全国弁連に所属する弁護士の人権感覚
「渡辺博弁護士の秘密めいた手紙(7)」
渡辺博弁護士の人権感覚
これまで6回にわたって、田中さんの「拉致監禁をなくす会」での訴え、渡辺博弁護士の手紙、田中さんが第二東京弁護士会に提出した懲戒請求書、私の意見書を紹介してきた。
このカテゴリー「渡辺博弁護士の秘密めいた手紙」を終えるにあたって、意見書では書けなかった弁護士の人権感覚、またコメント投稿にあった警察のことについて、2回に分けて述べておく。
渡辺氏の手紙の狙いは、懲戒請求書や意見書で述べたように、田中さんの両親を日本基督教団の牧師に紹介し、子どもを保護説得に誘う(いざなう)ことにあったと思う。
おそらく、渡辺氏は第二東京弁護士会の綱紀委員会で、日本基督教団の牧師が保護(拉致監禁)説得をしていた事実はない、もしくは知らないと抗弁するだろう。
拉致監禁の非道さを最初に訴えたのは今利理絵さんだった。横浜地裁、東京高裁は、辞書的な意味での拉致監禁は認めたが、法的な意味での拉致監禁は否定した。(最高裁は、明文化されていないものの両親が拉致監禁した事実を認定し、両親と和解するように勧告した)
しかし、被告の現行田教会の牧師、清水与志雄氏が信者を監禁下で説得していた事実を、渡辺弁護士は知っていた。それだからこそ、裁判で不利になるような証拠を提出しなかったのだ。
また、同じ被告代理人の紀藤正樹弁護士も知っていた。「弁護士山口氏のコラムを評す」で述べたので、再読して欲しい。
前述の「コラムを評す」で書いた事実、またたくさんの事例は別にしても、手紙そのものに論理矛盾がある。「意見書(3)」でも述べたが、手紙によれば
「両親が田中さんを問い詰めたら、ますます統一教会にのめりこませることになる」
ならば、「当職」に両親が相談し、当職すなわち渡辺弁護士が「田中さんを問い詰めたら、ますます統一教会にのめりこませる」ことにならないのか。
渡辺弁護士が田中さんの両親に日本基督教団の牧師を紹介した場合、牧師は当然、「田中さんを問い詰める」。その場合、「ますます統一教会にのめりこませる」ことはならないのか。
繰り返しになるが、両親ではなく、田中さんが知らない牧師が問い詰めた場合、どうして、「ますます統一教会にのめりこませる」ことにならないのか。これは絶対的矛盾である。
考えられるのは、ただひとつ。
それは、田中さんを逃げられないようにして説得するからである。
渡辺氏はこの絶対矛盾をどう釈明するのだろうか・・・。
そもそも、手紙を送った理由について、綱紀委員会にどう説明するのだろうか。
おそらく、献金等の返還請求の相談にやってきた1人の元信者から頼まれたからだ、と釈明するだろう。しかし、手紙を送ったのは、判明しているだけでも7人の信者家族に対してである。田中さんの家族だけではないのだ。
7人が所属する組織は別々であるため、1人の元信者が7人の現役信者を“救出”して欲しいと頼んだということはあり得ない。
このことから類推できるのは、渡辺弁護士は意図的・意識的に手紙作戦をやっていたということだ。
すなわち、返還等請求の相談にやってきた元信者に、「救い出したい人はいないか」と水を向け、それに応じて具体的な信者の名前をあげると、親や夫の住所を調べ、そこに手紙を送る。
このことを、弁護士倫理の次元とは別に、弁護士の人権感覚という視点からみれば、どうなるのだろうか。
反統一教会側は、教会員を「搾取の軛」から解放したいと願っている。統一教会がつぶれれば、教会員は解放されると思っている。
そうした人たちからすれば、統一教会と闘う全国弁連に所属する弁護士たちは、人権感覚に富んだ正義の人たちということになる。
世間からしても(マスメディアも)、弁護士を含め反統一教会の人たちは人権を尊重する集団のように見えているだろう。それを全く否定するつもりはないが、反統一教会には「量としての人権感覚」はあっても、「個としての人権感覚」はゼロに等しいということだ。
どういうことか。
保護(拉致監禁)説得は、毒性の強い抗ガン剤と同じように、強烈な副作用をともなう危険な脱会方法である。医療訴訟になったイレッサのみならず、抗ガン剤の副作用で命を落としている人は少なくない。
弁護士、牧師,学者など反統一教会の人たちは、保護説得によってひとりの教会員が脱会すれば、メデタシメデタシで終わる。「量としての人権感覚」(統一教会の弱体化)は満たされるだろうが、そのあとのことは知らん顔だ。危険な副作用のことには気にもとめない。多少その後のことが気にかかるような良心的な人でも、「時間が経過すれば、拉致監禁の傷は癒えるだろう」といった程度である。
