『棄教を目的とした拉致と拘束』(人権報告-1) 

資料(10)

「国境なき人権」調査報告書

-日本/棄教を目的とした拉致と拘束-
論点の整理
はじめに
第1章:日本の宗教事情の概観
第2章:現地調査の報告
前文/拉致問題の監視の状況/拉致・拘束下での棄教説得/後藤徹さんが失われた12年は何のためか?

第3章:強制棄教を目的とした拉致と拘束、国際法の立場
第4章:結語と勧告

* 文中の(注)は報告書に記載されたもの。は管理人の注釈。
* 読みやすくするため、改行、行空けは適宜、行った。文中のゴチック、斜体字は原文ママ。
* ゴチックが今回アップしたところ。

論点の整理


 この報告書は、独立系の非政府機関である「国境なき人権(HRWF)」が、日本人を対象にした棄教目的の拉致・監禁の実態を記録したものである。また日本の警察と司法当局が、そのような形の家庭内暴力について、加害者の捜査も起訴もしていない状況も説明した。

 拉致行為の被害者が法の下の平等な保護を受けられず、加害者が法的責任を問われない実状は、日本国民が憲法で保障された権利の侵害であり、日本が国家として国際的義務として負っている人権規準への重大な侵害でもある。

 本報告書の第一章では、日本の宗教事情を概観し、問題の背景を説明している。
 日本人は伝統的に神道と仏教を軸に、複数の宗教に帰依する傾向がある。そうした多神教文化が根強いために、宗教は個人の信条としてより、家族や一族のアイデンティティーを醸成してきた。しかし第二次世界大戦後は個人主義が強くなって、集団的アイデンティティーや帰属意識が弱まってきた。その隙間を埋めるように、新手の宗教団体やキリスト教諸派が活発になり、中には公序良俗から逸脱するような奇異な言動や暴力に走る運動も出現した。

 そのおかげで社会全般に新宗教を嫌悪する傾向が広まり、信教の自由を制限してでも日本の伝統文化や慣習を守るべきだという主張が出てきた。こうした傾向のせいで、個人の人権を擁護するはずの国内法規や国際的な人権保障義務を遵守しにくい状況ができているようだ。


 第二章では、日本人を標的にした棄教目的の拉致・監禁の状況について、「国境なき人権」が実状調査した成果をまとめている。
 2010年から11年にかけ、主に世界基督教統一神霊協会(略称・統一教会)とエホバの証人の信者ら約20人の被害者から聴取したほか、ジャーナリスト、弁護士その他の専門家に話を聞いた。「国境なき人権」はこの問題で、日本の国会議員10名にも面会して意見を聞くことができた。

 不法な拉致行為だが、その特徴は被害者本人の家族が、「脱会カウンセラー」と共謀して実行していることだ。
 子供の将来をめぐる親の心配は、新興教団の危険性をあおるようなメディアの過剰報道によって一層増幅された。
 拉致は慎重に計画・実行され、被害者は意思を全く無視された形で隔離されていった。

 その実状を知れば、犯罪の実行者である家族の支配的な力が見えてくる。
 家族は、日常の生活舞台から行方を消した子供について隠し通し、司法当局が捜査しないように誘導した。

 監禁されている間に被害者は脱会を強要されるが、そうした説得行為を担当するのはプロテスタント教会の牧師や関係者が多く、問題の新興教団の元信者も支援する。被害者の中には、拉致・監禁を経験してPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症したり、深刻な心理的障害に苦しんだりする者も出ている。

 最悪のケースとして、統一教会信者の後藤徹氏は暴力的に拉致され、12年間も隔離状態で監禁され、その間に絶食の強要を含む過酷な仕打ちを受けた。2008年に解放されたが、その後、検察当局は拉致の実行犯について「証拠不十分」ということで起訴していない。

 実際、加害側の両親や脱会カウンセラーを相手取った告訴は、知られている限り全て不起訴処分とされた。警察は実に及び腰で、証拠や文書が揃っていると見られるケースでも捜査しなかった。



