川崎経子牧師の素顔?
“救出カウンセラー”の素顔(1)
?良心の呵責に苦しむ?良心とは「自分の本性の中にひそむ欺瞞・打算的行為・不正直・不誠実・ごまかし・怠惰な念などを退け、自分が正しいと信じる所に従って行動しようとする気持ち」。呵責とは「責めさいなむこと」。
皮肉な表現をすれば、良心がなければ、呵責に苦しむことはなく、平安な日々を過ごすことができる。
「ニュース(21)」のまたまた拉致監禁事件、発生!で、「ニュース(21)」のまたまた拉致監禁事件、発生!で、「いのちの家」の所長である川崎経子牧師(前谷村教会の牧師)のことに触れた。その川崎牧師には呵責すべき良心があるのかどうか。以前から感じていたことを書くことにする。
最初に小さな記事を紹介する(原文ママ)。
十八日午前十時ごろ、都留市つる一丁目の富士急行都留市駅構内で、神奈川県鎌倉市台五の八の三十五、無職山口ハツエさん(67)が発車直後の新宿発河口湖行き下り快速電車にひかれ死亡した。
都留署は山口さんが家族のことで悩んでいたことなどから、自殺の可能性が強いとみている。(山梨日日新聞?1987年10月19日<月>)
山梨日日新聞の読者で、この記事に注目した人はほとんどいなかったと思う。自殺した人が山梨県内の人ならともかく、鎌倉の住人である。何度読み返しても、味気のないベタ記事である。
では、この事件の背景は何なのか。
実は、そのことについて解説した文章がある。
川崎経子牧師の『統一協会の素顔』に載った一文である。全文を引用する(川崎氏が属する日本基督教団の機関誌『教団新報』<87年11月7日付>に寄稿した文章を、本に再録したもの)。
※文中の数字はアラビア数字に統一。ゴチックは引用者。
心痛の母親自殺
娘を原理に奪われて
川崎経子
10月18日(日)礼拝終了後来訪したパトカーの警官の言葉に私は耳を疑った。「今朝10時Aさんが都留市駅で富士急電車に飛び込み自殺しました。教会に行く途中のようでした。身元の確認をお願いしたい」。今までにない強いショックだった。
Aさんは家族に「毎日曜日がとてもためになる。絶対に休めない」と語っていたという。この日も鎌倉から3時間半かけて礼拝に出かけてきていたのだった。
Aさん(66歳)の二女B子さん(28歳)は、昨年9月街頭アンケートをきっかけに統一協会入りし、本年5月には仕事もやめてホームでの集団生活を始めた。B子さんからは家族に電話や手紙はあるものの、住所を知らぬ家族からB子さんへの連絡は一切できないままであった。それがAさんにとって一番耐え難い苦痛であった。その上、いつ外国に飛ばされるのか、いつ集団結婚をするのか、伝道によってわが家と同じ不幸な家庭を娘は今も作っているのだと、考えれば考えるほど悩みは深刻となり、最近は気持ちの上で追いつめられていたようである。
Aさんの最後の礼拝になった11日には、統一協会を脱会した2名の青年も出席しており、帰途、Aさんは、娘のゆくえさえつかめぬわが身と比較して、脱会した家族をとても羨ましがり、あせりの顔を隠さなかったという。
都留市駅に降り立ったAさんの心の中に、あの瞬間、何が起こったか知るすべはない。急に「私が死ねば娘は帰ってくるに違いない。私さえ死ねば・・・」という思いに取りつかれ、発車した電車の前に、飛び出したのではなかったか。
この事故のあと、家族は、B子さんに住所を隠すよう指導した責任者として、統一協会久保木修己氏に謝罪を要求する抗議の電話をしている。それに対して統一協会からは「B子さんはビデオセンター所属で、統一協会とは別個の組織、住所を隠したことに統一協会は関知していない」という、しらばっくれた嘘と不誠実極まりない返答が返ってきているという。
Aさんの魂の平安を心から祈りたい。その死を決して無駄にしてはならない。このような不幸を二度と繰り返さないためにも、私達は小さな力を出し合いたい。(谷村教会牧師)
最初にこれを読んだとき、川崎牧師の統一教会への怒りを共有することができたが、何かひっかかるものを感じた。
今回、改めて読み直して、そのときにひっかかったのはゴチックの部分であることに気がついた。
この寄稿文が正しいとすれば、少々アットランダムになるが、事実経過は以下の通りである。
(1)Bさんは86年9月、街頭アンケートをきっかけに統一教会に入信した。87年5月には仕事をやめ、統一教会員たちと共同生活を行うようになった。
(2)Aさんが自殺したのは、娘が仕事をやめてから、つまり統一教会にのめり込むようになってから、わずか5カ月後のことである。
(3)Aさんがいつ頃から谷村教会を訪問するようになったのかは不明だが、87年5月前後以降のことだと思われる。
(4)Aさんが谷村教会に通っていた経路は、自宅の最寄り駅・大船駅?東海道線で品川駅?山手線で新宿駅?中央線で大月駅?富士急行で都留市駅だったと思われる。確かに、片道3時間半はかかる長旅である。
