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「ネグレクト」(児童虐待)されてきた“真のご父母様”の子どもたち 

統一教会考(27)

(超長文です。のんびり読んでください)

 前回の記事では、発覚した仁進氏の不倫・不倫出産に、日本・韓国の統一本部がどのような態度を取っているのかについて書いた。
(記事掲載後にわかったことだが、韓国の一般本部職員も、この事件のことを知らなかった!)

アメ統幹部は偽善者ばかり!
 
 では、アメリカの場合はどうか。
 9月21日に発表された公文を紹介する。そのあと、この公文がいかに欺瞞に満ちたものかを明らかにする。
機械訳ではなく、翻訳の仕事をされていた元教会員に訳してもらったもの。原文は省略する)

(引用はじめ)
2012年 9月21日 金曜日 :

親愛なる兄弟姉妹の皆さま方へ。

 世界会長の文亨進牧師とその夫人は、真のお母様の指示と完全に一つとなって、9月19日水曜日にアメリカに到着されました。真のお母様の心情は、アメリカの癒しのために必死になっておられます。彼女は、アメリカの食口たちの信仰を動揺させる仁進様に関するショッキングなニュースを許したくないと思っており、貴重な個人を一人たりとも失いたくないと考えています。

 仁進様は自らの行動に対する責任をとって辞任し、全ての公職と役割から完全に身を引かれました。
 お母様は素早く対応なさり、亨進様をアメリカ教会の会長に指名し、直ちに彼をアメリカへ送りました。
 仁進様と教会の指導力を信頼する食口たちの間に、多くの痛み、怒り、失望があることを知っておられたからです。

 亨進様のアメリカ会長としての最初の公式活動は、9月20日(木)ニューヨーカーホテルにて本部スタッフとミーティングを持たれたことです。
 彼は3時間近くを費やし、仁進様に関する一人一人からの質問や意見に耳を傾け、それに答えました。
 彼は、”罪を憎んで人(罪人)を憎まず”と言いながら、正直さと思いやりと愛をもって質問に答えていかれました。

 彼は、本部が新しい出発をするために、真のご父母様に対する悔い改めと感謝の条件を立て始めるようにと我々におっしゃいました。

 世界会長は、今晩のワシントンDCを皮切りに、全米12地区を巡回する予定です。

 各都市において、まず’タウンホールスタイル’で始め、本部スタッフに対してそうしたように、食口たちから質問を受け、それらに応えてゆかれる予定です。
 そのあとに、最期の40日路程を通して真のお父様と共に過ごした経験についてメッセージを語る予定です。最後は、祈祷と瞑想で締めくくることになるでしょう。
 彼とその夫人は、これからの二週間程の期間に、食口・家庭の皆さん全員とお目に掛って分かち合いをすることができるように真心から願っています。

 亨進様は、疑問や関心を持っている人は誰でも参加して、我々の運動の将来について一緒に話し合いましょうと、心から皆様を招待しています。
 私はここで簡単ながら、仁進様と一緒に働いていた中心スタッフの問題を述べたいと思います。
 多くの人が何かしらの隠ぺいがあったと信じているのを知っていますので。
 仁進様はご自身が持っていた関係について我々に打ち明けなかったし、妊娠についても我々には明らかにしませんでした。
 我々は彼女が子供を産んでいたなど思いもよりませんでした。

 ことの全ては、あなたがたにショックを与えたように、我々にとってもショック以外の何物でもありませんでした。
 しかし、私をはじめとする中心スタッフメンバーの一人一人は、これが目の前でおきた全責任をとります。
 私はヤン大陸会長を通して、亨進様に副会長辞任を申し出ました。

 この地位を持ち続けることは私にとって重要なことではありません。
 私は、アメリカで起こるべき癒しの過程において障害物になりたくはありません。
 これは中心スタッフ全員の偽らざる心境です。
 我々は、神の前に、真の父母とあなた方全ての前に、深く悔い、許しを乞う者です。

 大陸会長であるヤン博士は、この15年間ここアメリカにおいて我々の真の父母に忠実に仕えてきました。
 最後の4年間は、ラスベガスや韓国において、また父母様の世界ツアーにおいて、中心スタッフの一人として、完全に集中して御父母様に侍ってこられました。
 この期間、ヤン博士は、ニューヨークの本部の日々の業務には携わってきませんでしたが、それでも彼はアメリカに対して全ての責任を感じておられます。

 仁進様のことを韓国で最初に聞いた後、ヤン博士は深い悔い改めの心境にありました。
 そして彼も同じく世界会長に辞意を申し出ました。
 亨進様は、これらの辞表を受け取る際、謝意を表明しましたが、12地区のツアーが終わるまでは保留とすることを決めました。
 ヤン博士と私は、彼からこのツアーをサポートしてくれるように頼まれ、私たちはそうすることに同意しました。
 ツアーが終わり次第、亨進様は、全体の状況を見て、私たちが前に進むように、教会の指導者の在任と宣教活動の再構築について決定を下すおつもりです。
 我々は、世界会長の指導力を信頼しており、神と真の父母様が彼を通して働いて解決をもたらしてくださることを信じています。
 
 あなた方が真の父母の成熟した息子・娘として、またアメリカにおける活動の主人として、亨進様のツアーに参加し、率直な気持ちを彼に表現し、悔い改めと共に、我々の教会を癒し治してゆくために歩みを前に進めてゆくことをお勧めします。
 もし私たちが、神と真の父母を中心にした一つの信仰の共同体として共に集まることができれば、国家的な癒しが可能であり、神の御旨を為すために、よりすばらしい一体化と愛と強さが、私たちの内から現れ出てくることでしょう。

 ありがとう、あなた方に神の祝福がありますように。

Joshua Cotter牧師
(引用終わり)

 キリスト教系の人たちが好んで用いる、冗漫で、ミミズがのたうちまわったような文章展開だが、要するに、この牧師さんが言っていることは3点である。ちなみに、この公文が出た時点で、Joshua Cotterはアメリカ統一教会副会長。



①我々は、仁進氏が不倫をしていることも、不倫出産していることも知らなかった。
②我々は、亨進氏に辞表を提出した。
③亨進氏は全米ツアーが終った段階で、辞表について判断する。


 

ベンの妻Lorentzenの衝撃的な手記


 さて、この公文がなぜ欺瞞に満ちたものか。

 仁進氏の浮気相手のベン氏の妻の手記を紹介する。(出典は「gildongのブログ」。http://ameblo.jp/gildong/entry-11361548676.html、下線は管理人)

この「妻の手記」および先の「公文」の訳に、誤訳があれば指摘してください。

(引用はじめ)
2009年クリスマス物語

By P. Lorentzen
2012年9月20日 今から約20日前!)

 ニューヨークでの出来事は、何人かの人たちによって多くが報告されていますので、実際に何が起こったのかについて、これ以上語ることはありません。ただ、いくつかの細かい点が欠如していますので、それらについて語る事を勧められました。

 私が強調したいことは、子供たちや私は決して犠牲者では無いという事です。嘘をついたり、騙したり、欺いたり、権力を乱用した人達こそが、その行為の本当の犠牲者と言えるでしょう。この2週間の間に頂いた多くの手紙とお祈りに感謝します。その多くは元教会員の方からでした。

 外部にいる事で安心できる、そのように感じるようになってしまったこの運動にもう関わりたくありません。私たちはこの事で神への信仰や感謝の気持を失ってはいません。結局はそれが一番大切な事だと信じています。神様が良いと考えらる時に、全てが明らかに晒されると知っていました。それに3年・・・。

 私達が2009年のクリスマスに、ベンをニューヨークに訪問する事を決めた時、彼に、ニューヨーカーホテルに部屋を取れるかどうか尋ねました。返事が来るまでに何日もかかり、明らかにインジンは私が来ること、ホテルに泊まる事を承認していない様子でした。最終的には部屋を取ることができました。ニューヨークに到着して分かったのは、飛行機代のみならず、全ての旅費(食事、交通費、観光費など)を自分で払わなければならない事でした。ベンは収入を得ておらず、私達のために、何も払う事ができませんでした。

 今のところ、まだ、4000ドル掛かった費用の払戻しを受けていません。払い戻しの請求をしていますが、返事をもらっていません。

 私達は12月17日に到着しましたが、その時点ですでに何かおかしいと感じていました。私達が外出中に何度もインジンから電話が掛かってくるし、子供たちとベンにはクリスマスギフトだと言って100ドルをくれたのに、私にはなかったり、など。
 
 数日後、偶然に、ベンとタチアナ・パク(インジン)の間に交わされたメールを発見しました。性的な内容は伏せますが、二人の間に浮気が始まっている事は明らかでした。私は直ぐにベンのところへ行き、二人で話をしました。ベンはその事実を認め、それは最近始まった事であると言いました。その時の彼の最初の質問は「これで、恐喝するのか」でした。 私は「この事実を誰かからお父様に報告してもらう、それだけです」と答えました。私が報告をした人が、これをしてくれたかどうか、今までのところ分かりません。

 ベンはそれ以前にも何人かのガールフレンドがいたので、誰かと浮気をする事自体は驚きではありませんでした。ただ、私が不愉快だったのは、相手が既婚女性であったこと、さらにそれがインジンであった事です。
 
 当時13歳だった私の息子は、二人の間におかしな関係があることを察知しており、私が子供たちの前で「どうして既婚の女性と付き合えるのか」とベンに詰問した時、英語がそれほど分からないにも関わらず、その女性が誰のことかを理解していました。
 子供たちはマットレスとカバンをもって立ち上がり、部屋を出て行きました。その時に一人が「何が起こっているのか分かるから、出てゆく」と言っていました。それが、ベンが子供たちを見た最後となりました。子供たちは彼と会う事をそれ以来拒絶しているのです。もう彼を父親とは思わないし、その事を家に帰った後で、彼に伝えました。

 その夜、私達3人はマットレスが2つしかない小さな部屋に取り残され、毛布も足りなかったので、靴下、タイツ、ジャンパー、コートを着込んで眠りました。その部屋はそれほど寒かったのです。
 ベンにもっと掛けるものは無いのかと尋ねると、カーテンをくれました。
 ランドリールームから掛けるものをもってくるために、カギを貸して欲しいと頼みましたが断られました。
 私達はこのような扱いを受けたのです。滞在中、ただ一人、私達に良くしてくれたのは清掃係の人でした。彼の名前は「エンジェル」でした。

 子供達と私が、あのような短い時間内で、あの二人の間に何かおかしな事が起こっていると感じる事ができたとすれば、 ほとんど毎日彼らと接している人達やリーダー達が、3年もの間、何も不審に思わなかったことは理解できません。子供達はあのような扱いを受け、そして浮気の事実に大きく落ち込んでいました。私は毎日、私達は大丈夫だと、彼らを励ましました。私達は毎日外出して、最初に計画した様々な場所に行きました。

 この事実を発見した日に、ニューヨーカーホテルで、フィリップ・シャンカー(米国教会・副教会長)と面談をしました。私が読んだり見た事の全てを詳細に彼に報告しました。
 彼が私の言った事を信じてくれたのかは分かりません。でも、もし信じてくれるなら、上の方へ報告しなければならないでしょう、と彼に言いました。フィリップは私の話を信じると言いました。何故なら、私の話には誠意があるばかりではなく、同じような話を以前に聞いた事があるからだと言いました。私は彼がアリスティアの事を言っているのだと思いました。彼は、なんとかすると約束してくれました。その時、彼は何かをしてくれたと思いますが、報告するべき人に報告してくれたかどうかは分かりません。

「アリスティアの事」とは、「文仁進(元)会長のもう一つの不倫」 に登場するアリステア・ファラント氏のことではないのか。

 2010年の1月に彼から私の報告が上に上げられた旨を告げる手紙を受取りました。それが誰のことなのかは分かりません。その後、フィリップから何の連絡もありません。ニューヨーカーにいる間、私はインジンに2回手紙を書いて、会いたいとお願いしました。当然のことながら、彼女からの返事はありませんでした。3通目の手紙に、それなら私はこの事を報告すると明記しました。その日、私が部屋に戻ると、ベンとビル・ミホがドアの前で私を待っていました。二人は何か重要な事を告げに来たという顔をしていました。

 私はあなた達と話をするつもりはないと言いました。私はドアを閉めカギをかけましたが、ドア越しにベンが、荷物をまとめて明日の正午までに出てゆくようにと叫びました。私が書いた手紙が原因のようです。もし出ていかないなら、警備員を連れてくることでしょう。長男が「お母さん、ほんとなの?ぼくたちは追い出されるの?」と訊いてきました。残念ながら、そうだよと答えるしかありませんでした。

 その後、私はベンに、今はクリスマスで他のホテルを探すのは難しいかもしれないから、もう一日だけいても良いか尋ねました。彼はそんなこと知らない、飛行機の便を一日早めて帰るべきだ。変更の費用は自分が払うと言いました。そのお金は未だにもらっていません。

 私は荷物をまとめました。子供達は泣いていました。
 私は子供たちに屈辱を味あわせたくなかったので、ホテルの警備員が来る前にホテルを出ました。
 子供達に、どうする?と尋ねると、一刻も早く家に帰りたいと言いました。
 その日の夜一晩だけホテルに泊り、翌日の便で帰るように飛行機のチケットの変更をしました。それだけで1000ドルかかりました。ニューヨーク近辺の2人の知り合いに泊めさせてくれないかとお願いしましたが、断れました。ですから、あの時点で、もう帰るしかありませんでした。フィリップ以外のリーダーにはこの事を報告していませんし、誰かがほのめかすような形で、噂話を広めたりしませんでした。

 子供達と私は前に進んでいきました。常に前向きで楽観的な態度で生きてきましたし、それに助けられてきたと思います。今日までで、ベンは約5万ドルの養育費と4000ドルの旅費の未払いがあります。この件で彼の両親に連絡を取りましたが、我々には関係ない、と言われました。
 ちなみに、彼の両親も教会員です。
 ここ数年間、私は子供達を自分の力と、わずかな支援で養育してきました。離婚の書類を執行するために、もう何度も執行官をマンハッタン・センターへ送りましたが、その度に、「ベン・ロレンツェン」なる人間は、ここでは働いていない、と言われました。私はフィリップに、離婚の手続きのために、ベンがマンハッタン・センターで働いているという供述書を出して欲しいとお願いしましたが、返事は来ませんでした。

 私は真実を求める人にのみ、この話をしたいと思います。真実を求める人は何が起こったかを知る資格があると思います。また、私はこのような事が将来に再び起こらない事を望みます。私はただ、あまりにも長い間隠されていた事に光をあてたかっただけです。

Sincerely
P. Lorentzen 
(引用終わり)

 フーッ。激しい溜め息。
 読者はどう思われたのだろうか。


ベンと仁進は人格障害者ではないのか  

 以下は私の感想。揶揄しているように受け取られるだろうが、一般人としての率直な感想である。

 ベン君、けっこういいタマだわなあ。新宿歌舞伎町あたりの一角に棲むジゴロみたいだ。
 いろんな女を物色した結果、亭主持ちだが最高の金持ち女を見つけたというわけだ。しかも、自分が所属している統一教会の教祖の娘だぜ、こうなりゃ、女房、子どもなんかどうだっていい。口うるさい女房によって、金持ち女のご機嫌を損ねたら、まずい。早く、ニューヨークから追い出さなくては。
 一方の金持ち女。「ベン、あなたの口うるさい古女房、なんとかしてよ~!」

 Lorentzenさんが受けた衝撃を考えると、立ち上がれなくなってしまう。

 仁進とベンとの不倫は、世間一般の妻子ある男と夫子ある女との不倫のそれとは質を異にしている。世間一般の不倫なら、取り繕うというレベルであっても、それぞれが自分の家庭、相手の家庭をある程度は尊重するもの。
 ところが、ベンは自分の家族を虐待と表現していいほどに邪魔者扱いにしている。仁進もLorentzenさんから3回も手紙を受け取りながら無視するばかりか、ベンに Lorentzenさんをニューヨークから即刻追放するように指示している。
 世間一般の不倫なら、女性が男性に「家族を粗末に扱うものではない。せっかくニューヨークに来られたのだから、観光案内でもしてあげたら」とたしなめるだろう。
 
 ベンと仁進を理解するには、2人は何らかの発達障害を受けていると解釈する以外にない。人格障害者たちだとすれば、Lorentzenさんへの常識外れの態度、冷酷無比な仕打ちは理解できる。そうでなければ、理解不能である。

 仁進氏と交流のあった食口(日本を含む)たちは、彼女のことを「とてもいい人」だという。そうした人たちからすれば、私が「仁進氏は人格障害者だ」と言えば、強く反発するだろう。
 しかし、「機能不全家族」の家庭で育った子どもたちは、対人関係がとてもアンバランスなのである。
 その結果、ある人からすれば「とても優しい人」、別の人からすると「ぞっとするほど冷たい人」という評価になる。

 この続きを書きたいが、取りあえずテーマを戻し、アメリカ統一教会の上層部たちは、ベンと仁進の不倫を把握していたかどうか!?  
 手記によれば、2009年の12月、Lorentzen さんは、フィリップ・シャンカー(米国教会・副教会長)と面談している。シャンカー氏は彼女の話を信用できると話した。だとすれば、上層幹部たちに報告したと考えるのが自然である。あえて報告しなった?その理由は考えられない。
 

 仁進氏の不倫を知らなかったと公言するアメリカ・統一教会の幹部たちは、大嘘つき、善意の第三者を装う偽善者なのだ。

 もし違うというのなら、アメリカ食口の前でシャンカー氏に「あえて報告しなかった」と証言してもらうしかない。 
 
 幹部たちが辞任してすむ話ではない。
 一般社会の会社のことを考えればわかることだ。社長が不正なことをしていた。副社長たちはそのことを知っていた。それにもかからず、諫言することなく、漫然と放置していた。
 この場合、社長のみならず副社長たちも引責辞任となるのは、社会常識である。引責辞任とは、降格人事ではなく、会社を去ることである。場合によって、会社に損害を与えたとして損害賠償の責任も負わなければならない。
 
 なお、アメリカ統一教会副会長は9月30日付けで、Joshua Cotter氏は辞任し、後任にMichael William Balcombが韓鶴子氏に任命され就任している。理由は不明。フィリップ・シャンカー副会長は辞任していない。公文に登場するヤン大陸会長も辞任していない。10月9日現在。
 どうも、アメリカ統一教会諸君は、マタイ福音書第9章がもとになった「新しい酒を古い皮袋に入れる」という諺を忘れているようだ。




