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精神病院そして自宅へのいざない(下) 

仮面を剥がされた人たち(6)


 前回は、朋子さんの精神病院送りのことを書いた。今回は、いよいよ後藤富三郎の人物論である。



-反対活動家・後藤富三郎について-


1 精神病院での出会い


 一般的に「強制改宗家の後藤富五郎」として知られていた人物だが、1980年春に後藤氏を民事提訴したとき、後藤氏からの裁判資料には「後藤富三郎」と記載されていたので、それが本名なのだろう。

 私が、後藤富五郎に初めて会ったのは、1979年秋21歳の時、統一教会から脱会させる目的で精神病院に監禁されていたとき、病院長から「(あなたは)もう大丈夫」だと言われた翌日のことだった。

 午後、突然面会に来た後藤氏は、病院2階の面会室で、しばらく「血分け」や「KCIA」だと文氏の悪口を言ったあと、それを穏やかにうなずきながら聞いていた私を見て、
「原信者(後藤氏は、統一教会員をこう呼んだ)は、私が『文野郎』と言うと、私を睨むが、あなたは違う。いやぁ、治ってよかった」
 と言い出した。
 そして、突然、こう聞いてきた。 
「私は、統一教会の女性信者に、文鮮明の命令なら身体を提供しますかと聞くのだが、あなたならどうするか?」
 

<な、なんだ、この爺さん!>
 と思ったが、監禁中なので穏やかな姿勢は崩さず、微妙に困った顔をして首をかしげ、「ちょっと、それは…」 と濁して、やり過ごした。

 すると、文氏の命令でアメリカに渡った80人の日本女性信者の話を始めた。
「彼女たちはアメリカで政府高官の家へ送りこまれたが、日本に帰ってきたときには全員妊娠していて、その処理を韓国で行ったのだ」

 後藤氏は何度も、「ぜんぶ妊娠していたんですよ!」 と声高に断定する。

 それまでじっと聞いていた私も、<全員とはいかなくても、不本意ながら不幸な目にあった信者の実例でもあったのだろうか>という心配と不安から、それまで一方的にまくし立てていた後藤氏に、突然ぼそりと口をはさんだ。

「ほんとうに全員なのですか。そんな人が何人かいただけではなかったのですか?」

 ずっと手を振りながら力説していた後藤氏が、ふいを突かれたように一瞬話を止め、
「・・・いや、それは・・・。しかし女性が他人の家に行った。そこではセックスがあったと思うのが、当然の常識であり、セックスイコール妊娠と考えても、ちっとも不思議じゃない。私の知っている新聞記者だって言っていましたよ」
 と気を取り直したように言った。

 
 当時、統一教会員を脱会・説得する専門家として新聞・雑誌のマスメディアにも登場していた後藤氏が、説得理由(文鮮明氏の裏側の素顔)についての証拠を、新聞記者が言っていたというだけで、ひと欠片も持っていないのである。 

 当時、後藤氏は翌1980年の「週刊文春」に「洗脳」についての記事を載せるために原稿を書いていると自慢していた。
 翌年早々、私たちに提訴された彼が、その直後に文春に寄稿したとはさすがに考えにくいが、<事実の確認もないままに全員妊娠と言ってのけるような人物に原稿依頼する週刊誌というのもいかがなものか>と呆れた。

 後藤氏は、マスコミに「統一教会のいかがわしさ」を提供する際の証拠や、「統一教会=洗脳」の根拠を持っているべき1人だったはず。 その彼が、説得のための話の根拠を確認できておらず、「私の知っている新聞記者だって言っていましたよ」と言うだけ。

 その新聞記者が書いた記事には、「反対活動家(後藤富五郎)はこう語っていた」と書いてあったのだろうか。<これでは、まるで伝言ゲームじゃないか!>

「嘘も百回言えば本当になる」という諺通り、後藤氏と反対派ジャーナリストたちの間で悪意を込めた情報が行き来する間に、根拠のない下種の勘ぐりから始まった話が、堂々と記事になり、その記事を活用しながら、親の不安を煽り、拉致監禁へと走らせるという流れが見えてきた。 
 
