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壮絶なる親子の相剋 

仮面を剥がされた人たち(7)

 実の親によって精神病院に送られ、不必要で危険な精神薬を飲まされ、挙げ句の果て、危うく脱会屋の性の餌食になろうとした朋子さん。
 彼女はその後、どのように親に接してきたのだろうか。

 あなたならどうしますか?
 私なら、絶対に親を許しはしない。

 ところが、朋子さんはそうではなかった。

 今回の手記は、壮絶なる親子の相剋の物語である。朋子さんの魂の叫びといってもいい。
 静かに耳を傾けてもらいたい。それと同時に、朋子さんの手記から見えてくる「親の孤独」にも思いを馳せて欲しい。そして、親の孤独に忍び寄ってくる人たちのことも。

 多くの現役・元信者、そしてその家族の方々に読んでもらいたいです。


-母と私~監禁から今日まで-




1 汚れなき罪と罰

 宗教関連での拉致監禁被害者がマイナーな存在であるということは同時に、わが子を拉致監禁した親もマイナーな存在だということを意味する。

 私を精神病院や強制改宗家に依頼して脱会させようとした親について、エキセントリックな性格や、自分勝手で厳格な人間を想像されるかもしれない。
 しかし、私は、彼らを普通の人だったと思っている。

 幼い頃、は仕事帰りに友人の畑仕事を手伝うために私を連れて行き、私はその家にいた沢山の子どもたちと遊んでいた記憶がある。
 欲のない、静かで優しい父だった。子どもの頃、私はよく父と挟み将棋をした。私は父に叱られたことがない。

 父は、終戦前、国鉄に務めていた関係で、原爆投下直後の広島に救援のために入り街をまわったものの、あまりの惨事に助ける術もなく、引き上げるしかなかったという体験をしていた。
 強制入院についての裁判中、ほろ酔い加減の父に「母の反対を止めてほしい」と頼んだ時、突然その話をしながら、「自分には幸せになる権利がない」と呟いたことがあった。
「私にもないの?」と聞き返すと、一言「申し訳ない」と言った。

 戦後、警察官をしていた父は、姉が生まれた頃、殺人事件(迷宮入り)のあった派出所勤務となり、ある日突然辞職したという。
 最近、栃木幼女連続殺人事件の犯人とされた菅谷さんを見て、父の言動を思い返しながら、父は冤罪を生む可能性を感じて辞職したのではないかと考えるようになった。
 長い間、私は父という人を十分に理解できなかった。
 父が冤罪の可能性を回避したことを心から感謝して、誇りに思うようになったのは最近のことだ。
 父が亡くなって23年。父の生き様は今尚、私の心の中で時間と共に熟成され続けている。

 は、子煩悩な人だった。自分が3歳で母親を亡くしたので、子供を愛するということに手本のないままガムシャラに、すべてのエネルギーを私たち子どもに投入したかもしれない。

 私が10代の頃、母が「半径10キロ以内に嫁に行ってほしい」と言っていた記憶がある。
 その時代の、核家族化に伴う家族形態の変化について気付かなかった母は、いつまでも家族4人の暮らしが続くと信じていた。母の予期した変化は、せいぜい半径10キロ付近で、娘が新しい家庭を築くことくらいだった。

 私が教会に行き始めて半年は、通っている原理研究会のホームを大学生の寮だと説明したので、家で筍や蕗が採れると、頼みもしないのに夕食後に大きめの鍋で炊いて、翌日タッパーに入れて持たせてくれた。

 私はというと、頭では統一原理や大学の勉強を理解する程度には大人だったが、家庭生活では、学校帰りに家に寄って冷蔵庫にお菓子がないと、「今日はおやつがなかった」と言うくらい子どもだった。私に罪があったとすれば、あの頃、まだ大人になりきれていなかったということだろう。

 丁度その頃、3歳上の姉は、東京に行きたいと半年位言い続けても相手にされないので、自力での上京を決行した。その日、夕方6時に姉から電話がかかってきた。
「今、東京駅についたから」と一応連絡を入れた姉に、「はいはい。バカなことを言ってないで、帰っておいで。ご飯が冷めるよ」
 母は、そう言って電話を切ってしまった。

 それを見ていた私は、ちょっと呆れて「本当だと思うよ」と助言した。
 陽が暮れてから、母は血相を変えて慌てた。
 半年間訴え続けた姉の話を思い出しながら、本箱にあった姉の本を手あたりしだい読んで、姉が宿泊できる場所を探した。それでようやく所在を確認することができた。
 そこから姉の東京生活が始まった。我が家の最初の変化だった。

 姉が家を出てしばらくして、私の教会問題が始まった。両親にとっては、驚きの連続だった。

 最初に書いたように、マイナーな問題を抱えた両親は孤独の中で苦悶したと思う。「子どもを拉致監禁したものかどうか」なんて相談できる人は身近にはいなかっただろう。監禁を決行した日から両親は大きな秘密を抱えたまま、引き返すことが出来ずにいたと思う。

 最近では、親族ぐるみの拉致監禁が行われるが、そのように親族に相談するのは「水茎会」など特殊な関係団体の援助があってのことだろう。もっと言えば、そこに至るまでの「親の孤独」が、その特殊な結びつきを価値あるものと感じさせてしまうのだろうと想像する。

 ともあれ、普通のはずだった私達親子は、信仰と精神病院への監禁を通して、世の中に参考になる家庭を見いだせないマイノリティーになってしまった。




2 母と決別した日

 精神病院に監禁されたにもかかわらず、退院直後もまだ私は母との話し合いの道をさぐっていた。

 精神病院の中から両親に送った手紙を、退院から30年になる2009年に、年老いた母の部屋を掃除していて発見した時、私ははっきりとその事を思い出した。

 私が本当に母と決別したのは退院後のことだった。体調不良の中で、恐る恐る、
「原理が間違いかどうかを確かめるためにキリスト教の神学校に行くところからやり直したい」
 と語りかけた時、母はきつい調子でこう言い放った。
「また原理の事を言うなら、もう一度精神病院に入れるよ!」
 
 二度と「原理」という言葉を口にすることは許さないという厳しい口調で、精神病院での服薬の後遺症で不調な私に、もう一度精神病院に入れると言ったその瞬間、私の心の中の「話し合って和解したい」という思いが、ポッキリと折れてしまうのを感じた。

 今なら、母も相当ナーヴァスになっていたのだと理解できるが、その時はそんなことを思いやる余裕はなかった。その日から私は話し合う努力をせず脱会を装ったまま、年明けの1980年に裁判を始めるために家出し、上京した。




3 再会

 結局、学業半ばということもあり、裁判開始から半年後に山口に帰り復学することになったが、その時も母への不信は変わっていなかった。
 私は原研の寮に住ませてもらい、週に2~3度自宅に寄り、庭の掃除だけをして寮に帰った。
 帰郷した1980年の秋から81年の5月まで約半年それだけを続けた。

 庭で母と顔を合わせることもあったが、家に入るほど母を信じることはできなかった。5月のある夕方、庭掃除をしていると、母も庭に出てきて草むしりを始めた。
「持って帰ったらいい」
 と、母は庭の花を数本切って包んでくれた。
 私は小声でお礼を言い持って帰った。
 その時の思い出に、私はその花を押し花にして今でも持っている。

 その数日後、また庭掃除をしていると、母が庭に出て一緒に掃除をした。帰り際、母はお茶でも飲んでいくようにと私を誘った。
 不安と気が引けるのとで黙って立っていると、母は、
「閉じ込めたりしないから」
 と、付け加えた。
 おずおずと久ぶりの我が家に上がり、和菓子とお茶を食べて帰った。

 母と私は、お互いに用心深く相手の出方を見ながら、少しずつゆっくりと関係を再開した。
 卒業半年前には本部関係の婦人と母の話し合いで家に帰るしかなくなったが、そうするとまた裁判の取り下げも含めて、説得や非難が毎晩のように続いた。