心に葛藤なき仁進氏

 いったい、仁進氏は事件についてどう語っているのか。

 仁進氏は、フェースブック友だちに、手紙を送っている。(出典は「パシセラのブログ」。http://ameblo.jp/pacificera/entry-11364954357.html。以下は、私が興味深いと思った部分の抜粋である)

私は最大の弱点は、仲のいい夫婦を体現することのできない私だと知っていました。したがって、私は創立記念日の後、私の人生の次の段階に移行にしたかったのです」

「真のお母様は辞任するように言われ、私は喜んでそうしました。私の個人的な生活の詳細が、非常に多くの人を傷つけたことを本当に申し訳なく思います。愛と支援から、憎悪と非難にいたる多くの感情が表明されました。私はそれらすべてを受け入れて、私は私の人生に関わる行った選択のための完全な責任を取ります」

ベンと私は一緒に仕事を始めた頃には、私たちの最初の祝福は、ずっと前に終わった後でした。
 そして私達の両方は非常に虐待的結婚(祝福結婚のこと、それが失敗したという意味だろう)から来たことを悟って、我々はお互いに私たちの友情に大きな慰めと慰めを見つけました。
 今、私たちは、献身的な関係であり、私たちは、美しい男の赤ちゃんを持っている
 カップルとして、我々は神、真の父母様と人類のすべてに自分自身を誓約しています。それは誰を傷つける我々の意図はありませんでした。私たちが望んだすべては、愛することと愛されることでした」


 これを読まれ、読者はどう思われたであろうか。
 
 雲隠れしていながら、「完全な責任を取る」と書けるのは、精神が分裂していると言わざるを得ない。私はこれを読んで、仁進氏は精神の統合が失われた状態、あるいは解離状態にあるという印象を強くした。
「私の人生は次の段階に移行したかった」 
 不倫・不倫出産がアメリカの食口に衝撃を与えたというのに、どこか<人ごと>なのだ。

 ベンの妻とその子どもたちのこと珍成氏との間にできた自分の子どもたちのこと
 まともな感覚の人なら、心の大半を占めるだろう、これらの人たちのことが送信文からはすっぽり抜け落ちているのだ。
 解離状態の場合、脳のスィッチが切り替わるため、具体的な現実が思考や記憶から欠如する。

 あるのは「私たちは、美しい男の赤ちゃんを持っている」(「美しい→可愛い」が正しい訳)というだけ。正直、吐き気を覚える。
 心の葛藤は、どこにもない!なんらかの精神疾患を抱えている(基本にあるのは発達障害)と見て間違いないだろう。そうでなければ、この手紙を読み解くことはできない。
 少なくとも、自分の強制説得によって教会員がPTSDに苦しんでいるのに何の痛痒も感じていない戸塚教会の黒鳥牧師と同じように、呵責すべき良心のカケラさえ持ち合わせていないことだけは確かだろう。


 仁進氏だけではない。不倫相手のベンの公開書信にも、また夫の朴珍成氏の手紙にも、これから苦難の道が待っている自分たちの子どものことには一切触れていないのだ。「子ども」という単語すらない!
 何かが狂っているとしか言いようがない。


両親から愛情を受けなかった文家の子どもたち

 文鮮明ファミリーは病んでいると思う。
 その根本原因は、家族機能が不全だったことだ。



 文氏長男の孝進氏(故人)の最初の妻・洪蘭淑(ホンナンスク)氏は、『わが父 文鮮明の正体』で、次のように書いている。

「文夫妻は子どもたちの養育にはあまり手をかけなかった。(略)赤ちゃんが生まれるとすぐ、その子は教会の『兄弟姉妹』に預けられ、彼らが乳母や子守をした。『イーストガーデン』(文ファミリーの家)にいた十四年間のあいだ、文師か夫人が子供たちのだれかの鼻をふいてやったり、一緒にゲームをするのを見たことは一度もない。(略)
 私自身も、彼の創成期の弟子二名の娘として、子供時代に両親の放置を耐え忍んだ。文師はこの点に関して、ひとつの神学的説明を用意していた。メシア第一、である。
 彼は信者たちが彼の代理として、大衆に対する改宗運動に身を捧げることを期待していた。個人的な家庭の幸せを追及するのはわがままというものだった」


 洪蘭淑によれば、文鮮明ファミリーの子どもがうまく育たなかった理由は、宗教活動が忙しかったからなのか、それとも子どもに関心がなかったからなのか、親としての愛情を子どもに注がなかったことにあるとしている。(拙著『カルトの子』(176~177ページ)

【参考サイト】『 わが父 文鮮明の正体 』日本語版

『わが父 文鮮明の正体』のデタラメだ、と感情的に反発する食口もいるだろう。
 しかし、ごく最近、韓鶴子氏はこんなメッセージを出しているのだ。

真のお母様のみ言の日本語/真のお母様 特別マルスム/天基3年天暦8月16日(陽暦10月1日)/大陸会長、韓国指導者集会―天正宮

 一部を抜粋しよう。

韓国の教会は本当に多くの祝福家庭を輩出してきながら、忘れることのできないストーリーが多くあります。
先に教会に入ってきた婦人たちの夫が協力的ではない場合本当に大変なことが多くありました。
それから開拓しなければならない立場にあったため、全ての婦人老若男女関係無く開拓しに行く時は、家庭を持った婦人は子女を孤児院に預けて行くしかないそのような草創期の頃がありました。

そのように韓国教会が36家庭から始まり430家庭になるまでは本当に多くの犠牲の代価を払い摂理が成されてきたのです。
430家庭の中には日本の久保木元協会長が入っていたと思いますが、国家を代表する祝福家庭の象徴でした。

今日4億双まで全世界的な結果が成されたことについては皆さんがよく知っていると思います。
統一教会の歴史は父母様を中心として、真の家庭、祝福家庭が一つになり、理想的な家庭をなしてそれが手本になってあげなければなりませんでした。

草創期の元協会長、劉協会長は不自由な体で一日中講義だけをしていました。
正常な人も1.2時間するのも大変なのに一日中するのですが、栄養補給もまともにできずに、その時は貧しかったのです。
その時に探し立てられたのが36家庭です。そのため私たちが36家庭を貴く思うのも、そのような心情の根が、土台において育っているからです。

ですから、韓国も、日本も、アメリカも、その時代の熱い、常に教会が愛で溢れていたその時に向かって出発しようという話です。
ですから、教会では原理講義が途絶えることなく、修練が続く教会を作るのです。


 多くの食口諸君は韓鶴子氏のこの言葉を感動的に受け止めるかもしれない。しかし、私を含め一般の人が読んだら、精神が分裂していると感じる。
 子どもを孤児院に預けるような家庭を、どうして理想家庭と呼べるのか。
 教会に仮に愛が溢れていても、家で父・母の帰りを待ちわびる子どもたちにとって、自分の家は愛が溢れているとは決して思わない。

 文鮮明氏が亡くなり、「一つの時代が終った」(宗教学者のアイリン・バーカー氏)今、韓鶴子氏が語るべきは、個々人の家庭を大切にしてこなかった伝統を今後は断ち切らなければならない、という反省の弁であろう。
 子どもの立場に立った目線が完全に欠如 しているのだ。



 母親の韓鶴子氏が国進氏のことを指して、「私の子育てが失敗した」と語ったそうだが、この認識は間違っている。少なくとも14年間もの間、子どもの鼻水を拭かない、子どもと遊ばない。つまり、「子育てをネグレクト(児童虐待のひとつ)」したのである。

 文家を知るうえで重要なことなので繰り返すが、韓鶴子氏は赤ちゃんが生まれると、すぐに乳母に預けていたのである。
 まともな母親、といってもふつうの母親なら、赤ちゃんが生まれると、いとおしい(かけがえの無い存在として、そのものを大切に思う様子)という気持ちが生まれ、毎日抱っこして、お乳をやり、スキンシップする。



 そうした母親らしいことを、韓鶴子氏はしてこなかったのだ。
 妻の子どもに対する態度が変だと思えば、夫が妻をたしなめる。
 しかし、夫であり父親でもある文鮮明氏は、「個人的な家庭を幸せを追及するのはわがまま」だとして、子どもを放置し、妻と一緒に宗教活動にのめり込んでいた。

 つまり、文家の家族機能は100%不全、家族が家族として成立していなかったのだ。
 改めて思うのだが、文家の子どもたちはよくぞ生き抜いてこれたものだ、と溜め息が出る。
  いや、この感想は間違いだ。
 六男の文栄進氏は、離婚後投身自殺(公式発表は事故死)。七女の文情進は、祝福受けず、自殺未遂(教会員の間での噂)。自ら命を絶った、絶とうとした子どもたちがいた。

 親と子のアタッチメントがいかに大切か。それは小犬、子猫でも同じである。
 生後56日以下の子犬や子猫の取引禁止に向けた法改正が予定されているが、人間の子どもより繊細ではない犬や猫であっても、親から早く引き離されると、情緒不安になり、噛み付き癖、吠え癖などがつく。
 ペットを飼っている人なら誰でも経験していると思うが、数日間、家を空けて戻ると、性格が変わってしまったかのような行動を取る。これは一時的な分離不安症、心身症である。人間の子どもなら、もっと症状が出やすい。

 親に甘える時期(0歳から4、5歳まで)に十分に甘えていないと、分離不安に陥り、依存しやすい性格になる
 何に依存するのか。アルコール、タバコ、薬物、過食、セックス、買い物、恋愛、宗教・・・(これを心理学では嗜癖=アディクションと呼ぶ)。

 こんな反感を抱く食口もいると思う。
 乳母に育てられた子どもは、みんなオカシクなるのか。
 もっともな疑問である。これについて説明しておこう。

 孤児院で育てられた子どもは、その昔、早死にする傾向にあった。
 愛情をもって、子どもを育てていた職員は、この状態を何とか改善したいと、様々な取り組みがなされた。
 そのひとつに、孤児の担当職員を交替制でなく、A子に接する職員はBというように、なるべく専属するようにした。
 その結果、飛躍的に改善し(早死がほとんどなくなった)、愛着障害の症状(その典型はチック)も大幅に軽減した。

 このことはすでに常識になっているため、最近の児童心理学の本にはあまり紹介されていないと思うが、10数年前の「アタッチメント」に関する書籍にはケーススタデーとして記載されている。拙著『カルトの子』でも言及したと記憶する。
 
 つまり、韓鶴子氏の母親代わりをする食口を、長期間専属にしていれば、愛着障害が生じたり、アダルトチルドレンになる可能性は軽減されたということだ。生まれた赤ちゃんを特定の人が実の母親と同じように、24時間、愛情を注いでいれば・・・。
  
 この意味で、仁進氏の不倫、ドラッグ依存、離婚率の高さは、甘えるべき時期に十分に甘えることができなかった結果であり、文鮮明夫妻の犠牲者だと私は判断するようになっている。
 仁進氏のどこか<ひとごと>の先の送信文も何となく理解できてくる。

 興味がある人は大型書店で心理学コーナーを覗いて欲しい。小さい子どもを残して海外宣教に出かけた教会員の子どもは、心に何らかの障害を負っている場合が少なくない。不登校、引きこもり、非行など、お子さんのことで悩んでいる人は、ぜひ、研究してもらいたい。『依存症の真相』『愛着障害』『嗜癖する社会』など。

 また、未読だったら、両親が宗教活動にのめり込んだ子どものことを書いた『カルトの子』に目を通してもらいたい。
 そこで取り上げた統一二世の好美(取材当時、21歳)から、昨年、SOSの電話がかかってきた。残念ながら、電話の行き違いから会うことができなかったが、電話口の声は明らかに変だった。昨年の好美は32歳である。ネグレクトの影響は、思春期にとどまるものではない。

 最近になって認識しつつあることだが(春川教会での夫殺し事件を契機に)、統一教会を解くキーワードは、「家族不全機能」「アダルトチルドレン」「愛着障害」「依存症」「共依存症」だと考えるようになっている。後日のブログでこのことに言及するつもりだ。

 
 統一教会は、文鮮明氏、韓鶴子氏を「真のご父母様」と形容する。
 しかし、彼らの子育てを知った精神科医、臨床心理士なら、間違いなく、こんな感想をもらすだろう。

「真の父・母?どうしてそんな形容句をつけることができるのか。クレージーな両親、子育てを放棄(児童虐待)した親たちというしかないのに」

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追記情報-文家の人びと- (10月10日夜)


  文鮮明氏夫妻が子どもをネグレクトしていたという原稿を書いてから、文鮮明氏の自叙伝『平和を愛する世界人として』を、夫婦関係、親子関係という視点で、拾い読みをしてみた。(拾い読みゆえ、間違いがあるかも)
 そこで、気がついたことである。
 今日の統一教会の土台を形成した日本人食口による献金のこと、95年から本格的に始まった清平の先祖解怨事業のことが一切触れられていないことは別として(以下、アットランダム)、

①妻・韓鶴子氏の母親・洪順愛(ホンスネ)氏のことには触れられているが、彼女の父親のことは言及されていないこと。

②350頁の大著にもかかわらず、14人のわが子について語っている記述が極端に少ないこと。
イ)固有名詞としてあげられていたのは、早死にした2番目の興進(フンジン)だけ。
ロ)「私の子供たちは1年の半分近くを父も母もいない中で生活をしなければなりませんでした。(略)このような環境のために、子供たちは(略)孤独を嫌というほど感じて育ちました」
ハ)それよりももっと厳しい困難は、父親のことで受けなければならない苦痛でした。どこに行っても「異端の教祖、文鮮明」の息子・娘として指をさされたのです」
ニ)5人の子供がハーバード大学を卒業したこと。
 たった、これだけなのである。すべて集めれば1頁にも満たない。

 これらのことについて、読者から個人メールに寄せられた情報を紹介しておく。

 まず、①について。
 韓鶴子氏の父親は、洪順愛と死別によってなのか、離婚によってなのかわからないが(おそらく後者)、アメリカで韓国人の女性と再婚した。
 息子が生まれた。つまり、韓鶴子氏の異母弟である。
 韓鶴子氏も、自分に異母弟(統一とは無縁)がいることを知らなかったようだが、最近知り、交流をもったという話である。
(「お父様も公的な場(訓読会でしょうか?)で話されたことです。ですから一般食口の私も知っているのです」)
 ここから類推できることは、洪順愛と違って、父親は統一教会のことをよく思っていなかった、だから、自叙伝に父親のことを登場させることができなかったのだろう。ブログのテーマに引き寄せれば、韓鶴子氏も家族機能不全の家庭で育ったということである。
 文鮮明氏はどうか。
 父親には印象よく書かれているが、「お母ちゃん」に対する記述は愛情あるものではない。
 
②のロについて。
 1年のうち半分も両親がいなければ、子どもはトラウマになる。場合によって「心的外傷(トラウマ)後ストレス障害」になる。
 イギリスの心理学者の論文だったと記憶するが、母親が1週間入院しただけで、PTSDを発症した事例が報告されていた。こうした論文を読んでいただけに、江利川氏が強力に推し進めた40日間のヨス修練会は、児童虐待の一種だと判断している。

 母親は自分が産んだ子どもだからといって、無条件で子への愛が生まれるわけではない。抱っこをしたり、オシメを変えたり、お乳をやったりして、つまりスキンシップをすることによって、次第に愛が芽生えていくものである。
 もろもろの情報を総合すれば、韓鶴子氏には子どもへの愛が育まれていない。
 だから、3男ヒョンジン氏を平気で「切る」し、今度は4男切りだ。おそらく7男氏が歯向かえば、容赦なく「切る」だろう。

②のハについて。
「祝福前、カープの本部にいたとき、クッチン二ムがこられた。
事前の注意事項
<笑顔で迎えてはならない>
.............................。
アメリカでムーニーといわれてあざ笑われた記憶のため意味なく笑ってると怒って帰られてしまうとか」(知り合いの食口から)

 これを読んで、国進氏のことが正直、可哀そうに思えてきた。父母の生き方に巻き込まれた一人の子どもとして。変な表現になってしまうのだが、「おまえも辛いを思いをしてきたね」と抱きしめてやりたくなった。

 ムーニーと言われてあざ笑われた。今でいうイジメだが、より悲惨なのは自分のことが原因で苛められたわけではないということだ。両親のことでバカにされたのである。
 こんなときには、学校から戻ってきた国進氏をしっかり抱きしめ、「私たちのことで、辛いを思いをさせてごめんね」と、言い訳するのではなく、ひたすら抱きしめれば良かった。しかし、抱きしめなければならない両親は世界宣教だ。

 知り合い食口の感想である。
「不思議な数々の思い出。でも今思うと、いろいろな膿がそこにみえてくる。
 結局、傷ついて心が解放されてないクッチン二ム。教会や韓国の昔の価値観で判断され、子供を産めず姑からも旦那からも、親族からも捨てられ傷ついた元ご婦人。嫁を愛せない姑。まことの家庭なんてくそ食らえだ」
「そういえば韓国には『ハナ二ム教会』という信仰団体がある。ここも自分をメシアだとしたご主人が亡くなって
その後奥さんが『ハナ二ムオモニ』」とかいって君臨してる。統一教会もこの道をいこうとしているんだろうなあ」


 ところで、私が前々から疑問に思っていたことがある。
 文3男氏と文4男氏は、裁判闘争するまでに、対立するようになった。
 こうした場合、他の兄弟姉妹はなぜ「兄弟会議」を開き、和解の道を探らなかったか?ということである。
 いろいろな情報を読んでも、文3・4男の対立に、「まあ、お互いに鉾を納めて」という兄弟姉妹が介在したという話は伝わってこない。これはふつうの家族関係にとっては異常なことである。
 2人兄弟ならともかく、文家には大勢の子どもたちがいるのである。
 つまり、文家の兄弟姉妹には「連帯感」()が一切ないということである。
 また、文3男と4男は、昔から兄弟仲が悪かったという情報が聞こえてくる。どうして、仲が悪かったのか。これも疑問だった。

 これについて、知り合いの食口からこんな情報が送られてきた。

「興進氏(第4子、故人)に対し、孝進氏(第2子、故人)がこう言い放ったそうです。
『お前(興進)は、私にいじめられるために存在している』
 こういう趣旨の発言をされたということは、当時の食口たちは知っています」

 つまり、こういうことだ。両親不在によるストレスに加え、社会でイジメに合っても誰も慰めてくれるものがいないというストレス。小さな子どもにとっては、このストレスは過酷であり、強烈である。
 ストレスが嵩じると、発散方法は2つしかない。
 エネルギーが内に向かえば、自傷、自殺企図であり、外に向かえば暴力である。
 このことは拙著『カルトの子』で詳述した。
 ストレスを鈍麻させるにはドラッグだが、これは一時的なもので、ドラッグ漬けになりながら、自殺を試みる、あるいは他者(抵抗しない妻にとか)に暴力を振るう。

 翻って、子どもの頃の顯進ちゃんと国進ちゃんとの関係はどうだったのか。
 私は、興進ちゃんが孝進ちゃんに暴力を振るわれたように、顯進は国進に暴力を振るっていたのだと推測する。
 しかし、国進氏はそれに屈しなかった。取っ組み合いの喧嘩をしたのだと思う。なぜなら、年齢が1歳3ヶ月しか違っていなかったからだ。3歳と4歳のときならともかく、10歳と11歳なら、腕力は拮抗する。

 このようなわけで、文3男と文4男の対立は、それぞれの支持者が主張するような正義をめぐる対立ではない。文夫妻のきわめて不適切な子育て(チャイルド・アビューズ)に起因していると思っているのである。

 いい加減に、目を覚ましてもらいたいものである。
 反統一さんがニヤニヤしていますぜ。 



コラム統一さんと反統一さんは胴体同じで首2つ


 反統一陣営がやっている拉致監禁のことを暴くと、
「統一教会の御用ライター」(国会議員の有田さん)
「統一教会のお抱えジャーナリスト」(脱会屋の宮村さん)
「統一教会のお抱え的ジャーナリスト」(弁護士の山口広さん)
「統一教会のシンパジャーナリスト」(弁護士の山口貴士さん)

 米本の書く拉致監禁情報はどうも統一教会から入手しているようだ。それが唯一の根拠らしい。
 記者の習性というか、王道というか、あたりまえというか、記者は情報をたくさん持っているところに取材をかけるもの。監禁容認派諸氏が拉致監禁の実態をご教示してくれるというのなら、取材を申し込むさ。あたりまえのこと。
 このことは、統一さんも理解できるよね?

