愛がまるでない星から2つの愛なき星が生まれた。
露わになってきた統一教会(家庭連合)の真実(29)
隣人に無関心なのは家庭連合だけではない。
「信仰仲間に一切関心を示めさない奇妙な団体」の続きである。
リアルな投稿だった。
口では兄弟姉妹、助けあってと言うけれど、仲良くすれば横的と叱責され、教会に参加するメンバーが減ってくればまた、もっとお互いに関心を持ってとか?電話をしてくる時は献金のお願い。結局はただのゼニクレイジー。今教会に来ているメンバーだって他人の事など気にする余裕などない。まあ、この現状が今までやってきた結果です。 当然と言えば当然。(みずすまし )
”教会に愛はない!” という言葉は 教会員なら一度は耳にした言葉ではないでしょうか?実際愛はありません。
これは、現役も元も皆認めていることだと思います。
昔、現役の頃、同じ教会の姉妹とこのことについて話し合ったことがありますが、結論は皆自分の心にも家庭にも余裕がないんだよね~。で終わったことを記憶しています。
私が教会を離れたら後、一切誰からも連絡がありません。20年間も同じ韓国の教会で苦労をともにしてきたにもかかわらず、、、
そんなもんだったんだと今更ながら思いますけど、、、(後略)
(misan)
続きを書こうと思ったのは、この記事を読んだからである。
●「人生再創造路程」
●「澤田地平さんの痛みは私の痛み」
●https://funrepo.com/sawadasannoitami
いい記事だと思うのだが、最後の文に異和感を覚えた。
「澤田さんが傷つけられた姿を見て、ほとんどの食口は「自分が傷つけられた」かのように心を痛めた事でしょう」
ブログ村を見る限り、ほとんどの食口は「自分が傷つけられた」かのように心を痛めた事」はない!
いや、家庭連合だけではない。文3派も同じ。より深刻なのは、澤田氏が所属するサンクチュアリ教会であろう。
澤田氏が暴力のことを紹介した記事(http://shimpankaihiproject.blog.fc2.com/)のコメント欄を読んでいただきたい。
澤田氏は「いろいろとご心配下さる方がいて、大変ありがたく思います」と謝辞を述べているが、心配している仲間は数人レベル。サ教ブログで、記事に取り上げたのは2つだったか。江利川元統一会長をヘッドに抱える多数派「日本サンクチュアリ協会」からの反応はゼロであった。
澤田氏らの抗議活動に批判的なサ教信者が多いことは事実だが、いくら意見が違っても、暴行を受けた仲間を労わろうとするのが“人間界”である。
あれと同じである。
仲間が拉致監禁されたと聞いても、何も感じない感受性。
シック仲間・アベルが相手にしてくれないので、非教会員の私に相談してくる有り様だ。結果、有田ら反統一は私のことを統一の仲間だとみなす。(だから、カルトも反カルトも同じだと繰り返し述べてきた)
家庭連合(統一教会)には愛がない。その通り!
同じように、家庭平和協会にもサンクチュアリ教会にも愛がない。
どうして?
家庭連合から分裂してできた家庭平和協会、サンクチュアリ教会。何らかの路線をめぐって分裂した訳ではない。後継者争いの結果でしかない。したがって、愛が欠落した遺伝子は同一なのだ。嗚呼、ア-ジュである。
ちんたら息子の母親介護日記「老老介護のシンプルな真実」
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コメント
タイトル忘れました
教育する所ですから…
この牧会者は当地域に赴任する前にある地域で地区長までして、何億だったか?地区の借金を減らし(教会の負債のことですから、…個人の負債のことではありませんね)教会としては実績を上げて居た人だそうですが、その人が日曜礼拝で語った言葉です。
20歳前からビデオセンターに通い50歳過ぎる迄現役を続けましたが、私にとってはこの方の様々な言動が、教会に見切りをつける決め手となりました。
有難いと言えば、有難い人です。
“教会を辞めたらこの世の終わり”の如く強烈な妄想に囚われていましたが、何の事はない、平穏な日々です。
献金も伝道もしない、奉仕もしない元シックには、用事もないので音信も不通です。
普通なら人間不信を招きかねないレベルのシャットアウトかな?
