「強制脱会者の心理」-読者からの投稿 

一筆一論(12)

前回、「強制脱会者の心理」私論に、貴重な投稿が寄せられました。

 その中から2つの投稿を、ブログにアップすることにいたしました。
 強制説得を行なった元信者家族のみなさん、強制説得を考えられている現役信者家族のみなさんには是非、読んでいただきたいです。

 アップする際、読みやすくするために、改行などは引用者が手を加えました。
 また、投稿者から記事の修正の申し込みがあれば、そのことを明記せずに、修正を加えます。どうかご了解を。
 さらに、興味深い投稿があれば、それも追加でアップする予定です。なお、コメント欄に投稿された2人の記事は削除しました。

 


罪悪感と加害者意識 by koyomi(強制脱会者)


 強制説得による脱会者の心理・・・なかなか読み応えがありました。
 監禁中、説得者におどろおどろしい話を聞かされて、それゆえ現役信者に会いたくなくなるという脱会者の話はなるほどと思いました。
 私を説得した方も妄想話を含めておどろおどろしい話を一杯してくれました。

 でも、自分が所属していた教会も人も全くそんなことはなかったので、自分が関わっていた人たちに関しては怖さは全くありませんでした。
(自分の所属している部署ではない統一教会の他の部署では
「説得者や元信者が言うように、おどろおどろしい所があるかもしれない。もしかしたら、説得者や元信者が言っているおどろおどろしい統一教会が本当の統一教会かもしれない・・・・」
 と感じたことはありましたが。

 強制説得の場面は想像以上に心理的にきついものです。

 自分が信じているものを否定される上に、罪悪感と加害者意識を植え付けられるからです。
 1度目の監禁中、親に言われました。
「あなたが統一教会に入ったお陰で何年も苦しんだ」

 統一教会にいる限り、たとえあなたが霊感商法をしていなくても、そのことを認めているのだから、犯罪者だと言われ、あなたは多くの人を苦しめていると言われ続けます。
 間違いがわかっても脱会の意志を示さないのは、良心基準が低いからとも言われます。

 監禁されているにも関わらず、私は加害者だったと思い込んでいました。だから、米本さんがいつか私のことを「拉致監禁の被害者」と言った時は凄く新鮮でした。
 私は、被害者だったんだーと改めて思い、驚いたものです。

 脱会して15年も一般社会に生活していれば、原理は間違いだったということは身をもってわかります。だから、脱会したことに対して云々は言いません。今さら親にも説得者にも恨みは言いません。

 でも、監禁中に、あの罪悪感と加害者意識を植え付けられたことはどうにも納得いきません。

 統一教会を辞める時、原理が間違いでも、文鮮明がメシアじゃなくても、そのことを恨みに思う気持ちはありませんでした。統一教会に騙されたという強い気持ちもなかった。

 それは マインドコントロールで入信したのではなくて、自分の意思で入ったからです。

 でも、間違いとわかっていても、結果的に脱会してよかったと思っても、強制説得には騙された!という思いが強くあります。

 それに、強制説得による脱会者にはとてもここには書けない心理があります。おそらく、(直接聞いたわけではないので違うかもしれませんが)強制説得活動に積極的に関わっている脱会者はそういう心理があると思います。


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笹目川(近所)の白鷺


監禁後の脱会者が統一教会員との交流を避けるいくつかの理由 by 川嶋(強制説得経験者) 


 経験者の川嶋です。
 すいません以下、とても長文です。自己主張がすぎると思われるかもしれませんが、私自身の誠意を示す意味で載せてしまおうと思います。

 今回のNK君の件と、米本さんの記事に触発され、私自身が、過去マンションのなかで脱会者たち(50人ぐらい?)と話し、また監禁後にやはり 同じような経験者と交流しながら気づいた内容をもとにして、監禁によって脱会したメンバーがなぜ、現統一教会員との交流をまったく切り捨てるような行動を とるのか。それらをどのように橋渡ししたらよいのか。という点について、いくつかの観点からまとめてみました。

 なお、経験者の立場からのこうした投稿は、なかなかキツい作業だと思います。経験者にとっては、生傷に棒かなにかをつっこんで探りをいれるような作業になるのだということを、(経験者が多い多いと言われながらも、実際の投稿数が少ないことについて)ぜひご理解いただきたいです。
 以下、分割して投稿を試みてみます。


(1)監禁体験が本人の心に、人間全般への不信を植え付ける。

 以下あくまで私個人の意見ですので、ご了承の上お読みください。
 被監禁者は、他ならぬ身内から、いきなり監禁され、精神病患者のように扱われることで、外世界や他の人間、そして自分自身に対しても、決定的な不信感が植え付けられます。この人間不信植え付けについては、恣意的なものと、無自覚に行われるものの2つが、混在しているように思われます。

○生々しい監禁体験によるショック

 監禁体験は、例えば以下のようなものです。
 帰省して親と談笑していると、いきなり親族と、見知らぬ首謀者らしき人々が家に潜んでいて、トランシーバーを片手に、予行練習を繰り返した様子で本人を連れ出し、車に押し込む。
 トイレに行きたいというと、携帯トイレを渡して「これでやれ」、と言われる。
 抗議すると、「大きな声を出すとタオルを口に突っ込むよ」と脅される。
 窓が塞がれて特殊な鍵がかけられており、近くに行こうとすると押しとどめられる。なぜかと聞くと、「お前が飛び降りるからだ」と答えられる。
 食器類がすべてプラスチック、割り箸などになり、なぜかと聞くと「お前が投げつけたり刺したりするからだ」と言われる。
 包丁をしまってあるキッチン扉にチェーンキーがつけられ、なぜかと聞くと「お前が人を刺すからだ」と言われる。などなど。
 周囲の家族が、宇宙人か犯罪者をみるような目つきで私を見て、そのことに怒ると「マインドコントロールが怒った!」と過剰反応する。結果、日常的な会話すら、通じない。
 このような経験一つ一つによって、心の中の何かが壊れていくのです。