 翻って、統一さん、とりわけ文3ヒョンジン氏が大嫌いなごく一部の在米日本人食口の言説構造は、どうなっているのか。

(引用はじめ)
 このように、私の教会にたいする多くの誤報を、週刊誌なみ、偏向的に根拠を曖昧なものからとり(例:ある幹部、ある事情通、文顕進様と郭グループを支持するパイオニアカフェ(嘘だらけ)パイオニアカフェはgildongやパシセラ のブログの主なネタもと)、その記事などを基に、騒ぎ立てられれば、統一教会信者として、無視しつずけることはできません。 
(引用終わり)

 前段で述べたように、記者は情報が集まっているところから材料を拾うもの。パイオニアカフェなどの掲示板を紹介するgildongさんやパシセラさんの記事など。
 それのどこが問題だというのか。
 拉致監禁の情報は、拉致監禁される側から聞くしかない。それはいいけど、文3ヒョンジンさんを支持するブログを信用してはならない?
 統一と反統一は、主張することは違っていても、体質、思考構造(一言で言えば、幼稚)は瓜2つなのだ。そのことに気がついていない、自分の等身大が見えていないのは、滑稽ですらある。

 付言しておけば、パイオニアカフェで書かれている情報は、その後、事実だったことが証明されたものが多い。「嘘だらけだ」というなら、根拠を示して論じるべきだろう。さもなければ、私のことをデマライターと叫ぶエイト君(田中清史氏)と同じ(笑)ということになりますよ。

 

コラム-文顯進氏を支持する人たちに問う-



疑問その1・どうして統一教会員への拉致監禁問題に言及しないのか。
 この問題は、文3男氏と文4男氏との対立軸を超えて、全教会員あげて取り組むべき課題である。拉致監禁事件は大幅に減少しつつあるものの、いま現在も2人の食口が監禁されたままになっているのだ。
 このことに、文顯進氏を支持する人たちは沈黙している。反統一陣営の拉致監禁派への批判も一切ない。このことが不思議でならない。

 統一教会の執行部が拉致監禁問題に本格的に取り組むようになったのは、09年の夏からである。文4男氏が指示したからである。彼のオリジナル政策ではない。「拉致監禁を撲滅せよ」と指示したのは文鮮明氏だったからだ。(93、4年頃だったと記憶する)
 坊主(文国進氏)憎けりゃ、袈裟(国進氏の指示)まで憎し。こうした態度があったとしたら、およそ理性的ではない。

疑問その2「巨額の献金をめぐる利権闘争発生!」 で詳述したことが日増しに現実的になろうとしている。
 韓鶴子氏側に立つ人たちは「今後の統一教会はお母様を中心に」といった言葉をしきりに口にするようになっているし、当の韓鶴子氏の聖和後のメッセージにおいても、文鮮明氏が統一教会の後継者に任命した「文亨進世界会長」の名前は登場しない。そして、文国進氏の表舞台での活動が報告されなくなっている。
 着実に、韓鶴子氏と訓母こと金孝南氏体制が構築されつつある。
 韓鶴子氏は「1・13までに先祖解怨を完成せよ」と檄を飛ばしつつあると聞く。

 すでにご存知のことだと思うが、韓鶴子氏は文鮮明氏の側近の人事に着手している。面談を行い、彼女の眼鏡に合う人物を自分の新たな側近にしようとしている。
 こうした権力構造の変化を見れば、文顯進氏たちが文国進氏を攻撃すればするほど、韓鶴子氏がほくそ笑むことになるのは、よほどのベクトルオンチでなければ、火を見るより明らかである。
 だからといって、文国進氏批判を止めよとは言わないが、権力構造の変化に留意すべきと言いたい。

 私が憂えるのは、国進氏が統一グループから追放されれば、日本・統一教会の権力構造は、中抜き男・総会長の宋氏のもとに一元化されることになる。
 そうなれば、どういうことになっていくのか。
 国進氏がスカウトした実務の最高責任者、大嶋秀幸本部長(元会社社長)がクビになるであろう。宋氏は以前から大嶋氏のことを、ことのほか嫌っていた。
 それと同時に、「拉致監禁対策費」が大幅にあるいは全額カットされるだろう。
 文3男派対文4男派の対立などほとんど興味がない、拉致監禁に反対する私や反統一の元信者たちが心配するのは、このことなのだ。


超面白情報!

 12年間もの長きにわたって拉致監禁されていた後藤徹さんが訴えた裁判のことである。 

  私はこれまで後藤さんの裁判を支援する立場から、
「監禁解放直後の原告の痩せ細った後藤さんの身体の状況」を説明した写真撮影報告書1(甲1号証)
監禁現場荻窪フラワーホームの状況を説明した写真撮影報告書2(甲5)
監禁解放直後に原告を取財した状況及び現場取材に赴いた際の被告宮村との会話の内容(「監禁」を「保護」と言い換え,家族がやっているとして責任転嫁していたことなど)等を説明した陳述書(甲10号)
本件拉致監禁事件の刑事告訴事件における事情聴取等の内容・様子について説明した陳述書(甲46の1)・これに反論する宮村氏の陳述書への反論を書いた陳述書(甲46の2)
私を証人として証拠申出したことに対する被告等の意見書に対する反論の陳述書(甲106の1)
全国弁連に属し、統一教会を被告とする裁判の原告代理人を務め,被告宮村らの活動の実態を良く知る伊藤芳朗弁護士から聴取・取材した内容を元に作成した陳述書(甲107
 -を、東京地裁に提出してきた。

 これらの中で、反論することはできまいと思っていたのは、「甲107」である。

 なぜなら、この甲107は私が見聞したり推察するといった「本来の陳述書スタイル」ではなく、伊藤芳朗弁護士へのインタビューを再現したものだからである。
 伊藤弁護士は周知の通り、東京「青春を返せ裁判」の原告側(元信者たち)の代理人を務めていた人である(主任弁護士は山口広氏)。
 その反統一側の立場に立つ弁護士が当時のことを振り返り、拉致監禁のことを生々しく述懐する。そのため、反論はできまいと思っていた。
(ぜひ、上の反転文字をクリックして全文を読んでもらいたい)

 ところが、この陳述書に、山口弁護士は「意見書」(8月4日付)という形で、反論を加えてきた。
(これもクリックして、全文、読んでもらいたい)


妾とされる女性と歩く山口弁護士。
山口さんに忠告しておく。デタラメ意見書を書く代償は大きいですぞ。依頼者の宮村氏のわがままな要求なんぞ無視して、弁護士になった当時の正義感(真実こそが正義!)を思い出してもらいたい。

 意見書のポイントは、冒頭の数行にある。
<25年間にもわたる全国弁連の活動の一時期、その活動の一端に関わったことのある伊藤芳朗弁議士から聞いたこととして、米本和広氏の陳述書 (甲107)が提出されました>

「聞いたこととして」
 なかなか含意ある言葉である。「聞いたかどうか疑わしい」という意味が含まれているからだ。これを、「聞いたことはないはず」と書いた場合はどうなるのか。その後にそれを覆すような証拠を私が提出すれば、宮村氏の代理人である山口広氏の、今回の意見書はもとより、これまでの主張(準備書面)の信用性を失ってしまう。
  かなり工夫した表現だと思った。

 意見書の構造はこうなっている。甲107は伊藤弁護士から聞いたかどうか疑わしいもので、米本の意図的・恣意的な言説ではないのか。
 では、米本の言説は正しいのかとなり、その結果、私への個人攻撃と相成るのである。

<米本氏ついて、思い込みが激しく、自分が一度描いたストーリーに執着しすぎて、事実関係を冷静かつ公平に見て論評することが出来ない性格であり、その性格が災いして、社会に重大な害悪をもたらしていると、私は考えています。
米本氏は、自分が思い込んだことを絶対視して、客観的な事実を無視し、他の人の迷惑や被害者の心情に配慮せず、社会に誤った情報、片寄った考え方をまき散らしていると評価しています>

 ヒェ~、バタン、死んだ。

 この一文を読まれた方は、米本はなんと偏頗的な性格の持ち主と思われるだろう。山口氏の狙いは、裁判官にそのような心証を植えつけようとしているのである。

裁判員制度が導入されようとしたとき、識者は裁判員が新聞記事に影響されないか心配する声があがっていたことを想起せよ。
 山口氏は自分の意見書が裁判官に影響を及ぼすことを狙って、書いたものなのである。
 彼のことを真実を追及するリーガルプロフェッショナルではなく、勝つためなら何だってする裁判ゲームの達人と評したことがあるが、今回の意見書はまさにそうである。恐るべし、山口。

 
 ヒェ~、バタンと死んだのだが、何だかオカシイぞと思い、生き返りましたとさ。

その1・私は、南山大学の宗教学の教授と元オウム信者の3人で、カルト学習会を催していた。確か2000年から2年間にわたって月1回。山口氏は常連出席者だった。
 勉強のあとは懇親会。彼とはよく席を隣にして、杯を交わしながら、情報交換し、談笑した。
 山口さんは「社会に誤った情報、片寄った考え方をまき散らしていると評価している」私と、よくぞ、杯を交わし、情報交換されていたものだ。まさにひぇ~である。

その2・彼が私のことを最初に評価したのは、2004年末のことだったと記憶する。
 水面下で行われていた拉致監禁のことを私が最初に暴露したのは、2004年11月号の月刊『現代』で発表した「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」だった。
 反統一教会に衝撃的なルポだったらしく、山口氏は『全国弁連通信』で「お粗末な米本論文」と酷評した。
 このコラム書評については「弁護士山口氏のコラムを評す!」で詳述したので省略するが、末尾近くに、こう書かれている。
「彼のジャーナリストとしての根性やこれまでの業績については高く評価していた。しかし、たいへん残念だが、この論文についてはそうコメントするしかない」
 ひぇ~!

「彼は、社会に誤った情報、片寄った考え方をまき散らしているジャーナリスト」と書くべきでしたね、山口さんちの広さん。

 話は横道にそれるが、「火の粉を払う」ことを目的にこのブログを立ち上げた契機は、山口氏のこのコラム書評を批判するためだった。彼の文なかりせば、このブログが誕生することはなかった。 山口氏の一文は、反統一陣営にとって高い代償となった。

その3・<彼がジャーナリス卜としてよりも、カルト反対運動家的立場で取り組んだことがある、ヤマギシ会及びライフスペースといったカルト的団体の被害者の会の運営においても、彼は、反対運動に熱心に取り組んでいた方々が展開していた運動のあり方等について、自分と異なる意見を持つ人々を許容することが出来ず、激しい批判をあびせ、反対活動を結果として分裂させたり、疲弊させたりしました>

 ふむふむ、なるほど。

 私がヤマギシ会やライフスペースに関わったのは、いずれも2000年以前の話である。
 それなのに、「反カルト運動を疲弊させてしまった」私が、主催者の一人となったカルト学習会に、山口さんはなぜ、参加されたのでしょうか。
 またそれのに、どうして、2004年の「お粗末な米本論文」で「彼のジャーナリストとしての根性やこれまでの業績については高く評価していた」と書かれたのでしょうか。
 
 ついでに言っておけば、ライフスペースのことは知らねど
(初耳、具体的事実を教えてくだされ。そうしていただけたら、当時の記憶が蘇るはず)、
 ヤマギシ会への反対運動(ヤマギシを考える全国ネットワーク)の勢いを削いだのは事実である。
 彼らは、自分たちの被害性を訴えるだけで、加害性(ヤマギシの子への虐待のこと)をまるで問題にしなかった。
 そこで、祖父母と一緒に、97年に「ヤマギシの子どもを救う会」を立ち上げた。
 この会結成によって、施設内で虐待を受けていた2000人以上の子どもが解放された。
「救う会」には、“本家本元”の「全国ネットワーク」の元事務局長たちも集ってきた。

 そうそう、だんだんと思い出してきましたとさ。

 東京・四谷で開催した「救う会の結成式」には、反統一の浅見定雄さんや山口さんたちにスピーチしてもらった。反カルト運動を疲弊させた別運動体に、山口さんは参加されていたのですよ。まだ記憶障害になるのには若すぎる。

 ついでに言っておけば、1970年~80年代の東大左翼気分の諸氏は、ヤマギシ会を心情的に支持する人が多く
(見田宗介さんなど「思想の科学」のメンバー。これとは別系統で、当時の左翼運動に大きな影響を与えた「公害原論」の宇井純もいた)
 結成式のスピーチで、山口氏はトンチンカンなことに、ヤマギシ会を支持するようなことをしゃべっていた。
 あとで、浅見さんから「どうしてあんな人を呼んだのか」と詰問された。懐かしい思い出です。

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コメント

文3男派に問う。

 コラム-文3男派に問う-を書き加えました。

きっかけ

在韓の監禁体験者 あらため いいじゃないかです。

「文3男派対文4男派の対立と拉致監禁問題の関係」
とても参考になりました。
なるほど、これでは気にせざるえませんね。
一時的なキャンペーンがお得意の統一教会ですから、
しばらくしたら
「拉致監禁??ああ、そんなのあったねぇ」の世界になってしまう可能性
は十分ありえます。
拉致監禁の体験者からしたら、
教会員でもないのに拉致監禁について
こんなに真剣に考えてくださる米本さんに再度感謝したいです。
ありがとうございます。




ところで本文のほうですが、
これはちょっと、
理解できない方が多いのではないでしょうか??


理由...
私もこのことを悟るまでには長い年月がかかりました。

こういう心が関係する問題は
その渦中にある人間にはなかなか理解しにくいものです。

自分も拉致監禁、PTSDによるさまざまな弊害を通過して
ある意味どん底を経験し
「家族のためにそこから這い上がろう」としたからこそ
悟れたのであって、
ただなんとなく生きていたらわからなかったと思います。

今振り返れば、私は毒親に育てられて
愛着障害をおこしていて
あるいみアダルトチルドレンだったし、
なんかうまくいかない人間関係の中で
「何が正しいことなのか」をもとめて
教会に来て、
原理原則だけをとおして物事を判断しようとし、
自分の心を無視してみむねだからと活動し、
教会中心の関係性のなかで自分をさしおいて
生活せざるえなかったし、
日本や教会やご家庭をあかすために
「いい人」になろうとして
自分にも、子供たちにも無理を要求していた.....。

何が言いたいのか?
そうですね~、もし上記の米本さんの記事をご覧になって反発を感じられる方、
いらっしゃいましたらぜひ米本さんの紹介されている本をご覧になることを
お勧めします。
特に「愛着障害」は一番わかりやすいかもしれません。
誰にでも多かれ少なかれ当てはまる内容です。
もし読んで納得がいかなかったとしても
心のどこかにとどめておいてください。
いつか必要になるときがくるかもしれないから...。

ちなみに個人的には
「嗜癖する社会」がすごいヒットでした。

何って、これまで自分が感じてきた
韓国社会について、教会について、
なにより私が生まれ育ってきた生き様について
こんなに言い当ててくれた本はなかったからです。
そしてそれらから私が脱出してきたプロセス.....
自分は自分なりにがんばってきたけど
もがきながらも
なんとか正しいほうに来ていたんだなあって
ちょっと嬉しくなりました。
これからは私と、
以前の病んだ私が育てて苦しむだろうわが子たちのために
どうするかを考えないといけません。

しかし、一方では
以前「教会に来る人は発達障害系とか人格障害、アダルトチルドレン系の人が
多い」とした私の考えも正確ではなかったなあ、って考えさせられました。
もっと丁寧にいうなら
嗜癖社会、家庭が愛着障害を生み
愛着障害が発達障害「的」、人格障害「的」人物、
アダルトチルドレンを生み、
その人たちが居場所を求め、不安ゆえに、教会に依存して来た.....
というかんじかな。


長くなりました。
この米本さんの試みが、教会を正しくし、
教会員の心が健康になって自由になる
そんなきっかけになってくれたらいいとねがいつつ
終わらせていただきます。

こんなつたない文を最後まで読んでくださった方、
ありがとうございました。

  • [2012/10/10 15:53]
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追加

一番重要なことをわすれてました。

キリスト教はイエス様を人間としてみる
統一教会をきらいますが、
統一教会は、真のご家庭を特別視して
一人の「人間」としてみるのを嫌う
ところがあるように感じます。

私は
真のご家庭だからといって
ご子女様だからといって
理想を押し付けたくはありません。

同じ人間としてみたならば
どれだけ気の毒な方々でしょうか...。


ただ個人として気の毒な方でも、
その人が責任者として立った場合
その集団の悲劇が始まります。

そういう意味でも
すべての人が正しい知識をもって
自分や他人を判断できる目をもつことは
とても大切ではないでしょうか?
  • [2012/10/10 16:54]
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R:コラム-文顯進氏を支持する人たちに問う-