お陰様で、鍛えられてるので平気です。
あ、スーパーで出会うご近所シックとは挨拶してます(私から話しかけてるのかな?)が、天気の話で終わります。
辞めた人とは関わるな、とか、現役時代に聞いた様な気がします。
そんなところかも。
井の中の蛙でしたね。
世の中に役立つ事をやってたつもりでしたが、献金の行先も辿ってみると害にしかなってないような?
モノは考えようとは言いますが、やめて良かったですね。
家庭を築く動機、中心を失う事でもありましたが(マッチング家庭)私の場合は夫を見つめ、人生に責任を持っていく契機となった様に思えます。
「天宙に責任を持つ」「日本の命運がかかっている」なんて、ほざいて活動してましたが…。
ただ、ただ、愚かでした。
それが、事実の様です。
愛のない星の住人は反省しない
本来誰もが「自分のこと」として猛省すべきご指摘のはずですが・・・
オズの魔法使いさんが書かれたように、牧会者は公の場で自己正当化します。
「愛がないから堕落性を脱ぐ訓練になるのだ」とか、「愛されたいとか求めている時点で信仰が幼い」等々・・・
それを繰り返し聞かされる食口は、「ああ、『愛がない』よりも『批判する』方が悪いことなのだな」と学習するようです。
「批判しない」でおけば、「愛がなくとも構わない」というのは、ちょっと違う気もするのですが。
関連記事かな、と思われた以下のブログも、ちょっと何言ってるか分かんないです。
何処にも愛がな~い。
https://ameblo.jp/amanohiboko/entry-12451661128.html
米本さんに感じた真の愛
https://funrepo.com/yonemotosan-truelove
引用記事を読んで、「発達障害」という言葉が思い浮かびました。
誰かが憤りを感じているのに、その気持ちが理解できずに脳内変換してしまう・・・
そのように感じてしまうのは、職場でその手の部下に手を焼いているからです。
本人の中では首尾一貫した人生観が完成して、充実した毎日を過ごしておられるようなのですが、周囲に迷惑を掛けている自覚がありません。
頑なに居直るスタンスは最強であり、最後は干渉するこちらが悪いことにされてしまいます。
更にやりたい放題の癖して、自分のことを悪く言われることを病的に嫌がるのです。
ここまで書いて、ブログ村常連の何人かもまた、そうではないかという気がしてきました。
発達障害は罪ではありませんが、関わるときは相応の覚悟が必要です。
妄想と義務に支配された依存者集団
‘善きサマリア人’さんも指摘されていますが、米本さんが「家庭連合(統一教会)には愛がない。その通り!同じように、家庭平和協会にもサンクチュアリ教会にも愛がない。」と書かれたことに対して統一教会系信者はその真意を理解することができないようです。
もっとも、日本ブログ村に登録しているブロガーなどは文章の読解力さえ人並み以下の人が多いですから、ブログに「ちょっと何言ってるか分かんない」ような馬鹿なことを書いたとしても不思議ではありません。
米本さんが「愛がない」と書いたのは「暴行を受けた仲間を労わろうとする」ことをしない感情的欠陥、「仲間が拉致監禁されたと聞いても、何も感じない感受性」に対して指摘したのであり、統一信者が考えるような妄想の「愛」について述べたわけではないのです。
しかし、一般の良心家が当たり前の道徳としてもっている隣人愛さえ持っていない統一教会系信者は そのような米本さんの指摘を理解できず、教義で教えられたような漠然とした意味の「愛」について述べるようなトンチンカンをしでかすのです。
統一教会系信者については‘善きサマリア人’さんのような道徳心をもったまともな人もいれば、コメントで指摘を受けたような人並み以下の知能、道徳観しかもたない「幼稚思考」の信者がいることも事実であり、現在はどちらかと言えば「幼稚思考」の信者の方が圧倒的に多いような印象です。
統一教会系信者がそのような「幼稚思考」に陥りやすいのは以前のコメントで何度か述べたように非科学的な「堕落論」がその頭を蝕んでいるからであり、「堕落論」を教義どおりに信じてしまうと、一般的な人間は血統的に堕落した人間となってしまい、自分自身の本性的な感受性にさえ背を向けるようになり、良心も失うようになるのです。
