浅見定雄さんたちに手紙を送る!
仮面を剥がされた人たち(3)
「仮面を剥がされた人たち(2)」の最後のほうで、私は次のように書いている。
「実は、私はある人たちに白い旅団の最初の記事を同封した、長い手紙を投函したばかりだった」
ある人たちとは、反統一教会陣営の元東北学院大学教授の浅見定雄さんと、山崎浩子さんの脱会説得を行なった岡崎市・西尾教会牧師の杉本誠さんである。
なぜこの2人に、と思われるだろう。
それは、「“保護”説得」について最初に取材に応じてくれたのが、この2人だったからだ。
このときのインタビューでは、2人ともときに「拉致監禁」という用語も使ったりして、比較的フランクに話してくれた。
浅見さんはその昔、自宅の1階で保護、説得したことを正直にしゃべってくれたし、杉本さんは自身の保護説得の歴史を振り返りながら、「乱暴な保護説得は信者を傷つけるから控えるべきだ」と語ってくれた。 今から考えると不十分な取材だったが、率直な受け答えだったと思う。
その後、とりわけ浅見さんとは意見を異にするようになったようだが(雑誌記事を読む限り)、拉致監禁への認識を深めるきっかけになったという点では感謝している。
2人のインタビューを反映させた記事は『救いの正体』(宝島文庫)に収録されている。
杉本さんは、今利理絵さんが清水・黒鳥両牧師を提訴してから数年後に、保護説得と決別し、同時に日本基督教団の他の牧師たちにも「やめるべきだ」と説得して歩いたと聞いている。
手紙は6月23日付だが、いまだ返事が返ってこない。
そこで、以下に長文の手紙を公開することにする。テニヲハの間違い、文章が読みにくいところもあると思うが、原文のママである。写真は手紙に付けていない。(注)は読者向け。
浅見定雄様
杉本誠 様
ごぶさたしております。
私の手紙など読みたくないと思われるかもしれませんが、最後まで目を通していただけたらと、お願いする次第です。
同封したのは、白い旅団というブロガーの記事です。もう一つは、その記事についてコメントした私の「火の粉を払え」ブログの記事です。
お手紙を差し上げることにしたのは、旅団記事に書かれている内容に、憂慮したからにほかなりません。
おそらく、この「白い旅団」とは誰なのかということのほうに関心が向かれると思いますが、いずれ宮村は被疑者不詳で刑事告訴するでしょうから、「白い旅団」の正体は警察が調べてくれるでしょう。
*宮村氏の敬称を略するのは、私が彼のことをきわめてよろしくない反社会的な人物だと思っているからです。
私が憂慮したことについて、筆を進めます。
前提は、保護説得とか統一教会の評価は抜きです。
この記事に書かれていることの最大の問題は、自分が脱会説得に成功した女性と当の脱会説得者(カウンセラー)が男女関係を持っている、ということにあります。
97年の日本脱カルト研究会の勉強会で、杉本さんは「カウンセラーはクライアントから依存されやすいので、そのことにカウンセラーは自覚的であらねばならない」といった趣旨の警句を発していました。
故・高橋紳吾さんも私にこう話していました。
「クライアントは依存しやすいので、精神科医は絶対に受診者の身体に触れてはならない。それは精神科医の倫理規定にある。もし受信者が女性で医者が男性なら、たちまち男女関係になってしまう」 (注1)
記事にあるのは、こうした危惧が現実のこととして起きているということです。
これが総論です。あとは具体的な話です。
その1・宮村と高杉葉子さんのことです。
高杉葉子さんは周知の通り、全国弁連の事務局員の杉本さんのことです。私も2度ばかり会ったことのある女性です。
宮村と高杉さんとのことは、全国弁連の弁護士から数年前に聞いていたことであり、事実でしょう。
高杉さんのご両親のことを考えると、30歳の娘を持つ父親としては、胸が張り裂けそうです。
文鮮明のマッチングによって、娘は見知らぬ男性と結婚し、孫が生まれる。そうした結婚がいやだから、宮村氏に脱会説得を頼んだ。そうしたら、宮村氏の愛人になってしまい、いまだ独身。孫も授からない。
品のない言い方になりますが、繰り返し言えば、娘を統一教会から取り戻したいと宮村に頼んだら、その結果、宮村の愛人になり、家に取り戻せなくなったというわけです。
浅見さんも杉本さんも、私と同じように娘を持つ父親のはずです。
どう思われるのでしょうか。
(省略。きわめてプライベートな話なので公開しない)
保護説得の場面では「依存されやすいカウンセラーと依存しやすいクライアント」という環境がときに生まれるだけに、宮村だけが特殊ではないのです。
しかし、ここではキリスト教会の男性牧師と女性信徒の不適切な関係にまで話を広げたくないので、宮村のことに絞ります。
その2・宮村と村田葉子さんのことです。
2人が愛人関係にあるかどうかは不明です。
しかしながら、写真で見る限り、2人は手をつないでいます。
宮村は脱会説得者、村田さんは被説得者です。あってはならないことです。
村田さんは宮村そばのマンションに暮らしているという記事が事実なら、宮村は高杉さんのみならず、村田さんまでも、手元に置いているということです。オウムの麻原を彷彿とさせます。
その3・宮村と工藤雅子さんのことです。
2人の関係はよくわかりません。
事実としてわかっているのは以下のことです。
(1) 工藤さんは2008年12月に脱会した。
(2) それにも関わらず、いまだ宮村宅のすぐそばのマンションに暮らしている。
彼女は、「私が社会的に自立するために、宮村さんからはサポートを受けています」と裁判では証言していました。
しかしながら、脱会してからすでに2年半以上!が経過しています。
偏見と思われるかもしれないけど、私には宮村のイヤらしい下心が透けて見えています。宮村を崇拝しているだろう工藤さんの親は、宮村から「娘さんはまだ統一教会の影響から抜け出ていない。自宅に戻すのはもう少し待ったほうがいい」と言われ、ご説ごもっとも、先生の判断にお任せしますという気分になっているのでしょうか。
6月24日の宇佐美ストーカー事件・第3回公判は、工藤さんの母親が検察側の証人として尋問されます。宇佐美さんの弁護士はおそらく上記のことを質問するでしょう。回答を聞いてみたいものです。
ストーカー事件の被疑者とされる宇佐美さんが押しかけてくるといった不安も口実にしているようですが、宇佐美さんは逮捕され、また裁判にかけられているがゆえに、そのような心配はないはずです(現在、東京拘置所。すでに拘束されてから4カ月,ちなみにストーカー事件の最高刑は懲役6カ月)。しかるに、いまだ宮村氏は工藤さんを実家に戻そうとしないのです。(注2)
旅団記事にある通り、「また餌食になる」といった憶測は当然のことだと思います。
ちなみに、工藤さんは宮村宅から100mほどのマンションに暮らしています。
話は変わって個人的なことになります。
私は、50歳を越えたあたりから「不作為」という言葉に強くとらわれるようになりました。
<知っていたのに何もしなかった。何もしなくても罪に問われることはないけど、それでいいのか>といった自問自答です。
直接には薬害エイズ問題があって、非加熱製剤がエイズを引き起こすことを知りながら、その薬剤を使ったことによって、フランスの内務大臣が罪に問われました。白血病の日本の権威、安部ドクターは刑事告訴されました(私も集団告訴人の一人です)。安部氏の告訴事件は彼が亡くなったため、中途半端に終わってしまいましたが。
ともあれ、エイズの事件があとあとまで私に響き、日本ではさほど関心が抱かれない「不作為」を強く意識するようになりました。
私が「保護説得」「強制説得」「拉致監禁説得」のことを、絶対にこの世に明らかにすべきだと思うようになったのは、不作為を強く意識したからです。
保護説得のことを知っていながら沈黙するのは罪だと思ったからです。
ここで、清水・黒鳥両牧師の脱会説得によって、宿谷麻子さん、高須美佐さんがPTSDになったことは、拙著や火の粉ブログでさんざんに書いていますから、繰り返しません。といいながら、1つだけ書かせて欲しい。黒鳥氏の説得によって89年に脱会した中島裕美さんはまた今回、精神的に不調になり、精神病院に入院しました。むごい話です。