米本さん。
見立ては小生とほぼ一致しています。いま公にできる範囲で2、3付言すると、文顕進・郭錠カン体制は拉致監禁根絶に反対していたわけではありません。また根絶しなければならないと力強く表明、運動を推進したわけでもありません。実際は「ただ見ていた」のです。

私が拉致監禁問題にタッチし始めたのは1990年頃からで、月刊誌『創』に批判連載などを執筆したのは1992~1993年でした。当時、日本統一の会長は大塚克己氏、世界を事実上指導していたのは郭錠カン氏でした。文亨進・国進体制が拉致監禁完全根絶を宣言する約10年前で、大塚氏は当時「拉致監禁だけは絶対に無くしたい」と私に話していました。

また、桧田仁衆院議員(当時)が国会で拉致監禁問題を追及したのは2000年4月。これも顕進体制に替わって2008年に亨進体制が発足するずっと以前です。

ところで、私は2回ほど郭氏と簡単な挨拶を交わした経験があります。もちろん郭氏は私が何者で何をしているか承知していました。取材に習熟した物書きは相手の〃波動〃から、自分や自分のかかわっている事柄への好悪を敏感に感じ取るものです。(米本さんもそうだと思います)。

背筋をピンと伸ばしたスリムな郭氏の柔和な笑顔から、私はある種の〃無関心〃を読み取りました。拉致監禁問題解決への信仰的使命感も、反対にそのエネルギーを制止しようと考えている打算も感じませんでした。

〃邪魔になるものではないしマイナスにもならないだろう。外部や日本統一がやりたいと言うのならやらせておこう〃。

郭氏の波動から、私はそんなメッセージを感じ取りました。

要するに、文顕進・郭錠カン体制期の統一教団の拉致監禁根絶運動は、世界統一の傍観のもと、一部の日本統一指導部のいわば〃熱意だけ〃で実践されていた。そして、やがてその熱意も完全に冷めかかったとき、文亨進・国進体制、徳野英治指導部への劇的な転換がなされた。つまり、文顕進・郭錠カン体制下においてすら傍観政策のもとで、途中までは、日本統一によって拉致監禁根絶のための取り組みがわずかながらも進められていたのです。

私が強く危惧するのは、そうした経緯にも無縁な現在只今の途方もない、そして、あらゆる理性的解決の糸口を失って混乱の極にある世界統一の権力構造の行方です。亨進・国進体制の進軍ラッパが完全に消え果て、さらに顕進・錠カン体制並みの傍観政策まで廃棄されて、間逆の拉致監禁根絶運動禁止令が世界統一新体制から出されてくることなのです。
あるいはそうは断言しなくても、人事や資金配分を利用して拉致監禁根絶派に対する抑圧弾圧が実行されることなのです。

私にとっては、米本さんほど断言するにはもう少し時間の経過が必要ですが、物書きの感覚は明らかに赤信号の注意喚起をうながしています。この嫌な感覚が見事に外れて、拉致監禁根絶闘争がさらに前進することを強く期待しているのですが…。

ネグレクトと、真の愛

現役の、統一教会員、食口、です。

米本さんの統一教会への認識は、おおむね正しいと思います。

***引用始
統一教会を解くキーワードは、「家族不全機能」「アダルトチルドレン」「愛着障害」「依存症」「共依存症」だと考えるようになっている。
***引用終

そのキーワードは、統一教会でいうと、真の愛の欠如、という事だと思います。
なので、キーワードを逆に言うと、真の愛、を基準に考えるという事だと思います。



一般人(食口との対比)としての考えとしては、
真の父母様が、真の愛を持っているとは思えないでしょう。
私は、理解されないだろうなあ、と思っています。

理解されないだろう、と思う理由としては、
統一教会でいうところの「真の愛」とは、
『神様から見た次元での愛』だからだと思います。

それに対して、
一般人が想定する真の愛とは、
『家庭を持つ人間として備えるべき愛、
素晴らしい家族愛』
だと思います。

そこに、天と地ほどの差が出ると思います。
食口も、素晴らしい家庭愛、を求めていますが、
それよりも家族愛に留まらない国家愛世界愛をより求めます。
その二つの優先順位が、世界愛を優先となります。



そして、真の愛の認識の違いの一番の問題は、
A家族愛を優先する事で、世界愛を表しづらい人
(つまり、家族を多く愛して、摂理への貢献が少ない人)
よりも、
B家族愛を優先せずに、世界愛を表す人
(つまり、家族をあまり愛せず、摂理への貢献が多い人)
を重視するあまり、
家族愛を軽視する可能性がある事です。

愛(家族愛)と信仰(世界愛)のどちらが重要か、
となると、愛よりも信仰の方がわかりやすく、
評価しやすい、というところに罠があると思います。
もう一つの罠は、
愛を、世界愛と認識し、
愛と信仰のどちらも世界愛を表し、家族愛を捨象する事だと思います。



統一教会に入教される方の動機は、
真の愛を求めて、というのがあります。
(もちろん、他にもあると思いますが、一旦これで話を進めます)
今まで得られなかった真の愛が、統一教会にはある、と思って入教する事があると思います。

それは、間違いとなりやすい思い込みです。
私が思うに、
重要な定義としては、
統一教会は、真の愛のあるところ、では無い。
(統一教会に、真の愛が全く無い、とは言いません)
統一教会は、真の愛を求めるところ、である。
と認識すると、誤解が少ないだろう、と思います。

家族愛よりも、世界愛を重要視しますが、
それは、家族愛を軽視しているわけではありません。
そして、家族愛を重要視する人こそが、
正しく世界愛を為す事が出来る。

私としては、
家族愛を重要視した上で、世界愛をより重視している方が、真の父母様である文鮮明・韓鶴子夫妻だと思っています。


伝えたい内容としては、
A、米本さんの認識は正しい。
B、『真の愛』の認識が、一般社会と、統一教会では違う。
C、統一教会は、真の愛のあるところではなく、真の愛を求めるところである。
の3つです。


まとめると、
多くの(全てではない)統一教会信徒は、私も含む、
家族を愛する事ができないまま、世界愛を成そうともがいている、と思います。
家族を愛しようと、頑張っている人もいれば、あきらめている人もいると思います。
今の流れは、長期でもつ組織形態では無い、と思います。

私を含めた、意識ある人によって、より良い統一教会に変わっていく、と思っています。
基元節までには変わらないだろうとは、思いますが。

私の意見が伝わると嬉しいです。
上手く伝わってますか?

自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ

タイトルは、マタイによる福音書第十九章からです。

母親の愛に象徴される自己犠牲の愛が大好きな多くの日本の食口は、自分を大切にするということを罪のように考えているように思います。
その結果、当然自分の家庭も全体の前には犠牲にするべきという、お国の為に滅私奉公みたいな雰囲気が生まれやすいし、そうしない人は非国民のような目で見られやすいと思います。
もちろん、そのようなご家庭では子供さんも子供の理解できない犠牲を強いられやすいです。

人は自分を扱うようにしか他人を扱うことができないというのが、このイエス様の御言葉だと思います。
自分が神様から愛されている尊い存在であるということを理解して初めて、自分の周りにいる人も皆、同じように神様から愛され尊く思われている、一人一人だということが理解できてくるからです。


daniyyelさんのおっしゃりたいことの中心はこういうことなのかなと思いました。

でも、自己愛が自分だけに向かうとナルシストになって、仁進様やベンさんのようになってしまいますが。

Re:自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ

秋桜さん、ありがとうございます。

だいたいおっしゃる通りです。
コメントしていただいて嬉しいです。




Re:、としながら申し訳ないのですが、
さらに米本さんへのコメントをさせていただきます。

 私は、米本さんは、良き常識人だと思います。
 ゆえに、米本さんが理解できない内容は一般人が理解するのは、難しいと思います。
 ですので、米本さんが理解できるように伝える事が、多くの一般人に伝わる事につながると思っています。


何を言いたいかというと、
 米本さんから見た統一教会の不可思議の部分をあげてもらう事で、一般人から見た統一教会の姿がわかりやすくなるので、とても助かっています。
という事です。

私のまわりにも、拉致監禁体験者がいます。
拉致監禁の撲滅のために、米本さん、頑張ってください。
私も、ビラ配りや、渉外などで、頑張ります。

情報ありがとうございます

いろいろな情報、助かります。
現役食口として、文先生の位置と価値を疑うものではありません。しかし同時に、文先生と真の家庭を「神格化」することには違和感を感ずる者です。イエス様が人間であったように、文先生も人間、限界はもちろんあります。したことがすべて落ち度がないと考えるなら、むしろ矛盾だらけになって説明困難になります。イエス様を神格化してしまったことろに、キリスト教の問題の根があるでしょう?統一教会が同じ間違いを犯すのはおろかです。
うちの教会リーダーたちは、子供向けプログラム、例えば日曜の教会学校などに熱心でないな(熱心な国や教区もあるかもしれませんが)と、前から思っていたのですが、最近になって、これはうちの教区の問題というより、教会全体、さらに文先生の傾向から発するのでは、と思うようになりました。子供たちが小さい間は、子守役の人に任せて、関心も払わない、なのに大きくなったら、急に、大人なんだから、と言って、大きな責任を与える、期待する、というパターンの様な気がします。2世でも、文家の子女でも、小さい時から親が(またはその代理者が)良く交流して信頼関係を築かないと、急に責任を負えるわけがありません。

文先生ご夫妻が、「カインの子(メンバー)を優先する」という原理的理由で、お子さんたちを直接育てなかった(「犠牲にした」)のは、まったく事実です。今思えば、お母様のほうが、文先生の反対を押しても、お子さんを直接育てたら良かったと思いますが、メシアである、ずっと年上の夫の言うことに逆らうことはとてもできなかったでしょうね。ご夫妻も人の子、人間なので、近年において、一部の小さいお孫さんをいつも傍において、実子のように「育てて」いたのは、小さい子を育ててこなかった、空白の埋め合わせを無意識にされていたのではないでしょうか。
原理的理由があったにせよ、当時はそれが正しいことであったにせよ、長い目で見たら、お子さんたちを犠牲にしてきたことが、今日のお子さんたちの様々な問題の根源になってしまいました。。。さらに、文夫人とお子さんとの間の問題にも。。。それによって苦労するのはメンバーなわけですから、残念ながら、建設的でなかったなあ、と思わざるを得ません。
すんでしまったことは、しかたがないのですから、これから私たちがどう対処するかを、考えましょう。

内憂外患

<統一教会を解くキーワードは、「家族不全機能」「アダルトチルドレン」「愛着障害」「依存症」「共依存症」だと考えるようになっている>(ブログより)

<家族愛を優先せずに、世界愛を表す人(つまり、家族をあまり愛せず、摂理への貢献が多い人)を重視するあまり、家族愛を軽視する>(daniyyelさんのコメントより)

<原理的理由があったにせよ、当時はそれが正しいことであったにせよ、長い目で見たら、お子さんたちを犠牲にしてきたことが、今日のお子さんたちの様々な問題の根源になってしまいました>(千尋さんのコメントより)

<人事や資金配分を利用して拉致監禁根絶派に対する抑圧弾圧が実行される>(室生さんのコメントより)

米本さんの分析、daniyyelさんの説明、千尋さんの説明、室生さんの危惧に同感です。

統一教会は今まさに内憂外患の渦中にあると思います。
内なる矛盾、外からの迫害・攻撃。
どちらがより重要か、優劣を付けることはできませんが、私は、拉致監禁問題は宗教団体うんぬんの問題以前の憲法違反に関わることなので、何はさておき、拉致監禁を根絶(解決・勝訴)しなければいけないと考えます。

統一教会が恥ずべき団体であり、改善しなければならないことは確かですが、そのことゆえに拉致監禁が放置され、見過ごされることはあってはなりません。

アメリカで拉致監禁問題を訴えていた仁進さんの不祥事は、ダメージが大きいですが、かといって、この運動の火を消すわけにはいきません。

米本さん、室生さん、これまで同様、これからも、よろしくお願いいたします。

(1)統一独特用語に呪縛されている。

 たくさんの投稿ありがとうございました。
 
 最初に。「いいじゃないですか」さんも推奨されていた『愛着障害-子ども時代を引きずる人々』(光文社新書、903円)を、ぜひ読んでください。
 親が子どもに十全な愛を与えない場合、その子どもが大人になったとき、どんな問題を抱えることになるのか-が平易に書かれています。

 また、私の問題意識のベースにあるのは、2000年に書いた『カルトの子』です。統一教会、オウム真理教、エホバの証人、ヤマギシ会の子どもたちのことを詳述しています。これも読んでいただけたら、問題意識を共有することができます。
 自分で言うのは気が引けますが、大宅賞、講談社ノンフィクション賞にノミネートされましたから、出版人から評価された本です。
 すでに絶版になっていますが、図書館にはまだあるはずです。海外在住の方は手に入りにくいと思います。手元に10数冊在庫があります。ファックスなり葉書なりメールなりで、注文していただければ、お送りします。

 さて。

daniyyelさん
>私は、米本さんは、良き常識人だと思います。
>ゆえに、米本さんが理解できない内容は一般人が理解するのは、難しいと思います。

 このことを前提に、投稿にコメントしておきます。

 統一のことが理解されにくいのは、他の宗教に増して独特の用語にありすぎるということです。

「真」「摂理」「天宙」などなど。
「真の愛」とは一般人からすれば「本物の愛」と受け取りますが、統一ではそうでなく、「神への愛」「神からの愛」あるいは「世界愛」「自己犠牲の愛」ということのようです。
(投稿者によって“変換”が異なっているのが気になりますが)

 拉致監禁問題を取材するようになって、ある程度は統一教会のことを理解しなければならなくなったとき、最初に躓いた用語は「摂理」でした。
 辞書を引くと、「最終的に人を善へ導く、神の意志」。これは『新明解国語辞典』ですが、『広辞苑』には宗教用語というクレジットのもとに、「キリスト教その他の宗教で、神が人の利益を慮って世の事すべてを導き、治めること」と、やや詳しく定義しています。

 ここでは簡単に「摂理」を「神の意志」としておきます。
 ではなぜ、辞書に定義されている用語なのに躓くのか。
 それは「経済摂理」といった、摂理の冠に様々な言葉をくっつける統一独特用語が摂理お化けの如く、頻繁に登場するからです。

 食口から献金を求めるのに、どうして「経済摂理」、“神の意志として人に献金を求める”といった言葉を使わなければならないのか。「統一運動の発展のためにこれこれの金額を献金してくれ」と言えばいいだけのことです。
 経済摂理にはさらに「天福函摂理」といった固有名詞がつく。天福函摂理は日本円にして300億円。
 神の意志として、統一教会員に総額300億円の献金を求める。
 神の意志は誰が伝え聴いたのか、なぜ300億円なのかを質問しても、幹部を含めて誰も答えることはできませんでした。

 これは、一体、どういうことなのでしょうか。

 一般人なら、当然疑問に思うけど、食口がアベル食口に質問したという話は、ついぞ聞いたことがありません。

 何を言いたいのか。
 一般社会では到底理解できない統一独特用語が振りかけられると、食口たちはとたんに思考停止になるか、一般社会に言葉では説明できないような抽象世界(夢想世界)に陥っていってしまう。
 これが最大の問題なのです。

 キリスト教界には「キリスト教用語辞典」など用語解説の本がいくつかあるけど、統一の場合にはそれがない。(仏教用語辞典も無数にある)
 唯一あるのは、故川崎経子さんが出版された『統一協会の正体』の巻末にある用語解説だけです。

 統一教会員は、統一教会用語に呪縛されているという印象を強く受けています。

 ある元教会員(自然退会者)は、この呪縛から解放されるために、統一教会用語を口にするのを自ら禁じ、日本語に変換できる用語は、できるだけふつうの言葉に置き換えて、思考するようにしたそうです。そうやって、統一教会世界を止揚することができたといいます。

 誤解しないでもらいたいのだけど、別に統一教会からの退会を勧めているわけではありません。「信仰する」ということと「呪縛される」ということとは、意味がまるで異なると言いたいのです。

 最近、「解怨摂理」なる言葉が登場したようですが、一体、これは何のなのでしょうか。

 で、本題の「愛」についてです。

(2)一人は万人のために、万人は一人のために。

daniyyelさん
>統一教会でいうところの「真の愛」とは、『神様から見た次元での愛』

 神の存在を信じない私には、抽象的にはわかっても、実感できないゆえ、「真の愛」に言及することはできません。

 ただ、<自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ>で説明された秋桜さんの投稿に、
daniyyelさんも「だいたいおっしゃる通りです」と肯定されているようですから、この聖句で言うところの愛、またdaniyyelさんも使っている「世界愛」というレベルでの「愛」を使わせていただきます。
 文鮮明氏の自叙伝でも、「人類愛」とか「世界愛」を「真の愛」としているように読めますし。

 家族愛と世界愛。
 利己心と利他心。
 奪う愛と与える愛。

 このような愛の二項的考えは、宗教だけではなく、マルクスも同じです。
 タイトルの「一人は万人のために、万人は一人のために」がそうです。
 言葉の由来は省略しますが、協同組合運動の創始者オーエンの影響を受けた仏のユートピアン、カベは『イカリア旅行記』(3版、1845年)に明記されているそうです。

 これらを平たく単純化していえば、「自分のためではなく、みんなのためにも」ということになるでしょう。

 個人的なことになりますが、私はこの言葉に大いなる影響を受け、民主青年同盟に加入し、学生運動にのめり込みました。もう一つ影響を受けた言葉は「犠牲的精神」でした。

 しかし、次第に共産党系の運動に疑問が湧くようになりました。それは、「一人は万人のために」のみが強調され、「万人は一人のために」が軽視されている、ないしは無視されていると実感する(秋桜さんのいう「滅私奉公」)ようになったからです。
 一人の運動仲間が苦しんでいるのに、組織も仲間も、救いの手を差し延べようとしない現実をいやというほど味わったからです。

 統一教会も同じです。
 私の「統一教会には愛がない」という言葉が活字になったのは、『日本収容所列島』(梶栗玄太郎編)に所収されている後藤徹さんとの対談記事(第6章/対談・拉致監禁をなくすために)においてでした。
 
 拉致監禁の取材で、多くの教会員にインタビューする中で、そのことを強く感じました。
「信者が拉致監禁されても、信者仲間や組織は知らん顔をしていた」というのがその典型です。こんな団体は世界中を見ても、宗教法人・日本統一教会だけでしょう。

