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親は子どもに謝罪すべきか否か?PTSDについて考える(6) 

保護説得と親子関係(6)

親は子どもに謝罪すべきか否か(6)

 投稿ありがとうございました。いろいろ再認識させられました。このテーマではこの記事が最終回です。 

 これまでの記事を整理すれば、最初に(1)で問題提起を行うとともに、保護説得後の親子関係の状態を紹介し、(2)(3)(4)(5)で、親の保護(拉致監禁)による子どもへの心的外傷(トラウマ、ポストトラウマ)について、詳細に述べた。
 最終回では、問題提起(親は子どもに謝罪すべきか否か)に対する回答を綴ることにする。
 
 たとえば、親からみて子どもが何か悪いことをしていると思ったとき、子どもを注意し、叱る。親として当然の行為である。そのときに子どもが「うっせえな」と反抗的な態度を取れば、親はカッとなる。これも、ごく自然な感情である。

 カッとなり、思わず、そばにあった灰皿を投げつける場合だって、ごく稀にはあるかもしれない。
 それが、運悪く、子どもの眉間にあたり、額が割れ、血が流れる。 

こうした場合、親は子どもを病院に連れて行き、「カッとなって悪かった」と謝罪する。
 もし、謝罪しない親がいたら、私たちにはどんな親に見えるだろうか。

 謝罪しない親を見て、知り合いの誰かがたまりかねて諭す。
「いくら子どもが悪いことをしたからといって、暴力を振るうのは良くない。なにはともあれ、まずは謝るべきだよ」
 これに対して、こんな言葉を口にする親がいたら、私たちにはどう見えるのだろうか。

「確かにカッとなって灰皿をぶつけたのは悪かったが、子どもが悪いことさえしなければ、カッとなることもなかった。原因を作ったのは子どもなんだから、謝る必要はない」


 画像 046

 灰皿をぶつけられてできた外傷も、保護による心的外傷も、同じ外傷である。
 違うのは、外傷は血が流れたりするので外側から見ることができるのに対して、心的外傷は心にできた傷ゆえに見ることができないということだ。

 それゆえ、保護説得を実行した家族は、脱会に成功したにせよ、失敗したにせよ、信者(元信者)が抱える外傷に無頓着、あるいは軽視してしまうのだ。3人の元信者のPTSDのことを書いたルポや拙著を読んでも、自分の子どものこととしては捉えず、どこか他人ごと、あるいは「こんなのたまたまのことだ」「著者がオーバーに書いているだけだ」と思ってしまうのではないか。

 YURIさんからこんな投稿をいただいた。

「私は偽装脱会しましたが(略、監禁下では)、悲しくても泣けず、怒りたくても怒れず感情を出せる場所がありませんでした。逃げてきてからは月に一度は理由も無く悲しくなり、一人になれるお風呂でいつも泣いていました。
 今思えばそうして心のバランスを保とうとしていたんだと思います。監禁時の感情が思い出されると、その思いをコントロールすることが困難になり、怒りにかわっていき、イライラしてきます。沈んでいた火山が動き始めたように」


 私はこれを読んで、YURIさんの心から血が流れていると感じた。

 心の傷は外から見ることができない。それゆえ、子どもの表情や言動の一つ一つを注意深く見るしかないのだ。
 これまで一緒に暮らしていたのに、保護説得による脱会後は同居を好まなくなった。それはなぜなのか。そのことを真剣に考え、関心をもって子どもの言動を観察すれば、心の傷は少しずつ見えてくるはずだ。
 見ようとしなければ、いつまで経っても、見えてはこない。

 外から傷が見えないのは精神科医も心理療法士も同じである。それだからこそ、患者の声に無条件で耳を傾け、会話によって傷の有無と傷の深さを知ろうとする。



 話を問題提起に戻す。
 灰皿をぶつけた親はまずなにはともあれ、子どもに謝罪すべきである。もしそうしなければ、外傷ばかりか心的外傷も生まれ、心の傷は凝固し、場合によってはPTSDになる可能性だってあるだろう。仮に、親子関係が復活したとしても、それは表面的・形式的なもので(親からすれば「子どもはどことなくよそよそしくなった」)、信頼に基づく親子関係は再生しない。

