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信仰仲間に一切関心を示めさない奇妙な団体。 

露わになってきた統一教会(家庭連合)の真実(28)

「心をどこかに置いてきた分裂3派の人たち(下) 」の続きである。

 記事に反応し、fatherFさんが「教会をやめる人は見れば分かる」by Y氏 をアップした。未読の方は是非、読んでください。
 同記事についた投稿を紹介しておく。

 1. 人情と天情
「人情よりも天情」そう言っていましたよね。
組織の中にいるころには、自分でもそう言いながら、それを言い訳にして細やかな愛情を持つことができない自分を自己正当化していることが分かっていたので、そんな自己正当化を続ける自分に嫌気がさしていました。
「家族を犠牲にしてこの道を行くんだ」と言えば立派に見えるかもしれませんが、家族のことがそもそも嫌いならばただの逃げ口上です。
人情よりも天情。
人情さえ持ち合わせていない人には天情に至る道はありません。
人情を理解した上でそこに留まらずに天情に向かう。
そこにたどり着く人はあまりにも少ない。桜葉佳代2019-03-08 10:02:54

 統一教会(家庭連合、別名暴力連合)に限らず、結びつきの程度は別にして、宗教団体には信仰仲間がいる。
 とりわけ、結びつきが強いのは創価学会だろう。
 参考図書は『となりの創価学会』 。ここで、私は下町の創価学会を素描している。20年以上も前のルポだから(オレも歳を取ったもんだ)、今はどうか分からないが、当時は社会から見捨てられたような学会員のことを仲間が気にかけ、心からいたわっていた。

 これとは正反対なのが統一教会である。
 隣のシックが生活保護世帯になろうが、自己破産しようが、一切無関心。
 少しでも良心(あるいは俗世の感覚)が残っていたシックは、組織から離れていった。その数、累計50万人以上!だ。
 今も残っているのは、献金で飯を喰っている職員&関係者か、心を失くした“天情だけ”のシックだけであろう。知り合った一般シックはたぶん全員が退会ないし退会状態だろう。(ただし在日の日本人シックに限る)

 神々の黄昏さんの投稿である。<最初のレスコメへのレスコメです>http://yonemoto.blog63.fc2.com/blog-entry-1021.html#comment18603

 統一教会内で「経済摂理」と言われる集金活動が進められる中で、学生主体の部署でも虚偽のカンパ活動が盛んに行われるようになり、長期休みの期間は多くの学生がカンパ活動に駆り出されました。
 そして全国の学生信者が同時にカンパ活動を行った後には、実績が上位の学生は名前が発表されて表彰されたりしましたが、私はある一人の学生を未だに忘れることができません。
 その学生はカンパ活動など、いわゆる「万物復帰」の実績を競争させられる「大会」において常に全国トップクラスの成績を上げ、何度も表彰されていたのですが、彼は私に悩みを打ち明けてくれました。
 彼は非常に真面目な人間で、知的にも優れていました。彼は嘘をついてカンパを集めることに良心の呵責を感じ続けていたのですが、最後には教団の考え方に疑問を持つようになり、当時の原研最高責任者にも疑問を突きつけたそうですが、納得できる答えは得られず、結局は教会を去ることになりました。
 彼は「嘘をつくこと」はどのような観点においても悪であり、それを資金を稼ぐために容認する教団には付いていけないと苦しくなり、脱会したのでした。
 彼は涙ながらにその心の葛藤を打ち明けてくれましたが、残念ながら当時依存心に囚われていた私には彼を慰められる言葉はかけられませんでした。
 その彼を例にとれば、真に良心的な人間は日本統一教会では信仰を続けて行くことはできないのです。 




 能登教会のキチガイ記・tomy4509は、3つのブログで毎日2本以上の駄文を書いているのだが、困っている信仰仲間のことに言及した文章はゼロである(たぶん)。感覚が狂っているのだ。

 
20190223074137e46s.jpg

 新たに入会する人はいない。こんな暴力男たちがいる宗教団体に入る人たちはいない。日本人はバカではないのだから。

こまで書いていて、あることに気がついた。
 私がしばしば推奨するブログ 「私がカルトにはまった理由」のことである。
 文章は素直だが、読みにくいというか理解しにくいところがある。
 その理由は、登場人物の多さにある。
 つまり、管理人のななくささんは隣の人、触れ合った人に関心があり、「出来事」を説明するときには必ずといっていいほど関係する人物を素描する。登場人物が多く、読者は理解するのに苦労する。換言すれば、「信仰仲間に一切関心を示めさない奇妙な団体」のメンバ-とは、世界をまるで異にするようだ。