 私は自分の居場所を見つけられないまま、卒業と同時に再び家を出た。

 私たちは近づこうと努力はした。しかし少し近づくと説得が始まり、説得は非難と口論に変わり、近づいては傷つくという関係が何年も続いた。

 監禁問題で裁判をかかえながらも自宅に出入りし、大学卒業後の盆正月には帰省を続けたと言えば、私が強い精神力で努力したと思う人もいるかもしれない。事実はそんなに立派なものではない。

 1975年の「反対父母の会」(代表は本間テル子。本間氏も自分の娘を精神病院に入院させたことがある)による統一教会本部への抗議行動に対して、主だった反対父母の子弟を親に返したことによって(これにはもう少し裏があると推測している)一応沈静化したと聞くが、1980年当時、監禁被害者は教会の中でそんなにポピュラーな存在ではなかった。
 ましてや、拉致監禁での裁判をしている大学生の教会員などいなかったと思う。

 それで混乱があったとは思うが、大学卒業後に再び上京して間もなく、私は自分がまだ教会員ではないと聞かされることになった。
 統一教会の信仰を守る権利を主張して裁判をしている2年目にして、自分が教会員ではないと聞かされた時にはさすがに理解に苦しんだが、とにかく親が反対していては教会員としての登録はできないとのことだった。
 親の反対に対処せずしては教会にも居場所がないのだと知り、やるしかないからやっただけのことだった。

 半年分の反対資料を収集して待っている親のもとへ非難されるために帰省することは、正直辛いだけだった。



 
4 母の家出

 80年代半ばのお盆の帰省時も、私は気が重かった。
 教会の活動の傾向からか「文春」や「朝日ジャーナル」の記事の量が増え、そこに載っている私の知らない教会員のことで非難されるお決まりのパターンが私を待っていることが分かっていたからだ。

 もっとも母だって、何を言ってもやめるとは言わない私と、そのように私を洗脳して裁判まで起こさせる統一教会だという思いから、無限の恐怖を感じていたとは思う。

 帰宅した日、父は病気の親戚の見舞いで留守だった。私はわざと夕食をまずそうに食べ、その後もわざと母に棘のある口をきいた。
 母のほうは、翌日落ち着いてから教会批判をしようと計画していたらしく、一日早い私からの不意打ちに驚いて、
「そんなふうに言うなんて、まるで私のことを嫌いみたいだ」
 と、こぼした。

 それまでの私なら間違いなく「そんなことはない」と取り繕った事だろう。しかし何年も責められ役だった私は、同じ繰り返しに嫌気がさしていた。それで、
「そうよ。嫌いよ。」
 と言ってみた。

 母はびっくりし、傷つけられたという顔をして私を見た。私はこう続けた。
「嫌いに決まってるじゃない。どれだけ私にイヤなことをしたか考えたらわかるでしょう」
 私は、じっと私を見ている母に非難され、ぶたれるだろうと思った。

「お、お前は…」
 と声を震わせながら、母が口を開いた。
<ぶたれても、非難されても、そんなことはもういい!>
 私はそう覚悟した。

 心の片隅で、監禁前の出来事を思い出しながら<包丁はやめてね>と思いながら…。
 ぶたれるつもりでじっと立っていると、母が言った。
「お前は、出て行けと言ったら喜んで出て行く。だから…、出て行けとは言わない…」
<はぁ、何言ってるの?>
「代わりに…、私が出ていく!」
<えっ、えぇ~っ>

 ぶたれないで気がぬけ、母の言葉を聞いて唖然としている私に背を向け、エプロンをつけたままの母はサンダルをはいて、さっさと勝手口から出て行った。
<なんだ、あれ?>と思ったが、気を取り直して母の後を追いかけて外に出た。所々に街灯がともる夜道を、母のすぐ後ろを歩きながら、「もういいじゃない。帰ろうよ」と何度か声をかけた。

 しかし母は、放っておいてくれと言うばかりで、ひたすら歩き続けた。
 監禁の前後、何度も「心中」を口にしてきた母が、万一自殺でもしたら大変だと思って、ひとつ離れた駅に着いた時、改札近くで、私は母の腕をつかんで家に帰ろうと説得した。
 両手首を私に掴まれて、取っ組み合いの形になって向き合った母が、チラリと駅員の姿を確認して、
「離さないと人を呼ぶよ!」
 と叫んだ。

 私は、一寸考えてから、
「いいよ、呼んだら。どうせ親子のことだと思われるだけだから」
 と平然とした調子で答えた。
 私は監禁された20歳の頃のままではなかったと思う。

 私の返事を聞いた母は、その瞬間、私に掴まれた腕の力を抜いて憑き物が落ちたようにポカーンとした顔で私を見ていた。私を説得のために睨むのではない母の顔を、私は何年ぶりに見たのだろう…。そのまま一瞬の空白があって、母は落ち着いた口調になって言った。
「……とにかく離しなさい。今日は帰らないから」
 
 母は、エプロンのポケットに財布が入っているからホテルにでも泊まるつもりだと言った。
 心配はないことを確認した私は、無理に引き止めずに、母が市街に消えるのを見送った。翌日の午後、母は疲れた顔をして帰ってきて、そのまま自分の部屋に入っていった。

 不思議な出来事だった。私にとっては、統一教会のことで反対が始まってから、ひたすらモンスター化していくようだった母の、普通の母親らしさを見た瞬間だった。

 母にとっても、後藤富五郎氏に吹き込まれて以来信じてきた親はサタンだ。洗脳されて親を親だと思っていない」という呪縛から解放された瞬間だったようだ。
 この時から、母と私の中で何かが変わり始めたと思う。

 それにしても、短い帰省そして結局は3日後には帰っていく私に対して、「出て行けとは言わない」と言った時の母の心とはどんなものだったのだろう…。

 後藤富五郎氏から聞かされた「廃人」でも「死体」でもない姿で帰ってきたことを3日間でいいから確認しておきたかったのかもしれないし、或いはその3日間だけ「文春」や「朝日ジャーナル」にあるような「霊感商法」に巻き込まれるのが遅れると思ったからかもしれない。

 年月が経つにつれて、母のその想いは私の心の中で、教会での活動の折の自制心につながったような気がする。




5 母の決心

 だからと言って、帰省の度ごとの、反対資料を前にした説得がなくなったわけではなかった。それは90年代初めまで延々と続いた。

 裁判が終わる頃、母は言った。
「もう誰もお前をとめる人はいなくなった。友達も、大学の先生も、議員も…、反対すれば裁判までするお前のことを諦めてしまった」
 いよいよ、母からもお許しが出るのかな、と期待した時、母はこう続けた。
「私が反対しなかったら、もう誰もお前をとめる人はいない。だから、私は絶対に反対をやめない!それが親としての私の責任だと思っている。ただし、もう裁判沙汰になるような事はしない!