 この考えに異論がなければ、当然、親が子どもを拉致監禁し、心的外傷を与えた場合も同じように、無条件で謝罪すべきなのてある。
 これが私の結論である。

 ところで、謝罪する場合、「これこれこんなことがあって、つい○△してしまった」と理由をつけて謝罪するのが一般的であり、それがなくてただ謝罪されても、すんなり受け入れるのは難しい。
 灰皿の例なら、「カッとなって灰皿をぶつけてしまった。ほんとうに悪いことをした」。それを繰り返し繰り返し話せば、子どもの凝固した心は次第に溶け、親の誠意を感じ取った子どもは「ぼくも反抗的な態度を取って悪かった」と頭を下げるだろう。

 保護説得の場合は、どうか。
 親は「カッとなって」、子どもを拉致監禁したわけではない。実行したのは、一言では言えない理由があったからだ。

 子どもが知りたいのは謝罪の言葉だけでなく、なぜ拉致監禁されなければならなかったのか、その理由である。

?監禁下で脱会説得した牧師とは、いつ頃、どういう経緯で、知り合ったのか。
➁拉致監禁を決意するまでには、どういうことがあったのか。
➂私を脱会させるためには保護説得しかない、と思い込んだのはなぜか。
?拉致監禁の計画はどのようにして練られていったのか。
➄監禁中、私の背後ではどんなことがあったのか。


 こうしたことをすべて明らかにしたうえで、「拉致監禁したことを今ではどう思っているのか」を親は語らなければならない。そのうえで、謝罪すべきなのである。

 それがなければ、いくら謝られても、子どもは納得しない。
 謝罪したのに子どもは納得しない。親はたまりかねて「いつまで保護にこだわっているんだ!」とつい感情的な言葉を口にする。そうなると、親は心から詫びていないのだと子どもは受け取る。

 難しいことを言っているつもりはない。謝罪する場合は、謝罪の理由を説明して謝罪するのが一般的。ごくふつうに行われていることを言っているだけのことである。
 


 蛇足になるが、もう少し「謝罪」について考えておくことにする。拉致監禁されたのは4000人以上。それなのに、親が謝罪したのは数例にとどまる。
 これはどういうわけか。

 アンケート調査でも実施する以外、親の意識はわからないが、圧倒的多くは、保護説得という手法によって、子どもを統一教会から救出した。あるいは統一教会から救出しようとしたにもかかわらず逃げてしまった?といったものだろう。「保護」「救出」という意味不明な言葉に呪縛されている限り、今でもときおり血が滲み出る子どもの心的外傷に気づくことはあり得ないだろう。

 この場合、信頼に基づく親子関係の再生は、残念ながら、永遠にやってこないだろう。不幸な話である。

 少数であるにせよ、保護説得は拉致監禁説得であり、子どもの心を傷つけたと思っている親は存在する。
 子どもには悪いことをしたと思っているのに、どうして、素直に、謝ろうとしないのか。

 それは、「統一教会に入らなければ、あんなこと(拉致監禁)はしなかった」という気持ちがあるからである。この気持ちは相当根強い。実際に口にする親も少なからずいる。

 しかしながら、これは灰皿を投げた親の先の釈明とまるで同じである。
 悪いことをした子どもを叱ったら、反抗的な態度を取った。だから、灰皿を投げつけた。
 灰皿を投げた(拉致監禁した)のは悪かったが、子どもが悪いことさえしなければ(統一教会に入りさえしなければ)、灰皿など投げることはしなかった。
 滑稽なほどに同じなのだ。

 子どもの額を割りながら、子どもに謝罪しない親はまずいない。それなのに、子どもを拉致監禁した親は平気で、「統一教会に入らなければ、あんなこと(拉致監禁)をしなかったんだ」と口にする。