保護説得の本質的な特徴は、親が子どもを拉致監禁することにある。拉致監禁したあとに見知らぬ牧師が説得にくるが、それは本質的な問題ではない。赤の他人ではなく、「赤の他人(たとえば誘拐犯)に監禁された場合、救出に奔走してくれる」と信じている当の親が拉致監禁するのだから、凍りつくような恐怖心と屈辱感を抱くのである。
ある親は「統一教会が喧伝する反牧に監禁下で説得されるのが、恐怖なのだろう」と考えているが、それより、その前段の親による拉致監禁こそが最大の問題なのだ。
このことは保護説得によって脱会した元信者であろうが、監禁場所から脱出した現役信者であろうが、関係のないことである。
それだからこそ、拉致監禁問題は統一、反統一、統一批判派といった立場とは関係なく解決されなければならないと痛切に思っている。
反カルトライターと評されているという私が、強烈な副作用をともなう危険な脱会方法のことを取り上げると、統一教会擁護ライターになったという人もいるようだけど、それはあまりにも単細胞で、皮相的な見方としか言いようがない。
彼らは、統一教会員はとにもかくにも脱会させればいいのであって(「量としての人権感覚)、脱会者がその後どうなろうと関係ない(「個としての人権感覚」はゼロ)、統一教会からの脱会を妨げるようなことを主張するのは統一教会の味方、あるいは統一教会側に寝返った以外に考えられない?という白か黒かの立場なのだ。
さもしいという言葉と同時に、目的(革命、脱会、集団の利益)のためには手段(暴力、個人の犠牲)を選ばないといった全体主義を想起させる。
渡辺博弁護士は、今利理絵さんが訴えた裁判で、彼女の悲痛な訴えを直接耳にしている。
また、 ルポと『我らの不快な隣人』を読み、拉致監禁説得がPTSD(心の外傷がその後も心身の症状となって表れる精神疾患)を生む危険な脱会方法であり、また監禁説得後に親子関係が悪化することも知った。
そもそも、親子関係の悪化はマインドコントロール論者である静岡県立大学の西田公昭准教授が『マインド・コントロールとは何か』(95年刊)で明記している。『我らの不快な隣人』から10数年前に出た本である。
つまり、渡辺氏は最悪の事態になる可能性があることを認識した上で、手紙を送っているのである。
それが手紙の最大の問題点なのだ。
具体的に考えてみよう。田中さんが保護説得によって見事脱会したものの、数カ月後にPTSDが発症し、まともな社会生活が送れなくなる。あるいは、田中さんと兄弟姉妹、田中さんと親との関係が、修復できないほどに悪化する。
こうした場合、渡辺氏には牧師を紹介した「紹介責任」が発生する。しかし、その責任を取ることができるのだろうか。
田中さんが脱会すれば、田中さんの知り合いの元信者からの依頼は完了。脱会後、田中さんが統一教会に献金等返還請求の意向を示した場合、代理人となって交渉し、返還を勝ち取り、そこから成功報酬をもらって、弁護士のお仕事は終わり。自分が手紙を送った田中さんの娘さんがどうなろうと関係ないのである。
これが、彼の人権感覚なのだと思う。
では、監禁下で説得した牧師は責任を取るのだろうか。
ルポで、また『我らの不快な隣人』で、宿谷麻子さん、高須美佐さん、中島裕美さんの3人の脱会者たちが、重度のPTSDにかかっていることを明らかにした。
それらを読んで、宿谷さん、高須さんの脱会説得に関わった戸塚教会の黒鳥栄牧師と元大田八幡教会の清水与志雄牧師?現行田教会の牧師(いずれも日本基督教団所属)は、健康を心配して、声をかけたことが一度としてあっただろうか。
そもそも、黒鳥氏は宿谷さんが戸塚教会のすぐそばのアパートで重度のアトピーで苦しんでいるとき、アパートに顔を出し、ねぎらいの言葉をかけたことは一度としてなかった。いやそれよりも、宿谷さんは黒鳥氏が斡旋したアパートに、96年から約10年間、閉じ籠もり状態だったにもかかわらず、一度として見舞ったことがないのだ。
10年間にただの一度も! 教会からアパートまでは歩いて5分の近さ!!だというのに・・・。
小諸市の「いのちの家」で脱会説得を行っている日本基督教団の川崎経子牧師(元谷村教会の牧師)も然りである。
彼女は、かつて、宿谷麻子さんや中島裕美さんと一緒に過ごしたことがある。食事も共にしている。
その2人の元信者が苦しんでいることを私のルポで知ったはずなのに、川崎氏から送られてきた抗議の葉書には、彼女たちを気遣うような言葉は一行もなかった。葉書への返信で、そのことを指摘したところ、「もうあなたとはやりとりしない」で終わりだった。