○いわゆるネグレクト的扱いに対するあきらめ(挫折体験)

 さらにたいへん不健全なのが、監禁を指導する牧師&コア脱会者らの監禁正当化です。

 例えば、説得に来た脱会者に対して私が「昨夜は監禁現場から抜け出して自由になった夢をみた」と言うと、相手は「そういう夢を見るのはね、自意識過剰だからなんだよ」と返答します。その相手も、同様の夢を見て、説得者から「お前は自意識過剰だ」と言われたのでしょう。

 昔、精神病院に監禁された方の体験記を読みましたが、やはり被監禁者が監禁に抵抗し「監禁した者を法的に訴えてやりたい」という意思を示したところ、担当医?が「それは好悪感情というのだ」と答えて相手にしなかったというやり取りが記載されていました。これは私の場合とまったく同じです。

 自らの自由意志を無視され、監禁されたことに対して、抵抗し、抗議する。それは全く正常な、自然な反応ですが、監禁側はそれを精神病の症状だと主張し、受け止めようとしないのです。そして牧師/脱会者のみならず、家族がそれに右習えします。

 被監禁者はこの状況が繰り返されるうち、独りぼっちで正当性を主張することに疲れ、心が折れてしまうのです。監禁現場においては、確かに多数決なら監禁側が正しいことになるのですから。

 人間というものは異常な環境に長くおかれると、そのプレッシャーを軽減するために、あえて自分が自分の意志でこの環境にいるかのように自分自身を騙そうという意識が働きます。そして自分が悪いからこんな環境になったのだ、と思うようになるわけです。その方が耐えやすいのですから。

 しかしこれは要するに、周囲に理解してもらうことをあきらめるということ、人間関係における挫折体験です。監禁が終わってもその挫折体験は残るのです。


○いじめ構造:私は存在するだけで悪?

 また監禁の現場では、原理が正しいかどうかという問題以前に、本人がもともと潜在的に持っている思いなどをつっつくことで、自分自体に自信を失わせる作業が、特に家族から行われるという状況が必然的に生じます。

 家族もこの監禁という異常な事態を受け止めるのに精一杯で、家族の構成員はそれぞれに、
「監禁の準備がどれほど大変であったか」
「これまでの人生でど れほど自分が大変であったか」
 など、口々に主張し、周囲に受け止めてもらおうと必死になります。

 罪悪感から「監禁を行っている自分の正しさ」というものを主 張せざるをえない心境になるわけです。
 結果として、そのしわ寄せが、監禁されている当人に対して
「ここまでして説得しているのに、お前はまだ周囲の言うこ とを信じようとしない。なんという神経質な、疑い深い人間なんだ」
 と、本人の性格に対する攻撃に集約され、存在しているだけで悪であるかのような扱いになっ てしまう。いわゆるいじめ構造、自分たちの不安定さを隠すために、集団で誰かを攻撃するわけです。


○私自身のストレス虚弱症の体験

 さて、夏目漱石の『行人』を読んだことがあるでしょうか。『行人』の主人公は精神を病み、奇行がめだつようになります。それを心配した友人が彼に対して忠告をしようとすると、主人公はいきなり相手の頬をなぐります。「なにをするんだ」と友人が怒ると、彼は逆に「それみろ、お前はそうやって感情的になるじゃないか。そんな不安定なものをどう信じろというのか」と言い、むしろ自分の態度の方が誠実なのだ、と主張します。

 人間は不安定なものです。
 一見、傍目には健全で、普通の生活をしているようにしている人であっても、実はかなり感情的で不安定な部分をもっており、そういう自分を表現して他者から受け止めてもらうことで、自分の心のバランスをとっているものです。
 別の見方をすると、案外人間というのは、自分の不安定さを一方的に相手に押し付け、処理させている。いわば他人を利用することで、自分を正常に保とうとしている自分勝手な存在だということになります。

 私自身、監禁後、このような事実を深刻に捉えるようになり、周囲の人の会話の動機に敏感になり、少しでも「他者を利用しようとしている」人や、不安定と感じる人とは交流しないようになりました。

 例えば、ある人に監禁体験のことを質問され、話したことがあります。
 すると、相手が「でもまあ、戦争体験など、あなた以上に悲惨な体験をした人もいるわけだし」と慰めようとする。
 しかし私としては、求められて話したのに、共感ではなく批評めいた説得が始まった、ということで防衛機能のスイッチが入った状態になってしまう。
 私は当時、こうした心理状態について、臨床医の方に相談しました。するとこれはストレス虚弱症という、自我が不安定になったために他者から悪い影響を受けやすくなってしまう状態ではないか、との助言をいただきました。
 実際に、監禁説得は心を傷つけ、時には社会生活をも難しくさせてしまう、ということなのです。

○幼児退行/過食症/精神分裂病になった女性

 知り合いで監禁を3度繰り返された女性がいます。
 線は細いがごく普通の女性でしたが、監禁を繰り返されるうちに、日常生活を規則正しくできない。言葉や行動が幼児のようになって、自分でそれを正せない。などの奇行が目立つようになりました。(注)
 1度目は数週間。2度目は3ヶ月程度。そして3度目の約10ヶ月の監禁後、統一教会に戻ってきた彼女は、 もと普通の体型だったのが、ビア樽のように太っていました。

 さらに、話が普通に出来ない。話しかけても30分ぐらい返事ができないなどの状態になっていき、 数ヶ月後には精神分裂病と診断され、今度は祝福を破棄して、親元に帰ることを余儀なくされました。

 その後も親元にいることをいやがり、軟禁のような状態の中で何度も家出のようなことを繰り返していました。今はもう、どうしているか、分かりませんが・・・。

 私は彼女が、監禁によって家族という最も基本的な信頼関係を崩されたために、幼児退行に追い込まれ、さらに監禁を繰り返されることでついに人格が破綻してしまったのではないかと考えています。