まれ、「隣人に関心を抱く宗教」と「隣人にまるで無関心な宗教」があることがはっきりした。

「ちんたら息子の母親介護日記」-
「ウンチク-ちゃん太のル-ツ 」 
「想定外のこと&急遽入院 」我れに同情を。゚(゚´Д`゚)゚。
「ぎっくり腰-無知の涙 」
「安堵」


一教会(家庭連合)は隣人にまるで関心を示めさない世にも奇妙な宗教組織-と改めて思われた方は
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コメント

口では兄弟姉妹、助けあってと言うけれど、仲良くすれば横的と叱責され、教会に参加するメンバーが減ってくればまた、もっとお互いに関心を持ってとか?電話をしてくる時は献金のお願い。結局はただのゼニクレイジー。今教会に来ているメンバーだって他人の事など気にする余裕などない。まあ、この現状が今までやってきた結果です。 当然と言えば当然。

”教会に愛はない”

”教会に愛はない!” という言葉は 教会員なら一度は耳にした言葉ではないでしょうか?

実際愛はありません。
これは、現役も元も皆認めていることだと思います。
昔、現役の頃、同じ教会の姉妹とこのことについて話し合ったことがありますが、結論は皆自分の心にも家庭にも余裕がないんだよね~。で終わったことを記憶しています。

私が教会を離れたら後、一切誰からも連絡がありません。20年間も同じ韓国の教会で苦労をともにしてきたにもかかわらず、、、
そんなもんだったんだと今更ながら思いますけど、、、

現役の時、子供が1歳くらいのとき死にかけたことがありますが、奇跡的に助かって、その何年か後にその話がでたとき、教会のリーダーが「この家は先祖の功労が高いのか、助かっちゃうんだよね~。」と何かひっかかるような口調で言われたり、私が病気で寝込んでしまった時、教会の集まりに来ずに遊びに行ったりしてるからよ。とか 本人を前ににして どうしてこういう言葉がでてくるのか、不思議でした。

真の愛を語る教会で、なんでこんなに無関心だし、愛の思いでお互い思いやれないのだろうかと思う反面、自分の中にも余裕のない愛のない自分に葛藤してきました。

今尚、現役で真の愛や真の家庭がうんぬんと言っている人はただの偽善者にしか見えません。

Blessed are the poor in spirit

『隣人を愛せよ』
新約聖書にある有名な言葉です。
この集団には無いです。自分だけです。

多くの信者が経験してると思いますが、
清平に行った時、
座る場所、食べる席、寝場所を我先にと
その確保に争ってますよね。
まず、ここで、「ここには愛が無い」と感じたはずです。そういう声よく聞きました。また、
「善なる競争だ」という自己肯定の声も。自己愛、自我の固まり。
私は初期に3~4回?ぐらい行ったかも?無駄金だった。

あと、思い出したが、雨上がりの山下る時、
滑らないように幼い子の手を引いてたら、”突然皆の迷惑になるから、早く早く降りれ”と一人の女に言われたが、自分の邪魔と思っただけだろう。手伝うことなく、文句だけ言い、その女は列を離れ駆け下りて行った。(やはり途中滑りそうだったけど)

また、タイトルに書いた
「貧しい者は幸いである」(日本語直訳)
統一に意味わかる人間いるんですかね?

「英語と日本語で聖書を読む The Beatitudes(「至福の教え」)」から引用
【まず、"spirit"は"soul"と同じ意味で、魂(人の心の働きをつかさどる部分、霊魂)のことです。"The poor in spirit"は霊魂において"poor"である人("The poor" = "people who are poor")ということになります。この"poor"は、"deficient"と同じ意味で、"not having enough of a specified quality"(ある特定の性質を十分に持っていないこと)だと思います。三浦綾子氏の『新約聖書入門』には、「心貧しき者」というのは、誇るべきものを何ももっていない人のことだと書かれています。金も、地位も、知識も自分にはない、と認める謙遜な人のことだそうです。イエスは、"the kingdom of heaven" (天の御国)は彼らのものだと言っています。】

依存者連中は、ここに書かれてるのとすべて逆の行為してます。
善人だと思い込んで、神のためと思い込んでやりたい放題、すべて自称メシア、自称善人の思い込みなんです。=悪鬼・悪人

ちなみに、個人的なことですが、三浦綾子さんの小説は若いころ、いくつも読みました。そういえば「塩苅峠」は教会の出しもので、その劇の主人公役でした・・・。

職員という名の悪魔の使途:献身者、依存信者は、神の血、メシアの祝福で頭一杯で、意味不明なのでは?