このような結果を生む保護説得は絶対にやめさせなければならないと考えています。それゆえ、保護説得のことを問題にし続けているのです。
統一教会陣営は保護説得に反対しています。反統一教会陣営がそれと同じように保護説得はやめるべきだと主張すれば、それは統一教会を利する行為になってしまう。
こうした狭い了見、戦争の論理はやめるべきだと思います。PTSD、不適切な男女関係など戦争の犠牲者をこれ以上、生んではならないのです。
話を戻します。
浅見さん、杉本さんは、今回の手紙によって、事実を知ってしまったわけです。
どうされるのでしょうか。
「統一教会の御用ライター」だと有田氏がいう、くだらぬ米本のくだらない手紙だと、知らぬ半兵衛を決め込まれるのでしょうか。 (注3)
そうしたら、高杉・村田・工藤さんたちの、年老いつつある両親はどうなるのでしょうか。
高杉さんはそろそろ50歳近くです。
私は気にかかります。彼女はあっと言う間に60歳になり、70歳になります。
宮村氏が最後まで、彼女の人生に責任を持つというのでしょうか。その場合、宮村の奥さんはどうなるのでしょうか。
浅見さんと杉本さんとは少々スタンスを異にしています。
杉本さんは宮村を嫌っていました。炯眼です。
だから、杉本さんは宮村に直接、説教することはできないでしょう。
でも、まるで宮村と“軍隊仲間”と表現してもいいような山口広弁護士を通して、たしなめることはできると思います。(注4)
杉本さんは■■退治に一役も二役もかっていただきました。(注5)
私のこの訴えの意味は理解していただけると期待しております。
浅見さんは、宮村と昵懇の仲ですので、彼に事実関係を問いただし、叱責することはできるはずです。
ほんの数年前には、雑誌の座談会記事で、山口広・有田・宮村と一緒に、後藤12年監禁事件はあり得ないことといったような主張に賛意を示されていたわけですから。
そればかりか、先生が翻訳された『マインド・コントロールの恐怖』のあとがきに、どういうわけか唐突に「同郷の宮村さんに感謝している」といった趣旨のことを述べられていたわけですから。
もし浅見さんが宮村を叱責することができないようであれば、宮村に何か弱みを握られているとか、宮村との間に何かがあるのだと疑います。この疑いはふつうの感覚です。
浅見さん、杉本さん。
3人の女性とそれぞれの両親の人生がかかっています。
ぜひ、真剣に考えてみてください。
宮村は依然、精力的に勉強会を続けています。今後、新たな被害者が生まれる可能性は少なくありません。
*これは私信ですが、知り合いの方に見せられてもかまいません。(お願い)
(注1) 高橋氏は精神科医。日本脱カルト協会の初代理事長。
(注2)宇佐美さんは6月24日に保釈された。
(注3)次回のブログで、宮村問題についての有田氏と私とのスタンスの違いについて書く。
(注4)手紙を投函してから、白い旅団さんが山口広弁護士に愛人がいることを暴露した。このため、「正義の山口弁護士に2号さんが」で、次のように書かざるを得なかった。
実は、私はある人たちに白い旅団の最初の記事を同封した、長い手紙を投函したばかりだった。
それは、山口弁護士を介して、宮村に注意をしてもらいたいというもの。
しかし、山口氏にも愛人がいたとしたら、注意なんかできるわけがない。注意したら、「おまえも俺と同じ穴のムジナではないか」と宮村氏から逆襲されてしまう。 長時間かけて手紙を書いたばかりだというのに、どうやら徒労に終わりそう・・。
(注5)■■はワルの脱会屋の個人名
(お願い)浅見さん、杉本さんへ。手紙でお願いするのを忘れていましたが、ここで略したところ、マスキングしたところは、他の人に見せる場合にはマスキングしてからにしてください。
- [2011/08/16 10:27]
- 仮面を剥がされた人たち-宮村・高澤 |
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コメント
通じる、きっと
こうした狭い了見、戦争の論理はやめるべきだと思います。PTSD、不適切な男女関係など戦争の犠牲者をこれ以上、生んではならないのです>
米本さんのおっしゃることは至極、ごもっともです。正論です。
異端から救い出したはいいが、精神的な病を患い、一生、結婚できないような身にしてしまったのでは、救出ではなく、犯罪です。
しかも、救出カウンセラーに心のみならず、体までも委ねるようにさせてしまっては、この世の法律に引っかからなくとも、神が許さないでしょう。
手紙の送り先が浅見氏だったとは、米本さんの勇気と行動力には驚かされますが、手紙の文面を拝見し、この訴えは浅見氏の心に響くのではないかと思えてきました。
反統一の重鎮である浅見氏が「不作為」について自戒し、関係者に対して一言「俺はもう(拉致監禁を)支持しない」と言うのではないか、そんな気がします。
楽観的すぎるでしょうか。
まあ、この手紙を読んで、まだ「拉致監禁はやっていない」「保護説得は必要だ」などと言うようなら、もはや相手にしないほうがいいですね。
年も年ですから、その頭を変えることは神様でもできないでしょうから。
浅見教授~同じ穴の狢のドン~
米本さんが拉致監禁問題を取り上げた時期に前後して(「救いの正体」1999年、室生氏の『強制改宗』めぐる攻防」は2000年)、この拉致監禁問題を取り上げたことで、浅見教授が名誉棄損で訴えた室生氏のことを書いた「週刊金曜日」の記事データ(浅見教授の意見記事データ)がネットにありました。
http://www.asyura.com/sora/bd12/msg/459.html
私や後輩の牧師たちがボランティア行為として取り組んできた統一協会信者の救出活動を、「拘束連行・拘禁・強制説得」だと雑誌に書きまくる「宗教ジャーナリスト」が現れたからである。
かねて統一協会側は、私たちの行為を「拉致・監禁・強制棄教・強制改宗」だと宣伝していたが、私たちは納得ずくの「保護・話し合い・説得・救出」だと言ってきた。
まあ、今まで散々ら拉致監禁首謀者・拉致監禁擁護派の面々の口から出ている、口から出まかせの主張の先鞭ともいうべきでたらめです。
注目すべきは、その後半の
実は室生氏側は、十一月十三日の口頭弁論で新たに、浅見は「女性信者」の「体を触るなどのセクハラの行為をしている」との書面を提出してきた。
この表現から読者 はどんな場面を想像するだろうか。密室で浅見が女性信者の体に触る姿だろう。実際は、もう十数年も昔、信者の短大生が両親や兄弟姉妹と一緒に私の研究室へやって来た。そして思いのほか簡単に統一協会の悪を納得してくれたので、別れぎわに私は、「本当によかったね」と言って彼女(たまたま背が低かった)の頭をなでた。
当時、統一協会は私のことを悪魔の親玉のように教えていたので、信仰を捨てていない若者は、私が頭をなでるどころか握手を求めても、拒否反応を示した。だから私は非常に慎重に信者と接していた。しかし彼女の場合、本人も家族もすっかり打ち解けたので、私は自然にそうしたのである。
本人も家族も夢にも問題と思わなかった情景を、室生氏側は「セクハラ」に仕立てあげた。さすがにこの書面は、私の弁護団の強烈な抗議で取り下げられたが、もしそうでなければ裁判の書面は公開なので一人歩きもする。「誌上で反論」では済まないのだ。
の個所です。
これに対して、室生氏はこの『週刊金曜日』でこのように反論されています。
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/meiyo-hanron.html(室生氏のHPのアドレスに変更しました)