 母が私に言ったのは、親として反対を続けるという決意表明だった。
 この頃から、母は後藤氏から聞いた洗脳とか血分けとかKCIAとかは言わなくなり、裁判のことも含めて、私が自分の意思で行動したことを理解した。
 
 その代わりに、日本の社会保障制度を軽視して悪徳な活動をしている教会の体制は問題だと言って非難するようになった。
 最初のころは、ただ「文春」や「朝日ジャーナル」を私の前に置いて「読め」というだけだったが、そのうち「これを読んで、悪いと思わないのはおかしい」と言って、本当に読んでいることを確認するためだからと、母の前で声を出して読み上げるように言われた。

 馬鹿げたことのようだが、教会で「訓読」が始まる10年前、私は「文春」と「朝日ジャーナル」を音読していた。記事の全てを鵜呑みにはできないにしても、「ひどいな」と思う事例が載っていた。私に答えられたのは、
ひどい事が書いてあるのは認めるが、私はこの教会員の事を知らないので事実はわからない。そして私自身はこういう事はしていないし、しない。だから教会はやめない
 ということだった。母は、
「いつか必ず社会問題になるから誘われてもやってはいけない。その約束を破ったら、教会をやめるように!」
 と、会うたびに約束させた。

 母を通して、半年ごとにタイムリーな教会批判の情報を入手していた私は、帰省後の教会で、社会的評価が低い事は感じながらも具体的な批判を知らない風な教会指導者たちを複雑な気持ちで見ていた。

 具体的に批判されている事に目を向けて、実際に悪いと思われる部分について改善すれば、言われなくなるのではないだろうか…、と思いながら。




6 拉致監禁問題の転機

 私が知る限り、1992年(3万双祝福)以前までは、親の反対や拉致監禁というものは、親に反対されている教会員の親子関係や先祖に霊的問題(罪)があるという考え方が一般的で、それゆえ反対されている教会員自身が親に対して精誠を尽くして解決するしかないと指導されることが多かった。(おそらく、私だけでなく多くの監禁被害者が、その後の家庭問題処理を自分で取り組まざるを得なかったと推測する)

 宗教的な一面において納得はするが、それにしても後藤富五郎氏が親に吹聴した事や、次々と「文春」や「朝日ジャーナル」に載るスキャンダルまでは、私にはどうすることも出来なかった。

 1992年、3万双祝福式の時は、マスコミで統一教会の事が問題になったが、母からは、
「言った通りになっただろう。ようやく世間も気が付いた」
 とひとこと言われただけだった。

 それを境に教会の中で、拉致監禁が起こるのはマスコミの偏向報道に問題があるという見方が広まったように思う。拉致監禁が多発し、従来の考え方で言えば、ほとんどの教会員が家族や先祖の霊的問題を持っているとしか言いようのない状態の中で、短期間のうちに視点が変わっていった気がしている。

 その当時、私は結婚や海外での活動に慌ただしかったので、それ以上のことは知らないが、それまでの期間に私が母から受けてきた教会批判を、マスコミを通して教会全体が自覚したのだから今後何かは改善するだろうと思って、私はむしろホッとしていた。

 しかしそれは私の考え違いだったのかもしれない。
 拉致監禁の主要因は、「教会員個人の霊的問題に起因する」という考えから、「マスコミの偏向報道に起因する」という考えに変わっただけだったかもしれない。

 私が今これを言うのは、単純に教会に批判的になったからではない。私は自分で望んで教会にいることを自覚している。ただ、親の反対についての責任がマスコミのせいになったことで、親に反対された教会員自身が、親との関係改善を模索する努力を曖昧にしてはないだろうか、その結果、教会員は『大切な何か』を失っていないだろうか、と心配するからだ。

 92年以降、教会の雰囲気は社会に対して一層保身的になり、監禁被害者や監禁予備軍の教会員たちを監禁魔の手から守らなければならないと保護する延長で、危険から遠ざけるためにと親との距離を遠ざけたままにして放任してはいないだろうか。
 拉致監禁はあってはならないものだと思うし、それをなくす努力はみんなで進めるべきだろうと思う。
 しかし一方、教会員各自が、もう少し自分の親に対して自分でできることはないのか、今一度考えてほしいという気持ちを、私は払拭できない。
  私は母との葛藤の期間を、単に無駄な時間だったとは思っていない。

 私がこの事を危惧するようになったのは、今年になってからだった。年始早々の監禁事例では、5年もの間、親は子供が教会員であることを知りながら気付かないふりをして過ごし、初めての話し合いがそのまま拉致監禁になったと聞いた。
 教会員である子供は拉致監禁を恐れて何も言わなかったのだろうし、親は脱会説得屋・宮村氏らの方針に従い、子どもの入信を知りながらも気づかないふりを続けたのだろう。
 どっちもどっちだとは思うが、その5年間、親はどれほど悶々としながら子どもへの不信を膨らませたのだろうと想像するだけで気が滅入ってしまう。

 また宇佐美隆さんの婚約者だったKさんに至っては、監禁される前から監禁を心配して、長い間親との連絡を絶っていたと聞いた。
 その結果、親と話し合うことのないままに20代を教会活動に費やし、30歳前後になって親との交流を再開したものの、宇佐美さんとの結婚準備の途中で監禁により脱会し、今は宇佐美さんをストーカー容疑で訴えているという状況だ。

 長い間、親と向き合うことを避けた後、結局は監禁され逃げ場のなかったKさん…、そこで親を避けてきたKさんの20代について、親はKさんに何と言い、Kさんはその親の言葉にどう詫びたのだろう。長い間の不誠実という負い目を感じながら、それでも自分は間違ったことはしていないと、Kさんに言えるわけはない。そう考えた時、信者であるなしを別にして、私はKさんを可哀そうだと思った。(ただし、宇佐美事件での宇佐美さんに対するKさんの『認知の歪み』については、別の問題があると思う)

 私が最近知り合った監禁被害者の何人もの教会員が、監禁後、親から連絡を絶たれたままにしていると聞いた。親が半年前に亡くなっているのに知らされなかったという人の話を聞いた時には、愕然とした。子供が親のお葬式に呼ばれないというのは…、もはや子供とは思われていないということなのだろうか…。

 切っても切れない親子だという親の情念が、拉致監禁という人間のタブーをも越えさせてしまうのだろうと思っていた。
 それなのに、タブーをも超えると主張した親子関係を、拉致監禁による脱会説得に失敗したからと言って、プッツリと切ってしまうというのはどういう事なのだろうと耳を疑った。

 結局切れるような親子関係なら、拉致監禁をする前に切るべきではないだろうか。
 逆に言えば、拉致監禁まで肯定するほどの親心があるのなら、どうか脱会屋頼みにしたり、突き放したりせず、親として自分の目で子どもを見て、懇切に反対の意思を伝え続けてあげてほしいと思う。 
 それは必ず子供の心に残っているに違いないのだから。万一、教会の中のどこかで、良くない活動に誘われた時にも、子供の心の「良心の声」となって、その子どもを踏み止まらせてくれるに違いないのだから。

 私は今、親の反対する権利を否定はしない。親にも、一定の反対する権利はあると思っている。
 それは、反対される子どもにとっては辛いことではあるが、それによって大切な時に、軽々しく誤った判断をする事を抑止するという効果はあると思う。

 そしてさらに言えば、親から反対されている教会員が、親の反対の言葉ゆえに自分の行動に倫理的責任を感じるということは、統一教会にとっても健全な浄化作用となる価値をもっているのではないかと思う。

 しかし、親の反対する権利は認めても、親に拉致監禁する権利があるとは思わないし、拉致監禁を仕事としている牧師や脱会屋に依頼するのは決して有効な手立てだとも思わない。




7 最低の親子でも、親子は親子

 私が母の反対する権利を認めるようになったのは、監禁された時ではなかった。監禁前に、不安で思い余った母が、刃物を手にして「心中」を口にした時、
「私は、死に値するほどの悪いことはしていない」
 と、一方的な「道連れの死」を要求する母に反発を感じた。
 精神病院に監禁された時も、
<私に道連れの死を強要した人は、私を監禁する権利もあると思っているのか>
 と、憎悪した。

 私が親の反対する権利を認める気持ちに変わったのは、母が反対活動家・教会・警察・議員などあらゆる人に働きかけをしても上手くいかずに次第にそれらの人々と疎遠になる中で、それでも反対の立場を固持し、反統一教会の情報を私に与えるようになってからだった。
 私は、母の願うように生きられなかった親不孝な娘だったと思う。
 それゆえに、私たち親子は最低の親子になったのかもしれない。
 それでも、私たちはお互いに親子であるという明確な自覚を持っていた。最低の親子でも、それでも親子は親子ということだろう。

