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精神病院そして自宅への誘い(上) 

仮面を剥がされた人たち(5)

 ハンドルネーム・Oh-chanさん(朋子さん)から個人メールで、過去の出来事を綴った手記が寄せられた。

 テーマは、性にまつわる脱会説得者の人物論だが、朋子さんがこの人物と出会うに至った経緯がわからなければ、人物論だけを読んでも理解しにくいところがある。
 そこで、手記の全文をアップすることにした。

 朋子さんの脱会説得方法は、精神病院への強制入院が絡むものであり、読者にとって耳新しいものとなるはず。拉致監禁という特殊な分野で、しかも30年以上も前の話だが、現代の出来事にも通底する歴史的な証言と言えよう。
 今回アップしたのは人物論前史である。
ゴチック・下線・注 * は、引用者。

<精神病院で改宗を迫られて> 


1 入信~監禁前

 1977年、地元山口県の女子大に自宅通学している18歳の頃に、原理研究会のメンバーの紹介で、私は統一原理と出会った。

 学校帰りに原研の寮に寄り、帰宅が遅れることがしばしばあり、母は学生運動を疑ってマスコミ記事を調べ、『朝日』『赤旗』の「統一教会」「血分け」「KCIA」という記事にたどり着き心配を深め、当時「原理被害者更生会」の会長だった後藤富五郎氏(故人)に問い合わせをした。

「放っておけば、子どもは廃人になるか、行方不明になり死体で見つかるかだ。そうなる前に早く洗脳を解かないと」
 と、後藤氏から繰り返し聞かされた母は焦り、教会に行くなと嘆願と叱責を繰り返しながら、 「行方不明になって親の死に目にも会えないに違いない」 と言って、嘆くようになった。

 10代の私は困惑した。反対が始まって以降、朝になると大学へ行き、授業の後で教会に寄り、夜には自宅で『赤旗』や当時の反対本を前に、母から説得されるという毎日が、何の解決策も見いだせないまま2年近く続いた。


2 だまされて上京~精神病院へ

 私が大学3年生だった1979年10月26日(金)の夕方、いつものように授業の後で教会に立ち寄っていた時、母から
「姉が東京で足をケガしてしまった。輸血が必要だから、今から家族で上京するので、おまえも早く家に帰りなさい」
と、あわてた感じの電話がかかってきた。

 当時、姉は東京で暮らしていた。
 とっさに、時間の経過からして、輸血目的の上京は無意味だと思ったが、家族の事故であること、ずっと教会のことですれ違いがあったことなど考え合わせて、
<今は、姉を心配する親の気持ちを汲み取って、あれこれ言わず一緒に行ってあげよう>
 と思い、急いで帰宅し、その日の夜行列車で両親と共に東京に向かった。

昔の時刻表を確かめたわけではないが、当時、山口から東京までは夜行列車で15、6時間はかかったと思われる。それだから、「輸血目的の上京は無意味」(他の人の保存血液を使う)と感じたのだろう。

 「統一教会員が拉致監禁される」という話は知っていたが、まさか自分の親が、家族のことを気づかい同行する私を、その同行先で監禁するなどとは夢にも思わなかった。

 それだから、翌朝、東京駅に到着して一緒にうどんを食べている時に、TVで韓国の朴正煕大統領暗殺のニュースが流れると、姉のケガの心配と共に、韓国はどうなるのだろうと、心の中で驚き不安に感じた。

 食べ終わると、鉄道や地理が得意な父が、東京駅八重洲口からタクシーに乗るというので近くかと思ったら、病院まで1時間以上かかった。
(後で知るのだが、東久留米市にある久留米ケ丘病院だった。反対活動家から、途中で逃げられないようにタクシーでと指示されたそうだ)


この頃、盛んに「精神病院送り」が行なわれていた。もっとも多かった送り先は、共産党系の民医連に加盟していた久留米ケ丘病院である。
 当時の共産党系の「学生新聞」では、原理研究会のメンバーのことを、「原理病」と表現し、精神病者扱いにしていた。私はその記事を読んで、比喩的、揶揄的に表現しているものと思っていたが、一部の共産党員・シンパは本気で精神病患者と判断していたようである。
 なお、同病院は代が変わり、当時と異なっていることを病院の名誉のために付け加えておく。


 後部座席に父と私が乗り込んだ時、助手席を空にしたまま母も乗り込んできた。
 少し驚いたが、姉を心配して平静ではないのだろうと、促されるままに少し窮屈な後部座席の真ん中に座った。

後藤徹さんが訴えている裁判でも、座席の位置が問題になっているが、監禁される人は今も昔も後部座席の真ん中である。

 沈黙したままの車中、私の右側の父がときおり鼻水をすする姿を見ても、姉を心配しているのだと思って、両親への気遣いが湧くばかりで、自分が監禁されるなどとは考えも及ばなかった。


3 精神病院での体験-院長との澱んだ会話

 タクシーで乗り付けた病院は、戦後すぐの学校のような古くて重々しい印象だった。今から振り返ると、アニメ『トトロ』で、メイとさつきの母が入院していた建物のようだった。
 病院内は薄暗く、長椅子もビニールのスリッパも、なにもかもが古めかしかった

 <上質な医療は受けられそうにないこんな病院に救急車で運ばれるなんて、姉は不運だ。早く姉の無事を確認したい>と心配がつのった。

 家族で院長室に通された。昔の学校の校長室のような黒っぽい木調の部屋で、白髪まじりの女性が両親と私の3人に椅子に座るように促した。

「何と云われて来たのですか」

 これが、落良江院長が最初に言った言葉だった。
 視線は、私と合っていた。
 <なんと妙なことを言うのだろう>

 そう思ったが、古めかしい病院に失望したあとの、年老いているような院長の姿にあきらめを感じながら、少々の失望は姉のために我慢しようと思い直して、席が近かった私が「姉が事故で怪我をしたと聞いて・・姉の状態はどうなんですか?輸血はしたんですか?」と話すと、
 院長は顔色を変えるでもなく、おもむろに、
お姉さんの怪我はたいした事はないんですよ。ただ、貧血がひどくて倒れたためだったので、家族の健康管理に問題があると思って、それで、お母さんに家族全員の検査をするからみんな連れて来いって、怒ったんですよ」という。