浅見氏は前出のセミナーで、「偽装脱会」を見破るのに「頭をぐちゃぐちゃぐちゃとこう上から撫でて」本人が嫌がるか否かの反応を見て確かめるという、人権侵害ともとれる方法を話した。さらに東北学院大学の研究室で、親族に連れて来られた統一教会の女性信者に「あなたね、あなた救われてるの?」「じゃあ、あなた裸恥ずかしくないね?僕の前で裸になれる?」と言ったところ、信者がスリップまで脱いだと得意げに紹介している。私の代理人が「証拠説明書」に書いた「セクハラ行為」という言葉は「一態様として行った行為」に改められたが、浅見氏が行なった講演の反訳書は、厳然として証拠採用されている。
ものの見事なまでに、拉致監禁首謀者達の問題を体現されています。
すみません、ものはついでに書かせて下さい。
私は山本七平氏(筆名イザヤ・ペンダサン)の名著「日本人とユダヤ人」を読んで感心した覚えがあり、それでそれを批判したということに興味を持ち、「にせ日本人とユダヤ人」という浅見教授が書かれた本を読んだことがあります。
もう25年も前なうえ、あんまり馬鹿馬鹿しかったものですから、具体的内容は記憶からけし飛んでいますが、文字通り、大真面目に「金返せ」と思ったのを鮮明に覚えています。
読み終えて、東北学院大学教授(助教授だったかもしれません)・・・この肩書を確認し、改めて目を丸くしました。
本を読んで、損をしたという思いになる経験は珍しいのですが、私にとり唯一、それを経験させてくれた人物が浅見教授でした。
こういう個人体験もあって、浅見教授に関して好意的にはなれないのですが、室生氏とのやり取りやその時の証言を読んでも、やはり、同じ穴の狢、しかもその中のドンという感を強く持ちます。
長時間かけて手紙を書いたばかりだというのに、どうやら徒労に終わりそう・・。
私としては、残念ながら、こちらの方に同意せざるをえません。
<追記>
室生氏の投稿を読んで、室生氏の反論が載せられたのが、「創」と書いていましたが、「週刊金曜日」の間違いであったことが判りました。同個所を修正するとともに、米本さん、室生さんの御両名に重ね重ねの確認不足を謝罪いたします。
ちなみに、「創」の立場の説明と室生氏の「創」への投稿記事のデータは、
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/ito.html
http://www7.ocn.ne.jp/~murou/scope/scope1/sansyo-1.html
です(室生氏のHPのアドレスに変更しました)。
事実誤認大変申し訳ありませんでした。
大変申し訳ありません。
米本さんの「救いの正体」が先でした。
米本さんに対して大変失礼で、本当に冷汗だらだらです。
先の文章を、文のつながりを考えて
米本さんが拉致監禁問題を取り上げた時期に前後して(「救いの正体」1999年、室生氏の『強制改宗』めぐる攻防」は2000年)、
と変更します。すみませんでした。
強制棄教と性
鸞鳳さんが私の古い文章(「週刊金曜日」で浅見定雄氏が私に投げつけた汚い悪罵に、同誌で反駁したものです)を見つけてくださったので、少し書かせてください。
先日、ちょっとした拉致監禁に関する講演会で聴衆の一人から、「『白い旅団』さんのような原稿を書くつもりはないか」との質問を受けました。
私は、あの原稿は署名原稿にはならないが、週刊誌ならあのままでも掲載できるし、物事の主体が統一関係者なら各週刊誌が喜んで飛びついているだろう、と答えました。
私は強制棄教行為に不可避的に付随する(そう言っても言い過ぎではありません)、加虐的でセクシャルな要素に最初から注目しています。なぜ、高澤守は「食口の女性は、こうやって男に触られると嫌がるんだ。だからやるんだ」と手のひらで膝を叩き、「俺は強姦牧師だからな」と言いながら「原理講論」で彼女のお尻を叩いたのか。
なぜ、宮村峻は脱会させた女性を愛人にしたがるのか。なぜ浅見定雄氏は東北学院大学の研究室で、元女性信者に「あなたね、あなた救われてるの?」「じゃあ、あなた裸恥ずかしくないね?僕の前で裸になれる?」と迫るのか(この元女性信者はスリップまで脱いでいる)。
統一教会の教義批判をどうひねくり回そうと、元女性信者の脱会の証明行為と自分の目の前で裸になる(する)行為とを等価値に感じる感性には、名状しがたい傲慢さと共に、保護説得の美名の下に隠蔽した(正当化された)フィジカルな耐え難い異臭を感じます。
拉致監禁による強制棄教が存在する(存在した)その本質は結局どこにあるのか。
そのひとつひとつの要素の解明と、それらの全てが「性」の要素とと゜こかで不可分に絡み合っている(いた)実態構造の解明は、いずれ「署名原稿」としてまとめなければならないと考えています。
Re: 強制棄教と性
ご教示をお願いしたいことがあります。
室生さんが浅見氏の言葉を引用されている「異端者救出セミナー」は以前読んだことがあります。このセミナーは「エホバの証人」を強制説得するキリスト教徒諸君の主催だったと記憶しています。
その講演録で、確かに浅見氏は、
>親族に連れて来られた統一教会の女性信者に「あなたね、あなた救われてるの?」「じゃあ、あなた裸恥ずかしくないね?僕の前で裸になれる?」と言ったところ、信者がスリップまで脱いだ
と、みんなの前で話しています。
当時、今でもそうですが、意味がわかりませんでした。
救われていることの証明がどうして裸になっても恥ずかしくないことにつながっていくのか。
<救われていようがいまいが、統一教会員であろうがあるまいが、他人の前で裸になるのは誰でも、恥ずかしいもの>と単純、皮相的に首を傾げてしまうのです。
浅見氏はどういう意味で言ったのでしょうか。また、浅見氏の挑発に乗った女性食口はなぜ裸になろうとしたのでしょうか。
おそらく、この女性がスリップ姿になったところで、浅見氏はストップをかけたと思いますが、なぜ、ストップをかけたのでしょうか。
教えていただければ幸いです。
室生さんの次の指摘、
>私は強制棄教行為に不可避的に付随する(そう言っても言い過ぎではありません)、加虐的でセクシャルな要素
>拉致監禁による強制棄教が存在する(存在した)その本質は結局どこにあるのか。
そのひとつひとつの要素の解明と、それらの全てが「性」の要素とと゜こかで不可分に絡み合っている
これを読んで、改めて考えさせられています。
確かに--
白い旅団さんの記事、監禁されている女性への高澤氏の粗野にして粗暴な言動。
これに加えて丸山の事件、拙著200頁に書いた私が相談を受けた事件。
さらには、377頁で書いた滝本太郎弁護士のセクハラ疑惑事件など、反カルト諸兄にはなぜか「性」がつきまとっています。
こういうこともあります。
「エホバの証人」の相談役になっている著名なH氏は、相談女性と不適切な関係になっていると、彼の奥さんから聞きました。
また、同じように大阪のI牧師もそうである、と。
私は、反カルト諸兄の人としてのレベル低く(山口弁護士は私にたんにレベルが低いと語っていた)、それゆえ間違いをするのかと思っていました。しかしながら、室生さんの先の指摘を読めば、属人に帰すべきではない何かがあるように思ってきました。
記事化されることを期待しています。そうなったら、ぜひ転載させてください。
「一般人の正常な感覚」
<救われていようがいまいが、統一教会員であろうがあるまいが、他人の前で裸になるのは誰でも、恥ずかしいもの>
これは一般人の感覚です。そして、「救われていようがいまいが、統一教会員であろうがあるまいが、他人の前で裸になるように強要することは許されない」
これも一般人の正常な感覚です。しかし、浅見定雄氏は明確に異なります。彼の「一般人の正常な感覚」からかけ離れた確信的残忍さ、性的禁忌をも「正しい」精神作用と位置づける特殊な性的感受性が、「一般人の正常な感覚」からは理解不能な理屈や行動になって現れるのだと思われます。
おそらく浅見氏によれば、統一教会信者は性的世界においても教団にコントロールされている。教団の性支配から脱した者は(救われた者は)、自己判断でいかなる性的行動をも決定できるはずで、〃救い主〃の前で裸になれるか否かが、本当に脱会したか(救われたか)否かの真の基準である─。
そのような不思議な確信が、浅見氏のなかには存在するように思われます。
もちろん、そのような身勝手で不思議な確信は、基本的に浅見氏個人の内的世界以外では成立しません。