(5)川崎牧師はAさんが日曜礼拝に参加するために谷村教会に通っていたような書き方をしているが、キリスト教会は鎌倉にもあるわけで、わざわざ3時間半もかけて山梨県都留市の教会に通う必然性はない。脱会の相談、信者家族や元信者が集う勉強会に参加するために、通っていたと考えるほうが自然だろう。
(6)「B子さんからは家族に電話や手紙はあるものの、住所を知らぬ家族からB子さんへの連絡は一切できない」というのが事実なら、拉致監禁事件が頻繁に起こるようになったため、所属する組織がその防衛策として住所を明かさないように指導していたと思われる。
ちなみに、12年間監禁されていた後藤徹さんが最初に監禁されたのは87年5月のことである。B子さんがちょうどホームに入ったときである。後藤陳述書によれば、保護(拉致監禁)説得は順番待ちの状態だったという。
こうした事実経過を振り返りながら、どうしても納得できないのは、なぜ自殺しなければならなかったのかということである。
今でもそうだが、子どもの脱会を模索する信者家族はツテをたどり、“救出カウンセラー”の門を叩く。そこで開かれている勉強会に参加し、 「お子さんを脱会させるには保護説得しかない」と教わり、そして「保護(拉致監禁)説得」の機会をうかがう。「ニュース(21)」で紹介したケースは「甥の誕生会をやるので実家に戻ってきて」というものだった。
信者家族は「保護(拉致監禁)説得」が成功して、娘・息子が脱会することを夢見ながら、救出カウンセリングの順番を待つ。
Aさんが自殺しなければならない理由はなかったはずだ。
「私が保護説得をやるようになったのは1985年からだ。私の場合、(マンションではなく)ホテルを利用していた」
これは、川崎牧師が私に語った話である。
Aさんも、川崎牧師の脱会説得を心待ちにすればいいだけのことで、自死する必然性はまったくなかったはずだ。しかも、娘が統一教会にのめり込んでから、まだわずか5カ月である。
川崎牧師は次のように推測する。
<急に「私が死ねば娘は帰ってくるに違いない。私さえ死ねば・・・」という思いに取りつかれ、発車した電車の前に、飛び出したのではなかったか>
しかしながら、この推測には無理なところがある。
もしAさんが「私が死ねば娘は帰ってくる」という思いに取りつかれて自殺したのだとしたら、なぜ、わざわざ鎌倉から3時間半もかけてやってきた都留市駅で自殺しなければなかったのか。
寄稿文によれば、都留警察署の署員が自殺から2時間後に(礼拝終了時間を12時とすれば)、谷村教会を訪問している。川崎牧師は無残な姿の遺体の確認もさせられている。
3時間半の電車の中で、「私が教会のそばで死ねば、川崎先生に迷惑がかかる」ぐらいのことは、Aさんの心によぎったはずだ。
それに、「私が死ねば娘は帰ってくる」と思いつめて自殺したのだとしたら、娘と一緒に暮らしていた鎌倉を死に場所に選ぶのではないか。娘にとって母親が都留市で亡くなったのは理解不能なはずである。私が疑問でならないのはこの点にある。
なぜ、わざわざ3時間半もかけて・・・。
まるで、川崎先生への面当てのような死に方ではないか。
疑問はまだある。
ひとつは、都留警察署はなぜ「教会に行く途中のようでした」と判断したのか、という疑問である。
バッグの中に、谷村教会のパンフでもあったのか。仮に、パンフがあったとしても「教会に行く途中」とは判断できなかったはずだ。
川崎牧師宛の遺書があったから、そのように判断できたのではないか。
そうであれば、パトカーをいきなり教会に横付けしたことも納得がいく。「初老のご婦人が飛び込み自殺をした。バッグに教会のパンフがあったが、心当たりがあるか」と事前に電話で問い合わせることなく。
もうひとつは、なぜ日曜礼拝に参加する前に自殺したのかという疑問である。
「毎日曜日がとてもためになる。絶対に休めない」。母親が真にそう思っていたら、日曜礼拝、勉強会に参加したあとでも良かったのではないか。
寄稿文によれば、母親には焦りがあったという。
焦りが講じて、咄嗟に飛び込み自殺をはかったというのなら、礼拝に参加したあと、脱会した家族と「娘のゆくえさえつかめぬわが身と比較して」、絶望してというのが自然である。
繰り返しになるが、母親は鎌倉の家を朝の6時過ぎに出て、電車を何度も乗り継ぎ、都留市駅に着いたところで、そのまま電車に飛び込んだ。
まるで、谷村教会のそばで死ぬことを決意して、家を出たかのような死への旅路である。
川崎牧師の<急に「私が死ねば娘は帰ってくるに違いない。私さえ死ねば・・・」という思いに取りつかれ、発車した電車の前に、飛び出したのではなかったか>という推測には、どう考えても無理があるのだ。
- [2010/03/13 17:05]
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コメント
勝手なコメントすみません
事実そうであるだろうと思います。
今現在も脱会屋に依頼するご家族がおられ、いまだに監禁事件が発生する状況、何とかしないといけないと強く感じさせられます。
牧師っていう人はそのあたり、(家族に心配をかけるということについて)責任を感じないのでしょうか?