 第三章では、こうした犯罪行為から信者を保護せず、捜査や起訴もしないために、信者たちが法の下での公平な保護を受けられないでいる実態が、いかに国際法に抵触したものであるかまとめた。
 日本が棄教目的の拉致から市民を保護せず、法の下の平等原則を保障できないことは、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」や国連人権委員会の諸決議に署名した国として負うべき国際的義務に明白に反している。米国や欧州の関連判例なども整理しておいた。


 第四章では、日本の当局や、内外の民間団体、国際機関への勧告を述べた。本報告書が取り上げた犯罪行為は世界が知るべきであり、国際機関や市民団体は、日本の当局者がこの犯罪を終わらせるよう助言すべきだ。



はじめに


アーロン・ローズ博士、ハンブルグ、ドイツ (注1)

 この報告書は、日本人を対象にした棄教を目的にした拉致・監禁の実状と、そうした犯罪行為の加害者を捜査も起訴もしない警察や司法当局の実態についてまとめたものである。
 拉致被害者に法の下の平等な保護を保障していないこと、そして加害者に何ら刑事責任を問わない状況は、日本国民が憲法で保障された権利および日本が国家として義務を負う国際的な人権規準に対する重大な違反に当たる。

 日本の政治家や市民団体および世界の人権関係者は、この拉致問題を長い間、事実上放置してきた。その結果、数千人近い人たちがむごい苦痛を受けた。
 この報告書では、客観的かつ実証的な文書を提供し、同時に文化・法律的な背景を分析・解説して、事態打開の勧告を提供している。日本と世界の政府関係者や市民団体が遅ればせながら、この犯罪行為に対処し終止符を打つよう期待するものである。

 世界の人権状況を監視している人々は、世界でも有数の法治制度と高い文明・文化を持つ日本の社会で、重大な人権問題が発生しているとは想像できないに違いない。
 日本は人権関係者の監視対象ではなかったはずだ。
 いわゆる「問題国」の場合、当局は法の支配に関心がなく、国際規準など眼中にないが、日本はそういう国ではなかったはずだ。

  *この見解は失当である。アメリカ国務省の人権報告では、「外国人女性の人身売買をなくすように」と、日本に勧告し ている。また、アメリカの人種差別ほどではないにせよ、被差別部落民、在日韓国・朝鮮人、ハンセン病(元)患者などへの差別は厳然として存在する。


 弱小宗教団体に属する信者は、最も先進的な社会でも往々にして差別され偏見を持たれているので、その偏見の故に、彼らが受けている差別に関心が払われることは少なく、見識のある活動家でさえ問題を見逃してしまうほどである。
 多くの人々は自分たちが支持しない信条や慣習をもつ教団について、その信者が直面している問題にはあまり関心が向かないものだ。むしろ、その教団が非難されるような倫理・法律的な不祥事を引き合いに出して、大した問題ではないと言うのである。

 言うまでもなく、どのような社会でも宗教団体は法に則って活動しなければならない。
 法律を破れば、その団体は訴追され処罰されねばならない。
 だが教団や信者が、憶測からくる非難や偏見の故に自由や保護を得られないことがあってはならない。

 実際はどうかといえば、日本以外でも多くの新宗教や弱小教団が、信者への人権侵害に頭を悩ませている。
 ひとつの理由は、既成教団が自らの「市場占有率」を確保するために、必要とあらば当局の肩入れを期待したくなるほど、彼らにとって新宗教が脅威だということである。
 しかし、ある社会の道徳的成熟や、人権と民主主義の原則への忠実さは、弱小教団に対する寛容度によって試されるものだ。

 拉致はおおむね、被害者自身の家族の手で実行される。
 プライバシーを尊重せざるを得ないことと、家族の側も身内の恥を外に出したくないことから、その扱いが難しい家庭内暴力の一つだ。

 この問題では、日本の当局者だけでなく市民団体も、その資質が試されていることになる。
 日本の当局者が国際法の規定する個人の人権尊重に本気で取り組む気があれば、日本特有の「家」のしきたりなどを持ち出して人権侵害を正当化するような文化相対主義には逃げ込まないはずだ。

 日本人の信者脱会を狙いとした拉致と、それが時に暴力を伴う実態を認識するに至ったのは、私が2010年に訪日した際、被害者たちに面会して問題の全体像をつかめたからである。
 オランダの元国防大臣・外務副大臣のウィレム・フレデリック・ヴァン・エーケレン博士と一緒に、日本の国会議員10名と会談して、政府がこの問題をどう見ているかも確認することができた。