馬鹿な統一信者は「愛の主体者にならないといけない」などと意味不明のことを言ったりしますが、そもそも「愛」とは人間の相対関係において対象となる人間がそのように感じられた時に「愛」となるのであって、「愛」の行為者は普通「愛の主体者」など意識することはありません。
人が対象となる人に関心を持ち、その対象に肯定的で積極的な関りを持てばそれが「愛」となるのであって、自分の頭の中だけで「愛」など考えたとしても何の意味もないのです。
しかし、知的に退化している統一信者は思考方法が依存的で、宗教的な義務感に支配されているため、「~ねばならない」表現を使いやすく、言葉の意味も分からず「愛」について述べるため、「愛の主体者にならないといけない」などと、馬鹿の極致の言葉を発することになるのです。
そして、そのような「幼稚思考」の信者は実際には当たり前の道徳的行為も行えない場合が多いのです。
また「幼稚思考」に閉ざされた統一信者は「神に対して」という言葉や「原理的」という言葉も多用しますが、それに関しても言葉の意味さえ分からず、用語を間違って使っており、おおよそ哲学的なことなど語れるはずがありません。
発達した一神教の信者であれば「神」は無形で、対象として認識できないというのは普通にわかることであり、「神に対して~」などと述べる人間はあきらかに妄想に支配された「カルト」宗教信者であるのです。
因みに神秘学で考える「神」とは人間の心の深層にある魂の世界において初めてその存在を感じ取るとることができる存在であり、人間の知性でその全てを捉え切ることはできず、したがって「神に対し」などと対象化して述べることはできないのです。
それは宇宙の法則についても言えることであり、「宇宙、全ての存在の根本的で普遍的な法則」=「原理」は人間に簡単に理解できるようなものではなく、間違いだらけの「統一原理」などは問題外であり、「原理的」などを平気で使う統一信者は言葉さえまともに使えない低能者ということなのです。
統一教会系信者はやたらと「真の愛」「父母の愛」を言葉にすることが多いので、米本さんもそれにつられて「愛がない」の表現を使ったのだと思いますが、読解力もなく、倫理的な用語もまともに使えない「幼稚思考」の信者には理解してもらえず、大変残念ではあります。
「愛の主体者にならないといけない」という言葉を使う信者がいることからもわかるように、そもそも統一教会系信者は「愛」についてまったく無知、無感性なのであり、統一教会=家庭連合は道徳的な宗教団体となり得ようがないのです。
その意味不明の言葉からわかるように、統一教会系信者の多くは妄想と義務に支配された者達であり、統一教会系団体は妄想と義務に支配された依存者集団と言えます。
家庭連合は愛と救いの心情にあふれている
一般の信徒にはそれほどでもないが、責任者とか婦人部長には救いの心情がとめどもなく溢れ出している。
救いの心情は同時に真の愛でもある。
地獄にいる世の中の人を救うことに気が狂っているのだ。
もちろん内部の信徒にも愛と救いの心情は向かう。
救いの程度はその人の献金額に相当する。献金額をその人の総資産と収入などで割るとどの程度救われたかが図れたりする。
もちろん全財産を捧げさせたりさせると完全な救いは完成する。
責任者たちや婦人部長は喜び、「これであの人は救われる。愛を投入した成果だ」
と自画自賛する。
一方、全財産を捧げた人は「完全に救われた! これも神様が愛してくれたおかげだ」と感謝してくれたら、双方めでたしめでたしという事になるだろう。
信徒が一文無しになったら救いは完成するのでもうその人に用はない。
双方が満足出来たら申し分ない。
家庭連合が救いの心情に溢れて愛の空気が充満しているので、おいらはあまりに息苦しくてもう相当長いこと足を踏み入れられない。
救いの心情と愛が充満していて今にも爆発しそうなので、普通は余り近づきたくないのが家庭連合だ。だから米本さんなどが指摘する「家庭連合などには愛がない」と言うのは実は正しいとは言えない。
「献金装置」としての家庭連合
教祖である文鮮明氏が、教団の発展の過程のどの段階でその「献金装置」としてのUCの優位性と、その利権に自覚的になったのかは定かではありません。
しかし、現状としての家庭連合を見る限り教団としての組織は、社会にとって有益な影響を及ぼす存在とはとても思えず、ただただ無尽蔵に信者からの献金を吸い上げる「献金装置」としての役割を果たしているだけのように見えます。
