちなみに、『我らの不快な隣人』は<カルトか反カルトか>の立ち位置に苦しんで数年を要したが、ヤマギシ会の取材に数年を要したのは、セミナーに参加したため私自身、おかしくなった(軽い解離性障害になった)こと、なにより同会の言説構造を理解するのがとても難しかったからだ。

特殊な用語と独特の用語法は統一教会ワールドにもある。
「横的に流れる」「基準が低い」「責任分担がなされていない」「負債を負う」などの特殊用語が、統一教会の用語法で使用されると、信者はとたんに負の感情で全身が包まれてしまう。

私たちが統一教会の信者から「あなたは責任分担をはたしていない」と言われても、「はあ?冗談はあさってにして」となるが、組織から足を抜けようかと悩んでいる信者は、奈落の底に突き落とされ、一晩中、神様の心情に思いをいたし、ときに水行をしたりして、翌朝、日の出とともに、決意あらたに「責任分担をはたします」ということなる。

 アメリカから輸入された「カルト」「マインドコントロール」も特殊な用語であり、使い方によっては社会に害をもたらす。
 その理由は、定義が不明確だからだ。
 おそらく国民の多くは、カルトからは「得体の知れない邪悪な集団」、マインドコントロールからは「心の操作」を連想するだろう。
 そのため、ネットメディアを含めメディアがカルトの定義もせずに「A団体はカルト集団だ」と報じれば、A団体は社会から排除されることになってしまう。カルト用語は使われ方によっては、たちどころに差別用語に転化するのだ。

 最近、個人のホームページで、特定の会社(ラーメン店をフランチャイズ運営する会社)について「カルト集団」などと中傷する行為を繰り返していた男性に、東京高裁は1審判決(無罪)を破棄し、検察側の求刑通り罰金30万円の有罪判決を言い渡した。

 男性の弁護人を務めていた紀藤正樹弁護士は不当判決だと新聞記事でコメントしていたが、このホームページが広く社会に読まれていたら、会社が倒産した可能性も高く、決して不当判決とは思えない。ただし、「名誉」と「言論の自由」は相反する要素があり、国家権力がむやみに介入することには強い違和感を覚える。
紀藤氏側が上告したため最高裁の判断が待たれるが、棄却となれば、高裁判決は確定する。
ブログを立ち上げた私も自省、自戒しなければならない。
参考サイトは、天地の諸事情

ところで、私が『我らの不快な隣人』で問題にしたのは、統一教会員を拉致し監禁下で説得する強制説得の実態である。
 信者の両親が強制説得に踏み切るのは、牧師がこう説明するからである。
「統一教会はカルトであり、お子さんは統一教会からマインドコントロールされている」
 家族はこの説明を真に受け、子どもを拉致監禁し、その結果、家族は解体。元信者の中には重篤なPTSDを発症し、長期にわたってもがき苦しむ人たちもいる。

特殊な用語と用語法は、人をときに狂気に走らせるのだ。

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