 ‥‥傷ついた自分をそっとしておいてほしい。誰にも会いたくない。こうした自信喪失や人間不信が、もと居たコミュニティに帰ることを阻害するのは、一般論としても容易に予想されることです。

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(2)オドロオドロしい様々な情報刷り込みによって、統一教会の人間に恐怖心を持つようになる。

○朱に交われば赤くなる。

 これは米本さんが今回言われている主旨と重なります。
 牧師&脱会者の認識として出回っているものは、以下の通りです。

「統一教会は韓国の土俗宗教がキリスト教と混ざってできた、新興宗教の一派にすぎない。もとは教祖が信者と性的に交わることで清めの儀式を行っており、反対する者を抹殺して回る、以前のオウムのような組織であった。
 一般の信者がそれを知らないでのほほんとして暮らしているが、実は、統一教会には思想警察のような裏の組織があって、秘密を知った人間を抹殺して回っているのだ」

 にわかには信じがたいことですが、彼らのうち、コアなメンバーは、脱会説得を繰り返し、それらしい情報集めを繰り返しているうちに、自ら作り出したそのストーリーを文字通り信じ、統一教会をオウムのような団体として恐れるようになってしまっているのです。

 朱に交われば赤くなる。
 人間というのは、確信を持って信じている人が周囲にいると、やり取りのなかで影響を受けるものです。
 ザックリ言ってしまうと、監禁脱会者は、誰か他人に言われて統一教会を信じるようになり、また誰か別の他人に言われて反対するようになった。こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、いわゆる、自分の確たる意見をもたないお人好しが多いのかもしれません。

 だから、確信を持って統一教会を「恐ろしい殺し屋集団」と信じているコア・メンバーがいれば、やはり周囲もその影響を受けるということになるのです。

○スランプ体験の刷り込み

 監禁中、ある脱会者に、
「統一教会に居た頃のあなたの知人が、そんなテロまがいの行為をあなたにすることがあり得ると思うか」
 と聞いたところ、
「たぶん起こらないだろうとは思うが、いざというときに可能性は否定できない。だから怖い」
 との答えが返ってきました。これが、脱会者の平均的な答えだと思います。

 脱会者のほとんどは、
「血分けはある。それをかくすためにテロ行為やKCIAからの弾圧を実際に行っている。卓メイカンは統一教会に殺された。 そしてやっぱり原理講論は金百文の盗作だ。世界日報副社長の副島氏は殺されそうになった。私が帰ると、逆監禁をされて、抹殺されるかもしれない」
 などなどのストーリーを、理性的というより、情の部分で大なり小なり信じ、恐怖感を刷り込まれていることになります。

 車を運転する人が人身事故などを起こしたあと、車に乗れなくなることがあります。一度その怖さを身をもって経験してしまうと、それがスランプ体 験として根付いてしまうのです。これは「ありえること」の可能性に対する個別的・情的な恐怖心の刷り込みであり、普遍的・理性的な判断力とはまた別のものだと思います。

 説得をうけるメンバーは、周囲の脱会者が本当に全員そう思っているということに気付き、「本当にそうだったら、この人たちの行動・考え方が理解できる」と、「あり得ること」との可能性の部分を認め、無意識の部分でその考え方に乗っかるような心理が働くのではないでしょうか。なんと言っても多勢に無勢の中、長いものに巻かれた方が楽、というか巻かれてあげないと半永久的に監禁が続くのですから。


○私が教会に帰る際に感じた恐怖心との葛藤

 かく言う私自身も、帰ってくる時に「本当に統一教会はそういう所なのかも知れない。自分も本当にそういう目に遭うかも知れない」という思いがわいてくる自分に対して、「理性的に見て、そういうことはあり得ない」と自ら納得させながら帰りました。

 そして実際に帰ったとき、駅まで私の仕事仲間が迎えにきてくれましたが、まず思ったのは、
「後ろに私の知っている統一教会のメンバー数人が隠れていて、逃げられないように私を取り囲むのではないか」
 ということでした。

 あり得ないことですが、事実そう思った自分を抑えなければならなかったのです。
 信仰を保って帰ってきた私自身ですらそのような心理的葛藤を越えなければならなくなったのですから、いわんや真性脱会の人においては、、、まず相当のことがなければ、現教会員に会おうとはしないでしょう。


(3)監禁脱会者による独自の世界への「囲い込み」

○脱会と記憶の塗り替え作業

 さて、脱会者はたとえ脱会を決意してもその後、統一教会時代に自分の出会った「神体験」を相対化するまで安心できません。

 たいていは、脱会確定後もマンションで一定期間過ごしながら「神体験」を一つひとつ塗りつぶし、
「あれは神の声ではなく悪霊のささやきだったのだ」
 もしくは
「神体験ではなく思い込みだったのだ」
 どちらか路線で整理する作業が必要です(前者と後者は流儀や聖書に対するアプローチが違う)。

 私は、いくつかの監禁事例をふまえた上で、本人失踪後、実際に脱会するかどうかが決定するのは、約1ヶ月半後。それ以降は記憶の塗り替え作業で、これに数ヶ月(2、3ヶ月から半年、あるいは1年近く)を要すると考えております。

 教会に送られてくる脱会通知書の多くは「統一教会の影響が及ばないところで、家族と私だけでしばらく静かに考えていました。監禁ではありません」など書かれていることが多いですが、確かに最初の1ヶ月半を通過して脱会が決定した後は、監禁説得ではなく本人の整理期間と分類でき、ゆるやかな軟禁程度の状態に移行していることが多いように思われます(もちろん個別差はありますので誤解なきよう)。ですから脱会書の言うことはあながち嘘でもないということになります。


○リハビリ=監禁説得への参加

 さらにマンション終了後はリハビリと称して、脱会者間で共同生活をして、監禁説得などの反対活動に携わるケースがよく見られます。

 新たに説得する側は、多くの人がその説得によってやめていくという姿に触れて「やっぱり自分は正しかった」と安心し、説得される側は多くの脱会者の姿に触れて信仰を失って行く。その結果として脱会者だけの独自的な世界が形成されていくことになります。