 精神病院2階の面会室で、私は唖然としていた。
 もう少し突っ込んで聞いてみたい気持ちはあった。
 しかしそれをすると、彼の私に対するイメージが<洗脳の解けた良い娘から気難しい原信者に変わる>ように感じて、話を止めた。(監禁された側は、けっこう気を遣っているのだ)

 馬鹿馬鹿しくて、それでいて深刻な結果につながる話だった。後藤氏は、女性にまつわるいかがわしげな話を何度もしたが、それについては、後で改めてふれたい。

 後藤氏は調子よく話を進めながら、彼の更生施設(新生ホームかどうかかは不明)で撮った『更生の祝賀会』写真を見せ、「洗脳が解けた青年信者」だという3人と一緒に写っているのは荒井荒生とルポライター山口浩だと教えてくれた。
 
「荒井荒生」で検索したが見つからず。「ルポライター山口浩」は、『原理運動の素顔』(1975年初版)の著者。


 30年もの時間が経ち具体的に回想することは難しいが、彼は写真に写っていた1人を含め有名大学の学生を自分が更生した(洗脳を解いた)という類の自慢話が好きだった。

 その話からは、有名大学の学生を洗脳から解いてあげる自分は賢いと感じていたい様子が読み取れた。
 ふんふんとうなずきながら、<この人には、何か、学歴コンプレックスでもあるのだろうか>と思った。
 
 後藤氏は有名大学の学生でありながらも、原理にかかわったために洗脳は解けたものの結局は廃人になっという不幸話もよくした。
廃人」という言葉をよく使った。

 私の両親が監禁を決意したのも、電話口で繰り返し「廃人になる前に」と言われためだったようだ。  

後藤が語った「洗脳は解けたものの(脱会したものの)、結局は廃人になった」とは、どういうことなのだろうか。
 精神病院の閉鎖病棟に監禁し、精神薬を過剰投与した結果、廃人になってしまったということなのか。
 後藤は、「信仰きれず 鎖が切れた」で書いたように、教会員を平気で鎖で縛るようなことをしてきた。教会員は脱会の意思を示したあと、衝撃的な体験によって発狂してしまったということか。
「廃人」という言葉をよく使ったということだから、廃人になったのは1人や2人ではないはずだ。「拉致監禁アンダーワールド」の闇は深い。 
 

 私は、後藤氏の話を聞きながら、有名大学の学生の洗脳を解く自分はその学生以上に賢いと思い込んだり、もしかしたら後藤氏自身が不幸の種をまいて廃人にしたかもしれない相手が、苦しみながら生きている姿を見て、優越性を感じるという彼の人間性を嫌悪した。 

 彼は、ざっと2~3時間話をして、「治った(洗脳が解けた)」と満足そうに帰って行った。帰り際に、
「今度、うちに外泊したらいい。そのように、(病院の院長に)言っておくから」
 と言い残したが、私は気にとめず受け流した。
 私の立場は、何でも「はい」だった。
 

2 後藤氏宅での話

 この面会からしばらくして、婦長から東京にいる姉のところに二泊三日の外泊をすることが告げられた。唐突な印象はしたが、私には断る権利などなかった。

 当日、私を迎えに来た姉は、詳細ないきさつを知らされておらず、よく事情がわからないままに依頼を受けた様子で、
「よくは分からないが、逃げたら自分が責められるから、それは勘弁してほしい」
 とだけ忠告してから、気の毒に思ってか、とてもやさしく接してくれた。

 東京の地理に関しては、東京駅の八重洲口と久留米が丘病院しか知らず、教会本部の場所すら知らなかった私は、無一文で脱走を試みるというリスクを犯そうとは思わなかった。

 2泊して病院へ戻る日、まだ事情の呑み込めていない姉は、「面倒くさいな」とこぼしながら、母からの電話での指示に従って、午前中私を連れて後藤氏の家を訪ねた。
 黄色い電車(西武新宿線)に乗って着いた駅が「鷺ノ宮」ということはそのとき覚えた。その駅から10分ほど歩いたところに後藤氏の家はあった。