しかし、重要で恐ろしいことは、この「一般人の正常な感覚」からかけ離れた性的世界の位置づけが、いまや他の保護説得者にも内在してしまっているのではないかということです。
〃救い主〃の前で裸にさせる(なる)ことが信者の真の救出の証ならば、〃救い主〃の前で身体を開くことはさらに強固な救いの証とされていくことは、ある意味必定でしょう。
これが、強制棄教に加虐的でセクシャルな要素が付随して離れない原因のひとつではないでしょうか。
女性元信者が浅見氏の前で衣服を脱いだ心的経緯については、また別の要素が入っており、長くなりますので今回は割愛します。
私は、浅見氏は女性がスリップ姿になったところで、ストップをかけることなかったと思います。浅見氏の残忍さは、見届けたと思います。その女性の見届けつまり救出の成就の見届けこそが、浅見氏にとって何にも勝る精神的満足(快楽)のはずだからです。
救いと裸体
救われていることの証明がどうして裸になっても恥ずかしくないことにつながっていくのか。
これは、統一教会の教理とそれに対する悪意ある曲解と信仰期間が短いための教理に対する理解不足が絡むと思われます。
(これから書いていくことは、かなりの確度の高い推定だと思っていますが、あくまで私の推定です。)
ネックとなるのはいわゆる失楽園の物語に対する解釈です。
統一教会の教理では、人類始祖であるアダムとエバが未成年期に、人として十分な成長をしていない段階で、夫婦の営みをやってしまったことが堕落の原因であるとして説いています。
そして、父である神の前で下半身を隠したのは、それをしたためだとして、この事を証明事例として挙げています。
人は悪いことをやった時、とっさに悪いところをやった部位を隠す。つまみ食いをして見つかったら、人間とっさに口を隠す。アダムとエバが、とっさに神の前で下半身を隠したということは、下半身で悪いことをしたからだ、という考えです。
これに対して、浅見教授などは、次のように曲解し、たたみ込むのだろうと考えられます。
裸であることが恥ずかしいのは、堕落しためだと統一教会は教えている。
これを進めて考えると、救いとは堕落した状態から堕落していない状態になる、という意味であるから、
堕落した→裸が恥ずかしい
救われた→裸が恥ずかしくない
という事だろう。君が統一教会の教理が真理で、それで救われているというのであれば、裸であっても恥ずかしくないはずだ。なら、裸になって見せてくれ。
ここで、この解釈が間違っているところは、罪に対する恥と、通常覆って見せないようにしている個所を見せる恥を混同していることです。
しかも、統一教会の教理では、神は父として説かれていて、父親の前で隠すことと、他人の前で隠すことを同等に考えていることです。
ここらの違いが判っていれば、「救われようが救われまいが、赤の他人の前では恥ずかしいに決まっているでしょう。あなた何考えているの?裸を見たいからといって勝手な解釈しないで下さい」とでも言えたのでしょうけど、
違いが判っていないために、この曲解の解釈が正しく思えて、統一教会の教理の正しさを証明するために、あえて服を脱いだのはないかと思われます。
ただ、こういうことを考え付く、浅見教授のあさましさを思うと、慄然とします。
室生氏が書かれる通り、拉致監禁首謀者たちは、ことさら性の問題に絡みつくように論を展開します。
信じているなら信じているで、接触・裸にする、やめたならやめたで、やはり接触、手元に置く、愛人にする。
どう転んでも、拉致監禁首謀者たちは性的な役得にありつく算段です。
統一教会の女性たちは純潔ということに拘ります。そういう教理ですので、元々貞操観念が強い女性たちが多いのは、すぐに推測がつきます。
そういう女性たちにこのようなことをやる、やらせる。何ともむごいことです。
アダム・エバ
鸞鳳さん
ご教示ありがとうございます。
統一教会の教理に精通し、また脱会説得行為の詳細にも詳しい鸞鳳さんの指摘が的を射ていると思います。
私も訴訟の過程で、説得者がアダム・エバの側面から信者を攻める話は聞いていました。
問題の女性について、鸞鳳さんは、未だ強く統一教会教理の中にいる状態と観察されるのに対して、私は、既に脱会を表明した段階の状態と理解するわけです。
私がそのように見る根拠は、浅見氏が講演した当時、同氏が既に脱会説得の第一線を退いて、他の牧師や脱会屋が落とした(脱会表明させた)信者に最終段階で面接して、偽装脱会ではないかその真偽を判定する役回りになっていたためです。
そして、浅見氏の前で衣類を脱いだ女性が、なぜか宮村の愛人になった元信者たちの姿につながって感じられたからです。
いずれにせよ、浅見氏が一般社会では倫理的にも許されざる犯罪的行為を大学の研究室で行っていた事実は否定し難いわけで、今更ながら強く非難、批判されるべきでしょう。
室生さんへ
はじめまして。いつも米本さんと室生さん御両人の活動には敬意を感じています。
私がそのように見る根拠は、浅見氏が講演した当時、同氏が既に脱会説得の第一線を退いて、他の牧師や脱会屋が落とした(脱会表明させた)信者に最終段階で面接して、偽装脱会ではないかその真偽を判定する役回りになっていたためです。
についてですが、これも当っている可能性が高いと思います。浅見教授が週刊金曜日の記事で書かれた女性
実際は、もう十数年も昔、信者の短大生が両親や兄弟姉妹と一緒に私の研究室へやって来た。そして思いのほか簡単に統一協会の悪を納得してくれたので
が件の女性であると、前後の文脈からそう判断しますが、
脱会表明しておらず、表面上まだ信じているように装ったていたとしても、脱会説得はかなり進んでいた状態であり、最後の詰めに連れてこられたような感じを受けます。
そして、表向きには、統一教会の教理の矛盾と間違いを判らせる、感じさせるという目的で、「救いと裸体」で書いた内容を言い、説得し、やらせ、
その後に、「恥ずかしかっただろう。統一教会の教理がいかに間違っていたかわかっただろう」と追い打ちをかけたということも十分考えられると思います。
それにしても、こういうことを考え付く浅ましさ、そして実行する破廉恥さ・・・・。
餌食になってしまった人達を思うと心が痛みます。
本文とコメントを読んで感想
監禁被害にあって苦しんでいる人の気持ちを、浅見さん自身が感じられない(感受性が鈍い)から、脱会説得行為に対して、ここまで”冷静に”取り組んで来れたのではないだろうか。
そして、彼は、賞賛や同情を異常に求めていると感じます。彼に嫌悪感を示す人に対しては、ヒステリックな態度を示すか、陰湿ないじめをする人だと感じます。もしカルトが虚構と言う事が、世間の常識になったら、彼の功績は水の泡に帰ると考えます。
余り関心無いんですけど、浅見さんは名誉博士になってます。何故そうなったのか?不思議です。
浅見定雄!
愛人をつくるよりも、ある意味ではひどい行為ですね。
愛人になるということはある意味では納得ずくですが、この場合は統一原理の理解の浅い、信者を誤解させて変な方向に脅迫しているということで、私からみれば、さらに悪質なように思いました。
どちらが悪質か?
愛人になるということはある意味では納得ずくですが、この場合は統一原理の理解の浅い、信者を誤解させて変な方向に脅迫しているということで、私からみれば、さらに悪質なように思いました。
私は愛人にする方が悪質だと思いますよ。
私はこう書いています。
統一教会の女性たちは純潔ということに拘ります。そういう教理ですので、元々貞操観念が強い女性たちが多いのは、すぐに推測がつきます。
統一教会に入信する信者の女性は、元々貞操観念が強い方たちだと私は思っています。
この元々貞操観念が強い人が愛人になる。これはどういう意味かお考えになられましたでしょうか?
それは、元々持っていた価値観まで完全に破壊されてしまったことを意味しているのではないでしょうか?
拉致監禁首謀者たちは、統一教会のすべてを否定しないといけないとお考えになっているようです。
そして、統一教会の教理の最大のネックはこの純潔思想ではないでしょうか?