献金勝利、伝道勝利、摂理勝利、の垂れ幕つくって、わいわい!
いろいろ思い出すのも気持ち悪い
揃って、全員逆の結果が待ってます。

元々、あれは自我、自己愛の固まりなので、満足する金が集まらなかったり等すると、大声で怒り騒ぎまくり、威圧、命令してました。(ビデオでも見た)
こんな親、虐待の見本です。
狡猾な悪魔です。まともな子が育つわけない。真の家庭?どこが?

祈願、祈祷で自己満足させて、魔を呼び寄せる。神をパシリ扱いし酷使する。<いつか、総会長夫婦が毎日、日に何度もかかる電話に疲弊して、泣き言三昧、信者に助けを求めていた。”総会長なんかなりたくなかったのに”→教区長に助けを求め、韓国人教区長が信徒、事業団へ激を飛ばす。(世田谷教会での話)>

祈願・祈祷は無条件に感謝のみです。

神を呪う言葉

キチガイ記・tomy4509さんのことを取り上げてくださったので、この方は、執拗に韓鶴子女史が始めた天の父母様(二神論)信仰を擁護してますが、天の父母様と言う祈りは、神は居ない、または、神は死んだと同じ呪う言葉です。原理講論に父母様という記述があろうと意味合いが異なります。文亨進氏が実の母親である韓鶴子女史を痛烈に批判するのはその様な理由からです。かつてイエス・キリストが母マリアに「婦人よ。わたしとどんなかかわりあるのです。」と言ったのと同じです。これを教義的には摂理的同時性と言います。

教会員の兄弟愛を失わせた元凶

>「隣人に関心を抱く宗教」と「隣人にまるで無関心な宗教」があることがはっきりした。


 現在の統一教会=家庭連合の日本の教会は米本さんが書かれたように「隣人にまるで無関心な宗教」ということが確かに言えると思います。
 ただ、西川氏が日本で開拓伝道を行った当初からそうであったかと問うならば、それは否と答える統一教会関係者が多いと思われます。
 私の教会員生活を振り返っても、以前コメントしたようにノルマを与えられ経済活動に明け暮れる部署以外においては、兄弟愛とさえ例えることができる親密な愛情で教会員たちが結ばれていました。
 それは米国で教会員生活を送っていた時も同じであり、そのような兄弟愛で結ばれた教会員たちとは 現在会っても昔と同じように親族のような感情をもって接することができます。
 しかし、それは主に過去に一緒だった教会員の話しであり、現在では違います。
 実際、私が米国から日本に戻って来て所属した部署では、半数以上は「摂理中心」型の教会員で、そのような教会員はとても兄弟姉妹とは思えず、その部署を去った後は顔を見たくもないほど悪い印象の教会員が多かったのです。
 そのような悪印象の教会員は「隣人にまるで無関心」どころか、「隣人を教義で裁き、差別する」とても嫌な人間で、統一教会以外では滅多に見られないような不快な輩でした。
 彼らを今思い出すと、米本さんの著書の題名が頭をよぎります。すなわち「我らの不快な隣人」という表現がピッタリの人たちなのです。

