『我らの不快な隣人』の感想。東大東洋文化研究所・ 宗教社会学真鍋祐子准教授
書評・感想(7)
東大・東洋文化研究所の真鍋祐子准教授が「書評・感想(6)」で書かれた一文に、コメント投稿でいくつかの情報が寄せられた。
それに対して、真鍋さんから回答コメントがメールで届いた。長文ゆえ、コメント欄でなく、ここに掲載する。
皆様へ。
80年代当時の統一協会信者の韓国留学生について、いろいろとご証言いただきありがとうございました。これで私の胸中のつかえが少し取れました。
すでに米本さんが著書の中で、集団結婚で幸せに暮らしている花嫁たちの事例をあげてくださっていましたが、留学生たちのその後がどうだったのかずっと気にかかっていたからです。
特に気にかけていたのは感想文に書いた「在日の友人」のことでした。
今は時代が変わったと思いますが、当時の在日コリアンの留学生たちは日本ではじかれ、アイデンティティを求めて渡った「祖国」でも、「半チョッパリ」「韓国人のくせになぜ韓国語ができないか」といって差別され、アイデンティティ・クライシスに陥るケースが多かったようです。
私のその友人もそうでした。
進学した大学ではまだ言葉がおぼつかないので授業についていけず、クラスメートは彼女を無視し、試験前にノートを貸してくれる人もいず、いつも一人ぼっちだったそうです。
そんな彼女に声をかけてくれたのが「日本人の女子留学生」で、ノートを貸してくれたり、お握りの差し入れをしてくれたりしたそうです。
それが統一協会の信者だったというわけです。
私は民青の影響が強い大学を卒業したので、漠然とした原理研=統一協会に対する忌避感がありました。
だから情にほだされて急接近していく彼女の様子を間近に見ながら、漠然と「なんとか助け出さなくては」という切迫感をもっていました。
そうこうしているうちに帰国となって、これまた漠然と何もできなかった自分に対する罪悪感を抱きながら今日まできました。
皆様からのレスを読みつつ、彼女が入信した/しないにかかわりなく、本人が自分の人生を肯定できるような生活を送れているのならそれでよし、と思えました。
問題の「噂話」について、私は私できちんと自分自身を「総括」しておかなくてはなりませんね。
ただその前にいくつか前置きしておきたいことがあります。
?私は統一協会を「擁護」も「批判」もできる立場にないこと。そんなことができるほどの知識もなければ、ましてや信者たちと接したこともない人間にそのような資格はありません。
ただ研究者という属性を留保して、一人の人間として抱いた感想や意見を述べることだけが今の私に許されていることです。
したがって、後に述べる「総括」は一個人の自己内省であって、統一協会に対する「擁護」でもなければ「利敵行為」でもありません。
?研究者とは、まず対象にどう接近するか、分析の視座、枠組みを設定して、対象を見つめようとする生き物であること。時には論証のために、最初に措定した枠組みから漏れてしまう事例を捨象せざるをえない場合もある。
そんなとき私の脳裏にいつもリフレインのように浮かぶのは、
「包帯のような嘘を見破ることで学者は世間を見たような気になる」
という中島みゆきの『世情』の一節です。
私もまた研究者の業として、自分の枠組みにはまらない個別の事例を、あえて断腸の思いで断ち切りながら論文を生産してきたものです。
しかし「見たような気」になって、そこで終わってはならない。書いたものが評価され、世間からチヤホヤされているときにこそ・・・中島みゆきの一節はいつもそのことを私に警告し、立ち止まらせてくれるものです。
米本さんの著書に感動したのは、キリスト教会、統一協会、そして学者たちの枠組みから漏れ出て行き場をなくしているものたちの存在を掬い上げ、私たちの前に示してくれたからです。
私は自身の無知も含めて「見えざる私の罪」に常に自覚的でありたいと思っています。
?しかし研究者の立てる枠組みなるものは、あくまでも理論に裏打ちされた合理的・価値中立的なものであるべきで、なぜそこに特定の教団に対する「擁護」だの「批判」だのが混ざってしまうのか、私には理解できない。
学者はいつから特定の「義」を振りかざす宗教家になってしまったのでしょうか?
自分の論文がいかに援用されようと、それは学者には関係のないことです。
「擁護派」とか「反人権派」のレッテルを貼られるのがそんなに怖いのか?