 肌で感じたこともあります。ある教会の日曜礼拝を見学したとき、教会員同士が会話することもなく、黙々と礼拝を行い、礼拝が終るとまた黙々と会場から去っていく。
 実に寒々とした光景でした。隣人を愛するといった雰囲気は微塵もなかった。
 そこの教会のリストに載った教会員数は400人。実際に礼拝に参加するのは200人。
約半分が退会ないし退会状態だというのに、そのことを問題にする人はいない。 
 長年、宗教に限らずいろんな組織や団体を取材してきましたが、こんな組織は初めてです。たいそう驚きました。
 不参加の理由をその教会の幹部クラスに聞くと、「献金疲れでしょう」と、これまた平然という。
 前回の投稿で使った言葉を用いれば、「神の意志に従って疲れてしまった」ということになります。こんな神様は遠島に送ってやるしかない。

 話を愛に戻します。
 統一教会の愛は、家族愛と世界愛(人類愛)という二項が対立しているのです。
 これはキリスト教一般に言えるそうですが、「天国か地獄か」の言葉に代表されるように、
キリスト教系宗教の特色の一つは、二項対立的思考方法(白か黒かのいわゆるカルト的思考)にあります。

 ブログにも書いた文鮮明氏の言葉はその権現のようなものです。
「個人的な家庭の幸せを追及するのはわがままというものだ」
 
「一人は万人のために」と「万人は一人のために」とは、本来決して対立するものではありません。チームスポーツを考えればすぐに理解できると思います。対立するようなチームは万年最下位か、チームそのものが解散となる。

 それと同じように、家族愛と人類愛とは決して対立するものではない。
 しかし、対立するのが統一教会の組織的体質になっているから、教勢は衰える一方なのです。

 組織的体質になっているから、両立させることは絶望的です。唯一可能性があるのは、アホアベルなんぞに従わず、組織に依存することなく、食口が自立した信仰者になることしかない。そうした人がはたして何人生まれるのか。

(3)人類愛の前にまっとうな子育てを。

「愛」の話は終わりにして、ブログ記事の主題に戻します。

「いいじゃないですか」さんが指摘されていることはとても重要です。

 動物と違って、人間の場合、子どもが自立する期間はとても長い。

 仮に、自立の年齢を18歳とすれば、子どもは実に18年間にわたって、親から、家族からの影響を受け続けます。影響を受けるだけでなく、親の指示に従わないと、メシさえ喰わせてもらえない。とても弱い存在なのです。

 この18年間に、「チャイルドアビューズ」(不適切な育児=毒親の育児)を受け続けると、子どもは自立してから死ぬまで、
「信頼や愛情が維持されにくい」
「何度も結婚に失敗する」
「対人関係でほどよい距離が取れない」
「傷つきやすくネガティブな反応を起こしやすい」
「ストレスに脆く、心身症や鬱になりやすい」
「対人関係を破壊するような怒りにとらわれやすい」
「過去にとらわれたり、過剰反応しやすい」
「全か無になりやすい」
「依存症になりやすい」
「性的な問題をかかえやすい」
 -などなどに悩まされ続けます。

“真のご子女様”たちの問題行為は、これからも続くでしょう。母親の韓鶴子氏に期待することはできませんから、専門のカウンセラーで治療を受けるしかありません。

 ともあれ、「人類愛」を口にするのもいいけど、自分の子どもに情愛を注がないと、大変なことになります。

「人類愛」を主観的に実現するために組織や真の母サマの言葉に依存することをやめ、一般社会からみてまともな親、自立した信仰者になることがきわめて重要なのです。

わかっていました

米本さん、
残念ながら、おっしゃるとおり、正直言って、これから文夫人、お母様に多くを期待することはあまりできそうにありません。そういう意味では、子女様たちもそれぞれ問題を抱えていることを前提において、今後を見ていかなければなりません。私自身、実はほぼわかっていたことですが、認めたくはありませんでした。今後、ご一家を讒訴するようなことをするつもりはまったくありませんが、客観的に、注意深く、しかも建設的に信仰していくつもりです。また送信します。

提言-食口投稿者のみなさまに

 千尋さんの主張というか感覚というか、かなりの部分で共有できるものがあります。なかなか鋭い分析と勉強になることも多いです。

 ただ、お願いなのは、できるだけ「一般人にわかる言葉」を使うようにしていただけないのか-ということです。

 もちろん、千尋さんが用語問題について問題意識をもって、かなり努力していらっしゃることは理解しているつもりです。

 でも・・・。

「文夫人、お母様」は、「文夫人」だけでいいのでは?
 私は個人を尊重するので、なるべく「韓鶴子氏」と表現するようにしています。「韓鶴子さん」でもいいし、「韓鶴子先生」でもいいでしょう。

「子女様」は、やはり文鮮明氏(さん、先生)夫妻のお子さんという表現がまともな感じがします。

 もっとも、「様」(ニム)をつけるのは、教会員にとってもう癖のようなものだから、気にならなくなりましたが(苦笑

 笑われると思いますが、教会員が「クッチンニム」といった使い方をしていたので、ニムは名前の一文字かと思っていたことがあります。それで思い切って、「国進」の次にくるニムはどんな字を書くのかと真面目に聞いたことがありました。

 元に戻って。

 しかしながら、「讒訴」だけは馴染めません。広辞苑では「①讒言して訴えること。②かげぐち・かげごと」と書かれています。

 では、讒言(ざんげん)とは、どういう意味なのか。

「人をおとしいれるため、事実をまげ、またいつわって、(目上の人に)その人を悪く言うこと」 

 統一教会員にとって、讒訴の言葉にはサタンが絡んでくるから、よけいややこしいのだけど、ポイントは諫言(かんげん)と違って、讒訴には「事実をまげ」「いつわって」「悪く言う」という意味合いが加わることです。

 それゆえ、讒訴は良くないことですが、諫言は間違っていません。

 私は統一教会や教団の指導部を批判しています。しかし、そこには「事実をまげ」とか「いつわって」とか「悪く言う」といった要素はないはず、と自負しています。(むろん、秘密めいた団体だから、曲解していることもあるとは思いますが)

 千尋さんも「批判」とか「諫言」を、「讒訴」だなんて考え違いをされないほうがいいと思います。

 批判は大いにやるべきです。批判のないところに進歩はないのですから。

 統一教会が衰退している理由の一つに、これまで内部から批判されることがなかったことがあげられます。

 批判をすれば「それは讒訴だ」とアホアベルから言われると、思考が前に進まなくなる。それが原理信仰者の最大の弱点だと考えています。

 余計なことをついでに言えば・・・。
 個人的な感想なのですが、アホアベルや、ぶーたれカインに、これまで取材してきましたが、アベルよりもカインの人たちのほうに「利口で賢明な人」がはるかに多かったということです。

 もっとも、利口で賢明カインはかなりの割合で退会していきました。

 全国弁連の渡辺博弁護士に懲戒請求を出したのは、田中幸子さんでした。とても勇気ある行為でした。監禁諸派はバックには統一教会がいると勘違いしていたけど、彼女独自の行為でした。(渡辺弁護士の秘密めいた手紙・シリーズを読んでくださいな)
 私は密かに田中さんのことを「カインの女王」と命名していましたが、やはり退会してしまいました。

室生さんの投稿を読んで。

 室生さんの「R:コラム-文顯進氏を支持する人たちに問う-」を読んで、思わず、過去を振り返って考え込んでしまいました。

 まず、拉致監禁に反対していたかどうかの基準は、「口先ではなく行動にある」と規定しましょう。

 教団職員や教会員に、「拉致監禁をどう思うか」と質問すれば、「賛成」するというドアホ食口はいないでしょう。静かに「反対する」という人か、声高に「反対する」という人だけでしょう。

(もっとも90年代の中頃には、「拉致監禁される奴が悪い」とか、「拉致監禁される奴は親子関係がうまくいっていなかったからだ」とか、脳のネジが一本か二本取れているような中堅幹部もいましたが。
 あっ、そうそう、監禁から脱出して統一教会に逃げ帰った食口に対して、「反統一のスパイ」と疑ったバカ幹部もいました)

 で、歴代の日本・統一の最高責任者である会長はどうだったのでしょうか。(以下、敬称を略す)
 初代久保木から今日の梶栗まで、日本の会長で、公に「拉致監禁に反対する」といった人はいたでしょうか。

 私が記憶するところによれば、徳野だけです。
 徳野は引責辞任の記者会見で、全国紙の記者諸君に向って、こう宣言した。
「私は今後一兵卒となって、拉致監禁と闘います」

 笑止笑止。
 
 このオッサンが一兵卒となって、拉致監禁反対のために何かやりましたか?このクソ徳野めが。

 つまり、日本の会長は誰一人として「拉致監禁問題に取り組んだ」ことはありません。口先大塚なんかそのさえたるもの。

 私は,鈍い男なもので、波動など感じません。(唯一、女性の視線だけは敏感になっておりますが)

 室生さんの最大の問題記述は以下の部分です。

要するに、文顕進・郭錠カン体制期の統一教団の拉致監禁根絶運動は、世界統一の傍観のもと、一部の日本統一指導部のいわば〃熱意だけ〃で実践されていた。そして、やがてその熱意も完全に冷めかかったとき、文亨進・国進体制、徳野英治指導部への劇的な転換がなされた。つまり、文顕進・郭錠カン体制下においてすら傍観政策のもとで、途中までは、日本統一によって拉致監禁根絶のための取り組みがわずかながらも進められていたのです。

「拉致監禁」に問題意識があった統一本部・カープ本部職員は、ごくごく少数でした。

 こう結論を下す基準は、「口先だけで、拉致監禁には反対だ、拉致監禁諸派とは闘うぞ」といった人種は端から排除しています。

 きわめてごく少数、ごく少数ですよ。

文先生の価値

すみません、米本さん、

千尋さんに質問してもよろしいでしょうか?

>現役食口として、文先生の位置と価値を疑うものではありません。

このように断言する根拠を教えて頂くとありがたいのですが。

統一原理を絶対と見るところからの発想でしょうか?

私にとって、原因と結果の法則から考えると、これらの諸問題の原因は、どうしても文先生に行き着くのです。

お子さんの問題も、文夫妻が我が子も満足に愛し指導できなかった事の結果だと考えたら、
どうやって他の人に『人の道』、『親の愛』を説くことができるのでしょう?
ましてや、『人類の真の父母』と公言できるのでしょうか?

日本の巨額な献金も、たとえ幹部に責任があるとしても、それを見抜き指導できなかった
文先生の能力に問題があったと思うのが普通ではないでしょうか?
(故意に指導してたら別ですが、、、)

私個人としては、どんなに統一原理の正しさを訴えられても、この結果では、
自分の師として仰ぎ見る事はできません。

これは、一般人の感覚だと思います。

文先生は、その一般人を救うために来られたのですよね?

千尋さんの確信の世界に尋ねてみたくなりコメントさせて頂きました。


Re:(2)一人は万人のために、万人は一人のために。

取り上げていただいてありがとうございます。

以下の米本さんの言葉はとてもわかりやすいと思いました。

***引用始
「人類愛」を主観的に実現するために組織や真の母サマの言葉に依存することをやめ、一般社会からみてまともな親、自立した信仰者になることがきわめて重要なのです。
***引用終

この事は多分、

信仰を大義名分にして、
人を傷つける(人を愛さない)のを正義とする行為。

ようは、上記の行為を、やめなさい、って事だと思います。



私が思うに、

アベルが間違った要求をしても、
十全の愛を受けた人は、間違った要求だと理解できるので、
アベルの要求を撥ねつける事が可能です。
(撥ねつける事が正しいかどうかではなく、可能かどうかの話です)


しかし、十全の愛を受けていない人は、
アベルが間違った要求をしても、
間違った要求だと理解できないので、
(断る事は、相手や自分の人格の否定となるため)
アベルの要求を撥ねつける事が出来ない場合があります。
(その人の愛の充足具合によるので、一概には言えませんが)


つまり、真の愛をもっていないアベルと、真の愛をもっていないカインで、悲劇が生まれ得るという事です。
※補足
カインが真の愛をもっている場合、アベルの要求程度で傷つかないと思います。
アベルが真の愛をもっている場合、そういう無茶な要求はしないと思います。





おまけですが、
神の存在を信じない米本さんに、
真の愛を日本的にわかりやすく説明できれば、と思います。


家族を愛する気持ちは湧き上がるほどにたくさんあるが、
世界を愛するために我が子を犠牲にして私の心が痛んでも、
更には子供の心が傷つくことがわかっても、
家族よりも世界を優先して、世界を愛する。
日本でいうと、義理と人情の板挟み、に近い感覚です。
※平清盛の息子の平重盛の逸話、
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」のような。



同じ内容を、神様を親、イエス様を子として説明します。
(説明を簡単にするため、人類は神様の子、という部分は捨象します)
家族愛と世界愛の対比として、
イエス様の十字架をモチーフに説明します。
神様は、家族(イエス様)を愛する気持ちはたくさんあるが、
それよりも世界(全人類)を愛した、という話です。

神様は、ひとり子であるイエス様をとても愛しています。
しかし、十字架の場面では、そのイエス様以上に人類全体を愛します。その時は、イエス様も神様から愛を感じないほどです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とイエス様が神様に訴えるほどですから。
でも、最終的にイエス様は、神様がイエス様を愛している事を確信します。それを表す言葉が、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」です。

これ、上手く伝わりますか?





最後にまとめると、

この世界愛を、家族を愛する気持ちなく世界愛を求める、
というような歪んだ形で理解しているゆえに、
アベル(上司)から世界愛を求められると、カイン(一般信徒、部下)は脅迫的な要請と感じるのだと思います。

※出来る限り、統一教会用語を使わなかったつもりです。

在米A さんへ

私の確信の要因は、原理への感動、プラス、イエス様と文先生とのつながりです。文先生が数え16歳の時、イエス様と強烈な出会いをされて、以来、ずっと交流されて真理を探し、使命を継続し完遂しようとされた、ということを、私は否定できません。私はクリスチャンではなく、もともと無神論者でしたが、統一教会に伝道されて、原理と聖書を勉強した後、霊的体験をしました。今思うと、イエス様の霊界だったと思います。それが強烈だったので、神と霊界を完全に信じるようになりました。その引き金は、聖書と原理、両方で、どちらか一つだけでは、私の場合、神の存在すらわからなかったと思います。

イエス様は公生涯は3年だけですが、文先生の生涯は長く複雑です。み言葉も膨大です。今後、何十年何百年も、多くの学者たちが、研究、分析、整理して、いろいろのことがわかってくると思います。今の私たちは、多くのみ言葉集に囲まれていても、文先生の教えと生涯の流れに関し、一種ぼんやりした理解しか持っていません。時には混沌として、中核がわからなくなっているかもしれません。み言葉整理、生涯理解はこれからです。

そして、後代の学者にこれも期待したいのですが、正直言って、文先生の過去数年間は、どれだけ頭がしっかりしていたのか、私にはわかりません。シャープな部分とそうでない部分、その時によってもちがっていたと思います。そういう意味では、過去数年のみならず、10年かそれ以上、かなり限界があったのでは、と思います。これは私や周囲の人たちが60歳前後でも若い時と比べ、記憶も頭の働きも格段に落ちるのを見る時、文先生だって、人間として、若い時とは比べるのが無理だと思います。

例えば、私の友人の一人は、文先生は霊的に全部わかる方だから、例えば仁進さんの問題もわかっていたはずだ、そうでないと、自分の信仰観と矛盾する、と言っていました。私はそうではありません。おそらく、文夫人が知らなかったのと同じように、先生も知らなかったと思います。じゃあメシアとしての霊感は?というでしょう。

文先生の一つの特質は、人を信じてしまうことです。初期教会でも、よく信じてお金を騙し取られたことがあったようですね。お子さんも、弟子も、基本的にまず信じるという姿勢で、これは、ご本人の中に人をだますという要素がないという証でもあると思うのですが。私自身は、何ですぐ信じちゃうんだろう、と思ってイライラしてしますが。

もし、仁進さんを疑うなんらかの理由がすでにあって、文先生がじっと彼女を見たなら、いろいろなことが見えたかもしれません。でもそうでなければ、たぶん問題が見えなかったでしょう。自分の娘を誇りに、頼りにしていたんですから。あるいは、人を見抜く感覚もしだいに鈍っていた?といえるのかもしれません。

お子さんとの問題において、もう一つは、世代と時代背景があまりにちがうということです。文先生は北朝鮮のど田舎の何にもないところで、しかも儒教が染み付いた社会で育ったわけで、アメリカの物質と情報に囲まれてそだったお子さんたちをどう理解し守るのか、たとえ努力したとしても難しかったでしょうね。もう一つは王室的考え方で、私はこれが問題だったような気がしますが、文先生、夫人もそうですが、あの年代の韓国人は、力や組織を持つと、どうしても王室的になってしまうんですね。。。それは今の時代にマッチしないし、教会内で、文家特別視の要因になってしまいました。

だから、以前から「やり方」の部分では、必ずしもベストでない部分がたくさんあったと思います。さらに、この10年、あるいはもっと長い期間、かなり幹部に「任せてきた」という事実があると思います。献金のことは、大筋は知っておられたかもしれませんが、細かいことを把握していたかは、大いに疑問です。

話をイエス様にもどすと、彼につまずいた人たちは大勢いました。ユダは、イエス教団を離れるどころが、銀貨30枚と引き換えに、イエスを売った、ということは、つまずきと不信の度合いが極端だったということです。ということは、イエス様にも、不信される要因がたくさんあったということでしょう (後世の信者は完全にイエスを神格化していますが)。その理由は、今となっては推測の域を出ませんが。

イエスが万一、弟子の基盤を作ることに成功し、十字架にかからず、家庭を持てたら、一体どうだったでしょうか?絵に描いたような理想家庭を作れたか?かなり疑問です。公的使命と家庭のハザマでかなり大変だったでしょう。奥さんが家出したり、子供が不良にそだったりも、ありえたでしょうね。長生きしていたら、歳には勝てず、最後は子供のようになっていたかも。さらには、イエスの権威と教えを悪用する輩、教団幹部も出現したかもしれません。平信徒たちは、彼の教えの核心と愛に依拠しなければ、不信の波にながされていたかも。今の統一教会とまったく同じ?