 <健康診断のために、上京させた?ふざけてる‥‥>とは思ったが、<姉がここに入院したからには、我慢して言うことを聞くしかないかな。一人暮らしの姉の健康管理のことで怒られるなんて、母も災難だなあ>

「これから順番に検査をするので、少し待ってください」という。
 まもなく、入ってきた看護師とともに、まず両親からと言われて2人は出て行った。
 院長と2人になると、私はあらためて「姉に早く会わせてほしい」と話した。

 院長は、相変わらず落ち着いた顔で、「姉の怪我は軽いから大丈夫、検査が終われば会わせてあげる」と繰り返した。
 そんなに軽い怪我で、家族全員を山口市から東京に呼びつける。院長の無頓着な風貌とも相俟って、埒の明かない老人にありがちなピントがずれた答えに、私は意志疎通をあきらめてしまった。
 <検査を早く終わらせる以外、姉に会える道はないらしい‥‥>

 ふいに、院長が「将来、何になるつもりですか」と聞いてきた。
 検査の順番待ちの時間つぶしの会話と思ったが、「まだ、決めてはいませんが、小学校か幼稚園の先生になろうかと考えています」と答えると、続けて院長は、
将来のことで、ご両親と意見があわなかったりしていませんか?
 と切り出した。

 痛いところを突かれたとは思ったが、無難に「もちろんどこの家にでもあるように、うちでもあります」と答えると、しつこく具体的な内容について質問してきた。

 暇つぶしではなく、何かが澱んでいるようなやりとりだった。


4 精神病院での体験-麻酔注射

 落良江院長は、私が信仰を持っていること、そこにも意見の違いがあることを聞き出すと、
私は内村鑑三の家族と知り合いだ。関心があるから、しばらくとどまって話し合いたい
 と言い出した
 <冗談じゃない。澱んでいるような会話を延々とするなんて>

 私がはぐらかし続けていると、話の途中で、心電図を取るからと言われ、入ってきた看護師に案内され、院長室から出て病棟の一室に向った。部屋を出ると、検査が終わった(と私が思った)両親が長椅子に座っていた。

 融通のきかない 院長が検査をしろというなら、さっさとやってしまおうと、心電図のためにという白い検査着に着替えた。
 そして注射を打たれた。
  それから、廊下の向かいの検査室に移動し、心電図や脳波をとった。検査が終わると、再び、看護室の隣の部屋に戻った。あとで、そこが「保護室」と呼ばれる部屋であることを知った。

 看護師は、「まだ検査があるから、ここでしばらく待っててくださいね。眠かったら、横になってもいいですよ」と、笑顔で言った。
 30分くらいした頃、目がまわるような眠気に襲われた。


心電図検査にどうして検査着や注射が必要なのか。朋子さんがこのことに疑問を感じなかったのは、まだ一度も心電図の検査を受けたことがなかったからであろう。
 周知の通り、心電図は両足と両腕、胸にクリームを塗って、そこに電極をつけるだけの手間のかからない検査である。服を検査着に着替える必要など全くない。
 もし一度でも検査を受けたことのある人なら、「注射を打つ」と言われたら、猛然と抗議し、何の注射かと問い質したあと、場合によっては警察に通報する。
 おそらく、院長は朋子さんの両親に心電図検査をこれまで受けたことがあるかどうか事前に確かめていたと思われる。


 目覚めると、病室の白壁に西陽が射しているのに驚いて、何が起こったのか確かめるために廊下に出て、そこにいた看護師に「両親はどこか?」と尋ねると、平然とした顔で、
「もう帰られましたよ」
 
 あわてて病棟の入り口まで行き扉を押してみたが、重たい木の扉にはがかかって出られず、看護師に部屋へ戻るように言われた。

 検査用の白衣の私に、そう言う看護師の雰囲気から、病院が私を患者として見ていること、おそらく私は棄教目的で監禁されたのだということ、完全に閉鎖された頑丈な建物の病院は精神病院なのだろうということ、そして私は注射のせいで眠り込んだのだということが分かった。

 あまりの理不尽さに、薄暗い廊下で一瞬立ち尽くしたが、私にできる事は、看護師をなぎ倒して鍵を奪い白衣で逃走して追われるか、さもなければ部屋に戻るしかなかった。
 仕方なく看護師の言葉に従い病室に戻った後、私はまた眠気におそわれ眠ってしまった。


5 精神病院での体験-有無を言わせず精神薬の投与

 検査の医療的な理由で頑丈なのかと思った部屋は、ドアに目だけ覗けるくり抜き窓があり、外からカギをかけられる「保護室」と呼ばれる部屋だった。

 その夕方から、定期的に枕元に薬を添えた食事を置かれ、揺り起こされた。私はあまりの眠むけで、食べたくないと断ったが、その度に
「少しでいいから食べて、薬は必ず飲むように!
 と言われ、朦朧とした状態の中で薬を飲むことを強要されるので、しかたなく数口食べては薬を飲んで、また眠った。

 その間かろうじて、時折、夢遊病者のようにふらふらと眠気で歪む廊下を歩いてトイレに行ったが、トイレの窓にも金網が張ってあり、その小さな窓の外側には、群生する茨のように有刺鉄線が敷き詰められていて、「誰も逃走させない」という意志を感じた

 理不尽な状況を納得できないまま、朦朧とした中で朝夕を数えて3日目の夜、何とか起きてトイレに行った帰り、無人の看護室に入って、両親と話そうと受話器をあげたと同時に、入ってきた男性看護師2人に制止され、強引に部屋に戻され、絶望的な気分でまた眠った。
 それから暫くは、部屋の鍵もかけられるようになった。
 
 入院5日目くらいの昼間、朦朧と目を閉じたまま右腕を動かそうとした時、その腕を誰かに押さえられた感触で、ビックリして目をあけて抑えられた腕を見ると、点滴針が刺してあり、長期入院の女性患者が枕もとに座っていて、私の腕を動かさないように押さえていた。点滴によるものなのかどうか、その時から私の意識はようやく戻り始めた。

