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監禁した側(親)と監禁された側(子)の対話? 

保護説得と親子関係(8)

『我らの不快な隣人』の第?部の主人公は宿谷麻子さん(保護説得によって脱会)。その麻子と母親とのトークショーが「拉致監禁をなくす会」の主催で、昨年の11月15日、渋谷の「フォーラム8」で開かれた。出席者は約60人。

 監禁した側(親)と監禁された側(子)の対話は、おそらく世界でも初めての試みだろう。

 これから数回にわたって、トークショーを掲載する。
 保護説得を体験された信者・元信者のみなさん、また保護説得を実行された信者・元信者のご家族、保護説得を検討していらっしゃる信者のご家族には是非とも目を通していただきたいと願っています。親子それぞれの気持ち・心理がよく理解できるはずです。

最初に、宿谷さん親子の時系列の動き(以下、別表)にざっと目を通してください。対話の意味をより理解できると思います。これは、拙著の第?部を表にしたものです。
 なお、別表は縮小されたPDFファイルですが、画面すぐ上のツールバーの<縮小・拡大>をクリックして大きさを調整することができます。



虚構の祈り

司会それでは今日、勇気を持っておいでくださいました宿谷麻子さんと麻子さんのお母さんを、拍手をもってお迎えください。なお、麻子さんは、拉致監禁をなくす会の役員でもあります。 

初めまして、麻子の母です。よろしくお願いします。何を話していいかわからないですが、いいかげんなことを話すかもしれませんが、宜しくお願いします。

宿谷麻子です。今日は皆様にお集まり頂き本当にありがとうございます。つたない言葉になるかも知れませんが、宜しくお願いします。

司会当初はお母さん、麻子さんのお話をいただければと思ったのですが、お母さんは何分にも昔のことで、だいぶ忘れたということです。それで、皆様から質問を集め、私が変わってお聞きし、米本さんには随時、補足説明をしていただくということで進めていきたいと思います。また出来るだけ時間を取って質問を受けたいと思います。それでは順番にいきたいと思います。まず、お母さんへの質問です。

 麻子さんが入信して以降、お母さんの目から見て、どんな変化があったか、たとえばこういう点で良くなったとか、悪くなったとか、話してください。

私は肉の小売店をやっていました。ところが、世の中が変わって、スーパーとか大きな店が駅前にできて、その影響で店の経営は悪くなる一方でした。どんどん売り上げが落ちていく。その店のことで頭がいっぱいで、、当時の私の精神状態はふつうじゃなかった。だから、麻子の変化にはなにも気付かなかったのです。

 最初に、変化に気がついたのは麻子の妹でした。
 たまたま、昨日(11月14日)のことですが、妹が家に来ていまして、その当時の麻子の変化のことが話題になりました。

「お姉さんが変わっていく、なんかおかしい」
「夜にこそこそと何かをしている、ちょっとおかしい」
「いつものお姉さんではない。なんだか気持ち悪いな」

 と感じたそうです。(別表1992年11月の項参照)

 夜、何をしていたのか。昨日、麻子が話すには「親子関係を良くしようとお祈りしていた」そうです。
 親が嫌いなのに、親子関係を良くしようとお祈りをする。=宿谷家の親子関係は拙著の41?44頁を参照)
「無理矢理お祈りしているのだから、そりゃもうおかしい印象を与えるはずだよ」
 ということになりました。

 妹が麻子の変化に気づいた頃から、麻子は一生懸命、私に対しても「おはようございます」と言ってくるようになったのですが、当時は、先ほども話したように、店のことで、頭がいっぱいで、麻子の変化についてはあまり分からなかった。
 かえって私が、「店の経営をどうしよう」と麻子に相談していたぐらいで、麻子に重荷を負わせていたような感じでした。

 変化の良し悪しの質問がありましたが、良くなったとも、悪くなったとも、どう言ったらいいか分かりません。

司会次は麻子さんに対して質問です。
 麻子さんが入信してから、「嫌いな親を愛するように努力した」と以前におうかがいしたことがありますが、麻子さんにとっては親子関係の点でどのような変化がありましたか。

私は入信する前は会社員だったのですけども、会社員になる前の大学の時から親子関係は断絶していると思っていて、親を親と思っていませんでした。「親はいない」という思いでいました。一緒に住んでいるアパートの同居人ぐらいに思って、暮らしていました。

 そこまで親子関係が悪かったので、朝は食事して、会社に行くときも挨拶もせずに、帰ってきてもただいまも言わずに、ただ自分の部屋に行って、母親とも父親とも会話は全然、有りませんでした。

 それを入信してから、「そんな親子関係は良くない」とアベルに言われまして、信仰の条件として親に毎朝、挨拶するようにと言われました。それで、しようがなく、しぶしぶとではあっても、両親に「行ってきます」と挨拶してから出かけるように、信仰条件を立てました。アベルからの指示なので、しようがないので、取りあえず、いやいや両親に挨拶していました。

最終的には、母親と父親を伝道しなければならないという思いがあったので、しようがなく、良い親子関係を取り持つように努力しました、その為に一生懸命お祈りとか条件とかをしました。=最近はどうかわからないが、子どもが統一教会に入信すると、親や家族にやさしくなる傾向がある)

続く

 

故郷紀行(1)

 お正月に故郷(島根県松江市)に戻ったときに撮った写真を、順次、掲載していきます。クリックすると拡大写真になります。
 写真は松江城です。小学校の高学年から高校までの10年間、よく遊びに行きました。小学校のときは栗採り、中学校のときは肝試しで石垣登り、高校のときはデート散策でした。季節は冬なので寂しそうに見えますが、春は桜が満開で、賑やかです。

 初代藩主は、浜松城主だった堀尾吉晴。その後、京極忠高を経て、1638年に信濃国松本藩の城主だった松平直政(徳川家康の孫)がやってきて(18万6000石で入封)、明治維新まで松平家が代々、藩主を勤めました。第7代藩主だった松平治郷(不昧公)がお茶が大好きだった人で、その影響で松江市域はお茶が盛んになりました。流儀は「不昧(ふまい)流」です。高校には茶道クラブがあったと記憶しています。
 子どもの頃、母の実家に行くと、いつもひいおじいさん(父親は松江城勤務のお侍さん)が抹茶を立ててくれたことも思い出します。
 

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