将来のかかった院生やポスドクならともかく、一応は食べるに困らない地位にありながら、これ以上いったい何を恐れるのか、これも私には理解不能。あるいは「社会貢献としての研究」をやっているつもりなのか?だとしたら、これはとんでもない傲慢、(こんな言葉はもう死語ですけど)知識人による「上から目線」にほかならず、ここまでくるともう私には「生理的嫌悪」の域です。
むしろ自分たちが見落としたことをルポライターの米本さんが掬い上げ、世に問うてくれたのであれば、あくまでも目の前に突きつけられた「事実」の前に謙虚であることが、良心的な学者がとるべき姿勢ではないか、というのが私の考えです。
さて本題です。
私は留学中ほぼ毎日、日記をつけていたので、感想文に書いた話自体に記憶違いはないはずです(聞き違いはあるかもしれませんが)。
ただし私がかかわっていたいくつかの留学生コミュニティでささやかれていたものであるため、ソウル在住の日本人、在日コリアンの留学生たちにどの程度一般化された話であったかは定かでありません。
前にも書きましたが、私が卒業した大学は民青の勢力が強く、先輩たちから「原理研は恐ろしい」ということを刷り込まれ、寮や校舎の壁のあちこちに「原理研は出て行け!」というビラが貼られていたのが大学で最初に見た光景であり、そんな背景から統一協会に対して漠然とした忌避感情をもっていたことは事実です。
そのくせ原理研、統一協会に対する知識はほとんど皆無なのでした。それは私と同じか上の世代にある程度共有された感覚ではなかったかと思います。
私は語学堂への留学経験がなく、延世大の構内に入ったことさえありません。多くの情報は語学堂留学生たちからもたらされたのですが、当時すでに信者だけで一クラスできるほどだったそうなので、彼らもまた横ながらに脅威と違和感、なにやら得体の知れない異物を眺めるような思いで、そろってメッコルを飲んでいる信者たちを見ていたに違いありません。
当時の留学生たちにとって「運動圏」と「統一協会」はタブーの両翼であったと思います。
「運動圏」は容易に近づくことができなかったけれど、「統一協会」はすぐ間近にいる存在だっただけに、噂話のネタになりやすかったのでしょう。
そして、これら諸々の話を又聞きした私もまたその一端を担っていたということなのです。
いつ、どこで、という詳細な記憶はすでにありませんが、こうした類の話を私も他の人々に伝達したことは隠しようのない事実です。もし私が聞いてきた統一協会にまつわる話の大半が、皆様の証言により「そうではなかった」とされるならば、これは紛れもなく共同幻想が醸した噂話ということになりますね。
私は「反カルト運動」の核心にいる人たちのことはわかりませんが、(山崎浩子の脱会劇のときもそうでしたが)その周辺にいるマスは漠然と「反カルト」のムードに包まれ、「統一協会=悪」と見なしたのではないかと思います。
私たちがやっていたのも、口コミという原始的やり方であったとはいえ、全くそれと同じことでした。はからずも米本さんに問うた「20年前のひっかかり」が、そうしたことの反証になったというわけです。
ところで同じ大学に留学してきた統一協会の女性信者と初めて挨拶したとき、ちょっと野暮ったい感じではありましたが、どこにでもいそうなあまりにフツーの人だったので、「統一協会=怖い」というイメージをもっていた私としては、いささか拍子抜けしたことが強く印象に残っています。
そのくらい統一協会に対しては「獲って食われる」みたいな忌避感情があったんですね。正直、実物の信者とのギャップにショックを受けました。彼女とは一度だけ男子学生たちを交えて卓球場に行ったことがありますが、卓球が上手かったなあ。そのときの皮膚感覚をもう少し大事に覚えておけばよかったかもしれません。
しかし彼女もまた、大学祭のとき、自分のサークル名を隠して私を誘おうとしたので、それを機に私は彼女を遠ざけるようになりました・・・これはやはり統一協会の是認できない部分です。
ついでに、統一協会について是認しがたい話をもうひとつだけします。現在「大学教授」になっている信者の方の話がありましたね。韓国では大学だけでなく、巷の日本語学校にもかなりいるようです。
90年代初頭、地方都市に滞在していたとき、知人が1本のテープを持って訪れました。彼は日本語学校に通っていて、講師は日本人、聞き取りが苦手なので毎回録音機を持ち込み、帰宅してから何度もテープを聴いて復習していました。
でも、どうしても聴き取れない箇所があるので教えてほしいというのです。
内容を聴いて仰天しました。穏やかな口調の男性講師は、延々と統一協会の教理を語っていたからです。
知人はすぐにその学校をやめました。
公的な場、お金を払って日本語を学びに来る場を布教の場にすることは許されるのでしょうか?