 意識が回復した後、改めて自分がどうするべきか考えてみたが、両親と連絡をとることは出来ず、しかも両親は、自分の意思で判断して家族のために同行する私を見ても、それが洗脳された信者にしか見えないほどに反対活動家に依存し指示に従っており、その結果私を騙して入院させたのだと考えると、私が精神病院の中から監禁改宗に立ち向かうことはナンセンスでしかないと感じ、早くここを出ようと決めた。

 10日過ぎた頃、突然病棟を移ったが、そのときに私を迎えにきた婦長が移動中に、私に入院理由を尋ねた。申し送りもせず患者の私に聞くのか、と呆れはしたが、
「宗教を反対されて…」
とだけ答えた。
 すると、私の入院理由さえ知らない初対面の婦長が、
「あぁ、統一教会でしょう。」
 と、さらりと言うのを聞いて思った。
 <ここでは、よくやってるんだなぁ

 その後も退院するまで、3回の食事後と、夜8時半に全員が薄暗い廊下に並んで名前を呼ばれる点呼後の、1日計4回、その都度4~5錠の薬を飲まされた。

 不本意だったが、患者を列に並ばせ、看護師が直接一人ずつの口に薬を入れ、目の前で飲み込ませ、もう一度口を開けさせて飲んだことを確認するので、早く退院するためには逆らわないほうがよいと考え、飲まざるをえなかった。


6 退院に向けて

 ある日、院長との面談を認められた私は、積極的に同室の患者の状態や家庭の重要性について話した。

 それを聞いた院長は「もう大丈夫だ」と言った。
 私は退院に向け一歩前進したとホッとした。

 すると翌日の午後、突然看護師から面会人が来たからと呼ばれ、病棟の玄関に行くと、足の悪い見知らぬ高齢の男性がいた。彼は「後藤です。あなたが治ったと聞き、様子を見に来ました」と言った。

 反対活動家・後藤富五郎だった。

 彼の「治った」という意味は、「洗脳が解けた」という意味だった。
 最初、彼は自分が話もしていないのに洗脳が解けるとは…と、独り言を言いながら、不思議そうに私を眺めた。

 私は、ここを越えなければ病院を出ることはできないと思い、覚悟を決めて臨んだ。
 それでも自分の口から「教会をやめる」と連発したくはなかったので、病院2階の部屋で、終始おだやかにうなずきながら彼の話を聴き、彼の様子を伺った。

 彼は、数時間、教会や文氏について血分けだ何だと力説し、最後に
「こんなに素直に話が聞けるのだから治った」
 と満足して帰っていった。足の悪い彼が階段を降りる時には、私からそれとなく介助してあげたりもして、彼の信頼を得るように努めた。

 この時を入れて退院までに病院の面会で2回、入院中の外泊の時に後藤宅で1回、退院時にお礼を言うためにと家族に連れられての後藤宅訪問、計4回後藤氏と会った。彼が話した内容は、後で詳細にふれることにする。
 



【後藤富五郎に関する関連記事】
「信仰きれず 鎖が切れた」
「“救出カウンセラーの性犯罪と性の逸脱(上)」
文中、「後藤富五郎」と「後藤富三郎」の2つの表記があるが、「富五郎」は通称名で、本名は「富三郎」。
システム障害をまだ修復していないため、上記の記事では「-」「・」などの表記が「?」になったままになっている。


7 退院~後遺症

 こうして、12月9日(不当な強制入院は10月27日から)、病院からも強制説得者の後藤氏からも認められ、退院することになった。

 退院時、院長からは薬を急に止めるとよくないと言われ、今までよりも軽い薬を一ヶ月分飲むように言われたが、再会した母は、帰宅後、動作の鈍い私をみて

「まさか薬を飲まされているとは思わなかった。薬のせいだ。もともと病気ではないのだから、早くやめろ」

 と言うので、3日目には薬を飲まずに、久しぶりに学校に行った。

 学校に行けば、こっそり教会にも行けると思っていたので、自由になれるその日が本当に待ち遠しかった。
 ところが、その日の午後になると身体がガタガタ震えるのを感じた。
 不調を感じながらも、早退して教会に立ち寄り、それまでに後藤氏宅で知った次々と監禁改宗が行われている事実や、今監禁されている人の情報などを伝えた後は、意識が飛んでしまいそうな不安に襲われて、急いで帰宅して薬を飲んだ。

 その後しばらくの期間、様々な薬の副作用と思われる不調に苦しんだ。
 薬害なのか、精神状況からなのか、周りの景色がモノトーンのようにみえ、身体が思うように動かなかった。学業にも支障をきたし、自宅で棄教を装った生活は、ひどく息苦しいものだった。

 監禁に至る経緯には、後藤氏などの親心を利用した反対活動家や、倫理性にかける精神病院の問題があるが、不調の中、一人で棄教を装い続けていると、目の前にいる両親に対する怒りが猛烈に湧いてきて制御できず、その憎しみの情で、私はこれから本当の狂人になるのかもしれないと感じた。

 後藤氏の言うままに、「廃人にさせないために」と両親が計画した精神病院での監禁のせいで、結果的に本当に狂ってしまった私をみて、両親が監禁を後悔し自責の念に駆られる姿を思い浮かべながら、いっそそれもいいかもしれないという投げやりで破壊的な誘惑と葛藤していた。

 年末に、ある祈りの中で、私は再び信仰の道に帰ることを決意したが、その一瞬がなかったら、私は自分を覆い尽くすようだったあの誘惑に負けていたかもしれないと思う。


8 監禁した病院と計画した後藤氏を提訴

 明くる1980年2月、後藤富五郎氏と病院が、スケジュールを組んで順番に教会員を監禁しているために--私が退院したときに、次の教会員が監禁されてしまったという事実を後藤氏から聞いた私はそのままには出来ないと思い--、その人の解放のための裁判をする目的で、家族には黙って上京した。

 両親の立場からすれば、文字通り私は教会と関わったために家出して行方不明になったわけだが、皮肉なことに、それは両親が後藤氏の言うままに私を精神病院に監禁した結果、私が選択したことだった。