家族に心配をかけさせてそれは信者本人のせいだと、責任転嫁しながらこういう工作を続けているのだなあ、と感じます。わたしは監禁被害者の一人でありますが、あくまで直感的に思った内容でのコメントです。
こわ
続きがあるのがまた怖い・・
私はそんなことはない!と言うと、あなたは知らないだけと言う。所詮、献身していない基準の低い人は統一教会でも重要な事も言わないし、させないから知らないのだろう、とそんな口調でした。その説得者の元で脱会した元献身者で、マザーまでやって、当然霊感商法もやり、朝日新聞に苦情の電話までした人もあなたは知らないだけだ…とそんな口調でした。親は私より父母の会、説得者、元献身者の言葉を信じたわけで、そんなことを信じていたら、おかしくなるのも無理ないです。
どちらも嘘つき
宗教と良心
宗教の様々な教えや戒律は、結局はこの良心の働きを取り戻させるために出来上がったものであると。
その教えや戒律を守る事により、外面的な方面から、良心の作用に従う事になり、それが身に付いていけば、特に教えや戒律は不必要になる。
つまり、宗教は良心回復の為の歩行器の役割のものである・・
というのが私の宗教に対する見解です。
しかしながら、これを認識せずにこの宗教の教えや戒律そのものを、良心と錯覚してしまい、それを良心と取り替えるとき、そこには狂信が生まれます。
そしてそれが進行すると、宗教の教えや戒律が良心ではなく、宗教という外枠が良心に入れ替わります。
私は前に、信仰が深まれば深まるほど、狂信と篤信の境界が狭くなる・・・と書きましたが、それは良心によって生きようとすれば生きようとするほど、その生きる道が、信じる宗教が指し示す方向に近い方向を目指す事になり、知らず知らずに自分の良心と宗教を入れ替えてしまう事が多くなってしまうからです。
宗教の狂信の恐ろしさはそこにあります。
宗教とは歩行器であり、宗教の教えは良心を啓発するためのものであって、けして良心そのものではない・・・これを宗教家は心すべきだと思います。
これを忘れ、宗教を良心の代替物とするとき、良心はどこかに追いやられしまい、宗教者は最悪のパーカーサーになってしまいます。
これは全ての宗教者が気をつけなければならないことだと思います。
私達の二世の問題でもそうでありましょう。
私達は、心を持って生まれてきています。心があってその次に何かがあるのです。心に配慮しない正義にどれほどの価値がありましょう。
子の心に配慮無く、両親の良心ではなく、良心の代替物の宗教を与えられれば、子はそれに反発するでしょう。
子を幸福にするのは、親の良心に基づいた愛情だけです。宗教はその延長線上にあるものでしかない・・・と感じます。
米本さんへ
仮に遺書があったとしても、川崎先生が書かれた内容に沿ったものだったと受け取るのが普通です。
それを『まるで川崎先生への面当て』と邪推する方がおかしいと思います。
川崎先生の記述に対して『~という推測には、どう考えても無理があるのだ。』と書かれていますが、もっとよく考えてください。
『Aさんが自殺しなければならない理由はなかったはずだ。』
『まるで、川崎先生への面当てのような死に方ではないか。』
よくこんなことが書けますね。
面当てという言葉の意味を理解していますか?
