弁護士山口氏のコラムを評す(12)
山口コラム(12)
認知的不協和
山口コラムが短文なのに、それへの論評が長くなってしまった。逆に言えば、それだけ短文コラムが巧妙ということだ。
再度、山口氏のコラムを読んでみてください。(資料3)
冒頭と末尾を引用しておく。
記事の横には、私のルポを紹介した統一教会の機関誌『中和新聞』の記事がご丁寧にも載っている。米本氏もヤキが回ったとしか言いようがあるまい。月刊現代の統一協会機関誌が喜んで紹介している「米本論文」は、あまりにもお粗末な内容で「残念!」
...彼のジャーリストとしての根性やこれまでの業績については高く評価していた。しかし、たいへん残念だが、この論文についてはそうコメントするしかない。
この号だけ統一協会信者は大量に購入して、親元を含むあっちこっちにバラまいて宣伝している。
“カルト”批判の記事を書いてきたライターだが、今回のルポは統一教会を利するものだということを強く印象づけるコラムである。
その後、「統一教会から金をもらってルポを書いたらしい」というまるで陰謀史観的な噂が流れるようになり、一部の狂信的な反統一教会の諸兄からは「統一教会擁護ライター」のレッテルまで頂戴した。
反“カルト”も“カルト”と同じように、気色悪いこと、このうえなしである。
ところで、反統一教会の人たちにとって“カルト”批判の記事を書いていたときの私には親和性があった(山口の言葉によれば「高く評価していた」)が、どうして拉致監禁の事実を書くと、とたんに敵対的になってしまうのか。
話は横道にそれるが、重要なことなので、説明しておきたい。『我らの不快な隣人』では、枚数の関係で省略してしまったことである。
静岡県立大学の西田公昭氏やスティーブン・ハッサン氏などが説く“マインド・コントロール論”※には、フェスティンガーが提唱した社会心理学の「認知的不協和理論」が取り入れられている。この理論の概念のあいまいさを指摘する心理学者もいるようだが、人間のある傾向を示す理論としては興味深いものだ。
※マインド・コントロール論にヒゲ[“”]をつけたのは、この理論がまるで非科学的だからである。それについては『我らの不快な隣人』12章で詳述した。「空疎なマインドコントロール論」参照。
認知的不協和とは「人が持つ2つの認知的要素ないし情報の間に不一致が存在する状態。そのような状態では不一致を低減ないし解消させようとする行動が起きる」(広辞苑)ことを意味する。もう少し噛み砕いて言えば、
ある信念や思想、イデオロギーをもっている人が、それを否定するような情報・知覚・環境などに接すると、認知的不協和が起き、不快な気分になる。そのため、不協和を生じさせるものを「回避」し、認知的不協和を解消する。(有斐閣の『心理学辞典』参照)
私なりに補足しておく。人間が最初に獲得する感情は好悪ではなく「快・不快感」である。原始的な感情といってもいい。それゆえ、不快な感情が生まれると、それを何とか避けようとする。
私の具体的な体験を示しながら、わかりやすく説明する。
私は学生時代、共産党系青年組織「民主青年同盟」の同盟員だった。この時代、ソ連の反体制作家、ソルジェニツインの小説がベストセラーになっていたが、手に取ろうともしなかった。
読めば(認知的不協和が生じ)不快な気分になることが漠然と予感されたからだ。そのため、「どうせ反共作家が社会主義のアラを針小棒大に書いているんだろう」と解釈し、立ち読みすらしなかった(回避)。
多くの人も同じような体験をされたことがあるのではないでしょうか。
元赤旗の記者、萩原遼氏の『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋社、98年)は、「わが祖国は地上の楽園」という宣伝を鵜呑みに帰国した在日朝鮮人の悲惨な姿を具体的に明らかにしたものである。
その本の中で、関貴星氏が36年前の62年に『楽園の夢破れて』(全貌社)で、「地上の楽園は地獄である」と、いち早く指摘していることを正直に綴っている。
「わたしはこの本を1963年に大阪外大で手にしているにもかかわらず、反共で売る全貌社の本なんかどうせロクでもない本だろうと読みもしなかった。しかし後年精読して自分のおろかさを愧じた」
萩原氏が関氏の本を読まなかったのも認知的不協和になることを回避したからだと思う。
ついでに明らかにしておくと、統一教会信者の拉致監禁問題をいち早く取り上げたのは全貌社の雑誌『ゼンボウ』であった。