 私と、私の前に強制入院させられたTさんの証言を根拠にして、私の次に強制入院させられた教会員Mさんが人身保護請求の判決により解放された後、Mさんと、Tさんと、私の3人は、連名で久留米ヶ丘病院と、後藤氏に対して、民事訴訟を起こした。(注1)

 自宅で、数冊の大学ノートの記録を見ながら私以前に200人を改宗したと自慢する後藤氏らによる拉致監禁を、どうしても終わらせたかったからだ。

 裁判中の私を監禁しないだろうからと、裁判開始から半年後に帰郷し大学に復学したが、その間、母は警察に行方不明者の捜索届けを出したり、大学に事情説明に行ったり、東京の裁判所で証言をしたりしながら、
「後藤さんから聞いたとおり、お前も行方不明になった」
「親を裁判所に引き出すとは‥‥親不孝な宗教だというのは本当だ」
 と、一層かたくなになっていった。

 自分の居場所が見つからないまま、通年の単位取得のために1年遅れて大学卒業後、ふたたび家出という形で上京した。

 高齢の後藤氏は裁判の途中で死亡し、訴訟開始から6年後に、不法な入院による強制説得であるという判決で病院に対して勝訴した。(注2)

 その間、裁判の進展とは別に、私は盆正月の帰省だけは続けながら、親子関係修復の道を模索した。

(注1) 文中に登場する「教会員Mさん」とは美馬秀夫さんのこと。美馬さんの体験については、『我らの不快な隣人』で、次のように書いている。(167~168頁)

 現在、徳島市て市議をしている美馬秀夫も、強制入院体験者の1人である。美馬は慶応大学商学部を卒業後、「原理」が真理かどうかを確かめるために法学部に学士入学したという学者肌の人である。

「もう20数年前のことになります。近所にいる母の知人から食事に誘われ行ったところ、両親、叔父、弟が待っていました。それからですよ。突然、みんなに襲われ、手錠をかけられ、腕に麻酔薬の注射を打たれたのは。意識が戻ったときは徳島から東京に向う車の中。翌日、東京の精神病院の閉鎖病棟に入院させられ、精神病患者として毎日抗不安剤を投与された。ひどい目に合いましたよ」

 説得にやってきたのは当時、「全国原理被害者更生会会長」をしていた後藤富三郎(故人)だった。
 入院3カ月後に人身保護請求が認められ、ようやく解放された。そのときの東京高裁の判決文である。

<非拘束者(美馬のこと)は、拘束者(精神病院の病院長)による拘束と洗脳のための処置により、行動の自由は勿論、統一教会の会員としての信仰の自由(略)等憲法の保障する基本的人権をことごとく踏みにじられている。たとえ両親であっても、成人に達した息子を、意見が食い違うことを理由として精神病院に強制入院させることは許されるべきことではない>

 裁判官が脱会説得について「洗脳」と表現していることに注目すべきだろう。その後、美馬は同じ被害にあった2人の信者とともに、病院長を提訴し、250万円の損害賠償金を勝ち取っている。

 この判決(86年3月)を契機に、“精神病院送り”という暗い歴史は約10年で終焉した。


(注2)私は(注1)の末尾で触れたように、この裁判で強制入院は終焉したと断定的に書いた。しかし、その後、90年代に広島の2人の教会員が精神病院送りになっていることがわかった。2人とも、今でも精神薬の後遺症に苦しんでいるという。


 手記の感想を書こうと思ったが、だらだら長くなりそうなので、読者の感想に耳を傾けることにしたい。
 それでも2つだけ書いておきたいことがある。

 手記を読めばわかる通り、院長は患者に必ず行なう問診をはじめとする心理テストなどを飛ばし、つまり診断なしで、いきなりの麻酔注射そして有無を言わせずの精神薬投与を指示している。

 母親が退院後に「もともと病気ではないんだから」と語ったことでも明らかなように、院長は朋子さんが健康体であることを十分に認識していた。それなのに、“治療”を施したのは朋子さんが統一教会員だったからにほかならない。

 この頃の精神病院は、法の規制が緩く、本人の同意がなくても入院させることが可能だった。このため、宇都宮事件に見られる通り、一部の病院は無法状態だった。
 しかし、どんなに劣悪であろうが、ある新興の宗教法人に所属しているメンバーだからといって強制入院させるような病院はなかった。

 久留米が丘病院をはじめいくつかの精神病院が取ったやり方は、旧ソ連をはじめとする社会主義国家が反体制派に対して取ったものと同じである。違いは、拷問があったかどうかだけだ。

 ちなみに、この頃の日本共産党は「わが祖国-ソ連」という立場で、スターリンには批判的ではなかった。世界的ベストセラーにもなったソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』『収容所列島』も無視していた。
 このことからすると、当時民医連系だった久留米が丘病院は「ふつうの感覚」で、統一教会員を強制入院させていたのであろう。
 

 もう1つは、朋子さんの脱会説得には「精神病院」「精神薬」が道具として登場するが、それ以外は現在行なわれている「保護説得」と同じということだ。

「放っておけば、子どもは廃人になるか、行方不明になり死体で見つかるかだ。そうなる前に早く洗脳を解かないと」という脱会説得者が親を脅かす説明、また姉がケガをしたという親が子どもを拉致する口実・・・。隔離する場所が精神病院からマンションに変わったというだけのことなのである。
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コメント

普通に当たり前に怖い

記事を読ませていただきました。
怖くて震えて、ぞっとしました。

いきなり、精神病院に入れ、注射をうち、保護室に入れるとは・・いくら統一教会から脱会させる目的とはいえ、そんなことするなんて、言葉もありません。

サイトで保護室とはどういう所か見たことがあります。まして、昔の精神病院は本当に酷かったと聞いています。

お薬の件にしても、昔、精神科医の書いた本に、試しに患者に出している薬を飲んでみたら、全く動けなくなった、とありました。
多分、病気でない人が飲んだら、そうなるのでしょう。そういう薬を強制的に飲ませるなんて・・酷すぎます。

朋子さんは、今は大丈夫なのですか?