従って、拉致監禁首謀者たちはそれを否定しないといけない。純潔は悪いものであると暗に迫っていると見て構わないかと思います。
そうすることによって、元々持っていた貞操観念、価値観までも完全破壊している、その証明が「愛人」化として出ているのではないでしょうか?
ここにいたるまでの、拷問というべきプロセスを考えると、「愛人」になることが納得づくなんてのんきなことは言えません。
マインドコントロールではなく、マインドクラッシュです。
キリスト教はある意味、ユダヤ教のファンダメンタリズムのアンチテーゼとして成立しました(イエスの遊女への裁きの個所が典型例ですね)。
しかしながら、そのキリスト教がファンダメンタリズムに陥った時、ユダヤ教のファンダメンタリズムよりも残酷な状況に陥りました(中世宗教裁判・魔女狩りなど)。
文師が、イエスの使命後継者であるならば、イエスのこの反ファンダメンタリズムの使命も受け継がれているはずです。
それはすなわち、統一教会風に言えば、真の人間的な観点の重視であるはずです。
統一教会員であるがゆえに、その教理を使ったやり口がひどいように思われるのかもしれませんが、それはファンダメンタリズムへの道です。
教理云々の前に、人間としてどうなのかという観点を忘れないようにしてください。
おそらく、宮村氏は、このマインドクラッシュのやり口を何度も何度も実行したのでしょう。そして完全に破壊し、ものはついでなのか、逆にそれが隠れた目的なのかどうか判りませんが、気にいった女性を愛人とした。
そういうことだと思います。
不作為の罪
不作為の罪について。
聖書にもそのことが、書いてある。
旧約聖書、
サムエル記上2章12-17 と、同じくサムエル記上3章13-14.
イスラエルの最初の王、サウルに油を注いで王としたのが、預言者サムエル。そのサムエルが、幼少から仕えた祭司エリは、自分の息子たちが、神殿で、悪事を働いていることを知りながら、それをとめなかった。そのため、神は、エリと、その家系を、罰せられた、とある。
削除のお知らせ
興味深い投稿なので、名誉毀損表現のところは削除して、再度、投稿していただけることを希望いたします。
【参考】
<コメント投稿にあたっての注意事項>http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-221.html#more
次のような投稿はやめてください!
➄名誉毀損に抵触するような表現の使用
続、杉本お前もか。訂正版
ゴメンナサイ。
杉本おまえもかという投稿をした。
杉本誠牧師が元統一信者とラブホテルに行った’ダラシナイ爺’だっていう話だ。
’Themis’という雑誌に掲載された記事を根拠とした 。
記事の一文は こうである。
’「改宗」作業にかかわった杉本牧師は、全共闘あがりの牧師である。彼は、統一教会の元信者とラブホテルに行ったところを目撃されているが、これは聖職者にあるまじき行為といえるだろう。’
投稿したあと、杉本牧師は「統一教会から尾行されていたのでラブホテルに入っただけ」と言い訳を言ったようだという話を聞いた。
それでよくよく考えてみた。
ヤマシイことがなければ尾行されても’堂々無視’すれば良いだけの事であるから ’連れ込み宿屋’に入らなくてはならない理由はない。
普通、意識してイカガワシイ所だけは絶対に避けるぞ。
統一教会に危険を感じて(妄想だが)という言い訳も聞こえてきそうだが、逃げ込むなら交番であっても、けしてラブホテルではあるまい。
ところで、浅見氏について米本さんは
『確かに浅見氏は
親族に連れて来られた統一教会の女性信者に「あなたね、あなた救われてるの?」「じゃあ、あなた裸恥ずかしくないね?僕の前で裸になれる?」と言ったところ、信者がスリップまで脱いだ
と、みんなの前で話しています。』
と述べられています。
少なくとも浅見氏が「僕の前で裸になれる?」と言って、女性に衣服を脱がさせたことを知っていたのですね。
杉本牧師の件も知らなかったということはないのではありませんか?
二人ともに宮村同様、’性’に関し問題ありの人物。
それを知っていながら、’大先生’お二人にお手紙書いたということになりますね。
不作為の罪について考えること
「同じ穴の狢」部分を削除して投稿致します。
「不作為の罪」この言葉にドキっとさせられます。
統一、反統一関係なしに常にかんがえないといけない問題だからです。
米本さんは「薬害エイズ」の問題をあげてました。
医療に関わらず、これから超高齢化社会。今のままだとますます高齢者が住みにくくなり、放っておかれて亡くなる方が増えるのは目に見えています。
(今もそういう状態です。)
それがわかっていながら何もしないのも不作為の罪。(ですよね?)
(誰とは言わないけど)国会議員さん、しっかりしてよ~!でも、国会議員さんではなく、1人1人の責任です。
拉致監禁推進、容認の不作為の罪は米本さんがおっしゃている通りです。
でも、逆に、統一教会員の家族は思っているのではないでしょうか?
「このまま統一教会にいたら、不幸になるのは目に見えている。それなのに、脱会させない、何もしないというのはどうなのか?」と。
反対派は、統一教会員の家族に対して何もしないことが、不作為の罪と(暗に)言っています。
家族は、それに翻弄されて(この方法しかないと思い込んで)拉致監禁を行ってしまうのです。
統一教会も、脱会目的の拉致監禁による強制説得も、被害者が出ています。
その被害をどう考えるのか?
お互い、相手の非を責めるばかりでなく、まずは自分の足元をみて欲しいものです。
それはおかしな理屈ですね。たとえば「統一教会」という言葉を「創価学会」あるいは「共産党」という言葉に置き代えてみたら、すぐにその論理のおかしさがわかります。息子や娘が創価学会とか共産党に入った場合、それによって不幸になると考える親たちは世間にはいくらでもいます。しかし、だからといって拉致監禁が許されることではないことは当然です。なぜ、統一教会にかぎってそれが許されると(親たちが)妄想するのかということが、問題ではないでしょうか?
KHさんへ
それは、統一教会員の親だってわかっていたはずです。
そこに、反統一の怖さがあります。
我が息子、娘が統一教会に入ってしまった。親が辞めろと言えば、世間でこんなに悪く言われている、こんなに悪いことが行われている、と示せば、辞めると思っていたのに、自分の言うことは一向に聞かず、辞める気配もない。
親としては焦るでしょう。
そこで、反対派の本を買い、相談窓口に駆け込む。そこから、反対派の教育が始まり、今まで思っていた以上に統一教会は恐ろしくてとんでもない所だと知らされ、脱会させるには、拉致監禁するしかない!と思い込む。・・恐ろしいです。
私は脱会後、父母の会に少し行ってました。そこで、親達に「何で統一教会を辞めさせたいか、考えて欲しい。」と言いました。変な意味ではありません。何で辞めさせたいか・・世間体云々抜きにして、考えて欲しかったからです。
でも、その後で父母の会の男性(元信者の親 拉致監禁経験者)が言ったことが怖かったです。
「何で辞めさせたいか、はっきりわかったら、目の色が変わる」と・・・。
それ聞いてゾーっとしました。
これって、洗脳?マインドコントロール?じゃないか?って。
(目が変わるというのは、米本さん著の「洗脳の楽園」のヤマギシの特講の場でも書かれてます。)
確かに1回目の監禁中の私の親の目は多少いっていました。
<なぜ、統一教会にかぎってそれが許されると(親たちが)妄想するのかということが、問題ではないでしょうか?>
KHさんがおっしゃる通りです。
だから、拉致監禁によって起こる問題を世間に知らせていく必要があると思うのです。
koyomiさんへ
先の投稿を補足して書かせていただきますが、たとえば(今はどうか知りませんが)、昔だったら学生時代に共産党に入ると、まともな企業に就職できないということがあたりまえでした。一流の企業はリクルートする際に必ずその学生の身辺調査をして思想のチェックまでします。なぜならまちがって共産党員を雇うことで組合運動をされては困るからです。そこで親としてはせっかく息子を一流の大学に入れたのに、まともな就職もできなくなると本人の人生設計もできないので、なんとか共産党をやめさせようとする親もでてきます。しかし、だからといって拉致監禁をしてまで思想改造をしたという話は聞いたことがありません。仮にそんなことをすれば共産党だけではなく新聞やジャーナリズムも黙ってはないでしょう。それこそ思想の自由を蹂躙する憲法違反として大問題となるでしょう。
もう一つ別の例をあげます。最近ではあまり表面化されることはありませんが、かつては部落差別が公然と行われた時代がありました。部落の出身であるというだけで、就職もできないということが普通でした。したがって部落出身ではない娘が知らずに部落出身の男性と結婚するとその娘はまともな人生が送れないという不幸な目にあいます。だから親はその娘を監禁してまで二人の仲を引き裂こうとすることが、しばしば起こりました。そのような事例は戦前から戦後までいくつもあります。あと朝鮮人もまた部落民と同じように差別されていたということを付け加えておきます。
統一教会員に対して半ば公然と監禁が行われるのは、かつての部落民や朝鮮人に対する差別の構造と酷似しています。部落差別や朝鮮人差別はいけないという社会の常識が定着しだしたのはまだつい最近のことですが、その代わりに統一教会員に対する新たな差別がおこなわれるようになったといえます。これは日本社会の本質に根ざした奥の深い病ではないかと私は思います。
若干ズレはあるけど、面白い対話
>拉致監禁推進、容認の不作為の罪は米本さんがおっしゃている通りです。
でも、逆に、統一教会員の家族は思っているのではないでしょうか?