 今、親でも子でもないと言い聞かせている教会員とその親御さんに、まず、最低の親子に戻るところからやり直してほしいと願っている。

 そこから、ゆっくりと、少しでも良い親子関係を取り戻してほしい。
 30年という歳月を拉致監禁による親子関係の修復に費やしてみて、今、同じような問題で苦しんでいる人たちに、心からそう願っている。
 私の母は年老いて、最近は私が教会員であることを忘れてしまい、「統一教会」という言葉から生まれる壁は私たちの間から消えてしまった。

 母は、私自身の言動から感じる印象の中で、私に対応してくれている。
 私たちは、今までとは別の親子関係を築こうとしている。
 今はまだ全てを話すことはできないが、私は、母の物忘れを通して人の世の不思議を感じながら、また新たな母との関係を探して努力をしてみたいと思っている。

 私たちは、ずっと、親子なのだから…。
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コメント

親御さんへ統一教会を恨みましたか

朋子さんの親御さんに端的に聞きたいのは、朋子さんの受け入れた統一教会に対して、娘さんを取られた という恨みの気持ちすなはち統一教会憎しの気持ちを持ちましたか?私が統一教会を脱会する時、リーダーにこんな言葉を投げかけられました。小川君 君のご両親を復帰することは無理か?その時、私不可能ですね。親は、統一教会を恨んでますよ!とリーダーは、自分の子供を統一教会にとられたからな。そんなやりとりがありました。その後、親に聞いてみました。俺が統一教会へ行ったことで統一教会を恨んだか?親は、そのとうりだ。私、だったら統一教会へ怒鳴り込んで子供を返してくれ!と、行動を起こそうと思わなかったのか?親は、そんなことできるかバカバカしい。本人が気付かなければ何を言っても無駄だ。親子の縁切だ勘当だ。そのように言ってました。反対派に焚きつけられて統一教会憎しの思いは募りますが、娘を統一教会に取られた。という強い恨みはなかったか?そう思いコメントいたしました。

小川さんへ

私は献身して32年になります。

私の親は、現在も統一教会を恨んでいます。
幸か不幸か経済的に苦しい家庭なので、拉致・監禁とは無縁ですが…

献身当初、結構賢いと思っていた母が、電話で「教会に火をつけてやる!」と叫んだときには驚きました。

十何年も経って弟から、気丈な母が私が献身してから毎日泣き暮らしていたと聞いた時も、とても意外に思い、驚きました。

たまに帰省もするし、普通に話もしますが、教会の話は一切聞こうとしませんし、先日自叙伝を送ったら「教会の物は一切読む気はないし、文鮮明なんて憎ったらしい!」と送り返してきました。

とても悲しいです。こと教会に関してはどうしても接点を見出すことが出来ません。

親の気持ち

私は、親の気持ちはわかりません。
この先、一生わかる機会はないです。
でも、マイノリティの人の立場の人の気持ちなら、わかります。

私の母も、病的と思える位、教会には反対してました。
反対するのは、私への固執と教会が悪く言われているせいと思ってました。
献身どころか、入教(ホーム生活)すら反対してました。
だから、おそらく私が献身したら、ねこどしさんのお母様と同じように、日々泣いて暮らしていたでしょう。

ここまで反対していた母だけど、拉致監禁はしない!と自信をもってました。
それは、私の両親は、自分が負(悪者)になることは絶対しないからです。
だからこそ、やられた時はビックリしました。

でも、やられて、脱会してわかりました。反対派の親への教育が。ああいう教育を受けたら、母だったら絶対やるな、と。

その教育の場に向かわせたのは私です。

向かわざる得なかった当時の母の思いと、その場での母の救われた思いは何となくですけどわかるような気がします。

けっこう、親戚から心配しているような口ぶりで私が統一教会に入っていることを非難されたようです。
今のすぐ外注に走る親と違って、私の母はけっこう真正面から反対してきました。それでも止めない私と周りからの非難に悔しくてしょうがなかったのでしょう。
それで、藁にでもすがる気持ちで行った父母の会で初めて同じ立場の人に会い、気持ちを全部わかってくれる人に会ったら、それは嬉しかったでしょう。
今まで孤独だったのが、同じ立場の人がいる、それだけでどれだけ救われるか。

拉致監禁する親も辛いものなのです。被害者なのです。

だから、拉致監禁に関しては、私は親を恨んでいません。

ただ、これがもし精神病院だったら、私は絶対に許さないです。
だから、朋子さんの心情には、頭が下がります。

3回の連載お疲れ様でした。

朋子さん
お疲れ様でした。
今回の「壮絶なる親子の相克」は、教会の青年たちや、青年を指導するスタッフの皆さんには大変参考になる内容ではなかったかと思います。

朋子さんの時代は、拉致監禁は、本人問題といわれてきた時代だったともいます。私の時もそうでした。

なので、親が拉致監禁の準備をしているということがほぼ確実だとわかった時点でさえ、私は教会からなんの保護もされず、自分で解決しなさいといわれました。

それはそれで冷たいなと当時は思いました。

ですが、監禁を恐れる余り、親との連絡を絶つということは、差し迫った危機を回避する事にはなるかもしれないけれども、本質的な問題解決には程遠いと思います。

居所を隠して、偽名で逃げ回る生活は、親御さんは涙に暮れるしかないのでしょうが、ご本人もつらいのです。
なにか、緊急避難的な逃避であったにせよ、親子の話し合いをお膳立てすることはできなかったのでしょうか?

親子が向き合うことなく、即監禁という昨今の傾向も、この”緊急避難”がもたらしたものといえるのではないでしょうか?


宇佐美さんの元婚約者Kさん親子をそういう意味では気の毒に思います。

親子の断絶問題も心が痛みます。

韓国では、以前、日本大使館の前で、着物を着てデモをやったことがありました。

在韓の拉致監禁被害者が、再びの拉致監禁を恐れるあまり、里帰りができないということを訴えていましたね。

大使館でデモすることも別に悪くはないと思うのですが、まず、教会の内部でなにかできることをすべきではないかと思います。

私も在韓被害者の方たちが、里帰りができるようになにか手助けをすることはできないかなと日々思うのですが、どういう手助けが必要なのかが今ひとつつかめないのです。

せっかく高い着物まで用意して、デモをしたのです。

その後の取り組みが見えてこないのが残念です。

もちろん韓国では、それなりに取り組みが行なわれていて、私に見えてないだけなのかもしれませんが・・・・・。


話を戻します。
朋子さんのこの30年間、お母さんと向き合ってきた事は、決して無駄ではなかったと思いますし、koyomiさんもおっしゃっていましたが、頭が下がります。

この手記が30年の時を経て、多くの人の目にふれるようになったことに、大きな意義と価値を感じます。



感動を持って読ませていただきました

ありがとうございました。
泣きながら読ませてもらいました。
拉致監禁は信頼関係を深く切り裂きます。そして切り裂いた先にそれでもまだ残っているのが、親子という紐帯です。
でも親子関係ってそんなきれいなものじゃないし、本音でつきあってきた関係なので、それがたとえ本音を言えなかったとか、ずっと避けていたとか、いろいろな形はあるにしてもそれ自体が近い関係だったからできたことだったと思います。
親は子供に対して我欲もあわせて愛情だと、いや愛情だと思う前に湧き上がってくる子供に対する思いがあって、そこには自分のできなかった夢や希望を込めたり、文字通り自分の欲を込めたりするのだと思います。もちろん子ども側には子どもの意志と思いがあるので葛藤します。
もともとそういう親子の関係に反牧は「統一教会から救い出してあげるのが親の愛情です」と嘘を言います。親は自分の元に戻ってきてほしい思いをこれを持って正当化してどんな手段でも愛の前には肯定されるべきだと思うのだと思います。
そこには本来の信頼関係の延長になるものは何もありません。ただ親の一方的な愛情だという思い込みしかありません。
盲目なって監禁に走って、終わってみてから子供の心が戻ってくるわけではないことを知ります。
こんな親子の関係をどうやって修復したらいいのか、、それは体験者の永遠に近い課題だと思います。
しかし、朋子さんの体験記を読ませていただき、改札近くでお母さんと言い合いになった時に朋子さんが言った言葉に、お母さんは目が覚めたのではないかと思いました。
この子は昔のこの子と何も変わっていないそのままの自分の娘だということにです。
この娘は昔と変わらず、同じように自分を母親とみているという、当たり前のことに気づいたのだと思います。
それでも説得が続いたというくだりには、私もどっと疲れを感じました(笑)
裁判が終わるころに、やっと一対一の信頼を保ちながらの本音の話し合いがスタートしたのだろうか、ご推察しました。