Re:普通に当たり前に怖い

koyomiさん、ご心配ありがとうございます。

おかげ様で(って、すごい日本人っぽい言い回し~)、私(朋子)は、今はそれなりに元気にやってます。最近、疲れるのは、多分、老化かな(笑)

別に、ネットで布教しようとしてるわけじゃないですが(ウソ言うわけにもいかず)…、自分に負債なく神の名のゆえに失ったものは、神が責任を持って返してくださると思って、頑張ってはみました。

あの頃のことは『今は昔、竹取の翁ありけり…』みたいな気持ちです。

私は、さっぱりと偽装脱会を決めて、40日余りで退院したので、回復できたと思います。
ただ、向精神薬の薬害は、長いと、そういうわけにもいかないので、私が回復したから、その程度のこととは思えません。
むしろ物言う事も出来なかった人々にこそ、問題の深刻さがあり、その結果、私は後藤富五郎の改宗200番目にして、やっと訴えた一人だったわけです。

その事だけは、忘れないで生きていきたいと思っています。

拍手

とんでもない被害に遭いながら、再発防止に立ち上がった朋子さんの勇気ある行動に大きな拍手を!

恐怖

<朋子さんの脱会説得には「精神病院」「精神薬」が道具として登場するが、それ以外は現在行なわれている「保護説得」と同じ>

拉致監禁の恐怖は、思想改造のために手段を選ばないこと。

人間(精神的存在)を人間と思わない人間観が根底にあるように思います。

仮に監禁した信者が精神異常になったり、自殺したりしても、罪意識を感じない。本当、信じられない世界です。

ブログはスターリンや共産党のことにも触れられていましたが、拉致監禁実行・容認派のイデオロギー性に、改めて背筋が凍る思いをしました。

ショックです。

昔、精神科病棟に勤務してました。
信仰、カルト問題を別にして、この手記はショックが大きいです。

統一教会脱会のために入院させるなんて、まさか思わないから、医師の診断名を素直に信じて、医師の指示の元で強制的に注射して保護室入れて、薬のませて。暴れたり、抵抗したら抑え付けて。
何か訴えてきても、全て妄想と聞き流して。

怖くてぞっとしました。

精神科に勤務していた年代が年代なら、私も知らずに加担していたかもしれなかったです。

  • [2011/09/30 00:36]
  • URL |
  • 通りすがりの元精神科ナース
  • [ 編集 ]
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病院という名の強制収容所

統一教会の思想考え方は、容認できない。その為には手段をえらばない。ただ、精神病院はやりすぎだ。そのかわり、家族を用いて、マンションを利用して拉致監禁とゆう手段。建前は、家族との話し合い。病院のように注射や薬物による後遺症はなくても、PTSDという後遺症をうみだしている。とどのつまり、病院がマンションにとって変わっただけ。強制収容所にはかわりなし。                          朋子さんよくぞご無事に生還されました。 

精神病院の恐怖

勇気ある手記の投稿有難う御座います。 思い出すだけでも大変だったでしょう。。。私も精神病院に強制入院させられた一人ですから、朋子さんの話は映像としてかなりリアルで、臭いまで伝わって来ました。 もっといろいろあたんでしょうけど・・・。言い尽くせないですよね。。。でもkoyomiさんへの返信を見て元気そうでよかったです。私たちにとっては昔の話ですが、今も続いてる拉致監禁を無くす為、お互い頑張りましょう。。。閉じ込められる恐怖は誰にも味あわせたくないですからね。

拉致被験者のあなたへ

米ニュージャージー在住の統一教信者です。
勇気と決意をもって書かれたであろう朋子さんの手記を読んで、改めて強制改宗の実態を教えら衝撃を受けました。いままで知らなくてすみませんでした。関心もなくて申し訳ありませんでした。

このような非人間的扱いを受けた多くの人たちがほかにも大勢いたということに想いをはせると気の毒に思うと同時に背筋が寒くなります。しかし私の想像力には限界があります。
このような朋子さんの綴った生々しい証言が一般の人だけでなく、多くの監禁犠牲者によっても読まれ、自分で封印してきたおぞましい体験に正面から向き合い、勇気をもって自分の体験を証言されていくことを願います。

こういうことが本当に事実ならば、これ以上絶対起こってはいけないことだと人間として思う。
しかし、いまだにその悪夢は今も日本のどこかで計画されていて、実行されているのです。
どうか、その人たちのためにも朋子さんのように勇気を持って体験を語ってください。朋子さんは”あなた”のためにも証言されたと思います。

米本さんの門を叩いてください。米本さんは統一教会問題に対して批判的立場におられる方ですが、統一信者の拉致監禁問題については誰よりも真剣に取り組み、監禁阻止のためにご自分のできることを実行している方です。
それはあなたを単なる統一教会の信者としてではなく、ご自身と同様に一人の日本国民の一員として見ているからではないでしょうか。
そして日本が認めている”基本的人権”の明白な侵害を証明し、同じ人間としてそういうことを黙って許してはいけないと思っているし、あなたの傷ついた魂を救おうとされているからだと思います。

あなたには統一教会員というレッテルを自らはがしてひとりの理不尽な宗教迫害体験者として率直に語ってほしい。
司法にとって拉致監禁が実際にあったかどうかがとても重要な判断ポイントなんですから。裁判所が拉致があったと認めれば有罪です。
反対する人は、拉致監禁なんかなかった・・・本人が伝道目的で勝手に居座っていただけだと言うのかもしれない。

でも、それは事実でしょうか?
事実ではないでしょうか?
あなたは知っているはずです。
何が”そこ”であったのかを・・・

教えてください。
あなたの身に起こった真実を聞きたい人は大勢います。私も聞きたい。
なぜなら実際の現場を体験したことがないから。でも、私もあなたと同じ信仰を持っています。同じ信仰を持っているというだけで、私が想像もできない惨い仕打ちをされている。
聞いて愕然としました。
考えさせられました。
まるで映画の中の世界みたいです。
でもそれはフィクションじゃなくて、あなたの目の前で起こったことなのでしょう?
ならば是非勇気の一筆をお願いします。それは人々の声を失わせる何よりも強力な力を秘めていますから。
すべての人は黙ってあなたの体験を聞き入るしかないのですから。