「このまま統一教会にいたら、不幸になるのは目に見えている。それなのに、脱会させない、何もしないというのはどうなのか?」と。
反対派は、統一教会員の家族に対して何もしないことが、不作為の罪と(暗に)言っています。
家族は、それに翻弄されて(この方法しかないと思い込んで)拉致監禁を行ってしまうのです。
2つのことを同時に語られるから、「ズレ」が生じるのだと思います。
自分の子どもが進路を誤って不幸な道に行くと確信しているのであれば、なんとしてもやめさせようとします。
では、親が必ず不幸になると確信するような進路とは何なのでしょうか?
仮に被差別部落民と結婚すれば不幸になると、親が思い込んだ場合。
仮に日本共産党員と結婚すれば不幸になると、親が思い込んだ場合。
仮に同じ統一教会員と結婚すれば不幸になると、親が思い込んだ場合。
よく読んでもらえばわかると通り、すべて親主体なのです。
本来主体であるべき子ども(もう20歳以上)は関係なく、子どもは親の所有物。どこに立脚点を置くかでズレが生じているのではないかと思いました。
そこにややオゾマシサを感じるのです。(中途半端だけどオシマイ)
差別の問題
私としては、もう少し突っ込んでこの問題を日本人の問題として考えてみたいと思います。
おそらく日本人に限らず、人間というのは自然本性的に差別を好む生き物なのだと思います。たとえばゲルマン民族がユダヤ人を差別し、そのユダヤ人はパレスチナ人を差別しました。アングロサクソンのアメリカ人も黒人やヒスパニア、黄色人種を差別していますし、中国人はチベットや少数民族を差別しています。だから差別というのはどこの世界でもあるのですが、日本の場合は他の世界とは少しその顕在化が違っているように思います。
日本の社会は江戸時代までは階級社会であり差別の構造は社会的に固定されていました。明治以降は福沢諭吉の平等主義の思想の下で階級は撤廃されましたが、平民以下の階級として部落民という被差別階級が暗黙のうちに残されました。これは人間の中にある本質的な差別の欲求を統治者がある日本の官僚体制が認めたからであろうと思います。つまり人間は差別を欲する生き物であるかぎり、それを失くすことは不可能であり、だから部落や朝鮮人という被差別階級をそのまま残すほうがむしろ人心を統治しやすいと考えられたのではないでしょうか?
このような視点でみますと、統一教会員はまさに新たな被差別民としてこの日本の社会に顕在化してきた問題であると思われます。残念ながら、社会はまだこの問題の本質的重要性を認知しておりませんが、いずれはこれがすべての日本人にとって重大な問題であるということに気づくことになるであろうと私は思います。
そのような意味でも米本さんがなされている仕事はきわめて意義深いものであると私は思います。
部落差別の例
部落出身者に対する結婚差別は、当時非常に深刻な状態にあった。現在ならそれ自体が許されないような身分調査が公然と行われ、それによってその出自が明らかになると、親族や近親者など周囲の反対によって破談にさせられた。たとえば1956年(昭和31年)に起こったある結婚差別事件は被差別部落の出身者に対する差別のおぞましさを示して余りある。その事件では男性が部落出身者であることを理由に女性の親たちが仲を引き裂いたうえ、男性と結婚の世話をしたいわゆる仲人の二人を、不法監禁、営利誘拐などの罪で告発し、そればかりかそれが公権力によって立件され、起訴されるまでに至ったのである。起訴状によると、「被告人方が俗にA部落と世人から別称せられ、一般社会との交際疎遠である所謂特殊部落内の一家であるとの観念のもとに、尋常な手段方法では到底同女との結婚は至難であると思念し、…虚言を用いて前記H子を自宅に伴い、…そして誘拐して監禁した、とある。このような結婚差別事件は枚挙にいとまがない。たとえば60年には、結婚差別による自死事件も起こった。この事件では男性側の親たちが興信所などを使って身元を調べ、女性が被差別部落出身と分ると強硬に反対し、人格を否定するような過酷な仕打ちをした結果、その女性は自死した。もちろん、このように事件という表面にあらわれる差別は氷山の一角にすぎなかった。(P73-74)
これらの事件が戦前ではなく戦後の民主憲法の下で起こっていることに注意する必要があります。民主憲法下ではあらゆる人に基本的人権が与えられていると明文化されているにもかかわらず、その憲法の精神を守るべき検察や裁判所などの公権力が差別を認めていたということです。残念ながら、これは統一教会員に関する限り現在においても同様であるといわざるをえません。
「無駄な努力」と「確実な努力」
米本さんが、浅見定雄氏、杉本誠氏に、直接手紙で質問された事、 ”よくぞ、してくださった!”、私をはじめ、拉致監禁、強制改宗に反対する人の多くの人たちが、そう思っていることだろう。
の意見に諸手を挙げて賛成です。
米本さんは信仰そのものには興味なしの立場を堅持されていますが、なかなかどうして、信仰の本質というものに通じられているのではないかと思ってしまいます。
前に、このブログのどこかに「無駄な努力がモットー」書いておられましたが、これこそが信仰の本質。それをどうして身につけられたのか?不思議です。
「ありうべき姿」と現実のギャップ。そのことをやっても、現実的には「ありうべき姿にならない」と思えても、その行動が、なにがしかのありうべき姿に近づける可能性が少しでもあれば、それをやる。
自分が出来ることを探してそれをやる。
宮村氏に直接が無理なら、少しでも話が通じそうな人物を通じて、それ最初から無駄なことだと思わず、働きかけようとする。
信仰とは、まだ見ぬありうべき世界を信じ、それに近づけるための行動を支える信念と定義すれば、米本さんの行動は信仰の本質を既に身につけておられると思えます。
ところで、koyomi さんが紹介してくださった
でも、逆に、統一教会員の家族は思っているのではないでしょうか?
「このまま統一教会にいたら、不幸になるのは目に見えている。それなのに、脱会させない、何もしないというのはどうなのか?」と。
反対派は、統一教会員の家族に対して何もしないことが、不作為の罪と(暗に)言っています。
という内容は、この米本さんの行動とはまったく逆のように感じます。
その人物の幸・不幸は余人には判らないし、余人が決めるものではない、という問題を抜きにしてもそうです(本当に不幸になるのか?という問題ですね)。
問題は、それを行う方法として、他人の意志を尊重しているかどうかです。逆にいえば、意思の押しつけをしているかどうかです。
聖書では、こう教えられているのですが、
マタイによる福音書第18章15~17節
もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。
もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
これを一般的な言葉に言いかえると、「兄弟」を「友人・知人」、「教会」を「警察」、「異邦人または取税人」を「ならず者または犯罪者」と言いかえれば判りやすいかと思います。
注意してほしいのは、あくまで忠告であり、取り押さえて言う事を聞かせろとか、強引に言う事を聞かせなさい、という表現は一切見られません。
忠告を聞きいれるかどうかはあくまで、注意された人の意思に委ねられているわけです。
さらに言えば、これは悪いことをしている人のことです。
悪いことをしている人に対して注意しないことは、不作為の罪になるのかもしれません。
でも、「このままでは不幸になるよ」と注意しないことは、不作為の罪になるのでしょうか?