ごたごた書きました。また補足します。

千尋 さん ありがとうございました。

千尋 さん、返信ありがとうございました。
千尋さんの言わんとする事は、分かりました。
信仰の世界は、とても個人的なもの、
その観点で、千尋さんの信仰を尊重いたします。

しかし、その人が置かれてる状況においても、信仰は変わってくる可能性がある、、とも思います。
例えば、自分自身が韓日のDVを受けてる家庭環境に、また献金で借金地獄に追われるような日々に身をおいてる場合、、、など。

それでも、文先生をメシヤとして深い信仰を貫かれる方もいるでしょう。

ですから私が言える事は、私自身の事だけ、、、。

私にとって文先生の教えは過去のものとなってしまいました。

深い神の愛と希望を指し示すものではなくなったという事です。

後世の人がどう判断しようと構いません。
私は、今生きているのです。

たった一度きりの自分の人生を、自分が心から納得するものを中心として生きていきたいと思うだけです。

そして、文先生の教えは、私にその光を放たなくなりました、、、。

千尋さん、信仰に対しては水掛け論になる可能性がありますので、ここで終わりにします。
実際、参考になりました。ありがとうございます。

米本さん、この場を貸して頂いてありがとうございました。

在米Aさんへ

そうですね、最終的に、私たちは愛と希望を求めています。それが感じられなければ、いくら真理だといわれても、あまり意味がありませんね。宗教を信じようが信じまいが、愛と希望がなければ、人生を生きる意欲もわきません。

一時的でない、継続する愛と希望は無形の神から出発すると、私は信じます。神様は、美しい自然や、家族や友人、ときには偉人の「言葉」や行動を通して、私たちに愛と希望を与えてくださいます。

Aさんが、たとえば、今、自然を見て愛と希望を感じるなら、それもいいし、お釈迦様の教えを通して愛と希望を感じるなら、それもいいのではないでしょうか?文先生の教えや生涯だけがすべてでは、もちろんありません。(私はそれが重要なものだと信じていく道を継続しますが)

おっしゃるとおり、一度しかない人生です。どうか神の愛と希望の追及を継続されますように。ではまた。。

愛の抽象性と具体性

 daniyyeさんだけではないのですが、愛が絡む投稿を読んでいると、どうにも理解しにくい。過去に、知り合いの教会員と話したときもそうでした。
 つらつら考えるに、それは「愛」のことを観念でしか捉えていないからだという結論に至りました。

 愛の概念は抽象ですが、愛を実践するときは具体的なのです。

「私は子ども(神、人類、隣人)を愛している」
 このように強く思っているのは、観念世界のことです。
 ところが、「子どもを愛している」と思っている親が、たびたび、子どもにミルクも与えずに外出しているとなれば、この親は「子どもを愛していない」ということになります。

「子どもを愛している。立派な人間に育てようと、折檻したのだ」。児童虐待で逮捕された親がいつも言うセリフですが、この場合、誰も(警察も裁判官も)この親が子どもを愛しているとは思わない。

daniyyeさん
>神の存在を信じない米本さんに、
真の愛を日本的にわかりやすく説明できれば、と思います。
>家族を愛する気持ちは湧き上がるほどにたくさんあるが、世界を愛するために我が子を犠牲にして私の心が痛んでも、更には子供の心が傷つくことがわかっても、家族よりも世界を優先して、世界を愛する。


 意味は理解できるのですが、机上の空論、言い過ぎなら、きわめて観念的です。
 そして、前に書いた通り、「家族を愛すること」と「世界を愛すること」とを、二分法の思考方法で、対立的に捉えることから脱却されていません。

 文鮮明氏の自叙伝は、評価は別として、「世界を愛する」ために行ってきた具体的実践の歩みでしょう。
 観念的で机上の空論的な記述は少ない。リアリティがあるかどうかは別にして、彼の行動はきわめて具体的です。

「俺は世界を愛している」を百万回述べようが、その具体がなければ、「世界を愛している」ことにはならない。

 自分への愛(自分の命)と、他者への愛(他人の命)のどちらを取るのか、選択を迫られる。このことを書いたのは、三浦綾子の名作『塩狩峠』ですが、このような選択を私たちが具体的に迫られるようなことは、ほとんどないでしょう。
 三浦のモチーフは、クリスチャンゆえに愛の二項対立です。

 ましてや、家族愛と世界愛のどちらを取るのか(対立的に)迫られるケースは、いろいろ想像しても、思いつきません。

 唯一、具体的に示されたのが、ブログの記事で書いた文鮮明氏と韓鶴子氏の例です。

 彼らは、「世界を愛する」ために、育児を放棄し、世界を飛び歩いていた。まさに児童虐待(=ネグレクト)そのものです。
 彼らに、「世界を愛する」ために子どもを犠牲にしなければならない必然性が、『塩狩峠』のようにあったか否か。
 答えは否です。

 2人で「世界を愛する」を実践をするのであれば、2人で協力して育児をすれば良かっただけの話です。
 当時の時代状況からすれば、母親の韓鶴子氏が育児に専念すれば良かった。「世界愛」か「子どもへの愛」か、二項対立的な選択を迫られる客観的な状況もなかったと思います。自叙伝を読む限り。
 そもそも、母親は赤ちゃんを生むと慈しむ。赤ちゃんに情愛を注ぎたいという衝動的な本能が母親には生まれる。
 自叙伝を読む限り、韓鶴子氏にはどうもそういった、母親らしいところが感じられない。だから、彼女はアダルトチルドレン、愛着障害者に思えてなりません。
(当然、自叙伝を出版するにあたって韓鶴子氏もチェックしているはず)

 少なくとも、文鮮明氏は「世界愛」か「子どもへの愛」かについて葛藤し苦悩した形跡はまるでない。
「俺は平和を愛する世界人として生きる。しかし、妻にも育児放棄をさせて、俺と一緒に飛び歩いていいものか」
 この苦悩が一切ないのです。

 在米Aさんの次の言葉は、まさにその通りだと思います。

「お子さんの問題も、文夫妻が我が子も満足に愛し指導できなかった事の結果だと考えたら、どうやって他の人に『人の道』、『親の愛』を説くことができるのでしょう? ましてや、『人類の真の父母』と公言できるのでしょうか?」

 最後にクソリアリズム。

 日本の婦人食口は「私は世界愛に生きている」と夢想(ないし妄想、あるいは解離)し、子どもを放ったらかしにして、献金集めのために会議を深夜遅くまでやっているのでございます。
 これが統一さんのいう「世界愛」の一つの実態なのであります。南無阿弥陀仏

文国進氏が表舞台に。

 韓鶴子氏との対立で、その動静が心配されていた文国進が16日に表舞台に登場します。

(引用はじめ)
ニューシース [ 2012年10月11日11時10分40秒 ]

太白市、16日 "強い大韓民国"特講実施

【太白(テベク)=ニューシス】ホンチュンボン記者=江原太白市が16日午後2時、市役所大会議室で市民公務員など200人余りを対象に特別教養講座を実施する。

今回の講演では、現在の韓国統一グループ会長であり、 "強い大韓民国汎国民運動本部"文国進共同議長が講師を務める。

太白市を訪れる文国進講師は国家観の確立と大韓民国の国民という誇り鼓吹に関する内容で、 "強い大韓民国"をテーマに、これまで国内100回、イギリス下院、日本など海外で40回など、国内外ので140回4万1000人余りを対象に講演をしました。

また、強い大韓民国というテーマで2011年に龍山戦争記念館、ソウルのプレスセンターで、今年に入って国会議事堂と韓国国会憲政記念館で安保シンポジウムを開くもしたし、TV出演で講演したことがある。

今回の講演会では、強い大韓民国汎国民運動本部紹介映像上映に続き、強い大韓民国というテーマで講演が行われる予定だ。

太白市の関係者は"16日に開催される特別教養講座に各機関団体から多くの方々が参加して講演を聞くことを期待する"と述べた。
(引用終わり)

もう少し複雑です

米本さん、
文ご夫妻は、結果としては子女をネグレクトしたのと同じ結果になってしまったことは、否定しませんし、そのことはすでにお伝えしました。しかし、一般の育児放棄と比べる前に、以下の2-3点を考えていただきたいと思います。

まず、統一教会は今まで、いつも切迫した「緊急事態」だったということです。その理由は、米本さんがお好きでない言葉の一つ、「摂理」という、期限つきの仕事がいつも頭上にあるからです。文先生は60年代、もしくはそれ以前から、地上に天国を作るために、「いつまでにXXをしなければならない」という目標、それは彼からすれば、啓示による天の要求がたえずあったわけで、その一部は協会員たちに伝えられてきました。私が日本で70年代に入教したときも、「あと3年内にXXをしなければならない」、というようなことを聞きましたし、5-10年で「天国実現」と言うようなことも言われました。教会の悲劇は、それが、ず~~と、50年も続いてきてしまったことです。今も、「来年2013年までに、XXXしなければならない」と言っているのは、ご存知かと思います。古いメンバーは、来年ですべてば終わるわけがないと、わかっているわけですが。今思えは、「急がば回れ」で、基盤を一歩一歩作っていたらむしろ発展が早かった、と言うことになりますが、これまで統一教会においては、長期的に計画を立てて、まず土台をしっかりつくり、その次に柱を立てて、などということは、不可能でした。

「緊急事態」体制と心理が、多くのことを(子供の問題以外も)説明できると思います。文夫妻も、初期の幹部も、幼い子たちの面倒を見なかった、のは、その数年が「摂理」において一番肝心な時だ、と思っていたからです。例えば、離れた地に住む自分の親が、苦しんでいて、自分が助けに行ったらなんとかなるとしたら、幼い子供は、近所の人でも、あるいは誰もいないとしたら施設にでも預けて、親を助けに行きませんか? あるいは、自分の会社が倒れそうだったら、子供のことは後回しにして、会社に寝泊りしてでも、倒産を避けて、社員をはじめ皆に迷惑をかけまいとするでしょう。問題は「摂理」が一時的でなく、予想外に、長くなってしまったことです。これは文先生が意図したことではないと思います。

さらに、文先生のお子さんたちの世話のためには、担当者がもちろんちゃんといたということは、ご存知ですよね。ただ、その担当者たちが、かならずしも、きちんと愛してあげたか、つまり、単に物質的に何不自由なく世話をするだけではなく、間違ったことをしていたら、それは違うと言って正してあげる、などのことをしたか、ということは疑問です。彼らは学校ではたしかにかなり迫害されて、苦しんだようです。そういうことも、親以外の担当者では十分に見てあげられないでしょう。

文先生夫妻がまったく子供たちと交渉がなかった、というわけではありません。例えば仁進さんは、12歳位の時、ひと夏中、ボストン沖で、父親と同じボートに乗ったことがあったそうです。普通の親子のように、水入らずではなかったでしょうが。10代のとき、母親と話して、印象に残っている言葉もあるそうです。でも、普通の家族に比べ、共に過ごした時間は少ないだろうし、うんと幼いときは特に、ほどんど「子守」の担当者と過ごしたのでは、と私は想像します。

文先生ご夫妻は、担当するメンバーを信頼されたのだと思います。さらには、私が以前言ったように、時代的、文化的ギャップがここまで大きいことは、予想していなかったでしょう。文先生がそだった今の北朝鮮の田舎では、親がそばにいなくても、同じ集落の人たち、大家族の誰かや友達などが面倒見合っていたでしょうし、山や野を駆け回って育ったようです。

現代社会はそうはいきません。幼い子も、さらに10代になっても、だれかが見てあげないと、大変な社会です。特にアメリカは、小さい子を2-3分車の中に一人にしておくだけで、警察がくる社会ですからね。それだけ社会に犯罪も悪の危険もあるということで、文先生の時代からは想像がつかないでしょう。

ご夫人は本当に若く結婚し、子供を次々に生み、その時その時、言われることをこなしていくだけで精一杯だったでしょう。まわりの流れに反して、「子供は自分で育てます」とはとても言えなかったと思います。

結果をみれはネグレクトである、というのはわかりますが、今一度深く掘り下げていただきたいと思って書きました。


解怨摂理の説明

○○摂理という際の『摂理』とは、
日本語で意訳すると、
「(神様の願いとされている)特定の行動を奨励する運動」
であると思います。

ですから、
解怨摂理とは、
解怨(先祖のうらみをなくすために必要とされる『先祖解怨』)を奨励する運動、
という意味だと思います。


解怨については、宗教儀式ですので、説明は難しいです。
簡単にいうと、慰霊のようなものです。

Re:(3)人類愛の前にまっとうな子育てを。

米本さんもそうであるように、
文先生も信徒に対して、人類愛の前にまっとうな子育てを、望んでいます。
今の時代は、特に強く願われています。
それは、幸せな家庭が、平和な世界の礎になる、と信じて活動しているからです。

しかし、信徒は、文先生の意に反して、
(ある時期には文先生の願い通り)
まっとうな子育てをしてこない事が多くありました。


文鮮明先生は、
比喩として、
戦士としても、一般市民としても、
どちらの感覚も持った上で、
両方のバランスのとれた感覚をもった人物だと思います。
(おいおい、本当かよ、と感じる人もいるかと思いますが、
ちょっと話に付き合ってください)

  ※なお、このコメントにおいては、
  ()は補足的説明、《》は統一教会用語の説明、です。
  つまり、《》は飛ばして読んでも意味が通じます。

なので、
神様が見つめる視点としての精神的法律
《統一教会では、原理と言います》
を破る事なく人生を送った人だと思います。
ただし、
この地球上の国家の法律(もしくは、一般の道徳律)は、
いくつか破ってこられた、と私は思っています。



文先生は、
精神的法律と、国家の法律と、両立できるなら、
両立できる道を求め、
文先生が聞いた啓示による
『時代の要請』
《統一教会用語では、摂理》
によって両立できない場合は、
精神的法律を重視された方だと思います。



これは、戦時中と平時の例えがわかりやすいと思います。
戦時中は、平時と同じ感覚を持っていては殺されて、
もしくは死んでしまいます。
戦時中の一般人でもそうですし、
戦時中の兵士の場合は、なおさらそうです。
戦時中は、平時とは異なる独特の慣習があります。
(通常戦闘による殺人の許可、とか)



他の例えとしては、
占領下の国家の場合、
統治国家の法律と、被占領国家の法律とで対立する事は良くあります。
被占領国家の独立の為の運動は、統治国家の法律では罰される事が多いでしょう。





ここから先は、具体的な説明です。

1)戦時と平時の具体的説明。

今の時代は、統一教会内においても、
戦時中というよりは平時だという認識です。
《戦時中である認識の時代は、統一教会では、
先天時代とか、荒野路程とか、呼んでいました。
今は、後天時代とか、定着時代とか、呼びます》
ですので、
国家の法律を守りつつ、精神的法律を守る事は出来ます。
そして、両立する事を文先生も願っています。


しかし、以前は、特に共産主義の隆盛期は、戦時中という認識でしたので、
民主主義国家の法律を守るだけでは、その国家自体が滅びかねないと思っていた為、
止むを得ない場合は、国家の法律を破る事は仕方ない、
と考えていた、
のだと私は思います。

今は平時であるにも関わらず、
私を含む多くの信徒は、
戦時中の考え方は理解しても、平時の考え方を理解していない、
と思います。
もしくは、
戦時中と平時の考え方のバランスがとれていない、と思います。
なので、
統一教会的思考法と一般社会的思考法とのバランスがとれていないのだ、
と思います。




2)統治国家と被占領国家の具体的説明

文先生は、
見える統治国家としての日本と、
見える被占領国家としての大韓帝国(朝鮮半島)の時代を生きました。
そして、終戦後は、
見える統治国家としての『当時の政権』の背後にある『見えない統治者』としての『一般常識に支配された現世界』
《統一教会用語では、サタン》
と、
見えない被占領国家としての『あるべき世界』
《統一教会では、神の国とも天一国とも言います》
に生きてきました。

つまり、
全世界に対して、あるべき世界に変えようと、
独立運動を行っている人物だと言えます。
《統一教会では、統一運動と言います》
世界では、平和運動家として評価されている一面があります。

特に運動が活発なのは、韓国、日本、米国、です。
この3カ国では、評判が悪いです。
特に、日本での評価が悪いです。

例えば、独立した後では、
韓国独立の為の勇士は、表彰されるでしょう。
しかし、被占領時代は、
統治国家の法律によって罰されます。

もちろん、文先生も、信徒も、
国家の法律に違反すれば罰されるのはわかっています。
しかし、どのような場合であれば、
国家の法律に違反しても、精神的法律を守るべきかのバランスが、
文先生と、信徒では違います。
その為、
文先生の意思に反して、信徒が独自の判断で、
国家の法律よりも精神的法律を優先して、
罪を犯す事がありえます。
(これは、ひとつひとつの問題を文先生に伺いを立てずに判断した事も理由としてあげられると思います。)




まとめると、

A)文先生も国家の法律や一般の道徳律を破られた事がある。
 しかし、精神的法律を破らなかった為に、私は文先生を尊敬する。
《統一教会用語でいう、完全に勝利した真の父母様、だと考える》
B)しかし、文先生自身も、信徒にも、
出来る限り国家の法律を破らないでほしい、と考えた。
C)文先生の意に反して信徒が独自で国家の法律や一般の道徳律を犯した事がある。

となります。

文亨進アメリカ統一教会会長から全ての食口への手紙(米国教会HPより)

・by「統一教会員の合同ニュースブログ」
・日付は10月12日
・訳は正確ではないそうだ。
・主要なところを引用する。


(引用はじめ)
 数日前に終了した12ヶ都市の“タウンホール・ツアー”の結論として、私たちはアメリカの統一教会の新しい指導体制の時代を始めます。徹底した組織再編が現在進行しつつありますが、完全な効果を達成するための時間と労力に数ヶ月が必要となりますので、ご理解ください。我々はこの移行を開始するに当たり、次のような方向性を検討しています。

•我々の全国本部はおそらくニューヨーク・シティーからイーストガーデンへと移されます。これはアーヴィングトン/テリータウンで30年以上にわたって住まれた私たちの真の父母様の霊的伝統と連結するためです。

•私たちの教会の名称は、「統一教会」であり、広範な統一運動の基礎であり中核です。


•統一教会は、地元の牧師と祝福中心家庭による地方自治で、より分権的組織になるでしょう。地元の教会の運営は十一条を守っている教会員により地元の教会の指導者を選挙で選ぶことになります。地区レベルの指導者は地区を監督するために立てられる地区協議会で決定されます。

•我々は、アメリカの教会だけでなく、世界の統一教会からベストプラクティスを取り入れます。これらには、指導者の選挙や国家本部の新たな役割なども含まれます。地元の教会の成長をサポートし、ベストプラクティスの普及をするため、成果測定を導入します。

•私たちの文化は、指導者の人格を美化したり、強調するのではなく、彼らの言葉や教えを通して、真の父母様と私たちの個人的な関係に基づいて、神への親密な関係に焦点を当てます。ですので、我々は訓読会と原理や聖書の学習に新たな重点を置くでしょう。


・同時に真の父母様の霊的権威を誇り、私たちの揺るぎない忠誠心を守りながら、統一教会はその核となる価値観として、透明性、アカウンタビリティ、自由と責任を誓います。


•家族という神からの偉大な贈り物を支持をするために、統一教会は聖なる祝福結婚と祝福家庭の伝統にのっとり、祝福結婚に関する方針を明確にします。私たちの地元の教会の役割は、これらの伝統を守るため、我々の食口や家族の成功をサポートすることです。

 数日のうちに、私は最初の指導要綱となる二つの重要な文書を出します。


第一に、地区協議会の選挙のためのガイドラインと詳細に関する文書が十一条教会員に送られます。

第二に、私達の全国本部における主要組織の職務を行う人を個人推薦することを促す文書が一般会員に送られます。

(引用終わり)


Heather Thalheimer女史が解任

アメリカの10月13日付の公文で、Heather Thalheimer女史が、ジョシュア・カッター氏に続き、解任されたことが明らかになりました。

(英文の引用はじめ)
October 13, 2012

Dear Members and Blessed Central Families,

Warm greetings in the name of God and True Parents! Thank you for your prayers and devotions as we continue to affirm our dedication and commitment to God's Will in this time following True Father's ascension.