そして後は聞いた人たち一人ひとりが、自分の良心や本心で考えて判断するでしょう。それが真実か真実でないかを・・・

耐えられないですよ、普通

精神病院には、事情があって何度も訪問したことがあります。

初めて訪問した精神病棟の「鉄の扉」をくぐった瞬間の、あのなんとも言えない恐怖が入り交じった感覚、あれは今でも思い出します。
病院で出されるクスリ(精神安定剤など)に関しても、病院の方から「普通の人が飲んだら昏倒してしまう」と言われました。それほどの強いクスリですから、もちろん副作用もあるでしょう。

患者さんの中には、家族が放り込んだまま面会にも来ないというケースもよくあるとか、とにかく独特の臭いと雰囲気がある空間です。
あんなところに入って精神病が直るわけがない、と普通の感覚なら誰もが思います。あれは、精神病院という名の「隔離場所」でしょう。
私が訪問していた頃には、聖書をいつも抱えた若い女性(患者さん)がいました。周りの患者さんと雰囲気や顔つきが違ったのでおかしいとは思ったのですが、本当に精神病だったのか・・・

私など、精神病棟には、ものの数時間いただけで、霊的に気が狂いそうになります(宗教的表現で申し訳ありません)。あのような場所に監禁・隔離された教会員の方々がいると初めて知った時の驚きは例えようもありませんでした。
本当に気が狂う方が出てもおかしくないほどだと思います。恐ろしいやり方です。

拉致監禁・容認派は統一教会員をどのように見て(感じて)いるのか。拉致監禁牧師や請負人の言動、某反カルト系新聞の最近の記事を含めて、彼らが後藤富三郎に似た感覚を持っているのではないかとさえ思いたくなることがあります。
彼らの感覚は「反カルトのカルト性」なんて生やさしい物ではないかも知れませんよ。
  • [2011/09/30 12:11]
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Reショックです

通りすがりの元精神科ナースさんへ

妄想として通りすぎないで、真剣に受け止めていただいた事、嬉しく思います。

>統一教会脱会のために入院させるなんて、まさか思わない

その、気持ちはよくわかります。

私が、強制入院させられた日、私に平然と、「両親は帰った」「部屋に戻りなさい」と言ったナースも、何も知らなそうな様子でした。若い女性でした。
土曜日の夕方だから、看護学生のアルバイトだったかもしれません。

私が、彼女をなぎ倒して、逃走しようと思わなかったのは、一つには、逃げ切るのが難しいと考えたからですが、もう一つは、私が逃げ切るためには、彼女が人を呼ぶ声をあげられないほど短時間に、彼女を相当ボコボコにするしかないと考えたからでした。
何も知らなそうな若い彼女に、そこまで怖い体験をさせられない、と思ったのです。少しお人好しだったかもしれませんが…、精神病院の中でも、人は様々なことを考えるものです。

私は、最初の2週間、入院患者を自分とは異質な人々として見ましたが、残りの期間を、患者の目線で過ごしました。長期入院者は、そこで生きていく覚悟の上で、しっかりと看護者の意図を察して、上手にあわせて暮らしていました。世の中には、人の気持ちを察することのできない人も多いというのに…と衝撃を受けました。その後の私の生き方に、少なからず影響を与えたと思います。

一方、院長とグルのような一部看護師には、今も憤りを感じます。出会い頭に「3歳児の頭しかないくせに」と言ったり、本棚の本を読んでいいと言うから、棚にあった聖書を部屋に持ち帰ったら、「その本はだめだ」と取り返しに来たり…。
「あぁ、統一教会でしょう」と言った婦長も含め、常勤の彼らは、私の入院理由を知っていました。その上で、私の口に薬を入れ、飲んだことを確認していたわけです。

>医師の診断名を素直に信じて、医師の指示の元で強制的に注射して保護室入れて、薬のませて。暴れたり、抵抗したら抑え付けて。
何か訴えてきても、全て妄想と聞き流して。

医師を頂点としたヒエラルキー、それが医療現場の原則ですから、ある意味当然のことといえるでしょう。
それでいながら、それだけではない「自分なりの倫理」を確立しておく必要性を、私の体験は投げかけています。

ところで、日本社会には、こういうヒエラルキーというか官僚主義というかが溢ていて、上司の判断が自分の判断より優先されることが少なくないのではないかと思います。
それなのに、統一教会員が上司にあたるアベルの相談指示を受けることを、「自分で考えない。それはマインドコントロールされているからだ」と簡単に言ってしまう人がいて、そのために拉致監禁の解決が妨げられているのが残念な気がします。

もちろん、統一教会員にも、指示に従うだけではない「自分なりの倫理」は必要なわけですが…。

ひどい体験はしましたが、医療の現場が、人々を支える大切な場所である事実は間違いありません。お仕事、頑張ってください。


寄せられたコメントに対して

皆さまのコメント、一つずつ、それぞれ心に響きます。

ルークさん、マンゴープリンさんは、「あの雰囲気」をご存知なのですね。
ルークさん、
<私も精神病院に強制入院させられた一人ですから、……臭いまで伝わって来ました。>
って…そうですかぁ。お疲れ様でした。いつか、どこかで、お疲れ様会、と言いたいところですが…、まずは、今現在、拉致監禁で苦しんでいる人のことが優先ですね(しばらくお預けだぁ~)。

マンゴープリンさんが、
<患者さんの中には、家族が放り込んだまま面会にも来ないというケースもよくあるとか>
と、おっしゃっていることは事実です。
急性期の症状が治まって、十分に社会生活の可能な人々が、家族が引き取る意思がないために延々と入院しているという事が多かったのです。
あの時、私もそんな人を何人も見かけました。

最近、色々調べてみると、そのような人のことを、「社会的入院」と呼び、なんとその数は、ずっと7万人で推移しているのが日本の現状なのだそうです。

家族にも、精神障害者を引き取る苦悩はあったのだろうと思いますが…。

実は、私、30年間心の中で、私が会った「社会的入院」と思われる人たちを思いだしては、
<あの人たちは、なぜ収容されていたんだろう?>
という疑問を持っていました。
しかし、私自身が精神病院の入院患者であったことを説明せずに、その疑問を話す方法がなく、やむなく、そのままにしていました。