ましてや、不幸になるからと言って、強引に取り押さえ、閉じ込め、意思を押しつけ、言う事を聞かせることはどうなのでしょうか?
またそれを焚きつけるために信者家族に働きかけることはよいことなのでしょうか?
それは逆に、悪いことではないでしょうか?
米本さんの「無駄な努力」とは違い、「確実な努力」であり、確実にするために強制力を行使しているわけです。
悪いことをやっていてさえ、意思の押しつけはNGです。やっても、一時拘束をして警察に引き渡す。それが、聖書にとらわれずとも、常識というものでしょう。
また、家族とは、支えあうのが家族。聖書には放蕩息子とその父親のたとえが載っています。
父親は、放蕩息子が財産を持って放蕩に出かける事を許しました。その意思を認めたわけです。不幸になると言って、出かけるところを拘束し、縛り上げ、どこかに閉じ込めて説得なんかしませんでした。
行くにまかせて、失敗し、戻ってきた放蕩息子に駆け寄り、抱きしめて、迎え入れました(ルカによる福音書第15章11~32節)。
その父親の姿こそ、家族の姿ではないのでしょうか?
最後は脱線しましたが、ここらに拉致監禁首謀者・拉致監禁擁護派の面々のおぞましさと、それに踊らされる家族の悲劇が如実に表れているように思います。
もっとも、拉致監禁首謀者や拉致監禁法語派の面々が、「不作為」の言葉を持ち出すとしたら、それはただの口実で、言いわけの類でなんでしょうけど。
一見、平凡な事だと思えるから心配です
赤の他人がこの出来事を見た時、「なんだ、不倫の現場か」とか、「返事をしないい加減なやつだな」で終わってしまう。
その感覚を反対派が利用していると感じます。反対派は、ことの重大さを良心の呵責として感じていても、赤の他人が見たとき、問題視しないよう画策します。
例えば車の衝突事故を取り上げます。被害者と加害者(反対派)と通り掛かりの人(赤の他人)がその場にいます。通り掛かりの人はチラッと見るだけです。
被害者は、怪我とか車の損害を気にします。問題は加害者です。良い加害者ならば安心です。しかし悪い加害者の場合適当に自分得した形で済まそうとして被害者に苦痛を与えます。
その時の理由は、被害者に詰め寄るか、通りがかりの人の感覚になっています。つまり「お前が悪い」とか「みんなが見ているぞ恥ずかしいから早く済まそう」と事の重大さをぼかす”努力”をします。
拉致監禁に関わる人の思考も似ていると思います。拉致の場面は、通り掛かりの人にとっては「騒ぎを起こしているな」で終わります。監禁現場そばを通り掛かった人は物音や複数の人の出入りを見て「どんな人が住んでいるのかな」で終わります。
つまり、反対派の彼らは周りの人々の関心の薄さををいいことに、ずるく立ち回っています。
もう一通、コヨミさんへ
悪名高い統一教会の人々を救出しようと、保護説得を始めた人たち。この方々も、”不作為”は良くないと、固い信念と、情熱を持って始められたことでしょう。
米本さんも始めは、保護説得に賛成の立場でルポを書かれたかもしれません。
しかし、反対派は、統一教会の悪を正すという過程で、信者達の、”人権蹂躪”をしています。
自分が自由でありたいように、誰も他人の自由を束縛すべきではないでしょう。神ですら、たとえ私たちが悪事を行っても、その人の自由を奪うことはされていません。
拉致監禁した中での、強制改宗は、明らかに行き過ぎであり、取り返しのつかない過ちを犯しています。
一方、人権蹂躪の結果、多くの統一教会の信者がPTSDに苦しみ、一度しかない大切な人生を破壊されているのを見て、”不作法”を本意とせず、また自分の今までの立場を顧みず、この事実を世に問いかけているのが、米本さんだと思います。
自分の、ジャーナリスト生命をかけてまで、このような事実を伝える、本当のジャーナリストが、日本に、何人いるのでしょうか?
自分の息子の悪事を止めなかった祭司エリを”不作為の罪”とされた神は、
同時に、正しいと思う事を実行する行動を、喜ばれると、思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
それから、削除されましたが、もう一つ気になる点について。
コヨミさんは、”脱がした”のではないかと思われる反対牧師と、”脱げ!”といったという文師、この二人を同じように、見ておられます。 が、この二者の状況には、大きな違いがあります。
まず、文師の場合は、数十名、あるいは、数百名の、信者の前で、つまりほぼ公衆の面前で、それを言ったことです。ですから、何も包み隠すことなく皆がその様子を見ています。もちろん、その女性と性的に、何かあったわけではないでしょう。
一方、浅見氏や、杉本氏の場合は、一対一の、密室での関係であり、(本人たちのはっきりとした弁明がなければ)、何が起きたのかは、わかりません。
”脱がした”、”脱げ!”の、言葉上だけでは、同一視できないと思います。
以上、コヨミさんあてに、書きました。
書き忘れました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
この強制改宗の問題について言えば、誰がこの”不作為の罪”を犯しているでしょうか?
十分な行動を起こさない統一教会のメンバーもそうでしょう。
また、それ以上に、強制改宗の残酷な被害を知りながら黙認している、加害者である反対牧師達の友人や、キリスト教会の責任者たち、また、これほどの事実が明らかにされてもなお、見て見ぬふりをしているかの如き日本政府の、関係者ではありませんか?