 拉致被害の実態は数十年間、一般にも知られていたはずだ。
 また日本は反省心が旺盛で恥の意識も強く、道義に反することを嫌う社会なのに、拉致問題に関しては義憤の声が上がらなかった。

  *この認識は間違っている。統一教会員に対する拉致被害の実態は、一般には全くといっていいほど知られていない。


 政治家は総じて関与を嫌がり、問題を把握していた政治家も、現行制度上、警察がどこまで介入できるのか疑問視していた。ジャーナリストは全般に関心がなく、国内の人権団体も問題視していないようだった。
 拉致被害者とその家族はそれぞれの立場で、起きてしまったこと、起こしてしまったことに深く傷つき、その苦しみを誰にも分かってもらえず、当局も無策であることに苛立っていた。

 拉致の実態を正確に記録する作業は、当該の宗教団体、とりわけ、拉致被害者の大半が属していた統一教会によってのみ進められていた。しかし被害者たちは、彼ら自身が被った犯罪を立証する上で、十分に信頼できて権威のある情報源と見なされたことはなかった。

 この問題を分析し、人権関連の文献として世に問うために、「国境なき人権」が選ばれたのは、他の独立系の人権団体よりも信教の自由に関する分野に強く、経験が豊かであり、客観的で科学的な仕事ができるとの公正な評価を得ていたからである。

 2010年の来日中に面会した国会議員の一人は、拉致・監禁問題を打開するには「黒船が必要だ!」と発言した。「黒船」とは1853年に来航したペリー提督率いる米国艦隊のことで、それが日本を開国させ近代化を促すきっかけになった。(訳注:同議員は、同様の外圧がなければこの問題を進展させるのは難しいとの認識を示したのである)

 そうした発言を聞くと、日本独特の文化がいかに執拗であるか、あきらめにも似た感情に襲われる。日本社会は、表向きハイテクと合理的な態度が行き渡っているが、その反面、伝統的な制度が柔軟に変容できず、世界から孤立した社会になってきたからだ。

  「日本独特の文化がいかに執拗であるか」は、日本語として意味が通じない。

英語文:We sensed a feeling of resignation about how Japan’s unique had left a
residue of intractable attitudes that, despite a veneer of technocratic
rationality, left Japan’s institutions unable to change and the society
isolated from the rest of the world.

 そこで、オーストラリア在住のYoshi Fujiwaraさんに、こなれた日本語に翻訳し直してもらった。

そうした発言を聞くと、日本社会は表向きハイテクと合理的態度が行き渡っているが、伝統的な制度が柔軟に変容できず、世界から孤立した社会にさせてきた、日本の独特の文化の頑固な姿勢の根強いことに、あきらめにも似た感情を持ってしまう。

  統一教会員に対する拉致監禁問題をマスコミも警察も政府も無視する状況下にあっては、「黒船(外圧)が必要」と国会議員がいうのは理解できる。

 ただ、アーロン・ローズさんがそこから話を発展させて論じている内容には納得できないものがある。
「黒船が必要」は、「外圧が必要」という場合の慣用句として日本では用いられるが、必ずしも黒船を肯定的に評価しているわけではない。

「黒船が日本の近代化を促すきっかけになった」という見解は皮相である。当時の黒船(アメリカに限らずイギリス、フランス、ロシア、つまり欧米列強)の狙いは、アジアの植民地化であって、近代化では決してない。
 その証拠に、武力を背景に開国を迫った結果は、その後日本が長く苦しむことになった不平等条約の締結であった。

 話が横道にそれすぎるので、この数行への批評は控えたいが、あとひとつだけ。
「伝統的な制度が柔軟に変容せず」。そうではなく、伝統的な制度を変容させた(明治維新)からこそ、日本は欧米の植民地とはなかなかった。

 