【面当て】[憎く思う人の面前で、嫌がらせに意地悪な言動をしてみせること。また、その言動。あてつけ。あてこすり。]
亡くなった方の尊厳を傷つけ御遺族の気持ちを踏みにじる、私怨のために亡くなった方を利用するのはお止めください。
あなたは、亡くなった方の気持ちを忖度する立場の人間ではありません。
ちなみに
幽霊食口さんへ
- [2010/03/14 23:09]
- URL |
- takako.ree
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親の心を人質に取られたような感じです
統一教会の信徒として信仰を持って対すれば、拉致監禁事件を中心として
教義からしても信仰指針としても、こういう人たちは(反対する牧師も家族も)分からないでやっているのだから、と信徒であれば、大変辛いですが怨讐を愛さないといけない立場になりますね。
許さなければ、というべきかもしれませんが。
やはり、本質的な姿勢としてそうでなければならないというのは、統一教会の理想だと思います。
美しいこと言っていますが、我ながら難しいです。ですから私の中で今も闘いは続いています。
罪は罪として裁かれるでしょうけれど。
いま自分で出来ることとして、ただ、「彼らはわからない。」
と理解するしかありません。そう、きっと分からないですね。自白すると、わたしとしても全部はわかっていません、おそらく。
何がわからないか、説明がむずかしいですが、、実に独善的表現と思われそうですが、真実、真理、ということに尽きると思います。
反対牧師に良心があるかないか、
あると思えないですが、なくも無いと思いたいです。
かつて「良心はどんな悪人の中にでもある」と言われた方もいるということで、統一教会信徒に証しをお任せしてみたくなります。
えらそうにすみませんが。(信じていただけるかどうか)私自身は、監禁被害者です。軽症で終わったのでこんな事言っている、という事なのでしょうか。
何かと配慮に欠けていましたら、すみません。
takako.ree さんへ
>が、見事に整理された感じがしま
>す。
そう言って頂けると、私も嬉しく思います。
私は私の子に宗教ではなく、職業でもなく、価値観でもなく、良心を受けつでもらいたいな・・・と思っています。
エイトさんへ
私の「マインドコントロール批判」に対する反論投稿を首を長くしてお待ちしていましたが、いっこうに音沙汰がないので、病気か何かあったのかと心配していました。
投稿を読んで、お元気な様子に安堵いたしました。
その投稿ですが、ブログ記事を創作とされるセンスはいただけません。
なぜなら、私は自殺を報じた記事と自殺の背景を説明された川崎牧師の文章を紹介したうえで、事実経過を整理し、疑問点を提示し、それについての私の感想を述べただけのことです。事実を歪曲して、創り話を書いたわけではありません。
私の疑問は、なぜ、娘さんがホーム生活に入ってまだ5カ月しか経っていないのに、自殺しなければならなかったのか?
なぜ、保護説得による脱会に希望を見出せなかったのか?
なぜ、自宅がある鎌倉でなく、鎌倉から三時間半もかかる都留市駅で飛び込み自殺をしなければならなかったのか?
私が一番疑問に感じるのは、なぜ、川崎牧師に迷惑がかかるような谷村教会そばで自殺したのか?ということです。
「創作」とか「私怨」とか「利用」といったコメントではなく、1人の人が自ら命を絶ったわけですから、その事実を重く受けとめ、なぜ死の道を選んだのか、私の疑問に答えていただけたら、うれしいのですが・・。
婦人公論の締め切りがあって、続報は12日か13日に書く予定でいます。それまでにコメントをいただけたら、幸いです。
Re: 親の心を人質に取られたような感じです
> 上手く書けませんし、何だかズレているような感じもしますけど、お許し下さい。
そんなことないですよ。
ハンドルネームの「両親を返せ」に、万感の想いがこめられていると思いました。
> (信じていただけるかどうか)私自身は、監禁被害者です。軽症で終わったのでこんな事言っている、という事なのでしょうか。
「両親を返せ」さんの、監禁体験をどこかで語ってもらえませんか。あるいは私に直接メールしてもらってもかまいません。よろしくお願いいたします。
恩讐を愛せよ-は崇高な理念ですが、この言葉はときに本質を誤らせることがあると思います。たとえば、侵略され家族を殺された人たちが「恩讐を愛せよ」の精神で、侵略者を許すことがあったとしたら、侵略者は大喜びし、さらに犠牲者は増えるでしょう。
「恩讐を愛せよ」を実行すべきかどうかは、時と場合によると思いますよ。
リンクしている「哀しみの神」のケースでは、「恩讐を愛せよ」の言葉が救いとなっています。
これからも気軽に投稿してください。 お待ちしています。よろしくお願いいたします。