 玄関から右手のコタツのある和室に通された。
 私たちを招き入れた後藤氏は、テレビを背にして座った。

 地味な印象の妻が、「治ってよかったですね」どころか「いらっしゃいませ」の一言もなく、おじぎか何かはっきりしない無表情なうつむき加減で、事務的にお茶だけ運んで出て行った。
 その様子は、厭味な店主に使われている女事務員さながらで、私たちは後藤氏の客であって、後藤家の客ではないようだった。

 妻が下がると、後藤氏は病院のときと同じように、一方的に「いやぁ、あなたが治って本当に良かった」と連発し、私は何度もあいさつを兼ねてお辞儀をした。
 事情の呑み込めてない姉も、後藤氏の一方的な調子に合わせるしかないと感じたようで、黙って一緒に相槌をうっていた。

 落ち着いて話がはじまると、後藤氏は、
本当はウチに外泊するはずだったのに、病院が認めなかった。病院は薬を飲ませるしか能がない。それなのに私が行くと、たちどころに(教会員の)洗脳を解いてしまうので、行く度に看護婦は礼儀正しくなっていく。しかし、ウチへの外泊を認めなかった…
 と、しばらくグチグチ言った。

<言われたままにしているしかない私に、そんなことをグチグチ言わないでほしいなぁ>
 と思いながら、相槌とも謝罪ともつかない対応をしながら、その話を聞いた。

 その後、後藤氏は、コタツに足を入れたまま、上半身だけで背後のテレビ台から数冊の大学ノートを取り出し、これは200人の更生記録だと言った。

 1ページに2人分ずつ記入してあり、個人別に、冒頭に統一教会員の名前を記入し、次に、最初に家族から連絡を受けた日付、それから監禁予定や実際の監禁の日付と監禁場所、その結果までが記録してあると説明した。
 治ったら(洗脳が解けたら)、社会復帰という意味で『社復』という大きな(2×5㎝位)赤い印を押すようになっており、後藤氏は、たくさん『社復』という印がついたノートを、指を舐めながら満足そうにペラペラとめくった。

 私は後藤氏から、私の入院前日まで同じ病院に監禁されていた女性Tさんの記録と、私自身の記録を見せてもらいながら、話を聞いた。
 それによると、最初は地元(山口市)の精神病院に入院させるように指導したが、病院から不法入院は出来ないと断られたので、東京でTさんの退院を待って入院させたということだった。
 そして、私が治ったので、「次の人の入院計画を決めた」とも話した。 
「原信者同士を会わせると治らないから、順番に1人ずつ入院させるのだ」そうだ。

 私の入院の際、東京駅八重洲口からのタクシーでの座り方(信者は後部座席の真ん中)まで教えてもらったと母から聞き、そこまで細かく指示を受けるのかと計画の周到性に驚いたことがある。
 病院長から「治った」と言われた翌日に後藤氏が確認に来たこと、彼の家での記録を見ながらの話の数々‥‥、拉致監禁がチームによる計画性をおびてきたのは、決して最近のことではない

 自己顕示欲を満たすことこそが生きがいの人間、それが後藤富五郎という男の本質のようだった。
 特殊な能力をもっているかのような社会的肩書きで、子供を守りたい一心で泣きついてくるいい年をした大人たちを指導する快感、更生して欲しいと拝み倒される気分、そして易々と手に入れる報酬、‥‥普通の老人では有り得ない収入を武器に、家でも家長として君臨し続ける姿を彼の自宅で感じた。改宗という作業は、彼の生きがいだった

 話のなかで、彼は幾度となく、統一教会にいると洗脳され廃人になるから、そうなる前に嘘をついても騙してもいいから入院させろと親に話したのだと言った。私は、その話を聞いて思った。
<だからこんな事になったのか。私が騙し返しても、何の問題もないな>
 

3 退院前、ふたたび病院で会う

 話は少し遡る。
 後藤氏は、1回目の面談のとき私の状態におおむね満足そうにしていたが、退院直前の母からの脱会の意思を確認する電話で、私がはっきりやめると言わなかったとの報告を受けて、その翌日の午後、2度目の面会に現れた。そして、開口一番、
また教会に行くつもりなら、退院を2ヶ月くらい延ばしてもらわなければならないが、あなたはどうするつもりなのか
 と切り出した。