現役信者である「悩める信者」さんは「意見書(2)のコメント欄で、「統一教会に愛がない」として、「私たち自身の在り方を変えなければならない」と述べられた。とても、誠実な態度だと思った。
統一教会に愛がないのなら、教会の日曜礼拝で愛を説く清水氏や黒鳥氏、川崎氏はどうなのか。彼らにはキリストの愛どころか、人間性そのものが欠落しているとしか思えない。大脳新皮質の感情分野(脳内化学物質の放出量)が変容してしまったのではないかとさえ思えてくる。
俗な言い方をすれば、この3人の牧師はどうかしているのだ。
はたして、この3人だけなのか。
『我らの不快な隣人』で、12年間監禁されていた後藤徹さんのことを書き、またこのブログで彼の陳述書を掲載した。しかし、弁護士、学者、牧師など反統一教会の人たちからはいまだ寂として声なし、である。都合が悪いことが起きると、口を拭ってしまう。
せいぜい、「宮村峻(後藤さんを監禁下で説得した一匹狼の脱会請負人)のやり方は、乱暴すぎる」といった感想か噂として伝わってくるだけ。12年間も監禁されていた後藤さんそのものを思いやるような言葉はまるで伝わってこない。
渡辺弁護士をはじめとする反統一教会・保護説得肯定派には「量としての人権感覚」はあっても、ひとりひとりのことを大切にしたいとする「個としての人権感覚」(人権思想の根源)はゼロということなのだ。
(追記)日本基督教団のみなさま!
1941年に発足した日本基督教団に所属する教会は1700あると聞いています。教団全体として統一教会問題に取り組む体制が整えられているようですが、統一教会の信者の保護説得に携わっている牧師はごく少数(最盛期で200人、現在は推定で数人)で、保護説得に批判的な牧師も多いと聞いています。
渡辺弁護士の保護説得に誘う(いざなう)ような手紙に、日本基督教団の名前が使われています。
素直に読めば、日本基督教団が全体として保護説得、監禁下での説得に取り組んでいるように思えます。
どのように思われるのでしょうか。
そのような印象を受けるのは、教団が保護説得に対する態度を公的に明らかにしていないからです。教団全体では無理だとしても、教区あるいは旧教派、教会単位で、態度を明らかにされることを切望する次第です。
反統一教会に加えて反保護説得の旗をかかげる人たちが誕生することを期待しています。
自由な環境下ではなく、監禁下のみでの脱会説得を得意としているわが神戸真教会の高澤守牧師は、相変わらず、H君とN君の脱会説得を続けているようです。さらなる抗議の葉書を送っていただけることを期待しています。統一、反統一に限らず、H君やN君の精神状態を心配される方であれば、どういう立場の人であれ、関係ありません。
私のここ数年の問題意識は「不作為」です。知らなければその責任を問われることがないけど、知ってしまった以上、なにもしないことは「不作為」であり、そのことがいつも気になっています。葉書を出したからといって2人が解放されるとは思ってはいませんが、葉書を出さないより出したほうがはるかにいいにきまっています。
- [2009/11/01 16:24]
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コメント
要するに仕事か
弁護士法で業務広告など禁じられているとのこと、前回の記事で読みました。仕事のためにあらゆる種類の被害者を発掘するためには「人権」を理由にした大義名分を唱えて、訴訟ネタを探さないといけないことになりますが、そのことが大袈裟だったり、事実と食い違ったり、人を必要以上に不安にさせたりして、自然退会する人がほとんどのところを費用もかなりかかり、しかも人権侵害明白な拉致監禁を結果的に行うところまで誘導するなら、ためにする行為と考えざるを得ません。
2008年11月と言えばあの金融危機勃発で企業は軒並み赤字転落、世の中は大不況に突入して今もなお厳しい不景気です。そんな事情がもしも「手紙」や最近また増えてきたという拉致監禁と無関係でなかったら、これもまた深刻な問題と思います。
一部の牧師であっても教団の名前が使われているのですから。
声を上げて立ち上がれ
弁護士もいろいろ
同じ司法試験に合格しても、裁判官や検事に誘われなかった方々は、平弁護士といって良いだろう。
人権についても、中学生レベルなのではないかと疑ってしまうほどに、お粗末だ。