私たちの体験したことのない、親子の信頼回復の道です。ただただずっと出口を探しながら話し合いを続けてこられた朋子さん親子にかける言葉も見つかりません。

いろいろな思いがこもっていらっしゃると思います。
含蓄深い投稿を本当にありがとうございました。
とても勉強になります。希望がわいてきます。

親とはありがたくて、やっかいなもの

まず、小川寿夫さんの問いかけ

>朋子さんの親御さんに端的に聞きたいのは、朋子さんの受け入れた統一教会に対して、娘さんを取られた という恨みの気持ちすなはち統一教会憎しの気持ちを持ちましたか?

を読んで、ネット世代でない上に、私との相克の過去の記憶すら失くした母(父は他界)に替わって、何か書くべきか…、と迷っているうちに「ねこどし」さんのコメントが入り、ほぼ同じということで、暫し読者気分でいました(ねこどしさんのコメントも心痛みます)が、
「端的に聞きたい」とのことなので、やはり、親に代わって代弁すべきだと思いお答えします。

母:「はい、その通りです。あの世に行ってもその恨みは忘れないと、娘には言いました!」

母の頭の中の辞書には「子どもが自分の知らない世界に行く」という言葉は存在していませんでした。それだけで既に『想定外』だったのです。

母一人の心の中に、
①「子どもが自分の知らない世界に行く」さびしさと、
②「洗脳から救わなければ」という責任感が混在していて、
そんな自分の気持ちを省みることなく混在したまま、その両方を満たす答えが「手元に置いておくこと」で、
「今すぐ、その不可能を可能にする」と豪語したのが後藤富五郎氏だった訳です。

強制入院前の当初の親の反対を、私が受け入れられなかった理由は、
教会の問題(思想的で危険な活動に走る・血分けなどいかがわしいetc)について話しているようで、
実は「手元に置かないと安心できない」という感情が満たされない限り、納得しないという母の非論理的姿勢に対する反発だったと思います。

そこで母の言葉を受け入れれば、私は「そこそこの社会的評価」を維持した「無難な人」でいることを人生の目標にしなければならないと感じたので、それも「あったほうがいい」とは思うけれど、それ自体を「目標」に生きることは出来ないと思ったのです。

子育てが落ち着いた中年後期の危機として「空の巣症候群」という言葉が社会で取り上げられるようになったのも、まだ最近のことですよね。
そういう意味では、社会で一通りのことを頑張ってきたと自負する親が、長い間育ててきた子どもに対して
「どうしたらいいかわからない」
という戸惑いは、それだけでも結構複雑な感情を生んだのだろうな、とは思います(時間が経ったから思えることですが)。

そこのところの親の心理については、koyomiさんがおっしゃっている、

>それで、藁にでもすがる気持ちで行った父母の会で初めて同じ立場の人に会い、気持ちを全部わかってくれる人に会ったら、それは嬉しかったでしょう。
今まで孤独だったのが、同じ立場の人がいる、それだけでどれだけ救われるか。

という言葉通りだろうと思います。
(親の孤独感情を増幅させる要因は、親の人生観・社会的立場によって様々でしょうが…。)

いずれにせよ、この「親の孤独」が拉致監禁システムというベルトコンベアに不用意に乗ってしまう原因ではないかと思っています。
そして、普通の人であればある程、社会通念を逸脱した行動について、本当の第三者に打ち明けることが難しい…。
その秘密(子どもを拉致監禁した)を共有できるのも、結局は同じ経験をした人たち。
「辛いでしょう」と、悩んでいる親を慰め、感情を共有すると、親としての感情のほうが罪意識よりも鮮明に感じられて、何だか自分の心も落ち着くような…。
そんな不思議な世界があるのではないかと想像しています。

ところで、私が、今一番心配しているのは、拉致監禁に失敗(または断念)し、この交流からもはぐれてしまった親御さんたちです。
子どもの脱会の責任を脱会屋に委譲した時から、自己の判断基準を超えて指示に従って監禁行動を起こしたあげく、上手くいかずに、脱会屋からも見放されてしまった「本当に孤独な親御さん」。子どもの状況から推算すると、結構いるはず。

すぐに解決する問題ではないとは思いながらも、この方たちの声を受けとめてあげる場所がないのではないか、と気がかりです。

私の両親も、一通りの反対の後、裁判の中頃からは、そんな親の一人だっただったと思います。
私が、両親を許す気持ちになったのは、帰省を続けることで、寂しさを心に溜めながら、自分たちに起こった一切を社会に対して語れずに(私には言い続けましたが)、黙って年老いていった姿を見たからかもしれません。

カルト・反カルトのオセロゲームの中で、このような親御さん達が、気づかれないまま放置されているように感じて…、監禁被害でダメージをかかえていらっしゃる当事者の方の問題と同時に、心配しています…。

このような、親御さんを含めた、当事者理解が、もっと深まるきっかけになれば…というのが、今回の手記の目的です。

危険

心から同意・同感します。
恩讐を愛する、という姿勢に心から敬意を表します。

ただ、一つだけ、ひっかかった点がありましたので、コメントさせていただきます。

<92年以降、教会の雰囲気は社会に対して一層保身的になり、監禁被害者や監禁予備軍の教会員たちを監禁魔の手から守らなければならないと保護する延長で、危険から遠ざけるためにと親との距離を遠ざけたままにして放任してはいないだろうか>

Oh-chanさんは「(拉致監禁される)危険から遠ざけるためにと親との距離を遠ざけたままに」なっていることを問題視されておられるようですが、Oh-chanさんは拉致監禁を克服された立場だから、そう言えるのだろうと思います。

でも、正直なところ、拉致監禁されることは恐怖であり、危険そのものです。

身体的不自由さ、友人関係を失うこともさることながら、監禁されることで、自分自身の戒律(信仰、純潔…)を自ら破ってしまうことが怖い。

たとえて言えば、自分は信仰によって自分を律してきたが、拉致監禁されることによって「もうどうでもいいや」「しょせん人間なんて…」と自らを律する基準(モラル)を放棄して、快楽を求めるようになりやしないか。

この自己モラルを失ってしまったら、信仰によって得たもの(目に見えないが非常に価値あるもの)を全てドブに捨てることになります。

そして、純潔を尊ぶ気持ちも無意識のうちに喪失してしまうのではないか、といった不安もよぎります。

親が反対牧師らによって洗脳されている状況を想定すると、どんなアプローチをしても通用せず、ただ逃げるしかないのではないかと思います。

アプローチの仕方によっては拉致監禁を未然に防ぐことができる、と言われているように感じますが、私にはそれは理想論であって、現実はもっとシビアだと思います。

お嫁に行って、監禁が怖くて、実家に戻れない、という話がありますが、これこそが真実で、まぎれもない現実だと思います。
年賀状や手紙などによるコミュニケーションがやっとだと思います。

洗脳された親はもはや本当の親(まともな人間)ではなくなっている、と思います。

裁判などにより、法的に拉致監禁ができなくなった、という保証がない限り、一人で帰省するなどということは不可能だと思います。

否定的なコメントですみません。
上記以外は全面的に同感です。

RE:危険

>洗脳された親はもはや本当の親(まともな人間)ではなくなっている、と思います

この言葉って、反対派が親に教育する言葉まんまなんですよ。

「統一教会にマインドコントロールされているお子さんは、あなたのお子さんではなくなっているのです。」

統一教会員であろうがなかろうが、その人はその人です。
米本さんの本にも書いてありましたが、どんなに真の父母様を信じて慕っていても、子供は子供で、親に対する気持ちは変わりません。