それで、最近ようやくこの社会的入院の問題に気付いて…、自分だけが精神病院から出て、不当性を訴えて終わっていたことを、その方たちに対して、とても申し分けなく思っているのです。

統一教会の拉致監禁問題と共に、この「社会的入院」の問題も、たくさんの人たちに関心を持って頂きたいと思っています。

Oh-chanさんへ

 後藤氏の言うままに、「廃人にさせないために」と両親が計画した精神病院での監禁のせいで、結果的に本当に狂ってしまった私をみて、両親が監禁を後悔し自責の念に駆られる姿を思い浮かべながら、いっそそれもいいかもしれないという投げやりで破壊的な誘惑と葛藤していた。

 年末に、ある祈りの中で、私は再び信仰の道に帰ることを決意したが、その一瞬がなかったら、私は自分を覆い尽くすようだったあの誘惑に負けていたかもしれないと思う。

ここを読んで、ほんとうに良く乗り越えてくださったと思いました。どれほど辛かったことでしょうか。
自分を迫害するもののために祈れという茨の道を選択していかなくてはいけない私達ですが、それは、とても難しくOh-chanさんが、味わわれた
"目の前にいる両親に対する怒りが猛烈に湧いてきて制御できず、その憎しみの情で、私はこれから本当の狂人になるのかもしれないと感じた。"
という、このような葛藤の連続ですね。

朋子さん、ありがとうございます。

朋子さん、丁寧なお返事ありがとうございました。
辛い経験をしながらも、人の気持ちを思いやっている朋子さんの姿に、我が身を反省させられました。

朋子さんが言われるように、精神科病棟の患者さんは優しくて真っ直ぐな人が多かったです。それ故優柔が効かなくて困ったこともありましたけど。(皆が皆そうではないですよ。なかにはずるい人もいました。)
ナースの意図を汲んで行動する、というのは、長年の病棟生活で培われたものでしょう。ある意味痛いです。

朋子さんがおっしゃるように、精神科の入院期間は、知らない人が聞いたらひっくり返ります。
私が勤務していた病棟は、30年以上入院もざらでした。社会的入院というより、精神疾患は隔離せよ、という過去の流れの中でそうなった方々です。
でも、今は変わってきてます。他の病気と同じように、落ち着いたら退院という方向です。
ただ、どうしても、長期入院が必要な人もいるわけで、そういう方々は精神科の療養病院に転院したりします。

最後に、皆に読んで欲しい詩があります。ある認知症の方が書いた詩です。
~目を開けて、私をもっとよく見て~

下記サイトをクリックしてみてください。(もしかしてうまくリンクが貼れない可能性があります。その場合は上のタイトルで検索してみてください。)

http://gh-owl.com/info/meo-si.pdf
  • [2011/10/04 21:08]
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  • 通りがかりの元精神科ナース
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手記を読ませて頂きました

こんにちは。

手記を読ませて頂きました。…とられた手段のあまりの酷薄さに、絶句せずにおれませんでした。ひどい…と思いました。

本当に、大変な中、生き抜いてこられたのですね… 心中、お察し申し上げます。どうか、心身共に、ご自愛なさってください。

いくら統一協会に責められる点があったとしても、手記に書かれたような手段までとることが許されるのでしょうか。

私事で恐縮ですが、自分も父親から「お前は気狂いだ」「精神病者だ」と何度となくレッテルを貼られ、また嘲笑され、
「精神病院に入れてやる」ということまで言われたことがありました。
そういう経験があるので、人に勝手に「精神病者」のレッテルを貼るような人間は、何も尊敬できないし、ものすごく怒りを覚えます。

Re:手記を読ませて頂きました

如月廉さん、

>どうか、心身共に、ご自愛なさってください。

という温かいお心遣い、ありがたく受け取りました。

私も、如月廉さんのブログがリンクされた時、読ませて頂きました。
本当に、人は様々な経験をしなければ生きてゆけないものですね…。

何かと比較するのではなく「個を個のままに理解する」ことが大切ではないかと思うので、如月廉さんの体験も、宗教が違うとか、選んだ方向性が違うとか考えずに、ご自分に正直に書かれたことを、そのまま受けとめさせて頂いたつもりです。

私から如月廉さんの温かい言葉に何か返すとすれば…、
「廉さんが廉さんらしくあるように」
と願う気持ちでしょうか。

おかしな事ですが、精神病院の中で、思い切って自分からプライドを捨ててみて、私は少し変わったようです。
「自分らしさ」を大切にするようになりました。




ちょっと訂正

す、すみません。先ほどの投稿、ハンドルネームのしっぽが切れてました。
Oh!No~(Ohではなく)
Oh-chanでした(ペコリ)。

Oh-chan様、お返事有難うございます

Oh-chan様

私のブログを読んで下さって、本当に有難うございます!自分の文章はまだまだですが、それでも、
自分の親鸞会での体験をなかったことにできなくて、振り返るために、少しでも心を鎮めるために、綴りました。

>何かと比較するのではなく「個を個のままに理解する」ことが大切ではないかと思うので
本当に、すごく大事なことですよね… 私も、肝に銘じます。

>私から如月廉さんの温かい言葉に何か返すとすれば…、
>「廉さんが廉さんらしくあるように」
>と願う気持ちでしょうか。
有難うございます!
私は必要以上に自分に自信がないところがあるのですが、それでも自分の中の守るべきものを、大切にしていきたいです。
実は脱会しましてから、約6年が経つのですが、ほとんど手探りで色々なお仕事や、体験を経て、
自分の向くべき方向、自分の物差し、身の丈に合った暮らしとはどんなかがやっと見出せつつあります。

>おかしな事ですが、精神病院の中で、思い切って自分からプライドを捨ててみて、私は少し変わったようです。
>「自分らしさ」を大切にするようになりました。
いえ、全然おかしなことじゃないと思います。過酷な環境の中、そこまで決断されたOh-chan様の心のまっすぐさに、とても心をうたれました。
これからの幸せを、お祈り致します。

私の祖父が入院しています。

はしめまして。naaaと申します!