ーーーーーーーーーーーーーーー
批判は事実関係を…
浅見定雄氏は、短大生の信者と大学の研究室で「一対一の、密室での関係」ではありませんでした。「(短大生の)両親や兄弟姉妹と一緒」でした。
「不作為による宗教弾圧」
権力の「作為による宗教弾圧」については、宗教ジャーナリストの室生忠氏が早くから講演や記述で警鐘を鳴らしていて、「世界日報」の連載記事「拉致監禁の連鎖」班のインタビューに答えて、以下のように述べています。
「これは弾圧だと思う。 はっきり言って宗教弾圧だ。弾圧には二つあって、一つは共産党政権がチベットに対して行ったり、軍事独裁政権がやるような、殴ったり殺したりというむき出しの直接的な弾圧。もう一つは不作為の弾圧、つまり、何もしないことの弾圧がある。それは共産主義国家とか軍事国家でなく、むしろ民主主義国家で行われる。特に先進民主主義国家では、国家権力によるむき出しの弾圧については、それを一度でもやったら、国際社会で悪の烙印を押されるから、それはできない。
ところが不作為、つまりやるべきことをやらない弾圧ならできる。取り締まるべきことを取り締まらない、起訴すべきことを起訴しない、有罪にすべき事件を有罪にしない。その一つの典型例が拉致監禁だ。
被害者が心身ともに深いダメージを負っているのに、本来、警察なり検察がやるべき捜査、送検、そして検察がやるべき起訴をやらないのは、公権力による不作為で、明らかに弾圧だ。つまり世界に冠たる先進民主主義国家である日本社会において、今となっては公然たる不作為の弾圧が、連綿として続いていると断じざるを得ない」
http://www.worldtimes.co.jp/special2/ratikankin/101227.html
また、「月刊にっぽん」2011年2月号掲載の文中でも「米国務省の認識の変化」として、米国務省の民主主義・人権・労働問題担当局が発表した「2010年版 国際宗教自由報告書」の内容を分析して、日本の拉致監禁が従来は「社会的尊重の現状」でのみ扱われていたのに対して、「政府による信教の自由の尊重の現状」しかも「強制改宗」の項で取り上げられた意味をこう述べています。
「この変化は何を意味するか。統一教会信者に対する強制棄教事件についての米国務省の認識が、「社会的次元の迫害」というレベルから「国家事件の迫害」へと質的に変化しつつあると見るべきだろう。実際、統一教会信者に対する拉致監禁は、警察、検察などの政府法務当局の不作為、つまり取り締まりを行わないことによって発生、継続しているもので、まさに「国家次元の迫害」だ。米国務省の認識は想像以上に的を射ているのである」
深く考えるべきテーマだと思います。
皆さん、ありがとうございました。
皆さんの貴重なご意見と説明、大変勉強になりました。
Re: 「不作為による宗教弾圧」
国家賠償法http://p.tl/esnY 第1条「公権力の行使」"不作為"に抵触するのでしょうか。公権力の、不行使の違法性があると思います。
近い将来、国賠訴訟http://p.tl/MNWp まで進展する可能性が無きにしもあらずですね。
誰が どこから どのような形で日本国家を訴えるかは分かりませんが。
『「東電の不作為は犯罪的」IAEA元事務次官次長一門一答』ではありませんが、国家的不作為のツケが、どのような形で日本国にあらわれてくるのでしょう。
※先日、「原田信助さんの国賠を支援する会」主催のシンポジウム「警察の違法捜査を考える」http://p.tl/SvPE が開かれていたようです。
浅見定雄氏、杉本誠氏へ
(一方、浅見氏や、杉本氏の場合は、一対一の、密室での関係であり、本人たちのはっきりとした弁明がなければ、何が起きたのかは、わかりません。)
という、この文章は、杉本氏には、該当しなかった事、また、浅見氏の場合は、一対一の、密室での関係ではなかったこと、を理解しました。
事実関係を、確認せずに間違って書きましたことを、お二人に深くお詫びいたします。
これは、公開レターをしっかりと読まなかった私の非で、米本氏には、責任関係は、ないと思っております。
一つ浅見氏に申し上げたいことがあります。
それは、たとえ大学の研究室で、数名が見ている中で行われたとしても、誘導して、女性の服を脱がせ、裸か、裸に近い状態にした事、もしこれが事実であるとすれば、決して容認できることではありません。
もし、あなたの娘さん、あるいは、孫娘さんが、誰か他人から、あなたが行った事と同じ事をされたら、どう思われるでしょうか?
”どのような理由であれ、許されざる行為だ!”と、激怒し、また悲しまれるでしょう!
その女性に接する時に、御自分の娘さんのことを思う事が出来れば、そのような事は、されなかった筈です。
米本さん、残暑さんへ
以後気をつけます。
残暑さん、訂正ありがとうございました。
本当に?
と思っていると感じています。
しかし、あのケチの教会が、興信所などに支払うお金があるのでしょうか?
集めるのは好きでも、払うのは嫌い(笑)な教会が興信所に多額の調査料金を支払うとは到底考えられないです。
自分の知り合いに聞いたところ、三名の人物の尾行調査は特別料金になるらしいです。
何やら普通の人物ではない場合、特別料金になるらしいんです。
それに、拉致監禁の首謀者と言われている三名が、これまたご丁寧に「ボロ」が出るのがおかしくないですか?
そんなに運良く「女性関係」が出るとは考えにくいんですよね。
何か別の組織が関与しているのではないかと勘ぐってしまうんです。
国の不作為 → 国家による抑圧・迫害
私のブログで、アメリカの法律学者の国際会議での論文を紹介いたしました。ディプログラミングにおける国の関与の度合いに応じて、4つのタイプを紹介しています。
日本は、今どのあたり?
http://humanrightslink.seesaa.net/article/222242515.html
感謝!
紹介です
問題となった浅見教授の醜聞を取り上げられた室生氏の記述は次の通りです。
親族に連れて来られた統一教会の女性信者に「あなたね、あなた救われてるの?」「じゃあ、あなた裸恥ずかしくないね?僕の前で裸になれる?」と言ったところ、信者がスリップまで脱いだと得意げに紹介している。
激しいやりとりがあった2chは、
統一教会からの脱会説得【拉致監禁?保護説得?】7
http://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/psy/1340606009/374-759
拉致監禁派は、必死に様々な手段を駆使して
「この醜聞を無かったもにしよう」、
「この醜聞は醜聞ではなかったことにしよう」
「この醜聞の影響を最小限のものにしよう」
としていますが、反って、露出を大きくしていまい、収拾が付かなくなっている様子が伺えます。
どうやら、激しい応酬は終わったようですので、紹介しておきます。
Re:紹介です
私とも関わるとのことなので早速、統一教会からの脱会説得【拉致監禁?保護説得?】7 (http://uni.2ch.net/test/read.cgi/psy/1340606009/372-)を読みました。
やはり最近、私自身が雰囲気として感じていた通りでした。拉致監禁派の当初の動機は、米本さんの本「火の粉」ブログが文章を転載してくださるなど、若干私の露出が増えてきたため、中傷で言動を封じ込めようという狙いだったのでしょう。
加えて、議論が浅見氏の「頭をぐちやぐちゃ」事件や「スリップまで脱がした」事件にまで広がったたため、鸞鳳さんの言われるように、「この醜聞を無かったものにしよう」「この醜聞は醜聞ではなかったことにしよう」「この醜聞の影響を最小限のものにしよう」と必死に出たのだと思います。
拉致監禁派にとってひとつのアキレス腱は、間違いなく浅見氏の「頭をぐちやぐちゃ」事件「スリップまで脱がした」事件です。
私個人を擁護する目的ではなかったと思いますが、拉致監禁派の謀略を見事に打ち砕いてくださったJcdATj0さんやzkalruIYさん(IDは変化していますが語り口から同一人物と思われます)、4K0QNrDnさん(同)達に感謝いたします。浅見氏の問題はいずれて再検証しなければ、と思っています。
4K0QNrDnさんの言われる通り、私が「統一教会の内部で」「誤解を招く表現」を「いまだに吹聴している」というMOrNKuL4の言葉は、明らかに誹謗中傷であり名誉毀損です。詳細を調べて粛々と対応したいと思います。
頭にこられたのでは?
若干私の露出が増えてきたため、中傷で言動を封じ込めようという狙いだったのでしょう。
特に、御著「大学の宗教迫害」の影響が大きかったのではないかと考えられます。
そこで、ああいう手段に出て来てるのだと思いますが、
それで、2chで主に書かれている拉致監禁犯反対派の方は、その姑息なやり方に「頭に来て」目には目を、歯には歯を、と浅見教授の醜聞を持ちだされたように感じました。
この浅見さんの醜聞の問題と拉致監禁の問題は、その問題の根底は同一です。
自分たちの目的の為に、被害者の選択肢を無くし、被害者を傷つける手段をとっているということです。
このような手段をとる拉致監禁派、このような手段をとって、恥じ入ることがない拉致監禁派、
そして、このような手段をとって明るみになったら、平然と「なかったことにしよう」「問題じゃなかったことにしよう」「影響を最小限にしよう」とする拉致監禁派。
彼らは、自分達の非常識な手段によって傷ついたに人達を顧みることがありません。
自分たちを守るために、更に傷つけ、踏みにじり、敵対する者を不当に貶めて、不法行為をやり、人権を蔑ろにし、恥じることがありません。
そのことが暴露されていくようなやりとりであった(る??)かと思います。
私個人を擁護する目的ではなかったと思いますが
それも目的の一つなんじゃないかなと、私は感じます。
明確な擁護の言葉をかかれてなくても、相手方の異常性、卑怯さ、すり替え、嘘、デマを明確化することにより、室生さんがどのような勢力と相対しているのかを浮き彫りにすることにより、
そうされているように思います。
迂遠だな、とは感じますが。
明らかに誹謗中傷であり名誉毀損です。詳細を調べて粛々と対応したいと思います
頑張ってください。嘘で人の名誉を傷つけるとどうなるか、思い知るべきだと思います。
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