同じように、反対派に教育されていても、親は親のままです。
拉致監禁という行為はまともではありませんが、まともな人間(親)ではない、ということはありません。

でも、みんなさんの言う「危険」というのもわかります。
前に火の粉ブログに紹介された深雪さんは、2度の監禁後も、毎週実家に帰って統一教会について話しをしようとしてました。でも、3度目の拉致監禁がありました。

だから、必ずしも親にアプローチをすることが拉致監禁防止に繋がるとも思いません。

却って教会は、この拉致監禁の危険のある親(家族)に対する子(信者)へのアドバイスはしない方がいいのではないか、とさえ思えてきました。

拉致監禁が避けるため、親との接触を避けるのか、はたまた親にわかってもらうため、アプローチをし続けるのか?それは信者自身に任せてはどうでしょう?
信者自身がどうしたいのか、一番よくわかっていると思いますので。
信者自身が決めた決定を支持するという形をとるというのは。(無責任ですか?)

統一教会員だろうが、反統一教会だろうが、その人はその人のままです。
統一教会員だから、反統一教会だから○○という色眼鏡で見ることが、この拉致監禁問題の根底にあるような気がします。

解決を阻むもの

みんなさんのご指摘、ごもっともです。

もし、私の書いたものが論文だったら、その部分(みすみす監禁されに帰る危険性に十分触れていないこと)に大きな穴があると思っています。
今回の手記を書くに当たっても、そこは正直、悩ましいところでした。
今回、一つの事例として提示するということで、ありのまま書いたので、みんなさんのようなご意見はむしろ、監禁予備軍の誤解を招かないためには、ありがたいです。

私も、今、監禁の危険と隣合わせの人に「自分で死刑台(監禁)まで歩いて行くように」と勧めるに等しい残酷なことを言うつもりはありません。

臨機応変であるべきです。

ですが、YAMAさんもおっしゃっているように、緊急非難は緊急非難であって、解決ではないことを、団体としても、個人としても再考すべきではないか思います。
人は年をとります。私たちも、親も…。
いつか誰か(教会?)が、解決してくれるのを黙って待っているわけにもいかないのではないでしょうか?
そうしているうちに、親のお葬式まで終わっていた人がいるのですから。

koyomiさんのコメントもありますが『洗脳』という言葉は、本当に人を不幸にする言葉だと思います。
洗脳されていると言われた人は、コミュニケーションの対象ですらないというレッテルを張られて、一方的な保護の対象とされるのですから…。(まるで家庭裁判所に届け出ない、違法な成年後見の対象にされているみたい)

みんなさんが「洗脳された親」と表現された気持ちは、わからなくはありません。
もし、仮に私たちが洗脳された信者だとすれば、拉致監禁する親も洗脳された親であることは間違いありません。
しかし、いつまでも、人を不幸にすることはあっても、幸福にすることのない「洗脳」なる言葉に支配されていてもいいのでしょうか?

今回の手記で、私が米本氏のインタビューによらず、自分で寄稿することを決心した理由の一つは、<洗脳された信者>と言われて強制入院させられた私が、自分の口で<洗脳中(?)の私>の内面や判断を明らかにすることも一つの目的でした。これこそが、当事者にしか語れないことだと思ったからです(米本さんには言ってませんでしたね。すみません)。

人権侵害の事件として事実関係を明らかにすることも重要ですが、
「普通に話し合う対象ではないから拉致監禁するのだ」という、拉致監禁を正当化する理由になっている「洗脳」とか「マインドコントロール」というスティグマについては、事実関係だけでは理解をえられないものがあると思います。
当事者が、自分の内面を明らかにすることで、洗脳状態だという決めつけが間違っていることを自ら証明する必要があると思います。
これは、教会にも有能なジャーナリストにも、当事者の努力なしには出来ないことです。
その意味では、この事を、自力で表現した宿谷さんは、すごいなぁと思います。

「洗脳」という言葉は、相手を責める(貶める)のには有効ですが、問題を解決するには無意味で有害な言葉だと思います。
監禁という行為を継続したい人には都合のよい逃げ口上ですが、拉致監禁をなくしたい人には百害あって一利なしだと思います。
なので、「洗脳理論」の被害者である私達までが、「洗脳理論」に乗せられてはいけないのではないかと感じています。
みんなさんを批判するつもりではないので、そのへんはご了承ください。

洗脳されてると言われて、親に相手にされず、精神病院でも看護師にバカにされ…「洗脳」という言葉に呪われてるような気分で、悔しかったもので、つい…というところです。

ところで、みんなさんに質問。
2年ほど前に、ある日本食口から、韓国に嫁いだ監禁被害者から親御さんへのへの手紙を、その人が親切心で、日本で途中経由して住所がわからないようにして転送して守ってあげている、と聞いてビックリしたことがあります。
私は、金大中さんのように、韓国から拉致されて日本で監禁されることはないのではないか…と思って、親御さんに韓国内の住所を教えて、「遊びに来て」、と伝えたらどうかと言ったのですが…、甘いですか?
2年間、素朴~に疑問だったので、みんなさんなりに感じるところで教えていただけますか?
(急ぎではないので、時間のある時に~)

フェイント

 真面目な議論をされているときに申し訳ないのですが、現状は青年教会員のかなりの人たちが拉致監禁のリアリティある情報を知らないのです。

 Oh-chanさんの投稿に登場した深雪さんも、このブログは読んでいないと思います。親は読んでいて頭にきたようだけど。
(違っていたらゴメンだけど、99%そうだと思う)

 客観的に言えば、今ようやくごくごく一部の現場責任者クラスが「拉致監禁問題に目覚めた」かという程度でしょう。

 私が「拉致監禁リアル情報」を書かなくて済むようになったのは、ここ数カ月前からのことです。


 話はそれるけど、結婚した人が拉致監禁にあうことは、もうありません。
 夫(あるいは妻)から訴えがあれば、しぶしぶだろうが、警察は動きます。恵美子さん及び韓国人の夫の先駆的な行動に注目すべきです。
 恵美子さんは親をも刑事告訴したため、親子断絶状態です(1年前の話。その後のことはお子が誕生したから不明)、