私の祖父が、久留米が丘病院に入院していて、ひどい対応をされていて、どこに相談したらよいかわからず、どうにか久留米が丘病院の裏がないかを検索していたところ、こちらのサイトを見つけました。

私も訴えたいくらいです。

勝手に睡眠薬もたくさん投与されてます。

naaaさんへ

 久留米が丘病院は、代が代わって(現在の院長は問題院長の息子のよう)まともな病院になったのかと思っていましたが・・。

 本人ないし家族の同意を取らない投薬は違法行為です。

 一度、弁護士に相談されることをお勧めいたします。
 参考サイトは以下のところ。相談料は1万円。レセプトを入手したうえで、相談されたほうが効率的です。
http://www.iryo-bengo.com/

Re・私の祖父が入院しています。

naaaさん、お祖父様の久留米ケ丘病院での入院生活の事で悩んでいらっしゃるのですね。
naaaさんのご家族(特にお祖父様入院に関する保護者となっておられる方)の意向や、入院の経緯、病名など詳細がわからない中でのアドバイスであることを前提にして、一つの情報と考えていただきたいのですが…
日本には精神科病院に関する法律として「精神保健福祉法」というものがあります。そこから、考えられることを、以下、お伝えします。

現在、日本の精神科病院の患者の権利擁護のためのシステムとして、『精神医療審査会』というものがあります(上記法第38条~)。
この精神医療審査会は、精神保健福祉センターの中に設置されており、入院中の患者の「退院又は処遇改善請求」を審査する第三者機関です。
おもに、不法・不必要な入院や、院内での身体拘束、隔離などについて、審査するもののようです。
一定の役割を果たしているとされていますが(それ以前は無法地帯だったわけで)、法律改定論議の度に議論があるようなので、naaaさんの悩みに対応するのに十分かどうかは分かりません。というのは、

>勝手に睡眠薬もたくさん投与されてます。
というnaaaさんの言葉からすると、医療行為の内容について問題を感じておられるのかなぁ、とも読み取れて、その場合、過剰な医療行為であるかどうか、という判断の問題(医療法や医師法に関連?)もあろうかと思います。
実を言えば、私は個人的には、経験上、この問題が深刻だと感じていますが、現行法がどこまで、対応しているかには、疑問も感じていて、もしかすると、これは、今後、社会問題になる未だ手つかずの分野ではないかとも感じています。

ですが、いずれにせよ、
<都道府県または市町村の精神保健福祉センターには、「精神保健福祉相談員」を置くことができる>(上記法第48条)ともあるので、
まずは、保健所や、精神保健福祉センターの窓口に相談してみてはどうかと思います。
最も楽観的に考えれば、治療も含めた処遇の改善が望めるかもしれません。反対に、地域の拠点病院との関係性(言ってしまえば癒着かな)の中で十分に対応してもらえない場合は、最終的には米本さんが勧めていらっしゃるような方向性もあるのかもしれません。
ただ、実行(訴訟)は簡単なことではないことも理解しておかれたほうが良いかと思います。また、そのような場合、naaaさんの立場で、お祖父様の転院や引き取り等、判断せざるをえないことが色々出てくる可能性もあります。

私が、30年を経て、自分の精神病院での体験を書いた理由は、一つには統一教会員への異常な拉致監禁がなくなることを望むからですが、もう一つは、30年間、私の心から消すことの出来ない負い目について、自分としての責任を果たすためででした。
その「負い目」とは、当時、私が入院患者として他の患者をみた時に、その中の少なくない人達が、何らかの精神疾患はあるにせよ、入院を必要とする病状とは思われなかったことを黙っていたという負い目です。
訴える術もなく、漫然と病院の中で人生を終えようとしていた当時の患者たちの中で、自分だけが入院中から不当性を自覚して偽装脱会し、その後、統一教会という組織的な協力も得ながら、「信教の自由」に対する不当性を訴えて、勝訴して終わったことに、30年間釈然としない思いを抱いていました。
近年「社会的入院」という日本の精神科医療の深刻な人権問題を知るにつけ、彼らのことを語らなかった自分を後悔しています。
それは、まるで、拉致監禁施設で隣室にも監禁されていた人がいたのに、その人が統一教会員ではなくエホバの人だったから助ける必要を感じなかった、というのと似ているかもれません。彼らもまた人権侵害されていたのだということに、もっと早く気付くべきでした。精神病院が本当に処遇改善されるには、もっと多くの人の証言が必要なのだろうと思います。

私のアドバイスが、naaaさんの持っていらっしゃる悩みに、役立つかどうか、わかりませんが…
お祖父様の人生が最後までより良いものとなることを祈ります。

2008年の東久留米ヶ丘病院も悲惨でした。

さらっと斜め読みしかしていません。
原理主義とか共産党とかの混乱には詳しくはないです。

2008年の急性期女性病棟も酷かったですよ。暖房は12月までつけない。つけても朝と夜だけ。
温かいコーヒーを飲もうにも、安全のためと言って、熱いお湯はなし。
布団にもぐっているしかなかったです。

お手洗いの扉は閉まらず、何故かトイレットペーパーの紙もない。
トイレットペーパーもどきを買わされる。トイレットペーパーを持ちこんで使用しようとしたら、「詰まるから」とか「他の患者さんもいるから」みたいな理由により禁止。

何故か女性急性期のみタバコが一日10本と制限され、吸う時間も限定され、遅れたら吸わしてもらえない。

昔、誤飲があったということで、いつまで経ってもパンは禁止。

この病院ではないのですが、薬のせいで動作がのろくなったことはあります。当時は1年前には難なくこなせたバイトが全くできず、歯痒かったです。

Re・2008年の東久留米ヶ丘病院も悲惨でした。

 ひどい病院ですねえ。驚きました。
 被害の防止のために、自由な掲示板を使ってアナウンスしてください。


 それと、精神薬の副作用はひどく、減薬断薬をお勧めします。
http://seishiniryohigai.web.fc2.com/seishiniryo/message/higaisha.html

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