 逆にこの脱会者だけの世界についていけない人も生じます。
 こうした人は脱会者コミュニティからフェードアウトする、またははじき飛ばされると考えられますが、こうしたいわゆる健全な人であっても、脱会者のコアメンバーが睨みをきかせており、自分の家族に影響力をもっている状態ならば、統一教会との交流をしたいとはまず思わないでしょう。そう、二度目の監禁可能性があるからです。

 ひっそりと、目立たないように。
 脱会者にとっては、それが安全への道なのです。

○そして、再監禁の可能性

 ある時期、所属教会の了解を得て、その教会内の監禁件数を調査したことがありますが、まず監禁例の10例に3例以上が、2度目もしくは3度目といったケースがありました。ご想像ください。監禁後に統一教会に戻ったとしても、その何割かは確実に、再監禁の被害にあっているのです。
 また、いわゆる線の細いメンバーに対しては、牧師が「この説得以降、統一教会とはコンタクトをとらないように。もし戻ったら、ヒドいぞ。俺を裏切るなよ」などと、二度目の監禁を匂わせて脅しをかけてきた例もありました。

 これほどの長期間に渡る綿密な思想改造と、コアなコミュニティへの囲い込み。横行する監視と脅し。
 これでは、本当によほどのことがなければ、脱会者が統一教会と交流をしたいとは考えないでしょう。

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(4)統一教会側の敷居が高くなっていないか?

 これまで述べてきた、本人の精神的ダメージや強烈な恐怖心の刷り込み、脱会者同士のコミュニティなどは、時とともに影響力が薄れていくのではな いかと思われます。
 しかし、統一教会側のコミュニティが敷居を高くしてしまっていたら? やはり脱会者は交流をしようとしないでしょう。では、統一教会側が 自ら敷居を高くしてしまっている要素は見いだせるでしょうか。
 以下、繰り返しますがあくまで個人の意見ですのでご了解ください。

○情報操作?

 例えば以前、統一教会内部で「中心的に反対活動をしていた人が、交通事故で死んでしまった」という噂が流れたことがあります。結局その情報の出所を探って行くと、又聞きから尾ひれが付いた根も葉もないものであったことが分かっています。
 監禁説得を行う側は、このような例をあげては「ほらやっぱり情報操作だ。カルトだ」と言うわけです。
 まあ、特定のコミュニティに属する人間が、コミュニティを守りたいという思いから、つい、結果的にそういう情報を生み出してしまう、それぐらいはありがちこととは思います。が、それでも情報のねつ造と言われればそうですし、「本物」のとるべき態度とはいえません。

 また、監禁の現場には実際に様々なケースがあります。

 ちなみに私の知っている最近の例では、最初は内輪の軟禁という色が強かったものが、牧師が登場して本人とやり取りするうち、牧師が「あなたのその態度は、確信犯ですね、あなたは中心メンバーでしょう」と診断を下し、牧師の指示によって南京錠などが設置され、本物の監禁に移行しました。監禁の顕在化です。

 まあ、実際問題としては色々な例があるということです。
 私の経験した90年代前半は監禁のピークであり、マンションに訪れる人もほぼ全員、監禁脱会者でした。それ以前はもっと露骨な人権侵害があったことが知られていますし、以降は手段も洗練され、ソフト化が進んだだろうと思われます。
 この流れの中、監禁を受ける本人がいわゆる草食系の場合は、統一教会内部で言われているほど「監禁度」が顕在化しないと考えられます。そのためにかえって本人の中で「統一教会側がカルト的だ」と不信をつのらせてしまうことが予想されるのです。

○ナルシズム?

 さらに。
 私が監禁後、統一教会に帰ってきて鼻についたのが、内部の人の傲慢さでした。
 私の出会ったある脱会者は、こう主張していました。

「教会の人間は、ナルシズム集団だ。他人を理解しようとせず、自分だけの世界に浸って、周囲に押し付けているだけだ。大きな子供のようなものだ。こんな人達と交流すること自体、時間の無駄だ」

 内部の一般的な傾向として、実際にはよく分かりもしない霊界のことが自分には様々に分かるのだと思い込んで、そこにホクホクとした手ごたえを感じながら歩むという姿が日常的によく見られるように思います。

 身に覚えのある脱会者は現役の教会員のそうした見方をいやがり、避けようとすることが考えられます。脱会者や牧師の思いを表現すれば、
「本当に 霊界のことがつぶさにわかるというのなら、そもそも脱会しないはずだ。しかし実際は、監禁説得を受けた大多数が脱会していく。霊界のことがわかるとか真理が分かるとか優越感に浸りつつ、実は何も分かっていない。幼児が得々として大人に説教を垂れているようなものだ。なんとムカつく集団だ」
 ということになる でしょう。
 確かに、『ぼのぼの』で、アライグマくんがシマリスくんを殴りたくなるのも一理あると思います。

○怠け者?

 さらにさらに。
 統一教会員は一般的に、コメンテーターが多いように思います。

 監禁経験者に対して、内部の人が「蕩減なんだよ?。」「イサクなんだねえ。」などと、ある意味平和な、条件反射的なケアーを返すことはよく見られます。が、前述のように、周囲の動機に敏感になった当人には、防衛機能のスイッチ役にしかならないかもしれません。

 謙虚になって、PTSD関連の書物を読んでみてください。心に傷を負った者に必要なのは、一歩下がってコメントを垂れる人ではありません。黙って聞き、共感しようと努力してくれる人です。

 監禁から帰ってきた人に「蕩減」は禁句です。

 日本の統一教会内では「蕩減」は、誰かが不信仰をしたり失敗をした穴埋めの意味を持ちます。つまり「今は過渡期だからいろんな問題はしかたがない」という意味があります。
「過渡期なんだよ」という言葉の裏には、
「まだ地上天国できなくてもいいんだよ」
「解決できないまま、何にもしないで我慢していればそのうち台風のように問題がすぎさっていくんだよ」
 という非常に情けない意識が見え隠れしています。
 その場限りで問題を押さえ込まないで、きちんと 解決する姿勢がなければ、本当に百万年経っても教義が目指すところの地上天国が来ないのではないでしょうか。