認知的不協和は様々なところに表れている。
統一教会信者の親たちがなんとか子どもを脱会させようと、統一教会を批判する「本を読め」という。しかし、子どもは拒否する。このことを親はこう解釈してしまう。
「統一教会から指示されて読もうとしないのだ。子どもは牧師さんが説明する通り、マインドコントロールされてしまったのだ」
しかし、それは“マインドコントロール”でもなんでもない。たんに、日常的によくある認知的不協和を回避する人間心理の傾向でしかないのである。
統一教会員も「日本の統一教会には問題がある」と漠然と感じている。しかし、統一教会を批判した本などを読み、問題を認識し分析することまではしない。心が不安定になることを予見しているからだ。そのため、何らかの理由をつけて、問題の突き詰めを回避する。
その逆に、反統一教会の人たちも小出浩久氏の『人さらいからの脱出』や鳥海豊氏の『脱会屋の全て』を「どうせ統一教会系の光言社から出版された本だから嘘が散りばめられている」と、手に取ろうとさえしない。
同じように、マインドコントロールを信じ、子どもを脱会させるには強制説得しかないと信じ込んでいる家族は、私のルポや『我らの不快な隣人』をまともに読もうとしないのだ。
創価学会員は反創価学会の、ムスリムはヒンズー教の、自民党員は反自民の本を読まない。
人は見たくないものは見ようとしないのだ。
養老猛氏の『馬鹿の壁』を引用すれば、「人は知りたくないことは自主的に情報を遮断する」
統一教会であろうが反統一教会であろうが、関係ないのだ。
話を戻せば、反統一教会の人たちにとって、統一教会員ではなく、“カルト”批判の記事を書いてきた親和性のあったライターが「書かれざる宗教監禁の恐怖と悲劇」を明らかにしたからこそ、認知的不協和が生じた(ハレーションが生じた)のだ。「山口コラム(3)」を参照。
こんなわけで、「統一教会から金をもらって書いたらしい」「統一教会を擁護するライターになった」と解釈がエスカレートすればするほど、彼らの心はよりいっそう安定するのである。
おそらく山口弁護士も同じだろう。
「統一協会と軸を一にした」とか「統一協会の機関誌が喜んで紹介している」とか「ヤキが回った」と書くことによって、認知的協和、心の平安を求めようとしているのだろう。哀れとしか言いようがない。
私は自分の内なる「認知的不協和理論」を克服するために「是は是、非は非」(荀子の言葉)という立場に立つことに決めた。
これがけっこう難しいことは『我らの不快な隣人』のあとがきでもそれらしきことを書いた。統一教会うんぬんとは関係なく、日常的にも是々非々の立場を貫こうとしているのだが、実践するのはけっこう難しい。
萩原氏はすごいと思う。かつて自分が忌み嫌った反共出版社から出された絶版の本を、自分の手で亜紀書房の力を借りて復刻したのだから。
山口弁護士たちも「萩原氏の爪のアカを飲んで」とまでは言わないが、認知的不協和心理の呪縛と闘いながら、「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」、『我らの不快な隣人』を、是々非々の立場に立ち戻り、再度、精読して欲しいと願うばかりだ。
次回「弁護士山口氏のコラムを評す」最終回です。
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- [2009/03/20 10:14]
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コメント
認知的協和
茨の道ではあると思いますが、これからのさらなるご健筆を祈念いたします。
萩原遼
人の人生を変えてしまうような出来事に関わった人間の、誠実であろうとする姿に心打たれます。
そこには党利・党争もプロパガンダもない「是々非々」をつらぬこうとする姿があります。
内なる認知的協和を求めない
さよなら親鸞会の管理人です
http://sayonara1929.txt-nifty.com/
ぶるうのさんへ
認知的不協和
山口コラムが短文なのに、それへの論評が長くなってしまった。逆に言えば、それだけ短文コラムが巧妙ということだ。
再度、山口氏のコラムを読んでみてください。(資料3)
冒頭と末尾を引用しておく。
米本氏もヤキが回ったとしか言いようがあるまい。月刊現代の統一協会機関誌が喜んで紹介している「米本論文」は、あまりにもお粗末な内容で「残念!」
...