 一般の人から見れば、なんと冷酷でひどい親だと思うだろうし、なかには脳のどこか、愛情部位が欠損しているのではないかとさえ思う人もいるかもしれない。

 だが、そうではないと思う。彼らは宮村峻氏や牧師などにマインドコントロールされている(強い影響を受けている)だけなのである。
 統一教会から子どもを脱会させるには保護説得しかないという刷り込まれた教えから、脱却しない限り、子どもの気持ちを理解することは決してできない。

 それができなければ、信頼に基づいた親子関係の再生は、永遠にやってこないだろう。不幸な話である。

 もう一つ、親側の立場に立って、釈明しておきたい。

 子どもを拉致し監禁下で親子の話し合いをするという保護説得は、親にとってもPTSDになってもおかしくないくらいに苛酷な体験だったということだ(お金も使い、仕事も犠牲にして、監禁部屋に閉じこもった)。そのため、苛酷であればあったほど、そのような体験をさせたのは、子どもが統一教会に入ったからだという思いになり、素直に謝ることができないのである。親子を苛酷な状況下に追い込んだのは、脱会説得者たちだったというのに。

 保護説得を実行した信者家族のみなさんに問いたい。
 みなさんは子どもにこう言ったはずだ。
「統一教会から一度、心を切り離し、自分の頭で考えてみたらどうか」
 監禁下での発言でなければ、全く正しい。

 自分が発した言葉は我に返り。同じように自分に問うべきである。
 私が代わって、問いを発する。
「牧師の言葉は一度、どこかに棚上げして、自分の頭で考えてみたらどうか。なぜ、子どもを拉致し、マンションに監禁したのか」と。

追記

 現役信者である「悩める信者」さんは、こんな感想を抱かれた。
「被害者へのケア―を現場任せにするのではなく、具体的に専門家の対処が必要と思います。このブログを読めば読むほど、被害者ケア―を現場の責任者や家庭部長ができるとは思えません」

 ところで、『臨床精神医学』(2000年10月号)で、池本佳子医師が「宗教からの強制脱会プログラムによりPTSDを呈した?症例」という論文を発表している。
 ここで、池本さんは治療方法として、別掲の『心的外傷と回復』の著者であるハーマンの方法を採用したと書いている。
 ハーマンの治療法は?安全性の確立、?外傷の想起と服喪の追悼、?通常生活との再統合という3段階である。
 この中で、一番重要で時間がかかるのは「?外傷の想起と服喪の追悼」である。その部分を引用しておく。

「通常外傷の記憶は生々しく断片的で、抑圧されて想起不能のことも多いとされている。治療では断片的な記憶をつなげて一連のストーリーとして語らせるように努めた。感覚を切り離した回想はよい結果を生まないので、五感を呼び覚ますようにし、監禁された部屋の描画、感覚の詳細な言語化を促した。
 こうした面接により過去の危険に再度暴露されることになるが、面接は必ず現実の安全の中に話を戻し終了するように努める。苛酷な経験をしたにもかかわらず、現在活動している本人の力を評価し、引き続き支持する確証を与えるようにする。このような特別の支持が、不安定なこの時期を乗り切るために不可欠とされている」 

 難しいことが書かれているように思われるだろうが、簡単に言えば、リラックスできる場所で、信頼できる人に、拉致監禁の体験を、感情を発露させながら、話す?ということである。そして、聴く側は話す側が怒りや悲しみの感情を残したまま終えるのではなく、監禁時の状態から現実に引き戻し、「今日はたくさんしゃべったね。今度またもう一度、同じ話でもいいから、聞かせてね。明日はなんとかがあるから、気分を変えてやろうね」(専門家ではないから適切かどうかわからないが)といったように終われればいいのだと思う。

 要点は、感情を発露させながら(監禁中は感情を殺していた)、繰り返し繰り返し、同じ話を聴くことにあるのだと思う。
 決して難しいことではない。現場の責任者や家庭部長(どういう立場、地位の人かはわからないが)だって、できることだ。ただ、信仰的な解釈を交えずに、またアホみたいに「恩讐の彼方を愛せよ」「親を許すべきだ」といった薄っぺらな言葉を吐かずに、ひたすら耳を傾ければいいだけの話である。
 それができなければ、もはや、信仰者の名に値しない。