 監禁が怖くて日本に帰れないという人がいたら、それは間違った情報に影響されているからです。

 そもそも、江利川女史は着物デモをやった以外、あとは知らん顔。「日本に戻れば拉致監禁だ」と、宮村氏と同じようなレベルのことを言っている、脅しているだけです。

これまでの取材感覚で言えば、2人はよく似ています。ソーメン・アージュであります。

Oh-Chanさん、ありがとう。

久しぶりに、ゆっくりとブログを読む時間をもち、-母と私~監禁から今日まで-を読ませていただきました。kiy さんと同じく、泣きながらでした。私も、同じころに信仰を持って生きてきましたので時代背景などに関わるマスコミや反対派の様子と、教会の対応はよくわかりました。拉致監禁されたわけではないけれど、教会ではマイナーな立場にあったため、「統一教会の信仰を守る権利を主張して裁判をしている2年目にして、自分が教会員ではないと聞かされた」というところも、じ~んときました。
反対されるために家に帰らなければならない。教会の話さえしなければ和やかに過ごせるのに、そのことを話し始めると何とも言えない重苦しい空気が立ち込める。しかし、親子という天の定めた縁を切ることもできず、世評に翻弄されては私のことを心配している親をそのままにもできず、結局、傷つき傷つけることがわかっていながら、向き合わざるを得なかった、そういう自分の数十年がOh-Chanさんの体験談と共に蘇りました。
直接話せば、『どうやら、自分の子供は、世間で言われているようなことはしていないようだし、生活もちゃんとしているようだな。』と理解できるようです。しかし、親も"昔から、火のないところに煙は立たないと言う"と思えば、全てを信じることもできないということなのでしょう。
 親の反対が子供の行動に対して、抑止力を持つということは大切な部分だと思いました。私は、「親の反対する権利を否定はしない。親にも、一定の反対する権利はあると思っている。」というところまで、心が広がっていなかったので、ほんとうにそうだなぁと思いました。
Oh-Chanさんとお母さんは、お母さんの物忘れを通して、幸せな親子の時間を再構築されているようですね。
私の母は、自分が家本来の宗教を大切にしなかったから私が統一教会に行ったと思ったことと、Oh-Chanさんのお母さん同様、孤独な日々を過ごしている頃に、お仏壇にの前に座ると心が落ち着いたという経験をしながら、今は通信教育でお坊さんの資格まで取れるところまでいってしまいました。お寺で、統一教会の話題もでるらしく、大学生の子供さんのいる家庭ではCARPに気をつけるようにといわれているという情報なども話してくれます。我が家が、Oh-Chan家のようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。私自身が、Oh-Chanさんのように、深く広い心が持てるようにならなくては変わっていけないことに気づかせてもらいました。
私も孤独で苦しかったけれど、親も同じように孤独であったし苦しんでいたということを、見て見ぬふりをしてきたところに、向き合うところからだなぁと思いつつ・・ありがとうございました。

入籍後なら

“洗脳された親”という言葉を使うのは、確かに不適格ですね。

親として拉致監禁行為に及ぶのは、あくまでも子供の幸せを願ってのこと。親は数日の話し合いで「分かり合える」「今まで通りの親子に戻れる」と思うのでしょうから。それが、いつしか長期化し監禁になるのも分からず。

マンションのドアや窓に鍵を掛け、警察には「親子の話し合いをしている」と説明する、などはその手段として、脱会屋に教えてもらったこと。
脱会屋との縁さえ切れれば、監禁はできなくなるだろうし、親子のごく普通の話し合いに戻ることでしょう。

<結婚した人が拉致監禁にあうことは、もうありません。夫(あるいは妻)から訴えがあれば、しぶしぶだろうが、警察は動きます。(中略)。監禁が怖くて日本に帰れないという人がいたら、それは間違った情報に影響されているからです>(米本さんのコメントより)

結婚後の監禁はない(あまりない)、とのことですから、とりあえず結婚が成立(入籍)するまでは、しばし親子の交流は遠距離で行う、というのが現実的な対応ではないかと思います。

脱会屋が絡むと、とにかく話し合いは成立しません。脱会屋は監禁してなんぼ、棄教させてなんぼの世界ですから。

結婚が成立した後、堂々と、たっぷりと、腹をわって親子の話し合いをすればいいのではないでしょうか。

(すみません、これを、Oh-chanさんの質問に対する回答とさせていただきます)



朗報ですね

米本さん、朗報をありがとうございます。(ナイス フェイント!)
みんなさんの、ご回答にも了解です。

で、気になることは、恵美子さんについての訴訟情報について、私が、米本さんの「フェイント」以外に知らないせいではありますが、疑問があります。

>結婚した人が拉致監禁にあうことは、もうありません。

との事ですが、警察が探しても、見つかるまでに期間があるから、その間隠しきって脱会という計画で、韓国からの帰郷時に、監禁されるというリスクもないんでしょうか?

監禁がない事と、監禁されるけど探してもらえるというのは、ちょっと違うことだと思うのですが…。
今利さんの時も、警察は一応動いたけど、見つけられなかったんですよね。

恵美子さんが刑事告訴されたからには、今後、監禁する韓国婦人の親にも、それなりの決心(同じ立場になる)は必要でしょうが、脱会屋などは、狡猾に親を全面にたてれば、自分に降りかかるものがなければ、平気なんじゃないでしょうか?
その点、刑事告訴の持つ意味等も含めて、もう少し「監禁されない」根拠があれば、知りたいです。

 
それにしても、
>恵美子さんは親をも刑事告訴したため、親子断絶状態です(1年前の話。その後のことはお子が誕生したから不明)

とのこと、恵美子さんの心中、お察しします(出産を前後してなんて大変)。
恵美子さんは、決して、自分個人のこととして告訴されたわけではないと思います。

恵美子さんの行動によって、本当に韓国婦人に帰郷の道が開かれているなら、それをしなければ、恵美子さんに申し訳ないのではないかと思います。

そういう意味でも、韓国婦人の帰郷の際の拉致監禁の可能性の有無について、又、可能性があるとしたら、どういう場合なのか、そしてその危険を回避するために、あと何が必要なのか、もう少し知りたいです。

里帰りと拉致監禁事件

 少々長くなります。

 過去(90年前後以降)を時系列に振り返って書こうとしましたが、超長文になるので、省略して、Oh-chanさんの問題意識に合わせて説明しておきます。

 親子分離になるなど悲惨な事件はありましたが、転機となったのは元木恵美子さんの事件だったと思っています。

 この事件は拙著184~185頁で書いていますが、韓国人の夫と一緒に日本に戻ったところ、寝込みを襲われ、恵美子さんだけが連れ去られたという事件です。

 それで地元の警察に夫が捜索願いを出した。四の五の言っていたけど、なにせ「夫」です。
 それで捜査を開始、といっても恵美子さんの母親の携帯に警察が電話を入れたところ、所在がわかり、教会の監禁部屋から解放したというわけです。その後、恵美子さんは親等と牧師夫婦を刑事告訴しました。
 これは、今から10年前の02年の事件です。

 これ以降、妻あるいは夫が監禁された事件は起きていないはずです。

 起きたのは「婚約者が突然所在不明になった」という事件です。むろん、合同結婚前の青年信者も。

 警察は婚約者(法的権利の地位は低い)の捜索願いはほとんど受理しません。受理したとしても、婚約者の両親が警察に出向き、「親子の話し合いをしています」と言われたら(江里子さんの事件)、事件性なしで終わってしまいます。

 この点で、残念だったのは元世田谷教会の田中妙子さんのケースでした。婚約者は韓国からやってきましたが、韓国大使館からのベクトルもあって、「捜索願い」ではなく、ようやっと「行方不明者」として受理しました。

 その後、妙子さんが脱会の意思&婚約破棄の申し出をしたため、犯罪事件はウヤムヤに終わりつつあります。(脱会説得者はわが宮村峻)

 妙子さんは家庭出発する(結婚生活を始める)直前に、日本に戻り監禁されたわけですが、形式的にであれ、入籍の手続きを先にしていれば、宮村先生はビビリ、一方警察の捜査スピードは(四の五の言おうが)違ったものになっていたはずです。

 今から10年以上前には、結婚、未婚を問わず、拉致監禁されていました。しかし、時代は変化しています。教団もマジにこの問題に取り組んでいます。

 したがって、結婚している信者を拉致監禁することはできなくなっています。

 韓国・統一教会が「拉致監禁が怖くて里帰りができない」と訴えるのは大切ですが、実際、里帰りしようと思えばできるのです。

 ただし、その場合、バラバラ統一さんが苦手な連携(統一)、つまり、「今度、うちの本郷人がそっちに里帰りするけど、フォローを頼むよ」と連携プレイすることが安全・安心の保障となります。
韓国父さんが「うちの女房が帰ってこないけど、歌舞伎役者の追っかけでもやっとるんか」といったレベルなら、話になりませんが。

 昨年韓国にお嫁にいった監禁体験者が今度の正月に日本に戻るというメールがありました。彼女が安心できているのは荒川青年支部の小林宗一郎氏が親子の仲をフォローしているからです。


 私がヒラメちゃんこと江利川女史なら、飛行機をチャーター(費用は韓国・統一持ち)して壮大なる「里帰り運動」を、記者会見を開いたあとで開始するのですが。「クッチンさま・命」の彼女には瞬発的な戦闘能力はあるものの、未来を見据えた解決&持続能力に乏しいから、無理かも~。

 でも、女史のことはどうでもいい。
「今度、私は日本に帰るわ」と、このブログででも公言すればいいのです。

 それで所在不明になったら、このブログの投稿欄も、お巡りさんに証拠として提出できますので。

 大胆にそして細心の注意を!