彼のジャーリストとしての根性やこれまでの業績については高く評価していた。しかし、たいへん残念だが、この論文についてはそうコメントするしかない。
この号だけ統一協会信者は大量に購入して、親元を含むあっちこっちにバラまいて宣伝している。
記事の横には、私のルポを紹介した統一教会の機関誌『中和新聞』の記事がご丁寧にも載っている。
“カルト”批判の記事を書いてきたライターだが、今回のルポは統一教会を利するものだということを強く印象づけるコラムである。
その後、「統一教会から金をもらってルポを書いたらしい」というまるで陰謀史観的な噂が流れるようになり、一部の狂信的な反統一教会の諸兄からは「統一教会擁護ライター」のレッテルまで頂戴した。
反“カルト”も“カルト”と同じように、気色悪いこと、このうえなしである。
ところで、反統一教会の人たちにとって“カルト”批判の記事を書いていたときの私には親和性があった(山口の言葉によれば「高く評価していた」)が、どうして拉致監禁の事実を書くと、とたんに敵対的になってしまうのか。
話は横道にそれるが、重要なことなので、説明しておきたい。『我らの不快な隣人』では、枚数の関係で省略してしまったことである。
静岡県立大学の西田公昭氏やスティーブン・ハッサン氏などが説く“マインド・コントロール論”※には、フェスティンガーが提唱した社会心理学の「認知的不協和理論」が取り入れられている。この理論の概念のあいまいさを指摘する心理学者もいるようだが、人間のある傾向を示す理論としては興味深いものだ。
※マインド・コントロール論にヒゲ[“”]をつけたのは、この理論がまるで非科学的だからである。それについては『我らの不快な隣人』12章で詳述した。「空疎なマインドコントロール論」参照。
認知的不協和とは「人が持つ2つの認知的要素ないし情報の間に不一致が存在する状態。そのような状態では不一致を低減ないし解消させようとする行動が起きる」(広辞苑)ことを意味する。もう少し噛み砕いて言えば、
ある信念や思想、イデオロギーをもっている人が、それを否定するような情報・知覚・環境などに接すると、認知的不協和が起き、不快な気分になる。そのため、不協和を生じさせるものを「回避」し、認知的不協和を解消する。(有斐閣の『心理学辞典』参照)
私なりに補足しておく。人間が最初に獲得する感情は好悪ではなく「快・不快感」である。原始的な感情といってもいい。それゆえ、不快な感情が生まれると、それを何とか避けようとする。
私の具体的な体験を示しながら、わかりやすく説明する。
私は学生時代、共産党系青年組織「民主青年同盟」の同盟員だった。この時代、ソ連の反体制作家、ソルジェニツインの小説がベストセラーになっていたが、手に取ろうともしなかった。
読めば(認知的不協和が生じ)不快な気分になることが漠然と予感されたからだ。そのため、「どうせ反共作家が社会主義のアラを針小棒大に書いているんだろう」と解釈し、立ち読みすらしなかった(回避)。
多くの人も同じような体験をされたことがあるのではないでしょうか。
元赤旗の記者、萩原遼氏の『北朝鮮に消えた友と私の物語』(文藝春秋社、98年)は、「わが祖国は地上の楽園」という宣伝を鵜呑みに帰国した在日朝鮮人の悲惨な姿を具体的に明らかにしたものである。
その本の中で、関貴星氏が36年前の62年に『楽園の夢破れて』(全貌社)で、「地上の楽園は地獄である」と、いち早く指摘していることを正直に綴っている。
「わたしはこの本を1963年に大阪外大で手にしているにもかかわらず、反共で売る全貌社の本なんかどうせロクでもない本だろうと読みもしなかった。しかし後年精読して自分のおろかさを愧じた」