「あぁ、電話の声が遠くて聞きにくかったようですが、私は大丈夫ですよ」
 と笑いながら答えた。私の返事に安心した後藤氏は、
「ああ、よかった。ああ、よかった」
 と連発しながら、こう語った。 
「もし原理に対する教義的な面での疑問があったのなら、森山牧師に会わせてあげようか」

 森山牧師とは、杉並区荻窪栄光教会の故森山諭牧師のことだ。
 入院の長期化を避けるためにさりげなく断ったが、後藤氏の様子から、彼と森山牧師は気軽に連絡をとり調整し合える関係なのだと感じた。
 
人脈史的に言えば、こういうことだろう。森山氏は後藤富五郎と連携していた。後藤が亡くなる前、森山氏のもとを宮村峻氏が訪れる。その後、森山-宮村による二人三脚での脱会活動が始まる。(拙著『我らの不快な隣人』 188~189頁参照)。ひょっとすれば、宮村氏は森山氏から後藤を紹介されたことがあったのかもしれない。


 荻窪駅の隣の阿佐ヶ谷駅から南北に通る中杉通り(環状8号線と7号線の間)を車で10分北上すれば後藤氏の住所である中野区鷺宮2丁目(杉並区に隣接)、そこからさらに15分くらい北上した練馬区向山2丁目に、かつて後藤氏と丸山隆が改宗場所としていた新生会ホームがあった。

 

 練馬区に監禁施設を持ち、東久留米市の精神病院までも行動範囲に収めていた後藤氏が杉並区の荻窪栄光教会とその周辺の活動家と関係を密にしていたであろうことは想像に難くない。

 その場はなんとか取り繕いはしたものの、気付かれないための緊張の日々は、それ以前よりも一日が長く感じられた。


4 退院当日~家族で後藤氏宅に直行

 12月9日、両親が迎えにきて退院し、病院から再び後藤氏宅へお礼のためにと直行した。一通りのお礼の会話の後に、母が後藤氏に、 
「約束のものです」
 と言って、白封筒をコタツテーブルの上に差し出すと、彼は目の前で開封し、20万円を数えて受け取った。

ちなみに、1979年の大卒初任給は約11万円。2010年は約20万円。
 両親への指導、強制入院の手助け、3回の面談で、大卒新入社員の給料約2カ月分に相当する謝礼金である。 

 それを背後のテレビ台の引き出しに入れ、代わりに改宗記録のノートを出した。自己満足に浸っているようにノートをめくりながら話し、謝礼は当然と考えているようだった。
 このときも後藤氏は、
「あなたが退院するので、昨日次の人が入った」
 と言った。
 1人ずつ確実に、それでいて無駄な空きのないように順番が組まれていた。

 昼になり、今日中に帰らなければならないという理由で、ようやく後藤氏宅を後にして、両親と私は新幹線で山口に戻った。
 

5 退院後、電話で話す(洗脳のからくり)

 退院して1週間くらいした夜、後藤氏はその後の様子を確認するために電話をかけてきた。
 当時、私は、精神病院での薬の後遺症と思われる不調に苦しみながら、棄教を装い続けていた。

 後藤氏は、母からひとしきりお礼の言葉を受けたあと、私に代わってくれと言ったようだった。母から電話に出るように言われ、私は重い心を抑えて受話器を取った。
 彼は、病院のとき同様、何度も「治って良かった」と連発した。そしてこういった。
 
「原理を始めてから後の時期に得た知識が思い出せなくなったでしょう。でもそれは洗脳がとけた証拠だから」

 薬の副作用のせいかストレスからか、後遺症によって苦しんでいた私は、あたかも後藤氏のいうような症状も有していた。
 もし、私が棄教する気持ちでいたら、彼のその言葉を信じて、自分の体調の悪さを「洗脳されていた証拠」と思わざるを得なかったことだろう。