 6回にわたる長文を熟読していただき、ありがとうございました。これで終わります。異論・反論・同論があれば、ぜひ、投稿してください。
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コメント

実際に拉致監禁を体験しなければ当事者にしか理解できない苦しみや葛藤があることが分かりました。中立の立場で解り易くいつも参考になり感謝です。今日、「我らの不快な隣人」が届く予定なので拝読します。ありがとうございました。ネームを変更します。

被害者ケアー

米本様

被害者ケアーの事、丁寧にお応えいただきありがとうございました。
現場での被害者ケアーが思うように進んでない現状に、他力本願的になっていました。
拉致監禁被害者ケアーにかかわらず、統一教会員は他人の心を癒すということがあまり得意でないようです。
信仰者失格のご指摘、甘んじて受け入れ努力していきたいと思います。

むあー。
読んでいて、いまだに謝罪しようとしない親と兄弟、そして謝罪を求めると起こすであろう反応を思い浮かべて、むちゃくちゃ暴力をふるいたい思いがムラムラと湧いてきました。
……泣きながら殴れば、伝わるんでしょうか? 伝わるまで、泣いて殴りつづければ、少なくとも事の重大さぐらいは伝わるんでしょうか? ……我慢している(伝わらないと悟って諦める)より、むしろその方が、よほど健康的に思えます。。。

体験者よりさんへ

「体験者より」さんの胸の内がよくわかりました。さぞ、苦しいことだと思います。

 感情の発露はとても大切ですが、いきなり親や兄弟に、泣きながらにしても、暴力をふるっても、理解されないのではないでしょうか。

 このブログ(保護説得と親子関係①~⑥)は、保護説得した親・兄弟に読んでもらうことを主眼にしたものです。
 このブログをプリントアウトし、それに「体験者より」さんの胸の内を綴った手紙を添えて、ご両親や兄弟、親戚の方に送るのも一つの手だと思います。

 手紙に、自分の心を正直にぶつけるのは、感情の発露につながります。

 もし、関東にお住まいなら、「拉致監禁をなくす会」主催の「拉致監禁被害者の集い」(被害者という言葉に会員から疑義が出されており、近く集いのネーミングは変更されると思う)に参加され、そこで、自分の気持ちを同じ体験者にぶつけられたら、どうでしょうか。
http://rachi.info/article/135463005.html
 安全な場所で、信頼できる人(この場合、同じ体験者)に、自分の過去と当時の感情と今の感情を語ることは、精神の健康にとってプラスになると確信しています。 

感情を解放する技術

こんなことを書くとお気を悪くされるかもしれませんが、
この内容をお知らせしようと考えるようになったのは、
やはり、SBSの番組でお顔を拝見させていただいて、
米本様に対するイメージがかわったためでしょうね。

やさしいオーラを発していらっしゃる方でしたのね。
私の感性が鈍いのか、読解力がないのか、
残念なことに、文章からでは感じられませんでした。


さて、この項目でいいのかよくわかりませんが、
PTSD・トラウマの苦しみでお悩みの皆さま、
EFTを試みてみられることをお勧めします。
(Emotional Freedom Technique)

EFT-japanのHP
http://www.eft-japan.com/nani.html
http://eft-japan.com/question.html
http://eft-japan.com/free.html

HPから得られる無料の情報だけでも効果を感じられると思いますが、
本を買われるなら、スーザン・J・ブーセンの
「EFTタッピングセラピー おとなが子どもにできること」
がお勧めです。

EFT-japanでの手順と違う部分があるのですが、
信仰に関する問題ゆえでしょうか、この手順がいいのだと感じました。

もちろん、深刻な問題について本格的にされる場合は、
セミナーを受講されて、安全にEFTを行うテクニックを
きちんと学ばれるのが一番いいと思います。



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