 問題を抱えた人に対して、言葉でかえすのは簡単ですが、何か行動で応えようとしているのでしょうか。
「言葉はいらない。行動で示してほしい」
 何度か教会の上司に訴えてきたことです。摂理的に見てこういう意義がとか、そんなコメントはいりません。解決できるのか、できないのか、なのです。
 行動が伴わない言葉は、単なる言い訳です。つまり一言で言うと、怠け者が多いのです。

○自覚と連帯意識の欠如

 監禁されるのは親子関係が悪いせいだ、自分たちはちゃんと交流しているから監禁されないぞ、といった見方をする人も多く見られます。

 これは全く間違っています。監禁説得は確信犯的に継続的に組織的に行われているのであって、絶対に、監禁される当人と家族の問題に還元すべきものでは、ありません。
 監禁を主導するものがいるから監禁が起こるのです。Aさんが監禁されないなら、Bさんにお鉢が回ってくるだけの話です。順番待ちなのです。

 これだけ世間で統一教会が騒がれているなかで、いわゆる反対派に相談しようと思わない親など、珍しいぐらいだということが分からないのでしょうか。

 監禁を実際に行う家庭は、反対牧師の講習を受けたうちの何割かにすぎない、と聞いています。監禁されるまで分からないのに、どうして大丈夫などと言えるのでしょうか。
 一旦反対派につながれば、父兄グループから「監禁しないのは親として失格だ」と追求されるとも聞いています。

 ですから、監禁問題なんか関係ないと言っている現信者さんたちに言いたい。
 <現状において、被監禁者たちは、あなたたちが信仰生活を享受している間、人柱となっているのではないですか?そう思いませんか?>


(5)さらに、様々な心理的壁

○脱会=純粋さの喪失

 私の知人は、信仰とは純粋さである。このように言っています。私もそう思います。
 どれだけその純粋さを信じきれるか。信仰を持つ者は、その純粋さなくして幸せにはなれない、と感じているため、純粋さをずっと守ろうとする。

「マインドコントロールされた者は、普段は普通に過ごしているが、いったん教義を攻撃されると人格が変わったようになって防衛しようとする」
 よくいわれることです。
 抵抗?
 当たり前のことです。純粋さが宝なのですから。本人は信仰の鎧によって、純粋な部分を守っている、とも表現できるでしょう。
 だからそれを説得する側には、その資格が問われる。本当にその当人を心配し、もうなんというか一蓮托生の思いになれる人しか、監禁説得をおこなうべきではない。これが、よく監禁現場で聞かれた、脱会者の言葉でありました。

 では実際に、信仰の鎧をはぎ取られ、純粋な部分に毒を注がれたら。
 それは本当に難しい。たとえその手段が、卑劣な、醜悪な、姑息な、監禁によるものだったとしても、いったん純粋な思いが穢されると、まずもとには戻せないでしょう。

 という訳で、監禁説得を受けた人間が実際問題として脱会するのは、純粋さが失われたために、当人にとって統一教会の信仰を通して幸せになる道自体が、閉ざされてしまったからだ、と考えられます。

○疎外感による心理的な壁

 私がマンション内で、ある脱会者に、脱会してどのような心境かと聞いたところ、例えとして鶴の恩返しの話をしてきました。妻が鶴だと気づくまで は、夫は自分の妻を本当に愛していた。その愛は本物だった。しかし、いったん妻が鶴だと分かってしまうと、もうもとの生活には戻れない。別れるしかないのだ・・・。こうした心境だとのことでした。

 例えば今回脱会を選択したNK君も、世間一般に見られるような愛情では満足できず、本当に純粋な、蒸留で抽出したような愛をもとめた。ということだと思います。
 そして、信仰を通じて、本当に清い動機で結ばれた結婚ができれば、どんなに幸せだろう。きっとこの世に有り得ないほど素晴らしい、幸せ な家庭を築けるだろう・・・。このような期待を抱いていたことでしょう。

 しかし、その純粋さが失われてしまった。他の道で同じような幸せを得る期待などない。
 そもそもそのような結婚など、無理だったのだ・・・失意を抱え、虚無感を抱えながら、それでも生きていくしかない・・・。

 彼が必ずこのような思いを通過したに違いない、と私は思っています。

 脱会すると、とたんに退屈な日常がまっている。
 マンション内でよく聞いた言葉です。
 ある脱会者が言っていました。

「脱会して、マンションの目隠しが外され、外を眺めた。失意とともに、真理なんてないんだ。神のため歩む躍動感も、 嘘だったんだ。人生に意味なんてないんだ。じゃあ何で自分は生きているんだ。でも、下を見ると道行く人がたくさんいる。世の中の人はみんな、そうやって生きているんだ。真理も目的ももってないけど、みんなそうなんだ。だったら自分もそうするしかない・・・。そう思った」、と。

 純粋さの喪失により、私はもう元には戻れない。幸せにはなれない。だから現役信者と話すことは難しい。という疎外感を、多くの脱会者が抱えていると考えられるのです。心理的な壁ができてしまうのです。

 そして、なんというか思いやりのようなものをもつ人もいます。脱会者の多くは、自らが無理矢理、信仰の鎧をはがされた事実もはっきり覚えています。たとえ偽りのものであったとしても、自分がそれに人生をかけて充実した生活をしていたことは事実だ。だから殊更その夢を奪うようなことはすべきではない。説得する側にも、その資格が問われるのだ、と。

 だから、純粋さを失った疎外感、プラス一種の思いやりから、ことさら彼ら(現役信者)の夢を壊すことなく、自分は彼らの前から姿を消そう。そのように考える人は多いと思われます。