 しかし、生憎、私は入院中もその時も、信仰をやめるなどとはまったく考えていなかった。
 にもかかわらず、彼がいう、洗脳されていた信者に洗脳がとける時に起こるという症状を有しているのだ。
 私に起こっているのは洗脳とか何とかいう問題ではなく、後藤氏の画策による精神病院での監禁による後遺症だった。

 後藤氏は自ら不幸の種を私と私の家庭に蒔きながら、それをあたかも統一教会による洗脳のせいであるかのように言い、自らを更生という慈善事業でもしているヒーローのように思い込んでいた。

 とんだ茶番だ。後藤富五郎という男の自作自演の救出劇のために私は精神病院に監禁されたのか‥‥。
 それが私で200人を超えているとは‥‥。
 この馬鹿げた画策をした、自己顕示欲と妄想にまみれた後藤富五郎によって、私は家族からの信頼を失い、学生生活の危機に立たされ、健康を失い、信仰の自由と共に正気さえ失いかけているというのに…、私は穏やかに話し、彼が喜び励ますたびに「ありがとうございました」と言うしかなかった。
 彼のせいで服薬の後遺症で苦しんでいる私が…。 
 
記憶のことは、こういうことではないのだろうか。 
 久留米が丘病院が投与した精神薬には、記憶障害をもたらす副作用があった。これまで強制入院させられた教会員は、脱会の意思を示すときに、「原理を始めてから後の時期に得た知識が思い出せなくなってしまう」という症状を示した。
 そのため、記憶障害が生じると、それは「洗脳が解けた」証拠であると、後藤は経験上、思い込んでいたということではなかろうか。恐ろしい話である。 


 この後藤氏への嫌悪感が、彼を妄信して私から私自身の権利を剥奪した両親への怒りをより強く抑えがたいものにし、自分を惨めにさせた。
 その感情が憤怒となり、私は正気と狂気の間で揺れ動いていた。
 
<人を狂わせるものは、制御できない強い憎しみだ。精神病院で正気を貫いた私が退院したこれから、憎しみの情によって狂うのだろうか‥‥>
 あまりの皮肉に、不調の中で脱会を装った私は、毎夜、気づかれないように声を殺して泣いたものだ。


6 後藤富五郎という人間と性

 後藤氏は、何人もの「洗脳からの更生」話をしたが、私は彼から、統一教会員になったという彼の息子に関して、救出の苦労話も、救出できない親としての苦しみも聞いていない。
 30年たった今思い出す彼からは、子どもを教会に奪われたことを悲しむ親としての思いが一切感じられない。

 後藤氏は、面会の時、1回につき2~3時間程度話したが、そのたびに話の間で、 
「洗脳が解けた女性信者は簡単に男性に身を任せるようになるが、それは自然なんです」 と、何度も語りかけてきた。 

 そのときの私は、76年に後藤氏が責任を務めた「新生会ホーム」関連で起こった丸山隆による女性信者レイプ事件を知らなかった。
 それで、目の前の老人を見ながら、
<人間は死ぬ前に理性が鈍ると、こんなことを口走るんだろうか>
 と、色ボケ爺さんのたわごととして、他の話と同様に黙って聞いた。

 先にも述べた、外泊の折に後藤氏の家を訪ねたとき、外泊時には自分の家に泊まらせるように言ったのに…、とグチグチ言っていたことに対しても、実際に3日も彼と共に生活せずに済んだことに、ほっとしただけだった。

 会うたびに、2~3時間は話を聞いてあげていたし、彼が話したければ何日でも何時間でも面会は可能だった。それなのに、どうして彼の家に泊まらなければならないのか。後藤氏のこだわりぶりは不可解だったが、老いぼれたお爺さんに見えた彼に対して、当時切迫した身の危険を感じてはいなかった。

 しかし病院から姉の所ではなく、後藤氏のところに宿泊させられるようになっていたら、事情は違ったのかもしれない。

 外泊時の後藤氏宅での話の中で、彼は「次は自分の家に泊まるように」と、また念を押した。
 もちろん、私は「はい」と言うしかない立場だった。
 そう言われて、次に後藤氏宅への外泊があるかもしれないと気が重くなった私は、この外泊直後、院長に呼ばれて面談したとき、
「後藤さんが私を家に泊めようと考えていたようだが、そうしなくてもいいのか?」
 と院長に確認した。