 何故現在の日本家庭連合にそのような不快な輩が多いのかと言えば、理由ははっきりしており、日本の教会員たちは常に高額エンドレス献金を意識させられ、その「責任分担」を果たす事こそが「神とメシアの願い」に応えることであり、教会員としての使命だと思い込んでいるからです。
 しかし、高額献金は何度捧げたとしても当然のようにエンドレスに要求され、頭はそのことでいっぱいになり、隣人を愛するような心のゆとりは無くなってしまうのです。
 もし日本人以外がそのような環境に置かれたならば、おそらくほとんどのメンバーは教団を去るに違いありません。
 しかし真面目で、依存心が他国の人よりも強い日本人は、そのようなクレージーな環境の中でも教会のアベル(上司)の命令に従うようになるのです。
 日本人は一般的に組織依存が強い傾向にあるのは確かで、それがゆえに「和」を生み出すのが得意でもあるのです。
 組織に依存してしまうと、組織が悪いものであった場合、その中にいる悪い状態から抜け出せなくなってしまい、とても危険なのですが、日本人は良い組織を作る能力に恵まれており、たとえ組織に依存したとしてもよい結果を生む場合が多かったので、それが民族の文化にまでなってしまったのです。
 日本人が組織依存の傾向が強い文化を持っているのは、過去の歴史において比較的調和した組織体制を作ってきたからであり、そのような体制の特徴は李氏朝鮮などとは大きく異なるのです。
 つまり、日本人は相対的に、体制によって酷く差別されたり、不幸な目にあったという歴史が少なく、組織を信頼しやすく、それが故に依存しやすいのです。
 依存的文化を持った日本では、権力者が善意に満ちた人間の場合はその組織体の中にいる人間は幸福になれますが、間違って悪意がある指導者が権力を握った場合は不幸に耐えて暮らすことになってしまいます。
 統一教会=家庭連合の日本人の場合は 不幸なことに守銭奴のような韓国人に支配されることになってしまったため、組織に依存しやすい日本人教会員は一般的な日本人とは真逆の「隣人を裁き、差別する」と同時に「隣人にまるで無関心」な人間になってしまったのです。

 私は‘火の粉’のコメントにおいて以前、韓国人が組織の上位にいて、日本人がその下で従うような構成の組織は最悪のものだと書いた覚えがあるのですが、そのことを証明するような記事がネットで見つかりました。しかも、その記事は韓国人によって書かれた記事であり、大変参考になるので紹介いたします。
 https://japanese.joins.com/article/617/251617.html

(上の記事より引用)
「韓国の外交官は会うとすぐにわれわれを教化しようとする。それから何々してほしいとお願いする。要請を聞き入れるとその後しばらく連絡が途切れる。少しするとまた連絡が来るが、会うとまた要請だ。日本の外交官は会うと先に『私はあなたのために何ができるか』と聞く。助けようとしてくれる。だからこちらも『われわれのほうでは何を助られるだろうか』ということになる」
 

神の声

久しぶりのコメントです。

>これとは正反対なのが統一教会である。
>隣のシックが生活保護世帯になろうが、自己破産しようが、一切無関心。

このような批判はチクリとくるので痛く感じるが、神の声なんだよね。

溺れている人は溺れている人を助けられない

復帰とは?救いとは?
溺れている人を助ける事だと教えられた。

もし家庭連合にいる人が皆溺れているならば、自分は必死にもがいている状態なので、他の人を助けられない。むしろ他の人を巻き込んで溺れさせてしまう。

もし家庭連合の人が皆救われているなら誰も救う必要がない。誰も溺れてはいないのだから。

なぜ飾る、なぜ願う

神様は下働きで、褒められもせず、感謝もされず、
ボロボロにされて無言の下働きをする


宮沢賢治:
「みんなに、でくの棒と呼ばれ。ほめられもせず。苦にもされず。」


神を真似る人間は、キンキラ衣装に身を包み、「不幸な人々から」集金して御殿に住む。さらに祈る、願う、
天国に行ける言う、自分のことばかり。
いったい、何やってんのか・・・

> 今も残っているのは、献金で飯を喰っている職員&関係者か、心を失くした“天情だけ”のシックだけであろう。

あと、何らかの「利」があるため残っている人もいます。

「利」の一例
①言葉では説明できないが、献金たくさんしたので天国に入れると思っている。
②献金すればみんなからやさしくしてもらえ、勝ち誇った気分になれる。
③結婚できない自分の息子娘の伴侶探し。
④子供できないので、養子を期待。

ちなみに私は①~④でもなく例外で、教会員になって嫌なことがありましたが良かったこともあり、大して献金しなくても文句を言われないことから、義理みたいなもので残っているだけです。献金しないと相手にされませんが、怠け者公職者に相手にされないのは大歓迎です。

彼らにとっては文家や韓家が真の家庭かどうかや、原罪があるとかないとかは二の次(ある意味どうでも良い)です。ですから私含め、残っている人数にはカウントされないかもしれません。

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