 しかし弱小教団の信徒拉致という事態から引き出すべき結論は、それとは別のものであってほしい。

 他の多くの社会も似たような事態に直面して、それぞれの環境で個人の人権を守っていかなければならない国際的な義務と、伝統や家族構造に由来する半強迫的な期待感との間で、うまく調和できない課題を抱えている。
 だから、必ずしも日本が特殊というわけではない。むしろ国際社会を一致させるための人権規準に言及することによって、日本は指導力を発揮し、連帯をもたらすことができる。

 この問題に解決の道筋を付けるに際し、日本政府は世界の人権関係者から建設的な支援を得られるだろう。本報告書を提出するにあたり、拉致問題への認識が広まり、議論が進展することを期待したい。日本国内および国際社会で、確実かつ効果的で機動的な対応が新たに取られることを望み、それを支援したい。その上で拉致問題が終息することを切望している。

(注1)アーロン・ローズ氏:国際的人権活動家、大学講師、文筆家。1993年から2007年まで国際ヘルシンキ人権連合(ウィーン)の常務理事。2008年に数人の同志とイラン人権問題国際キャンペーンを立ち上げた。ボストン大学と人文科学研究所(ウィーン)でも勤めたことがある。リード大学で学んだ後、シカゴ大学で社会思想の博士号を取得する。


関連記事

コメント

日本の文化

日本ではまだ、個人の主義主張、というよりも世間の目を気にするというようなところがあるのではないでしょうか。「みんなそうなんだ」とか言われると、じゃあ自分もそうじゃなくちゃいけないというような感覚があるような気もします。自分と違う主義主張の人を受け入れる寛容さが必要だと思います。管理人のよく言われるカルト脳はやめて欲しいと思います。

病んだ面々たち

病んだ日本人の特徴を持った、脱会説得の人たち。
 専門家(弁護士や牧師、コメンテーターなど)になれる程、社会適応能力が高い彼ら。しかし彼らは他人に残酷になれるヒステリックな性格を併せ持っている。情緒的に未熟な彼ら。
 彼らを擁護、黙認する弱い社会。
彼らに食い物にされる内気な人たちが、精神的に病んだり、自殺に追い込まれたり家族がバラバラになってしまう。
 
 脱会説得に携わる人たちは、人権団体のインタビューに対して言いたくないし、自分たちが犯したことについて正しいと思ってると感じます。そして被害を受けたと言っている人に対しては”(こんなに面倒見てやったのに)許せない”と思っていると私は感じます。

世間という名の神

>日本ではまだ、個人の主義主張、というよりも世間の目を気にするというようなところがあるのではないでしょうか

宮石さんのご指摘は山本七平の「日本教徒」という概念に通じように思います。日本人にとっては「世間」こそ神様であって、それにはだれも逆らえないのです。すなわち日本人にとって目に見えない神というのは非実感的な抽象語にすぎず、実感としては世間という名の神こそが人々を拘束する力になっているとしています。そのような日本人のことを他の文化圏の宗教(特に一神教世界)とは区別して日本教徒と山本七平は呼んでいました。

面白いのは、山本七平によると、日本には本当のキリスト教徒は存在せず、ただ日本教徒のキリスト派が存在するだけだと書いてます。同じく共産党も日本教徒の共産派ということになります。だから日本では統一教会を潰すために(同じ日本教徒の)キリスト派と共産派が手を組むという奇妙な現象が起こっているのではないかと私は考えています。つまり彼らによると統一教会は日本教徒の掟に反しているのだと考えられているのではないでしょうか?その掟というのは、結局「世間様に迷惑をかけている」というような非常に漠たる基準ではないでしょうか。外国人からみると、これは非常に日本的な現象であり、理解に苦しむ点ではないかと思います。

そういえば、夏目漱石の草枕にも次のような一節があります。「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。」

Re:世間という名の神

米本さん
 はじめまして、統一教会信徒のdaniyyelです。
 毎回、とても楽しみに見ています。
 このレポートを読んで、それでも、統一教会のキャンペーンだと思える人は、本当に頑固な人だな、と思いました。


KHさん
 いやあ、山本七平氏、懐かしいですね。私もこのレポートを読んで、思い出しました。
 私自身が、日本教徒の統一教会派なのか、統一教会信徒の日本教派なのか、とても気になります。願わくば、統一教会信徒の日本教派であれば、と思います。

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://yonemoto.blog63.fc2.com/tb.php/317-8eb9b8fd