 行くしかないなら、心の準備がしたかったからだ。すると院長は、
「それは、私が許可しなかった」
 と即答した。

 院長は、私が後藤氏の家に泊まることは『許可できないこと』と考えていた。それを聞いて、何はともあれ後藤氏宅への外泊がもうない事を知り、かなりほっとした記憶があるので、このことに間違いはない。

 私が、後藤氏の口から、「洗脳が解けた女性信者は簡単に男性に身を任せるようになるが、それは自然なんです」と聞いたのは79年、つまり新生会ホーム関連の丸山隆によるレイプ事件(76年)の後だ。

 私が聞いた一連の後藤氏の言動からすると、後藤氏には丸山レイプ事件に対する心苦しさがないばかりか、むしろ脱会後の女性信者が男性に身を任せるようになるのを奨励し、さらには何らかの形で確認していたことになる。

 たとえ脱会した後にせよ、若い女性たちがその後の人生での性的体験(脱会後の奔放な性)を彼に告白したとは考えられない。
 彼は、どのようにして脱会後の男女関係のことを知り得たのだろうか。その疑問は、1980年初夏に、あるきっかけで丸山事件の詳細を知って以降、長い間私の頭から離れないままだ。

丸山のレイプ事件については、前掲の関連記事を読んでもらいたい。簡単に言えば、脱会した女性を自分のマンションに呼び、犯し続けた。

 もっとも、私の文章(女性信者のアメリカでの活動についての言動)だけなら、脱会した女性信者が単に他人の家に行ったのを後藤氏が邪推した、と言う人もいるかもしれない。しかし、丸山事件という事実を加味すると、話はそう単純ではないだろう。

 さらに、後藤氏の言動などから総合的に考えると、丸山によるレイプ事件は、単に丸山の感情による暴走や偶発的な出来事ではなかったのでないかと思う。

 大学ノートに監禁に関する日付を記録する後藤富五郎のもとで、丸山が勝手に2ヶ月以上も被害者を自由に手元に置いておけたとも考えにくい。だとすれば、最初から、後藤氏と丸山の間の了承の上で成り立っていた可能性が高いと考えざるを得ない。

 後藤氏の歪んだ人間性から生まれたものを元に、70年代という時代背景の中で思想的謀略も加担して一人歩きしたスキャンダル資料や彼流の洗脳理論…それが、そのまま今日でも同じとは言わないが、少なくとも彼の監禁活動が生み出した「洗脳された信者像」を一つの既成事実として、「統一教会=洗脳」というスティグマが定着したこと、その上に存在するのが今日の洗脳やカルト理論であるという歴史性は忘れてはならないだろう。
 
 そのうえで最後に、30年間丸山事件という陰湿な脱会現場について感じてきた私なり思いを述べてみたい。


7 愛と責任の伴わない性~歪んだ願望

 良好な男女の関係は、互いの愛に起因する相互の人格の尊重や平等性があり、とりわけ一夫一婦制の文化圏では、個人差はあるにせよ一般的に、愛の延長としての性的関係と同時に、貞操感と責任意識が伴うものだろうと思う。

 しかし、脱会屋と被害者の間の関係はそうではない。
 監禁した絶対権力者と監禁された無力者という関係であり、人格の尊重や平等性の上に成立する人間らしい愛は存在しない。
 愛が存在しないままに、教義を逆手にとっての「治療」「回復」だけを名目とした踏絵行為として、性関係が発生する。
 最初から愛を動機としない男女間には、愛を理由にした責任問題も起こりようがない。

 脱会屋は、関係を持ちたいと思えば、
「まだ、統一教会の教義の呪縛(純潔)にとらわれているのではないか?」
 と脅せばいいし、また関係を終わりにしたいと思えば、
「治療(またはリハビリ)が完了したから、これからは自立しなさい」
 と言えばいいのだ。
 