○結論を出した本人の気持ちとしては


 監禁説得は、「じゃあ、統一教会に来て、いったい何がよかったのか」と、それまでの信仰生活が素朴に問われる場でもあるといえるでしょう。

 いったん監禁されたからには、ここで脱会しなければ今後、親からの人生における援助もろもろが無くなるだろうことは確実ですし、その場で「続ける/続けない」の結論を出すことを迫られざるをえません。

 統一教会に出会ってからは、いわゆる普通の友達を切って行く傾向にあるわけですし、家庭からは反対を受けてかえって親子関係が(過渡的には)悪くなっている現実に向かわせられます。
 さらに統一教会というのは、こうで、ああで、こんなに汚いんだ。なんだかんだ色々言われて。
 普通に考えれば、そこで「お前、本当に続けるのか」と聞かれて、「イエス」と答える人は少ないでしょう。理論的にはいくら反論できるとしても、反論しようとする動機を失ってしまうでしょう。
 
 そこでは結局、純粋さを保持できるかどうかが決め手となることでしょう。色々あっても自分は純粋さを保てる、大丈夫だ、という人は戻ってくる。純粋さを汚された、幸せにはなれない、と結論を出した場合は、脱会する。そういうことだと思います。

 そうして、曲がりなりにも本人が結論を出して、次のステップを踏み出そうとする。ということであれば、本人はそれまでの関係性を思い切って切り捨てようとするでしょう。失恋した後に、古い恋人のことを思い出すような持ち物を焼き捨てるように。

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○罪悪感と、恨みと。

 さらにさらに。
 koyomiさんが言及されているような、監禁時の加害者意識と罪悪感の執拗な刷り込みが何を意図しているか。
 それは、あえて例えるならば、万引きをした女の子を、罪悪感をあおり立ててレイプしようとするようなものだ、と、私は考えています。
 罪悪感によって、被監禁者は純粋さを守ろうとする抵抗力を奪われ、信仰の鎧をこじ開けられてしまうのです。

 では、当人はこの心理的レイプ体験をどのように自分に説明するのか。

「仕方がない。それだけの悪いことをしたのだから。私は統一教会員である間、人様に迷惑をかける加害者でもあったのだ」


 このように自らに言い聞かせるのではないでしょうか。
 自らに加えられた残虐な仕打ちを正当化してしまえば、その分、心に傷を追わなくてすむ。心のバランスをとる上では、その罪悪感は役立つのです。

 というわけで、自らが気が狂わないために統一教会を悪だと認定せざるをえない
 その結果、今度は統一教会に対して過剰反応する。現役信者のやさしい態度や人格的な姿勢などは全て、悪意なき悪だとみなすようになる。このように考えられるのです。

 またプライドが強い人の場合、脱会時にスティーヴン・ハッサンなどが述懐している、「この私が、カルトなんかに騙された」という屈辱感を払拭できないように思われます。

 さらにそのことに、自分で気づくのではなく、鎧を引きはがされるようにして無理矢理気づかされたという二重の屈辱感。これらが、後先考えずに監禁説得を強力に引っ張っていく一部のコアな元教会員の動機になっていると考えられます。

○では、橋渡しの方法は?

 さて。
‥‥これらを理解し、橋渡しになってあげられるのは、監禁経験者の方々以外にはないでしょう。ですので、もし被監禁後の本人が統一教会側に帰ってきたいとの意思を持っている場合、本人のケアーなり、親御さんとのやり取りの際は、全面的に経験者の意見に従うべきです。このことは、ずっと以前から教会さんに対して訴え続けているところです。

 監禁から帰ってくる際に、「もうしばらく家族と話し合いたい」など漏らす人がいますが、そこには、私が「脱出」すると、その行為自体が影響を及ぼし、話し合いを「監禁」と確定してしまう。そうすると親子が決定的に断絶してしまう‥‥。といった微妙な心理があるのではないでしょうか。

 ところが、たいてい教会の人は、そういう時「大変だー」と騒ぎ立てて、「ここが神とサタンの一線」などと、いわゆるスイッチが入った状態になって、何が何でも本人を親のところから「脱出」させようとします。

「脱出」後に、拍手して凱旋者のような迎え方をしたり、監禁後に帰ってきた人に対して、普段から交流もない人が「あなたは英雄です!」などと言ってきたり。
 正直、これらは本人の孤独感を増すばかりではないでしょうか。なんとも敷居が高い話です。

 帰ってきた人から、「本当に中立的な組織がほしい」という声を聞くこともあります。しかし統一教会内ではそうした声に対して、「あの人は監禁を受けてズレてしまった」というのがよくある見方です。敷居が高いですね。

 もちろん、越えられないほど敷居が高いわけではありません。
 本人がよほど強ければ、あるいは教会内での人間関係がよほど健全なものであったなら、そうした部分は乗り越えて、脱会/非脱会を問わず交流することも可能と思います。しかし、そうした例は、あまり見かけないようです。

 ですので。
 中立的な話をきちんと出来る場が、本当にほしいです。監禁をなくせばいいんです。
 あとはやめるなり、続けるなり、本人に任せればいいんです。
 来るものは拒まず、去る者を追わず。これを本当に徹底しなければ中立的な立場は守れません。

 中立地帯においては、監禁こそが「悪」なのであって、統一教会の信仰をもつこと、やめること、どちらも「悪」ではありません。

(注)拙文のPTSDについて考える を、読んでください。退行現象について触れています。


 
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コメント

深い、分かりやすい

<中立的な話をきちんと出来る場が、本当にほしいです。監禁をなくせばいいんです。
 あとはやめるなり、続けるなり、本人に任せればいいんです>

長い文章でしたが、とても、きちんと整理されていて、よく分かりました。
最後の結論部分には、心から同感します。

一言、言わせていただければ、宗教組織にも、宗教が描く理想にも、そして、目の前の現実社会にも、完全や絶対善を求めるのは控えるべきだと考えます。

お互い、不完全性を自覚して、下手すると間違いを犯す存在だと思って、第三者の目で自身を見つめていくべきだと思います。

理想を言えば、統一教会と拉致監禁グループがお互いに「悪かったな」と謝って、許し合って初めて、真の解決になるのではないかと思います。

幼児

 お二人のコメントとても読み応えがありました。
 koyomiさんのような脱会者の方からの生の声は貴重でもあります。
 川嶋さんは表現力の乏しい私に代わってかなり私のいいたいことを代弁してくれているような気がします。