もちろん、一定数の信者数と影響力を持った宗教団体が崇高な理想を掲げながらも、その発展の過程でいつの頃からか金や利権に目がくらみ没落していくという事自体は、いつの時代・どこの国でも起こりえるありふれた話であり、もはや人の世の常と言える事かもしれません。
魚は頭から腐るということわざのように、残念ながら家庭連合も教祖とその家族、組織幹部といった“頭部”から徐々に(組織的な)腐敗が始まり、今ではその末端までもその触手が届いているように見えます。
しかし、そのように客観的に見るならば“腐敗している”ように思える組織に、なぜいまだ一定数の信者が固執するように在籍しているのかと言えば、米本さんやこのコメント欄でも指摘されていることですが、UCの教団としての独特な教義と組織性にがんじがらめとなって逃れられないからではないでしょうか。
確かに家庭連合(元UC)が掲げる教義としての崇高な理想は、救いのないような混沌とした世界を生きている現代人の一定数の人の心を動かすような魅力的なものに見える事でしょう。
しかし、先ほども書いたように、教団が教義として掲げる「真の愛」・「地上天国実現」・「堕落からの復帰(祝福結婚)」・「先祖解怨」といったすべての“理想”が、今では結局のところすべて信者から無尽蔵に献金を集めるための口実のように使われているように思えてなりません。
つまり、教団が掲げる教義や理想が、もはや「献金装置」としての組織を機能させるためのお題目となっていると言えるのではないでしょうか。
米本さんが記事で書かれているように現状の家庭連合を見る限り、とても教義として掲げる“真の愛”を実体として伴った組織とは思えません。
繰り返すようですが、それはつまり結果的に家庭連合の教義がすべて献金を集めるための口実となり、「献金装置」としてのみ機能している組織の現状を思えば当然の事なのかもしれません。
かつてこのコメント欄で、教会内で使われるすべての教会用語は、明確な意味や実体を伴わず都合の良い解釈が可能な「マジックワード」ではないかという問題提起をしました。
今までコメント欄でも再三議論されているように、結果的にそれらのUCの教団としての教義・用語はすべてマジックワードとして、教会にとって都合の良い解釈を行い、信者を扇動し教団にしばりつけるための口実として使われてきました。(記事内の「天情・人情」や「摂理」といった用語が最たる例です。)
そして、UCはそのようなマジックワードを多用しながら独特な組織内文化を作り上げることで、結果的に何億という献金をかき集める恐るべき「献金装置」としての組織を築きあげたと言えるでしょう。
しかし、どうやらその「献金装置」としての組織も、その機能体としての寿命が近づいているようです。
米本さんがブログで取り上げる家庭連合内での出来事は、さながらガタが来た構造物がきしむ際にあげるギシギシという音のようです。
「献金装置」としての家庭連合は、一体いつその寿命を迎えるのでしょうか。
精神障害と教祖
そこで教えてもらったのが、「大川隆法と自己愛性人格障害」です。ググると彼の行動分析から様々なブログでの批判記事を読むことができます。反社会的組織を作るカルト的教団教祖にはかなりの確率で精神医学の研究対象となるべき性格の持ち主がいるようです。この教団は献金額は統一教会より少ない印象でしたが、やり方はもっと悪辣な印象でした。(あくまで印象です。具体的内容は書きません。)
Re 「献金装置」としての家庭連合
文鮮明氏が「日本の金」に目覚めたのは、「親泣かせの原理運動」が始まる前の、廃品回収時代と推測しています。
後日、ブログで書きたいと思います。
<「献金装置」としての家庭連合>
とてもいい視点だと思いました。ご教示、感謝です。
ブログ村帰還をお待ちします
家庭連合指導部の、明らかにおかしなことをしておきながら、自覚がない体質は変わりません。また、真正面から他者と向き合えない体質も変わりません。信者はその真実を知りません。
米本さんのブログは見ますが、早くブログ村に帰還してください。お待ちしております。
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