This memo is to officially confirm a change in leadership in the American church. Following the earlier resignation of the Church President and CEO, Mrs. Heather Thalheimer has resigned from her position as Director of Education and Ministry. This change is effective as of October 11, 2012.

We would like to express our thanks and appreciation to Heather for her service, sacrifice and hard work over the past four years. As Director of Ministry and Education, she helped to introduce new educational curricula for membership, innovations in worship services, youth and pastoral ministry, and more. She assembled a talented, multi-generational team that has made great contributions to our national outreach.

We also want to thank Heather's husband, Philip, and the entire Thalheimer family for the very considerable sacrifice of allowing Heather to work apart from them away from home for days and weeks at a time. The support and dedication of the entire family is much appreciated.

We wish the best for Heather in her future endeavors as she continues to serve God's Providence here in America.

Sincerely,
Dr. Michael Balcomb
Executive Vice President
(引用終わり)

 教育担当のリーダーで、仁進女史に不倫と出産を最終的に確認した人と言われています。

 仁進氏の不純潔の責任を取って、と明記されていたらすっきりするのですが、解任の理由は書かれていません。

Re: もう少し複雑です

千尋さんはもう少し理性的な方かと思っていましたが、どうやら買いかぶりだったようです。

<米本さんがお好きでない言葉の一つ、「摂理」>
 好きでないと書いたことは一度もありません。統一教会員は、字義を曖昧にしたまま使っていることを指摘したまでです。私のコメントをよく読んでください。

 で、本題。
「緊急事態」だったから、結果としてネグレクトをしてしまったという釈明というか弁解について。


 末法思想が背景にある宗教団体は、「いついつまでに〇△をしなければならない」はよく使われる言葉。オウム然り、エホバ然り。
 その結果、子どもたちがどうなっていたのかは、『カルトの子』に詳述したので、ご存知だと思うので、省略します。

 オウムやエホバの教えは「真理」でないから、そもそも話にならん。しかし、統一教会の場合は「神意」だったから、しかたがなかったというのは、一般社会には通用しませんよ。


 私は具体例として『塩狩峠』を出したけど(「愛の抽象性と具体性」)、千尋さんの具体例はまるでリアリティがなく、説得力はゼロに等しい。

>例えば、離れた地に住む自分の親が、苦しんでいて、自分が助けに行ったらなんとかなるとしたら、幼い子供は、近所の人でも、あるいは誰もいないとしたら施設にでも預けて、親を助けに行きませんか?

 まるで、飼い主が旅行にいくときに、ペットをショップに預けるみたいだ。

 どんな状況が想定されるか考えつかないが、両親揃って親を助けなければならないような状況だった場合、それが長期に及ぶことが予想された場合、子どもも連れて行くでしょうね。
 しかし、親を助けるのに、何年間もかかるような事態など、想定できません。

 親が危篤になり、両親が病院に数日間、寝泊まりするようなことは考えられるけど、その場合、もう片方の親(祖父母)に子どもを預けるか、子どもの家に来てもらうかするでしょうね。

>あるいは、自分の会社が倒れそうだったら、子供のことは後回しにして、会社に寝泊りしてでも、倒産を避けて、社員をはじめ皆に迷惑をかけまいとするでしょう。

 こんな例を出されると、千尋さんは真面目に考えて書いたのか、疑ってしまいます。

 倒産のケースの場合、会社に寝泊まりするのは社長(父親あるいは母親)です。そうしたとき、妻(子の母)は子どもの面倒を見ながら、時間を見つけて下着や食料を届けます。

 私が問題だと言っているのは、両親(文鮮明氏&韓鶴子氏)ともども宗教活動で、14年間も、子どもの面倒をみなかった、愛情を注がなかったことです。 私の記事、投稿をよく読んでください!
(時間の無駄、能力のムダ使い)

 文家の子どもの世話係に関する記述について。
 これも、記事の中見出し「両親から愛情を受けなかった文家の子どもたち」のところで、何が問題だったのかについて説明している。
 よく読んでから、投稿してください。

>結果をみれはネグレクトである、というのはわかりますが、今一度深く掘り下げていただきたいと思って書きました。

 まるで、深く掘り下げたような問題提起になっていませんでしたよ。
 また、「もう少し複雑」ではまるでなかったですね。

 私が知らない、新しい事実を示されるのであれば別ですが、同じテーマでの投稿は控えてください。
(追記)感情的にならないでね。

Re: 解怨摂理の説明

daniyyelさん
>○○摂理という際の『摂理』とは、
日本語で意訳すると、
「(神様の願いとされている)特定の行動を奨励する運動」
であると思います。

 勝手に意訳などして、字義を曲げないでください。

PROVIDENCE:神意、摂理。
摂理:神の意志。

>解怨摂理とは、解怨(先祖のうらみをなくすために必要とされる『先祖解怨』)を奨励する運動、という意味だと思います。

 失当です。字義通りに説明すれば、こうなります。

 統一教会員は、先祖の怨み解くために、韓国・清平に出かけて、1系統あたり200万円の解怨料を納めなさい。これは神の意志である。

 統一教会の神サマは、ほんとうにお金が大好きな神サマですねえ。
 日本の大黒サマやえびすサマは、庶民に財をもたらしてくれるというのに。
 統一の神サマだけには、我が家に近づいてもらいたくないものです。

 もっとも、エホバの証人は熱心に伝道訪問にやってくるけど、教会員さんは来ないから、大丈夫かも。(にっこり)

Re: Re:(3)人類愛の前にまっとうな子育てを。

 daniyyelさん、長文の投稿、ありがとうございました。

 でも、何を言いたいために、投稿されたのか、さっぱりわからなかった。

 私は「人類の前にまっとうな子育てを」と書きました。
 それに同意されなければ、反対意見を述べればいいわけだし、同意されるのであれば「その通り」と書けばいいだけのこと。

 よくわからない説明が長々と続いたあと、「まとめる」として、要約文が載っている。説明文と要約文は、何だか違うような気がするのだけど・・・。

(引用はじめ)
まとめると、

A)文先生も国家の法律や一般の道徳律を破られた事がある。
 しかし、精神的法律を破らなかった為に、私は文先生を尊敬する。
《統一教会用語でいう、完全に勝利した真の父母様、だと考える》
B)しかし、文先生自身も、信徒にも、出来る限り国家の法律を破らないでほしい、と考えた。
C)文先生の意に反して信徒が独自で国家の法律や一般の道徳律を犯した事がある。

となります。
(引用終わり)

 BとCは、納得。あたりまえの話です。

 Aは理解できるけど、納得できませんね。

<世俗の法律(日本の法律)を破られたことがあるが、精神的法律(長々とわかりにくい説明がなされていたけど、「神の律法」のことだろう)は守られた。だから、文先生を尊敬する>

 これは到底、承服できるものではない!
 なぜなら、daniyyelさんの思想の根底にあるものは、拉致監禁説得をしてきた牧師のそれとまるで同じだからだ。

 エホバの証人を強制説得して訴えられたプロテスタントの草刈牧師(所属はバプテスマ)は、裁判の支援集会の場で、こう話したことがある。

「私は国法を破ったが、今後も神の律法のほうを尊重する。今後も国法よりも神の律法のほうに忠実でありたい」

 また、統一教会員を強制説得しているプロテスタントの牧師は、教会員が脱会するたびに、神に報告する。
「迷える羊を、正しい道に復帰させました」と。

 拉致監禁に反対する人たちの底の浅さを、daniyyelさんの投稿によって、知ることができた。これは勉強になったけど・・・。

 まあ、大変だと思いましたとさ。

 あっ、daniyyelさんも、このテーマでもう投稿しないでね。疲れるだけだから。



米本さんからの火の粉を払う

同一のテーマではありませんので、
コメントさせていただきます。



このコメントの目的は、
米本さんから受けた決め付け「拉致監禁に反対する人たちの底の浅さ」を、否定する事です。


<拉致監禁に反対する人たちの底の浅さを、daniyyelさんの投稿によって、知ることができた。>とは、
拉致監禁に反対する私の底が浅い、
という意味だと思いますが、違いますか?
もし違ったら私の勘違いです。謝ります。




今までは、コメントをした事がないのでわかりませんでしたが、
米本さんへ意思を伝えるのは難しい、という事がわかりました。

それは、
こちらの予期せぬ方向へ、
私の意思を曲解されるからだ。



いいですか、①②③の3つの文章を良く考えてください。
これがメインです。
****ここから****
①私は、神の律法を守る為に国家の法律を破るなら、その罰を甘んじて受け入れます。
②この思いを表す為に、被占領国家の例えを書きました。
③そして、相手の人権を無視するつもりはありません。
****ここまで****



米本さんは、神を信じない方なので、
私の思想の根底にあるものが、牧師と同じだと考えるのは仕方ない。
同じく神を信じる者同士だから、もしかすると思想の根底は同じかもしれません。

しかし、私は、
他者に対して、
私の考えが正しいので、
(私の方があなたより正しく神を理解しているので)
おまえの考えを正す、
とは思いません。
※③の部分

理解してもらえるように訴えるのは良いですが、
違法行為である拉致監禁をしてまで、
(人権を侵害してまで)
考えを改めてほしいとは思いません。

「迷える羊を、正しい道に復帰させました」と、
神に報告したプロテスタントの牧師とは、
人権に対する理解が違うのです。
※③の部分

わかるでしょう?
人権の理解が違うでしょう。





強制説得して訴えられたプロテスタントの草刈牧師が、
神の律法を守るために国法違反による罰を甘んじて受け入れる、
という認識の方であれば、
私と同じと断定するのも仕方ないかもしれません。
※①と②の部分

草刈牧師はそういう考え方ですか?
違うでしょう?
(もしそうであったとしても、おそらく③に対する考えは違うはずだ)






まとめ
・①と②と③を全て兼ね備える人は、拉致監禁をしません。
・①と②だけであれば、拉致監禁する人もいるでしょう。


これでも、拉致監禁に反対する私は底が浅い、と思いますか?




【最後に】
米本さんから、しっかりと私の事を理解されようとしている形跡、は伺えます。
しかし、人の考えを断定する時は、もっと根拠をもって言ってください。
よろしくお願いします。

daniyyelさん

家族愛と人類愛の件にしても、今回の

<引用はじめ>
私の考えが正しいので、
(私の方があなたより正しく神を理解しているので)
おまえの考えを正す、
とは思いません。
<引用おわり>
についても、そう思ってるのはわかります。
問題は思ってるかではなくて、実際の組織の体制とか上層部からの指導、実際の家庭事情はどうなのかということです。

・いくら家族のことを思っていても、教会の指導部の方針で、子供が傷つくような場合でも世界愛(世界摂理?)を優先せざるを得なかった。結果、家族愛は実現されなかった。

・組織全体をあげて、daniyyelさんが一般人に理解されないと思っている神様の愛を、理解できるようにさせる(伝道)すなわち、神を信じない人でも、私は神様をしってるから、あなたの考え方を変えてあげる。

それが事実だと思うのです。

思うのですと書いたら、それはあなたがおもってるだけだとか堂々巡りになりそうですが。

どう思われますか。私が書いたことは事実ですか、事実ではないですか。

ごっくろうさん

まず、統一教会は今まで、いつも切迫した「緊急事態」だったということです。その理由は、米本さんがお好きでない言葉の一つ、「摂理」という、期限つきの仕事がいつも頭上にあるからです。文先生は60年代、もしくはそれ以前から、地上に天国を作るために、「いつまでにXXをしなければならない」という目標、それは彼からすれば、啓示による天の要求がたえずあったわけで、その一部は協会員たちに伝えられてきました。私が日本で70年代に入教したときも、「あと3年内にXXをしなければならない」、というようなことを聞きましたし、5-10年で「天国実現」と言うようなことも言われました。教会の悲劇は、それが、ず~~と、50年も続いてきてしまったことです。今も、「来年2013年までに、XXXしなければならない」と言っているのは、ご存知かと思います。

○○年まで××をしなければならない。
後、〇年で天国実現。
そう言い続けて50年。
天国実現のため、家庭を顧みず、崩壊。
天国実現のため、金を払い続け、一文無し。
肝心の文のおやっさんは死に、
その息子娘は薬中、DV、不倫出産、学歴詐称、etcetc
それでも天国実現を夢見て邁進する教会員

ごっくろうさん。


daniyyelさんへ

>>相手の人権を無視するつもりはありません。

>>理解してもらえるように訴えるのは良いですが、
違法行為である拉致監禁をしてまで、
(人権を侵害してまで)
考えを改めてほしいとは思いません。

>>「迷える羊を、正しい道に復帰させました」と、
神に報告したプロテスタントの牧師とは、
人権に対する理解が違うのです。

あなたが子供への人権侵害であるネグレクトを
戦争に行っていたようなものと正当化する事と、
牧師が説得の過程で発生した拉致被害を
迷える子羊を救う為と正当化する事は異なる事だろうか?

牧師に嗜虐的傾向があると言うのなら、
あなた方は涙を呑んで子供を放置したと言うと思うが
牧師は拉致されている人を気の毒にも思わないし
涙を呑んでそうした訳でもないと言えるのは何故か?

>>神の律法を守る為に国家の法律を破るなら、その罰を甘んじて受け入れます。

あなた方が偽装勧誘や霊感商法被害に対して
甘んじて罰を受けず裁判が続いているのは何故か・・・?

DDさん、どうしてさん、へ

このコメント欄では、やりとりが長くなると思いますので、
私のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/daniyyel_uc
に返答をしました。

※もし、米本さんが、このコメント欄で対応してほしいと望むならば、このコメント欄でのやりとりをします。

【ひとつだけ】
DDさんのコメントには、私の意図とは違う事が記載されていますので、訂正させていただきます。

>あなたが子供への人権侵害であるネグレクトを
戦争に行っていたようなものと正当化する事
→正当化していません。

正当化しているようにDDさんが感じたのならば、私の筆不足です。申し訳ございませんでした。

正当化が目的ではありません

米本さん、
私の先回の投稿の目的は、「ネグレクト」を弁護したり、正当化するためのものではありません。万一知らない方がいたら、と思い、言及したまでです。また、感情的になっているわけでもまったくありません。ただ考える材料になるかと思って出した投稿です。さらに、稚拙な例をあげましたが、ちゃんとした例になっていない!、と言われるなら、それまでです。

しかし、文化的、時代的違いが、親子断絶に拍車をかけた可能性があることと、文夫人に与えられたチョイスが(特に初期には)あまりなかったということ、については、コメントされませんでしたね。以上です。

Yoshiさんのインタビュー記事

Yoshiさんのインタビュー記事が載りました。是非、読んでください。
 後藤さんが提訴した裁判の国際的意義を理解することができます。
http://kidnapping.jp/news/20121015.html 

愛について

愛について論ずるときに、統一教会での神様を中心にした真の愛と、一般の方たちの願う家庭愛が違うように感じる方がおられることと思います。

しかし真の愛の中に家族の愛が含まれないとしたら、神様は全知全能ではなくなるし、そもそも真の愛とは言えなくなり二律背反の謗りも免れないものと思います。個と全体の対立ではなく、調和が私たちの目指すところです。

ただし、神様を中心にして愛しているにせよ、家族を大切に愛しているにせよ、独善の罠にはまってしまうこともありますね。
これは、拉致監禁をその人の救いの為にと思って熱心にされている牧師さん達や、子供のためだと言っては、いきすぎた折檻をする親のような愛情です。

統一教会の信仰生活が苦痛で苦しんでいるのであれば、脱会を進められればその人の為になるし、子供も、時には(そのことをすれば生死に関わる様な場合など)厳しく叱らなくてはいけない時もあるので、見極めはとても難しいです。そのために児童虐待の発覚が遅れるなどがあると思いますが。

先日、小学生の息子が、疲れた様子で「僕たちの学校、ナルシストやで」と言うので、小学生がナルシストという言葉を知っているのにも驚きながら「どうして?」と聞いてみました。
そしたら「だって、なんでも世界一って。学校の廊下に貼ってある標語、みてみいさ。」と言っていました。
後日、確認してみると確かに、そんな雰囲気を感じるのかもしれないなぁという観もありました。
大人からみれば、熱心な学校でも、子供にとっては、年齢や性格にもよるとは思いますが、違った感じ方をするのだなと思いました。
子供たちは、先生たちの熱心さの背後の、子供のためという気持ちだけでなく、先生御自身にかえってくる評価のため熱が入ってしまうという部分を敏感に感じているのだなと思いました。

いつも、立ち止まり、振り返り考えながら、時には耳に痛い話もちゃんと聞く勇気を持たなくては、信念を貫くことは難しいと思う昨今です。

ネグレクトではない

<在米Aさんの次の言葉は、まさにその通りだと思います。
「お子さんの問題も、文夫妻が我が子も満足に愛し指導できなかった事の結果だと考えたら、どうやって他の人に『人の道』、『親の愛』を説くことができるのでしょう? ましてや、『人類の真の父母』と公言できるのでしょうか?」>

私も当初、同じように考えました。
しかし、自分の子供に関していろいろあり、深く考える機会が与えられ、考え方が変わりました(たぶん180度)。

<2人で「世界を愛する」を実践をするのであれば、2人で協力して育児をすれば良かっただけの話です。当時の時代状況からすれば、母親の韓鶴子氏が育児に専念すれば良かった。「世界愛」か「子どもへの愛」か、二項対立的な選択を迫られる客観的な状況もなかったと思います>
<そもそも、母親は赤ちゃんを生むと慈しむ。赤ちゃんに情愛を注ぎたいという衝動的な本能が母親には生まれる。 自叙伝を読む限り、韓鶴子氏にはどうもそういった、母親らしいところが感じられない>
<少なくとも、文鮮明氏は「世界愛」か「子どもへの愛」かについて葛藤し苦悩した形跡はまるでない。「俺は平和を愛する世界人として生きる。しかし、妻にも育児放棄をさせて、俺と一緒に飛び歩いていいものか」。この苦悩が一切ないのです>