 ところで、川嶋さんの文章にでてきた幼児退行した女性ですが、おそらく私の知っている人と同じです。

 短い期間ではありましたが、CARPの寮でいっしょに住んでいました。彼女を目の当たりにした時は正直かなりの衝撃を受けました。幼児そのものでしたから・・・。
 余り深く話したことはないのですが、尋常ではない出来事が彼女の身に起きた結果なのだろうとその当時は思っていました。
 ある日、その寮の近辺に不審車がうろうろしていた事がありました。
 彼女のうろたえぶりは尋常ではなかったと記憶しています。20年近く前のことなので、うろ覚えでしかないのですが、おねえさん格の女性が、彼女をまるで母親が幼子を抱きしめるようにケアをしていた姿が記憶にあります。
 私が彼女と接点をもっていたのは、おそらく彼女が2回目の監禁から逃れてからのことです。(3回目の監禁から逃れて帰ってきたときには太っていたとありますが、私の知っている彼女は太ってなかった)
 もし、あのあと、3回目の監禁が行なわれたのだとすれば、本当に人格破壊行為と言わざるを得ません。

 親御さんは彼女の状況を知っていたのだろうか?当時はPTSDなどという言葉すらない時代でしたが・・・。
 今は40歳を越えているころかと思われる彼女がどうしているのかも気になります。
 本当に拉致監禁というのは酷い・・・・。

大切なこと

私も、おどろおどろしい話を牧師のおどろおどろしい口調でたーくさん聞きました。しかし私の周りにもそんな人はいなかったし、自分がそんな目にあったことがないからピンと来ないし、親は悲壮な顔をして聞いていたけど、私は逆に巧みな話術で得意げにまくしたてる牧師を(詐欺師みたいだなー)と心で思ってました。

kiyomiさんが<マインドコントロールで入信したのではなくて、自分の意思で入ったからです。>とはっきりおっしゃった部分で胸がジーンときました。なぜなら、その「自分の意思で」という自覚が信仰とは関係ないことにおいても、成人した大人として本当に大事なことをものすごく感じるからです。

統一教会に入信する時も、自然脱会する時も、監禁による強制説得をきっかけに脱会する時も、信仰を続けていくと決める時も、そして、信仰とは関係のない日常生活の中でのさまざまなことにおいても、マインドコントロールされた、だまされた、やらされた、、、この「、、られた」思考になってしまうと、自分の人生の選択が全部受身になってしまって自分が何を望んでいるのか分からなくなってしまうと思います。
そして「自分の意思で」という自覚の基礎には「自分自身に責任を持つ」姿勢があります。そうやって生きながらうまくいく時もあるし、時には間違いもする、その時には誰のせいにもしない、自分自身を反省する姿勢。そうしながら成長していけるのだと思います。
牧師が「だまされている。思わされている。させられた。聞かされた、、。」この「された、られた」をやたらめったらくり返すのが私の耳には非常に不愉快でした。
<中立地帯においては、監禁こそが「悪」なのであって、統一教会の信仰をもつこと、やめること、どちらも「悪」ではありません>
全く同感です。
信仰をやめることを「悪だ」などと言う人がいたらその人こそ自分自身のなかにある「悪」を知らないといけません。




みんなさん、YAMAさん、そして米本さんから高い評価をいただいているようで感謝いたします。
今回あえて長い文章を投稿して、再度読み返してみて、改めて感じることが、中立的な「橋渡し」の必要性です。橋は動いてはなりません。どちらかに加担するようなものであってはなりません。中立性はどちらかに加担したとたんに消え去り、相互理解の道も閉ざされます。
誤解なきように、現時点で「私は中立だ」と声高に主張したいのではありません。
橋渡しのためには、どちらの方向にも一切動かない、揺るぎない中立が、必要不可欠である。そう考えているということです。

例えるなら、サイフォンの原理のようなものです。
水位の違う2つの水槽などをホースでつなぎ、そのホースの空気を抜くと、、、
あとは勝手に水位が調節されて同じになっていく。それが成り立つためには、ホースはただただ純粋にホースの状態を保持しなければならない。

あるいは、千利休が開いた茶道も、同じだと思います。
そこで考案された茶室は入り口が狭く、どんな人物であっても、腰の物を下ろして、頭を下げなければ入ることができません。いったん茶室に入った者は、敵味方なく、平等に、主人のもてなしを受ける立場に立ちます。
殺伐とした戦国時代において、利休が中立の尊さを訴え、それを周囲の人が理解したということだと思います。

本当に、かくありたい。

もちろん私は現信者ですので、その立脚点まで消し去ることはできません。しかしある一定以上の客体化を満たせば、違う立場の人間が理解し合うことは可能であると信じたいです。もちろん完全には無理ですが、それを目指している。その部分をこそ、評価いただいているものと考えたいです。

中立な橋

経験者さんのような方が日本の各教会に一人でもいらっしゃったら、拉致監禁に対しての理解も防備ももっとできるだろうと思います。
そしてどちらにも傾かない中立な橋は拉致監禁から逃れてきた教会員たちの心の居場所になって精神的な立ち直りを助けることになるでしょう・・・。

そして各教会のアベルの方々はこの内容をしっかり心にとどめて信仰生活をしてほしいなと思います。

本当は各章ごとにコメントをしたいところですが全体の感想にさせてもらいました。

ブログを作られて両方の橋渡しをするためにこのような内容を発信してほしいなと思ったのは私だけではないと思います!