 もちろん実際の人間関係がそう単純だと思っているわけではないが、根底にあるものを明確な言葉にすれば、
「愛も、人間性も、責任すらない一方的に始まりと終わりをコントロールできる性関係」…
 これが脱会屋と被害者の間の性の本質ではないかと思う。

 動物でさえ、グルーミングやダンスなど、交尾の前には相手の承認を得ようと努力をするというのに…。

 一部の脱会屋のように、人間性に基づいた同意を必要としない歪んだ性を満喫できる場所が、平和な日本のどこにあるだろうか?
 そのようなことが有りうるとすれば、それは戦争や暴動による略奪の渦中だけではないだろうか?征服者が、戦利品の一部として女性を扱う場合においてのみだろう。

 おまけに、その脱会作業が、お金と社会的名声や称賛までもたらしてくれるのだから、その快感は普通ではないのだろう。歪んだ人格の脱会屋が、脱会という特殊な作業から抜け出せなくなる理由のひとつは、この「他では味わえない征服感」にあるのではないだろうか。

-若干の感想-

 後藤の歪な性についての朋子さんの分析は、決して根拠のない憶測ではない。

 今回の手記で、私が印象深く感じたのは、彼女が後藤宅を訪問したときの妻の態度である。妻は明らかに朋子さんを「招きたくない客」と見ていた。
 事務的な態度で接したのは、後藤の脱会活動そのものを快く思っていなかったためとも考えられなくはないが、それより<もし、この娘さんがうちに泊まれば・・・前と同じように・・・>と思ったからではないのか。
 というよりも、何回も繰り返されてきたことなので、妻はもはや何も感じることなく、「無表情なうつむき加減で、事務的にお茶を運んできた」。そう推測したほうが自然である。朋子さんが30年前の妻の態度を記憶していたことは注目に値する。
 もし、朋子さんが後藤宅に泊まった場合、妻はやはり無表情で、夫の部屋に2食分の食事を運んでいたであろう。

 もう1つは、院長が後藤宅での宿泊を許可しなかったことである。
 久留米が丘病院と後藤は、信者を統一教会から脱会させるという点で利害が一致していた。
 後藤によれば、「病院は薬を出すだけ。私が行くとたちどころに洗脳を解く」という。話半分にしても、院長は脱会説得という点で、後藤に一目置いていたはずだ。
 それにもかかわらず、宿泊を許可しなかった。
 なぜなのか。
 
 後藤の家で夜を徹して話せば、脱会の意思はより完璧なものになる。脱会という目的の点では、姉の家に泊まるより、後藤宅に泊まったほうがはるかに効果的だ。男女関係に不安を感じたにしても、後藤宅には妻もいるわけだから、それほど心配する必要はないはず。
 それにもかかわらず、院長が許可しなかった。それは、後藤を信用できなくなった何かが過去にあったからだろう。

 これと関連する話である。
 ある信者の姉が体験した出来事である。
 信者だった弟は、ある脱会説得者によって統一教会をやめた。
 そのあと、姉と弟はお礼の挨拶のために、その男の自宅を訪問した。
 男は帰ろうとする姉だけに向って、「今夜はここに泊まっていけ」と執拗に誘った。
 男は統一教会の元女性信者と同棲していた。
 常識的に考えれば、姉が泊まっても、同棲相手の目があるから、良からぬことは起きないはずだ。
 しかし、姉は危険を察知して、掴まれた腕を振り払って、誘いを断った。
 後日、周辺から男の女性関係に対する悪評が聞こえてきた。

 -続く-(次回のテーマは朋子さんと母親との関係である)

関連記事

コメント

記事の紹介

興味深い記事がありましたので紹介します。

ならず者医療(1) 「拉致」された女性
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=70048&from=popin

ならず者医療(2) 「それは拉致です」と厚労省
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=71184&from=yoltop

特に興味深い点は

事件が2008年に起きていること。

拉致される際の描写が統一教会員に対する拉致監禁例に酷似していること。

被害者が所謂カルトとは関連しないこと。


拉致監禁という問題は、カルト(統一教会)特有の問題である。から(一般人にとって)対岸の火事と片付けるわけにはいかないという状況に突入してきたと言うと言いすぎであろうか。

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