>娘さんがホーム生活に入ってまだ5カ月しか経っていないのに
私が教会の寮生活をはじめたばかりでも自主退会はする人は普通にいたし、教会に何年いても自主退会する人は普通にいますから、そう言われると確かに疑問です。
あと細かい事ですいませんが
恩讐=恩義と、うらみ。情けと、あだ。「―を越えて」
怨讐=うらんでかたきとすること。うらみのあるかたき。おんしゅう。(大辞泉より)
教会内でも間違えて使うことがあるのですが正確には「怨讐」です。
それで意味が正確に通じます。
ちなみに一般的な辞書でも載ってますから、教会内の専門用語でもありません。
謝罪
訂正して、お詫び申し上げます。(赤面です)
幸さん、ご指摘いただき、ありがとうこざいました。
ありがとうございました。
記事内容から離れてしまうかもしれませんが、米本さんのコメントにコメントさせていただきたいと思います。
恩讐 とか 怨讐 とか、私のほうは、はっきり意識せずに使った言葉ですが、すみません、かえって私のほうはあまりこだわっていませんでした。
意識を新たにさせていただきました。
とにかく、この「怨讐を愛せよ」は、確かに時と場合によると思います。
この拉致監禁問題に関しては、気持ちとしてこういう思いを持っていることが大切だと思っています。
無条件に許したり、ごまかしたりして、終わりにする事は相手への愛ではないと、思っています。
特にこの問題では一般社会に影響することなので深い内容だと思います。
今はわたしにとってはただ忍耐が必要ですが(この忍耐が今は相手への愛だと信じたいと思います)時がきたら私なりの次元で闘うつもりです。
また、もし書くことができたら体験談はどこにどうしようかと思っています。まだわかりませんが、、、。
でももしかしたら、適当な所がなければメールをさせていただくかもしれません、よろしくお願いします。
また訂正
叔母さんが亡くなり、その後のバタバタで、少々、時間の感覚が狂っています。注意力も緩慢になっているようです。
(追記)エイトさんへ。「川崎先生」と書かれていることからすると、川崎さんと面識があるような印象を受けます。もしそうなら、川崎さんに電話で私の疑問について聞いてみてもらえませんでしょうか。そうすれば、私の“邪推”的疑問はたちどころに氷解するかもしれませんよ。
この世で償うべき
「なんでも、隠されているもので現われないものは、なく、秘密にされているもので明るみにでないものは、ない」とあります。
10章44節には、
「地獄には、うじがつきず、火も消えることは、ない」と記されていてこの世で清算(償い)がなされなければ霊界では、もっと大変な目にあうとイエスが語っています。悪(罪)には、反省と悔い改めが重要であり、それがあって許しと愛することができるのでは、ないかと思います。
それならば
わざわざブログでシリーズ記事を書くくらいなら。
ヨナさんへ
でも、ヨナさんは拙著を読んでいらっしゃらないと思いました。読んでいれば,「電話して聞けば良い」なんて、投稿されるはずがないからです。
私が他者を批判する場合、他者が書いたもの、そこに書いてある参考文献などはすべて読んだうえで、徹底的に行いたいと思っています。
批評家の仕事は直接取材することはないだろうけど、批評する相手が書いた本とか文章をすべて読み、そこに列挙してある参考文献をすべて読み、それで「批評」を書いているのだと思っています。
頭が下がる思いです。
私が他者を批判する場合も、そのようでありたいと思っています。
これからも、是非、叱責を。
米本さんへ
ここを見ている全員があなたの本を全て読んだわけではないと思いますし、簡単で良いですから理由を教えてくださいませんか?
米本さんは川崎牧師に対して「統一教会本部に乗り越んで直接談判すれば良かったのでは」と書いてますが、
それならば、米本さんも川崎牧師に直接質問すれば良いのではないでしょうか。
倉敷まで行って教会の写真を撮ったり色々してくるほど活動的な米本さんなら簡単なことだと思います。
ヨナさんへ
米本さんの著書をお持ちなら、もう一度読み返してはいかがでしょう?
また、倉敷まで行くなど活動的だから、理由を書くように要求することは、再考された方が良いのではないでしょうか。
はい
理由とか書けないなら書かなくても別に良いですけど、
米本さんが批評する相手の書いたものを全部読んでるというなら、
どうして直接聞かないんだろうと率直に思っただけですよん。
ヨナさんへ
「今後一切取材や連絡には、応じかねます。」と・・
反牧集団は、自分達の不利な情報は、隠蔽したいのでしょう。
都合よく断っているように感じます。
正義と思っているなら堂々と取材に応じるべきなのでは?
幽霊食口さんへ
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