Re: 幼児

 川嶋さんとYAMAさんの「幼児」「退行現象」の文を読んで、「あの人はどうしているのだろうか」という以前に抱いた気分が蘇ってきました。

 麻子さんが私に語った人たちのことです。拙著から一部、引用しておきます。

その1・麻子の体験はまだある。戸塚教会の勉強会に参加するようになってから、自分を統一教会に勧誘した女性と話したことがある。脱会していたその女性は「親に鉄格子に入れられた」「刃物で脅された」と、何の脈絡もなく、つぶやいたり、「私は隣人から監視されている」と訴えたという。(212頁)

その2・麻子が一回目の監禁から逃げ、統一教会のホームで暮らすようになったことは前に書いたが、ホームには明らかに精神に変調をきたしていた女性信者が一人いた。監禁を三回体験したというその女性は「明らかに受け答えが変で、おかしくもないところでヘラヘラ笑っていた」という。(212頁)

その3・麻子さんが清水牧師と一緒に出向いた先の監禁現場のいくつかは悲惨で、麻子の心は痛んだ。
A(二二、三歳、女性)は、清水が部屋に入ると恐怖で顔が引きつった。説得中の表情は凍りついたまま、無表情で虚無的、目は宙をさまよい視点が定まっていなかった。(略)
 ベランダの何度に写経本が隠されていた。心が壊れているようで、精神科の診断が必要だと思った。
(98頁)

 麻子さんが心を痛めたこの3人は、今どうしているのだろうか、と思います。

 保護(拉致監禁)説得で、精神を病んだ、心が壊れてしまった現役信者・元信者はまだまだ相当数はいると思います。
 牧師はその存在を知っているけど、しゃべられない。保護した家族はしゃべるにしゃべれない。

 反統一教会陣営の犠牲になった人たちは、今どうしているのかと思うと、気が滅入ってきます。

 しかし、いつの日か少しずつでも明らかになっていくことを確信しています。犠牲者で人生が終わっていいはずがありませんから。

涙が出る

私が会った子も、同じ人じゃないかと思ってつい泣きました。カープ所属で、前もここに書いたことがあるように思いますが、3度目の監禁から逃れてきて、祝福の相手と家庭を持つための準備をしていました。法学部を出て、ピアノも弾けて優秀な子だと聞いていましたが、生活態度を見ると、何もできない、行動は遅く、自分ひとりでは、行動の判断ができず、太った体に服を何枚も重ね着をする、お風呂には入らない、面倒を見ているうちに完全に精神を病んでいると思いました。今は精神科の先生に相談すればよかったと思いますが、そのときは自殺でもされたら、どうしようと思い、本人に言って、親に電話してもらい、家まで送っていきました。もちろん祝福は解消しました。親は、「もう、生きては会えないと思っていました。賢明な判断をしていただきました。」と言われましたが、それが賢明ではなく、責任の放棄だったと思い、彼女がかわいそうで、申し訳ないことをしたと思います。

中立的な橋渡し

川嶋さんの記事を読み、中立的な橋渡し的なものが必要というのは同感しました。15年前、統一教会のも戻れない、だけど脱会の決意もつかなかったあの時、両方からお互いの正当性を語られ、相手の悪を語られました。正にどちらにも行けない状態・・・統一からは裏切り者呼ばわり、反統一からは加害者呼ばわり。あの時に、ただ私の話しを黙って聞いて、どちらの意見も言わず、ただ決断するのを待っていてくれる存在がいたら、どんなにか楽だったのだろう。
でも、結果的に自分で脱会の道を選びました。
確かに川嶋さんがおっしゃるように、罪悪感、加害者意識があったから拉致監禁も必要悪と思い、仕方がなかったと思っていたから、その後精神の安定が図れたのだと思います。
ある意味、反統一教会活動に邁進する元信者は統一教会でもっていた使命感をそのまま逆転しているだけなので、やはり精神は安定しているのです。
強制説得を考えている親御さんがこのブログを読んでいるかどうかわかりませんが、例え親子関係が悪くなっても、自分は恨まれても息子、娘が脱会してくれて世間一般でいう幸せになってくれたらよいと思っているかもしれません。その思いは否定しません。でも、いつか反対派の嘘とカラクリがわかった時、そこでまた苦しむのです。自分のあの時の決断は正しかったのか、と。やはり拉致監禁、強制説得は長年に渡り、本人、家族に問題を及ぼすのです。
もし、中立的橋渡し的存在ができるのなら、できることは少ないですが、協力したいと思います。
そしてできるなら、親御さんが反対派に相談に行く前に相談に来れる所になれたら、と思います。

経験者の川嶋より、

koyomiさん
>ある意味、反統一教会活動に邁進する元信者は統一教会でもっていた使命感をそのまま逆転しているだけなので、やはり精神は安定しているのです。

たしかにそうですね。
こういう一部のコアな方が一旦、マンションにくると、しゃべること、しゃべること。。私はこんなに真剣なんだ!どうだ!と見せつける感じで。。。
やはり不安定さを相手に押し付けることで精神を安定させているのだと思います。
こういう人は、他人を監禁することなしに生き甲斐を得られなくなり、普通の社会で生きていけなくなるだろう‥‥うーん、、、何かとよく似てますねえ。。。


ローズマリーさん
>経験者さんのような方が日本の各教会に一人でもいらっしゃったら、拉致監禁に対しての理解も防備ももっとできるだろうと思います。

koyomiさん
>あの時に、ただ私の話しを黙って聞いて、どちらの意見も言わず、ただ決断するのを待っていてくれる存在がいたら、どんなにか楽だったのだろう。
>もし、中立的橋渡し的存在ができるのなら、できることは少ないですが、協力したいと思います。

ありがたい言葉です。さらに実際には、継続して中立性を確保し、その意味を周囲に理解してもらう作業が必要になります。これが本当に難しい。
ただ、いろいろな出会い、流れの中で、ようやくこうした議論が俎上にのる段階になってきたことは感じています。
監禁=「悪」をなくすため、ここでの議論が内外を問わずより多くの人の目に触れ、さらに色々な言葉が、そして行動が、特に善意ある経験者の方々の中から出てくることを願います。

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