繰り返すが、保護説得が合法的であるのなら、なぜ横浜裁判であれだけ「保護」したということすら、否認したのか理解に苦しむ。
保護説得が本当に統一教会員を救う唯一の方法なら、正々堂々と裁判官に訴えれば良いではないか。
本当に、貴職らは、確信犯であり偽善者であると私は断言する。
日本基督教団の方々へ
それは信仰者というのは、信仰が深まれば深まるほど、篤信と狂信の境目が狭くなるという事です。
これは特に一神教の特徴です。
自分の正しさばかりに目を奪われ、それを絶対的な正として人に押し付ける事が歴史上、そして今も行なわれ続けています。
だから、一神教を信じない人達からその不寛容さをしばしば批判されます。
また、この不寛容さ故に歴史的にも、現在の世界でも多くの不幸な事件が起こっており、多くの血が流れてきました。
また、聖書には次のような事が書かれてあります。
有名な御霊の九つの実です。
新約聖書 ガラテヤ人への手紙 5章22節~23節
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない』
日本基督教団の方々は、是非とも、この歴史上と現代の事実と聖書のこの御言葉をもって、この拉致監禁の事実を見据えて頂きたいと思います。
拉致監禁実行者の方と拉致監禁被害者の方の心の中に果たしてこの九つの実が結ぶのでしょうか?
愛ではなく憎しみ、
喜びではなく苦しみ、
平和ではなく闘争、
寛容ではなく不寛容、
慈愛ではなく弾圧、
善意ではなく悪意、
忠実ではなく裏切り、
柔和ではなく依怙地、
自制ではなく衝動、
を植え付けては居ないでしょうか?
それも、最も近しい親族同士にです。
拉致監禁を経験した方のブログを是非お読み下さい。
果たして、御霊の九つの実を結んでいるかどうかを確かめてください。
統一教会が異端だとしても、打ち破らなければならない敵だとしても、この方法が正しいのでしょうか?
私には到底そうとは思えません。
どうか、神に向けた目で、人に目を向けてください。
神は拉致監禁の被害で苦しむ人の姿を善しとされるのか?
神は拉致監禁の罪を犯す人の姿を善しとされるのか?
神は一体人に何を望み、何を与えようとしているのか?
ということをお考えになり、何がなすべきことかお考え下さるようにお願い致します。
至言ですね。
幽霊食口さんの「信仰者というのは、信仰が深まれば深まるほど、篤信と狂信の境目が狭くなる」という指摘は、炯眼だと思います。
私が10年前から感じていた「反カルトのカルト性」にも通じるところがあります。いずれ、このテーマで一論を書くつもりですが、そのときの参考に使わせてください。
保護説得を肯定する人たちからの、しっかりとした投稿を期待しております。けっこうきちんとした文章を書いていらっしゃっていた一ファンさんからの反論投稿がこないのは寂しい・・
>炯眼だと思います。
ありがとうございます。私はどこでも異分子である事からこそ、持てた考えなのかもしれません。
しかし、今回は日本基督教団の方々へ呼びかけていますが、本当はこの事は統一教会の食口の方達に、特に気を付けて頂きたいと思っています。
霊石等販売、所謂、霊感商法の問題も、結局このことが底流にあって発生してきたのですから。
”今は、判らなくても最後には感謝される”と、自分の正しさを有無を言わせず、暴力ではなく、販売法によって人に押し付けたのが本質であり、
その意味で、拉致監禁も霊感商法も同じ要因で発生してきたと感じます。
>「反カルトのカルト性」にも通じる
>ところがあります。
>このテーマで一論を書くつもりです
>が、そのときの参考に使わせてくだ
>さい
楽しみにしています。どうぞ使ってください(笑)。
佐倉哲エッセイ集から
殺せ!と神が命じるとき
オウムは人を殺し
統一教会はつぼを売り
日本基督教団の一部の牧師は拉致監禁に手を染める
すべて「信仰」の名の下に。
元クリスチャンの佐倉さんが信仰を辞める時に考察したあれこれ。サイトの内容は大量にあります。
一時期、私にはとても必要な読みものでした。
必読でしょう。
>すべて「信仰」の名の下に。
信仰者は、特にこれに気をつけなければならないと思います。
自分がやっている事が絶対正だとして、他の人に不利益を与える言動、行動をしだしたら要注意だと思います。
それはやがて狂気に至ります。
正しさは愛の中にあって、正しさの中に愛があるのではないと、
そう思います。
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