萩原氏が関氏の本を読まなかったのも認知的不協和になることを回避したからだと思う。
ついでに明らかにしておくと、統一教会信者の拉致監禁問題をいち早く取り上げたのは全貌社の雑誌『ゼンボウ』であった。
認知的不協和は様々なところに表れている。
統一教会信者の親たちがなんとか子どもを脱会させようと、統一教会を批判する「本を読め」という。しかし、子どもは拒否する。このことを親はこう解釈してしまう。
「統一教会から指示されて読もうとしないのだ。子どもは牧師さんが説明する通り、マインドコントロールされてしまったのだ」
しかし、それは“マインドコントロール”でもなんでもない。たんに、日常的によくある認知的不協和を回避する人間心理の傾向でしかないのである。
統一教会員も「日本の統一教会には問題がある」と漠然と感じている。しかし、統一教会を批判した本などを読み、問題を認識し分析することまではしない。心が不安定になることを予見しているからだ。そのため、何らかの理由をつけて、問題の突き詰めを回避する。
その逆に、反統一教会の人たちも小出浩久氏の『人さらいからの脱出』や鳥海豊氏の『脱会屋の全て』を「どうせ統一教会系の光言社から出版された本だから嘘が散りばめられている」と、手に取ろうとさえしない。
同じように、マインドコントロールを信じ、子どもを脱会させるには強制説得しかないと信じ込んでいる家族は、私のルポや『我らの不快な隣人』をまともに読もうとしないのだ。
創価学会員は反創価学会の、ムスリムはヒンズー教の、自民党員は反自民の本を読まない。
人は見たくないものは見ようとしないのだ。
養老猛氏の『馬鹿の壁』を引用すれば、「人は知りたくないことは自主的に情報を遮断する」
統一教会であろうが反統一教会であろうが、関係ないのだ。
話を戻せば、反統一教会の人たちにとって、統一教会員ではなく、“カルト”批判の記事を書いてきた親和性のあったライターが「書かれざる宗教監禁の恐怖と悲劇」を明らかにしたからこそ、認知的不協和が生じた(ハレーションが生じた)のだ。「山口コラム(3)」を参照。
こんなわけで、「統一教会から金をもらって書いたらしい」「統一教会を擁護するライターになった」と解釈がエスカレートすればするほど、彼らの心はよりいっそう安定するのである。
おそらく山口弁護士も同じだろう。
「統一協会と軸を一にした」とか「統一協会の機関誌が喜んで紹介している」とか「ヤキが回った」と書くことによって、認知的協和、心の平安を求めようとしているのだろう。哀れとしか言いようがない。
私は自分の内なる「認知的不協和理論」を克服するために「是は是、非は非」(荀子の言葉)という立場に立つことに決めた。
これがけっこう難しいことは『我らの不快な隣人』のあとがきでもそれらしきことを書いた。統一教会うんぬんとは関係なく、日常的にも是々非々の立場を貫こうとしているのだが、実践するのはけっこう難しい。
萩原氏はすごいと思う。かつて自分が忌み嫌った反共出版社から出された絶版の本を、自分の手で亜紀書房の力を借りて復刻したのだから。
山口弁護士たちも「萩原氏の爪のアカを飲んで」とまでは言わないが、認知的不協和心理の呪縛と闘いながら、「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」、『我らの不快な隣人』を、是々非々の立場に立ち戻り、再度、精読して欲しいと願うばかりだ。
次回「弁護士山口氏のコラムを評す」最終回です
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