現在「大学教授」などになっている方々が、公的な教育の場をそのように私物化していないことを願ってやみません。
<補足> 真鍋さんが上述の???で書かれたことは、『我らの不快な隣人』の「第13章 水面下の攻防」、とりわけ「学者の受難」(308?314頁)へのリスポンスだと思います。
引用されていた「包帯のような嘘を見破ることでt学者は世間を見たような気になる」。実に鋭い警句ですね。世間を見たような気になるのは、決して学者ばかりでないように思われます。 「見えざる私の罪」を常に我に問いながら、このブログを続けていくことにしたいと思います。
真鍋さん、丁寧かつ誠実に、真摯な回答をしていただき、ありがとうございました。
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コメント
学者の誠実さ
とても丁寧な回答メールに,とても嬉しい気持ちになりました。真鍋様の学者としての誠実さが感じられる文章だったからです。「我らの不快な隣人」の「学者の受難」の箇所を読んだときには,何とも暗い気持ちになったのですが,真鍋様のような誠実な学者の方のお話は聞くと,当然のことながら,やはり不誠実な学者ばかりではないのだなあと改めて知ることができて,とても安心いたしました。ありがとうございました。
ところで,私は統一教会の現役信者なのですが,日本語学校の講師の話は,同じ信者として,とても恥ずかしい思いがいたしました。本当に申し訳ございませんでした。
その話は「十分ありえる話し」だと直感いたしました。恥ずかしいことではありますが,統一教会信者は非常識な人間がとても多いからです。
ただ,昔に比べると社会常識をわきまえた信者の割合が年々増えてきている感じはしておりますので,現在ではそのような非常識な行為を行っている人間はいないものだと信じたいです。
韓国で大学教授をしている私の友人にも,過去,そのような酷いことを行っていた信者がいた事実を報告し,そのようなことが絶対行われないように教会の指導を徹底して欲しい旨を要望しておきます。そのようなことは決してあってはならないことですから。
ご返答ありがとうございます
日本語学校の講師の話、20年近くも昔の話にもかかわらず、真摯な対応をいただきありがとうございます。
米本さんの本、ちょうど昨年秋のソウル出張の際に持っていき、時間を見ては読んでいました。そんなおり、以前お世話になった運動圏のオヤジさんと再会しました。個人的な話になりますが、私は90年代以降、留学時代にあれだけ忌避していた「運動圏」の研究に足を踏み入れてしまったものですから。
彼は熱心なプロテスタント信者で今も市民運動をやっているのですが、仲間には統一協会の信者もいるとのこと。「抵抗ないの?」と問うと、「そりゃあ、統一協会は嫌いだよ。でも教団と、これを信仰している個人とは別問題。ましてや同じミッションをもって働いている仲間なんだから、そんなの全然問題じゃないよ」とさらりと言われ、思わず唸ってしまいました。
どこぞの国の、弁護士、マスコミ、学者、その他諸々をあげてのマス・ヒステリーと違い、オトナですね。やはり抗日独立運動から始まって民主化闘争に至るまでの、韓国キリスト教の懐の深さというか強靭さというか・・・これまでカトリックの明堂聖堂やプロテスタントの基督教会館が、天道教など新宗教も含めた教団・教派、信仰者・非信仰者を問わず、命がけで共闘する闘争の牙城になってきた史実の重みを思い知らされた出来事でした。
それだけに米本さんの著書に描かれた学者やキリスト教会牧師たちの姿が、滑稽に映って仕方なかった。もちろんあえて明言はしませんが、私にも統一協会に対する好悪の感情はあります。また教団名を隠して勧誘したり、霊感商法をやったり、くだんの日本語教師の例など、是認しがたい部分があることも事実です。でも私は、このオヤジさんのような「これはこれ、それはそれ」という冷静な感覚は忘れてはならないと思う、学者なら特にそうです。何もかも一緒くたにして、白黒つけたがるマス・ヒステリーの感情や態度に流されてはいないか、常に自省しなくてはと思うのです。
私は、決して、決して、NY65さんのおっしゃるような「誠実な学者」ではないです。事実、オヤジさんへの第一声が「(統一協会の信者と一緒に仕事するなんて)抵抗ないの?」でしたから。だけど、さも当たり前と言わんばかりの彼の返答を聞き、はっとしました。こうした自分の足りなさを忘れずに、国民の血税で(といえば当然そこには統一協会の信者の方々も含まれるわけです)研究させていただいている身分として、常に誠実でありたいとは願っています。
最後に。学者の「受難」と表現された米本さんって、本当にやさしいお方ですよね。これはちょっと、やさしすぎますよ!
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