その通りです。
まさに、文夫妻は自身の子供たちのことを一顧だにしなかった。つまり、愛さなかったし、意識すらしなかった。

なぜ。
仮にも「人類の真の父母」と言っているわけですから、そうでなくても無性に情の行く自分の子供のことを意識していては「人類の真の父母」は務まりません。だから、あえて、一顧だにしなかったのではないでしょうか。

もし、私がスネた人間、恩を恨みで返すような人間、ズルい人間(これを悪魔とかサタンとか言ってもいいかも)だとして、文夫妻が人前で偉そうに人類愛、世界愛を説いて、その後に「あ~、○○ちゃん、寂しかったでちゅね~。よしよし」なんて自分の子供を可愛がっていたとすれば、私は「な~んだ、結局、自分のことが可愛いんじゃねーか!。何が真の父母だ!」と反発したでしょう。絶対、真の父母だとは認めません。

その意味で、仮にも「人類の真の父母」になろうとする人間は、自分の家庭、自分の子供のことは顧みることができないのではないかと思います。
自分の子供がケガしようが、悩んでいようが、教育上、正してやらないといけない状況にあろうが、親に対して誤解していようが、危険な目に遇っていようが、「真の父母」は一顧だにできない。そういう立場にあるのではないかと思うのです。

恩讐を愛することも大変ですが、自分の子供を愛してはいけない、というほうが、もっと酷だと思います。

文夫妻の行動を見ていると、まさに、自分の子をあえて退け、他人(信者ら)を愛そうとされていることが伺われます。自分の子の死に際しても、普通だったら、泣く場面ですが、涙一つ流されません。自身を「真の父母」だと自覚するがゆえに、あえてそうされているのではないかと思います。

<彼らは、「世界を愛する」ために、育児を放棄し、世界を飛び歩いていた。まさに児童虐待(=ネグレクト)そのものです>

だから、ネグレクトのように見えますが、これはネグレクトではないと思います。

もちろん、無視される子供の側には想像を絶する苦悶があったでしょう。本当に同情します。
これこそが「真の父母」「真の家庭」の歩むべき道なのではないかと思います。

自分の子供以上に、この私を愛してくれる人がいたら、私は無条件にその人を尊敬します。
そんな愛の持ち主には世界のリーダー、王になっていただきたいと思います。
仁進さんの件はもちろん残念でなりませんが、私は今回の事件をきっかけに、文夫妻の「真の父母」性、メシア性を改めて再認識しました。

ネグレクトを正しく理解して

みんなさん

>文夫妻の行動を見ていると、まさに、自分の子をあえて退け、他人(信者ら)を愛そうとされていることが伺われます。自分の子の死に際しても、普通だったら、泣く場面ですが、涙一つ流されません。自身を「真の父母」だと自覚するがゆえに、あえてそうされているのではないかと思います。

(私がネグレクトそのもの、と指摘したことに対して)

>だから、ネグレクトのように見えますが、これはネグレクトではないと思います。
(引用終わり)

 ネグレクトを正しく理解して欲しいと強く願います。

 まず、ネグレクトは児童虐待防止法という法律に組み込まれた、親が子どもにしてはならない育児方法の一つです。新聞記事にはしばしば解説が載っています。本もたくさん出版されています。

 親が子どもをどのように育てているのかは、親の視点ではなく、子どもの視点(目線、体験)で見なければなりません。
 親が「子どもを愛している。立派な人間に成長させようと折檻したのだ」は親の視点です。どんなに主観的な愛があろうが、問題は<子どもはどういう育てられた方をされたのか>にあります。

 秋桜さんの秀逸な投稿文<愛>を熟読してください。ここには「子どもの視点」があります。冒頭の言葉も説得力あるものです。

>真の愛の中に家族の愛が含まれないとしたら、神様は全知全能ではなくなるし、そもそも真の愛とは言えなくなり二律背反の謗りも免れないものと思います。個と全体の対立ではなく、調和が私たちの目指すところです。


 みんなさんの視点は「拉致監禁する側の親」のそれと同じです。
 信者親は「子どもを愛しているから、統一教会から何としてでも救いたい」と考え、拉致監禁を実行するのです。
 これは親の気持ちです。
 拉致監禁を擁護する人たちは、この親の気持ちを強調します。

 これに対して、拉致監禁をされる子どもにとって、拉致監禁は身体的虐待・心理的虐待以外の何者でもなく、PTSDを発症するほどに心がズタズタにされてしまう。

 繰り返し厳しい言い方になって申し訳ないのですが、みんなさんの視点・立場は拉致監禁する親のそれと全く同じなのです。


 東北大震災の被災地を、両親が子どもを施設に預けて、半年間ボランティアとして復旧作業に奔走するとします。
 大人視点からすると、まさに犠牲的精神、人類愛として間違いなく美談となるでしょう。
(ただし、「子どもを施設に預けていた」ことがわかると、一般社会の人の多くは親の視点と子どもの視点を両方兼ね備えているから、美談話はたちどころに消え、批難轟々となる)

 子どもの視点からすれば、とりわけ小学校の低学年以下の子どもからすれば「両親がなぜいなくなったのか」は関係のないことです。

 宗教で飛び歩いていようが、熱心にボランティア活動をやっていようが、泥棒行脚していようが。

 とりわけ乳幼児からすれば、「私の前から親は消えた」そして「親から見捨てられた」ということしかないのです。(親は子にとっての絶対安全地帯

 この思いは、強烈な印象となって、生涯消え去ることはないでしょう。
 子どもがある程度いろんなことがわかるような年齢になってから、「実はあのとき、父さんと母さんは、半年間、東北にボランティアに行っていたんだよ。あのときは悪かったね」と親から謝罪される。それによって突然目の前から消えた理由は理解できる。しかし、頭で理解できても、強烈な印象が消え去ることはまずないでしょう。

 拉致監禁体験者も同じです。
 どうして親が私を拉致監禁したのかは、理屈の上ではわかる。わかるけど、ときおり襲ってくる心の不調は消えない。

 ネグレクトを語られる場合には、あまた出版されている『児童虐待』の本のどれでもいいから一冊ぐらいは読んでから、少なくともネットで検索して知識を得てから、にされたほうがいいと思います。そうでないと実にトンチンカンな発言になってしまう。


 ところで、統一教会は拉致監禁反対運動をやるようになりました。しかし、まるで血肉化していない、自分のこととして捉えていない。自分のものになっていない。要するに、主体が確立されていない。
 そのため、上からの指示があったときだけ、デモに参加し、ビラを配る。

 主体が確立していれば、同じ教会に通う拉致監禁体験者に労りと同情をもって、「どうだったの」と、話を聞いてあげる、その人のことを理解しようと務めます。
 しかし、そうしたことはいまだないようです。
 どうしてなのか不思議でなりませんでした。監禁から逃げ帰ってきた仲間なのに、ほとんどが知らん顔。こんな団体は長年人生をやっているけど聞いたことがありません。「愛のない教会」なんてよりも、病的な組織になっているとさえ思います。

 今ではこう推測しています。
 圧倒多数の教会員と、拉致監禁に主体的に取り組んでいるごくごくごく少数の教会員(元信者も含め)との差は、チンパンジーと人間との違いである「想像する力」があるかないかにあるのではないか。
 想像力があれば、文家をはじめとするネグレクトされた子どもの気持ち、拉致監禁された子どもの気持ちは理解することができる。

 最近も、私のところに長文の体験話を綴った手紙が届きました。
<教会の人は無関心ゆえ、聞く人は一人もいない。私も無関心な信仰仲間には話す気にはなれない・・・>

オーバー

<乳幼児からすれば、「私の前から親は消えた」そして「親から見捨てられた」ということしかないのです>

私も文夫妻の家庭内のことはよく存じませんが、お子さんの誕生日や大きな行事のときには毎年、親子で親密な交流をされていたようです。
部屋には両親の写真が飾られ、お世話役の人たちは毎日のように「あなたのお父さんはすごい人だ。お母さんはあなたが大好きだ」とお子さんに話していたのではないでしょうか。

果たして、お子さんたちは「私の前から親は消えた」「親から見捨てられた」と思ったでしょうか。

米本さんが持たれている「文夫妻=ネグレクト」のイメージはちょっと行きすぎている、オーバーな感じがします。

Re: オーバー

みんなさん、前メールにも書いたように、子どもの視点、子どもの立場に立って、考えてください。

 母親が一週間、緊急隔離入院しただけで、PTSDになった症例が文献で報告されています。
 その幼子にとっては「母親が突然消えた」のです。
 父親やその子にとってのおじさんやおばさんがどんなに説明しても・・・。

 文氏夫妻を心情的に肯定する立場を少しばかり棚上げして、純粋に赤ちゃんの側に寄りそって考えてみてください。

 また、一冊だけでいいから、ネグレクトの本を読んでみてください。誕生日などにごく短時間、親が子どもに会ったとしても、ネグレクトには変わりがありません。世話係なんかは関係ないことです。
『カルトの子』のオウム編統一編も読んでみてください。

 ネグレクトのことで今後も書かれるのでしたら、そのうえでのことにしてください。

(追記)みんなさんと同じように拉致監禁に反対している、なおかつ具体的に実践しているある人から、朝、メールが届きました。
「火の粉ブログのみんなさんのコメント見た?ひっくり返った。バタン」

愛情は湧いて来るものでは?

はじめまして。元信者の者です。

昔、学校の先生になるのが夢で、幼いながらに「すばらしい先生になるためには自分の子供がいてはだめだ。なぜなら自分の子がかわいくて、生徒をそれ以上愛するのは無理だから」という持論からでした。

でも今教師という立場に立って、自分の子がいるから、他人の子(生徒)の親の気持ちがわかるのです。
叱ったり、ほめたり、その子たちと人間的に交わりながら、変な?子、いわゆる問題児や障害者でも、「この子の親からみたら、どんなにかわいくて大切な存在なんだろう」と思ったら、もしこれが自分の子だったら、どんなに胸が痛いだろうと他人を思いやる心がうまれました。

以前幼いころ自分が考えてたことは本当にちゃちな考えだったことがわかりました。
子供がいるから、子供を必死に育てて、完全ではなくとも精一杯の愛情を注いだから、自分の心が(愛情の大きさ?)人間らしくなったんだなあって感謝してます。

たしかに文夫人は当時16歳という、何もしらない、夢多き女学生だったと思います。なのにそういう夢などもすべておいて、結婚し、妾などのいる中、下女のような扱いを受け、次から次へと子を産む機械のような扱いを受けてきたわけで、そこに生まれた子が本当にかわいいとか思えたんだろうかと人間的に想像してしまいます。

自分で乳を与え、寝たくても子が泣く、食べたくても、子が泣く、どこかへ行きたくても、ままならない、仕事でつかれまくったり自分が病気で寝込んでるときでも、子供が熱をだしたり、ぐずったりしたら、寝込むこともできずに100%犠牲になりながら、普通の甘えんぼだった女の子が、ほんとの母親らしく、人間らしくなるということ、
子供をうんで育てた人なら、共感できる普通の感情でしょう。

文夫人がネグレクトだと言えばそうでしょうが、すべての元凶は文氏自体にあると私は思います。

自分の子も満足に愛することもできないで、何が天宙復帰?その当時、「摂理」とやらで忙しかったといっても、子供の教育は失敗したといえるでしょう。

もちろんわたしも子供の教育に成功したとは言いません。しかし、愛したい者を愛してはいけない。愛したくない者を愛さなければならない。という「押し付け?がましい復帰摂理」とやらの顛末が、こういう異常家庭、異常な精神状態、異常な兄弟げんか、自殺者、殺人事件などをうみだしたのではないかという「疑問」らしきものでも現役の方が米本様の記事で、考えることになったらと思い、コメントさせていただきました。

p.s.
知り合いの信者の中で、子沢山の方がこんなことを昔言ってたのを思い出します。「子供が4人いるけど、3人目まではかわいいって正直思わなかったんだけど、4人目になってほんと子供ってかわいいって思ったわ」

その当時子供がいなかった私は内心「なんちゅう人間?」て思いました。そんな人も中にはいるんだって。。。
だんなさんがきらいだったのか、アダルトチルドレンだったのか?
でも4人目でやっと人間らしい感情が持てたからまだよかったのかもしれませんね。文夫人よりは?

ほっとしました。

 mamaさん、初めての投稿、ありがとうございました。

 人間味溢れる投稿で、ほっとしました。

自分で乳を与え、寝たくても子が泣く、食べたくても、子が泣く、どこかへ行きたくても、ままならない、仕事でつかれまくったり自分が病気で寝込んでるときでも、子供が熱をだしたり、ぐずったりしたら、寝込むこともできずに100%犠牲になりながら、普通の甘えんぼだった女の子が、ほんとの母親らしく、人間らしくなるということ、子供をうんで育てた人なら、共感できる普通の感情でしょう。

 その通りです。
 私も子育てにはかなり関わりましたので、とてもよくわかります。毎日、おむつも取り替えたし。今でも、あのときのウンチの臭いが蘇る(苦笑

 文夫人、韓鶴子さんの少女・思春期について、在韓食口さんが教えてくれました。
「信仰に狂った母親(大母二ム)に連れ回されて生きてきたといえば、なんとなくお分かりいただけますか?」

 父親はそんな妻に辟易し、離婚したのでしょう。
 家族機能が不全な家庭で育った子、アダルトチルドレンの顕著な傾向は、依存症。
 理不尽な要求をする文鮮明氏に、ただただ依存するしかなかった(それがもっとも心地いい)と思います。
 自分が腹を痛めた赤ちゃんのことより、依存したい気持ちのほうが強かった。それで、一緒に天宙復帰!だったのではないかと憶測しています。

Re.オーバー

私達は文先生が、アメリカは世界の中では長男のような立場に立つ使命があるとおっしゃり、大切に考えておられましたので、そのようなアメリカを理解したいと考えて、子供たち全員、最初は現地校に通いました。

日本でも子女教育財団の講習会に親子で参加したりして、子供たちの年齢に応じて内外の準備もたくさんしてきました。それでも、子供たちはそれぞれに本当にたくさんの苦労をしました。
そういう子供たちの気持ちを少しでも理解したいと思いましたので、半年程して落ち着いた時に、私もESLの勉強の為、近くのコミュニティカレッジに通うことにしました。(このように書きますと、私もそうでしたが、日本の方から見ると、すごい!と思われるかと思いますが、実のところは、英語も苦手で怖いので、主人に付き添ってもらってやっと手続にいったという、そんな感じです。愛も足りないので、いまだに、英語ではほとんど話せません。)その時に一番下の子は4歳になったばかりでした。アメリカの法律では、4歳の子は一人で家にいることはできないし、アメリカ人の子供さんたちと一緒の大学の保育園にいきなり入れるのも躊躇われました。それで、私が夜のクラスを取ることにしました。
一番小さい子が、ダメージを受けないようにと考えに考えた末の決断でした。

食事からお風呂の段取りや、寝るときのことまで、主人が出張の時には上の子に頼んでいきましたが、結局、私が10時過ぎに帰るころまで、子供たちは寝ないでいました。おかしいな?と思いつつも、自分も必死でしたのでその時の私には、そのような状況を理解する心の余裕がありませんでした。
クラスに座っていても何もわからず、自分の言いたいことも言えない何とも表現のできない外国人としての学校生活に身を置いてみて初めて、子供達は毎日、毎日、こんな気持ちでいるんだなぁと実感しました。それでも、私は一日中学校にいるわけでもなく、毎日通い続けるのでもありませんので、子供たちの気持ちの1/10くらいも理解できたかどうかわからないと思いますが。

そんな状況がしばらく続いた後、末っ子が「お母さん、また、夜に学校に行くの?」といいますので「どうして?」と聞くと「夜に、お母さんがいないと嫌だ。」と言っていました。ごめんねといいながら、その子が夜に不安な気持ちでいたことを思うと、私も泣きたくなりました。
その時に、日本の保健指導などでいわれている、子供を預けても大丈夫、できれば同じ人が子供を見ることができるといいなどということは、間違っているなぁと改めて思いました。
父親や兄弟がいたとしても、十分に状況を理解できる年齢に達していない子供にとっては、母親がなぜか夜になるといなくなるという、ただ、それだけだったのです。
よく話して聞かせて、昼間は片時も離れずにいつも一緒にいてさえもそうなのですから、米本さんのおっしゃることは少しもオーバーではないと思います。

そういえば、私の住んでいるところでは月初めの午前中に消防のサイレンが、確認の為にすごい音で鳴るのですが、私が二階にいたら一階で遊んでいた4歳になったばかりの子が、びっくりして、泣き叫びながら命がけで階段を上ってくるので、私のほうが驚いたこということもありました。

ほんとうに、子供の心というのは、どんなに気を付けていても十分に満してあげることもできないし、思い図りながら面倒をみてあげていても、十分に理解することもできないものだなぁと思う日々です。

書き忘れ

子供たちが、アメリカの現地校に通ったのは、文先生が「言葉を愛することは、その国を愛すること」と語られましたので、親子でよく話し合い、アメリカの国を愛するためにアメリカの学校に行こうと決めました。

3年半も前から…

最新記事にリンクされていた
この記事を初めて読ませて頂きました。

もう3年半も前から、このような内容の記事を
アップしてくださっていたんですね…
ありがとうございます。

私も数年前に、日本の実家に帰省した際に「愛着障害」の本は
買って読んだのですが、まだ教祖と教理を信じていたので
本当の意味では理解できていなかったと感じます。

ヨスの40日修練会に本当にしつこくプッシュされ
数年粘ったものの、もう行かなければ教会にも通えなくなるような
針のむしろの中、幼稚園に通う幼い子供を初期の認知症の姑に預けて
修練会に参加しましたが、あの時、もう教会に通わずに
辞めてしまっていれば良かったと、つくづく思います。

私たち韓日家庭は、それでも40日でしたが
日本の姉妹達は、1年間とかの長い期間、幼い子供を置いて
海外宣教に行かれて、どれほど胸が痛んだでしょうか?

自分達が選択した道とはいえ、今更ながら、そういう命令を下した
教祖と、それに従った自分に対して腹が立つと同時に
精神的に打撃を受けた子供達に申し訳なく思います。

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