大胆にそして細心の注意を! に一票

米本さんの大胆にそして細心の注意を!というご意見に大賛成です。

拉致監禁容認派の方々から見ると、拉致監禁を回避するための「緊急避難的」逃避も家族との話し合いの機会を奪う行為だというのです。
まあ、あちらの人からみればそうなのだと思います。

以前に、私は在韓のとある婦人が里帰りをしようと日本に帰国したところ、地元の教会の教会長に、危ないからやめろといわれ、せめてご両親の顔を見るだけみて帰ろうと自宅の前まで行って、そのまま家に立ち寄る事もなく、韓国に帰国したという手記を読んだ事がありました。

私は、その手記を読んで本当に悲しくなりました。

誰かが付き添って、親と対面させる等の方法もあったと思います。


それに拉致監禁は、かなり用意周到な準備が必要なため、突然帰った場合、その準備ができませんから、いきなり監禁されるという危険は限りなくゼロにひとしいと思っています。

私も拉致監禁から偽装脱会を経て、教会に戻ってきた直後は親に居所も知らせる事もできませんでしたが、時々は実家に帰っていたんですよ。

予告なしに突然ですけど・・・・。

洗脳された親はもはや親ではないというご意見もありましたが、10年たっても20年たっても洗脳され続けたままでしょうか?
そういう人もいるかもしれませんが、子供の監禁の面倒は見てくれても老後の面倒まではみてくれない脱会説得者のいうことを長いこと信じ続けられるでしょうか?

年月がたてば、脱会説得者とのかかわりもなくなり、勉強会からも足が遠のき、行かなくなっていくものではないでしょうか?


親は確実に年をとり、身体も弱っていきます。

やはり最後は家族なのではないですか?

親の最期ぐらい看取ってあげれなくては~



さらに一票!

大胆にそして細心の注意を!
に、さらに一票!

YAMAさんの、
>それに拉致監禁は、かなり用意周到な準備が必要なため、突然帰った場合、その準備ができませんから、いきなり監禁されるという危険は限りなくゼロにひとしいと思っています。

の言葉通りだと思います。拉致監禁は用意周到な所で起きるものです。監禁用に改造されたマンションや、それ用の牧師館の空室が必要なので、予約が取れてなければできるものではありません。
親は、365日、何年も監禁の準備を整えて待っているわけではありません。(ねこどしさんのコメントにあるように、最初のうちは365日、泣いて待っている可能性はあります)

ぶっちゃけ言えば、脱会屋だって、道で偶然に教会員に会ったって、親との契約が成立していなければ、教会員と知りながら普通にすれ違ってくれます。受注してお金にならなければ、関心もなく捕まえもしないのです。
最近、監禁被害者で、かつて自分を監禁した牧師さんに会いに行って、予約が入ってないので、「久しぶり」とお茶を飲んで帰ってきたと聞きました。
監禁への注意は必要ですが、恐れ過ぎてはいけません(幽霊の正体見たり枯れすき?)。

早々と親に帰省のスケジュールを予告しないで、細心の注意を払ってじっくりと静かに準備をした上で、さっと大胆に帰ったらいいのかもしれませんね。

親御さんには失礼かもしれませんが、それでも音沙汰なしとは天地の差があると思います(後になって分かります)。

咎められたら、元木さんのような例について説明し、
「自分は韓国で幸せに暮らしているので、万が一にもその幸せを失うのが恐い」
と率直に伝えて、潔くあやまるしかないのでは。
他人に迷惑をかけるのとはわけが違うと思います。

敢えて言えば、私が心配するのは、妙にすんなり迎えてくれて、次はちゃんと早めに予定を知りたいというパターンです。目の前で、NO!とは言わないにしても、次回よてい通りに帰るかどうかは考えてみたほうが良いかも…(何度目かのパターン化した帰省のほうが可能性はあります)。

渡航費もかかるので、一回の帰省を確実なものにしたくて、ついつい予定を早くから知らせてしまいがちですが、そこはリスクとの兼ね合いで、臨機応変に対応すべきだと思います。経済的な大胆さも必要ですね(苦笑)

さて、YAMAさん、
>私も拉致監禁から偽装脱会を経て、教会に戻ってきた直後は親に居所も知らせる事もできませんでしたが、時々は実家に帰っていたんですよ。

予告なしに突然ですけど・・・・。

を読んで、深く共感しています。結果、再監禁~脱会に至らなかったのは幸いですが、それは過ぎて始めてわかることですよね。長い間、再監禁の不安、親との確執、…葛藤だらけで投げ出したい気分もありながら続けられたのだろうと推察します。

「きよみ13年ぶりの帰郷」でも、冷やかな再会シーンがありましたが、最初はそんなもんです。…そんなもんですが、それは結論ではなく、将来の和解に向けたプロセスなのではないでしょうか?「また来るね」と言って別れて、本当にまた行く…無駄だったかどうかは、人生の最後にゆっくりと振り返って、考えればいいことではないでしょうか。(もっといい方法をご存知の方は、是非教えてください)

私は、韓国で大使館にデモをしたついでに交渉して、寄稿前に帰韓の意志と予定日を知らせた書類でも送ってから帰国することはできないかな、と思っていたのですが、米本さんがブログでの公言を提案して下さったので、それもありだと思います(早々は危険~)。

帰れるのに帰らなければ、逆に「洗脳されて親を思う気持ちがない」と誤解されかねません。

韓国にお嫁に行かれた方たちが、八方手を尽くして、親御さんとの再会を果たされること、そして愛する家族の待つ韓国に無事帰国される事を願っています。



oh-chanさん

すみません 記事を ざっと読んだだけで 時間がなくて 今は コメントだけ入れておきます。

ここで 再会できるとは!!
どう 考えても 私は あなたの霊の子です。

私は韓国に来て悩み始めましたが
2010年には 心を決めて 教会から 決別しました。

その後 あなたのことが気になっていました。私が 教会を離れたとなれば 悲しむだろうか・・・と。

この名前で ブログを書いています。
見ていただければ 確認できるでしょう。

この夏休み 初めて 家族全員で 日本に帰省します。

キラリ☆さんへ

キラリ☆さん、
再会できた事が、ただ嬉しいです。

>その後 あなたのことが気になっていました。私が 教会を離れたとなれば 悲しむだろうか・・・と。<

そんなことを気にする必要はありませんよ。
あなたが、私を悲しませる何をしたというのですか?
(あなたから不幸だと聞けば悲しいですが…そうではないのでしょう?)

それに、万一、少しくらい私が悲しんだとしても、それはそれで良いではないですか。
神様が、人に下さったのは喜びや楽しみだけではないはずです。
怒りや哀しみの感情も、それを人に下さったのは神様ではないでしょうか?
喜びや楽しみが多いに越したことはないでしょうが、向き合うべき悲しみがあれば、あえて避ける必要はないと思います。

いずれにせよ、今日、私がキラリ☆さんのコメントを読んで涙したのは、ひとえに再会の喜び故です。私にとって、今、確かな感情はそれだけです

かつてキラリ☆さんが、誰に相談するでもなく、我が家に、母を訪ねて下さり、後日、母の想いを私に伝えてくださったことを、私はずっと感謝しています。

>この夏休み 初めて 家族全員で 日本に帰省します。<

そうでしたか。
私だけが帰省していたことを、とても申し訳なく感じますが、今夏、楽しい時間を過ごされることを心から願っています。

今後は、個人メールで(^^)

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